菅原伝授手習鑑 二段目 丞相名残の段(道明寺)

 

読んだ本 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/856508

 

 

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256(表紙)
菅原伝授手習鑑
二段目切 道明寺

 

 

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257
菅原伝授手習鑑  二の切  (丞相名残の段)

聞かして入りにけり 早刻限ぞと御膳の
拵へ 銚子土器(かはらけ)熨斗昆布嬪共に嶋
臺持たせ 伯母御座敷へ出給ひ 百日千夜
留めたり共 別るゝ時はかはらぬつらさ 此うへ

 

 

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258
頼むは御免の勅諚 帰洛を松の嶋臺行
末祝ふ熨斗昆布 管丞相も此間
心遣ひの御一礼 互に尽きぬ御名残 直祢(宿禰
太郎罷り出 御立の刻限迚早門前迄迎ひの
官人 判官代輝国は路次の用心辻固め

只今旅宿を立ち申され 輿舁の官人に譜
代の家来を相添へられ 只今是へ参上
と怪しの張輿舁入れて 時刻移るとせり立てる
管丞相は悠々と大広間より出させ給ひ
輿に召す迄見送る老女 人前作つてにこ/\


259
と 泣かぬ別れぞ哀れなる 宿禰太郎も御見
立て門送りして立ち帰り ヤレ嬉しや仕廻ひが
付いた 覚寿御もお気休め 寝間へござつて
イヤ寝たふてもねられぬわいの 寝られぬ
とは御気色でも アレまだいの 客を立てて

嬉しいと 一道(ひとみち)な聟殿の悦び 一つ屋敷に
居ながらの暇乞も得せいでのかりや姫
が悲しかろ 人の逢ふのもけなりかとろ うけ
かまはぬ立田さへそれで態(わざと)呼出さなんだ
が 機嫌よふ立しやつたを悦びにはなぜこぬぞ


260
誰ぞいて見てこいと いふにきよろ付く宿禰
太郎 嬪共は立戻り 奥にござるはかりや
姫只お一人 立田様はござりませぬ 何じや
いぬ内を放れてふぉこへいきやろ 今一度見
てこい座敷の隅々かぐれ/\ 尋々と吟味

のきびしさ 提燈手んでに若党中間幾
人(たり)有りても行き届かぬ 花壇築山手分し
て尋る奥の池のはた 芝に溜つた生血
を見付けコリヤ/\此血の流れ込む池を捜せと声
々に 水心得た奴共飛び回り/\水底より


261
かづき上げたる立田が死骸 驚き騒ぐ家内
の騒動 太郎は鼻も動かさず 殺したやつは
内に有ろ詮議済む迄門打て 家来共
動かすなと わめきちらせば母覚寿姫
もかしこへ転び出 コハ誰人の仕業ぞや 先

からお顔を見なんだは 伯母様のお傍にと
思ひ儲けぬ此死骸 父上には行き別れお前
には死別れ 時もかはらず日もかはらず悲しさ
つらさ一時に かゝる例しも有る事かと老母に
取付き 悔み泣き ムゝ道理/\ そなたはおれが傍


262
にと思ひ おれはそなたが傍に居ると
思ひ違いが娘が不運 母が因果でおじやる
はとかつぱと伏して正体なし 太郎傍へ立
寄て 涙が死人の為にはならぬ 女房共への
追善には殺したやつをひつぱり切り 是にて

詮議仕らんと縁端に大あぐら 男女に
限らず家来のやつばら片端から詮議
する マアとつ付きにおる宅内め 身が前へ出
あがらふ ナイ/\ないと御前にかつ蹲ひ 人は知らず
拙者めにお疑ひは御ざない筈 お死骸を


263
取り上げた 御ほうびを下されうで一番にお呼び出し
忝い義でごはりまするでごはります ヤア
まが/\しい褒美とは横着者め 立田が
死骸池に有るをおのれはどふして知りおつたそれ
ぬかせ イヤあのしかも天窓も見様筈は

ごはりませぬ 池の深みへ芝から伝ふた
血を証拠にヤアぬかすな 提燈の灯明り
で それがそれと知れる物か うぬが殺してしづめ
た池 外の者がどふしてしろふ 血の分では
云い訳が立たぬ 是はお旦那無理かつしやる 云


