壺阪観音霊験記 沢一内の段 壺阪寺の段

 

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読んだ本 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/856507 コマ95表紙

 

 

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96
三十三所 観音霊験記 壺坂寺の段 作者 加古千賀女

夢が浮世か憂き世が  (沢市内の段
ゆめか 夢てふ里に住
ながら 住ば住なる世の
中に よし芦曳(あしびき)の大和

 

 

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97
路や 壺坂の片辺り(ほとり)土
佐町に 沢市という座頭
あり生れ付いたる正直の
琴の稽古や三味線
の 糸より細き身代の

薄き煙りの営みに 妻の
お里は健(まめ)やかに 夫の手
助け賃仕事 つづれさせ
てふ洗濯や 糊かい物を
打ち盤の 音も幽かのくらし

 

 

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98
なり 鳥の声 鐘の音さえ
身にしみて 思い出す程 涙
が先へ落て流るゝ妹背の
川に ヲゝ是は/\沢一様
きふは何と思ふてやら 三味線

出して よい機嫌じやの
ほほ・・ ヲゝお里か そなたアノおれが
三味線弾くを よい機嫌に
見ゆるかや アイナア ハテナア おりや
そんな気じやないわいのふ


99
モウ/\/\気が詰まつて/\ いつそ死ん
でものきふ エエ イヤサアノ死んでは仕舞う
程 気が塞いでならぬわいのう
イヤコレお里 わしやそなたに ちと
尋ねたい事が有る マア/\/\下に

居や/\ ハテ扨下に居やい
のう 外の事でも無いが
いつぞは聞ふ /\と思うて
居た がてうど幸い 光陰
矢の如しとやら 月日の立つは


100
アゝ早い物なア ソレわがみと
おれが コウ一緒に成てから
モウ三年 稚い時より云号(いいなづけ)
互いに心も知つて居るに
マなぜ 其の様に隠しやるぞ

さっぱりと打ち明けて 云て
たもと何所やら濁る詞の
はし お里は更に合点行かず
不審ながらに コレ沢市様
ワリヤお前なにを言わしやんす


101
嫁入りしてから三歳(みとせ)の間
ほんに/\露程も 隠し立て
した事はござんせぬ がそれ
共になんぞまた お気に入
ぬ事有 いうて聞かして下

さんせ 夫レれが夫婦じや
ないかいな ムゝそう云やれば
こつちも言ふ ヲゝ何成とも
云しやんせ ヲゝ云はいでか コリヤ
お里 よふ聞よ 我と夫婦に


102
成て丸三年 毎晩七つから
先 寝所へ手をやっても 終(つい)に
一度も居た事がない ワリャモウ
おれはこの様な目くら 殊に
えらい疱瘡で 見るかげも

ない顔形(かおかたち) どふで我の気
に入らぬは無理ならねど 外に
思ふ男があらば さつぱりと
打明て 云てくれたら此様に
なんの腹を立とふぞい 尤


103
我とおれとは従兄同士(どし) 専
ら人の噂にも アノお里は
美しい/\と モ聞度事に
おれはモウ よふ諦めて居る
程に 悋気は決してせぬぞや

コレどふぞ明かして云てたもと
立派に云へど目にもるゝ
涙呑み込む盲目の 心の
内ぞせつなけれ 聞くにおさ
とは身も世もあられず


104
縋り付て エゝソリヤ胴欲な沢市
様 いかに賤しい私じや迚 現
在お前をふり捨てて 外に
男を持つ様な そんな女子と
思ふてか ソリヤ聞入れませぬ/\

エゝ聞ヘませぬわいな モとゝ
様や かゝ様に別れてから
伯父様のお世話になり
お前と一所に育てられ 三つ
違いの兄(あに)様と 云て暮して


105
居る内に 情けなやこな様は
生れも付ぬ疱瘡で
目かいの見へぬその上に
貧苦にせまれどなんの
其 一旦殿御の沢市様 たとへ

火の中水の底未来迄
も夫婦じやと 思ふ斗りか
コレ申し お前のお目を直さん
と 此 壺坂の観音様へ 明の
七つに鐘を聞き そつと抜け出で


106
只一人 山路(やまじ)厭わず三年(みとせ)越し
せつ成願いに御利生のない
とはいか成る報いぞや 観音様
も聞へぬと 今も今とて恨ん
で居た 私の心も知らず

