絵本太功記 六月七日

 

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      イ14-00002-093

 


49(左頁2行目)
  同七日の段     大内山へと 急ぎ行
接花随縁(せつくはすいえん)真実に無量の恵み漏れざれ共 仏敵猛威の春長に世を狭められ
鱸(すゝき)重成 無念ながらも杉の森砦をかまへゆかしくも 寄せ手を防ぐ唯一心 矢叫び
の音鬨の声天地に満ちて動揺せり かゝるけつき其中に 媚(なまめ)きつたふ嬪共 軍に
馴て気は張弓襷鉢巻腰刀遉ゆゝしき身の備へ 中に小笹が才発顔 イヤ
のふ浪江 何とマア騒がしい世界ではないかいの 切た/\と切つはつつを世渡りにまだ仕たらいで


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春長殿 慶覚様を相人に憎てらしい軍事 サイノウ追付如来様の罰が当り 首かごろ
りと飛であろと いへば兵卒口々に ヲゝサ飛とも/\ 一向一心にかたまつたる我々 殊更主人
喜多杉様の軍配 石山においても度々の勝軍 ヤモ負る事はけんによもない事 残り多
いは王様の御挨拶 あたまの役でおとなしく丸ふ納めて慶覚様か 石山の砦を引払ひ
此杉の森へ御陣がへ しやうこりもなく又寄せかけた尾田の大軍 とつと寄せても不可思
議光(くはう)如来のお力にや叶ひませぬじやないかいな あいなアあいな ヲツト待たり 叶はぬ次
手においとしい若旦那孫市様 尾田と和睦が破れた斗に 御使いの越度じやと爺(てゝ)

御様の御勘当 何と可内 御詫の願ひを一統に して見る心はないかいやいと おろ/\涙惣々
がすゝり上たる水洟も 忠義のはしと殊勝也 斯ともれ聞く一間より 孫市が妻の雪の谷 我子
の手を引きしとやかに 出る姿もおのづから 思ひ有る身の打しほれほんに主なる家来なりと
思ふて?(やさ)しいそち達が志し 聞嬉しさにいとゞ猶 悲しき夫マのお身の末 どふなる事と自らが 心の
内を推量してたもやいのふと有ければ 嬪始め士卒共 顔見合せて詞なし 娘松代は母の顔
打詠め/\ コレ申母様 おまへは何をむつかるぞ 同じ様に皆迄も何を泣きやる 早ふとゝ様や弟の
重若を呼まして来てくれやい 此間の清書をお目にかけて 誉めてもらいたいわいのふ ヲゝ誉めて


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もらひたからふ そなたより此母が逢たさは山々 暫しが間も母の傍 得放れぬあの
重若 定めて泣いてばつかりいるで有ろ かはいの者やとくいしばり 泣く音を包む雪の谷が心の
内ぞ せつなけれ 襖のあなたに重成が高らかに咳払ひ 扨は舅のお出なるぞと
いふに心得嬪が 席を下れば雑兵共地に鼻付けてかつ蹲(つくば)ひ 待つ間程なく悠然と 立
出る鱸喜多頭 不興気(げ)にあたりを見廻し ヤイ女原 此所に用事はない次へ立て 軍卒共も
何をうつかり 要害を頼みに搦め手の守り怠るは一大事 早くまはつて心を付けよ サゝ行け/\とおつ立
やり イヤナニ嫁女 そなたにも云聞し 悦ばす事が有てや アノ私に悦ばす事が有と御意遊は

すは ムゝ孫市殿の ハテ扨又しても不吉者の倅が事 左様の事でおりない 当月二日の暁に
天文の考みし所 東に当つて白気自然と立登り 是則敵の大将 春長が腹身と頼む
勇者の内に変心の者有て 事をやぶるの前表 今日迄口外せざれ共数日の籠城 お
身も定めて心労と思ふから 安堵させん為申聞す 見よ/\追付け世を広ふ 足利の正統たる
慶覚君の御代となさん 何と此上もなき悦びではおりないかと 未前の察す明智(めいち)
の眼力 こなたは一途に夫を思ひよき折からとすり寄て イヤもふお嬉しい段じやござりませぬ
がどふぞ成らふ事なら 其白気とやらが立ましたが 孫市殿の御勘当がゆりますといふ


