玉藻前曦袂 二段目 紂王御殿の段

 

f:id:tiiibikuro:20170918183220j:plain

 

 

 

読んだ本 http://www.enpaku.waseda.ac.jp/db/index.html

     ニ10-01240

 


21左頁
  紂王御殿の段
刑山の鼠虫金器の内に修行すれば 玉石供に亡ぶとかや いたむべし殷の紂王 皇妃妲
己が色香に迷ひ 日夜につのる観楽は 罪なき者を無成敗 戸壇の拵へ首溜り 堀かへ
す代ぞ是非もなき 手で鋤鍬下官共 一つ所に寄こぞり ナント丹なつどふ思やる アノ妲己様が
ごさつてから 王様のお心がめつきり荒く成 巻々の御家来衆 比干様や箕子様始め めつたやた
らにぶち殺し 胴がらは魚の餌食に成かして 蓮池は血の池 サレバイノ 今も今迚御門へ出りや
料理しらるゝ百姓共が 何がいやが上に重なり合 彼泥亀(すつほん)屋同前 其下へは這入り 其下へはくゞり

 


22
御門の内へ這入るまいとするいぢらしさ ほんに目も当てらるゝ事じやないかいの サア其泥亀
突きはといへばアノ意地わるの飛仲官 頬(つら)付なら根性なら 悉皆是じやアゝコリヤめつたな
事いふな あれ/\あそこへ出て来たぞ 鬼のこぬ間に洗足せふ ぶかん/\と下官共 お次へ
こそは逃て入 折しも妻戸押明て 高禄太夫飛仲官 出頭の鼻高々と 御階(はし)の元
に歩み来る 検非違使の官人罷り出 今日の罪人は洛陽の百姓共 早先逹て使(し)の
廰へぼつ込置く いがゞ斗ひ申さんやと窺へば ホゝ成程/\ 見分は某が役目 早く是へ引立来
れ はつと官人かしこに向ひ ヤア/\洛陽の百姓めらを 残らず是への声に連れ 切戸の外より

役人に擲(たゝ)き立られどいや/\ 泣も詫るも聞ばこそ 皆々庭に引すゆる 飛仲官じろり
見やり コリヤヤイ百姓共よつく聞け 今日は帝の御遊御酒宴のお肴に 御前において我達を
一々成敗 天子の慰みに預るは 冥加至極 有難いと悦びおらふと 聞て惣々震ひ
声 アゝ申し/\帝様でも天子様でも 人の命を沢山そふに 酒の肴に成敗とは 余りむごいお
胴欲 お情お慈悲じや拝みますと 皆々一度に手を合せ涙と共に 泣詫る 飛仲官
はつたとねめ付 ヤアごくにも立ぬよまい言 いつ迄云てもモウ叶ぬ 是非がないと諦めて
念仏の一遍も唱へおらふ ソレ罪人めらを皆々くゝし上げい 先ずあの端にをる太り肉(にくじゝ)油ぎつて心地よい


23
そやつ/\の声より早く高手小手 次は痩せたる雲雀骨 差図に取て羽がいじめ そや
つ焼鳥重畳(てう/\゛)/\ 跡はこいつと立かゝる 御赦されてと手を合す 物な云せそきんかん親父
元気(?)よい耄(おいぼれ)め きやつもくゝれに荒しこ共 有無を云せず三寸縄 しばり上たる有様
は 閻魔の廰で罪人の 呵責にあふも斯やらん 飛仲官したり顔 ホゝよいざま/\ コリヤ/\者
共 最早君の還御に程も有まい 縄付きめらを獄へ引け はつとこたへて下官共情け用捨もあらけ
なく 追立られて百姓共 是非無く/\も大理寺の獄屋へこそは入にけり 早還御でと百
官百司 黄羅(くはうら)の玉臺さしかけされ 酒池の御遊は三千年(みちとせ)もさめぬ栄花の花かづら

