仮想空間

趣味の変体仮名

船弁慶

 

読んだ本 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/858488

参考にした本http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/923279/49?viewMode=

(参考というより殆どカンニングになってしまうのでなるべく見ないよう努めた。)

 

 

船弁慶
今日思いたつ旅衣/\ 帰洛をいつ
と定めむ か様に外者は西塔の
傍に住居する武蔵坊弁慶にて候
扨も我君判官殿は 頼朝の御代官
として平家を亡ほし給ひ 御兄
弟の御中日月のことく御座候へきを

3
ゆひかひなき者の讒言より御中
たかはれ候事 返〃も口惜しき次第に
て候 然れ共我君親兄の礼をおも
むし給ひ 一まつ都を御開きあつて西
国の方へ御下向あり 御身にあやまり
なき通りを御嘆きあるへき為に 今日夜をこ
め淀より御船に召れ 津の国尼か崎

大物の浦へと急候 此は文治の初
つかた 頼朝義経不会の由 既に落
居し力なく 判官都を遠近の 道
せはくならぬ其さきに 西国の方へと
心さし また夜深くも雲斗の月
出るも惜き都の名残 ひととせ平家
追付の 都出には引かへて 唯十余人

4
すこ/\と さもうとからぬとも舟の
上り下るや雲水の身は定なき習ひ哉
世中の人は何とも石清水/\ すみ
濁るをは神そしるらんと高きみかけを
ふし拝み 行は程なく旅心 湖も浪も
ともに引大物の浦に 着にけり/\
御急候程に 是ははや大物の浦に御

着にて候 某存知の者の候間 御宿の
事を申付うするにて候 ゐかに此宿
のあるしの渡候か 誰にて御入候そ
いやむさしにて候 扨只今は何の為の
御出候そ さん候我君を是迄御供
申て候 御宿を申し候へ さらは奥のまへ
御通りかへ 御用心の事は御心安く

5
思召れ候へ ゐかに申上候 恐れ多
き申し事にてかへ共 正しく静は御
供とみえ申して候 今の折節何とや
らん似合ぬ様に御座候へは あつはれ是
より御かへしあれかしと存候 ともかく
も弁慶はからひ候へ 畏て候 更は静
の御宿へ参りて申候へし いかに此屋の内 

に静の渡候か 君よりの御使に武蔵か
参して候 むさし殿とは荒思ひよらす
や 何のための御使にて候そ さん候
只今参る事よの義にあらす 我君
の御諚には是迄の御参り返々も神
妙に思召候去なから 唯今は何とやら
む似合ぬ様に御座候へは是より都へ御

 6
帰りあれとの御事にて候 是は思ひ
もよらぬ仰哉 何く迄も御供と社(こそ)思ひ
しに 頼ても頼みなきは人の心なり 荒
何共なや候 扨御返事をは
なにと申候へき みつから御供申 君
の御大事に成候はヽ留り候へし あら
こと/\しや候 たヽ御とまり有か肝要

 にて候 能々物を案するに 是は武
蔵殿の御はからひと思ひ候程に わらは
参り直に御返事を申候へし 其は
とも角もにて候 更は御参り候へ ゐかに
申上候 静の御参にて候 いかに静 此
度思はずも落人と成落下る処に
是迄遙々来たる心さし 返す/\も

 7
しんめうなりさりなから はる/\
の波濤をしのき下らん事然るへ
からす 先此度は都に上り 時節を
待候へ 扨は誠に我君の御諚にて
そや よしなきむさし殿を恨申つる
事のはつかしさよ 返す/\も面目
なう社候へ いや/\是は苦しからす候

 唯人口を思召すなり 御心替るとな
おほしめしそと 涙を流し申けり
いやとに角に数ならぬ身には恨みも
なけれ共 是は舟路の門出なるに 浪
風も 静を留め終ふかと/\ 涙をな
かし帛(木綿)して(四手)の神懸て替らしと契り
し事も定めなや 実や別れより

 8
まさりて惜き命成 君そ二度逢ん
とそ思ふ行すゑ ゐかに弁慶 静
に酒をすゝめ候へ 畏て候 実々是
は御門出の 行末千代そと菊の盃 静
に社はすゝめけれ 童(わらは)は君の御別
れ やる方なさにかきくれて 涙にむ
せふ計なり いや/\これは苦し

