仮想空間

趣味の変体仮名

近江源氏先陣館 第八(和田兵衛上使~盛綱陣屋)

 

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      ニ10-01036


65(左頁)
    第八  (和田兵衛上使)
其源は近江路のひえ山 おろし隔てられ 便り片田の雁絶へて 武士(ものゝふ)の義は石山や月の弓
張矢叫びの 矢橋の帰帆陣幕も ひらめく比良の陣館 小三郎が初陣の手柄初めと
父の悦び 妻の早瀬老母の微妙 軍の安否聞く迄は心赦さぬ持刀 嬪共も鉢巻し
め追々告る高名噂 めでたい/\わこ様がけふの手柄の一番帳 同じ初陣同じ年の小
四郎を生捕給ふは 大の男を仕留たより 遥かの誉と口々傍から 早瀬が嬉しさ 申お聞な
されたか ほんそ孫の小三郎 是からは猶ばゝ様のあまやかしが思ひやらるゝ 去ながらひよんな


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事は其手柄の相手が他人なればよけれど やつはりお前の孫の小四郎 嬉しいと悲しいと片
身替りのお心を 思ひやつてといふを打けし 嫁女そりやばゞへの充言か 尤孫の名は有ど
不所存な倅佐々木高綱 音信不通の中に出来た小四郎とやら 終に顔見た事も
なし よしは不便に思へば迚 かう敵味方と別れた上 我も源藤義秀といふ弓取を夫に
持ち 盛綱を産だ母 涙かけてよい物か そんな言云出しても下さるな シテ兵衛盛綱孫
の小三郎まだ帰館めされぬか ハイお二人ながらお具足をお上下に召かへられ 道より直に石
山の御陣所へ御出仕遊ばしたとの注進 定めてきつい御褒美とさゞめき渡る程もなく

立帰る佐々木兵衛 小三郎盛清諸人の尊教身の面目 上下衣服も花やかに自
然と威を持つ其跡に むざんやな小四郎は高手にしむる誡め縄 雑兵に取巻かれ 羽がい
叶はぬ しよけ鳥の顔見初めの孫か共 いふに云れず面ざしの 別れし我子高綱に 似たと思
へば不便さを 嫁の手前と紛らせど胸つぼらしうなり形 見まいと思へど目にかゝる血筋の 因
果ぞせん方なき 兵衛盛綱謹んで 倅小三郎初陣の手始め 是成縄付き生捕し事誰
々よりも目ざす大敵 佐々木四郎左衛門が倅擒とせしは味方の強み 抜群の高名と時政
御感斜めながらず 御悦びの盃を下され 手づから感状を下し給る 御前に並居る諸大名


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凡そ子を持つ程の人羨まぬ者もなく 子息の武勇にあやかる為 そこへも盃爰へも頂戴
ともてはやさるゝ親の面目 夫故退出も遅なはる 首尾残る方もなし お悦び下されと
語る中より早瀬がうき/\ 何と御らふじましたか かはいそふに軍の供したがる物を 足手まとひ
じや留主しておれと呵り付けて 鎌倉に残してお出なされたれど 今度の軍にはづれたら 生きては居
ぬとせかみにまかまれせうことなし いつそばゝ様三人連れ 跡追て来た時にもさん/\゛に呵られたが
けふの手柄を見た時は よう連て来たと私が自慢 出かしやつた/\ 産だ母迄俄に肩
がいかつて来た わこ様お手柄/\と誉めそやしたるかしましさ 微妙も供に出かしたと いさんで見

ても どこやらに済まぬは胸の 汐ざかい 分け兼るこそ道理なれ 小三郎手をつかへ 分けて君の
御諚には囚人(めしうど)の小四郎 首討つ事必ず無用 いつ迄も助け置くこそ味方の計略 戒めは其儘に
て 随分大切に仕れとの御事也 ノウ小四郎殿こなたとは従弟同士 初陣の軍に仕負 嘸
無念にござらふといはれて小四郎顔ふり上 とゝ様の兼ての教 勝も負るも軍のならひ まさ
かの時に逃るのが侍の恥辱じやげな 生捕られても恥とは思はぬ 早首切て下されと 目を
ふさいだる立派さは 誠に父が子也けり 物見の侍罷出 和田兵衛秀盛と名乗り 盛綱公
に見参致さんと 供廻り僅か一両人にて通り候と訴ふれば ハテ心得ぬ 敵方の侍大将かる/\


