仮想空間

趣味の変体仮名

増補菅原伝授手習鑑 松王屋敷の段

 

明治時代になってから書かれたものだそう。仮に全段通しで上演したとすると「北嵯峨」と「寺入り」の間に挿入される。松王により妻千代の真意が量られた上での夫婦の苦渋の決意、小太郎のあどけなくも健気な幼いなりの自己犠牲への覚悟、松王の仮病の必然性、春藤玄番のキャラ設定辺りが見どころになると思うが、あまりに説明的に過ぎるからなのか、人形浄瑠璃文楽での上演は年表を見る限りでは大正時代の3度きりで、以降は絶えているらしい。歌舞伎では松竹以外の公演や子供歌舞伎で「増補松王屋敷」として単独で上演されることが近年あったようだ。「寺入り・寺子屋」直前のいきさつを本に書いてしまった人がいたとは知らなかったし、興味本位ではあるけれど、どんなものか読んでみた次第。作者は不詳。

 

 

読んだ本 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/856508 コマ357表紙

参考にした本 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/856482

 

 

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357  

松王屋鋪段 菅原伝授 四段目の中

 

 

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358
菅原伝授 四段目の中

八重一重 九重遠き
片邉り 新たに建てし一構え
庭の立樹もおのづから
主に連て色艶も

 

 

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359
今を栄と松王が爰に
住居も奥深き心を 誰
かさとるらん 同じ常盤に
色かへぬ女房千代は
緑子の 小太郎連れてひ

そやかに一間の襖押し
明くれば 御いたはしや丞相の
御台所此程より 爰に
忍びも世の人を 頼む
木陰に雨もりて 打ち

 

 

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360
しほれさせ給ふにぞ
千代はこなたに手を
つかへ アゝ嘸お気詰りに
ござりませふ 御窮屈
な此一間 昼は人目を存じ

