仮想空間

趣味の変体仮名

画証録 歌舞妓 女太夫浄るり 若衆かふき 女形 芝居構へ沿革

 

  読んだ本 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533618

  難しいのでテキトーに読み飛ばしました。

 


22(左頁8行目)
   歌舞妓 女太夫浄るり 若衆かふき 女形 芝居構へ沿革

歌舞妓の字面は日本後紀などに見えたれど そは歌まひのわざをいへり 今の歌舞妓といふものゝ名はもと
より古き字面によりたるにあらず かぶきとは傾くの義 傾城の舞なれば其意をもて名付しなるべし 是言より出
たるか そのかみのはやり詞に世中にへつらひ媚る者をかぶきものといひ かぶき廻るほどいへり 其後容体のみ繕
ひて実なきやうの事をうじゃかぶきともいへり うはかぶきは上傾にて頭かきちるなれど 移りてはさの意にいへり


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色着を好む者をせんしやうといひし詞の心に追し さて歌舞妓の発りは出雲国に小村三右衛門といへる者の女巫女(ムスメミコ)
にて有しが 白拍子の頭となりて仏号をとなへ念仏踊といふことをしけるに 名護屋山三郎といふ者これに早歌を
教へ舞はせければ歌舞妓といひてもてはやさる(歌舞妓の字は後にあてゝ出る也)又三十郎といへる狂言師を夫となして狂言をし
けるも古記に慶長八年今年春より女かぶき諸国に下也是は於国と申太夫出雲の者にて佐渡へ渡り
京へ出踊初める 諸人見物は次第に盛になりて諸国に女かふきあり云々見えたり 按るに慶長六年より佐渡国
金銀出る事夥しく其処賑はへるによりて於国なとの類もかしこに行しことゝ見ゆ 江戸土産咄に佐渡島お国
といふ女といへり北野にて興行したるより北野對馬のかみなどもいひしなれば 初め佐渡より来りし頃佐渡
島とも名乗くる しかしながら六條傾城町に佐渡島といひし妓家あり また佐渡嶋正吉といへる女かふきの
太夫ありしは佐渡島屋の妓女なるべし 是高名のものなればこれを於くにが佐渡より来りしことに混(マガ)へて誤れるも
知べからす おくにがかぶきに比太の横田の若苗とうたひしは出雲の地名にて くにが国ぶり歌也 今もひんたのをどり
といふは是なり 宇良美之助といふ草子に慶長九年の夏の末かみの十日の事なれば清水のまんだらとてお紙を

つらねて都人(中略)らんかんに腰をかけ是よりすべにとよ国へいざや我等はぎをんどのさては北野へいざ行て
くにかぶきをみむといふ(是は其時かける竹子にて豊国の社賑はひて くにがかぶき処々繁花慶長のさま惣像すべし)と有 くにかぶき初め五條の東の橋がゝり
にて興行し(翁竹に橋の南をいへるは了意が説に乗なり)其後北野社の東に移れりとぞ すゞろ物語にくにか事をいひて北野
つしまのかみと名付と見えたるは此時よりなるべし 是を学びて六條町の妓家ども遊女をしたてゝ出来
長門ノ守幾嶋丹後ノ守など名のれる者多かりき いづれも舞台を構へ一座を揃へて処々にて興行せし也
古き屏風の絵に四條河原の観せ物どもかきたるに かぶき芝居の小屋のやくらの下に庵(?)形の札あり 六
條三筋町の傾城出て歌舞するよしを書付たり これはいまだ興行せざる体なり そゝろ物語に江戸よし
原町にて来三月五日かづらき太夫かぶきをどり有と
日本橋に高札を立る(元和已前もとよしはら町の事なれり)歌舞妓事始
に昔辻々に札を出すといへり 其札はみな此体と
見えたり 又この絵の内女かふき興行ある処もかき