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敷来るは一物ソレ囚人奥に取逃すな皆退けと追立やり さはがず座席取片付 衣紋繕
ひ出向ふ 甲冑の姿引かへて長上下踏しだき 伊達拵への大小もさしも無骨の荒
くれ男 目礼式礼悠々と 上座にどつかと押直り 扨々此度の合戦 佐々木三浦かく申
和田兵衛 火水の勝負を決せんと牙を噛で相待つ所に 鎌倉の優長武士 一日寄
ては二日見合せ 睨みあふて日を送る中 此方はほつと退屈 夫故今日は具足も取置太
平の姿 坂本の城より使者に参つた ハア/\是は/\名にしあふ和田兵衛殿 能々大切の義
なればこそ お使者の趣き逐一仰聞られと有ければ イヤ別義でござらぬ 今朝高綱構へに

て 其元の手へ生捕れし小四郎高重 ちと此方に入用なれば 只今おかへし下されとの使也と
事もなげに述ければ ハゝゝ是は存じの外の御事 何ぞや一人の童づれに侍大将の自身
馬を向けられしは珎説/\あの小伜一人がなければ 合戦も得なされぬか 何故に左程の懇望
事おかしう存ると あざ笑へば実に尤も 併し此方に不審成は其童の小四郎を貴殿の子息が
生捕しを 一城をも乗取しがことく悦びいさみ 鎌倉方の勝軍の基也と 箙をたゝき
勝鬨作つて引れしは是いかに 左程鎌倉方に懇望せらるゝ小四郎故 此方にも惜く存じ
是非所望に参つたり 其代りには少分ながら此和田兵衛が髭首進上申す お望ならば手


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柄次第に 随分取て御覧なされと むづと座したる不敵の顔色 盛綱打笑み 扨/\/\弟な
がら高綱は 大功の勇士と思ひしに倅に迷ふ未練の性根 そこを察して傍輩の好み
命をすくふ情のお使者 あれ式の小児いか様共と申たけれど 生捕の帳に記した上は 時政
公より預りの囚人 盛綱私には渡されずならば踏込ばい取て帰られよ 其座は一寸も立せじと
反り打て詰かくれば アゝおせきなされな 貴殿と拙者只今爰で差違へては 敵味方に能き
大将二人を失ひどちらも両損 よし/\御辺の儘にならぬ囚人此上は石山の陣に参り 時政殿
に直談して 自他共所望致して帰らん 盛綱さらばと立上り 広庭におり立ば ヲゝそりや

とも角も勝手次第 さあらば石山へ御案内申させん ヤア/\誰か有ると詞の下小具足固めし
覚の力者 ばら/\と取巻たり ハテ仰山な案内者 敵の陣所へのふ/\と一人参る和田兵
衛 不知案内の無骨者万事宜しう 気遣有な ソレ必大将の御座近く ナ お引合せ申
ならば大事の珎客 随分御酒を合点か イヤ御酒とは忝い我等別して大好物 御馳走ながら湖
もかへほしてお目にかけう お肴の飛道具 鑓長刀の串肴何本也共賞翫致す 盛綱殿
おさらば 和田殿御苦労 案内大義と長袴 虎を放してやる勇気 火焔の中へ行大
胆 心の具足鉄石の石山 (盛綱陣屋)さして出て行 盛綱は只茫然と 軍慮を帷幕の打傾き


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思案の扇からりと捨 母人夫レにおはするかと 音なふ声に立出る 陣屋の隅々行
先見廻し 母の膝にすり寄て 親の役目を子が勤るは順なれ共 御老体の母人に
御苦労お願申さねば叶はぬ事 申さぬ先から心得たと有 御誓言承はりたしと 事
有けなる願ひの所 聞ねど遉佐々木の後室打點き 親子の中に改めて頼むと
有はよく/\の事ならめ子細はしらねど心得ました ハツア早速の御承知忝し お頼の子細と
申は 最前の囚人 拙者が為には甥 母人の為には孫の小四郎を 今宵の中に母の
お手にかけられてと 聞もあへずコレ/\盛綱 最前我君よりの仰渡され必小四郎に

