仮想空間

趣味の変体仮名

伊達娘恋緋鹿子(弐の巻)

読んだ本 https://www.waseda.jp/enpaku/db/  
     イ14-00002-513

 

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  弐の巻          「急ぎ行
木々に勝れて高き木は風に折らるゝ世の譬 無実の難に近江の国 高嶋
の家中安森源次兵衛が一構へ若殿の放埓より御釼の紛失も 我身の科と引
受けて出仕も止(やむ)る遠慮の屋敷 物静かにぞ見へにける 嬪(こしもと)婢(はした)が替る/\願ひは
何と白洲の庭 徒跣(はだし)参りのお百度千度 数打納て ナフお組殿お萩殿 思ひ
も寄ぬ今度の災難 奥様のお案じといひ余(あんま)り見るめがお笑止さ どふぞ
早ふ事済んで御出仕も遊ばす様 三井寺石山竹生嶋 そこら傍りの観音様へ

銘々の願立て ?(しきい)一寸出られぬ御遠慮 屋敷の内でお百度参り自由な願ひ
も仏様は見通し ヲゝおさち殿の云はしやる通りこんな時が真実の御奉公 兎角頼む
は神仏 随分信心しませふと 影日南(ひなた)なき下々の 心も常のつかひがら 主の
心奥床し 洩聞へてや一間より 源次兵衛が女房お町しとやかに立出 しほ
らしひそち達がお百度参り 思ひ寄らぬ夫の御難儀 一人子の吉三郎は
様子有て殿の御勘気 無事な便りも文では知ど 問ひ談合をする事さへ
なつかしい我子の顔 夫の身の上兎や角と案じるも心一つ 思ひやつてたもい


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のと打萎るれば嬪共 お道理様やと供涙 袂干す間ぞなかりかり 玄関番罷り
出 御上使として笹尾金右衛門様御出なりと 知らせに心ならね共女共は此様子 夫へしらせ
と騒がぬ風情 待間程なく入来る 上使の役も高ぶらぬ麻上下も折目高
しづ/\通る奥座敷 主安森源次兵衛 上下ため付け上使の出迎ひ 末座に
こそは押直る 互に一揖(いちゆう)事終り ナニ安森殿 計らざる今度の珎事(ちんじ)禁庭へ差
上る天国の御釼 紛失の其場より若殿には御帰国叶はず 貴殿御供致れながら
申訳の筋も立たず 自身の遠慮気の毒千万 嘸御辛労察し入 ガ是は

内証 殿より仰出さるゝは貴殿の子息吉三郎義 御傍勤めの折柄 若
年の身を以て御異見がましき騎義を申募り 殿の詞を返されたる慮外 御立
腹甚しく三年以前御勘当 夫故殿の御前を憚り江戸表吉祥院とやら
へ遣はされしは 申さず迚も存の事 此度御赦免有る間 急ぎ吉三郎を呼返し
末々は安森の名跡を継せよと有る殿の御意 有がたくお情有 上使の趣き斯の
通りと述ければ 初めの案じ引かへて悦ぶ女房に目もやらず ハア何事かと存ぜし
所 不忠不義の源次兵衛が?づれ 御心にかけさせられ冥加至極の殿の御諚


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意 委細畏り奉る 此上ながら御前宜敷 何が扨々 御内室にも嘸お悦び
ヤ役目も済めばお暇申す ござらふか さらば さらばと式礼黙礼 御前をさして立帰る
跡伏拝み女房お町 案じに案じた上使のお入り 若しやお前の身の上かと幾瀬
の思ひ 吉三郎が勘気もやり 安森の家を継がせいとは有難い御前の御意
ひよつと夢では有まいか 忝や嬉しやと悦ぶ声に次の間より いそ/\出る戸倉十内 お
道理/\拙者もあれにて承り 日本晴の致した心地 かやうの御上意下りしは 御前の
首尾も究めて上首 ほんに云(いや)ればそんな物 出仕もやめてござる屋敷 家