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しらせなら ほんにとの様に嬉しう存じませうぞ 憚りながら慶覚様と御所に どふぞ世に出ら
れます様に 親御のおじひお情でと いふを打けしアまだしつこい かゝるめで度き折からに よし
なきたは言聞たくない お身も孫を連れて部屋へ行きやれ エゝ何をぐず/\ 早く立ちやれとかみ
付られ 何とせん方投げ首し娘松代を伴ひて しほ/\立て入にける 跡に重成ただ一人立上
つて通路の鈴 引ならせば一間の御簾 さつと小姓がかゝぐれば念珠他事なき慶覚君 重成か
音づれ何事か有るやらんと 仰にはつと頭を上げ 今朝(てう)より御機嫌を窺ひ奉らんと存ずれども
敵の朝がけ短兵急に寄たれば軍配に暇なく 一泡吹せ味方の勝利 攻め口を退き候へば一

息の間と漸只今御前へ伺公(しかう) 不礼の段は御高免と敬ひ 深く述ければ 誠忠俊乂(俊刈:しゅんがい:かしこい人)の一人
時に合ねば 此程よりの心労推察せり 義輝君は三好松永が為に亡び給ひ 今又我
は春長が為に斯のことしよしなき命ながらへて 万民土炭の苦しみと云 諸卒の命を失は
んより 早く我一命を断ち 万死を救ひ得させよと 御目を閉じて称名を 唱へ給へは重成
も君の恵の有かた涙 胸におさへて気色をかへ チエゝ云かいなき御仰 夫レ軍は和(くは)に有て
衆にあらず 馬洗厩養(ばせんきうよう)に等しき尾田の弱兵 何程の事や有ん 凱歌を上るは
瞬く内 君にもしろし召す如く 国大なるといへ共戦ひを好めは必す亡ふと 近くは


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竹田勝頼 父信玄迄其威隣国に ならぶ者なく猛虎の如く 諸候も恐れ候へ
共 勇にほこり武に慢じたる太郎勝頼 累代の武名も一時に朽ぬ 春長迚も真
其如く 御心弱くて叶うはじといさめ申せば慶覚法師 打うなつかせ給ひつゝ 重成
来れと御座をは立せ給る其所へ 大息ついで鷺森八郎 御注進と手を突けは 人々
いかにと仰の下 されは候軍は味方の勝利なれ共 力責めには叶はじと 数千の軍に焼
草を積み乗て櫓/\の其下へ 山の如く積み重ね たゝ焼き打にと云せも立ず 喜
多頭はつたとねめ付け ヤア馬鹿/\しい 何のたは言 其刈柴こそ身が申付けたる一つの計策

御大将の御所なるそ 麁忽の注進早く立てとわさと怒りの一言もしらで鷺森八郎
は 拍子ぬけ/\引かへせば いさ御入と八方に 心を配る重成が底意をくみて慶覚君奥殿
さして入給ふ 夏の日の長きも 我を恨むなる 物思へとや夕暮れの 空を待けり孫
市が 肩にしつかり鎧櫃 人目を忍ぶ陣笠の歩にやつしたる俤は 昔(?)にかはる勘当
の身は猶更に心の隔て 何とせんかた切戸口 佇むこなたの茂みより 忍び出たる大の男
あたりうそ/\窺ひ足 奥を目がけて忍び行 後の方より孫市が 曲者ならぬと
腰(よはこし)をむんづと組で引戻す シヤちよこ才なと振ほどき 直に抜討ち刃の光り かいくゞ


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つて抜き合し 手練の切先はつし/\ 打合刃音何事と 手燭片手に立出る雪の谷 火影
を覆ひ物陰に息を詰てぞ守り居る 庭には二人か上段下段 飛鳥の働き孫市
が 難なく曲者切倒し のつかつて とゞめの刀 血(のり)押拭ひ刀を鞘 納る丈夫死骸の懐
中 探る手先に取出す一書 扨はと月にすかし見て ムゝスリヤ当月二日に春長父子
光秀が為に亡びしとな チエゝ心地よや嬉しやと悦び勇む後ろには 紛ふ方なき夫
の声 飛立斗走り寄 逢たかつたと縋り付嬉し涙そ 先立てり夫も遉夫婦の愛情
やゝ打うるむ目をしはたゝき 誠や飽かぬ夫婦が銘々に 躮を連て思はぬ離別 父の