物いふ花に誘はれ登る「御殿は花清宮(かせいきう) 設けの褥に座し給へば 飛仲官頭を下
某不才成といへ共君の物に心をゆだね 笑みを献し奉らんと 思ひ付たる酒池肉
林のけふの御遊 妻を始め皇妃にも麗しき御尊顔拝し奉り 此上も候はずと おも
ねり詞に殷の紂王 ヲゝ今に始めぬ其方が計らひ 酒は憂ひの玉ばゝきと 汲め共尽きぬ
衆の酒盛 肉の林に舞諷ふ 一節たまらぬ/\ 三千年に一度咲く 桃より希な
美人草 命取めと引寄てもたれかゝりし鬼あざみ 飛らふ姿姫百合の妲己もにつこ
と打えみて ふつゝかな自らが覚ぬ舞もお笑ひ草 只いつ迄もお見捨なふ 必ずやいのと


24
目の内に 通はす心色ふくむ 顔に見とれて現(うつゝ)の紂王 飛仲官図に乗て 是からは后へ
某が御馳走に 百姓めらを料理 ヤア/\官人共 先逹て捕へ置く罪人めら 早く是へ連れ
来れと 云つゝおりる庭先へ ハツトこたへて官人共 早引出す以前の縄付き 土壇の前に引き
すゆれば 紂王ほく/\打ほゝえみ ヲゝ夫レを肴に一献くまん 君が情の色有る盃 いで賞翫と
大盃 心得宮(きう)女が長柄の銚子 つぐ間遅しとずつとほし 肴々と有ければ はつといらへてひら
めく帯剱 大げさに打放せば ハゝゝゝハレよい慰み 是からは二つ胴 朕が手の内心見よと 紅ひ
の裾に短く 御階(みはし)の元におり給ひ 縄付土壇にあも重ね 玉ちるごとき宝剣を切り

柄はめて飛仲県官 恐れ入てさし出せば ヲゝよし/\と尖(するど)き眼中 振上げ給ふと見へけるが 四つに
成って死でけり 斯くと聞くより司徒梅伯(しとばいはく)恐れ並居る官人共 押分け/\紂王の御傍近くさし
寄て どつかと座して涙をうかへ チエゝ情なや我君 皇妃妲己が色に迷ひ 婬酒
の二つに御身を忘れ 罪なき土民を御手討とは シエゝ曲もなき御赤心 終には国家
の滅亡に 成もやせんと嘆はしく 千度百度諌むれ共 一つも御許容あらばこそ 日々に募
れる悪逆非道 先祖の社しよく宗廟の 御怒りはいか斗り 御心をひるがへしとく御本心
に成給へ 改め給へと憚りなく 歯に衣着せぬ忠義の諫言金言耳に逆立つ


25
紂王 ヤア尾籠也梅伯 諌めをいるゝは臣下の役と 云はせて置けば法外の雑言 朕を
侮り寵愛の妲己をさみする不届き者 うぬも一所に釼の錆覚悟致せと振上げ
給ふ 御手を妲己押とゞめ 先々お待下さりませ 君恥しめを受くる時は臣正に死するとやら
君をあざけり自らに仇名を付る不忠義者 諸人の見せしめに 重き苦痛を見せ給へと
すゝめに 紂王打うなづき ホゝ汝が工夫の炮烙火 是究竟の責め道具 ソレ早く/\と
有ければ 下知を伝ふる飛仲官 靍の一ト声椋鳥のむらがる雑人庭より手でに
引き綱車臺 廻る尺余りの銅(あかゞね)筒 中にもへ立つ焔の丸がせ 炎々としてほとばしり さも