の吉事の吉三が帰参 お悦び遊ばしませ いか様そち達がいふごとく?が勘気
御赦免有るは」源次兵衛が家の吉事目出たい/\ 十内も次の間で委細の
様子聞たと有れば 大義ながら吉三が迎ひ 出立の用意せよ 江戸吉祥院へ後々は
出家となして下されよと遣はし置たる?なれば 首尾能暇貰ひ課(おゝ)せ同道
して立帰れ 出家侍義は一つ 必麁抹ない様に ナ心得たか 院主への書状
認(したゝ)めん 申し聞す子細も有れば奥へ参れと立上り 胸に納めたしめくゝり 解けて
云ねば白紙の障子引立入にけり 折もこそ有れ門番の下部共遽(あはたゝ)しく 


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白洲に手をつき 只今門前へ数多の荷物 嫁君の御入と早門内へ舁
込む気色(けしき)何方(いづかた)よりと相尋れば 御家老鈴木甚太夫様よりと 嫁君のお乗
物も追付是へと家来が口上 不思議と小首打傾け 御家老よりと有からは
麁相の有ふ様はなけれど 夫レはてつきり嫁入の門違ひ ハテ心得ぬと思案の
中 早追々に舁込むは 箪笥長持挟箱櫛笥鏡台琴箱迄 庭も
狭しとしと/\/\ さつても無体な押付嫁入 此家敷に覚はないと 嬪仲間
が留ても聞ず 無理に奥へと舁込む荷物 ハテめつそふなと棒端(はな)に縋る

お萩も突退られ 庭にどつさり尻餅に 祝儀は済だと打笑ひ残ら
ず奥へ通りける 早嫁君の御入と案内に是非なくこなたへと 通し小紋
麻袴 高嶋家の家老職鈴木甚太夫 のつし熨斗目の合せ鬢白髪
恥らふ裲や 雪と見紛ふ綿帽子 かい/\敷きも嫁お雛 父に随ひ座に着け
ば 甚太夫異義繕ひ 久々対面致さねど源次兵衛殿にも内室にも
益々御堅固弥重々 今更申すに及ばねとも 愚歳存生の砌御子息と此娘
十才以下(いげ)の云号 末の因みを楽しむ所 不慮の事にて吉三郎は殿の御勘気


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夫レ故縁邊変替(へんがへ)との義 此方迚も残念ながら一旦の契約は金石同然 同
家中は勿論 外々よりも似合の義 様々と申し参れど 両夫にま見へぬ掟を守る
娘 親の口よりヶ程申すは何とやら馬鹿/\しけれど 道を立る彼めが心 幸いかな今
日唯今 吉三郎の勘気も赦(ゆり)以前のごとく召返さるれば 昔の通り夫婦の婚姻
取結べと殿の諚意向後(けうこう)?(あいやけ)同士(どし)よもや二言はござるまい 媒酌(なかうど)も舅入も
取急いで参つたからは 今日より吉三が女房爺親育ちのしつか者 御不便偏に頼
入る 左少ながら此一品(しな) 心斗の聟引き手 御落手なされ下されと 家来に持せし用

意の箱 目通りに差出せば 様子を聞てこなたもほれ/\ 是はマア結構な
御挨拶 お聞の通り吉三郎が帰参 今も今迚夫婦共 殿様の御厚恩
くれ/\申して居た上に 縁組迄も有難い御上意 ガ昔の約束お忘れなふ
誰有ふ御家老の娘御を 嫁に取はこなたも大慶 お雛女郎も此年月
心底立てて下さつた志の神妙さ 烈女伝にも有まい貞女 お育ちがらが恥しい
と 誉らるゝ身も誉るのも 嬉しさ募る親心 何れかはりはなかりける おもはゆ
ながらお雛は手をつき 今爺様のおつしやる通り 云号の吉三様は殿様のお気


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に違ふて遠いお住居 此年月のなつかしさ こがれたけふの今御諚意とは云
ながら 押付ての此時宜を お腹立も有ふかと案じたよりも今のお詞 此上な
がら真実の嬶様と存じます お心には入るまいけれど露斗の御孝行 娘どふせい斯
せいと お心置なふおつしやつて 可愛がつて下さりませ ヲゝよふ云て下さつた 嫁
といへば子も同然 可愛からいで何とせふ 目出たい事も此様に重なれば重なる
物 夫にも何角の様子おしらせ申そと立上る ホゝ委細残らず聞た/\ ?は帰宅
せざれ共 ?殿にも嫁女にも仮の悦義を寿かんと 立出る源次兵衛 様子は何