(上・挿絵)
 定
来ル八日より於此所
六條中の町又一
大かふき仕候
   蔵人
太夫 市十郎
   金作
御望のかた/\は
御見物被(?)成候
 卯月吉日

○此水車はやぐら幕の紋也
又一は林又一郎なるべし
初め伏見に傾城町を発
起せしが後六条に移れり
とみゆ 太夫蔵人は西鶴
大鑑に其名を見えて くに
と双ひて高名なり


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けり 其一つ二つ?りぬき写
しにして爰にあらはす 女
かふきの遊女とも美少年
に扮(イテタチ)たる者五六人いつれも
同しやうにて鉢巻す 女形
かつら巻して猿楽狂言
似たり 此絵慶長の末頃
にかきたるものなるべし
○又かの絵の中に浄瑠璃
居も二つ三つあり その内女太夫
の浄るり有 めつらしければ

○即ち羅と瓢を佩たるさま
古きふり也 帯挟の環も
めづらし 元隣か宝蔵に
腰さけ物をいふ処にばへの
くわらと有螺殻の根付を
いへり 是くわらにはあらねとも
そのかみくわらを
帯挟みにしたる
故くわらといひて
根付のことゝ通じ
たりとみゆ

(絵図)

○大小のかたなのさしやう扇の持やうにも
説あれども処狭ければ此にはもらしつ

次に写し出芝居はいづれも藁むしろを?てかこひたり 表の方やくらの下に札をかけたるは看板にて 上に
見えたる庵形の札と違ひて 縁は朱ぬりに真鍮のかねもの打て 中は黒塗の上に金粉の文字にてしやうるり
内記としるせり これ女太夫の名也 其ころ女にも六字南無えもん左門よしたかなどいへる浄るりかたりあり
外に内記といふ者の事見えざればもし左門よしたか等がことにはあらずや 内記とは外記に反したる名なる
べし(東海道名所記に京の次郎兵衛とかやいふ者西宮の夷かきをかたらひて四条河原にて初て鎌田政清か事をかたると
あり 江戸惣鹿子に今のさつま三郎兵衛四代さきの外記といひしもの西宮のくわいらいしをかたらひ云々いへり 次郎
兵衛はこの外記が事にや 了意が説も次郎兵衛が
受領の名をしるさゞればおぼつかなし)十二段の牛若丸か事は人聞古りて舞の草子の屋嶋高館曽我
物語なとを浄瑠璃ふしにかたれり 虎屋嘉太夫といふ者は太平記をかたりしに平家とも舞とも聞えぬ一種の
ものなるゝとかや

○女太夫看板
  原本ノ大サ也

 紋二ツハ
 幕ニ付タル也

(絵図)

後に天王寺五郎兵衛か此本義太夫と名乗りしは嘉太夫をお
ぼめかしたるなるべし 又竹本義太夫か行はるゝ故これにむかへて松
本治太夫と名のる者有 此田といへるからくり師高名なれば松田
といへる放下師出 みな同然也 内記も外記に反する名と思はる


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○内記が 浄瑠璃 芝居の図

此處舞台の
正面にて見物
の人あるとか
きたれど余
紙なければう
つさず これ
だに縮図にし
て載す
かふきの古図は??なれども
是はいと/\
珎らし

(絵図)

丹後の浄るりも八嶋なるべし 其角が焦尾琴に童認歌舞のいにしへを思ふに明暦年中の双紙に登り八
嶋下り八島といふはやりなる事ども十二段に分たるあり 六字南無右衛門正本と奥書して侍るこそ数寄
ものゝ名にふれたる雅なるへけれといへり 童認歌舞とは浄るりのことをいへるにて其角が幼き時といふには
あらず?暦の双紙にそのむかしの南無右衛門か名のしるしたるは名にし負ふもの也といへるなり(柳亭子はこれも 当時好事の者
南無右衛門が名をかりてかく奥書をしるしかならんといひし也といへり)西澤一風が操年代記に井上市郎兵衛(後の播磨太夫)か事をいひて其頃大坂に浄るり
本屋なく云々 京にて板行するといへども しらみ本といふに五段を書きその間々に絵をさし込み童のもて遊びと
してひろむるといへり(しらみ本といふもの今も土佐浄るりの本にあり)然らば一風も市郎兵衛より己然には正本板行なしと思へるやう也
さきに柳亭子は嶋一冊を得たりとて予にも見せたり 南無
右衛門正本にて寛永の板行也(一冊に四段あり 三冊にて十二段なるべし わくの内立五寸二分横三寸七分本
文十四行間々半丁つゝ拙き絵あり)其角は寛文元年の生れ也 かく寛永より板
行有を知らざりしは稀なりしを思ふべし(女浄るりも歌舞妓と一同に停止也)