過ちさすな 殺すなとの御諚ならずや サア其殺すなと御諚故に 猶以て殺さにや
ならぬ弁舌を以て人を懐(なつく)る北条殿 小四郎を殺すなとの諚意は生け置いて人質とし
子を餌(えば)に飼ふて 佐々木四郎左衛門高綱を味方に付ん謀 鏡にかけて顕はれたり 中
々心を変ずべき 弟高綱とは思はね共 いかなる大丈夫も我子の愛に迷ふならひ
万が一此謀に陥て 降参などの心付かば 子故に不忠の名を流さん事残念至極 よし
さはなく共小四郎が 擒と成て生き有る中は 恩愛といふ大敵に高綱が弓勢も弱り
刃金も自然となまる道理 迷ひの種の此小四郎 一時も早く殺して仕廻へば 弟が義


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心供々鉄石 是ぞ兄弟弓矢の情と 有て我手にかくる時は 主君北条の命に背く
稚心に此理を弁へ 自身に切腹するならば 我は油断の誤り斗 兄が義も立ち 弟が
忠も立つ 双方全き此役目は 御苦労ながら母人 密かに小四郎に切腹らせて下されかし
現在の甥が命申定めて助るこそ 情共いふべけれ 殺すを却て情とは情なの武士
の有様や いかなれば 兄弟敵味方と引別れ 今朝の矢合せに敵は甥也 味方は我子 にく
しんと肉身の釼を合す血汐の瀧修羅の巷の 攻め太鼓胸に盤石こたゆるつら
さ 弓馬の家に生れしふせう聞分けてたべ母人と事を 分けたる物語 母は手を打尤々

兄のそなたも 弟の高綱も我子に依怙はなけれ共 隔てて居る程不便もまさり 有
やうはそなたにも 心を置て居ましたが 弟に不忠の悪名を 付けさすまいと左程迄 心遣
ひの深切 ヲゝ忝いぞや 嬉しいぞや 世の喩にも小の虫を殺して大功を立る事 真実真
身は子よりも可愛孫なれ共 思ひ切て切腹させう ヲゝお出かしなされた 健気者とは見ゆ
れ共 稚き小四郎 若し小腕に切損なはゞ 母人宜しう御介錯 早短日の暮近し 佐々木
兄弟が苗氏を穢すか名を上るか 二つの境涙ばしかけ給ふな 気遣ひめさんなおくれ
はせぬ 必気強う遊ばせと 渡す一腰受取腰の張弓に詞つがふて別れ入 峯吹通す


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凩に 早園城寺の鐘諸共 誘はれ来る白羽の矢 紅葉のしげみに射込しは 主を誰
共人目せく 陣笠まぶかに篝火が 男出立の半弓にやはか仇には帰らじと 陣屋間近く
したひ寄 和田殿の供廻りに紛れ込 爰迄は忍び入たれど用心堅き陣屋の木戸口
心を通はす矢文の謎 小四郎が目にかゝれかし 祝ひ祝ふた初い染に いまはしい縄目の恥
外の手でも有る事か 従弟同士の小三郎 憎てらしい手柄顔 甥を縛らせ伯父の身で 夫レ
が本意か恨い どうして居るぞ只一目 見たい逢たい間の戸に我身をひしと楯板も 通
すは涙の 矢数なり 洩れてや奥に声高く 侍中/\ 夜廻り怠り申されなと 女の声も敵

の中 胸驚かれ篝火は 差し足ながら忍び行 障子さつと目早の早瀬 紅葉の矢文抜取
て つく/\゛詠め扨こそ/\ 羽響きもなき忍びの矢 女業と推量に違はぬ手跡 状の文体
にもあらず 名にしおはゞ逢坂山のさねかづら 大にしられでくるよしもがな と古歌を書きしは ムゝ 手
は見しらねど相嫁の篝火 囚はれの小四郎に此陣屋をぬけ出て 人しらずくるよしもがな 爰
は所も近江路や世に逢坂の関の戸を明けて逢うんとしらせの謎 エゝ何の母の様にもない未練
なさもしい軍に立てば討死が覚悟の前と 立派な小四郎に悪気を付 若し取逃しやなどしたら
其不調法は誰にかゝる一家の倖(よしみ)は生捕ても 命に別条ない様子しらせて安堵さす程


