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菅原伝授手習鑑 初段 筆法伝授の段

 

読んだ本 http://www.enpaku.waseda.ac.jp/db/index.html (イ14-00002-890 )

 

筆法伝授の段 p18 左頁三行目~

 

立ち帰る 上根と稽古と好きと三つの中 好きこそ物の
上手とは 芸能修行教への金言 公務の暇明け暮れに好ませ給へ
る道真公 堂上堂下りはいふに及ばず 武家町人に到る迄 風義を
慕ふ御門人数も限りもなき中に 左中弁平希世手習稽
古ふる兄弟子 今度筆法伝授はさし詰め我等に極りしと
勝手覚えし御殿の真ん中 朝の夜から机を直したばこよ茶


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よと呼立つ 声も届かぬ奥勤め女中頭が聞き咎め コレお次に
誰もいやらぬか 希世様の御用が有ると呼つぐ局に不足顔
コレ手の皮がひり付く程たゝいてもしゝらしん ムウ合点 顔出し
せぬは毎日来るを面倒がり 云合せて鼻明かすのか けふで
七日の手習 おれが為斗りじやない 御子息の菅秀才は
年弱(としよわ)七つ 伝授所へ行かぬによつて 此希世が伝授して 菅
秀才の成人以後 身共から又伝授さすれば主の奉公も
同じこと ハツホといふて廻る筈惣じてこなたがなまぬるこい コレかつ

野よふ心得や そなた衆の不調法こける所は局が迷惑 なに
おつしやろとあい/\とナ 申し希世様 成程そふじやよい了簡 毎
日/\気を詰めるも菅原の家の為けふも又此清書お目にかけて
と指し出す イヤけふは御赦せとはなぜ/\ ハアテ幾度おめにかけ
ましても 丞相様の気に入らぬは お手の業ではござるまい 取次の
仕様のわるさ手代りにけふは勝野 イヤ是そふではならぬ 筆法
伝授も神道の秘密事 学問所の注連(しめ)が目に見へぬか 油
こい女子はやられぬ 昨日迄は気にいらずと 此清書は格別筆先


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に肉を持たせ 天晴骨髄を云明たれば 伝授はする/\伸し切って
いてたもれと 頼むに是非なく立て行く コレ勝野 局の云れたあい
/\を合点か アイ心得ておりまする エゝ忝い 幸い辺りに人もなし
福徳の三年め 屏風のかげてついちよこ/\と 取る手を振切り エゝいや
らしい 無体な事なさるゝと声立つるが合点か エゝ合点じや声立つ
るがこはい迚 しかけた恋人叶いおれと ほうどだかへて連て行く アレ/\
申し 申しとは誰に申し アゝ御台様や若君様申し/\と云ふ声の もれ声い
てや 管丞相の御台所 若君の御手を引き立出給へば希世は

仰天是は/\悪い所へよふお出と手持無沙汰もへらず口 勝野
に癪の療治を頼まれ 取りにかゝつて斯くの仕合せ 御台にも
御存じのごとく万能に達せし某 世に希な器用者迚 希世
と付けた親共か自慢の名 其例しは此若君年よりは御発明 菅
秀才と呼び給ふも 秀はひいづる 才は才智の才を取って 菅家の
公達菅秀才 あら/\謂れかくのことし 我等は餘り器用過ぎ 取損なふ
按摩のしだら 御台所の思し召が アゝ其云訳には及びませぬ
日頃の行儀知て居る そんな疑ひ何のいなと 物に障らぬ


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御挨拶 アゝ夫聞いて落付た 今のしだらの次い手ながらお尋ね
申す事が有る 御息女のかりや姫 斎世の君とにやほやした
世間の取沙汰 けふで七日相詰める 御所には何のさたもない
虚説かと存れば 苅や姫の御殿は明家 御詮議もなされ
ぬは親御達も合点の上 欠落でかなござるかと 問るゝつらさは
御台所暫し 返事もなかりしが 隠してもかくされぬさがなき
人の口のはに かゝるも是非なき苅や姫 斎世の君は猶以って
大切なお身の上 互いに忍ぶ恋路の車廻り逢瀬もそこ/\

に 事顕れしを恥しく思し召され 御所へお帰りなされぬもの
と有て常の御方ならねば 宮様付き々の人々が夫なりけりには
して置くまい 又此方の娘の事は希世様も知っての通り 本の母
様は河内の国 土師村の覚寿様とて 連れ合のためには伯母
御さま 菅秀才を設けぬ先乞請けて養子娘 此御所へは戻られず
伯母様方へと心付き 自らが内証で尋ねに人を遣はした 此一落はけふが日迄
わざと父御へ しらしませぬ それも何故勅諚にて筆法伝授七日の中
参内止めて取籠り世の取沙汰は何も知らず 伝授も過ぎて聞き給はば


