仮想空間

趣味の変体仮名

本朝廿四考 第一

 

読んだ本 http://archive.waseda.jp/archive/index.html

      イ14-00002-741

 

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 武田信玄 長尾謙信 本朝廿四孝 座本竹田因幡掾 (第一)
春は曙漸白く成行まゝに 雪間の若菜青
やかに 摘みい出つゝ 霞だちたる花の頃は更なり されば
あやしの賤迄も己々が品に付き 寿祝ふ年の兄
ましてやいともやんごとなき 大樹の元の梅が香や
先ず咲初むる室町の 御所こそ花の盛なれ
君は足利十二代源義春公 左大臣に任官有武威


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海内に輝きて のへふす六十六つの花 豊なる世の貢物 殊更
妾(おもひもの)の腹に御男子懐妊有ければ 猶も目出度春そとて北
の方たをやめ御前 相州の太守北條相模守氏時 越後の
城主長尾三郎景勝 其外参勤の大小名大流小流松竹
嶋臺蕗の臺 かゝる時代に大広間各々賀義を申さるゝ 氏時
御前に謹んで 御先祖足利尊氏公 二つ引き両の籏を以て 天下の
棟梁と成給ひ 五畿内は申に及ばず八隅の外迄威勢に靡き 顔(つら)

を上げたる者もなき所に 頃日(このごろ)諸国にわれ/\の合戦起り 就中甲斐の
住人武田晴信 越後の謙信と矛先を争ひ 君命に従はさる条上を
恐れぬ行跡(ふるまひ)急度糾明も有べきを 其儘に差置き給ふは且は武威の薄き
に似たり いかゝ斗らひ候はんと我は顔に言上す 義晴打點頭せ給ひ 我も
此事嘆かはしく 両家和睦を調へんと 先達て両国へ此旨申遣はし置く 去り
ながら謙信が嫡子三郎景勝 とくより我に昵懇をし忠勤厚き武士(ものゝふ)只心
得がたきは親謙信 ?を登し今日迄 上洛致さぬ心底いぶかし 親の心子


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しらずといへ共 父の心中よもしらざる事あらじ景勝 いかにと有ければ 三郎大
きに恐れ入 親謙信義老体の上 多病によつて引籠り罷り有れば 名代の
景勝 君御召の御諚の趣 早速申達しつれば 上洛の日限も一両日の間は過ぎず
又春長と不和なるは 彼の家に伝へし諏訪法性の兜 隣国のよしみに借受しを
武田の武勇を羨むなんど下様の悪口一徹短慮の親共彼是詞戦ひ
よりはぬ確執と成し事 いか斗我等か敵 先ず晴信を召寄られ君の御詞
を添られんに 誰かいなと申すべきと詞の半ば 北条の家臣 村上左衛門罷り出 武

田晴信参上と 取次声にお次の襖引立てえぼしのおのつから 智勇備はる甲斐
の国 武田大膳太夫晴信御前間近く出仕有 たをやめ御前の給ふ御武勇
烈しき長尾武田 君の柱と思し召 両家和睦をはからせ給ふ有かたき御上意
ぞやと伝へ給へば義晴公 汝謙信と不和の基 法性の兜とやらん 武田の
家の重宝とは何れの代より伝はりし 語れ聞んと仰ける 晴信取あへず さん候元
此兜は我等が武神 諏訪明神より夢の中にて給はつて 明神の使はしめ八百八狐
是を守護す 神通力加はつて是を着する度毎に 合戦勝利を得ざる事なし


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越後の謙信隣国のよしみ拝せん望黙(もだ)し難く 彼方へ持せ遣はせしが 俗に云ふ
心安きより 却て不和の基とやらん 畢竟何の詮なき争ひ 晴信において聊かも 御諚
にもるゝ事あらじと おとなしやかに述らるれば 北条氏時進み出 晴信 両国合戦に
及ぶ一大事 子供童のいさかひ同然よも左様の事で有まい 兼て親み有甲斐
越後 故もなき合戦は東八ヶ国を騒動させ 其虚に乗て大将の御所を騒がす
両人が云合せの軍と御疑ひかゝつた上 ?(かる/\し)き和睦の受合 猶以て呑込ぬ 必
定野心なき言訳 聞ん/\と詰かくる 主の尾に付く村上左衛門氏時公の御眼力遖