勘気を蒙りしも 暴悪非道の尾田春長 約を変ぜし故なれば 何卒きやつが首
討取り 親への実検に備へなば 勘当詫の綱にもと 心はやたけにはやれ共 伜重若
引連ては 足手纏ひと未練にも 子に引かされて送る月日 鉄砲疵にて
脚(すね)さへも 思ふに任せぬ畸人(かたは)者 武運に尽し我が身の上 せめて御主君親人のお役に
立て死ん物と 覚悟極まる今日只今 死後に頼むは二人の子供 心得たるかと
夫の詞 聞に女房が泣出す 其口押へて コリヤ親人のお耳に入ば返つて妨げ イデ伜
を手渡しと かたへに直せし鎧櫃 蓋取退ければ重若が かゝ様のふと走り出縋り嘆けば


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母親も 胸に涙の満汐の引くや血脉(ちすし)と奥よりも 姉の松代が声聞付け おとゝ様のお
帰りか 重若の戻つてか嬉しい/\ 早ふ遊ぼと手をたゝき悦ぶ姉弟雪の谷が 膝に引
寄せ声曇らせ ヲゝ嬉しかろ/\ 何ぼふ其様に悦びやつてもの 久しぶりでお目にかゝつたとゝ
様は 腹を切らねばならぬといのふ コレ孫市殿 是を見てかいのふ 何んにもしらぬ二人の子供
お前は可愛ふござんせぬか 此姉弟(おとゞい:鳥取・愛媛の方言)をふり向けて 死ぬる覚悟を極めたとは 余り気強の胴欲
な 武士が立ても捨つても 死なさぬ/\死なさぬと かきくどくも忍び音に奥へ憚るかき
涙 道理としれど声に角立て ヤア未練至極の其ほへ顔 弓矢取る身の切腹は此身の

本懐 今計らずも寄せ手の大将 是角六郎を討て捨 懐中の一書を見れば 都
本能寺において春長父子 光秀が為に討死と 春孝よりのしらせの密書
此騒動に寄せ手の奴原 一旦囲みは開く共 再び寄せんは必定たり 危急を救ふは
此孫市 君と父との命にかはり 首を則ち久吉が陣所に送り和を乞ば 元より寛
仁大度の真柴 よもや違背は致すまし 使は伜重若丸 兼て認め置たる書
斯迄思ひ込だる某 妨げなす不所存者 コリヤ/\二人の子供爰へこよ 兄弟ともにとゝが
子か又母が子か 云て聞かさば賢ひ者と 撫つさすりつ尋るも 胸に無量の思ひ


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有 心はしらで弟の重若 コレとゝ様 わしはお前の子でござるはいの 何じやとゝが子しや
ヲゝよく云た出かしたなア サゝ姉の松代はどふじや/\と 問ど年だけうち/\と母に気
兼の云兼れは ムゝ返事のないは嬶が子か 我子でなくては出てうせうと 叱り付
られ泣く/\も 何のかゝ様の子じやござりませぬ とゝ様の子でござります スリヤそちも
我子とな ヲゝよく云た出かしたなア とゝが子ならば 身が云付る事背きはせまい アノ
親の云ふ事聞かぬ者は不孝者じやとかゝ様が常々からのお叱り どんな事でも聞きま
するのふ重若 そなたも云ふ事聞やるかや アイよふ云事を聞はいのふ ヲゝ扨々うい

やつ 然らば申付る役目が有 今とゝが此短刀を腹へ突立たらばな コゝ此刀と脇差にて
身が首を引切 此一書を添て久吉殿へ持参せば 此上もなき孝行者 合点かいたか
と細やかに 云教やれば驚く母 にらみ付られくいしばる親の心はしらぬ子の
訳も七つ子重若丸 そんならとゝ様の首を此脇差で切と 孝行になりますかや
ヲゝなる共/\ 日本一の孝心 コレ姉様も合点かや サア早ふ腹切て下されと いふにたま
らず母親が 我子引退 エゝ忌はしい子供では有はいのふコレ孫市殿 いかに望が立たい
迚 何弁へない此子供に 親を殺せと教る人が 又と世界に有ふかいのふ 夫や我子