264
訳立たふと立つまいが池が血へ流れ込んだ其外は
存じませぬ ヤア池が血へ流れたとは 血ま
よふて何ほざく きやつ詮議場で水くらはせ
白状さするそれ引立てと 宿禰もつゞいて立つ所を
老母押留め イヤ責めるに及ばぬ詞のてんぐ 嬉し

や娘の敵が知れた ハア責めなとは遖お目高 科
極つた罪人 女共へ手向る成敗大けさに打放す
腕を左右へ引ぱれと刀ひっさげ立寄る宿禰
イヤ成敗は常の科人けさに切ては只一思ひ 苦
痛させねば腹が居ぬ 娘の敵初太刀は


265
此母 後は聟殿刀を借ると かい/\゛敷くも裔(裾)
引上げ向ふ目当は奴にあらず 油断太郎が
弓手の肋(あばら)突込む刀に宅内は 命拾ふて
逃げて行く 宿禰太郎は急所をさゝれもがき苦し
む息の下 身共に何の科有りて耄れめが

といはせも果てず 覚へないとは言わさぬ/\ 我が科
を人に塗り成敗をして見せ立て 裾ばせつ
た下着 妻先切れて有る 其切れはコリヤ立田が口
に声立てさせぬ無理殺し 歯をかみしめ
放さぬ妻先 切った事を打忘れ おのれが科をおのれが


266
顕はす極重悪人 死骸の前で敵を取る
母が娘へ手向け刀 肝先へこたへたかと大の男
を仕留める老女 遉に河内郡領の 武芸
の筐残されし後室とこそしられけれ
やゝ時移れば判官輝国只今是へ御出と

家来が申すに老母は驚き 丞相は先程お立ち
誰を迎に心得ぬ事ながら此方へ通しま
せい かりや姫は奥へ行きや こいつはまちつと苦
痛をさすと 刀を其儘体押退け出向へば
輝国も早入来り お迎の刻限 御用意能く


267
ば早お立と 申す詞の先折って 輝国殿何おつ
しやる 丞相の迎にはそこの家来が先程
見へ 請け取て帰られたはもふ一時も先の事 ヤア
これ/\伯母様 身が家来に渡したとは旁(かたがた)以
て心得ず 鶏の声に刻限斗り 只今鳴いた

旅宿の鶏 八つに参る迎の約束家来
といはふが 直きに身共が参つた迚 刻限も
来たらず鶏も鳴かぬ先 渡したといふては済む
まい 船かゝりの其間 伯母御に逢すは此
輝国が情の用捨 今日の今に成て名残


268
も一倍嶋へはやらぬ 渡したといへばそれで済むと
鼻の先な女子の了簡 管丞相の仇に
こそなれ為にはならぬ 偽りな申されそ イヤ偽りは
申さぬ 庭で鳴いた鳥の声 そこへござつた迎い
の衆 渡したに違いはないが 請取らぬとおつしやるの

で 娘が最後聟めがあのざま 思ひ合
せばさつきにきたは贋迎い コレ伯母御 内の騒動
死人の有るうへ 贋迎嘘では有るまい 讒者共
のしはざで有ふ 一時違へば三里の後れ ぼつ
付いて取返さんとせきにせいてかけ出す輝国


269
ヤア/\判官先ず待たれよ 管丞相は是に有と
一間より出給ふ 覚寿はびっくりさつきに別れた
管丞相 そこにはどふして/\と不審の
立つも道理なり 判官輝国打ち笑ひ ぬけ/\
とした伯母御の偽り 暫時の仰天 丞相

是にましませば輝国が安堵/\ 見へ
渡つた此御難儀 訳も聞きたし力に
成ってしんぜたけれど 私ならぬ警固
の役目 早刻限も移りぬればいざ御立と
すゝむる所に 先程見へた警固の役人


270
たつた今門前迄 何じや警固がハテよい
所へ戻られた 嘘つかぬ覚寿が証拠是
へ通し 輝国殿へ見せませう イヤ身が名を
騙た贋役人 直きに追ては悪しかるべし 忍ん
で様子を窺んと丞相諸共一間の障子 引

立内に隠れ居る 輿に先立警固が大声
コレ老母 輝国の名代とけあなずり とでもない
物身共に渡しよふぬつけりさゝれたの 是はめい
わく管丞相を請取りながら とでもないとは何
おつしやる アレまだぬつぺり 丞相は丞相


