玉藻前曦袂 五段目 那須野の原の段

 

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     ニ10-01240


85左頁   
 那須野の原の段     勇立那須野が原へと 「たつか弓
去程に三浦之助義明和佐野助広常 狩装束の花やかに 勅命を頭(かうべ)にいたゞき 数
多の官軍引連れて 那須野が原の四面をかこませ 草をわかつて狩立る されば金毛
九尾の狐神通自在の猛獣なれ共 獅子王の威徳にくじかれて其身を何と那須
野の原 忍び隠るゝ 隈もなく顕れ出れば三浦之助 弓と矢つがひ切て放す 矢咲は
野干のめがらへぬけ とふど倒るゝ其隙に 上総之助が手鉾にえ 咽をぐさと突通せば あつ
と叫びて忽ちに 多年の妖魔も徒に 那須野の露ときへ失せたり 両将悦び勇み立ち 野干亡し


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此上は片時も早く上洛し 帝へ奏問なすべしと 勝鬨上て凱旋し誉を 世々に「残しける
那須野が原にたつ石の/\ 苔に朽ちにし跡迄の 残れる念ぞ恐ろしき 抑(そも/\)
殺生石と云は さいつ頃三浦上総の両助が 勅命によつて退治せし 三
国伝来の狐爰に討れし其怨念 石と変じて仇をなす 近付く 人はもとよりも
地を走る獣も 空飛ぶ鳥の 翅(つばさ)迄忽ち爰に 倒れ伏す 其骸骨は
うづ高く 血汐流れて池となり 肉はつもりて岡と成 地獄のさまも
斯くやらん されば玄翁法師迚身を雲水の沙門有 俗性矢田の大六と

と故有る武士にて有けるが 親族の別れより釈門に入て諸国修行し
殺生石を教化(きやうげ)せんと爰に来つて石に向ひ さとし給ふぞ殊勝也
木石心なしと申せ共 草木国土悉皆成仏と聞時は又仏体なり
汝元来殺生石 何れの所より来り今生斯くの如くなる きう/\にされ/\と
払子(ほつす)を以て打給へはふしぎや忽ち石中に声有て 石に精有 水に音(おん)有 風
は太虚に渡る 形は亡び失たれ共魂残す我こそ 三国伝来の狐なり
爰に亡びし一念の 人を取事数多なれ共 今あひがたき御法を請 悪年


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忽ち発起せり 只願はくは今よりは 稲荷の神(しん)とあがめ給はば 五穀成
就守るべし 返す/\も御僧の御法を願ひ奉ると くれ/\頼む石
魂(せつこん)に 玄翁法師歓喜有善哉(よきかな)/\汝が発起 悪念消滅する上
は望にまかせ得さすべし 成仏せよと教化してみちびくのりの
御誓ひ やくそくかたき一念の 石をくだきし玄翁の智
識の徳はいちじるく 末の世迄もあつまぢの 那須野が
原に名をのこす 殺生石の因縁を語りつたへて久しけれ