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を安穏に置たい斗にとやかくと 心を尽す女房を思はぬ仕方情ない 親の別れ
も身の科も弁へしらぬ仏様 是にせうとは胴欲なせめて此子が生先を 見届
る迄生て居て下さりますが親の慈悲 頼むはいのと斗にて訳も 詞も涙川
膝に漲る風情なり ヤア益なき諄(くりごと)聞たくない 三千世界に子を思はぬ親が有ふ
かうつけ者 左程躮に此首を討しかたく思ひなば 子供にかはつて介錯せよ サア夫レは 得
心なくば縁切ふか じやといふて是がマア ヤア未練至極の其ほへ顔所詮介錯思ひ
も寄ず 見さげ果たる女めと 取て引寄提緒(さげを)の早縄 庭木の杉にしつかと結ぶ

妹背の乱れ口 こがるゝ其身は梢の猿(ましら)膓(はらはた)を断つうき思ひ 母の有様見るよりも 二
人の子供はおろ/\顔 コレ/\松代 重若もとゝ様の両の手に取付て居やゝ 必ず放して
たもるなと あせれど夢か現なき 夫は今を最期ぞと 諸肌脱ば弟の重若 とゝ
様もふかや ヲゝサ今か親への孝行時と 云つゝ短刀我腹へぐつと立ばはつと散る から
紅ひに目もくらみ心も消ゆる雪の谷が 闇路をたどる思ひにて正体もなく
伏沈む 嘆きの折も一間より ヤレ躮其刀引廻すな 云事有と父重成 しづ/\と
立出 ホゝ遖忠臣よくしたり 今こそ勘当赦しくれる 是を此母の思ひ出に 心


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静かに最期をとげよ とは云ながら二人の孫 親の死別も夢現 嘸成人の其後は 嘆
くで有ふ悔みからふと 思へは不便弥増て 我は老木の末近く 便とするは母の親
むごい祖父(ぢい)じやとコリヤ恨でばしくれるなよ 我迚も骨肉の躮を見殺す
胸の内 どの様に有ふぞいやい チエゝ是非もなき次第やと 胸に湯
玉の涌き返る 親の思ひの有難涙見上 見おろす一世の別れ 手負は涙おしとゞめ
ハゝ有難き父の恵 忠孝全く望は足りぬ サア重若松代 最前とゝが申付たる役
目は只今 サ早く/\ コレ/\必ず切るまい 切たらば母があつゝをやるぞやとおどせば

遉子心に ひかゆる手先 ヤア詞背くと子でないぞ エゝとゝ様の御用を聞と
かゝ様が叱らつしやる 其嬶様はあの様に縛られて居やつしやる コレ重若 かゝ様のアノ
縄をといて上てたもいのふ サア夫レでもあの様に白眼(にらま)しやる物 ヲゝ何ぼふ叱ら
しやつても大事ない 此縄といてたもいのふ コレ申舅御様 同じ様に脇見せずと
なぜとめて下さりませぬぞ 現在夫孫を親殺しにするが情かじひかいのふ 此
縄をといて下されと 頼む嫁より頼まるゝ 舅が胸の苦しさを こたゆるつらさ
皺面(じうめん)は 涙に増る思ひ也 斯ては果じと孫市は 我子の腕先持ち添て しつ


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かと当れはぐはんぜなく ともに力身で とゝ様斯かや ヲゝそふじや出かす /\
も一世の別れ 二世の名残と雪の谷か消る間を待夫の命 神も仏もない
事かと 乱るゝ心乱れ髪血汐争ふ血の涙 上には父が称名の 声諸共
にりんの音 慶覚君は他念なく 南無あみだ仏 /\なむあみだ仏
の回向の恩徳広大不思議にて往相回向の利益には還相回向に回入(えにう)
せり 声は如来の迎ひぞと えい/\/\と孫市が首は前にぞ落にけり
わつと恐れて飛退く子供 母は其儘打倒れ前後不覚に 泣叫ぶ 始終見届け

