仮想空間

趣味の変体仮名

日本振袖始 第二

 

読んだ本 http://archive.waseda.jp/archive/index.html

      ニ10-00299   


24(左頁)
  第二
万古(ばんこ)目前の境界懸河渺々(べう/\)として巌(いはほ)峨々(がゝ)たり
山又山いづれの?(たくみ)か青巌(せいがん)の形を削りなせる 水又水誰が
家にか碧潭の色を染出し 天よりふりしもがり山見あぐる嶺も
森々と 万木(ばんぼく)雲を貫けば月日の影もめに見へぬ 鬼住山ぞ
おそろしき やく神の首領三熊の大(うじ)人 けんぞくぶるひの悪鬼邪
神にいにようせられ 黒雲にまたがり座し 猛虎の吼ることき大声


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にて語つて曰 扨も芦原国の始天照(てんせう)大神にせめ付られ
吾らがたぐひ人民にあたをなさじと 手形のちかひをなしけるに 我
其時は八重のしほ合にかくれ住 彼の手形にはづれしゆへ 此度当
国当山に住居(すまい)し 風水山嵐霧かすみと変じ 人民に邪気を
吹かけなやまし煩はしめ 気をのみ血をすゝるに日本人肥て血の味(あぢはひ)
あまく けんぞくの汝ら迄腹をふくらす事唐土天ぢくにまさる
しかるに素戔嗚の尊といふえせ者 討手を蒙りあれ/\

あれを見よ 麓に数万の軍兵鉄をそろへ鉾ふすまを作つ
てせめのぼる そも素戔嗚なればとて何程の事あらん 通力
じざいは此度水を巻上火焔をふらし 身をかくさば芥子に入
顕れは天にまたがり くん兵けころしふみころし 力立する天稚彦
がほそ首引ぬき手足をもぎ 尊をとつて八つに引さきこずえに
さらし 日本をまこくにせん いさめやすめけんぞく共 怨々やつと
おめく声 雲にこたまの木の葉をならし ふもとにひゞく時の


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声 石をふらせて雨まじり土風山風「尊の昵近(じつきん)天稚彦
ぬけがけの高名しめをさまさんと夕やみに 物の具取てかたに
かけ 同し毛の甲の緒をしめ たけ成駒に鞭(ふち)くれて 舎人もつれ
ず只一騎 陣所を出て鬼神のすむしげみをめがけあゆませ
たり 長雨の足もしどろに雲ふかき 険阻かんへきつゞらおり
俄に吹来る風の音に 駒はしきりに高いなゝきし身ふる
ひしてこそ立たりけれ ヤアけしからぬ空の西風 鬼殿そびを 

かはるゝな ムゝそれすいたおもしろいと 鐙ふんばりくらかさにつゝ立
あがり大音上 只今先陣の若者を誰と思ふ 忝も天地
同体の御神 伊弉諾伊弉冉の尊の御子 天照大神の御弟
神武ゆう力のほまれ有 そさのおの尊の膝本さらず 天稚(あめわか)
彦とは我こと 手形はづれか手形をそむくか 三熊の大人虫
とやらんに見参せん出合やつとよはゝつて 山をにらんでひかへしは
いか成てんま疫神(やくじん)もおそれつべうぞ見えてけり 山はひつそ


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としつまつてこたふる物は嵐の音 エゝ聞た程もない鬼共
一疋も顔(つら)出しせぬは天稚彦がこはいか 出よ/\と乗廻し/\
のりすへてひらりと飛おり せつかくよせても先陣のせうこ
なくては後日のふかくとさしぞへぬいて松のあらかは押削り 腰
指しの石筆かみしめし 今月今日当山に先陣をかくると
いふ共 おく病の鬼共一疋も出合ず 近頃よはみそ鬼味噌の
しるかけ鬼 くい残す残念/\ さそのおの尊の御内 天稚彦

十八歳と大もんじにぞ書たりける時に山谷あいどうし こ
ほくを吹き折り一嵐かうべの上に落かゝり 一丈余りの鬼の腕朱
ぬりの熊手と云ひつべく 毛は金銀の針ばり/\ 甲の鉢をむん
ずとつかんで引上たり ヤアしほらししひかれはせじと両足しつかと
ふみしめて 錣(しころ)に手をかけうんととまればえいやと引 えいや
/\おふ/\わんとひいつとまつゝ人力 しはし勝負はあら
かねの 土をはなれて引あけしは釣瓶を釣たることく也 太刀をさか