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に 必爰らにうろたへて 親子一所の縄目を受け 夫レの名迄よごしやんなと 恨みの裏の反古(ほうぐ)文
打返したる返事の古歌 矢立の硯さら/\と書き認めてくゝり付 内にも人目重藤の 弓
打つがひ陣外の 小松にひやうど手ごたへと 供に 立て切障子の内 稚心に油断せぬ
縄付ながら小四郎は そつと一間を忍び出 今おば様の読ましやつた 矢文の手は母様 爰
を抜けて戻れとの しらせは聞ても敵の中 見咎められては恥の恥 とはいへ母様どこにござる 死共
ちよつと顔見たやとそろり/\とぬき足も 危うき毒蛇の陣の口 あはや跡より窺ふ微妙
小四郎まちやと声に恟り アゝイどつこへもいきや致しませぬ 御赦されてと斗にて わな/\

ふるふ有様を つく/\゛見れば見るに付 同じ佐々木の血筋でも 扨も果報の拙い子
や 囚人の身と成たれば子心にも気おくれして 身すぼらしい顔形 今宵限りの命とは
云ねど虫がしらすかと 思へばそゞろ先立涙 胸に押さげ撫おろし ヤレ孫よ爰へおじや
コレそなたのばゝじやわいの 器量骨柄揃ふた子に いた/\しい此縄目 解てそなた
に此ばゝが 云聞す事有と 立寄ほどく血筋の縄 子故に引れ篝火が 又立戻る陣屋の前
矢文の返事は嫂の早瀬の手跡 行も帰るも別れては しるもしらぬも逢坂の 関とは時節を
待てとの事か いかにと見やる戸の隙間 微妙は孫の手を引て 一間の障子押開き ノウ


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小四郎 高綱に別れてから十三年の年月 孫有とは聞た斗 なつかしさ逢たさは 膝
元で育つた小三郎より 顔見ぬそなたの不便さは百倍 殊更長の浪人の貧しい中に
育てられ 武具馬具迄も嘸不自由に口惜しう暮しつらんと 思ひやる程片時も
忘るゝ隙はなけれ共 思ふに任せぬ敵味方 此上下はばゝがそなたへ引出物 着てたもや
いのと差出せば 何心なく押戴き 取上て不審顔 申ばゝ様 此上下にはなぜ紋がござり
ませぬ 九寸五分が添て有は 高名手柄せよと有 首掻き刀でも有まい こりや
私に腹切れとの 死装束でござりますなと 悟る利発に驚く篝火 微妙はがはと

泣き倒れ暫し 詞もなかりしが ヲゝ遉は親の子程有 人に勝れて其様に 聞分けよい程助け
たさは 胸一ばいに逼(せま)れ共 殺さにやどふもならぬといふは 爺親の高綱が武勇智謀
の勝れたがそなたの身の仇敵 助けよと有北条殿は子を人質に高綱を 降参さす
る謀 夫迄は殺しもせず まして助けて帰しもせず いつ迄も陣中に捕へて置けとの主命
生きて居る程高綱が武勇の妨げ 爰の道理を聞分けて 潔う腹切てたも エゝ見れば
見る程目付なら鼻筋なら 眉に一つの痣(ほくろ)迄爺親に此似よふ 智恵才覚迄違は
ぬ物 生長(おいさき)も見すむざ/\と莟の花をちらすかと 甥の諄(くりこと)涙の齦(はぐき) もれて外面に


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聞く嫁の 何ぼ道理は道理でも余る気づよいお袋様 我子は殺さぬ/\と 延上れ共
芦垣の隔つる 中ぞ是非もなき 母の心の通じてや 小四郎おとなしく手をつかへ 私が命一つで
とゝ様や伯父様の手柄に成る事なら 何の惜しみは致しませぬ 尤腹の切様も稽古して置け
たれば 切損ひもせまいけれど 私が一つの願ひ 頃日軍の初陣に 直ぐに敵へ生捕れ 此
儘死ぬるは弓矢神の冥加にも尽きたりと 何ぼう悲しい口惜い どうぞ最一度お帰しなさ
れ とゝ様かゝ様にたつた一目逢た上 せめて雑兵の首一つ取て 立派に死で見せませう
此お願ひを アゝこれのふ 賢い様でも遉は子供 預りの囚人敵へ帰して無理綱が武士が立つ

