玉藻前曦袂 初段 蘭亭宮の段 

 

読んだ本 http://www.enpaku.waseda.ac.jp/db/index.html
     ニ10-01240

 

7 右頁
    蘭亭宮の段    くもらぬ鏡浄はりのていや 臺へと「行空や
般若波羅密普門品陀羅尼真言 称名の 御法の声ぞ喧し南天竺の天羅国
班足王が都の構へ 蘭亭耶の樓(たかどの)に 寄つどひたる官女共 ナント林如呂婦(りんによろふ)此天

竺は暖かで秋冬しらぬお庭の詠め 伽羅たがやさんの花盛り 蛇我?八汐の寶
出来る 見事な事じやないかいの ヲゝあんたら女(によ)のいやる通り お花畠は牡丹蓮花
まんしゆしやけ迄花か咲 麒麟客や娑南天山に鳳凰孔雀迦陵頻(かれうびん)が囀(さへつ)る
声を聞時は 外へ出たい気はとんとない それに又大王様花陽夫人様といふお后がお出
なされて 皇后の采姫(さいき)夫人様はおいとしいじやないかいの 花陽の御殿へ這入つて
数多の天人を集めて 舞子にして鑼(どら)にやう鉢で大騒ぎ 御酒宴の肴には
人魚のさし身蛇(じや)の鮓やの猩々のかば焼でも 何でもあなたが望次第


8
結構な身じや有まいか さればいのそふしてあの花陽様はうつくしい顔に似合ぬ
弓射る事が大お上手 それ故大王様と連立て毎日/\の野山猟 殺生するが
お好といふは うはつたくせが有物じや サアそれに引かへ 采姫様 お慈悲深ふて信
心者 大王様へ願ふて千人の坊様達を呼で 仏事供養有がたそふな事で有
たに 花陽様のお差図で こちらが様なうつくし者をけんたんの様に身じまひさせ
酒や肴を運ばして 色で仕かけて堕落され それを科に坊様達 獅子の餌食喰し
たは いぢらしいじやないかいの そりやそふ思やる筈の事 わかみも其時坊

様に 喰したのじや有ふがの 何のまあそんな事 したが日本では坊様の女房に
成と大黒といふげなが 天竺では何といふぞいの さればそなたの顔付ほうのふく
れたおた福神 弁財天共いをかいのふと とつと笑ふは異国でも 糠の崩るゝ病
なし 実に諺に人事の もれてかしこに聞へけん 錦の帳(とばり)をしぼらせて奥の殿より采
姫夫人 羅稜(られう)の袂かき合せしとやかに出給ひ ノウ女子共あれにて聞ばはしたない花
陽夫人の噂我君のお耳に入ば 目がいはすかと おさげしみも恥しい 必ず沙汰を仕やん
なや そなた衆も知通り花陽夫人のさかしら云 仏道を信する輩(ともから)は悉多太


9
子に一味して 謀叛と云立百ヶ国の主達を悉く擒(とりこ)となし一つ所に押込でアレ
あの如く同音に 御経読誦唱名の声を聞にも御怒り 近い内には首を討花陽
夫人を慰めんと 無理非道なる御仕置 いかなる天魔の見入ぞや 浅ましの御心と
世を恨たる御嘆 お道理様やく林如呂婦 案陀羅たらと供涙 飯な(糸へんに亞)脚布(きやうふ)の袖袂
すゝり上るぞ殊勝なり 折から御門さゝめきて 岳を奏する管弦の音 あれ我君
の早還御(くはんぎよ) 皆出迎やとのたまへは はつといらへて官女達階(おばしま)近く立出て還御
今やと恐れ入待間程なく庭上に 大王の威を耀し 瓔珞(ようらく)かけし絹笠を官人にさし

かけさせ 印子(いんす)の 天冠蛇形(てんぐはんじやぎやう)の御衣 跡に引出す大象の 背(せな)の屋形を輿車花
陽夫人を乗せ奉り 警固の 穏風遍比留(おんふうひつぴる)大臣 跡阿鼻の侍 車加多羅梵 其
外官人従へて 御猟(みかり)の場所より還御有有り 常の御座に入給へば 彩姫夫人はしとやかに
今日はお早い御還御 さぞお労(つかれ)とのたまへば 大王機嫌うるはしく 何の/\花陽夫人
を慰めんと毎日/\遊参山猟 此程は彼の普明長者が領分 きやつは慈悲心深く
殺生を禁ずる故 禽獣多く集むると聞 浄破璃国を猟せし所 思ひの外に
大きな得物 麒麟唐獅子一角(うにこる)鳳凰孔雀駝鳥なんどさま/\゛の鳥獣(けだもの) 花陽