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手に突け共切共手こたへなし さしつたりと取なをしきつてはなす
忍ひの緒 主は大地へどうと落 甲は雲間に引入て こくうに
どつと笑ふ声山も崩るゝ斗也 臆病のくせこうまんもの 鰐
香背大きに腹を立 天稚に先陣こされしきつくはいと 軍ぜい
引具し一さんに馳来り いくさ大将を出しぬき制法をやぶり
ぬけがけせんとはすいさんと声をあらゝげのゝしれば いやさ手
がらはしがち 味方同士の広言いふ手間で鬼にひかつて一句も

出るか聞たい/\ ヲゝおぼへがなふて大将が成物かと壱越調(こつてう)をか
すりあげ 抑(そも)悪鬼追討の勇将 そさのおの尊の執権
いくさ大将鰐香背の臣とは我事也 名を聞てさへびつくり
せう 顕れ出てけがしようより こはくばどいつも出おるなと
いかめしげによはゝれ共 胴はわな/\ふるひけり 諸卒を下知して
天稚彦 さしめつ引つめ射かくる矢さき 悪鬼もこらへず爰の
梢かしこの雲間 異類異形に身を変じ 土石をとばせ火焔を


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はなち 人ちく両陣入乱れ火水をちらして 「いどみ合ふ よせては
大ぐん四方八方に切立られ 鬼だまいにくはつ/\とため息ついてぞひかへ
たる 其中より犢牛(こつていうし)の二疋づれ 鉄杖提げ三熊の分身かくれなき 
滅鬼(めつき)積鬼(しやつき)といふはやわざ 鰐香背が名乗やうしやらくさく
人くさく 鼻がひこ/\かうばしし サア出て勝負せい汝らがせわに云
ごとくわれらがせんべかむやうにかり/\かんでのまんずと大
口あいてぞかゝりける 詞に似ぬ鰐香背がた/\ふるふて逃ん

とす 天稚彦草摺取て引もどし 敵に声をかけらるゝは弓
矢とる身のこのむ所 いくさ大将のお働き見物せん所望/\
サア一いくさとつき出されてふるひ/\ぬき合せ 二打三打うつ
と見へしが めつきしやつきがちらつくはやわざ 打立/\ほつたて
られ エゝ血なまぐさい鬼共むさい/\とかいふつて みかたの
陣へ逃入しを笑はぬ物こそなかりけれ 勝に乗つて追かけ
来るを天稚へだて渡り合ひ 上だん下段にきりむすび 飛鳥(ひてう)


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のかけりの手をくだき ゆん手めてへ切ちらしおめいてかゝるけんぞく
共 得たりやおふと声をかけ あたる者を幸に落花みぢんに
「きりちらす 大将三熊 三尖二刀の鉾かる/\゛と横たへ づしり/\
とゆるぎくる 鰐香背きつと見るよりなんでも爰は思案
所 きやつを討て天稚に鼻あかせ 今のめんぼくすゝがんものと
胴をすへても歯の根が合ず 間近くくれはびつくりうろたへ
アゝ/\まちや/\わらぢの緒がとけたと かゞむるよはごしむずと

とり うんとさし上くる/\とふり廻し 大地へどうと打付すでに
かうよと見へけるが 天稚すかさず飛かゝり只一討とふり
あぐり 太刀の柄むずとつかんで引よせ両の膝にひつしいたり
ヤアとつこいおのれにしかれうかと はねかへさん/\ともみ合
共 大ばんじやくをおふごとく眼も飛出る斗也 そさのおはる
かに御らんじ百獣の洞(ほら)の内 獅子のたけるごとくにて一もんじに
かけ付 三熊が項をつかんてかろ/\゛とさし上 かんへきにどうと


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打付胴骨をしつかとふんでつゝ立あがり いかれる御声にて
汝いかなれば我国にあふれ出 岩長姫と生(しやう)をかへ 丸か預り
奉る宝剣を奪とり 神国の宝を失ふは国をかたふけん
ためか 丸がいきほひをおさへんためか 庭上にてのんだる宝
釼 何国にかかくせし出せや出せとはつたとにらみ 退散三魔
軍の御足にかけ 宝剣出せとふみ付給へば 通力しさいの三
熊も天孫しぜんの威力におされ くるしけ成息をつき あゝ