271
でも 木で作つたはこつちにいらぬ 肉付き
の管丞相 替る気で持てきた木像
コリヤ此輿にといふに覚寿も心付エゝ忝い
扨は魂を込められし木像で有ったかい 猶も
証拠を見届けんと心の悦び押かくし こなた

の云分合点がいかぬ 其木像見せさつし
やれ ヲゝしやちこばつた荒木作り サア今
見せうと明ける戸の輿に召したは木像なら
ぬ優美の姿管丞相につこと笑ふて立
出給へば 警固はぎよつと呆れ顔 覚寿も


272
違ひし心当て障子の内と今見る姿 心
どぎまぎ疑ひながら アゝよふ戻して下さつた
慥に伯母が請取ました ヤアどこへ/\そりや
ならぬ ならぬとはいふ物の 連れて帰つて見
たのは木像 すりかへられたと気が付て かへ

に戻つた爰ではほんの管丞相 おれが
目の悪いのか 見所によつてかはるかい イヤ替らふ
が替るまいが戻された管丞相 いざこなた
へと立寄る覚寿 ヤアのぶといと突飛ばし丞
相を又輿に乗せ戸を引立て家来に向ひ


273
わいらも様子を見る通り いかにしても怪しい事共
此分では帰られず 念の為家捜しすると
踏ん込む先に宿禰太郎 半死半生のた打
苦しみ なむ三宝太郎様が切られてござる 旦那/\
と呼ぶ声に警固の中から親兵衛 前後

もさらに弁へず走り寄って引起し コリヤ躮 此
深手はどいつが所為相手を知らせと気をせいたり
ノウ兵衛殿相手は姑 わしが手にかけた ヤア聟
を手にかけ落付き自慢 何科有て身が躮
をヤアとぼけさしやんな婭(こしむこ・あひやけ)殿 そいつが立田を


274
殺した時 こなたも手伝ひ仕やつたがの 娘
の敵切たが何と 贋迎いの棟梁殿 何もかも
顕れ時 さつぱりといふた/\ エゝ残念々躮めが出
世を思ひ 時平公に一味して管丞相を殺
さん為 鶏に宵鳴きさせ 十(とを)が九つ仕終せた

兵衛が方便 腐り婆めにかき出され殺さ
れた伜が敵 覚悟ひろげと飛かゝるをヤアさは
させじと判官輝国 こかけより顕れ出覚寿
を囲てつつ立たり ヤアどなたが出てもひく共
せぬ 兵衛が工みの破れかぶれ 死物狂ひの働き


275
見よと 切てかゝればかいくゞり持たる刀踏み落とし
利き腕掴んでひつくりかへし 足下に踏付大音上げ
ヤア輝国が家来共 贋者やらを片端からくゝれ
/\と云ふ声に 始のぎせいぬけ/\に一人も残らず
逃げ失せたり 覚寿はとつかは輿の戸の明る間

嘸やお気詰りと 内を見ればこはいかに
筐の木像又びっくり 是はいかにと立ち帰りこなた
の障子押明くれば 伯母御騒がせ給ふなと
管丞相の御付 爰でもびっくりかしこでも びっくり
びっくりに心の迷ひ どちらがどふじや輝国


276
殿目利きなされて下されと 問はるゝ人も問人
も呆れ 果てたる斗りなり 丞相重ねて 輝国
の迎い遅参故 睡む共なく暫時の間 物
騒がしく聞へし故窺ひ見れば 兵衛が工み太郎
が所為(しわざ) 立田の前ははかなき最後ぜひもなし

伯母御の心底さこそ/\ 某是へ来たらずば
かゝる嘆きも有るまじと今更悔みの御涙 イヤ娘が
命百人にも かへがたき大事のお身 怪我過ち
のなかつたを悦びこそすれ何の位 何の/\と
いふ目に涙 のふ輝国殿 悪事の元は其


277
兵衛此世の隙を早ふ/\ 太郎も供にと立
寄て髻(もとどり)引上 丞相の警固の有様 おのれ
親子に見せたが本望 娘が恨みも晴れつらん
と刀を抜けば息たへたり ヘエゝ憎いながらも不憫な
死にざま 有為転変の世のならひ 娘が