ましてモ橋近ふさへ出し
ませず 定めなき世と
云ながら 丞相様や若
君様に 御引別れなさ
れてより 北嵯峨の御


361
隠れ家 それさへ人に
漏れ聞え 危ふい所を漸と
夫が是へお迎ひ申し 又
もや侘しい此お住居
去ながら頓(やが)て目出たふ

お二方に御めもじ マア夫レ
迄はお気長に 必ずきな
/\案じなふ 時節をお
待ち遊ばせと 申し上ぐれば
御台所 浮かむ涙を とゞめ


362
給ひ ムゝやさしいそなたの
志 死んでも忘れぬ嬉し
いぞや よしなき人の賢(さか)し
らにて さすらいと迄成り
給ふ 夫(ツマ)の行すへ我子の

事 片時忘るゝ隙もなふ
あじきなき世に暫くも
惜しからぬ命なからへ事も
つくし(筑紫)にござる我夫や
菅秀才に只一目 逢ふて


363
死にたいなつかしい 此小太
郎が面ざしの 似たと思へば
猶更に 逢たいわいのと
斗りにて 託(かこ)ち給へばお道
理と 供にしほるゝ袖袂

しほり兼たる折からに
御上使の御入りと呼はる声
ハアと驚く女房御台
供にと胸のあたふたと
一間へ隠す間ダもなく 早


364
玄関へ高提灯 主の
威光を肩できる 素
襖の色の花田より 鼻
高々と入来たる 時平の
家来春藤玄番上

座へ むづと押し直る 斯く
と知らせに主の松王
病苦に悩む額際 押し
てしづ/\出向ひ ヤ是
は/\御上使と有って玄


365
番殿御苦労千万 病
中なれば略衣(え)は御免
下さるべしと 一礼終れば
成程/\ 病中なれ共
時平公より仰せ付らるゝ

其子細といつぱ 先達て
より行方知れざる菅
秀才の有り家 今ン日訴
人の者有って 武部源蔵
と云ふやつ 北山芹生(せりう)の


366
里に 筆道指南に世を
渡り 我が子として匿もふ
由 夫レに付いまだ菅秀
才の顔(つら)知りし者なき
故 其方に見分の役

仰せ付らるゝ ガいよ/\
菅秀才に相違なくば
首にして持参せよ
アゝコリヤ褒美には其方が
兼て申し出せし 病気保


367
養の願い 御聞き届け下さるゝ
又病気本復次第播
磨の守になされふと有り
難い主人の厳命 サ早
く用意を致されよと

いふを一間に女房が
立ち聞く耳に打ち寄する
夫の心白浪の 胸に
漂ふ斗りなり 松王はつと
頭(かしら)を下げ ハゝコハ有難御意


368
の趣き 松王が家の面目
ヤモ此上なし 早速承知
仕るガ病中なれば 万
事の手配り心に任せず
シテ其源蔵とやら云ふ

やつ 某が打手に向ふ
と漏れ聞かば 風をくらつて
落ちやらんも斗らはれず
アイヤ/\其義はちつ共
気遣ひなし 高が浪人


369
の痩せ住居 取り巻もぎ
よふ/\し ハゝゝアゝイヤそふでは
ごさらぬ 恐れ多くも
時平公の御威勢を以て
御詮議厳敷菅秀才

を匿ふ程の源蔵 ヤモ
油断はならぬ 成程逃げ
失せなば我々が落度 左
様でござる 貴殿御苦
労には候得共 願はくば


370
夜の内に 村の出口へ
組子の御用意 いか様
拙者は是より何かの
手配り 然らば未明に同
道致さん 万事は明朝

ハゝ御苦労千万 と互ひに
目礼式台に 悠々と
して立ち帰る 跡打ち詠め
松王は 何か心に一思案
明ける襖を待ち兼て 千代


371
は夫の傍に寄り コレ申し
今の上使の様子では
若君様の御有り家慥に
夫レとしれたれば討手
の行かぬ其先にちつ共

早ふ此内へお迎ひ申す
御用意をとせり立つ女
房 ハゝゝ麻に連れる蓬と
いへど 此松王が所存の
程其方はよも知るまい


372
北嵯峨の隠れ家より
御台を奪ひ帰りしは
菅秀才の首諸とも
時平公へ御目にかけ
官位の身と成る家の

栄へ エゝスリヤ御台様をお
迎ひ申したは アノ時平様へ
お渡し申すお前の心で
有ったか ヲゝサ年月望みし
身の出世 今こそ運の


373
開き時 アゝラ嬉しや ムゝ ハゝゝ
悦ばしやと 初めて聞い
たる夫の詞 余りの
事に呆れ果て はら/\
涙落ちかるゝ 夫の膝に

膝突かけ コレ松王殿
エゝお前は/\/\な いつの
間に其様な恐ろしい
気にはならしやんした
ぞいのふ 親御の勘当


374
兄弟に縁切らしやんし
たのも 日頃からの逸
徹故と諦めて 詫びする
時節も有ろふかと 思ふ
女房の心に引かへ マ

いかに出世がしたい迚
大恩有る御台様や若君
さまを召捕て渡さふとは
お前は鬼か蛇かいのふ
モ道に背いた天罰は


375
お前斗りが科もない
子に報はいで何とせふ