すさましき 刑科の備へ 妲己諸臣に打向ひ 此刑具は自らが君をさとせし火刑の一つ 衣紋
をぬがせ此丸がせを抱く時は いかなる強勢勇猛の者成共 火毒に苦しみ立ち所に命を
失ふ 是を君付けて炮烙の刑といふ コリヤ梅伯 汝三寸の舌を以て 命を果す其身の
不覚と 云せも立てずはつたとねめ付け ヤア傾国の色をもつて 君を惑はし忠臣殺害
させ 国家を乱す極悪人 うぬが體を八つ裂にと 御殿を目かけ飛かゝる 向ふへすつく
と飛仲官 あまたの官人追取込 冠装束引きしやなぐりくる/\/\と丸はだか 押立/\火
炮の傍 寄ぞと見へしが苦しみ叫び 虚空を掴み死したるは身の毛もよだつ斗なり 紂


26
王は笑坪(えつぼ)い入り ハレ心地よきくたばりさま 寵愛の妲己を妬み 朕が心に逆らふやつばら
片つはしから此通り ヤア/\飛仲官 先達て?詈(?ゆうり)城へ押込め置たる西伯め 引ずり出して
拷問せよ 是よりは奥殿にて天盃を廻くらさん 皆々来れと入給へば はつと各々警蹕(けいひつ)
の 袖かき合す禁闕(きんけつ)に楽の響きや殺伐の声にたぐへて「かまびすし
音に聞 沈香亭と名に高き 華麗をつくす化粧(けはい)殿 裏は?(やさ)しき花園に
今ぞ 牡丹の花盛り むれ飛蝶も猶更に いとゞ詠めも増ぬらん 早たそかれて
木の間もる朧月影窺ひ足 案山子に有らぬ一ト曲者 あやしと跡より打来る

下官曲者 まてと後ろ抱 身をかはし沈んで絹かづき 又組付くをふりほどきぐつと一ト
しめ 絶へ入る死骸かしこへ蹴飛し花園の 繁みにこそは隠れいる 夫故 胸は
千筋の乱れ苧(そ)や 解けぬ思ひの錦糸蓮(れん) 我子の錦舎いざなひてし
ほれ 出たる庭の面 遥かこなたに佇みて お后様へ直々にお願ひの筋有って はる/\゛と
参りし者 たそお取次といふ声の もれ聞へてや一間より 出る妲己は楊柳の 風になや
める其姿 見るよりはつと手をつかへ わらはゝ西伯文王が妻錦糸蓮と申す者
計らずも夫西伯 仇人のさかしら云にて ?詈(?ゆうり)城に檎(とら)はれと成 国に残りし我


27
/\が 憂(うき)を重ぬる此年月 露塵覚へなき事を 御推(すい)もじ遊ばして どふぞお赦し
下さりませ コレ錦舎 ちやつとお願ひ申しやいのと 云教(おし)やればいたいけに 申し
お姫様 とゝ様をお帰しなされて下さりませ と廻らぬ舌もおのづから 虫がしらする
血筋の縁 お慈悲/\と親と子が 瞼にちらす涙の花 払ふ方なき其風情
妲己もしほるゝ顔を上 いづれ高きも賤しきも 夫を思ふは女の情 文王猥(みだ)りに
古易を起し 七年の春秋を経(ふ)るならば 殷の帝亡びんと 妄言をいつて人を欺き
謀叛の企て有りとの風聞 嘘か誠はしらね共 そもじの切なる心を察し 帝様へ能

やうに自らが申し上げ 文王が命は助け帰さん ヤア/\お后 大王の仰によつて 只
今糾明仕ると 声諸共に飛仲官 引立出る西伯の 見る目いぶせき首かせの 苦
痛に絶(たへ)し有様に ノウいとしやと欠寄妻 突退刎退狩人の羅網に苦しむ文
王の えり髪取てぐつとねぢ付儕先年 此洛陽の守護たりし時 罪人武吉
が命を助け 呂尚といへる漁夫を始め 王城の百姓原 我領国へ引入て 殷の帝
を傾ぶけんとする大罪人 すなをでは白状せまい 骨をひしいで云せてくれんと勢ひ
かゝればヤレまて飛仲 文王が謀反の企て是ぞといふ証拠有るか サア其義は 大王