物か とゝや嬶に逢される程なれば 此憂目はないわいの とはいふ物の逢たいは道理じや
わいの 尤じや 世が世の時なら二人の孫 右と左に月花と ならべて置て老いの楽しみ 此上
も有まいに 生捕るも孫 捕られるも孫 小三郎が手柄したと仰ぎ立る真中へ 縛られ
て引出されし顔見た時のばゝが胸は 張裂く様に有しぞや 迚も甲斐ないそなたの運 最
期が未練に有たなどゝ 口の端にかけられては親高綱が弓矢の名おれ 尋常に死で
たも ヤゝ 介錯は此ばゝ 可愛孫を先立ていつ迄因果の恥さらそふぞ ばゝも直に自害し
て 三途の川を手を引て渡るわいのと抱しめなく/\釼差付くれば 只二親に逢迄は赦して


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下さればゝ様と 未練も親子の恩愛に道理といとゞ目もうろ/\孫もうろ/\隙有ら
ば逃んと見やる木戸口の 爰にと母の呼子鳥 ヤアかゝ様かと飛立斗かけ出す孫を引
留て せき立老母の声あらゝか エゝ未練者比興者 扨は母親と内通して 爰を抜けて出る
心じやな 夫なれば猶助けられぬ 望の通り親にも一目逢した上は サア/\切腹 但ばゝが手にかけふか
サア夫は サア/\何とゝいどしに抜いて振上る 釼の下に手を合せ かゝ様の声聞てから一倍命が
惜し成たどふぞ助けてお情じや堪忍して下さりませ アレイ/\と逃廻り おくれる孫の猶気
おくれ ヤレ最前の健気な覚悟忘れしか 迚も叶はぬ期に成て 臆病者の名を取かや

伯父が見ぬ先自害して 立派な最期と誉られてくれ ばゝが方から手を合す頼むと
いへど逃まどふ 外にはむごやつれなやと 恨みも三宝三悪道 前生の敵同士がいとしかはい
の孫や子に 生れてうきめを見するかと老母がしんみの血の涙時雨の中の枯紅葉つ
ゆより先にちりぬらん 折からさつと山風の遥かに陣鐘攻太鼓 事こそ有れと早速の早瀬
長刀かい込走出 木戸口開けばかけ入篝火 待た/\ 高綱のおかもじこりやごこへ 知れた事 我
子の小四郎取帰す ならぬ/\ 相嫁の初見参長刀に乗りたいか イヤ推参なとぎしみ合ふ
真中に三郎兵衛 小四郎小脇にひんだかへ 石山の御陣所に事有と覚るぞ ヤア/\小三郎は


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何国に有 ハア則只今御加勢と 用意の小具足兜の緒 しむる間遅しとかけ出す 引
違へてしらせの軍卒馳せ参じ 時政公の計略のごとく 佐々木四郎左衛門高綱我子を取られし
憤り 今宵自身に馬を出し手勢漸一千余騎 鎌倉の惣大将時政公に直き見
参仕らんと死物狂ひの其有様鬼神のごとく見へ候 併味方は兼ての用意 大将の陣
は数万の警固 盛綱公には気遣ひなく 擒の倅を守護有へしとの御事也 猶追々に御
注進と申捨てぞかけり行 三郎兵衛大息つぎ ハゝアなむ三宝しなしたり さしもぬからぬ
弟高綱 子故の闇に心くらみ 謀に陥たるな 摩利支天なれば迚 数万騎の其

中へ 一騎がけの死軍 死せん事眼前たり 此上は親の御慈悲 仏間で御回向なされ
かし 盛綱母人 エゝ力なき武運の末残念さよと 斗にて眼を閉て奥に入 篝火
猶も気はそゞろ 我子も気遣ひ夫もかゞ 千々に砕くる軍の破れ えい/\おふと
勝鬨は 敵か味方か二人の妻 胸の陣鐘足も空二度の注進勇みの大音 御悦
び候へ軍は十分味方の勝利 大軍に取囲まれ集り勢の高綱方途(ど)を失ふ
て逃走るを或は掻き首或は射取 残る兵(つはもの)さん/\゛に追まくり 諸葛孔明と呼れ
たる四郎左衛門高綱を 榛谷(はんがへ)十郎が討留て候と 聞より妻はハアはつと 心散乱もへ立