して ほかに男があるやうに
今のお前の一言が 私は腹
が立つわいのと 口説き立たる
貞節の涙の 色ぞ誠なり
始めて聞し妻の誠 今更


107
何と沢市が 詫びの詞も 涙
声 アアコレ女房共 何も云はぬ
堪忍してたも 誤つた/\/\
わいのう モウそうとはしらず
かたわの癖に愚痴斗り

コレ堪へてたもれと斗りにて
手を合したる詫び涙 袖や
袂をひたすらん アゝコレ連れ添う
女房に何の詫び お前の疑ひ
晴たれば 私しや死んでも本


108
望じやわいなァ/\ イヤモウそふ
云てたもる程 我身の手前
面目ないわいのふ ガ夫れ程に
迄信心してたもつても おれが
此眼は コレマ治りはせぬわいのふ

エエソリヤマア何を言わしやんすぞいな
この年月の憂艱難 雨の
夜 雪の夜 霜の夜も 厭
わぬ私がはだし参りも
皆お前の為じやぞへ サア


109
それ程に祈誓(きせい)をかけ 願ふて
たもつた心ざし 有難いとも
嬉しい共 貞節なそなた
をば この年月の廻り根性 観音
様じやと云たとて 罰(ばち)こそ当れ

何のマア 此目が明てたまる物
か エゝ何のいのふ 私の体はコレイナアコレ
お前の体も同じ事 そんな
愚痴を云ふより ちゃつと
心を取直し 観音様へ供々に


110
お頼み申して下さんせ/\と 夫を
思う貞心の 心づかいぞ哀れ
なり 沢市涙にくれながら
ヲゝ過分なぞや女房ども ソウ
そなたが一心の すわつた

上は御仏の 枯れたる木にも
花が咲くとやら 見えぬ此目
は枯たる木(ぼく) アゝどふぞ花が
咲かしたいなァ と云ふた所が
罪の深いこの身の上 せめて


111
未来を イヤサアノ女房共 手を
引てたも いざ/\と いふに嬉
しく女房が 身ごしらへさへ
そこ/\に 痛わり渡す細
杖の細き心もほそからぬ

誓いは深き壺坂の御寺
を さして 「たどり行く 伝え聞く壺  (壺坂寺の段
坂の観世音は人皇(にんのう)五十代
桓武天皇奈良の都にまし
ます時 御眼病甚だしくこの壺


112
坂の尊像へ 土岐の方丈道喜(どうき)
上人一百七日の御祈祷にて
忽ち平癒有らせられ今に
至つて西国の 六番の札
所とは皆人々の知る所 実(げ)に有

難き霊地也 折しも坂の下
よりも詠歌を 道のしほり
にて 沢市夫婦やふ/\と御
寺間近く詣で来て コレ
沢市様 信心は大事なれど


113
病は気からと云からは お前の
様にしほ/\と ふさいで斗り居
やしやんすと 猶病ひはおも
なろふ コレこんな時にはわつさりと
日頃覚えの歌なりと 気晴らし

に諷(うた)はんしたらどうじやの ムゝほ
んにそふぃじやの わがみの言いやる
とふり くよ/\思ふは目の毒
じや そんならアノさらへと思ふて
やつて退けふ しかし誰(たれ)も見て


114
居やせぬかや エゝ儘よ 憂きが情け
か情けが憂きか チンツチチン ツチツンツ 露と消
行く テチン我が身の上は チンチ チチリンツ
チリツテントンシャン アイタタタ・・ しもた 今けつま
づいて 後の相の手皆忘れた

アハハ・・ホホ・・・と 歌を暫しの道草に 御
本堂へと登り来て サア/\沢市
様 ソレ観音様へ来たわいな。
ハアモウ 爰が観音様か ヤレ/\有難や
/\ ハアゝ南無阿弥陀仏/\/\/\


115
南無阿弥陀仏 コレ/\こちの人
今宵こそゆつくりと 御詠歌を
夜もすがら 上ませふでは有まい
かと夫婦して 唱ふる詠歌の
声澄みて いとしんしんと殊勝なる