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嘸やびっくり仕給はんと かなたこなたを思ひやる心を推量してたねと案じ
給ふぞ理りなる 内玄関の奏者番一間こなたに畏まり 先年お館に
相勤めし武部源蔵定胤参れとの仰せに寄り 此間所々方々吟味致し
て 漸只今夫婦一所に参つたり 是へ通し申さんやと伺へば御台所 ヲゝ
待兼し源蔵夫婦 早/\爰へ参れといへ コレ菅秀才 源蔵に逢ふ
間こゝに居ては気がつきやふ 勝野を奥へ連れていて 機嫌よふ遊ば
しやれ 希世様にも暫しが間 ヲゝ爰に居て邪魔ならば 所かへ仕らん
と続いて 奥にぞ入にける 人知れず思ひ初めしが主親の 不興を請ける

種と成り 夫婦が二世の契りより三世の御恩弁へぬ 不義より御所を追い
出されさむい暮しを素浪人 おは打かれし武部夫婦 けふのお召しは
心の優曇華開く襖の内外迄 勝手は今に忘れねど身の限り
に気おくれし膝もわな/\窺ひ足 御台の御座を見るよりも ハツト
恐れて飛しさり蹲りたる斗りなり ヤア珍しい源蔵夫婦 連れ合の
気に背き 此御所を出やつたをかぞへればもふ四年 日頃人をすて
給はず 慈悲深い程きつさもきつい 思いひ切ってはいかな事 見返ら
ぬ夫のお心 叶はぬ事と思ひの外 源蔵に参れと有る御用の


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(挿絵)序中
苅屋姫と斎世宮の恋仲桜花がとりもち加茂堤にて
忍び逢い給ふを清貫に見付けられ落ち行き給ふ


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様子何かはしらぬが気遣ひな事では有るまい定めて吉左右 ヤア
自らが云ふ事斗り 嘸待兼てござるで有ろ 源蔵夫婦が参りしt
誰(たそ)奥へおしらせ申しや サア二人共に顔も上げ近ふよりや ハアテ
遠慮には及ばぬ近ふ/\ 年月の浪人住居(ずまひ) 渡世が苦に成ったか
昔の面かげどこへやら 源蔵が着て居やるは荒々敷下々の
着る物 戸浪は夫れに引かへて小袖の縫箔遉に女子の嗜みか
二人の中に子も出来たかと問はれて戸浪は有りがた涙 冥加至
極もないお詞 主人のお目をくらませし罰の当たって苦労の

世渡り 夫婦が着がへも一つ売り二つも三つも朝夕の煙の代(しろ)に
成りはてし漸残せし此小袖は 御台様の下されし御恩を忘れぬ
売り残り 髪の錺(かざり)の鼈甲もいつかは梼(いす)の引櫛とかはり果てたる友?(かせぎ)
連れ合は布子の上 糊立たぬ麻上下もけふ一日の損稜借り アゝおはもじ
お上に御存じない事迄 身の恥顕す錆刀 今日迄人手に渡さぬ武士
の冥加 アイ女房か申し上げます通り 此ざまに成りさがれば 一入昔の不義放
埓 思ひ返せば主人の罰悔むに詮方なき仕合と 夫婦諸共おろ/\
涙 折から局は奥より立出 お学問所へ召しますは源蔵殿只一人 御用


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済んでお手の鳴る迄 御台様にもお出はならぬとの仰せられでござり
ます 成程/\心得た 源蔵は局と同道 戸浪はこちへと入給ふ 只今
御前へ召出さるゝ源蔵が身の嬉しさこはさ 局は斯くと申上げ立てたる
障子明け渡せば 恭しく注連引栄(は)え 常にかはりし白木の机 欣然として
座し給ふ 凡人ならざる御有様う 怖れ敬ふ源蔵が 五体の汗は布子を
通し肩衣絞る斗りなり やや有て仰せには 去りがたき子細有って汝が行家を
尋ねしに 住所さだかならず 漸きのふ在家を求め 今の対面満足せり
其方義は幼少より我が膝元に奉公し 天性好いたる筆の道 好くに上り習ふに

覚へ 古き弟子共追抜遖手書に成るべしと 思ひの外に主従の縁迄
切れて其風体 筆取る事も忘れつらんと 仰せに猶も恐れ入り 御返答申す
は憚りながら 前髪立ちの時分よりお傍近ふ召し仕はれ 手を書くことは
藝の司 書けよ習へと御意なされ 御奉公の間々書き覚へたと申すも
慮外 蚯蚓(みみづ)ののたくつた様に書く手でも藝は身を助るとやら 浪人の
業藝(すぎわい)鳴瀧村で子供を集め 手習指南仕り今日迄 夫婦が
命毛筆先に助けられ 清書の直し字毎日書け共上らぬ手跡
御尋ねに預る程身の不器用と御勘当 悔むに詮方なき仕合