ら恐れ有何ゆへにか 此国の神宝を奪ひ奉るべき様更
になし 彼の宝剣と申は出雲の国飛皺(ひ)の川上 鳥上の嶺に億
万劫(こう)をかくれすむ 八岐の大蛇と申 身八頭(はつず)の大じやうばひ取
鱗の皮肉にかくし置 彼大蛇をほろぼし給はゞ宝剣ふたゝび神
宝と成給はんと疑なし まつたく我らがうばふにあrたず命をたすけ
給はれと はら/\こぼす血の涙 鬼の泣のは人よりもどうすけ
なふて哀也 尊あざ笑はせ給ひ 当座の命をのがれんため 丸を


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あざむくおろか/\ 汝がうばはぬせうこを出せとふみ付給へは アゝ
申々御疑ひ御尤さりながら 天地の間の悪鬼悪蛇 同類
胴性とは申せ共つかさどる役々にかはり有 我らは厄神の首領四
百四人のけんぞく共 人間に百四病をあたへ 業のつきる命は取
非業の者はころし申さず 神は正直鬼神には横道なしせかいの人
が無病てしなぬためしもあれ みぢんも偽り申さず末世末
代の人間 尊の御名を称ずる者しゆご神と成申さん 今の一命

御たすけと首領がかうべをさげければ 有合ふけんぞく一どうに
御免/\と泣声は 数千疋の犬おほかめ一どにほゆるがごとくなり
尊得心まし/\ヲゝいしくも申たり たすくべきものならねど 宝
釼は八岐の大蛇が取たると 告げしらせ恩賞によつてけんぞくに
至迄 此度の命をたすけ置 かさねて我国に仇をなさじとちかひの
手形天てる神の御神制に任すべしと かたぼねつかんでなげのけ給へ
ば 有がたし/\命たすかる手形なら千枚でもいたさんと けんぞく共


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もいき/\と悦びいさみはね廻る 鬼おとり共云つへし 鰐香
背天稚声をかけ ヤア/\御前成はしづまれと 一紙の巻物着到
硯一疋づゝ罷出 名乗て手形仕れ あつとこたへてあゆみくる
しらが まじりのおどろのかみ 杖にすがつてかゞみ腰 きやつは鬼の家
老かや いか成病ひの神やらん さん候某は冬の雪の夜秋の霜
寒気の折々虫と成 鰐香背殿の腰の廻り 御見廻申せし
おなじみの疝気の神 御見忘れは曲もなし 当代人間さかしくて

むねへのぼれはだい/\のみ 足へさがればふじ三里灸と針とに行
方なく 近頃慮外な小袋に かゞみますると顔しかめ 手形押
てぞ入にける つぎに出しはめの内迄 まつきにそまるくちば色
木の葉衣の裏ふれてき成涙に袖ぬれしを 天稚きつと
目利きして 疑ひもなき黄疸神 汝が手では判の色もちがふ
べし 念を入て手形おせ 扨も見脉(けんみやく)お見立のき成かな妙(たへ)成かな
わけてはどうもくちなし色 たゞ御推量お吸物 我らがきんもつ


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名を聞ても蜆汁 からもこはいあらこはやと手形押/\おしわけ
て ぶり/\ふるひ出たるを 鰐香背はやく声をかけ 我も目
利は劣るまじ 邪気おこりのまつさいちうと 見ためは三寸ちがはせ
ぬいかに/\ととひかくる いや/\大きなくすりちがひ 某は中
風の神名は半身と申者 桑の箸さへ左の手口をゆがめて
入にける つゞいて見えしは水ぶくれはつたり/\腹のかは おかしさ
こらへて天稚彦 いはねど水腫脹満神 申に及ぬ鬼の口

とつてかも爪山牛蒡 くすり喰ひの其印押せば押す手に水たり
て 判も薄すみかたすみからみだれ髪にしで切かけ 気へん/\
とせき上て 鉢巻水鼻たれやらん されば候何がしは あつやさむ
やの風の神 手療治のせうが酒敗毒さんに追出され 一汗
さつとなかれかりし橋くひの くひの八千たび百たびもおくられ
ましたと押にける 其ほようちやう腫物(しゆもつ)の統 きよらう陰去
火動(くわどう)神 腹痛頭痛のかしら神 急難急病内損外損(げそん) あ