黒星 ぬらりくらりのぬめた晴信 謙信の狸入道 長尾の小狐化け顕はせと 何が
な支へる心の底 物有と見て取景勝コレ村上 御邊は信濃国の住人 晴信謙
信合戦の節も隣国の加勢に事寄せ両国をしてやらんと召されしかど 底意
知れずとはかりし故先ず御辺から攻め討ちしに 牛蒡程な尾をづつてほう/\に逃られしが
都へ登り氏時殿に媚び諂ひ 掛人(かゝりうと)の陪臣(またもの)奉公 其無念を晴さんと我々が中を
さきたがる 夫レはとも有れ君の御諚御邊達が出過ぎの助言 すつこんでお居やれと一口
にやり込められ 顔を赤めて閉口す 北の方声うるはしく 仮初めの詞にも猛きは武士の


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習ひにて此争ひを鎮むるは 弓矢の力に叶はぬ事 胡国とやらんの夷だに王照君
の色にめで 陣を引たる例しも有 景勝の妹に八重垣姫迚聞ゆる美人 武田には
勝頼とて年頃同じ子の有由 軍を直ぐに縁の橋我君の御媒 幸いけふの此嶋臺
齢も相生松竹に 花菱武田の印 武に雀は景勝の えぼしの長尾末かけて
中睦じう致されよといと畏る御斗ひ コハ冥加なき御仲立 君が仰のかひ有て
互に力越後の国 中を結びし大将の詞木曽の梯や踏みかためたる足利の家の
栄へぞ 久しけれ 名に高き軒端の梅の色そへて老若男女わかちなく 願ふ

誓も誓願寺 茶屋の床几に硯箱発句俳諧三十一文字 歌に和らぐ都の地
今を盛の梅が香や 左大臣義晴公の妾(おもひもの) 賤の方を設けの幕打廻したる花の下 此
下かげの舎(やどり)より 御身に懐(やどる)五つ月の帯の悦び身の願ひ嬪婢(はした)に至る迄きらを錺(かざり)し
鋲乗物 御供に直江山城之助 跡に引添ふ歩(かち)若党中間小者に到る迄 茶
弁とふからたばこ盆 皆取揃へ歩みくる 山城は心得て 申し/\賤の方様もふ是が誓
願寺 暫く是にて御休みと 申上れば賎の方 御乗物を出給ふ 花もおさるゝ御姿 ノウ山
城 今年は取分け誓願寺の花も一入盛と聞 義春様に願ひを立てて来りし故 そな


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た衆もいかい苦労と 仰に山城頭を下げ ハア有難き御詞 コレ嬪衆向ふに見ゆる山々を
賎の方様に一々教へ申されよと 指図にみはしがしや/\り出 申賤の方様御覧遊ばせ
アレ/\向ふの高山 比叡山と申て都の富士 扨其次銀閣寺 棟も名高き高臺
寺 名高き事を釣鐘に 鳴響かせし千畳鋪(じき) 大仏様と背競べの三十三間堂 又
こちらなは鞍馬山 僧正が谷の谺にひゞくみぞろが池の水の音 サツサ加茂川流も清
き 上加茂下加茂金閣寺 衣笠山の五体仏 西行桜 三条小橋出合た所が壬生
の寺四条河原の芝居側 朝はとうから/\と 待兼山の時鳥 夫レは 町中のしやれ詞

聞に北野の天神様 三十一文字の歌よりも 当世はやるあこぎが土 どふした事や此頃
は 文の便りもない恋中の 数も よまれぬ蛍火や 祇園の社揚弓の 音はかつちりとん/\
と 当り初めたるつうてんと 口合たら/\だら/\と 長こと/\゛を云ければ皆々 奥にぞ入給ふ 大
黒舞を見さいな福大黒を見さいな あら玉の年の始めの福大黒と声しほらしき幕
の本 ざゞめく女中取々の中に交る山城が機嫌上戸も 嬪の膝にもたれて ヨウ/\/\ 春の始め
の福大黒 打につこりのぼつとり風 男たらしのすつぱより かはいらしい此みはし 献々九献の折
も幸い大黒舞 所望/\とせり立られ 早悋気する女気の 大黒舞を見さいな 悪性