10
夫人が懸香の料とて麝香猫(めう)を狩出せしにすつきり批枋(?ひほう)の偽物斗 いらぬ
殺生した事じや 又明日から流砂川の川伝に鯉鮒鱸?(しゃちほこ)なんど気をかへて楽し
まんと 聞もうるさき采姫夫人 大王の傍にすゝみ寄 申も恐れ有ながら此天竺は
私の国 仏法を立て政を納め無常をしめす国の風 君も伝心有けるがいつの
頃より花陽殿にすゝめられ 仏を嫌ひ殺生を好み 罪なき者を害し給ふ其恨の
積りなば 終には此国亡び失せ来世は必ず 無間地獄に落給はん 御心を入かへ花陽
殿を退けて 御身を全ふなし給へと 涙と供にかきくどき 夫を思ひ世を思ふ 貞女の

道は唐倭(からやまと) 天竺迚もかはらざる 操の程こそ有がたき 御輿の内より花陽夫人 采姫
か諌めをとつくと聞き 官人に助られ しづ/\おり立傍近く 面に怒りの色を顕はし 最前
よりあれにて聞ば 事おかしき后のお詞 そふおつしやる仏法程 国に害有る物はなし アノ
釈迦といふ摩迦多国 浄梵の一子にて 仏法修行と偽り ?鷲山(りやうじゆせん)にかたらひ 謀
叛を工む謀(はかりこと)イヤそりやそなたのさかしら云(ごと) 勿体なくも釈尊は王位を捨 妻子を
捨寶をなげうつ生き仏 それをさみするそなたは外道 イヤそもじこそ謀反の荷擔人(かたうど)
イヤそなたが イヤそもじがと 互につのめ争ひに 大王大きに怒らせ給ひ ヤアにつくき采姫が


11
諫言立 引立よと綸言に 大臣官女押隔て 双方なだむる折しも有 普明長者
参内と 呼はる声に班足大王 それ待かねし普明長者 必ずぬかるな者共と 下知に従ひ
官人共 参内今やと待もふけ心をくはりひかへ居る 程なく階下に入来るは亭耶臺
の城主普明長者仁義を守る正直の頭にいたゝく輪巾に 衣服の華美は好
まねど 自然と顕はす優美の骨柄 大王眼下に見下し給ひいかに普明 汝我
属国を領しながら 悉多太子に心を合せ 此天羅国を傾けんと謀る趣き 班足とく
より悟り知 政事を談ずると偽り招き寄しは 事の実否を糺さん為 返答有

やと居尺高 普明ちつ共恐れず コハ思ひがけなき御詞 我国数代君に属し いかでか
謀叛なすべきや 御身此程より花陽を宮中に招き入 后方は打捨かれが詞に付き 百ヶ国の
王を擒となし仏道を忌嫌ひ 千人の僧をとらへ柵(しがらみ)の内に追込 獅子をもつて噛殺
させ 罪なき者を斬害し 鳥獣(けだもの)に及ぶ迄命(めい)を断つ事を好み給ふ 某とくより見聞しゆへ 一
命をなげ打て御諫言をなさん為 恐れず参内致したり かゝる悪行を重ね仏国の王
といはんや 何とぞ御心を本心にかへし給はれ あをき願はくは花陽を退け 殺生を捨て慈
悲を心得国家を治め 太平の基(もとい)となし給ふべしと涙を流し諌めける 采姫夫人も


12
力を得て 今の長者の諫言を 道理と思し召ならは 御心を和らげて仏を信じ給はれと 君を思ひ
貞節に 花陽は怒りの顔色かはり 后といひ普明が詞 両人互に心を合せ 君を仏道
に落し入れ国を奪はん謀 必油断仕給ふなと 飽迄すゝむる佞奸邪智 こらへぬ普明
くつとせき上 ヤアにつくき淫婦が其一言 だまれやつとねめ付る 威有て猛(たけ)に眼の光り
大将憤怒の相をあらはし ヤアだまれ長者 朕同然の花陽に雑言重ね/\慮外
の汝 我目通りは相叶はぬ ヤア/\者共彼を獄屋へ引立よ早く/\と下知すれば はつとこたへて
官人共鉾先揃へ立出て 普明立やれと罵れは かんらからと打笑ひ ヤア小ざかしき下