か白無垢に無紋の上下死装束 ヤア此お姿はどふしてと 問もおろ/\嫁姑
更に不審は晴やらず ホゝ様子云ねば驚きは尤ながら お身達も武士の妻
ではないか 身が切腹の入訳 口でまだ/\云に及ばず ?殿より送られたる 聟引き
出にて不審を晴せと 夫の詞にいぶかしながら 立寄明くる箱の内 三方に
扇の切刀(せつたう) 二度恟りの女房嫁 悦義に有ぬ此扇子(あふぎ)に 割符を
合した覚悟のお姿 扇子腹との引出かと 武家の育ちの利に恵(さと)く解くる程
猶悲しさの 右と左に取縋れば ヤア未練の驚き嗜み召れ 某が手塩


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にかけ 人となしたるお家の若殿 傾城狂ひに惰若(だじゃく)のお身持 木を直さん
迚枝を損ふ通りを思ひ 時応(よな/\?)御異見申す中 大切成御釼の紛失 詮議の
為と若殿は其場より他国の変散 皆某が越度なれば 切腹とは兼
ての覚悟 吉三が勘気御免の上使は けふに極むる我命と 知死後を待たる
此身の上 嘆くな女房 悔むな嫁女 とは云ながら御馬の先の御用ならで
越度を蒙り死する命 弓箭神(ゆみやかみ)にも見放され 武士の冥加に尽きたかと
胸にせきくる口惜涙 目には溢さぬ侍の 義心ぞいとゞ哀なる 甚太夫

も目をしばたゝき 遉智慮有る源次兵衛殿 覚悟の推察遖々 数代忠義
の安森の家 大殿にも惜ませられ 何卒一命助け度思召せど 誤り有を捨
置れては 依怙贔屓と成て政道立たず 是非もなき次第なれ共 切腹仰付
らるゝ 則某介錯の役 検使は星塚軍右衛門 此世の名残も今暫く 併し先
祖より忠臣の家筋なれば 断絶せん事御前にも嘆かはしく思召し 吉三郎が
勘気御赦免 若殿のお行衛知れなば供々に力を添へ 再び御釼尋出し 目出度く
帰国致し次第 安森の名跡を相続させよと殿の御内意 必ず仇に思はるゝ


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な 去ながらあつたらしき侍を むざ/\殺す残念さ 御内室の心の内 推量致し
て拙者迄 供に涙が/\と 縁につながるはら/\涙 お町は正体涙にくれ たつた
一人の思ひ子を海山隔てた他国の住居(すまい)そよ吹く風も音信(おとづれ)か 病み煩ひは
せぬ事かと 三年以来(このかた)起き伏しに案じ暮した悲しさも けふといふ帰参の御意
聞く嬉しさの日もかはらず 夫の命は灯火の風を待つ間のはかない別れ 嬉しいと
悲しいとが是程かはる物かいのと 声を限りの託ち泣き お雛も年月預ふたる親
子の縁を組紐の 撚(より)も解け行く憂き別れ 泣かぬ顔する源次兵衛 主人の恵み

と恩愛を 思へば胸迄突かける 涙呑込み/\んで 嫁舅と名乗る間なく直に別るゝ薄い
縁 親子一家の盃が 取りも直さず暇乞 銚子早ふに嬪が運ぶ長柄も長からぬ
短き縁と泣く/\も 妻は名残とつぐ酌の酒は愁への箒とは いつの世からの偽りぞ
けふは嘆きをかき寄せて婭夫婦と子の未来の縁を汲む酌を 直ぐに末期の水盃
時しも検使と告ぐる声 程なく入来る軍右衛門 遠慮会釈ものさばり返り イヤ何源
次兵衛殿 科の次第は先達て甚太夫殿申されふ よい年からげて若殿を あほうにせられ
た主人の罰(ばち)忽ち報ふて嘸後悔 廉直な拙者迄検使の何のと去とは迷惑