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大黒見さいな 一に色有る顔付で 二ににつこりお笑ひ顔 見れば見る程腹立の 四つ余所の色取に
五つ因果な見初めて むじやうにかはゆひ其中は 連理の契りとわしや思ふ 福大黒見さ
いな ホゝゝおめでたうござりますと 頭巾を取ば賤の方の召使 えも八つ橋の器量よし御
傍に手をつかへ 今日の御供にはつれしより 思ひ付の大黒舞おはづかしやと袖おほふ賤の方興
に入 ヲゝ夫レも自らを慰めの為 嬉しいぞやと御仰 山城はもぢ/\と思ひかけなき八つ橋に 見付け
られたる此場の時宜 赦せ/\も目顔でしらせ 我等は寺へ御出の様子申入んと立上り 住持の
方へ急行 跡へのさ/\歩み来る 村上左衛門義清 直ぐでは行ぬ顔魂 賤の方と見るよりも御

傍につつと寄り 今日是へお出の様子承り 御跡したひ某が申上げ度一通り八つ橋もよつく
聞け 主君北条氏時賤の方のお姿に迷ひ 明け暮ちゞの物思ひ 余り見るめもいたはしく
申上るも憚りながら あなたのお心一つにて 氏時様の悦びは外へは行ぬ御身の為 だまれ村上
脇妻妾()てかけ と云ながら 義晴様の胤を懐(やど)せし自らなればいはゞ主従アゝ其御了簡小い/\ 
主にもせよ家来にもせよ 国家の政道納め給ふ氏時公 日かげ者と云れふより 北の方
に成のはおいやか コリヤ八つ橋そちら向て斗居ず共 われも供々お勤申せ 又われにおれが
首だけ 思ひは同じ恋の媒(なかだち) 何といやる アゝいやでは有まいがと もつれかゝれる咽の下 髭顔ひつ


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しやり立退く八つ橋 コリヤ/\逃ても逃さぬと しなだれ廻る後ろの方 折よく帰る山城が 走り寄
て腕もぎ放し コレ村上殿 御酒機嫌かしらね共 女を捕へ去とは/\ふ行儀千万少しお嗜みなさ
れよと いふに八つ橋小気味よく お前の戻りが遅い故 夫レは/\モウよい/\委細は聞た 何の
村上殿が無理おつしやらふナフ義清殿 定めて夫レは座興でかなと 知てもしらぬ直江が風
情 義清も底気味悪く ナニ賤の方様 未だ御参詣なさらずば 某御供仕らん 直江殿には
是にて御休息と 何がな追従賤の方 誤て改る義清が今の一言 只何事も見ず聞ず
八つ橋直江は此所にて 自らが下向を待ちや 供は村上皆の者 サア/\おじやと立給ひ行も二人が恋

中を 夫レと推して本堂へ打連れてこそ詣でける 跡は嬉しき八つ橋が 見かはす目元渡に舟 首
尾能い逢瀬と抱付けば アゝ嗜みや/\と 一つ館に居ながら適(たま)に逢たか何ぞの様に若輩な
人では有わいの イエ/\何ぼ其様に云しやんしても なつかしい女の癖 奥へ通ひの長廊下 情ら
しうて屹度した其殿ぶりを思ひ初め逢も千歳の縁結び かうし/\て五つ月のやゝを懐(やどし:女偏?)
た中じや物 恋しうなうて何とせう 人に斗物思はせ憎いお方と山城にこぼす涙は 恋の
渕 サア/\道理じや/\ わし迚もそなたの事かはゆふなうて何とせう どふぞどなたにお暇承り
誰憚らず女夫じやといはれるが互の楽しみ 無事で安産する様と 神仏を祈ていると聞嬉し