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篝火 夫の首は渡さじと 行をやらじととゞむる早瀬 大将軍時政公 御成ぞふと呼はる
声 ハアはつと早瀬は大将の御座の儲けと走り入 龍の雲に沖(ひいる)がごとく 一陽の春を待つ平
の時政 近習の武士古郡新左衛門 佐々木小三郎盛清諸共に扈従して 御召がへ
の鎧櫃御座の次に錺せて 寛然と入給へば 三郎兵衛母微妙敬ひ清し奉る 竹
の下の源八あはたゝ敷罷り出 最前和田兵衛秀盛 御陣所へと参りし所 好める酒を
しいて酔ふさせ 居間の四方に金網をかけたれば 籠の鳥同前と思ひの外のしれ者 隠し
火矢を以て屋根を打抜き 御座の間の白籏をうばひ取立退て候と 言上すれば時

政公 ハゝゝ 敵の軍中へ鎧も着せず只一人 踏込程の不敵者 汝等が手に合べきか 第
一の大敵佐々木高綱を討取たれば 腹心の害は払ふたり 去ながら此佐々木古への将門に
習ひ 一人ならず二人三人の影武者有て 何れを是と見分けがたし 誠の佐々木かにせ
首か 弟が首よも見損ずまじ 兄盛綱実検せよと仰の下に新左衛門首桶 御
前に直し置 三郎兵衛承り 大将に一礼し無慙の弟が死首に 是非もなき対面
やと 呑込涙後ろより父の死顔拝まんと窺ふ小四郎 盛綱が引明る首桶の二目
共見もわかず とゝ様嘸口惜かろ わしも跡から追付と 氷の刃雪の肌 腹にぐつと突立


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る 母人お留なされ 何故の切腹子細をいへ 様子はいかにと人々あはて介抱に 小四郎屹
度目を見開き 何故死とは伯父様共覚ぬ 比興未練もとゝ様に逢たさ父を先
立何まだ/\と生き恥さらさん 親子一所に討死して 武士の自害の手本を見せると
きりゝ/\と引廻す 其手にすがり母微妙 ノウ其立派な心をしらずつたはゝが面
目ない こらへてたもと右左目をしばたゝく三郎兵衛 猶予はいかに早実検何と/\
と御諚意に疵口拭ひ耳際迄 とつくと改め古実を守り 謹んで両手に捧げ
矢疵に面体損じたれ共 弟佐々木高綱が首 相違御座なく候と御前に 直し押

下れば ホゝウ骨肉の兄が実検といひ 首に向つて小四郎が恩愛の涙 切腹の有
様 誠の首の証拠明白 思へば昨日は此首に後ろを見せし時政が 今手の下に誅罰する
無運の強さ ハゝア心地よや嬉しやな 今といふ今時政が 初て枕を安く寝るは盛
綱が働き 我着がへの鎧一領当座の褒美に残し置く 小三郎其外には陣中にて 勝
軍の恩賞せん 皆万歳を唱へよと 悦喜の粧ひ傍りを払ひ本陣 さして帰陣有
盛綱邊をとつつくと見廻し 佐々木高綱が妻篝火 計略の贋首仕果せたれば 小四郎
に最期の暇乞 赦す是へと一言を 聞く間遅しと転び出 我子にひしと抱着わつと泣より


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外ぞなき 涙ながら母微妙 贋首と知て 大将へ渡したそなたは 京方へ味方する心底
か イゝヤいつかな心は変ぜねど 高綱夫婦が是程迄仕込だ計略 父か為に命を捨る幼
少の小四郎が 余り神妙健気さに 不忠としつて大将を欺きしは弟への志 彼が心を察
するに 高綱生きて有る中は 鎌倉方に油断せず 一旦討死せしと偽つて山奥にも姿を隠し
不意を付んず謀 然れ共底深き北条殿 一応の身替は中々喰わぬ大将 そこを計つ
て一子小四郎をうま/\と此方へ 生捕せしが術の根組 最前の首実検 贋首を見
て父上よと誠しやかの愁嘆の有様に 大地も見ぬく時政の眼力をくらませしは 教へも