重成が 目に持つ涙押拭ひ ハゝ生者必滅の理り今目の前に見るも夢 せめ
て夫の切首に 暇乞をと立上り 縄ときほどけば雪の谷は 其儘首にしかみ付き
覚悟故とは云ながら いとし可愛い姉弟(をとゞい)に 嘸や心が残るであろ 魂魄去らず
ば今一度 物云てたべ孫市殿 我夫マのふと押動かし 尽きぬ名残の百千行 声
を限りに泣叫べば ヲゝ其嘆きは理りながら 主君へ忠死の躮が功(いさを)し 出かしをつ
たと誉めそやす 親が心を推量せよ 不便と斗詞数 云ぬ心のせつなさを 思
ひやつたる雪の谷が 正体涙の声を上 家を忘れ身を忘れ討死する武士(ものゝふ)


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の 習ひと覚悟しながらも 得諦めぬは女ゴだけお赦しなされて下さりませ 長い別れ
としらぬ子の常の遊びか何ぞの様に 親の首をばむごたらしい 切が手柄に成と
いふ教へは外に情ない いかなる宿世(すくせ)の報ひぞとくどき立たる恩愛の 心はひ
とつ重成も 瞬き繁くはら/\/\ 涙は雨か夕雨(ゆふだち)の車軸を 飛す如く也
折しも吹来る風に連れ響く 貝鐘責鼓 又も敵や寄するかと 驚く雪の
谷騒がぬ老人 思ひがけなくかしこより 足利の正統たる慶覚君を御迎ひ
の為 中川清秀参上せりと 呼はり/\ 入来る清秀 喜多頭ははくはつとせき立ち ヤア

和議を破りし無道の春長 其禄を食む中川瀬平 納め過たる上下衣服 御迎ひとは何
のたは言 ホゝ一旦の憤りは尤至極 此度の合戦は御舎弟春孝殿 事を計りし礼を乱す
去によつて真柴久吉 内意をもつて立越へしは 密かに都へ供奉(くぶ)せん為 早御用意と云せ
も立ず 逆賊光秀が為に自滅せし春長父子 知るまいと思ふかや 石山方に名を得
たる鱸喜多頭重成 眼は日月 及ばぬ事をときめ付くれば 清秀猶も詞をつくし 成
程推量の如く当月二日 都本能寺において主君横死 愁ひに沈む我々 偽り
の有べきや 取り分け子息孫市殿 死を以て久吉殿へ願ひの一条 今より一子重若丸


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父の忠義を頭に戴き 二代の鱸孫市と名も改る両家の和睦 慶覚君の御本願
照らすも法(のり)の道広く やがて目出たき栄へをと情の詞に疑念も散じ ハゝ誤つたり/\
ヶ程厚志の真柴中川 躮が願ひ我君の 法の門出一時に開け 此上もなき我が悦
び コレ/\嫁女 孫が手柄は二代の忠臣 嘆きのなかの悦びと 舅の詞聞くに付け いとゞ
涙に雪の谷がいらへも更に泣斗 早御立の刻限と 追々警固の諸軍勢 見る
より重成手を打て 万事に馴し清秀殿 イデ我君へ此様子申上げんと立上れば
イヤ聞く迄もなしとくより慶覚に有りとしづ/\と立出給へば はつと恐るゝ二人の

勇士 慶覚君は御衣(ぎよい)の袖しぼり給ひていかに旁 孫市が忠死により
万死を出しも仏の恵み 久吉が情の計らひ 又清秀とやらんが志し 過分
至極とのたまへは 清秀なをも敬ひ深く コハ有がたき 君の御諚 此上は御
心置なく早鶏鳴に程近し いざ御発駕(ほつか)とすゝめに君は おつ立給へば ヤレ暫
く 御門出を寿きの孫めが一さし 御上覧に入れ奉らん 嫁女 常々教へし扇の
一手早く/\と舅の詞 涙ながらに取上る 鼓のしらべ重若が 祖父
様 謡をうたふてやと 扇をしやんと 身の備へ あら目出たや末広の 君


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の栄へは 万々歳と祝しけり 拍子につれて稚子のかなで 祝する末広
の 其一曲は末の世に 名をとゞめたる鱸がおどり 因縁斯としられたり いざ
御立と清秀が詞に ふり出す行烈の おさへは二代の鱸孫市 武士
の鑑となる鐘の音もろともにあけて行 夜もしら/\と白鷺の
森をはなれて 飛こふも 一君のさかへを白鳥の神の応護と勇み立ち
   同八日の段          都の 空へと 供奉しけり