最後も此刀 聟が最後の此刀 母が罪
業消滅の白髪も同じく此刀と 取直す
手に髻払ひ 初孫を見る迄と 貯(たばい)過した
恥白髪 孫は得見いで憂き目を見る 娘が
ぼだい 逆縁ながら弔ふ此尼 種々因縁


278
而求仏道 南無阿弥陀仏と唱えれば 管
丞相も唱名の 声も涙に回向有る 判官
輝国大きに感じ 伯母御前に先取られ後に
さがつたおのれが成敗 強欲非道の皺頭と水も
たまらず打落す 覚寿は木像抱きかゝへ管

丞相の右手の方 御座を並べて直し置 兵衛
親子が工みも現はれ何もかも納まりし 此木像の
不思議な働き かゝる例しも有る事かや いやとよ最
前もいふ如く 匹夫/\が工みも顕はれ 我急難を
遁れしも 暫時の睡眠前後を知らず木に彫み


279
筆に畫(えがく) 例しは本朝名高き絵師 巨勢
の金岡が書いたる馬は 夜な/\出て萩の戸
の萩を喰ひ 唐土にも名畫の誉 呉道
子が墨絵の雲龍雨を降らせし例しも有
又神の尊像木仏などの 人の命にかはらせ

給ふ例はかぞへ尽されず 管丞相が三度(たび)迄
作り直せし物なれば 木にも魂備はつて我を
助けし物やらん 讒者の為に罪せられ 身は
荒磯の 嶋守と 朽ち果つる後の世迄筐と
思し召されよと 仰せは外に荒木の天神 河内の


280
土師村道明寺に残る威徳ぞ有りがたき 輝
国四方(よも)を打眺め 思はざる義に隙を取
夜も明けはなれ候へば御立ぞふと申すにぞ 又
改まる 暇乞 伯母が寸志の餞別(はなむけ)せん用意
の物こなたへと かりや姫の上着の小袖かけたる

伏籠諸共に 御傍近く取直させ 浪風
あらき楫(かじ)枕 余寒を凌がせ申さん為 伯母
が心を焚きしめた小袖を嶋迄召るゝ様に
輝国のお世話なから頼みますると有りけ
れば 是は四敷(よろしき)進ぜ物 苫の香防ぐとめ


281
木の小袖 家来に持たせ参らんと 立寄り
伏籠に手をかくる 丞相暫しととゞめ給ひ
御恩を厚く込め給ふ伏籠にかけし此小袖
中なる香はきかね共 名(めい)は大方 伏屋か
かもや 伯母御前より道真が申し請けし

女子の小袖我が身にはあはぬ筈 身幅も
せばき罪人が此儘にお預け申す 我が子袖と
思し召し 立田の前が追善の 仏事も供
にと伯母御前の心をさとる御詞 骨身
にこたへ忍び兼思はずわつと声立て

 

 

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282
嘆くに扨はと輝国も爰得緒を かんじしほれ入る
覚寿の心は伏籠の 内 泣いたは結句
あの子が為 別れにちよつと只一目伯
母か願ひを叶へてと 立寄る袖を引とゞめ おとし
故の空耳か 今鳴いたは慥に鶏 あの声は子

鳥の音子鳥が鳴けば親鳥も 鳴くは生(しやう)有る
ならひぞと 心の嘆きを隠し哥 鳴けばこそ
別れを急げ鶏の音の 聞へぬ里の
あかつきもがなと詠じ捨て 名残りはつき
ずおいとまと立出給ふ御詠歌より 今

 

 

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283
此里に鶏なく羽たゝきもせぬ世
の中や 伏籠の内をもれ出る 姫
の思ひは羽ぬけ鳥 前後左右をかこ
まれて 父はもとより籠の鳥 雲
井のむかし 忍ばるゝ さすらへの

身の御なげき 夜は明けぬれど心の
闇路 てらすは法(のり)の御ちかひ 道あ
きらけき寺の名も 道明寺迚
今も猶栄へまします御神の
生けるがことき御すがた爰に残れる

 

 

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284
物語 つきぬ思ひにせきかぬる
涙の 玉の 木槵樹(もくげんじゅ) 数珠のかず
/\くりかへし なげきの声に只一目
見返り給ふ御顔ばせ 是ぞ此世
の別れとはしらで 別るゝ別れなり

 

 

 

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道明寺天満宮 (大阪府藤井寺市