岩を建て 水をたゝへて壺坂の
庭のいさごも浄土成らん コレお里
叶わぬ事とは思へども そなたの
詞に従ふて 来た事は来ても中
々に この眼は治りそふなことは


116
ないわいのふ エゝこの人わいのふ 又
しても/\そんな事 コレ此壺坂
の観音様 昔桓武天皇
奈良の都にまします時 眼
病にて御悩み 夫レ故にこの観音

様へ 御立願(りうがん)なされた時 早速
御目が明たげな 夫故お前
にすゝめるも ハテモウ天子様じや
と云た迚 たとへ虫けらの様な
我々でも あなたに隔てはない


117
わいな モ兎角しんじんと云う
物は 気を長う歩みを運ん
で 心を鎮め一心に お縋り
申せば何事も 叶へてやると
のお慈悲じやわいのふ そん

な事を云手間で 早う
お唱え申ませふと力を付
ればいかさまのふ ほんに云
やれば其通り そんならわしは
今宵から 三日の間 こゝに


118
断食する程に そなたは
早ふ内へ逝で 何角(なにか)の用事
仕廻(しもを)ておじや 治る共 治らぬ
共 此三日の間が運定め
ヲゝよふ云て下さんした そん

なら私も内へ帰り 何角の
用事片付けて来ましやらふ
カ 是沢市様 此お山は険
しい山道 殊に坂を登りて
右へ行かば 幾何丈とも知れぬ


119
谷間じや程に コレかんまえて
どつこへも ヲゝ何処へ行ふぞ
今夜から観音様と 首引
じや アハハハ・・ ホホ・・・ と笑いながらに女房
が後に心は置く露の 散りてはか

なき別れとも知らでとつ
かは急ぎ行 後に沢市只一人
こらへし胸のやるせなくかつ
ぱと伏して泣き居たる コレ嬉しい
ぞや女房共 この年月の介抱


120
其上に 貧苦にせまるも
いとひなく 只一度も愛想
尽かさず剰へ(あまつさえ) 目かいの見へぬ
此身をば 大事にかけてたもる
志 夫レ共知らず色々の疑ひ立

コレ堪忍してたも/\ 今別れ
てはいつの世に 又逢ふ事の
有べきか 不憫の者やいぢらし
やと 大地にどふと身を打
伏前後 不覚に嘆きしが


121
漸々に顔を上 アゝ嘆くまい
/\ 三歳(みとせ)が間女房が 信心
凝らして頼みても 何の利益(りやく)
もない者を いつ迄生きても
詮ないこの身 世の諺にも云

通り 退けば長者が二人の
譬へ わしが死ぬのがそなたへ
返礼 生存命(いきながらへ)ていづれへ
成と 宜(よき)縁付きをしてたも や ヤ ヤ
ムゝ 最前聞けば アノ坂を登りて


122
右へ行けば 幾何丈共しれぬ
谷間との事 是究竟(くつきやう)の
最後所(どこ) かゝる霊地の土
と成れば 未来は助かる事も有
ん ムゝ幸ひに夜は更たり 人

なき中に ヲゝそふじや/\と
立上り 乱るゝ心取直し
上る段さへ四つ五つ早や暁の
鐘の声 イザ最後時急がん
と 杖を力に盲目のさぐり/\て


123
漸とこなたの 岩に掻き上がれば
いと物凄き谷水の 流れの
音もどう/\と 響くは弥陀の
迎いぞと 杖を傍(かたへ)に突
立て 南無あみだ仏と諸共

に がはと飛び込む身の果ては哀
れ成ける次第なり かゝる事
共露しらず いきせき道より
女房が取て返すも気は
そゞろ 常に馴れにし山道も


124
すべり落つやら転(まろ)ぶやら ふう/\
登る坂の上 ヤアコリヤコレこちの人が
見へぬわいな 沢市様/\い
のふ 沢市様いのふと 尋ね廻
れど声だにも 人影さえも