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と嘆くをつら/\聞こし召し 子供に指南致すとは 賤しからざる世の営み
筆の冥加芸の徳 申す所に偽りなくば 手跡もかはらじ改むるに及ばね
共 爰にて書かせ道真が所存は後にて云い聞かさん 認(したため)め置いたる真
字と仮字 詩歌を手本に写し見よと 白木の机御手づから
指し寄せ給へばハアはつと先へは出す 後ずさり 志根悪の左中弁
物かげよりずつと出 コリヤ源蔵様子残らずあれから立聞 師匠の
指図は兎も角も 辞退申して出る筈が 両手をついて目をましくし
蟇(ひきがへる)の所作がらするは 出ても見様と思ふ気か夫れはのぶとい叶はぬ事

お馴染と有って忝い 希世様のお詞に一つも違はぬ役に立たず 併し身の分
際を顧みぬ 源蔵めでもござりませぬ 今是にて書けと有るお手本 書いて
能いやら悪いやら 後先の様子も存ぜず 四年次来(このかた)在所住居 くさ墨に三文
筆 書き出し反古(ほうぐ)の裏に書けならば場打ちもせまい 其結構な机に墨筆 大
鷹檀紙の位に負け 一時一点いかな/\ ホゝ能了簡いかぬと知ってなぜ立たぬ
サアそこでござります 御勘当の私 御意にあまへた身の願ひ おとり
なし頼み上げまする ムウ夫れで聞へた 詫言はしてやろが今は成らぬ といふ其子細
引っつまんで咄して聞けふ 此度帝の仰せには 存命不定の世の中 生死の道


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には老若差別はなけれ共 マア年寄から死ぬるが順道 管丞相は当年
五十二 天命を知るといふ 齢(よわひ)も過ぎ寄る年を惜しませ給ひ 唐迄誉る菅原の
一流 是を伝授の弟子もなし 一代切りで絶やすは残念 手を選んで伝授せい
と 勅諚で七日の齋(ものいみ)殊の外お取込み事済んでから願ふてやろ ハア様子段々承れば
御大慶な勅諚 サア其勅諚も大慶も知れた事云ず共 早々帰れとせち立る
イヤ立つな源蔵 云付けた手本只今書けと 仰せは武部が身の大慶 希世は
偏執むしやくしや腹 立寄り源蔵睨み付け わりや兄弟子に遠慮もせず
書かふと思ふて出しやばるか ホゝお笑ひ有っても恥しからず 御免なれと机に

かゝり 手本を取て押戴き 心臆せず摺る墨の 色も匂ひも芳しき 筆の
冥加ぞ有りがたき 希世傍へすり寄って わが様な横着者は手本の上を透き写し
其手目は身がさせぬ 恥と天窓(あたま)はかき次第 身のざまの恥つらわりや何共
思はぬか どてらの上に汚れ袴 机に直ているざまは 貧乏寺の溝中奉加
場の帳付けに其儘 無縁法界を書くなよと 悪口さら/\云ちらし 怪我の
ふりにて机を動かし 肘に障つて邪魔するも構はず咎めず手本の詩歌 心
よく書き課(おふ)せ付く絵も供に御前に直ししさつて頭をさげ居たる 丞相清書を
取上給ひ (※)鑚沙草只三分斗 跨樹霞終半断餘 是は我が作れる詩(からうた)
(※いさごをきるくさはたゞさんぶばかり きにまたがるかすみわづかにはんだんあまり)


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きのふこそ 年は暮しか春霞 春日の山に早立ちにけり 是は又人丸の詠
歌 いづれも早春の心を詠み叶へり おあなと云ひ 真字(まなじ)といひ 是に勝れし
手や有らん 出かしたり/\ 惣じて筆の伝授といつぱ 永字八法筆格の
十六点 名を夫々に云ふに及ばず人々のし所 菅原の一流は心を伝ふる神道
伝七日も満る今日只今 神慮にも叶ひし源蔵と御悦びは限りなし ハアゝ有
がたや忝い 筆法御伝授有るからは御勘当も赦され前にかはらぬご主人様 ヤア主人
とは誰を主人伝授は伝授勘当は勘当 格別の沙汰なれば不届き成る汝なれ共
能書なれば捨て置かれず 私の意趣は意趣 筆は筆の道を立る 道真が心

