仮想空間

趣味の変体仮名

中将姫本地

 

  先日観た『鶊山姫捨松』の丸本を閲覧できるところがネット上に無いものだから、その欠乏感を埋めるように、主人公の中将姫の名を冠した本を目にするとつい読みたくなってしまう。『鶊山』の「雪責」はほんとうに見応えがありました。簑助さんの中将姫は猛烈に可愛らしくていじらしく、いつものように神技の嵐でした。例えばノーモーションでひゅっと動いてひたと止まる。これを完璧になさるのは簑助さんだけです。人形遣いの手首はどうかしていると時々思いますが、簑助さんの手首はそりゃあもう人形遣いの神様ですから大概です。うなだれ震えていた人形がゆっくりと力なく仰向けになるなんて、増してやそのままの姿勢で胸で呼吸をし暫し悶え苦しむなどというのは初めて見ました。簑助さんご自身は体勢も表情も何一つ変えず、淡々と優しくパン生地をこねるようにして仰臥の中将姫を懊悩させるのでした。手首とか肘とかどうなっているのだろう。凄い過ぎ! 玉也さんの今ひとつのお役「梅龍」との全き別人ぶりと、簑二郎さんの怖じず一歩も引かない超ドSっぷりは感動的でしたし、一輔さんと紋臣さんの攻防はどちらもテクニシャンなのでどうしたってその技と演技が火花を散らします。紋秀さんと文弥さんはこの度は科白も少なく長い時間棒を振り上げ威嚇しているのですが、いつ見ても同じようにおふたりともちゃんとお芝居されつつ簑助さんを見守ってらして、かっこよかったです。ただでさえ真面目に職務を遂行する男子はかっこいいのに、それが人形遣いとなるとウルトラかっこいい!と思いました。そうして続けられて御年を召されると今度は寝ながらでも超絶技巧余裕で炸裂かっこいい!となるわけです。伝統芸能はよい人生だなあ。ともあれ『鶊山』の「雪責」は見どころ満載で、こうして思い出していると、益々丸本すべてを読みたい気持ちが募ります。

 


読んだ本 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541059

 


3(左頁)
  中将姫本地
そも/\ならの宮古の御とき。よこはぎの
右大臣豊成と申人あり。さいかく人にす
ぐれ。仁義を本として。弥陀をあわれみ給
ひけり。しかるに此人ひめを一人もち給ひ。
中じやうひめとなをつけ。父母のてうあひ
なのめならす。あまたのめのとをそへ。もて
なしかしつき給ふ。かの姫三さいの御とき。
母うへおもきやまふをうけ給ひ。いろ/\の
医薬をつくし。治せられけれとも。その


4
しるしなけれは。けんみつの高僧をしやう
じ。大はうひはうをしゆせられけれとも
まこといんでうがうにやありけん。すでにま
つごにおよひ。きたのかたとよなりをちか
つけまいらせ。我すてにいまをかきりとお
ほゆるなり。たゝしめいどへゆくみちには
しでの山さんつの川とてなんじよのある
ときゝしなり。君にちりきりをむすびし
ときは。火の中水のそこまてももろとも
にとちきりしに

(挿絵)


5
まことにその御こゝろさしくちせすは。
えんまの庭にをくりつけたまひなんやと
おほせけれは。とよなりなみたをなかし。ま
ことにもろともに行みりならはさこそ
あるへけれとも生るゝときもひとりきた
えい。死するときもひとりゆくならひな
れは。たとひおなしほのほに身をいるゝ
とも。まつたくしでの山さんつの友とは
なるましきなり。しやうをへたつれはおや
をも子をもしらす。業にまかせてひとり

なけくなれは。一しんふらんに念仏申し。後
世をとふらひ申さんこそ。まことのちきり
にてはさふらひけれと申させ給へは。きた
のかたきこしめし。あわれこんじやうの
ちきり程にはかなき事はあらし。さり
ともとおもひつる人たにも。まことのみち
にはかひそなき。いまは弥陀をやのみと
てまつるよりほかに。たのむかたなしと
て。きぬ引かつき給ひけるか。やゝありて
あわれ人のもつましき物は子なり。思ひ


6
きりわうじやうせんとおもへとも。中しやう
ひめが事こゝろにかゝり。二世のさはりを
なりぬへし。あひかまへてちうしやう
ひめがこと十にならんまて人に見せ給ふ
な。もしこれをそむき給はゝ。草のかけにて
もうらみたてまつるへし。いかなる仏事を
いとなみ給ふとも。うれしくおもふへから
すと申給へは。とよなりきこしめし。君一
人の御子にてもななし。われにも子なれは
御心やすくわうしやうをとげ給へと仰