見えざれば あなたへうろ
/\こなたへ走り 沢市様
いのふ/\と爰かしこと木(こ)
の間(ま)をもるゝ月影に透かせば
何か物有ると 立寄り見れば


125
覚への杖 ハツト驚きはるか成
谷を見やれば照る月の 光り
に分かつ夫の死骸 ハアこりや
マアどふせう悲しやと 狂気の
ごとく身をもだへ 飛びおりん

にも翅(つばさ)なく呼べど叫べど
その甲斐も答ふる物は
山彦の谺 より外なかりける エゝこち
の人聞へませぬ/\/\わいなァ 此年
月の艱難も 厭わぬ私が


126
辛抱はな 只一筋に観音
さまへ願込めて どふぞ早ふ
眼の明きます様 お助けなされ
て下されと 祈らぬ間迚も
ない物を けふに限つて此

しだら 後に残つて私しや
マアどう成ぞいなァ どふせふ
ぞいなァ/\/\/\ アゝ是を思
へば最前に 諷わしやんした
アノ歌は どふやら心にかゝつたが


127
今で思へばその時に 死ぬる覚
悟で有たのか しらなんだ
/\ /\わいな 斯いふ事なら
何のマァ お前を無理に連れ
て来ましやう 堪忍して

下さんせ /\/\/\ ほんに思へば
この身程はかない者が有
かいな 二世と契りし我夫(つま)
に長い別れとなる事は
神ならぬ身の浅ましや


128
かゝる憂き目は前(さき)の世の
報ひか罪かエゝ情けなや 此
世も見へぬ盲目の闇より
闇の死出の旅 誰が手引き
をしてくりよう 迷はしやるのを

見る様で いとしいわいのと
掻き口説き くどき立/\嘆く
涙は 壺坂の谷間の 水や
増さるらん 漸涙の顔を上
アゝ悔やむまい嘆くまい 皆


129
何事も前の世の 定まり
事と諦めて 夫と供に死
出の旅 急ぐは筐(かたみ)の此杖
を 渡すは此世を去りて行
行先導き給へや南無阿

弥陀仏みだ仏の 声諸
共に谷間(あい)へ 落ちてはか
なき身の最期貞女の
程こそ哀れ也 頃は二月(きさらぎ)
中ぞらや 早や明け近き雲間


130
よりさつとかゞやく光明に
連れて 聞ゆる音楽の音
もたへ成その中に いとも気
高き上臈(じょうろう)のすがたを
仮に観世音 微妙(みみょう)の御声

麗しく いかに沢市うけ
たまはれ 前生(ぜんしょう)の業に
より盲目(めしい)と成つたり しか
も両人ながら 今日にせま
る命なれ共 妻の貞心


131
又は 日頃念ずる功徳にて
寿命を延ばし与ふべし
此の上はいよ/\信心渇仰(かっこう)
して 三十三所を巡礼なし
仏恩報謝なし奉れ コリヤ

お里/\ 沢市/\と 宣(のたま)ふ御
声諸共に かき消す如く失せ給
へば早 尋常の鐘のこへ四方に
響きて明け行く空 ほの/\゛暗き
谷間には 夢共分かぬ二人とも


132
むつくと起きて ヤアこなたは沢市殿
アゝコレこちの人 お前の眼が明て有る
がな エゝアノほんにこりや眼が明て
有る ヲゝ眼が明た/\/\/\/\ 眼があ
いた チエゝ観音様のおかげ 有がたふ

ござります /\/\/\/\わいのふ
ムゝ そしてアノ お前はマアどなたじやへ
どなたとは何ぞいの コレ私は
お前の女房じやはいな エ アノ お前
が私の 女房かへ コレハシタリ 始めてお目に


133
かゝります アゝ嬉しや/\ 夫レに付け
てもふしぎな事 正しく私は谷
へ落ち 死んだと思ふて何にもしらぬ
其内に 観音様がお出でなされ
前生からの事 細々(こまごま)と御しらせ

サイナア 私もお前の後
を追い 谷へ落ちたに違ひは
ない が身内に一つも疵付か
ず 其上お前のお眼は
明く ホ コリヤマア 夢ではないかいなァ

 

 

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134
ムゝそんなら今 沢市/\と
おつしゃつた が コリャ観音様
が直々に お呼び生け下され
ましたに違ひはない ハ ハ
ハゝア有難やかたじけなや

是より直ぐにお礼参
りは浮き木の亀 はじめて
拝む日の光りは 年立ち
かへる 心地ぞや 是ぞ誠
に観音の 御利生有りけるや

 

 

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135
見へぬ眼も見へ明ら
かに 有難かりける新
玉(あらたま)の 年立ち帰るごとく
にて 水も漏らさぬ夫婦
の命も助かりけるは 誠に

目出たふさふらいける けふ
は嬉しや杖を納めて行く
志も朝の 日の目を拝
んで お礼申すや神や
仏 よろず見せ給ふは是

 

 

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136
偏(ひとへ)に観世音 是 偏に
観音の 誓いの重きは岩
を建て水を たたへて壺坂の
庭のいさごも浄土成らん
御しめし有難 かりける御法也

 

 

 

 壷阪寺(奈良県高市郡高取町)

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講談『沢市お里の実伝』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/890585

 お里と沢市のなれそめが読める。洪水が縁のはじめ。