の潔白 叡聞に達しても 依怙とは思し召れまい 希世にも疑はれな 勘当は前の
ごとく主でなし家来でなし 此以後対面叶はじと尖き御声源蔵が肝に焼き鉄(がね)
さゝるゝ心地 道理を分けての御意なれ共伝授は外へ遊ばされ勘当御免と泣き
わふる こりや源蔵が嘆くが道理 勘当を赦されねば伝授しても規模が
ない 彼が願いも希世が望も立つ了簡は 伝授と勘当へ/\にして遣はされ
たら よさそふな物のやうに存じまするといふ折から 当番の諸太夫罷り出
俄かの御用これ有る間只今参内遊ばされよと 瀧口の客人参られしと申し
上げれば御不審顔 七日の齋過ぎる中 御用とは何事 随身仕丁の用意


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せよと装束の 間に入り給ふ 参内と聞こし召し立出給ふ御台所 襠(うちかけ)の下に戸浪を
押隠し人目包みも余所ながら お顔をせめて拝ませんと心遣ひは希世が手
前 伝授の様子承られば お前には残り多からふ 仕合は源蔵去ながら 御勘
当は赦(ゆり)ぬげな 館の出入りもけふ限りかなたこなたを思ひやり 御参内を見
送りがてら 夫れで/\と裲襠の下をしらする御目づかひ 夫婦は重々お情けの
身にしみ渡る忝涙 束帯気高き管丞相 一間の内より立出給ひ 神
道泌文の伝授の一巻源蔵に賜はりける 当座の面目御流儀末世
に伝へる寺小屋の敬ひ申し奉る因縁斯くとぞしられける サア伝授済む

からは対面是迄 罷り帰れ立てよ/\と頻りの御諚 コリヤ源蔵 吼え顔(づら)かいても
もふ叶はぬ 腰が抜けて得立たずば 引ずり出さんと立て寄る希世 のふあらけなく
仕給ふな 三世の縁の切れ目じや物 立ぬも理り嘆くも道理涙とゞめて
御暇乞い 見奉れとかい取りの裾(つま)より覗かす戸浪が顔 夫れぞと推(すい)し給へども
しらず顔にて立ち出給ふ 何として召されたる御冠の自ら 落るを御手にうけ
留め給ひ 物にも障らず脱いだるは ハアはつと斗りに御気がゝり イヤ夫れは源蔵が願い
叶はず落涙致す 落は落つると読むなれば其験でかなイヤ/\左(さ)にてはよも
有らじ 参内の後知る事 源蔵早々帰されよと冠正して 参内有る 希世は


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こは/\御見送り 御勘当の身の悲しさは 行くにも行かれず延び上がり見やり 見送る
御後ろかげ 御簾にさへられ衝立の邪魔になるのも天罰と 五体を投げ伏し
男泣き 戸浪が悔みは夫の百倍 こなたは御前のお詞かゝり 直にお顔を見さ
しやつた わしは漸御台様の後ろに隠れてあんじりと お顔も拝まぬ女房
の心 思ひやつて下されぬまんがちな一人泣くも同じ科でもこなたは仕合せ
女子罪が深いといふどふした謂れでなぜ深い どんな女子に生まれしと 御台の
お傍も憚りなく果てし 涙ぞいぢらし 希世のさ/\立ち戻り ヤア源蔵を帰
されぬは御台所御油断/\ 一刻も早くぼいまくれと 重ねて仰せつけ

られたそこを少し身が了簡 其かはりに御伝授の巻物 読んで見る望みはない
筆の冥加にあやかる為 ちよと戴かしてくれんかと 望むに是非なく懐より
取出すを引ったくり逸(いち)足出して逃げ行くを どつこいゆあらぬと源蔵がほつかけぼつ詰め
襟髪掴み 引ずり戻してかつぎ投げ 大の男に一泡ふかせ伝授の一巻取返し 是
を己れが引っかけふで直垂の羽繕ひ 晝鳶(ひるとんび)の兀頂(こうちやう)め びく共せば打殺すと 刀四五
寸抜きかくる コリヤ源蔵聊爾すな 戸浪過ちさするなとお詞かゝれば エゝエゝおのれエゝ
おのれをな 只助くるも残念な 寺小屋が折檻の机はこいつが責め道具 女房こゝへと
取るより早く背中に机大げなし 両手を引つぱる机の足 装束の紐引っしごきがんぢ


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がらみにくゝり付け 盗むひろいだ師匠の躾しつぺいのかはり扇の親骨つらふ
見せしめひり付かせんと打立/\ 突飛せば痛さも無念も命のかはり恥を背負ふ
てかへりける 源蔵夫婦手をつかへ禁裏の様子承り帰りたく存ずれ供長居は恐れ
御台様の上ながら夫婦か事 お捨てなされて下さりますな ヲゝ夫れは心得たが 今
行くといふを聞き捨てに せめて一夜と云れもせぬ命が物種縁も尽きずは又逢ふ
モウ行きやるか アイアイ参りませねば成りませぬてござりますと戸浪が涙長汐に
かはく 間もなき袖の海 見るめいぢらし夫婦が姿泣々 御門を