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太夫殿は取訳けて切腹介錯やら嫁入の介添やら フゝハゝゝゝいやはや御苦労 百日
の日述の中 釼の有り所知れぬ時は 吉三が勘気赦されても 安森の家は退転 吉三も
生きては居られまい 其家へ嫁入とは臨終勧める病人に 生肴の見廻い貰ふた同然 犬にも
喰はさず棚にも置かず あつたらお娘(むす)を若後家とは何共笑止 幸い無妻の軍右衛門
てうど合たり叶ふたり 拙者が妻に下さるれば とこもかも能事だらけ 此相談はどふでご
さる コレサ/\と傍若無人急な所へ持かけて己が恋の 得手勝手 耳にもかけず甚
太夫 検使入来の此上は 心静かに御用意有れと詞を打消す軍右衛門 イヤサコレ お若を

存じて申す事 会返答も打れぬは 年のかあけんで戎(えびす)耳か 但家老風吹すのか 科人の縁
者に成て 顔に泥が塗て見たいか ハゝゝゝ甲に似せて穴を掘 蟹侍の云れぬ世話 汚
名を蒙り切腹有れど 忠義全き安森殿 縁を組むは身の大慶 左程に人をさみする
其元(そこもと)御法度の遊所へ入込み若殿へ放埓を勧め込だ不忠不義 佞人共悪人共
科極つた軍右衛門 聟などゝは穢らはしい ヤア云して置けば出ほうだい 身に覚へない難
題無実 家老でも用捨はない ガ又不忠不義の証拠が有るか ホウ証拠は則
此一通 昨日京都の御役人 隼人殿より飛脚到来 若殿吉田へ参詣の


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義 お身が方ほり廓の者へ内証しらせの此書面 文言は読い及ばず 花園殿へ 軍
右衛門 ナント覚へが有ふがな 大切なる役目の場所へ傾城遊女を呼寄せて 忠義に
成かお為に成か サア/\何とゝきめ付られ こりやたまらぬとかけ出すを 鐺返しに頭伝倒
起こしも立てず大小もぎ取り 白洲へどふと蹴落され 頬も體も砂まぶれ 心地よくこそ
見へにけり 甚太夫声あらげ 人非人の軍右衛門科は心に覚有ん 先達て右の趣言上せしかば 源
次兵衛が存生の腹いせ 検使の役目申付け軍右衛門を遣はす間 此家の者の目の
前にて蛙蜂(あほう)払ひに仕れと 御思慮有る殿の厳命 サ言訳有るまい ヤア/\家来共

こいつ門前よりぼつ払へと 下知にかけくる下部共 割竹引提我一と用意の縕袍(わんぼう)縄
帯引しめ 日頃からの横柄頬 憎さも憎しとめつぽうやたら擲き立られしよげ/\と 立端に
逆ふ濡れ鼬 何国といふて当てなしの問ふ人もない他人のひどさ 睨む仲間(けん)泣く赤頬 痛さ
こらへてちが/\と云句も上らず出て行 源次兵衛は御主人の重なる御恩を有難涙 とゞめ
兼しが一間に向ひ ヤア/\と十内 用意よくば早く参れと 詞の中より立出る 三世の縁の別れ
目に 胸も塞がる戸倉十内 旅の装束草鞋の紐も涙にしめる座敷先 差俯い
て控へ居る 委細は奥で云し通り幼少より召遣ひ二心なき其方故 釼の詮議申付る 諸


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大名の入込みなれば 釼の行き端は十か九つ江戸表 源次兵衛に成かはり 吉祥院へ断り立て 躮が暇(いとま)首尾
能乞請 心を合せ詮議仕出し 若殿に廻り逢い目出度ふ御帰国なさるゝ様 心がゝり
は是一つ 二つには嫁を同道 躮吉三に添せてくれ 百日の日延べの中 若しや釼の有所
知れずば 若殿は御切腹 御勘気御免の御恩報じ 吉三も追腹仕れとくれ/\も伝
へてくれ 躮が存命(ながらへ)居る中に せめて一日半日なりと添はしてやりたいばつかりに 今来た嫁
を直ぐに旅立 ア心強ぐは云ふ物の丸三年逢見ぬ子に 死と教る言伝は 侍ならで世
の中の親子の中に又有ふか 一世の別れに躮が顔 たつた一目見る事さへ 是が残念