官原 君に諫言仕抜く迄 此御殿は動かぬ某 手向ひなさば手は見せぬ 獄屋抔(など)
とは事おかしい サ案内せよと先に立ち 恐れぬ勇気とまどはぬ智者取かこまれて入に
けり 大王重ねてこりや采姫 朕が数年の恩義を忘れ 普明長者と心を合せ
此一城を傾けんと謀りし段奇怪至極 其罪科には兼て聞及ぶ 花陽が手並の弓矢を
もつて汝が両眼耳口を的にして 射芸の程を試みんと 悪逆不道の綸言を 采姫夫人は
恨しげに エゝ曲もない我君の仰 さら/\悋気妬みにあらず 忠臣の諌めを用ひず 非義非道
の思し召し 人の恨みの積りなば御身の大事と成やせん 情なのお心と 其身おしまぬ夫マ思ひこと


13
わりせめてあはれなり 班足いかりの大音上 ヤア詞をかへすにつくき女
ソレ逼比留きやつを奥庭へ引立 樹木のもとにつなぎ置け はつと
斗りに逼比留大臣いたはしながら引立しは 地獄に絵書く牛頭馬頭の
呵責もかくやとしられける かゝる折しも城外に勝鬨あぐる金
鼓の音 大将あはやと見給ふ所に 蛇形の大籏数多の鉾先 打ち
取る首をつらぬき/\ 追々かけ入諸軍勢 まつさきに於弥加羅品(おやからぽん)
主君の前につゝしんで されば此度仰を請 摩加多国に向ひし所 釈迦に

一味の五百羅漢 其外数万の仏者共 百里四面の釈迦堂に立こもり
軒に三筋の通り町八日市まで砦をかまへ 事厳重に見へたれば 力
ぜめには叶はじと彼の天竺の横町から 不意を打てせめ入れば 茶善六昆
逼得権 釼をふつて切て出爰をせんと戦ひしが 廿余王が首討
取 只今凱陣仕ると息つぎあへず 訴ふれば大将大きに喜悦有
て ホゝ遖/\汝がはたらき 恩賞沙汰は追っての事 此上は擒となし置たる
百王共が首をはねさせ 花陽が心なぐさめん 夫人来れと手を


14
引て別殿さして入たまへば 諸軍もおの/\いさみ立 凱歌をおさめしづ
/\と陣所へこそは 別れ入 蘭亭宮の南面に樹木しけれる築山      ←
の 下はぼたんの花ざかり しぼむ姿の采姫女 きのふまでは金殿の臺(うてな)
の上にかしづかれ 今は素足と白砂も無実の罪に身を沈め 見る目
いぶせきしばり縄 官人共に引立られ しほ/\゛として出給ふ 情用捨
もあらけなく 庭木のもとにからめ置き 我君の仰花陽様のお差
図なれは是非がない エゝマ笑止な事といひ捨てて かしこにこそはあ

ゆみゆく 跡に采姫はつながれし 縄目のかづら打しほれ 最後を待つ
間のはかなさは 今ぞ此世の名残ぞと 口に念仏をとなへしはあはれ
なりける次第なり 霊明殿の樓(たかとの)には 班足王を慰みに楽を奏する
笛の音や 琵琶のしらべのおもしろき 木戸愛楽はさま/\゛に 爰ぞ
生死(しゃうし)のさかいとて 百王達は獄屋の内 来世を願ふ経文をとなふる
声のかまびすしこなたもやう/\涙をはらひ アレ樓には音楽
の最中 笛太鼓の聞納め アノほんに思へは身程 因果な者が世に


15
有か 社逹王の娘とうまれ 天羅国の后となり 月の御遊(きよゆう)
や花の宴君と諸共たのしみて 夜のふすまのむつごとに水
も漏さぬえにしをば 月にむらくも花に風いつしかかはる一人
寝に こがるゝ胸もおししつめねたみ心はなきものを 年月
なじみし我君が妾(しやう)が命を断てよとは あんまりむごい胴欲な 聞へ
ませぬとうらみわび 身をもだゆればちる花の 空にしら
れぬ雲見ぐさ むらさめしきる血のなみだ きへ入ばかり