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さは百ばいの心ときめく八つ橋が ちよつと/\に山城も 下地は好也御意はよし 手を引合て乗
物へ無理に伴ふ折からに 早御下向と供廻り 出るも出られぬ八つ橋が 内と外とに気遣ふ
二人 乗物参れと村上が指図に心得嬪が 明けて恟ち戸をばつたり あせる山城呑込む左衛門
コレサ嬪衆 御乗物を明けたりさいたりエゝ聞へた コリヤ其内に何者ぞおるに極つた イデ改めんと立
寄るを 賤の方暫しと留め 最前ちらりと見し所 此乗物をめがけ逃込だは慥にひな鳥
よし何にもせよ其儘で連れ帰り 詮議は館でナフ玉城と 此場の難儀を助る情 直江が
心の悦びは わつて云ねど乗物の 内より漏るる有がた涙 ふつてわいたる子宝の行末 長き下向

道伴ひ 館へ 帰らるゝ 咲分けし 梅と梯の 花よりも 爰に咲かせし室町の 庭も玉敷
奥御殿 義晴公の北の方たをやめ御前 身は本妻の儘なれど君の寵愛浅からぬ
賤の方の懐妊を御身にかへて御介抱 いたはらるゝもいたはるも 何れ劣らぬ品容 イヤ何八つ
橋 今朝から賤の方様のお顔持が悪い故殿様にも殊なうお案じ 心かゝりはきのふの庭先 若しや
怪家でもなかつたかと 尋にとかふ 諾(いらへ)さへ我身の恋にからまれていふもいぶせき胸の内 思ひを
察して賤の方今に初めぬたをやめ様のお心づかひ嬉しさ余る願詣で何の怪家がござりま
せう 夫レはとも有れ あなたは定まる御本妻 賤しい此身を上に立 結構過た御挨拶 やつ


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ぱりどふ仕やかう仕やと おつしやつて下さりませ 是はあられもない 自ら殿様に馴初めてより今
において子を設けず 朝夕祈りしかい有て お前にお胤を懐されし 取も直さず我子同然 殊
に左孕みは御男子のしるし 足代の御世継と思ふ程猶あなたが大切 悋気嫉妬は姫ご
ぜの習ひといふも 下々の思ひ違ひし詞の裏 よしなき事を苦にやんで もしもの事が有て
は大事のお身のさゝはり 最前から間も有ば コリヤ八つ橋奥へ伴ひお慰めに琴の組でも
ついまつでも始め お心を引立てよと 残る方なき御恵 伏拝む手にふる涙何といわでの苔の
露曇らぬ庭の水鏡磨き合てぞ入にける 己が権威に案内せず明くる襖もあら

らかに 入来る北条氏時 我慢の鼻も立えぼし 座の間に畏り 見ますればお女中
晴信も景勝も未だ出仕致さぬかな ヲゝ誰ぞと思へば氏時 しらせなければいつの間に見へ
たやら イヤ御存知なくても此氏時 勤むる所は急度勤る 夫レに何ぞや在番で候などゝ 人前
作る知行盗人某同然に思召す北の方のお心入 いかに結構さばく迚 白い黒いのわかち
もなくて 御前様とはいはれますまい 誰憚らぬ御身にて不断お妾を上に立 大切になさるゝ
程却て御身の敵となる 賤の方の心底黒い眼で見抜て置た 斯いふ中もかゝり早く
館を遠ざけ給へと 口から出次第云廻せど 利き御身は何もかも 呑込む奥嬪共 殿様


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の召まするいさ御入といふ汐に帳臺 深く入給ふ 義清の二字を守らぬ村上左衛門 ちくり
返つて打通れば 氏時声かけ ヤレ待兼し村上 サア/\近ふ/\に額際 つき合ふ斗に座をしめて
昨夜しめし合せし通り心をかけし賤の方奪ひ取るは今宵の内 表門へは人目も有 兼て用
意のあの抜け井戸 釣出す工夫もして置た 此上望むは晴信景勝 不和なる中を幸いに
二人へ焚き付け同士打させ 甲斐も越後も我領分 親子とは云ながら謙信が胸の中
某が思ふ所存も有れば邪魔にならぬはかの一人 心かはりの晴信景勝仕廻ふて取が上分別
其片腕は村上義清 ハア仰迄もなく存知の通り某も元は信濃の領主成しが晴信謙信