 からぬ 旅の舟路の門出の和歌 但
一さしとすゝむれは 其時静は立あ
かり 時の調子を取あへす 渡口の郵船は
風静まつていつ 波頭の滴所は
日晴てみゆ 是にゑほしの候召れ候へ
立まふへくもあらぬ身の 袖うちふる
も恥ずかしや 伝聞陶朱公は匂践を

 9
ともなひ 会稽山に籠りゐて 様々の
智略をめくらし 終に呉王を亡ほして
匂践の本意を たつすとかや 然る
に匂践は 二度よをとり 会稽の耻(はじ)を
すゝきしも 陶朱公をなすとかや されは
越の臣下にて まつり事を見に任せ
功名とみ高く 心のことくなるへきを 功

 成名とけて身しりそくは天の道
と心えて 小船に棹さして五湖の遠
嶋をたのしむ かゝる様(ためし)も有明
の 月のみやこをふり捨て 西海の波
濤に赴き御身の科のなきよしを 嘆
き給はヽ頼朝も 終にはなひく青柳
の 枝をつらぬる御契 なとかは朽しは

 10
つへき たヽ頼め 唯頼めしめ
ちか原のさしもくさ 我世中に
あらん限りは かく尊詠の偽なくは
かく尊詠のいつはりなくは 頓(やが)て御代に
出舟の舩子共はやともつなをとく
とくと /\ すヽめ申せは判官も 旅
の宿りを出給へは 静はなく/\

 ゑほし直垂ぬき捨て 泪にぬせふ御別
みるめも哀成けり/\ 静の心中
察し申して候 頓て御舟を出さふする
にて候 いかに申候 何事にて候そ
君よりの御諚には 今日は浪風あらく候
程に 御逗留と仰出されて候 何と御
逗留と候や さん候 是は推量

 11
申に静に名残を御惜みあつて 御
逗留と存候 先御思案有て御覧候へ
今此御身にてか様の事は御運も
つきたると存候 其上一年渡邉福
嶋を出し時は 以外(もってのほか)の大風成しに 君御
舟を出し 平家を亡ほし給ひし事
今もつて同事そかし 急御舟を出

すへし 実々是は理り也 いつくも
嘆といふ浪の 立さはきつヽ舟子共
えいや/\といふ塩に つれて舟をそ
出しける 荒笑止や 風かかはつて候 あ
の武庫山おろしゆつりはか嶽より吹
おろす嵐に 此御舟の陸地につくへき
様もなし 皆/\心中に御祈念候へ

 12
いかに武蔵殿 此御舟にはあやかしか付て候
あヽ暫 左様の事をは船中にては申
さぬ事にて 荒ふしきや海上をみれ
は 西国にて亡ひし平家の一門 をの/\
浮ひ出たるそや かヽる時節を伺ひて 恨
をなすも理り也 いかに弁慶 御前に候
今更愕ろくへからす たとひ悪霊恨を

 なす共 そも何事の有へきそ 悪逆無
道の其つもり 神明仏陀の冥感に背
き 天命にしつみし平氏の一類 主上
始め奉り一門の月郷雲霞のことく 浪
ににうかひてみえたるそや 抑(そもそも)是は 桓
天皇九代の後胤 平の知盛 幽霊
なり 荒珎(めずら)しやいかに義経 思ひもよらぬ

 13
浦波の 声を知へに出舟の/\
知盛か沈みし其あり様に 又義経
をも海にしつめんといふ浪に浮へる長
刀取なをしともへ波の紋あたりを払ひ
湖をけたて悪風を吹かれ 眼もくらみ
心もみたれて 前後をはうする計
なり 其時義経少もさはかす/\

うち物抜持うつヽの人に むかふかことく
言葉をかはし たヽかひ給へは 弁慶をし
隔てうち物わさにて おあかふましと数
珠さら/\と押もんて 東方降三世南
方軍陀利夜叉 西方大威徳 北方金剛
夜叉明王中央大聖不動明王のさつ
くにかけて 祈りいのられ悪灵次第

14
に遠さかれは 弁慶舟子に力を合せ 御
舩を漕のせみきはによすれは猶怨
霊は したひ来るを 追払ひ祈り
のけ又引塩に ゆられ流れ またひく
塩にゆられなかれて 跡白波とそ
成にける