28
の仰は重く自らが詞用ひぬか サア夫レはサア/\/\と問詰られ 一句にぎつちり飛仲
官 頬ふくらして控へ居る 妲己は下部に文王の 首かせ手かせ取捨させ 夫婦に向か
ひ気色を正し 妾深閨に生(おい)立て 軍学歌道は弁へねど 百卒は得安くして
一将は求めがたしと常々父のお物語り モあつたら武士をやみ/\と 責め殺さんも本意
ならねば 文王親子の一命は 妾(せう)めが身にかへ命乞 夫婦も嘸やと情有 詞嬉しく
錦糸蓮 ノウなつかしの我夫と縋り嘆けば稚な子も とゝ様抱いて下されと したふ
妻子に 不便さの浮かふ涙を 押かくし 我在国の折からに 讒者の為にとらはれて

危難に逢へきうらかたをモ思はず得たるは天の告 日月に浮雲(ふうん)あり 人に不時の災ひ
有りと 無実の罪に落入しを 不思議に助ける后のお情 エゝ有難い忝い ヲゝそふ
でござんす共 お前の為には命の親 コレ錦舎 アレあなたへお礼を申しやいのと
母が押やる御階(はし)の元 何のぐはんぜも七つ子が尽す礼儀も愛ざかり 顔に
見とれて テモしほらしいマよい子では有はいの 自らもどふぞしてやらの一人も設けん
と 朝夕祈れど甲斐もなく あやかる為にサア爰へおじや 是はマア/\有難
い今のお詞 コレ錦舎 あなたのお傍へ早ふ行きや テモマ仕合せな子で有ると


29
子に余念なき母親がいざない登る化粧殿 近ふ/\と招き寄せ ドレ/\菓子
を取せんと隠せし短剣抜取影に稚子は 嬶様こはいと逃出す 首筋掴んで
引戻せば コリヤ何事とさゝゆる母 脾腹を丁と霞の当て縁より下へ真っ逆様
得たりと飛仲とびかゝり絶入る妻を三寸縄 かたへの柱に猿繋ぎ 暫く文王
息を詰め様子いかゞと躊躇ふ中 弁へしらぬおさな子はこはい/\と泣叫ぶ 耳にも
かけず忿然と詰にかはる 妲己が面怒りを含む声はげ敷 最前より窺ひ
見るに 文王表に仁義を飾り 内に野心サ疑ひなし コリヤ/\飛仲 彼が虚

実を探るにはナ コレ此?が腹を裂き 肉をあたへて西伯が 善悪邪正(しやしやう)を心見よ
はつと答へて玉床にあらけ泣入錦舎が手足くる/\/\と手ばしかく 始終を見
聞文王は爰ぞ一世の浮沈ぞと 歯をくいしばる其内に 下官に通じ用意の
道具はこぶ 庭先こなたには 息次 返す錦糸蓮 二目とも見も分ず狂
気の如く身をもだへ エゝあんまりじや/\わいのふ 情らしう見せかけて 顔に
似合ぬ鬼后科もない子をむごたらしい殺さにやならぬ訳ならば 母も一所
に殺してと かけ寄らんにもしばり縄 釼逆手に稚子の胸押分けて飛仲官


30
ぐつと突込む血煙に 切るゝ子より見る親は 此世からなる呵責のせめ刀活
紅蓮釼の山剱樹の地獄目のあたり 身も世も有れず母親は かゝるうき
目も前生の報ひか罪か悲しやと大地へどうど伏しまろび心の 限り泣
つくす 哀れを余所に飛仲官 腹十文字にきりあばき 掴み出したるぞうふのしゝ
むら 傍なる器に写し入 文王が前に詰寄て コレサ西伯 紂王の勅諚しや謀叛でなく
ば是喰らへ サア喰らへ/\とさし付くれば ちつ共愁(うれ)ふる色目もなく 普天の下卒土
の濱(ひん) 王土に有ざる所もなし 我れ賤しくも西伯の守りとして 数代恩顧を蒙る