に切取られ其元の情によつて 主従の約をなせし上は再び信州へお帰しあらば 此上もなき拙
者が悦び ホゝ我望達せし上は 元へ納る信濃の領主 気遣ひ有なと氏時が 宛なき国
の切取咄し 後ろに聞人(きゝて)の有ぞ共しらず思はず見合す顔 ヤア長尾三郎景勝出仕致さ
ば案内して なぜ奥御殿へ通らぬと ていぺいひしぎにちつ共動ぜず ホウこは北条殿の仰共存
ぜず 出仕の時は先ず人並の所に有て 其後奥へ通るが作法 ムゝ然らばそちは最前から イヤたつ
た今何もかも イヤ何が何と イヤサお二人のお咄の終る所へ参りかゝり 御挨拶も夫レ故延引 御両
所御苦労千万と寄ずさはらぬ景勝が 落付く詞に落付かぬやぶれかぶれと義清が


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切付るをかいくゞり 何科有てお手討にイヤサ 謙信が子とは知りながら ついに是迄手練をしら
す 武芸の試み少しの差出 ムゝ拙者が手の内試みあらば など尋常の勝負もなく 子供童
の切合同然 比興至極の左衛門殿 お望ならばお相手と いはれてせき立村上が 広言憎しと
又切る刀 鍔元むづと引掴み 是非知りたくば腰骨に 覚られよとどうど投 膝に引敷とたん
の拍子 切込む氏時受けたる早速北の方の声として 天晴頼もし三郎景勝 武芸の試み氏
時も義清も 見やつて嘸や本望と 夫レといはねとしら化けの 無念を鞘に納むる両人 挨拶
もなく立て行 イヤもふ景勝 そなたの父謙信いつぞやより上洛せず 様子あらんと思ひの

外近々に上京との噂 我君にもお待兼と 仰に三郎頭を下げ 親謙信がふ行跡 御いかり
の色目もなく したひ給はる有がたさ 親子か面目是に過しと詞の半ばへ小姓共 出仕の様子
聞し召し 早ふ呼べとの仰付でござりまする ほんに自とした事が お待兼に気が付かなんだ
晴信の出仕にも程は有まい サア/\こちへと奥深き主も家来も芳しき花の大紋た
ぶやかに御前を さして入にけり 言葉しがらむ から糸の心も直江山城に つなかる縁の
縁伝ひ 八つ橋が 直江様 逢たかつたと取付て跡は詞も双方が 抱しめたる障子の内
八つ橋殿/\と 呼はる声に恟りしかけ入こなた 山城が袂にすがれば 是はしたり あれ程女中


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が呼でいるに マア/\ゆきやとふり切る袖 エゝお前は賤の方様 はつと赤面直江が手光り じつと
引寄顔打ながめ 見ぬ唐土はしらね共 此日の本を尋ても 又と有まい男ふり 女のなづ
む風俗を見る度ごとに色勝る 峯の?葉心あらばたつた一言可愛といふてたもい
のと寄添ひ給へば ちやつと飛退き イヤ御座興も事による お前様は誰有ふ 左大臣義晴
公の北の方も御同然 殊に主人景勝へ預け置れし御身の上 見付られたら一大事 真っ
平御免と立を引とめ スリヤどの様にいふても 不義はお家の堅い御法度 ムゝ夫程堅い御法
度を背き 八つ橋とはなぜ抱れて寝やつた エゝ夫レは サアかういへば表向きしらぬで済ませし昨日

の供先恩を思はぬそなたの胴欲 わしか願ひのかなはぬかはり 八つ橋と不義の様子我君へ申上る
ハテめつそふな 夫レおつしやつては二人が命 夫程こはくばわし任せにして サアおじやと無理に引ばり
一間より 不義者見付けた動くなと 声あらゝかに義晴公刀追取出給へば 続てかけ出る北
条氏時 直江が髷引掴み縁板ににしり付け 言語道断につくい不義者 縛り首討覚悟せ
よと 云も切らさず イヤのふ其人に科はなし 心をかけしは自ら斗 よきに計らひ給はれと覚悟の体に
御大将 身が手にかくる観念せよと ふり上げ給ふ刃の下 ヤレ待ち給へとたをやめ御前 静の方を押
囲ひ イヤ申し我妻 朝(てう)の怒りに其身を失ふとはよくも御存知有ながら酒に長じ色に