(下・絵図)

巻首  縮字大なり

山城国住人六字南無右衛門正本
 やしまみち行 一段目

の心の内なにゝたとへんかたもなし
寛永十六年正月吉日   二条通御幸町西ヘ入丁
上留りや 喜右衛門開也


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女かぶき停(ヤメ)られしはいつの
頃か六條傾城町を朱雀に移
されしは寛永十八年とかや
歌舞妓とゞめられっしは
それより先なるべし そゞ
ろ物語に遊女ひと度江戸
を払はれしは慶長の末と
見ゆれば其頃なるにや

○又古画に北野社頭にて
歌舞妓興行の図あり
縮めて爰に写す くにが
かぶきも北野にありしかど
是はそれとは見えず 北
野に太夫などいひし者も
あればもしそれらにも
やあらん 幕の紋は藤の
丸なり 考ふべし

芝居のかまへ狂言拍子
方惣じて猿楽の如し
但ぶたい甚(イト)ひくし さ
じき又見物人は紙狭
ければうつしかたし

(見開き絵図)

(下)
○この花もてる野郎
あるをみて若衆歌
舞妓の後の画と思ふ
べからず たしかに慶
長の末の絵と思はるゝ事
図中にあり若衆
かふき止められし前
にも野郎はたま/\
ありとみゆ

(左頁上)
○頬かふりしたるは
猿若なり 見聞
集かふきの事を
いひて取わけ猿
若出て色々のもの
まねすと有り 猿
がう事をする故に
名付

○ふり袖の衣きたる
野郎の花をもて
るは見物人より遣
したる也 古より人に物語るに必ず草木の枝に添る事也
貞?故実集に勧進能の時花太刀など遣すに必常々
持て舞台へさし向ひ候時座の者一人舞台より下りて請
(下)取候 又花は右手に
持候 いつれ舞台
の上也 渡すことなし
何を遣候共かせ者
をいかれ?といへり
(下)
かぶき芝居なとにも其定にて語りもの遣はせし事と
見ゆ かせ者とは小者の事也 京童草子に舞台への花の
枝は春にあらずしてをかしと云 東海道名所記には仕まひ程に
贈り遣す花枝は舞台にさしあげて色を争ふなといへり
今も金銀を遣すに花は保され共花をやりとはいふ也

(左上・絵図)
○京童草子
見物人かふき
役者へ花を贈る所

○古き画双六角力の処に
是をかきたり
目録を竹枝に付
花なき時もある故也


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於国歌舞妓は江戸にも下れり 慶長十二年丁未二月大城御廊の内にて観世今春勧進能ありき同月廿日猶先度
之能の場処国といふ歌舞妓女勧進歌舞妓ありと其頃の日記に見えたり 遊女ども江戸を払はるゝ事は見分集に
見えたれども年月を記さず されど是は慶長中の事とはみゆ 女歌舞妓禁止の後に童を集めて舞せける
是を若衆かぶきといへり 可笑記は万治二年の訓棒大かれども書中を考ふるに正保元年の證あり 此草子の
内若衆かふきの絵あり 下に写す若衆太夫かつまとしるせり中村数馬なるべし 我ころもといふものに寛文年
中江戸日本橋室町一町めに若衆方中村数馬伽羅の油みせを出すといへり 自咲が役者古実の中に日本橋北宝町
壱丁目横町中村勘兵衛は貞享元禄の始美女形中村数馬が見習也 役者油みせを出す初めなるべし 今に繁昌す
といへるは其始め年代相違し女方といへるも実也 ○若衆かぶきも遊女に劣らぬ趣なれは 是をも制旨ありて悉
く前髪を剃らしめたる 専ら野郎と呼しは是なり これまた諸書にいへれども此禁止の年月をいはず 慶安中の
(以下赤訂正線)事とは思はるゝよし有(或説に石谷殿の制ともいへり この人は慶安四年六月役付也 又一説にも
慶安三年に役禁ありともいへり孰れか是ならうをしらげ)(赤線終り)