教たり 覚へも覚へし親子が才智 見す/\似せ首とは思へ共 ヶ程思ひ込だ小四郎に
何と犬死がさせられふ 主人を欺く不調法 申訳は腹一つと 極めた覚悟も負ふた子
に教られ浅瀬を渡る此佐々木 甥が忠義にくらべては伯父が此腹 百千切ても
かけ合がたき最期の大切 そちが命は京鎌倉の運定め 出かいたな出かしたと手負の
顔を 打守り/\ 悲嘆の涙にくれければ 篝火いとゞかきくれて 子を誉られる親の身の
悦ぶは常なれど生きて高名手柄して 今の仰に預らば何ぼう嬉しかるべきに 年相
応より利発なが生れ付た此子が因果 いかに武士の習ひじや迚 かう/\して自害


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せいと 教る親のどうよくさかはいや初陣の初めから 死に行く事合点して おりや侍の
子じやによつて 討死するは嬉しけれど 死だらとゝ様やかゝ様に つい逢事が成まいかと
夫レがつかりがと云さして 泣顔見せずいさんで行し其立派さ天晴弓矢打物迄
誰におとらぬ物覚 腹切る事迄是程に 器用になくば何事ぞ コレなふ小四郎 /\と手
負の耳に口差寄せ 此深手じや物 耳も遠なろ 目も見へまい 今伯父様のおつ
しやつた事聞取やつたか そなたの命捨たので 高綱殿の忠義が立つと 褒美
のお詞 夫レを未来の引導に迷はずと仏に成てたもと 云聞すれば嬉しげに そん

ならわしが死るので とゝ様の軍が勝に成るか エゝ忝い ばゝ様はどこにぞbわしや縛られても 比
興者じやないぞへ 夫レで死でも本望じや 伯父様おば様 ばゝ様にもかゝ様にも 逢て死る
は嬉しいが たつた一つ悲しいは とゝ様に/\と跡は得云ず舌こはばり 次第/\によはり果惜しや?(みはへ?)の初
花も 無常の風にちつて行 コレなふ小四郎孫やい 今はの際に爺親を尋て死だ子の心
思ひやつて只一目なぜ顔見せにきてくれぬ 千騎万騎の大将にも成べき物を栴檀
二葉にて枯らせし胴欲は神も仏もなき世かと 歎く微妙の声限り涙の早瀬篝火も
消ゆる 斗の思ひなり 三郎兵衛泣目を払ひ ハア敵に紛れおくれたり 実検を仕損じたる鎌


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倉への申訳 母人さらばと指添に手をかくれば ヤア/\盛綱 和田兵衛秀盛是に有 敵を
見かけて自害とは 臆したるかと声かけられ シヤ幸いのよき敵 帰らば其儘帰さんに運つき
たる秀盛 逃しはせじとつつと立ば ヲゝ和田兵衛が習ひ得し南蛮の懐鉄砲 受て見
よとどうど打ねらひはそれて鎧櫃 内に忍びし榛谷十郎太腹射ぬかれのた打たり
見よや盛綱 底の底迄疑ひ深き北条の隠し目附 汝が手にかけざれば 不忠にあらず彼
めが不運 今又御辺自害せば 鎌倉への義は立べきが 佐々木が首は贋者也と たちま
ち露顕し是迄も 砕きし心は水の泡 時を待て佐々木高綱 誠は爰にと切て出る其時

に 潔く切腹せば 忠も立義も全し 腹の切様早く/\ ハゝア実に誤りたる我命 暫く生る
は弟へ是も情の一つには 甥への寸志追善供養 野送り万事も一家の内証 諸事内事
も此座切 表は京方鎌倉方右大臣実朝の御座の白籏奪取しは 軍の吉左右
重ねて 再会とめて見ぬかと出て行 ヤア盛綱が陣中にて 味方の武士を討たる曲者
返せ戻せは弓矢の規式 姻(ちなみ)は嫂小姑孫よ甥子の亡骸に うき事三井の晩(くれ)の
鐘 消へ行く子より親心 我からさきの夜の雨父には一目 粟津の嵐木の葉の紅葉かき
寄せて 夕部を照らす勢田の橋門火は 狼煙敵味方さらばと ばかり「別れ行