絵本太功記 六月九日

 

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      イ14-00002-093

 


65(左頁)
    同九日の段
徳は咎轍(きうてつ)に勝ち凶邪を除くとかや されば真柴久吉中国の大敵を攻め付んと 水をもつて
手をぬらさず忽ち和睦相調日大物の浦に着陣有り武名の 程そ類ひなき 加藤正
清進み出 信長(しんてう)といふ鬼の再来と おぢ恐れし春長公を討取たる逆賊の武智光秀
一時も早く都に責入り ひねり殺すが君へ追善 早御用意とせり立れば 久吉莞爾と打
笑ひ 今に始ぬ正清が勇言ヲゝ心地よし/\ 去ながら此久吉中国に発向せば 都に足を
入れぬ内伏勢を以て討取んと 武智が結構顕然たり うかつに上京なす時は過つて死地


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に入らん 必油断すなと 軍慮にさとき久吉が詞にあつと諸軍勢 英智を感ずる斗也
折ふしひよか/\浜伝ひ 藁ふご片手に百姓長兵衛 旅僧一人引連れて伏し交ぜくら行過る
軍兵共は声をかけ ヤイ/\土民蛸坊主 真柴筑前守久吉様の御前とも憚らずのさはり
あるく横道者 控へおらふと咎められ アゝそんなら久吉様はそこにござるか お坊爰じやとやい ヤレ/\
嬉しや/\ マア一ぷくしませうと藁ふごどつさり高あぐら ヤイ/\まだぞんざいなうづ虫めら アゝコレ/\
其様にけん/\云はんすな 久吉様のお目にかゝつたら さつぱり訳か分かる物じや ノウお坊ン 成程左様
大坂今里村の長兵衛 江州の観音寺の僧献穴(けんけつ)が集りましたと おつしやつて下さりませ ヤア

長兵衛でもけれん穴(けつ)でも 対面なさる用事はない きり/\立てと争ふ軍卒 真柴久吉御
声かけ 某に対面せんとは子細ぞ有ん是へと小瀬と御仰 ハツと恐れて両人を君の御前にいざ
なへば 久吉二人を見下し給ひ 終に見馴れぬ其方達 子細いかにと有ければ ハゝゝ テモ扨も物覚
のわるいお人 わたしを見違へてござるはいの ソレアゝいつの事で有た 今川とやら庭訓と
やらいふ大物に負さつしやつて 春長様と二人連れでこちの内へ逃込ましやつたを お世話申た今
里の長兵衛でござりますはいの ハイ/\愚僧は前方江州の山寺観音寺の住職
致しをりました時 岸田村の百姓の息子 岸田太郎吉といふ者を私か小姓にして置ました


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時にあなたがお立寄遊ばしまし 其小姓に御茶をくましたらお目にとまり 奇麗な小姓
しや こちへおこせとおつしやる故 二言となしに若衆を献じた献穴と申す者 様子有て只今は
今里村に詫住居 余りおなつかしいやらまたはお願ひの筋も有り わさ/\是なる長兵衛殿
と同道で集りしと 高座馴たるしら声はり上 汗押拭ひ語りける 久吉は打うなつ
き 成程聞けば一々覚の有る事 両人とも無事で重畳(てう/\) シテ我達が願ひの筋は アイヤ
外でもござりませぬ 知ての通り本能寺で春長様をころりといはした武智光秀 き
のふからおらが在所へ陣を取先手の衆は京街道に出張してお前様を殺すとの謀事

憎さも憎し お馴染のお前様 武智に討たすは残念なと此お坊との咄し合 そこでおらが一生
にない智恵を震ひ出し お前様をそつとおらが在所へ連れて逝んで 思ひがけなふ光秀
めをころりと云はしてこまそふと わざ/\迎ひに来ましてごんす サア/\/\一時も早ふ用意し
て 武智を討取る魂胆さしやませ ほんにまた忘れた事が有はい 久しぶりてお目にかゝ
つた 土産は是と藁ふこよりこて/\取出す瓜二つ コレ是はおらがあけ地に出来た真瓜(まつくは)
うり 切てあがつて下さりませと 自慢らしげにさし出せば ヲゝ明け地に出来しを切て喰へ
とは幸先よし満足/\ 殊更汝が光秀を手引して討せんとは天晴忠臣出かした/\ 恩賞


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褒美は両人共 望に任せ得さすべしと仰に悦ぶ両人より 勝色見する味方のどよみ 皆
勢ひを添にける かゝる折しもかたへにならぶいな村より鬨を作つて武智の軍卒 久吉やらぬと
切てかゝれば加藤正清 シヤちよこ才なあぶ蠅共 目に物見せんと太刀抜て切かくるを
受けつ流しつ乱軍の互に凌ぎを削り合 浜手の方へ戦ひ行 両人は立つ居つ こりやえら
い大騒動 怪家のない内久吉様 サア/\ござれと先に立ち 歩む両人明智(めいち)の久吉出行僧
を引戻し ぐつと一しめかたへに投退け 百姓長兵衛とは偽り 誠は武智光秀の旧
四王天田嶋頭 とゞまれやつと声かけられ 頭巾かなぐりぐつと詰かけ 遉の久吉よく

察した うぬを偽りおびき寄せ討取んと計りしに 見顕はされて残念至極といふより早く藁づと
に 隠せし業物抜放し 久吉目かけ切付れば ソリヤ遁すなと軍兵共 群がり寄つて
突かゝる 鑓の穂先はしの薄 なぎ立て/\切結ぶ 勇猛不敵の四王天 乾闥婆(けんだつば)王
の荒れたる如く突伏せ切伏せかけ上れば あしらひ兼たる真柴方胴(ど)を失ふて見へにける
久吉も心を配り味方の勝利覚束なしと 有合僧の袈裟衣手早に取て
我身に着し 馬にひらりと飛乗て 浜手の方へ只一騎欠出す向ふへ四王天 夫レと
見るよりくり出す穂先 得たりとかはし一さんに駒を早めてかけり行 ヤアきたなし返せ猿冠


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者めと跡を したふて 追て行 田畑あぜ道嫌ひなく追つかけ追詰め四王天 額に
無念の息煙(いけふり)立ち勢ひ込でかけ廻る 遥かに夫レと加藤正清踊り上つて田嶋頭
観念せよと切込太刀 心得たりと渡り合 双方劣ぬ勇猛力火花を散らして戦
ひしが いらつて打込む正清が凡人ならぬ希代の切先あしらひ兼て四王天漂ふ前を切
伏せ/\ 主人の安否気遣ひと跡に 見なして走り行 さしも勇気の田嶋の頭
数ヶ所の深手によろぼひ/\ チエゝ残念や 斯迄手に余る真柴久吉討もらし 夫レのみ
ならずむざ/\と 名有る勇者の首をも取らず 討死するか口惜しやな 思ひ廻せば廻す程

運の強き猿冠者め 此土をはづれいつか又きやつを討取期(ご)やあらん 無念/\と云死に 爰
    同十日の段     に名のみを残したる 田嶋頭か身の果の哀なりける

 

 

  六月十日(夕顔棚の段)につづく