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迷ひ善なる事も悪と見て 御成敗なされては国中に人種(だね)はござりますまい 賤の方の
不義放埓 誠と見せて実(まこと)でない事 此たをやめか見ぬいて置いた サア打明て給はれと 仰も
涙の 顔を上げ お推もしの上は包むに及ばず 過ぎし頃よりお目に入 義晴公のお妾と持はやさ
るゝ其内に 君のお胤を身に懐せと御怒の色目もなく 様々の御いたはり 胸に釘針さす
ごとく お志しが節なさ故 何にもしらぬ山城之助無体な恋をしかけしも 不義者の名を
取て君の御手にかゝらん為 こらへて下され直江殿 恩と義理とに此命捨るは更に惜しから 
ねどよしない腹を仮初にも 足利の御世継と敬るゝ子を持ながら 闇より闇に落すか

と思へど返らぬ我覚悟 情は却てお家の仇 一旦御不審かゝりし上は只いつ迄も不義に
して 自ら斗を殺してたべ 頼上ます/\と洗ひ上たる心の実 真実見へて道理也 やゝ有て
義晴公 ヲゝそふなうては叶ふまじ 去ながら 我胤を懐しながら今死ては弥たをやめに
義理立ず 髪は剃らねど尼法師我愛着も是限り 身をば大事に平産せよと 打
てかへたる御仰落付く賤の方々も 今こそ晴るる悦びは 産まぬ前から若殿の安産有しこゝ
ちせり かゝる折から取次の侍罷り出 西国方の武士と申御献上物持参致し 次に控の有通し
申さんやと窺へば 御献上と有れば苦しうない早く通せと氏時が下知の詞に賤の方直江引


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連れ立給ふ 待つ間程なく白洲の内 袴の肩もきつとせし眼び中尖どき術有る人相何か白木
の臺の物恭々敷も指し置きて恐れ入てぞ平伏す ヤアついに見馴れぬ其方か 我君に御献
上迚怪しき一品 先ず汝が生国へ何国 仮名いかにと尋る氏時 ハア某が井上新左衛門と申
て 則生国は薩州種か嶋の住人なりしが 故有て浪人致し何卒昔に立返らんと心斗りは
はやれ共頼むべき主君もなく 無念の年月送る所にふしぎにも此賜(たまもの)我手に入しは 天道
未だ捨さる所 誰彼と申さんより 恐れ多くも義晴公を主君と仰ぎ奉らば武士の面目
是に過しと罷登し新左衛門 君命じて召す時は 駕(か)を待たずして行と申せば 憚りも顧みず召に応じ

て御前へ推参 執成願ひ奉ると 頭を下げて述べにける 大将一々聞し召 性根を見込召使
筋もあらん シテ其方が持参の物 いか成益に用るや語れ聞んと仰有 ハア是こそ異
国において鉄砲と異名を呼 玉を仕込で放す音 雷延のごとく当る事速やかにて
戦ひに用いる第一の兵器成しと聞たる斗 未だ此地にて見ざりし所 即ち先月六日の夜 烈しき難
風吹起こし 大船小船いふに及ばず 中にも 唐船と相見へ種が嶋の浦にて破損せしが浜辺
に残りし此鉄砲 持参致せし奉公初め 今より是を手本として 戦場にて用ひ給はゞ敵は残
らず鏖(みなごろし) ホゝ左程の徳有といへど用る事をしらざれば 取得ざるも同じ事 さいふ汝が其


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鉄砲遣ひ様存知ておらば 我目通りで伝授せよ 早く/\と義晴の 仰にはつと新左衛門 辞
する 色なく手に取上げ 君に向ふ憚り有 ぶ礼は御免と立上り態(わざと)後ろを見せたる手の内 コレ/\御
覧ぜ 斯も構へし火蓋の所 さす敵と見るならば まつかう有と引きかねにとうと響きし大薬
ねらひはづさぬ義晴公うんと斗に息絶たり 是はと暫く諸大名 ソレ遁すなと下知に
連れ 取まく家来を事共せずなぐり立てたる鉄砲の手並に恐れ寄付かねば 夫の敵と北野
方 てうど打たる長刀の刃むねをけつて蹴上れば 透かさず打入る石突にて落たる鉄砲見
やりもせず 工も深き抜け井戸へ飛込跡は乱口 心乱さぬたをやめ御前 君の亡骸奥の

