玉藻前曦袂 二段目 妲己入内の段 太公望漁の段 

 

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     ニ10-01240

 

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 是より唐土 第弐 妲己入内の段
爰にたに見ぬ唐土の末広く千里の原も広々(かう/\)と 錦織なす道野辺の草踏分て数多の
官人綺羅を飾りし御輦(みてくるま) 恩州の津にさしかゝられは警固の役人下部に向ひ 此度主人貴国公
紂王の仰によつて姫君妲己を入内の道筋 此行先は童貞郡暫く是にて休息せよと
指図に従ひ車をとゞめ 暫しは息をつき居たる 時しも一天かき曇り 車軸を流すはやち風 空に
稲妻大はたくがみ 恐れおのゝく雑人原 狼狽騒ぐ其隙に いづくよりかは年経る野干真一文字にかけ
来り 車の内へ入よと見へし あつと叫ぶは女の声 妖魔の見入ぞ恐ろしき 警固は何の気も付ず


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下部を制してコリヤ/\者共 大切な姫君に誤ち有りては云訳なし 早旅宿へも程近ければ 急げ
/\の下知に連 又轟かす小車の 音も深山に谺して樹木をならす追風や道を 早めて     
 太公望漁の段                                       
曲る世に 曲らぬ針も己が儘 心も清き水上は ?(ばん)渓谷の岸口に 容貌活面異相の老人 石上に
座をしめて うきふし込めし釣竿も好める道の一釣竿 余念は更に 見へざりき濱風に 通ふ千鳥
の声ならで 芦かき分けて西伯文王 雷辰一人引連て?水(いすい)の岸に立休らひ ノウ/\漁人物問ん
此蟠渓(はんけい)の草爐(そうろ)の中に 呂尚(りよしやう)といへる人有らば教へてたべと有けれ共 只一つ心に釣竿も 悠々たる頭を

もたげ 夫乾坤(けんこん)は大極より發つて宇宙を生(しやう)す湯(たう)王廿八代の主殷の紂王 聡明叡智の明王
なりしに 妲己が色に心乱れ 忠臣義士を追い失ひ 民百姓を斬害して 国正に亡びんとする我
陰国の乱を避け只雲水に心澄し 世の塵埃(じんあい)を断ちし身に ハテ忌はしき問答やと さも不興
げににべもなき 雷辰は声あらゝげ ヤア推参なる耄(おいぼれ)め 此御方を誰とか思ふ 忝くも西
伯迚西国の奥大名 心に望有ばこそ馬車にも召されずして 此海辺(かいへん)を吟(さまよ)ひ給ふに 土辺に
すさつてかつつくばい三拝はひとがいで 出るまゝの雑言過言 雲雀骨をめつき/\へし折てく
れんずと 勢ひかゝるをはつたとねめ付 ヤア尾籠也雷震 賢者に向ふてぶ礼至極すさ


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りおらふと叱り付礼義正しく文王は 漁人に向ひ頭を下げ ハア誠や名王は光を覆ふと 天をたて
にし地を緯(?ぬさ)にする才有て 百万の強敵も掌(たなごゝろ)に取りひしぐ太公望と見しはひが目か 足
下の今の一言にて明徳爰に顕はれたり 我こそ岐州西伯なり何卒貴君我国に来り
仁義五常を垂給ひ又一つには四方の夷敵を退け 国泰平の基ひと成る教を示し
下さらば此上も候はず偏に頼み奉ると身を謙(へりくだ)り詞を崇め 真砂に額を摺付け
/\ 君子をなづくる良将の 其功(いさほ)しぞ類ひなき 様子を見聞く血気の雷震 思はずしら
ず高笑ひ ハゝゝゝ鶏を裂く牛の刀を用ゆるとやら 死損いの白髪親仁に丁寧過ぎ

た御挨拶 最前から見ておれば 釣針を曲げもせず餌もさゝずに魚を釣るとは 此の広い唐土にも
今一人とない大たはけと嘲る詞耳にもかけず 一心不乱にこなたの漁人 慥に手ごたへ釣上しは 尺余に
餘る白魚の勢ひ 呆れる雷震文王も奇意の思ひをなし給ふ 漁人は白魚を両手に
さゝげ今若者が難ぜしごとく魚鼈(ぎよべつ)の類ひを釣るに有ず 只王公を釣んとする 時成かな今日
只今文王我を招き給ふ 折しも釣得し此白魚は 我を導く天の賜 ハアゝ有がたし/\と 魚を海?(?あじろ)
に取納め 文王の前に謹んで 某不才成といへ共天の助る名君に仕へ 草炉を三度顧る
大恩報ぜずは有べからず 紂王猥(みだり)に人を損ひ百姓塗炭に落入ったり 今より君と心を合せ御


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代泰平になさん事 我か方寸の内に有り少しも気遣ひし給ふなと 詞すゞしく老眼の 瞳も威
有て猛からず 殷の妲己を亡せし 寶同室の大元帥と美名は代々に芳しき文王エ悦喜の面
色にて ホヲゝゝゝ頼もしし/\ 足下を得たるは潜龍の淵に出たる悦びぞや 我が領内に程近ければ是より
直ぐに同道せん ヤア雷震輿車の用意せよ 早く/\と有ければ 太公望暫しととゞめ 某齢(よはい)
八十に余つて 無益の殺生何かせん 易の開運時至らば再び奇瑞を顕はせよと 以前
の白魚を海中へ放せば 尾をふり鰭をふり八重の汐路を游ぎ行 こなたは主従水魚の因み
勇有雷震仁ある西伯 浪のひゞきや真砂地を打連てこそ「帰りける