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かゞりそくふほくろの神にいたる迄残らず手形を顕はせは くはん
ぢくは首領の三熊 左右の大手をしつかと押あしはら国の人民は
無病そく才延命と いふ声斗一紙に残り 立まふ霧のもがり
山悪鬼は きへてうせにける 尊は猶も御いせいの 慶賀の声や
勝どきの 声に打そふ松の風 /\なびく草木や日月の籏を
なびかせ「帰洛有 尊の御いせい かくれなく大津児屋の臣
勅諚かうふり 梓川原にひらはりうたせ 文武の下司(づかさ)左右に

したがへ棟梁の臣下の預り 天の逆鉾屋形紋の錦にうや
/\しく 其身は床几に悠々と尊をむかへ待給ふ 先陣の天
稚彦いきりきつて走付 ハア児屋の臣の御出かと桟敷の前
に膝をつき 君此たび悪鬼をしづめ御かいぢんかくれなく悦び
の御迎ひと相見へ 御念入段御くらう千万 いやはやきん国の
悦び お通りの道筋 土民うばかゝわらんべ迄が御恩のため道を
清める 箒よつちよと足を空にかけ廻り 所々の領主郡主が


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出むかひ/\ 一樽(そん)をさゝげ御馳走 御内の我々迄行さきの御
酒で道ばか参らず 此桟敷尊あれより御覧し 又隙とつては
都入延引す さきへ走りて断り申せとの仰せ とかく御隙のとれぬ
様に 一刻もはやく御帰洛有が御馳走 さつと御悦びのお盃
斗 お吸物など御無用 諸軍勢も認めよし 何にもおかまひ
なさるゝな はれやれ大きなお心つかひ はや御籏の手の見へ
たれば御馬も近付候と 声もはやりお素戔嗚のお馬も

すゝむ轡の音 りん/\たる威風あたりをはらつて見へにける 天
稚かくと披露せは手綱をひかへ 是迄の出むかひ過分/\
思ふまゝに悪鬼をしづめ国せいひつすいりやうせられよ 片
時も帰洛いそぎ度殊にかいぢんの路次(ろし) 馬上用捨に預らんと
乗出し給へば天津児屋飛でおり 端出(しりくめ)のしめ縄引渡して道
の真中をさへぎり 尊にむかつて大音あげ 和君も二柱の
御子 天照神の御弟なれば御存知の事ながら 此一尺三縄(しめなは)は日の神


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いはとを出給ひし時 我らが先祖此なはを引廻し又ないはとへ入給ふ
なと奏せしゆへ 神も此なはこへ給はず 此国にとゞまり給ふみし
めなは サアならばこへて見給へ都の方へは一足も叶ふまじ 日月の御籏
を渡し遠き韓国根の国へも ちくてんあれと案に相違の顔色
尊を始諸ぐんぜいあきれ 果たる斗也 尊むまよりおり立給ひ
心得ぬことを聞物かな あやまり有てこゆるならは 法(のり)をこへ制
を背く共云つへし 宣旨に任せ悪鬼をしつめ手形をせさせ

かいせんするそさのお何ごとかあやまる ふみこへて入洛せん サア
来れぐん兵と 既に御足を上給へば児屋の臣太刀に手をかけ
ヤア是々 誤りなしとは猿の顔(つら)笑ひ身の上しらず 美濃の国の悪
鬼退治を功に立られんとはおろか/\ 其為にこそ日月の御籏
を預けぐんぜいを付られし上は それ程の手柄はなふてかなはぬ筈
シテあしはら国三の宝の其ひとつ 十握の宝剣和君の好色れんぼ
より 化生にうばゝれ給はずや 既に出陣の内此宝釼とらずんば


38
帝都の土はふむましと 天にあふぎ地にむかつてのせいごんはサア覚へ
てか忘れてか ちかひをそむき手ふりて帰つて神の式(のり)をこへん
とや わづかほそきなはなれ共一筋是を引時は内有外有うへ
有下有四方有 なはをとれば内外上下のわかちなく 闇も
同然是一心を表するなは 心にしめを引時は 主従親子忠孝礼
義のわかちをしる 是をわかつを神共いひ人共いふ わかちしら
ぬを鳥るい 畜類と名付たり 今畜生数に入てこへ度ば

こへられよと一言四海を覆ふの詞 ことはりかな末代日本文武
の政(まつりごと)を司とる 摂政関白の元祖春日大明神と顕れ給ふは
児屋の臣の御事也 誠の道理にせめられてさしもにたけき
そさのおも 雲をはなれし雷土(いかづち)の桑の立木にはさまれ
て くるしむ形(なり)もかくやらんしほ/\として詞なくさしうつむいて
おはします 鰐香背籏棹取てかい込 アゝ正直過たる我君
常々申は爰のこと 帝の為には親同然の御身から さくやひめの