(上の注釈書込)
慶安五年辛壬辰六月廿七日若衆歌舞伎御制禁町觸アリ 
これは江戸の事なれと上かたも同時なるべし


(赤線の下)○京童草子に今は若年
の者のひたひのかざりをとらしめうるさきかたち也 ひたひに錦を着 百会を頭巾にてかくしなどいへり 是を女形

芝居と呼 東海道名所記堺町の條 勘三郎とかや聞えしだうけものが女形とやらんこと/\゛しき芝居さんじきを
かまへてかぶきがましき事をいたせりといへるは 禁せられし女かぶき又似た類をいふ也 西鶴が大鑑に大歌舞妓御法
度の後は村山又兵衛が物真似狂言尽しに仕かけて太夫子あまた集めし云々といるは 或説に明暦三年橋本金作
といへる女形桟敷にて客と口論の事によりて京都歌舞妓芝居残らず停止あり 京都座元村山又兵衛芝居御赦
免を願ひ出る事十二年に及び寛文八年御許容ありといへり 然るに明暦四年印板の京童に芝居繁昌の事をいへるは
いふかしけれど是は停止の前に書るを其儘に発行せしなるべし
村山はそゞろ物語に村山左近とあり 吾孺物がたりに諸き町に
村山さこんか大かぶきなどみえたり 又兵衛といへる座本は此?(これが)なる
(なる)へし 其頃大坂は西鶴が大鑑にむかし松本名左衛門云々いへり

(絵図)
狂言
松本名左衛門
物まね

延宝三年刊本
難波芦分船に見えたり
やぐら幕の紋
富士の山古体也

(下)
○村山又兵衛が 
やぐらの図

古画に 出たり

(絵図)


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(絵図)
さしき  扨も/\おもしろい事  たかいじや下に御され
二人のもの大小をあらそふ  あれみやさん三  あとよりをすまいぞ
いや/\ちよい/\ころせ/\
かしゆかぶき太夫かづま  あの山みさい此山見さい  けんぶつきせんくんじゆ

夷屋吉郎兵衛 加茂本地草子に出

(絵図)

○浮世物語
名に高き女かた
の上手夷屋吉郎
兵衛其内に
大坂庄左衛門
江戸勘兵衛が
藝尽し 云々

 吉郎兵衛

承応明暦頃のさま也
若衆前がみ剃りて
頭を包むはじめ
其体定まらず是
渡世野郎ぼうしの
始なり 

(下)
○古画 六方のさまなり 江戸にて丹前と いへり
菱川師宣
東海道名所記
○京童草子


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京童にひたひのわたといへるは錦
ぼうしにて鉢巻したるにや わたを
絹に包みしなれへし 延宝五年に
板行せし江戸雀にはひたひ髪を
とらせたる故にくゝり頭巾をなせり
狂言に出る時は付髪をするなり
といへれば図のごとくほうしの下より
髪をふり分て出す也 風流つれ/\
草に大和屋伝助が弟子右近源
左衛門かいだう下りを作り赤手拭
をかつぎ小舞をしけり 昔々物
語には右近源左衛門京都より下り今
のかつら緒といふものなく符金の
ふくさものに糸を付て額にかぶり
月額をかくす 西鶴が大かゞみに昔
右近左近が時は頭は置手拭かして
大かたに色づくりしといへり 享保
十年市村座由緒書上に右近源
左衛門と申役者上方より罷下り
ねりきぬの湯かたひらをかふり女

