仮想空間

趣味の変体仮名

菅原伝授手習鑑 初段 大内の段

 

読んだ本 http://www.enpaku.waseda.ac.jp/db/index.html (イ14-00002-890 )

参考にした本 同上イ14-00002-441 など

 

2
菅原伝授手習鑑  (初段 大内の段)
蒼々たる姑射(こや)の松化して芍薬の美人と顕れ
珊々たる羅浮山の梅 夢に清麗の佳人と
なる 皆是擬議して変化をなす 豈(あに)誠の木製
ならんや 唐土斗か日の本にも人を以て名付るに
松と呼 梅といひ 或は桜に准ふれば花にも情(こころ)
天満(あまみつる) 大自在天神の御自愛有し御神詠 
末世に伝へて 有がたし 氏神いまだ人臣まします


3
時 菅原の道真と申奉り 文学に達し筆道
の奥義を極め給へば 才学智徳兼備はり 右大臣に
推任有り 権威にはびこる(さんずいに盈)左大臣 藤原の時平に座
を列ね 管丞相と敬はれ 君を守護し奉らる延
喜の 御代ぞ豊なる 然るに主上此程より 御風の心地
とて病の床に伏給ふ 天顔を窺ひ奉らんと 御弟
宮無品斎世親王 参内の御供には院の廰の官
人判官代輝国階下に 伺候仕れば 席をたゞして

丞相に打向はせ給ひ 今朝院参致せし所
法皇仰有様は 当今の御悩(なう)日を追て快然ならず
急ぎ斎世に参内し龍顔を拝し御様子 有の儘に
告知せよと判官代を相添らる 御やう体いかゞ渡ら
せ給ふやらん 管丞相正笏有り さして御かはりもなく候
委しくは道真に御訊有んよりは直きに天気を窺ひ給へ
然らば左様に致さんと 時平にも挨拶有り常寧殿に
入給ふ かゝる所へ式部省の下司春藤玄番の允(じょう)友景


4
罷出庭上に頭を下げ 今度渤海国より来朝せし
唐僧天蘭敬が願ひには 唐土(もろこし)の徽宗(きそう)皇帝
当今の聖徳を伝へ聞 何卒天顔を拝し奉り
御姿を画にうつし帰国せよ 其画を則日本の
帝と思ひ対面せんとの望に付 数々の餞物(おくりもの)
すなはち是に候と庭上にかざらすれば 管丞
相聞給ひ コハめづらかなる唐僧が願ひ 当
今延喜の帝 聖王にて満しますこと

隠れなく 御姿を拝せんと唐の帝の望は 直ぐに我
国の誉なれ共 折悪敷王子の御悩有の儘にいひ
聞かせ 音物(いんもつ)も唐僧も唐土へ帰されんや 時平の了簡
まし満すかと仰に冠打振て そふでない道真 御病気
と申聞してもよも誠には思ふまし 延喜の帝は聖王
でも 諗跛(ちんば)瞎(かんだ)か缺唇(すぐち)か膝行(いざり)か 天皇らしうない形故
病気といふは間に合と云るゝは日本の疵 面倒な事
云さんより 御形代を拵へ天皇と偽つて 唐僧に拝


5
さすれば何事なふ事は済む 誰彼と云んより此時平が
代りを勤め 袞龍(こんりやう)の御衣を着し 天子に成って対面
せんと一口に云放す謀叛の 萌(きざし)ぞ恐しき 判官代輝国
階(きざはし)の下にづゝと寄 事新敷厳命 唐土の天蘭敬は
時平公の御姿を写しには参るまじ 眥(まじり)上つて頤広く
顴(ほうぼね)高き延喜帝 唐僧がよも呑込むまい 神武以来
独りの悪王 武烈天皇の名代ならば時平公がさい究
竟 当今(きん)の御かはりとは鹿を馬との出損ひ ハゝゝゝ御無

用と嘲笑ふ ヤア舌長し輝国すされやつと叱付 ヤア/\
玄番 天蘭敬を内裏へ伴へ 天子には此時平用意
せんと立つ所を 管丞相とゞめ給ひ 四平の仰は天下の為
御形代とはさる事なら共 若しは彼の僧相人にて 君臣の
相を能見るならば 王孫に有らぬ臣下と知るべし 其時いかゞ
仕らんと 理屈に時平行当れば三善の清貫進み出
管丞相の詞共覚へず 彼の坊主を相人とは 餘(あんまり)な
先ぐり念に念が入過る 左中弁希世殿そふじや