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れんぼに女一人さへ御手に入す 剰さへ御命を的にかけ 悪鬼退治
の討手過分共御大義共いふことか いきもつがせずまだ宝剣が
たらぬとは しつかい帝のつかひからし 下郎下人をやとふても礼を
いひ賃を出す 徳もなきむだ働き同し手間では此おはたを
押立 棟梁顔する児屋の臣を討て捨すぐに都にきりいり
瓊々杵帝をおつ下し君御位につき給はゞ 后も宝剣もいな
から天下は御心のまゝならずや いひかひなき御所存や 御むほん

おぼし 立給へと鰐か見入し悪性根尊ほとんど打うなづき馬
引よせよ籏あげよと御むほんの気さし顕れたる あめわかひこ
鰐香背が持たる籏棹ひつたくり 御膝本につゝかゝり大地をたゝ
いて エゝ/\口をしの御所存やな 厄神共に手形をせさせ給ひしは
きのふけふ 其手形は何の為 日本の人民をなやまさじ 国の妨げ
いたすまじとの手形ならずや 今御むほんの思ひ立 天下をくつがへ
すは国の妨げ民の煩ひ 鬼畜におとりし御心 甚深不識の了智を


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そなへし児屋の臣をかろんじ 虫同然の鰐香背風情にいひま
わされ 天孫の御身をあやぶめ給はん浅ましさよ 御為大事と存る
ゆへ 慮外の詞御免あれと涙を うかめ申けり 尊大きに御気色
そんじ かんけん立聞にくし 鰐香背は命にかへての忠節 おのれはい
のちをおしみ軍を恐れ 忠節にかこつけ身をのがれんとのかんげん
ひきやう者臆病者と御足にはつたとけちらし給へは 起なをつ
て鰐香背がえりがみつかんで引よせ胸板に乗かゝり 心もとを

三方四方指し通し かへす力を其身が鎧の引合せ あばらをかけて突
込だり 士卒あはてゝかけよるを アゝよるな/\と押とめ かりやのかた
をしりめにかけ 愚人千人万人より児屋の臣の思召 よみぢの
そこ迄恥しし 命をおしみいくさを恐るゝおくびやうとは あまり成
仰やな 十一歳の春より片時おそばをはなれず みやづかへ申せ共
かくなさけなき御詞 ついにみゝにふれもせず 非道の御むほん
に討死せば なんばう命おしかるべき うぬが身をたてんためあくじをすゝ


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むる鰐香背を 君忠臣と御らん有 我らは不忠佞人と見て
討て捨 腹かきやぶり命を捨てかんげん申 臆病者のしわざを
御らんぜ 我君なふとかんげんはばんじやくの 詞はおもく一命は露より
かるくきへにけり 天津児屋も両眼にかんるいをかけながら 尊
のまへにつゝ立 此御矛(みほこ)と申は 女神男神の御代を治め給ひし
天のさかほこの御形 執権の家に預りつたへ 国のしやうばつ是
に有 尊の咎を今打杖 姉御神の御手をかし給ふぞと追取

のべちやう/\はた/\打や現共 夢共わかず茫然と忽御心ひる
がへり しさつて坂鉾てうだい有かへしさゝぐる御籏の印かゝやく日月と
共にはれ行御心を諸卒もあつとぞかんじける 尊つきせぬ御落涙 児
屋の臣の誠の杖 天稚彦が忠義のじがい 我父母の教も此上の有
べきか 宝剣を取かへし 身の誤りをとく迄は 供もつれも頼まじ只我
ひとつ身をこらし 形をくるしめ心をいため 雨にうたれ風に伏し天
地のせめを受てこそ 罪も少しははれやせん 暇申と出給へば 児屋


42
の臣もいたはしさやふれし賤のみの笠を 旅のやどりと参らすれは 共
に涙の雨よりも 天を恐るゝ竹の笠 きのふの冠引かはり国を憚かる
すがみのは けさの錦の移りはて 高き位は時の間に賤のやつことやつ
れ行 猛くさかしき力にも 押にゆがまぬさかほこに うたるゝ君が
非をあらため 臣はいさめて打杖のつきぬ なごりやこぼるゝ
涙つゝむにあまる雨くもの 立わかれても天地(あめつち)の ま
ことの道の末すぐに引しめなはや永き代の人の掟と成にけり