(下・絵図)
○延宝年間古画 夷屋儀左衛門芝居の図
上村吉弥
原本大なれば 縮図す

(左頁上)
形と申形を此芝居にて致初候などいへり ねりきぬの湯かたびらとは右に出しゝ図の上村吉弥が被りし物
なるべし 源左衛門か海道下りも此体なり 是そのかみのかつら草なり 前に出しゝ大かぶきの狂言の画と合せて
見べし 昔々物語に符金のふくさ物といへるは右近といへる名より覚えあやまりしにはあらずやといとをかし
若き女形の頭にうこん色はいかゞなり ○上村吉弥は延宝の頃さかりの女かたにて双びなき者なり
西鶴が大鑑に火屋(?)のかへ上村吉弥とて其頃都の男はいふにたらず人の女に恋られし云々 江戸中の寺
社の絵馬に吉弥面影を見てさへ
恋に沈み今も世がたりとはなりぬ云々
一丈二尺の帯大幅にくけめの角に鉛の
しづをかけ世に吉弥むすびとはじめ
て今にはやらしぬほどいへり(今ナラバ女ハ云フニ足ラズト書
ベキ処ヲ男ハトイヘルヲ見テ世ノ風俗ヲ知ベキナリ)
○坊主小兵衛は江戸にて名高き者也 その
姿を偶人(ニンキヤウ)にも作れり 五元集に此友や
年をかくさず白髪二毛の身をわすれて
松との太郎どの也けりとのゝしれば今
の人形の風俗ことさらに小兵衛なといふ
人形はなし 我むかし坊主太夫や花菖」
此発句はし書の定は人形はむかしの形
を模せしにて今の真にあらざるなり

(下)
せんじゆなる
こつがはらに
たつけふり
かねてめいどの
有とさくもの
うんのめ
さわく
こんだに

(絵図)
坊主小兵ヘ

本紙は竪一尺二寸
横八寸五分許 これは縮図也


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又同集拾遺に坊主小兵衛道心して人々小兵衛坊主と申ければ坊主小兵衛 小兵衛坊主と帰り?これか道心
せしは元禄の末または宝永の初にや 元禄十四年の草子にはいまた中村座に居し由見えたり 延宝年
間の一枚絵にこれが奴の出立の似かほ有 一覧の次席上にて縮写したるを爰にとりのす 坊主と呼しは
糸ひんにて法師のやうにみゆれば也 これが高名を羨みて坊主百兵衛坊主段九なといひし俳優もあり
もと糸ひんはそのかみの奴の体をうつせしにて小兵衛の始めたるにあらず 此肖像(ニカホ)いと珎らし 小兵衛が形を
かける絵はなきにはらねど肖像写真にはあらず 寸錦雑綴に俳優似がほは勝川春章より始れり
といへるは非なり はやく延宝の頃よりかゝる一枚絵もありけり 画上に題 したる詞は場に登てみつから演る
せりふにて其頃六方詞名乗ことばなどいへり 能にある詞に似たるが松の葉の長歌の内三谷をどりに
「だても。いのちの内よさ。ひつひけ。うんのめ。さわが。あすをも。しらぬ身に。この六方詞はむかし
遊興を事とせし奴とねする者なまぬるき事を嫌ひ詞も野郎なるを厭はずあく迄剛(ツヨ)きことを宗とし
つかふ所謂関東べい也 名乗ことはとは奴に扮したる役者立出てまづ演るせりふ也 ○延宝中の小歌に げんさま
の長羽織とあるを京伝がぼんさまと引直して此小兵衛が長ばふりを好みて着たりし故也といへるは誣妄(ふぼう)の
ことなり ○吉弥結びは虚栗(ミナシグリ)集にかなはぬ恋を祈る清水(嵐雪)山城の吉弥結びに松もこそ(其角)菱川やうの
吾嬬(妻)おもかげ(嵐雪)なとゝあり風流徒然草に吉弥むすびはもと玉づさ結也 吉弥が結ひ初しといふは誤りなり
といへり 西鶴が吉弥東洞院の紺屋の娘か形をうつせりなどいへるも其頃皆人結びし帯のさまなり むかしより流行
はかゝる輩に名を奪はる 延宝九年坂東都風俗鑑に帯のむすびは吉弥結とて庵犬の耳の如く二つ結ひの
両端をたらりと下る也 帯屋ども心得尺長きをこしらへ吉弥結びはこれ也と値段ひときは高しとはこの
たぐひいと多し さりながら吉弥がめでたれし事おもふべし