に泣しづむ 早刑罰の刻限と官人どもは用意をなし 鉾
短剣をぬきもつて 庭上に居ならべば 大王さきに花陽夫
人 弓と矢たづさへ立出て いやのふ采姫どの御身つね
/\゛みづからをにらみたる うらみの一ト矢思ひ知りや イヤサ其
方をしりぞけよといふたる口 咽の穴から射てしまへ イエ/\
それよりは仏の道 聞込だ耳の穴いつれが先に射通
さんと あざける詞に顔を上げ エゝどうよくな事ばかりりん気


16
妬は有るならひ あられもない姫ごぜの弓矢の道の心見に的にせんとは
何事ぞ うらめしい心やと嘆く涙に下官共 御いたはしやと斗に
て 供に心をしほれける 花陽は妬み恨みの一矢ねらひすませし向ふより さつ
と吹来る風につれ 其たけ丈余の大の獅子 真一文字に飛来る 遉
の花陽も恐れをなし御殿をさして逃入れば官人共は只うろ/\ 獅
子は采姫のいましめ噛切 よはごしどふど引くはへ 林の中にかけ入たり
大王大きに怒りをなし 合点の行ぬあの獅子は いづくより入たるぞ ヤア/\

者共アレ生捕 はつとこたへて下官共めい/\鉾剱鉦太鼓上を下へと 騒ぎけり
夫人を助け広庭よりいつさんに走りきて 谷にかけたる石橋の半ばに立たる件の獅子
文殊浄土の石橋も斯やと斗いさましし 官人皆々鉾手鑓割竹にて追い
廻せば 飛付/\噛切られあると叫びてたをれ伏 深手を負て逃るも有り
算を乱せし有様なり 班足大王飛で出 ヤア小ざかしき畜生め 手捕にせんと追い
廻る 花陽夫人樓より王の働き獅子のふるまい 目ばなしもせず見物す 大王
は大手をひろげ むんずと組めばふりはなし むかふてくるを左右にかはし 難なく足下


17
に踏付くれば あやしや振動稲光り 獅子のかたちはきへ失て 釼
と変じかたへなる樹木の枝にとゞまりける 始終の様子を花陽夫
人 窺ひ見たるこなたより ヤレ我君驚き給ふな其子細申上んと 采
姫后を伴ひて しづ/\出る普明長者 今の獅子こそ某が家に
伝はる獅子王と申す名剣 宝の徳によつてコレアノ婬婦が正体を 只今顕はし
御覧に入んと 釼を取って抜放せば あつと一声大きに叫び 丹花の唇
耳迄さけ 九つの尾を振立し 狐のかたち忽ちに東の空へ飛去ったり アレ見給ひしか御

大将 いつそや我本国にて出合しあやしのもの 正しくかれと我黒星 后と
変ぜし婬婦は亡び失せたり 我君 百王方を助け仏を信じ給ふかと 忠義
の詞に班足王 ハアゝ誤つたり/\ 我れ天羅国の王ながら 老狐としらず
きやつが心にまどはされ 其方が忠義采姫が貞節 諌めの詞を用ひずして
百王を害せんとせしわが誤り 剰さへ罪なき千人の僧侶迄 悪獣の為
に失ひし仏の御罰(ばち)請んは恐れ 今より釈尊のおしへを受 仏の道に入る
べしと 悪につよき善道にかしこき智恵の文殊の導き さとり給ひし


18
大将は 実に一城の御あるじ 普明長者もいさみをなし ホゝゝあつぱれ/\
君釈門に入たまはば臣本国に立帰り 南天竺を守護なさん 后
は宮中立ち給へとすゝめる詞に采姫の方 君に名残りはおしどりの 狩
にとらるゝわらはが命 ふしぎの奇瑞に助かりしも これ皆
御釼の御徳とよろこぶも又わかれのなみた せめてしはしと
引とむるを 其手をはらつて御大将 鷲のお山と浄はりへわか
れ 別るゝ法(のり)の道 衆生をてらす月の国代々に さかへぞ「有がたき