本朝廿四考 第三 (景勝下駄の段)

 

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      イ14-00002-741


50(左頁4行目下) (景勝下駄の段)
    ゆゝしけれ 秋の末より 信
濃路は 野山も家も 降り埋(うづむ) 雪の中なる白髪の雪 女ながらも故有て 男のすなる名
を名乗る 山本勘助と人毎に 岩間の水の音たへて 木の葉の谺二つ三つ年も幼気(いたいけ)
稚子をすかすお種が手枕に ねんねか守はどこへいた 山の薪をえいさつささらば爰


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らで一休み お種女房冷へますの ヲゝ正五郎様戸助様 雪吹で外は歩かれまい お茶
もわいてござんす イヤ/\構ふまい子持は手が赦されぬ 慈悲蔵殿は留主か けふも
けふと寄合ふとあの人の噂 お袋への孝行は申すも愚か児への深切 ほんの子は次にして
兄貴の息子の其次郎吉を 大切にしらるゝ女夫の衆の心いき 名も慈悲蔵
といふが心 サレバイノ 夫に又兄の横蔵殿 兄弟迚あの様にも違ふ物が親への不孝さ弟
へのむごさ 親兄弟にさへあれじや物村中で持余すが尤 外を家と出あるいて隣
邉(ほとり)へたられ込 人の娘下女婢(はした)あたり合に孕し 其おごもりのあの小?も親ににた子の

鬼子であろと 口はさがなき山道を ゆがまぬ武士の梓弓胸の袋に押包み 孝をは
づさぬ慈悲蔵が 猟(かり)漁(すなどり)も母の為流れに添て立帰る ヲゝ孝行者お帰りか 仏性な
慈悲蔵殿 殺生に出られたもお袋への養ひか 夫レ程にさつしやつても気に入ぬ
あのばさまは 去とじゃきつい片意路者 アゝこれ/\勿体ない事いふて下されな 譬身を粉
に砕いても 胎内に有から今日迄の親の苦労 くらべて見れば百分一 あの鳩部屋の
鳥でさへ 鳩に三枝の乱有迚諸鳥に勝れて孝行な鳥 どこから共なう此家の軒
へ集つてきたるも 慈悲蔵が心少しは通じ類を以て集つたかと思ふて嬉しう思ひます 成


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程夫レはこちとらも去る書物で見て置た 鴉は親の養ひを育みかへすといふ本文 おれが毎
晩女房に 孝行にする心が通じて 鴉がかあ/\かゝの貌 いんで見よふと出て行母者人は最
前からまだお休みなされてか 炬燵でお風ひかしますな お目の覚ぬ其中にお肴料理
して上ん 次郎吉も寝入たか ハイ此子が機嫌よふ育つに付ても 気にかゝるは峯松が
事 ほんに兄様の横蔵様 いかに我子でない迚捨てて仕廻と無理斗 お前が外へ出やしやん
すと私を女房にせうの何のとつらい悲しい事聞も お前の孝行立る為と 辛抱するに
もしられぬは 真実な子を胴欲なよそへやつたといはしやんすか まあ其先は何国の誰

ハテ夫を問がもふ未練 気遣ひ仕やんな此貧家に置ふより 乳母にうばを付る結
構な内へ養子にやつた あいつはきつい果報者 もふ思ひ出さずととんと捨たと思ふ
て居や 病み煩ひといふ事も有 万一先で死だらない昔じやと 諦めておりやいる気じや
と云ながら 犬狼の餌食共 成はせぬかと子を思ふ心は一つ一間の中 そつと窺ひ是は
扨 寝入てござるかと思へば裏へ出て御気丈千万 お炬燵に火も有か 追付御膳の
用意もしやと 片時忘ぬ孝心は又と願は風吹音も吹雪に高あしだ踏分け尋
来る人は長尾三郎景勝 万卒は求め安く一将は得がたしと 此隠れ家の弓取を慕て