間へ 敵の詮議此鉄砲 逃隠る共遠くは行し四門を固めて取逃さぬ 手筈を定め
しらせの鐘 氏時早ふとかい/\゛敷仰受けつぐ次の間へ走り入るより相図の鐘 響きに連たる御殿
の内 螺貝太鼓に手を合し 提燈松明一時に 四方八方囲みしは遁れがたなき有様也 かゝる
騒ぎの奥庭より目斗出した大男 賤の方を引立出 かけ行後ろに三郎景勝 曲物待てと呼
はる声 心得眉間に打込む手裏剣 遁るゝ曲者強気の三郎 無銘なれ共小柄の手裏
剣 是を証拠に一詮議と逸足出して 追て行 襖をさつと武田晴信君の大事と
心も空勢ひ込でかけ来れば 引続て薙髪(ちはつ:スキンヘッド)の相長尾入道謙信 只今上洛仕


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ると 不和成る中は物も云ず かけ入んと一間より 氏時向ふに立ふさがり 在番の武田晴信
君御落命の場所へは参りもせず 納め過た出仕顔 めつたに奥へは通さぬ/\ 謙信迚も左の
ごとく子故にかゝる身の疑ひ 行方知れざる三郎が脱捨置し素襖えぼし 御殿に置は武
士の穢れ焼き捨てて仕廻やれと わくる詞も一物二物三方論議の折からに 北の方たをやめ御
前鉄砲携へ出給へば 皆々 敬ひ奉る 珍らしや謙信 思ひ寄ざる我君の御さいごより すべ
て疑ひかゝるといへど 取分けて武田長尾は両執権天下の政道も執り行ふ身を取て 久々
上洛せざりし越度(おちど) 又大膳太夫晴信はけふに限つて出仕の怠り 日頃の不和も我君を

人知れず害せんと 疑ひかゝる両人を其儘置いては 女ながらも身の誤り心に覚ないにも 
せよ 此場の大事にはづれし不運 自らは元より諸大名の疑ひ晴す思案が第一 源家の忠
土佐坊昌俊偽りに誓紙を書き誠を見せたる七枚起請 夫レは誰しもまゝ有なら
ひ 是は夫レに事かはり 本心曇らぬ胸の鏡 磨立たるしるしがなうては身の上の曇り晴ず 
家を立てふと立てまいと面々の返答次第 サア/\何とゝ北の方 あなたこなたを思ひやり わつと
泣たい所をも泣ぬは遉大将の 奥床しくぞ見へにける 利の当然にさしもの二人下る額のしは
よりも 眉に寄浪胸に満ち 暫し詞もなかりしが 何思ひけん武田晴信 ずんど立てかたへ


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なる 紅梅一枝はつしと切ば謙信も劣らじとえぼしの真中さつと切 御返答申すも恐れながら
昔が今に至る迄 悪事に組し家国を望み 反逆無道の名を取も 子孫に残さん為斗
夫レに引かへ某が胸中 花物いはねどまつ其ごとく 一子勝頼が首討て御覧に入るが身
の言訳 ホゝゝ謙信迚も斯の通り 躮景勝が行方を尋善悪たり共首討てお渡し申す証
拠のえぼし 勝頼にも 景勝にも 心を残さぬ我々が 北の方への申訳 此上にも御批判
あらば 仰聞けられ下されと 双方詞かはさねど割符を合せし忠義と忠義 たをやめ御前
涙ながら ヲゝ心底見へた此二品 かけがへもなき両家の接木 花を憎まぬ心の誓言 是

に上こす事有ふか 其所存を見る上は最早勝頼景勝を殺す迄にも及ぶまじ 猶此後
は自らが力と頼む晴信謙信 此鉄砲こそ詮議の種 遖敵を討果(おほ)せ 君の御無念
晴してたも ハゝゝ発明なれ共遉は女義 当座遁れを誠と思ひ 殺すなとは不覚
/\ 余人は格別此氏時 いかにしても呑込ぬ 花とえぼしに譬へし躮ぜひ首討て出
すべしと 何がな支ゆる邪智佞奸 たをやめ暫しと留給ひ 諸大名の鏡と成べき古老
の臣 一旦番ひし詞は金鉄 などか偽り有べきぞ 偽り錺る所存ならば其儘にて帰さふ
や 去ながら 假令(たとひ)潔白立る迚も 我君の三回忌追善供養終る迄は 虫けらの