身に何しに異心有べきや 御疑ひをはらす為 たとへ我が子の肉たり共紂王より給はれば
取りも直さず山海の美味珍肴(ちんかう) 辞退致さん様もなし ハアゝ有がたしと押戴き食し
給へば思案の腮(あご)くい違ふたる主従が 互に目と目見合せて呆れ 果て見へける
が 飽迄邪智の飛仲官 よし/\ 此上は手をかへてだいぼんの落し穴 それよ/\と一人云
獄屋をさして入跡に 始終の様子奥の間より窺ひ給ふ殷の紂王 大口明いて高
笑ひムゝハゝゝゝ伝へ聞く 天竺流沙の川上に ?(?こじか)といへる獣住で 水を好んで水面に
立寄共 おのが姿の移るに恐れ 終に渇して我子を喰らひ 其膿血(のうけつ)に咽を


31
潤すまつ其如く愚朦(ぐもう)の西伯 いかに命を惜めば迚 骨肉の倅を殺され
肉を喰らふ大たはけ ハゝゝゝ何事か仕出さん ぶち殺すも釼の穢れ 立去れやつと
ねめ付給へば 妲己いなんで頭をふり 妾聞霊山の雕(くまたか)は 諸鳥をねらふて爪
を隠す 油断ならざる彼が心中 助けかへさば竹林に 虎を放つに異ならず
只此儘にとらへ置き 助命の事は追ての沙汰 何さ/\ 譬へ此場はかへすとも
きやつら二人は籠中(こちう)の鳥 四百余州を放し飼 ヤア/\官人共 西伯夫婦を追い出せ
早く/\と烈しき綸言 夜の御殿(おとゞ)へゆう/\と妲己をいざなひ入給ふ 其間待ち

兼かけ出る雷震蓑笠脱捨錦糸がいましめ とく間遅しと死骸の傍 ノウかはいやと
抱き付きわつと斗に泣しづむ 雷震文王の前に頭をさげ君とらはれ給ひてより 日
夜心を砕く我々 紂王を亡さんと太公望が差図に従ひ 忍んで諸軍を都へ引入
とくより是に忍び居て 始終の様子は承はつた 天地もかへがたき田井節なる若君を
殺害させし妲己が奸計 一ひしぎとは存ぜしかど 君の心をはかり兼 さし控へしその
無念 御推量し給へと 遉名を得し荒者も哀れ催す有様に やゝ黙したる文
王は 子故の闇にかきくれて 洩るる涙を押はらひ 紂王の無道によつて 四百余州


32
の民百姓 親妻子にも引別れ 塗炭に落入る其悲しみ 天にかはつて救はん為 惜
からぬ命をかばひ伜が肉をきつせし時は 恩愛不便の矢先にて 五臓六腑を
貫く心地 其苦しみも四海の為 ヲゝよく死だ出かしたと口に立派目にもるゝ 涙
隠せば錦糸蓮 あへなきからを抱きしめ こんなはかない情ない うき目見る
とは露しらず とゝ様に逢たいとこがれ暮し泣明かす 此子が心のいぢらしさ 一目忍ん
て緑子を杖よ 柱と尋ね来て廻り逢たる甲斐もなふ 罪なき者を胴
欲な 非道の刃にかけるとは何の因果と身をもだげかこち嘆けば文王も こた

へ /\し溜め涙心を察し雷震も 浸す袂の雨やさめ涙は落て焉紅(?おうこう)に春?
じきる沖津浪爰にうつすがごとくなり雷震はつと心付 返らぬ嘆きに
時移りいかなる憂き目も計りがたし 拙者は猶も忍び居て 太公望が寄せ来る時
刻 手筈を合して狼煙をあげん 必ずぬかり給ふなと 勇める詞に打うな
づき 我も是より城外にて呂尚に談じて軍の用意 無益(やく)のくり言見苦しし
早とく/\とすゝめられ 涙と供に亡骸を 野辺の送りと抱き上げ ねぐらへ帰る友
靍の雛は冥途の鳥鐘の声のみ跡になく/\も引別れてぞ出て行