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一人門の口 二重の腰の白妙に枝もたはゝの雪折れ竹 杖と我子に助られ庭に佇む老 ←
女の風情 申/\此大雪に去とては冷へまする 蒲団の上にござつてさへ御老体の身の
上ひらにあれへと取る手を払ひ 七十に余つて愚鈍には成たれど 子供に物は教られぬ すべて
親に仕へるに起き臥しの介抱は誰もする 何事に寄ず親の心に背かぬ様にするのが誠の
孝行 寝て斗居るも気詰りさに 雪の景色も見よふと思ふ 母が心を妨げるは
何と不孝で有まいか ハゝア誤り奉る其段には心付ずお年寄れて一日/\御気力
の落るが悲しく 今日も猟に出 元気を養ふ谷川の ます/\お達者成様と 志の

捧げ物賞翫なされ下されかし イヤ/\物の命を取り夫レが何の養ひ 真実親の養なら と
をい山川の珍物より つい裏に有竹藪の筍を堀てこい ハア夫レは御意てはこされ共 此
寒の中に筍が サア有物を取て来るは子供でもする事 ない物を取寄るが本の孝
行 かういはゞ母が難題云付ると思はふが 此位の難題にこまる様な器量では智
者と呼れて人にしらるゝ 弓取にはならぬぞよわらはが夫が下に聞へし軍師 一
生主人を取ず過さられた忘れ筐 兄弟の子が器量を見定る迄は 女ながらも夫の
名を付 山本勘助と名乗る此母 二人の内に勘助といふ名を譲り 父の軍法奥義の


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巻を伝ふとは思へ共 夫レでは中々勘助にはなられぬ サア其苗跡を受たさに心を尽す
此慈悲蔵 ソレ/\其名がほしさに孝行尽くすは真実の孝ではない上皮の偽り表裏 コレ/\
夫レはお情ない 苗氏を望も出世して 母人の悦び顔拝みたい斗 兄者人の心入と一つに思し
下さるゝは余り難面(つれなき)御心と雪に 喰付落涙に老母は猶も腹立声 コリヤ何ぼ利
口に云廻しても 此年月膝元を離れ他国して居てけふ此頃俄の深切是が偽りと
いふ証拠儕が心に引くらべ兄を不孝と云なす悪心 思へば見るもいまはしと 杖ふり上て
打んとす老の力身に踏みくじく駒下駄飛でよろめく足 コハあぶなやと抱とむれば

イヤ/\己が世話は受ぬわいそこ退きおれと親と子の 心合ざるかたしの下駄 景勝透さ
ず拾ひ取 御召物是に候と 老女が前に押直ししさつて頭を下らるゝ 母つく/\゛と
打守り 人品骨柄只人共見へぬお侍 賤しいばゞに履物を直されしは 黄石公に沓
をあたへし張良が俤 ハテ奥床しき御方や お近付にも成て とくとお礼も申たい
コリヤ慈悲蔵其方に用はない立て行 ハアはつと何か子細は有そ海母の心を計り兼 是
非なく奥に入にける いさこなたへと請すれば 辞する色なく座に直り御推量少しも違
はず 黄石公に劣らぬ軍者 山本氏の御子息を召抱へて 一方の大将と頼ん為 身ふ


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肖なれ共越後の城主 長尾謙信が嫡子三郎景勝 是迄参上仕ると礼儀
正しく延べらるれば 扨こそ/\ 始めより自然と備はる御眼ざし シテ御望なさるゝは兄弟の中兄
か弟か イヤ景勝が望む所は惣領の横蔵 ハテ最前より御覧の通り孝行な弟慈悲
蔵を指置 不孝な兄の横蔵を御家来になされふとおつしやるお前のお心は イヤそ
りや其方に覚有事 諏訪明神の社内にて 面体恰好とつくりと見届置た
横蔵 ぜひに身共が所望致す ムゝそふおつしやれば思ひ当る よく/\に思召せばこそ大名の
お手づから いやといはさぬ此ばゞに 下駄を預け給ひしは 天晴利き殿ぞかし 兄は只今他行なれ

ど 此母が成かはつて御家来に指し上げふ 過分/\ 其箱是へと取寄て いかに老女 主従
と成からは 一命を捨てても忠義をはげむ 武士のならひいふに及ばず 此方迚も一身を
任すといふ かための一品受取られよ 若し違変あらば身の上たるべし 御念に及ばず其時は
母が皺首差上るか 家来にするか二つの安否 後程/\ 老女さらばと詞詰威
風尖き北国武士 越後ちゞみの物馴て引けぬ其場の信濃路や別れて