けれは。きたのかたよいうれしけに打えみ
給ひ。ちうしやうひめをよひ。かみかきなで。
くるしけなるいきをつき。人のくわほうは
まち/\なりといへとも。なんちほとに
みやうかなきものはよもあらし。三さいを
すこさすして。われをさきにたてゝ。なけ
かん事こそかなしけれ。あひかまへて。念
仏申。後世をとふらへなと。これをさいごの
ことはとして。、ねんふつとなへついに北
亡の露ときへ給へは。大臣殿も姫君も天


7
にあふぎ地にふしなけき給へともかひ
なし。さてあるべきにあらされは。とある
ところにおくりいだし。むじやうのけふりと
なしたてまつる。大臣殿おなしほのほに
いらんとし給へは。人々御袖にとりつき。さ
こそはおほしめすとも。くわうせんのたび
には。師弟主従のちなみ。わりなき夫妻兄
弟の中なりとも。いかてか友とはなるへく候や。
御心さしの程をは。さこそはそんりやうもう
れしとおほしめさるらんと。

(挿絵)


8
およぶもおよばさりけるも。なみたをなかし
とゝめ申せば。とよなりもとゝまり給ひ。様々
の仏事。つきせぬけうへういとまみとたまはり
とになりその夜をあかし。御しこつをひろひ。
なく/\一しゆの歌を給へり。
夜とゝもにおもひあかして今朝みれは
 けふりとなりてきへうせにけり
かやうに詠給ひて。至るは一部の御きやうを
よみ。よるは念仏申あかし。つなれぬ月日を
たてられけり。さる程に姫君。七さいと申春

のころ。桜の咲みたれたるを。御らんし給へは。
おさあひもの二人きたり。あそひいたるを三十
はかりのおとこ。廿六七の女ほうきたりてかの
二人のわらんへを。なんしをはおとこいだき。によ
しをは。おんないたきてかへりたり。ひめ君御
らんして。いかなるものかと。御たつねありけ
れは。めのとうけ給り。かの二人のわらんへとも
のためには父母にて候といひけれは。ひめ君
きこしめされ。何としてみつからには。父はか
りありて母のなきそとおはせけれは。めのとなく


9
/\申けるは。君三さいの御とき。はかなくなり給
ひ候と申けれは。ちうしやう君へきこしめされ。
今まてもしらさりけるこそ。かなしけれとて。
いそき父の御前にまひり給ひて。いかなる人
にても。母のかたみと見たてまつりなくさみ
なんとおほせけれは。とよなりきこしめされ。
あまりに姫申にとて。その夏のころより。俄
にきたのかたむかへ給ふ。ひめ君はまことの母
のこと/\。露ほともそむき給はす。したかひ
かしつき給ふ。そのゝち中将姫はたつとき

御僧をしやうじ。せうそんしやうと御きやうを
うけさせ給ひ。まい日に六くわんつゝあそばし。
はゝの後世ぼたひをとふらひ給へは。ちゝとよ
なりにも御いとうしみはかきりなし。きたの
かたは。此ひめをにくみ給ひて。つねにはあざ
けり給ふ。とよなりきこしめし。けいしけ
いぼのならひそと。たゝ大かたにおもひ給
へり。きたのかたはちうしやう姫を。うしな
わんはかりこと。あけくれあんし給ひけ
り。姫君十三にもならせ給へは。やうかん


10
びれいにして。天下無双の人にてわたらせ
給へは。みかどよりはきさきにたち給ふへ
きよし。ちよくしたひ/\かさなりけれは
とよなりもよろこび給ひて。その御よろそひ
はかきりなし。きたのかたは。やすからすお
ほしめし。人をかたらひて。かうふりをきせ。
そくたいさせ。ちうしやう姫の緒つほねへ。いで
いるゝよしをさせ。とよなりにおほせけれは。姫
君いかなる事もいでこんとき。なさのなか
なれはなとゝ。仰られ候な。姫君の御かたを。し