6
ないかと指し出口 イヤ是念に念を入てさへ過ち仕かちは
有るならひ 仮初めならぬ唐土人御対面の事なれば軽々
敷はかられずと 暫しが間御思案あり 所詮天子の
御かはり人臣は成かたし 幸い御同腹の御弟宮 斎世の親王
今日一日の天子と仰ぎ 御姿画を唐土迄伝へて恥ぬ
御粧ひ 此義いかゞと理に叶ふ 詞に違ふ時平が工み目と
目を三善の清貫も 口あんこりと明き居たる 玉簾(たまだれ)深き
一間より伊豫の内侍立出給ひ 両臣の御諍ひ我君

委しく聞こし召され 朕が代りは斎世の宮と直々の勅諚にて
候と内侍は奥に入給ふ 時平は俄にむつと顔 輝国が
悦喜の眉開く扉は日花(じつくわ)門 玄番允(げんばのぜう)が案内にて 渤
海国の僧天蘭敬 倭朝にかはる衣の衫(さん) 庭に覆ひ
て畏まる ムゝ唐土の僧天蘭敬とは汝よな 龍顔を写し
奉らんとの願ひ 叶ふは汝が身の大慶有がたく存じ奉れと
時平が指図に警蹕(ひつ)の声諸共に高々と 御簾まき


7
(挿絵)大序
唐僧延喜帝の御姿を移し帰朝せん
と願ふにより帝の代りに斎世親王を拝せしむ


8
上る其内には 弟宮斎世の親王金巾子(こじ)の冠を正し
御衣さはやかに見へ給ふ 実に王孫の印迚 唐僧始め座
列の官人あつと ひれ伏敬へり 天蘭敬漸頭を上
玉体をつく/\゛と拝し奉り ハゝア天晴聖主候や 我が国の
徽宗皇帝慕はるも理りなり 三十二相備はつていかん
方なき御形勿体なくも僕(やつがれ)が筆に写し奉らんと
用意の画絹硯箱 桧の木の焼筆さら/\と 眉の
かゝり額際見ては写し 書いては拝し 御笏の持たせ様 衣の

召ぶり違ひなく 即席書きの速やかさ顔輝(がんぎ)が子孫か
只ならぬ画筆の妙を顕せり 判官代は差し心得捧げ物
取納めれば 重ねて俸禄賜(たび)てんぞ旅館に帰れと道真
の 下知を請つぐ春藤玄番 お暇申させ唐僧を伴ひ
てこそ退出す 帰るを待て時平大臣玉座にかけ寄り
斎世の宮の肩先掴んで引ずり出し 御衣も冠も
かなぐり/\ 唐人が帰つたれば暫くも着せては置れ
ぬ 九位でもない無位無官に着せた装束此冠


9
穢れた同然 内裏置かず我が預る 今日の次
第は右大臣奏聞せられよ身は退出 罷帰ると
御衣冠奪ひ取て行んとす 道真立て引取給ひ
聊爾(れうじ)なり時平 勅もなき御衣冠私に持かへり
過(あやま)つて謀叛の名を取給ふやと 何心なく身の為を云
るゝ身には胸に釘 顔ゆがめて閉口す 斎世の宮管
丞相に向はせ給ひ 天子序の勅諚には 老少不
定極りなし 何時しらぬ世の中に名斗り残すは其身

の為道を残すは末世の為 妙を得たる筆の道
伝ふべき惣領は女子なれば是非に及ばず 幼(いとけな)ければ
弟の菅秀才にも伝ふまじ 弟子数多有る管丞相
器量をえらみて 筆道の奥義を授け長き世の 宝と
せよとの御事と 仰の中に左中弁宮の前へずつと出
管丞相の弟子の中位と云器量と云 希世に上越す手書は
なし 幸い是にて伝授有れと 御申付下さるべしと云はせも
敢へず 管丞相につこと打笑み 内裏に有る時には我が傍


10
輩 筆法は我弟子なれば 此道において師匠をさし
置き 我儘の願ひ致されなと 誡めの詞厳々と襟を
繕ひ勅答には 有がたき君の恵 我筆法の大事に
は 神代の文字を伝ふる故七日の齋(ものいみ)七座の幣 神道
加持に唐倭文字は何万何千にも 我筆道に漏れし
はなし 夫れ共しらず爰かしこに手ふ子供も皆我弟
子 けふより私宅に閉じ籠り えらみ出して器量の弟子
に 筆伝授け申べしと宣ふ詞は今の世に伝へて残る筆

道の 道は御名に顕はれて 真成るかな誠なる君が御代
こそ 「豊なれ