○むかしの芝居のかまへやうは上かたも江戸もおなしさまとみゆ 鼠戸はくり戸也 是故に鼠戸といふを今は鼠木戸
と呼て作りさま実なり 内は舞台正面にむかひて左の方橋がゝりなること猿楽の舞台かまへの如し 貞享
頃菱河師宣がかける実物絵の橋本あり 絵写して次に出す さじきなども二階はなし 江戸は元禄中より次第
にかはりてさじきも三階迄出きぬ 今も楽屋には三階ある此余波也 諸芸太平記は元禄十四年の草子なり その
内にて江戸の芝居は京大坂に替りて三重のさん敷給ひ聞しにまさる繁昌 札銭場銭も上方に二倍して煙草の火さへ買
はねばならずなどいへり 然るに今の造りになりしは正徳四年三月木挽町山村長太夫が座に居し生嶋新五郎罪
ありて(主殿の女中江島といへるが遊興の事により狂言者数人浅草諏訪町家持栂屋善六
    等これにかゝふらひ遠流斬罪追放さま/\当月五日御評定所にて相極る)其頃の書付同九日狂言
居之桟敷近年二階三階に仕候 以前之通一階の外無用の事桟敷より内証道を拵へ互や又は座元之御宅并
茶屋等に座敷をしつらひ遊興の?か?無用云々 桟敷に簾かけ候事幕簾風等何によらず囲みを相止て見
通給可仕事○芝居の家根たてた節も近年は狂言罷成らね?仕候是も前々の通家根かろく可致事(相種々度仰渡有)
事長ければしるさず茶屋ども住居絵図?出不残見分等有右の語を以狂言座は不及申夢清造作あらため
四月四日出来方見分あり桟敷へ楽屋よりの通路をふさぎ桟敷の屋根切下げ三階は下桟敷一通りに作り芝居人


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(絵図)
菱川師宣
絵巻物稿本

見物人
あまた 有

「花見車引」
「大平大おどり」
「二人猿若」
「家法ひらき」

(左頁上)
「女六方通行」

○茶屋女房茶を
ふり立る体也此頃も
また煎茶をちや
筅にてふりし也

○画の旁に書たる
文字師宣かかき
たる原本の儘也
縮め写たのみ
にて今書加へたる
に有あらず

「大和歌」
武蔵国角田川」

堺町ちや屋
こしかけたる 所


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溜りの上屋根取掛造ばりに改め四月
九日より三町芝居はしめ候故 御免有也 云々有にて其趣知べし○さて芝居のうへをむしろ張にせしかば風雨
の時は狂言休み居るを難義して然祈せしが享保三年戊戌壬十月亡る へや渡お儀願の通に仰付あり (按るに 切落
といふる事は件の時 よりいへるにや)享保九年の頃火災防禦の制ども有しに勘三郎竹之丞勘弥古の者共此度芝居家根
瓦葺土蔵造に仕に付別紙の通下桟敷の儀相願申候十一年以前絵嶋一件以後桟敷一通りに被仰付今以其通りに
御座候下桟敷の義其御免に遊はるも苦有間敷は奉存候依て奉詞願書二通奉入御覧候?上とある書付見え
たり享保九年三月の事也同月十八日に願の通り下桟敷申付ると有是芝居造作の沿革なり ○爰に出しゝ堺
町芝居古画舞臺の紋は勘三郎か紋也(市村竹之丞勘三郎が二世明石といひしが弟子にて寉の
紋を譲られて用ひたれば南座ともに同し紋なり)貞享まて然りしに元禄の
初め 姫君様御名を憚る事有て鶴の紋を改めし也勘三郎は丸をすみ切角とし寉の類を銀杏葉にて似せたり
(加賀見遠清と云人江戸砂子の標識に明石勘三郎が母は中村氏にて紋は
◇角の内銀杏葉なりといへれど鶴の紋をも弁へずしての誤なれば覚束なし)
始る 是は元禄より享保中の人なり