どふぞ心を取直し お二
方のお供して 筑紫に
ござる丞相様へ 御渡し

申して供々に お力に成っ
てたべ拝むわいのと手を
合せ 夫を思ふ真実
の涙に誠顕はせり 松
王はせゝら笑ひ ヤアいら


376
ざるくりこと 親兄弟の
縁切れば 恩もなく又義
理もなし 日蔭者に誠を
かけ倅の出世を思はぬ
馬鹿者 非義非道も

我子の為 子にかへる
宝はないはいノウ情けない
それ程我子を思ふのは
御台様も同じ事 人の
嘆きを悦んで 出世し


377
た迚それがマア何の冥加
がよかろふぞ 身の行く
末を思はずかと諌め嘆けば
エゝ又してもよまいごと
無益(むやく)のくり言漏れ聞へ

御台を逃がさば一大事と
欠行く裾をとゞめる女房
エゝ邪魔するなと刎ね退け
突き退け一間の内へ入りにけり
ハア はつと斗りに女房は


378
泣くも泣かれぬ身のせつ
なさ 暫し堪入りゐたり
しが 良(やゝ)有って顔を上げ
アゝ扨も/\浅間しや
年月連れ添ふ夫の心

あれ程迄に悪心の
有ろふ様はなけれ共 我が
子の愛に奪はれて 恩
も義理も打ち忘れ 鬼
でもならぬ胴欲しん


379
こふいふ心と露しらず
おいたはしや御台様 我々
夫婦を 杖よ 柱と思ふ
てごさるを胴欲に どの
顔さげて御台様へ此世

お顔が合されふ 夫
一つでない証拠申し訳に
自害して あの世でお
詫を申しまする お赦されて
と身をふるはし 前後もわ


380
かず泣き居たり 漸々に
泣く目をぬぐひ ヲゝそれよ
迚も夫の悪心は 直さぬ
心と知りながら 何にも
しらぬ小太郎まで 供に

悪事を見習はせ 非業
な最後をさせふより
一つ所に連れて死出三途
せめてはそれを楽しみに
又一つには 小太郎が 此の世


381
になくば松王殿 心も
折れて本心に立ち帰つて
下さらば 死でも嬉しう
思ひますと今死ぬる身の
覚悟にも 夫を思ふ心根

の 果し涙に九つの鐘は
我子の年の数 ちゞむ
斗りの憂き思ひ 虫がしら
すか奥の間より コレかゝ
様 奥にござるお客様が


382
呼んでこいとおつしやる 早ふ
/\と余年なき 顔見る
よりも 悲しさの涙呑込み
/\で コレ小太郎今此の母が
云ふ事をマアよふ聞きや アノ

奥にござる御方は とゝ様
嬶様の為には モ大事の/\
お主様も同然 ガコレ其方と
とゝ様が 殺さふと云ふ恐ろ
しい心 モウそふ成っては此


383
母が どふも生きては居ら
れぬに依て 母もお供を
するはいのふ ガそなたは又
とゝ様が可愛がつてくだ
さつたら おとなしうして

居やるかやと 稚心を引て
見る無量の思ひさとき
子が イヤ/\そんなこはいとゝ
様と居る事いや かゝ様が
死にしやるなら わしも一所に


384
行きたいはいのふ ヲゝ嬉しい事
よふ云ふてたもつた/\
のふ モいやと云ふても夫の
為 殺さにやならぬと聞き
分けて 死なふと云ふ心根が エゝ

いぢらしいわいの/\ 此子が
死んだと聞いてなら 悪人
ながらも松王殿 嘸ほい
なかろ悲しかろ 斯いふ
事の有ろふ端か 桜丸


385
のぼだいにと 拵へ置いた
此幡が 我が子の為に成ろふ
とは 神ならぬ身の白幡
に 印を六字の名号は
せめて 此子の道しるべ

迷はぬ為と 目を閉て 用
意の懐剣 抜きはなし 既
に斯よと見へたる後に
ヤレ早まるな暫く待てと
一間より 御台の御手を静


386
/\と上座へ直し手をつかへ
ハゝ恐れながら御台様初め
女房にも 某が心底嘸
不審 今こそ明かす本心
を 物語らんと威儀を正し

扨も御家の没落より
時平公を主人とあおぐ
もいまはしき 暇を乞ひ受け
菅秀才の御行方を尋ね
奉り 再び御家を落さんと


387
心を砕けど チエゝ情けなや
倭人に一味のやつばら
隅々迄も厳敷詮議
ガつく/\゛思ひ廻すれば
此松王斯くて有るならば

お二方にもしもの時お助け
申さん便りには ヤ是究竟
とそれよりは猶更悪事に
一味と見せ 勿体なや親
人に 勘当請けて兄弟に


388
不和となりしは邪智深き
主人に心を赦させん為
然るに先刻主人の厳
命 菅秀才を見分の
役目を受けし身の当惑

忠義一図の源蔵なれば
やわかむざ/\若君を 討
て涙す所存はなけれど
多勢に無勢 もし若君
にあやまち有っては詮も


389
なく 兎やせん角やと
思ふ内 先程御台のお
詞に 小太郎が面ざしの
我子に似たとの御嘆き
シヤ是幸ひの御身代りと

サ思へど若しや女房が愛