/\と我強き武士も子故には 迷ふ心の夜の靍 お雛は元より女房も
尋る釼が出ぬ時は 悲しい上に悲しい便り 聞たらわしは何とせふと 嘆くを察して甚
太夫 こたへ兼たる十内も拳を握り男泣き 主従親子夫婦の涙 袖に余りて
無神(かみなし)月 北時まするごとく也 源次兵衛気をいらち 一時遅ひも主人へ不忠 嫁女を
連れて十内行け ハツトはいへど立兼る お雛は舅に縋り付き 僅か百日半日の御孝行
さへなま中に短い御縁の舅御様行けと有る迚御最期を 見捨てて何と行かれま
せふ 嫁不便なと思すなら せめては野辺の送り迄お傍に置て下さりませ


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拙者迚も其通り 御先途見届け其上にて ヤア愚な諄(くりごと)行ねば親子の縁も
是限(ぎり) 主でない家来でないぞ アゝ申/\参ります 唯今お供仕ます 得心ならばサア
早ふと 鋭き詞に泣々もお雛を先に十内も涙ながらに立上る ナフ最(もふ)行
きやるか長の旅随分無事で 着き次第吉三郎に逢やつたら早ふ吉左右健な
顔 待て居ると伝へてたも 必々言伝の片便宜にならぬう様 十内万事に気
を付けて 怪家のない様頼むぞや お気づかひ遊ばすな 若旦那と心を合せ 御釼
の御衛 尋出して若殿諸共追付吉左右お知らせ申そふ 奥様にも御堅

固で そなたも無事で 母様おさらば とゝ様も さらば/\と暇乞 思ひ切て
も後ろ髪引戻さるゝ縁の糸 切戸の外に主従は身をひそめてぞ忍びいる
跡見送つて溜息つぎ もふ往たか ヲゝ夫レこそ武士の嫁 ア可愛やな
けふ縁組で今日別るゝ 舅斗か連添ふ夫も 百日限る生死(しやうじ)の瀬戸 仏神
の御恵で釼再び手に入らば 行末目出たふ連添を草葉の陰で悦ぶぞよ
叱りまくつて追やつたは やつぱり真底可愛ひから 赦してたもれ嫁女と詫の涙に
アゝコレ/\左様に御意なさるゝ程 結句冥加に尽きる娘 甚太夫迄忝涙が イヤ/\手


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前が イヤ身共がと 手を取かはす婭同士 三人顔を見合して果報拙い
子供やと 悔みの涙取乱せば 洩れ聞く娘は手を合せ 有がた涙に暮
の鐘 いとゞ哀れさ勝りける 時刻移ると座をしめて 心静かに肩衣
取のけ 三方引寄せ件の扇子 押戴いて左の脇 右へ廻すも故実を糺し
いざと相図のかけ声に 甚大夫も泣く目を払ひ いつ迄云ても返らぬ嘆き
おくれ先立つ世のならひ 長い冥途で婭の再会致すと覚への
一腰 なふ是今が別れかと 刀持手に取縋る 女房取て膝に引

しき 合掌したる立派の観念 思ひ切ても斬兼て 惜しや/\
に二三度四五度 振上る手もわな/\/\ 見る目ひあひさハア/\
と 忍ぶを忘れし切戸の外 わつと一声泣出す娘 夫レと見るより以
前の扇子 旅の餞別(はなむけ)吉三へ記念(かたみ)と 投やる白洲請取る十内 押
戴いても納まらぬ果てし涙の愛別離苦 西方浄土へ旅出立ち 娘は夫(つま)に
近江路を 放れて行は現世の旅 先で扇子の書き土産 眼をとぢて
振上る 刃の下に源次兵衛 行年四十六歳に一期の夢を 「覚しけり