  古き歌舞妓狂言  遊治郎の出立 扇の持やう
貞享の絵本月無?といふものに爰に境町葺屋町とて上るり説教嶋ばらの見物多しといへるか如く昔は
傾城買の狂言行われしか有嶋原といへば芝居狂言のことゝなれり髪切嶋ばらさかた嶋ばらなといへるそのかみ
狂言の名顕し金子吉左衛門か聞書(是は坂田藤十郎か弟子にて道外方也 狂言作者をも兼てしたりとなむ)耳蓙集に坂田藤十郎か話に云明暦三
年故ありて京都の芝居止むそれより十二年すきて寛文八年三月新かに芝居興行久しぶりのことなれば
見物の賑ひ大坂の顔みせの如し其頃の狂言に傾城の出あり今とは各別也 まつ口上出て只今けいせい買の初りと觸
てしまへば村上八郎兵衛といふが買手にてこの出立白加賀の衣裳に銀箔にて鹿角を蜂のさしたる処を総身に
つけ一尺七寸?の服着向へ?るばかりに抜出してさし左ははり臂右手に扇の要をつまみ橋かゝりよりゆらかくと出て正
面に三なからせりふに八まん是が買人ですと扇にて服ざしの柄を敲けば見物そりや買人の名人が出たはと?る声しばし
しづまらず奥屏口より揚屋の亭主古き麻袴の腰をねぢるして古手拭を腰にさげ貝杓子を持て出早々旦那おいで
といへば見物そりや亭主が出たあの顔を見よと嗤ふ次のせりふもいひ出されぬばかり漸わらひしづまれば八郎兵衛かなん


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とまだ太夫はこぬかといへばいやまう追付これへと橋かゝりをみてあれ/\是へ見えまするといへば見物あげまくの方をな
かめ居る傾城の形またをかし金入の衣装その時分はいまた女形の鬘かくるはたま/\にて多くははな紙を兵庫わげにて
狂言女形の如くゆぼうしにてあたまを包み只一人出て大尽さまお出かといへば見物わらひ手をとれば嗤ひさて揚屋
を出し肴に一曲舞給へといへば肆て囃子方出てならび舞をまふが狂言の一番なりとはなしぬ(今板本の耳?集には此條 なし却て富永平兵衛が
藝鑑に載たり)柳字云此客の出立寛文中の姿にあらず正保慶安頃の古狂言伝はりしなるへしといへり 白き色の流行は

(絵図) ○京童草子   ○寛文年間 屏風の古画
 
 杖をもたするは 流行也 下にいへり    脇差のさしやう迄も 件の狂言に合へり

寛永ことより見ゆれども寛文迄も猶行はれし也
もとよりわさくれなる遊治少年の服にて平常の
着用にあらず鹿角に蜂の絵も人の諌をいれぬ馬耳
風の意也扇の要をつまみてさはる事は前に見えたる女
かふきの画にも見えたれば是も寛永以前よりの俗(ふり)と知らる
此風万治寛文ころの絵に多く見えたりされば件の狂言高時のさまにて廃れたる古風にはあらずいさゝかなる事
のしられて時代の證(あかし)となるもをかし 女かたのかづら(絵)かくることも製禁ありし事ありそれ故
多く紙もてわげを作りゆぼうしかけたりと聞ゆ爰に 出す若衆の絵の中に必此鉢まきしたるあり
野郎ぼうしはもとこの形に擬する鉢巻なるべし