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命さへ 夫の為には助けもす 況(いはん)や科なき二人の命 殺す基いも敵の行方 何卒三年が其
内に尋ね出さば助る二人夫レも叶はぬ物ならば 討て出すも世の掟 我身の掟は此通りと 二世
と兼たる黒髪を 根よりふつつと押切給へば 晴信えぼしかなぐり捨 君の一字を蒙るる某
姿斗は主君の供と指し添抜て髻(もとゞり)払ひ 形をかゆれば名も改め 今より武田入道信玄と
法名し 心はかはらぬ以前の晴信 忠義に忠義を重ねしと思ひ込たる一生の浮沈肝にこたへし
敵の有家 雲の裏に隠るゝ共 天地の間は獄屋の内 御心慮易く思召せと 我子の命黒
髪も 切て捨たる勇僧の其名も 武田信玄と云伝へしも理也 氏時ほとんどえつぼ

に入 ホゝ左程の性根を見せずんば謙信晴信とはいはれまい 敵の有家しるゝ迄我は都に
押とゞまり 君の亡骸取納め政道糺す身が役目 よもや違背は有まいと 己が悪
事を白洲の内 身の誤りに山城之助 しほ/\として手をつかへ 賤の方を奪はれし我等
が越度故 主人景勝へ疑ひかゝりし申し訳と 刀の柄に手をかくる のふ待てたべ直江様と 八つ
橋も転び出 不義は二人が誤りなれば お前斗殺しはせぬ わしも供にと死覚悟 謙信声
かけぐつと睨め付け 八つ橋と不義の様子 躮が方より聞やいやな勘当と申置たれば 主従でも
ないうぬらがむだ腹 五十百切た迚かゝる大事の為にならんや うろたへおらば逆磔 両人共に出


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てうせいと 口と心は裏表情の勘当有がた涙 早退出と長尾入道 君を害せし面体は
しらね共 悪逆千里に響かせし此鉄砲こそ囚人(めしうど)同然 某屹度預り置き詮議の工夫は
胸に有 先ず夫レ迄はおさらばと鉄砲提(ひつさげ)立上れば 信玄も諸袖に礼義は延ても顔と顔
不和なる良将勇将の中を隔る北条氏時 底意を見抜く北の方 浮かむ涙も 手向の水
別れ/\て 帰りける 夫婦も返らぬ御殿の名残 ぜひもなく/\立出る村上左衛門義清横
田兵内諸共に手の者引具し立ふさがり ヤアどこへ/\義清が心かけたる其女 此方へ渡さば
よし異議に及ぶと目に物見せん 何と/\と呼はつたり ヤアこはくもない義清風 いか様に吹かし

ても身動きさせぬ大事の女房 主君もなければ遠慮もない 指でもさゝば撫切と 八つ
橋かこふてつつ立たり 物ないはせそ討取れと抜連れ/\切てかゝるを事共せず 夫婦諸共抜
合せ 切立られて村上左衛門命が大事と逃げ行跡 打合切あふ刀の光り 電光石火の間もな
く薙立て/\ 薙立れば 残る大勢立つ足なく頭わられて血は滝つせ 逃廻るのを横な
ぐり 兵内透かさず後ろから 直江やらぬと切る刀 ひらりとはづせば思はずも 家来をけさに切付け
たり 是はと暫く兵内が 首と胴との生別れ 心地よかりし事共也 邪魔は払ひし嬉しやと悦
び敵の数々も 思ひは七重 八つ橋が渡りを得たる女夫連 サア此上は賤の方 再び廻り近江


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路や敵もいつかは美濃尾張果は駿河の富士よりも 名高き君の御最期を悔めどさらに
甲斐越後 不和成る中も陸奥(みちのく)の直ぐ成る直江山城夫婦忠義は代々に 石清水清き流れの
                   木曽川や夜半に紛れて出て行