33
時も風に誘はれて貝鐘太鼓乱調に手に取ことく聞へける程も有せず欠
来る官人 広庭に大息つぎ 扨も西軍岐国の兵其勢九三万余騎 此洛
陽を追取巻無二無三に責立る 思ひがけなき警護の友軍うろたへ騒ぐ
其隙に城門近く責入て甚だ危ふく見へ候 早く御加勢下さるべしと云捨てて
こそ引かへす 玉座玉だれ蹴放し/\ ゆるぎ出たる殷の紂王 我王城とも憚
らず乗り込まんとする不敵者 アレぼつちらせと下知の下 はつと答へて飛仲官手勢
引つれかけり行 間もなく込入る寄せ手の元帥 太公望が其出立 南蛮鉄の大

鎧頭に綸巾羽扇をたづさへ 諸軍を励ます勇みの大音 ヤア/\紂王慥に聞け 汝妲己が愛
におぼれ 下モ万民を苦しめ悪逆あげてかぞへがたし 其罪を糺さん為西伯公の命
によつて 太公望が向ふたり覚悟/\と詰かくれば 紂王怒りの髪逆立て ヤア奇怪
なるうづ虫めら 万乗(ばんじやう)の位をふむ朕に向つて慮外の雑言 目に物見せんと帯
たる宝剣 抜くるも有らせず紂王の 胸板打ぬく二つ玉得たりとしげみをかけ出る雷
震 首かき切って大音上 大悪無道の殷の紂王岐国雷震討取れと 下知より


34
早く血気の雷震金殿紫閣をかけ廻る さゝゆる官人片つぱし切立て/\ 「追て行
 楼門の段
やゝ更渡る 夜半の空 星の光もかう/\と いと物凄き場外には 人馬の物音鯨波(ときのこへ) さもすさましく 聞へける
洛陽の高殿にすつくと立たる殷の妲己 篠つく矢石(しせき)を事共せず 袖をはらへば
飛くる矢さき 筈を返して落ちる有さま さしもの西伯諸軍勢 責めあぐんでぞ見へ
にける かゝる所へ太公望仰に従ひ出来る雷震 妲己を見るより眼を光らし 紂王
に悪事をすゝめ数万の人を害せし魔王 目に物見せんと飛かゝる 袖を捉へて

 

太公望 一かたならぬ多年の妖怪 其本身を顕はすには終南山の雲中子が我
にあたへし障魔の名鏡 イデ心見んと錦の袋紐とく/\と取出し 妲己が面テにさし向へば
鏡の光りに恐れけん そゞろ身震ひ忽ちに 芙蓉のまなぢり薄紅梅尺(たけ)なる黒
髪ふり乱し さも苦しげなる声音にて 我天竺天羅国に生を受け 数千年の齢
を保つ白面の狐なり 花陽夫人と身を化して班足王を悩ませしに 普明長者
に妨げられ本意を達せず此土へ帰り 蘇国の妲己が姿をかり 此度国の
人民を亡ぼさんと思ひしに 鏡の威徳に身をせばめられ此儘やみなん事 扨口


35
惜しや無念やと眼を怒らし歯をくいしばり 手足をもだへ苦しみしが あつと一声櫓
よりまつ逆様に落ると見へしが 透さず雷震斧ふり上げ 首をはつしと打落せば 忽ち
四面常闇の吹き来る魔風を飛ばし ふしぎや妲己が屍より 一條の陰気虚
に登ると等しく 金毛九尾の姿をあらはし 東方さして飛去し其古へを仮名書きに
 是より日本 第三 清水寺の段    爰に うつして ひさしけれ

 

三段目 清水寺の段 につづく