(右下の絵図)
○寛文二年の刻 決(?)唇物語巻三
件の狂言
左はり臂右
手に扇の要を
つまみといへる
よく合へり
此頃羽をりも
小袖も半へりかくること
はやれり立波の裾もやうも多くみえたり
   うき立さはぐの意にとるか

 兎の御字 餘情杖 三里紙 小草履取 
むかし遊里にかよふもの羽をりをかふりて人めを忍べり此さま大(いたく)行はれき寛文ころ吉原にてはやりし


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小歌に「うはきものゝとんてきはふりかついで顔うちかくし云々(はふりかつてといふ事多く有嬉游 笑覧にいへりあはせ見るべし)これに
美名をつけて兎といへり実なし栗に羽織に角をかくす風流雄といふ付含の句も是をいへり

○延宝三年板芦分船 ○此絵は前の扇をつまみたる若衆に並びてかきたるなり 鹿子紋当時流行也
(絵図)
○菱川が画巻物 
○寛文二年刻 小歌惣まくりに出る図
兎とは形をもて
いふ也其中に
人からよろしき
を兎の御字と
いへり今も品の
よきを御字といふ是也  「うさきのおんのし」「みかさ」

若きもの杖を突たり是を餘情杖といへり其はじめは見聞集に今江戸にて六七年己末(慶長の末なり)高きも

賤きも杖をつく桑木は養生によしとて皆人好みけれは瓜木樵(こ)るゝその深山をわけて是を肩(?)背に
負馬につけて江戸町へ売に来る当世のはやり物よせい道具なればとて若き人達買求て炎天の
道よきに杖をつき給ふこと誠に人の飛聞世の掟をも憚らさる振舞言に絶たり云々ありかく行はれ

○延宝年間 吉原用文書に出たる嫖客の図

この編笠は熊谷
笠にあらず一文字
といへるなるべし

三里紙は灸のいぼ
へるが為のものな
れども又風流に
足の飾ともせしと
みゆ続耳?集
に役者尻をから
けること昔は稀也
小佐川十左衛門より
初る白ぬめにて三里紙をあて足の飾
とすといへり是そのかみ遊治郎かよそほひなるべし


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○元禄八年刻
 菱川師宣が百女の絵の中に出 (下・絵図)小草履たり

此杖は葭(よし)なりむかしよせいと
いひし文字は餘情など書
たれども音は今俗(よ)に見んと

(下)
いふ言(こと)とおなじ もとより実用にあらぬもの故はて
には葭をも用ひたるなり 是に依て仮粧杖など
もいへり これ又よしや風なり よしやとはそのかみの
詞によしやわざくれといふことあり 浮世くるひを人は
そしるとも儘よと顧みざる意也

○?腹なといふものは見めよき男子によき衣きせて
めしつかふ也 是事に依て口論など出来慶安中
廃れしが寛文ころより又はやれしと?物がたりに
見えたり

(上・絵図)
餘情杖
これらの事ともおのれ
嬉遊笑覧にいへれば
併せ見へし

つる桑木ほとなくすたれて其後大かた竹杖を用 名護屋山三といふ土佐浄るりに「身はしつむとも君
ゆえと心のたけの杖を 突みと これ竹杖をいひかけたり 松の葉景にさんやをどり「熊かへ笠にはちく
杖二つもんのちんちりめん三とさてもさいたる長がたな などあまた見えたり かく竹のねぢ杖なとにてあかし
を貞享元禄ごろになりてはいと細き杖持たる絵多くみゆ これは竹にあらず自笑か色三線に鵜野葭の
細杖けしやうに突てもあり かのよしは津の国島上郡鵜殿邑の名産にて蘆の一種碧蘆といふもの也
篳篥の觜(くち)にこれを用