に引かれて妨げなば 如何は
せんと思ふより 心に思は
ぬ悪念も 我が子の愛に
引かされて 出世を望むと


390
見せたるは そちが心を
引見ん為 とはしらずして
一心に 我子を切って忠
義を立て 夫の心をなを
さんとはハアヤ遖(あっぱれ)出かした

女房と 打ちてかはりし
夫の義心 聞く女房が
嬉し泣き 中に御台は手を
合せ 忠義の為に悪と
なりたつたひとりの


391
ほんそ子(奔走子・最愛の子:島根)を 我子の為に
身代りとはあんまり冥
加おそろしい たとへ叶はぬ
際迄も討手を遁れ
小太郎が 命はどふぞ助け

てたも 頼むわいのと恩
愛の 心は一つ二道にか
らむ情けぞ せつなけれ
松王はつとひれ伏して
ハゝ有難御仰せ たとへ


392
其場は落すとも出口/\
は組子の大勢 遁れがた
なき御一命 コリヤ女房
覚悟の上は御身代りの
お役に立つるに違背は

有るまい ヤイ小太郎 我れぐ
はんぜなく共聞きわけて
若君の御為 親の為 一大
事のことなれば いさぎよく
命を捨てよ モシ逃げ隠れなど


393
致さばとゝが子ではないぞよと
云教ゆるも爺親の 肉もと
ろくる不憫さも 忠義の為
と喰いしばる 見るに目もく
れ女房も御台も供に

声を上げ わつと斗りに泣き沈む
心を思ひやられたり ヤア未
練至極 稚けれ共健気の
覚悟よしなき嘆きに隙入って
時刻移れば詮もなし ハア

 

 

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394
最早や夜明けに間(あいだ)もなし
某が出仕迄に 寺入の用
意せよ サ早ふ/\/\ アイあいとは
云ど今更に 心の張りの弦(つる)
切れて 力なく/\立ち上れば コレ

かゝ様そんならもふ行くの
かや とゝ様誉めて下されやと
稚心の立派さを 思ひ
やつたる爺親の 顔を
背けて皺面(じうめん)も 忠義の

 

 

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395
為と諦めて 取り出す小袖
もかゝる身になると 白
地を染め上げし 齢を祝ふ
群づるも今は はかなき夜
るの靍 泣く音(ね)立てしと女房

も 御台も供に目に余る
六筋の涙明け六の 鶏は憎し
と詠み給ふ それは出舩の御
名残是は弘誓(ぐぜい)の舩さし
て あの世へ急ぐ愛別の

 

 

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396
子の死に顔に逢いに行く 空
定めなき一雫 枝にもらさぬ
涙の雨や 一と葉に別れて
又一葉 緑を残す 影向
の 松に哀れをとゞむらん

 

 

 

 参考にした本  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/856487/155?viewMode=  は

『浄曲百段語り物の訳』という明治39年出版の書籍の中で取り上げられている浄瑠璃作品から、別冊シリーズのようにして随時出版された床本の中のひとつなのだけど、本編『浄曲百段』の「松王屋敷」を読めば作品の評価と扱いがわかって猶おもしろい。言ってしまえば『なかなかうまく出来てはいるが、これを聞いてから「寺小屋」を聞くと理屈に合わないことができて、折角の「寺小屋」がメチャクチャになる』だそう。つまり「野暮」ってことだろうな。床本の冒頭に添えられてある前書きはこの本編の抜粋。床本は「四段目の中」になっているが本編では「四段目の口」としている。

  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/856487/155?viewMode=

 

 

 

下記は 最後になったと思われる人形浄瑠璃における上演の番組表。千代演じる文五郎氏このときおよそ55歳。

 

當る大正十四年六月一日より 毎日午后四時開演 新京極 文楽座にて

文楽座 松竹合名社

 

前 生寫朝顔話 (出演者略)

 

切 増補菅原手習鑑

  松王下屋敷のだん
  竹本簾太夫改メ 切 竹本實太夫
        三味線 豊澤廣左衛門

   人形

  松王丸   吉田辰五郎
  女房千代  吉田文五郎
  春藤玄番  吉田小兵吉
  御臺所   吉田文之助
  一子小太郎 吉田小文