のひて御らん候へと。さま/\さんそうし給へは。
とよなりある日のくれかたに。姫君の御かた
をきたのかやもろともに御らんすれは。二十(はたち)
はかりのおとこ。ひたゝれにおりえほしき
たるが。まかりいてけり。まゝはゝとよなりに
おほせけるは。日ころわらはが申つるは。そら
ことか。おんなの身のならひ。一人にちきりを
むすぶはよのつねのこと。あるときはかづりを
き。しやうそくの人もあり。有ときはたてえ
ほしにひたゝれきたる人もあり又ある


11
ときはうすきぬ引かつきたるものもあり。見
れは法師なり。かやうにあまたに見らへ給ふ
事のはかなさよと。そらなきしつゝ仰けれは。
とよなりきこしめし。人のもつましき物
は女子なり。母さいごのとき。あなかちにいとう
しみをなしつるほとに。いかにもして世に
あらあせんとおもひつるに。くちおしきふる
まひしけるこそ。かなしけれ。明日にもなる
ならは。此こともれきこへ。きんちうのものわら
ひは。とよなりが女子にはしかしとおほしめし

(挿絵)


12
ものゝふをめし。なんぢきいのくに。ありたの
こうり。ひはり山といふところにて。かうべを
はねよ。のちのけうやうをは。よく/\せよと。お
ほせけれは。ものゝふうけ給り。てだいさうおん
の主君の仰をそむき申におよはすとて。ひめ
きみをぐしたてまつり。かの山のおくに御とも
申。大臣殿の御でうのおもむきくはしく申たり
けれは。ひめ君きこしめし。我ぜんぜのしゆくこう
つたなくして。人のいつわりにより。なんちが手
にかゝり。きへなん事ちからおよばず。さりなから

少のいとまをえさせよ。その故は我七歳の頃より。
せうさんじやうど御経をうけたてまつり。毎
日はゝそんれいにたむけ奉り。今日はいまた
よます。かつうはちゝの御祈りのため。かつうは母亡魂
出離生死頓証菩提の御ため。又はみつからが。つ
るぎのさきにかゝりなは。修羅のくるしみをも
まぬかれ。浄土のみちのしるへともせんと仰けれは。
ものゝふ岩木にあらされは。しばらく時をぞうつ
しける。扨も姫君ははだの御まもりより。玉軸の御
経とり出ださせ給ひ。わつかに三巻あそばし。西に向


13
ひ御手を合せ。いまよみたてまつる御経は一巻をば
父の御きたうのため。一巻をは母尊霊往生極楽の
御ため。残る一巻といまとなへ奉らん念仏のくりきを
もつて。母とひとる蓮(はちす)にむかへ給へと。えかうし給ひ
て。ものゝふに仰けるは。あひかまへてわが死骸よく/\
とりかゝすへし。又わが首父の御めにかけ奉らん時。いか
にもきよくあらひてみせ奉れ。わが心のゆかん程。念
仏申。十念をとなへ。いそき首をきるへしとて。たけと
ひとしき御ぐしをからわにたかくわげ。西にむかひて
御てを合せ念仏千ばんばかりとなへ給ひ南無西方極

楽世界のあみた如来。ととひ五障三従の罪深く共。
いま申念仏の功徳により。本願あやまらず。来迎引
梼し給へ。ねかわくは弥陀尊。是なるものゝふ。父の仰そむき
かたきにより。わが首をきる事。うらみと更におもわれす。
同しくは極重悪人。無他方便へたてなくは。ひとつ臺に
迎へ給へと。十念しつかに唱へさせ給ひて御首をのべ給へは。
ものゝふ御回向程を承り。涙をながし。御姿は秋の日の
山のはを出でやらさるにことならす。蓮を含める御くちびる。
けんろのおとかひ。玉に似て。愛嬌の御まなしりは弓はり
月の空間をわくる心ちして。雪の御膚たぐひなく。めも


14
これ心もうせ。太刀をたて。前後不覚に見えけれは。姫君御
覧じ。なんぢ慥にきけ。か程不覚のものなるか。何とて
父の仰をかうふり。我を是まてつれ来たり。心苦しく物
をはおもわするぞ。はやとく/\と仰けれは。ものゝふつく/\
と案じけるに。あないとうしの御心の中(うち)や。此君をうし
なひ申。くんこうけじやうに預りたれはとて。千歳と経。万
年をもたもつべきにもあらす。いかなる岩のはさまにも
隠しをき、たすけ参らせんと思ひ定め姫君の御まへに
かしこまり。此よし委く申ふくめまいらせて。ある岩間を
便りとして。柴のあみ戸のうちに入参らせ。我つまをよび

出し。峯の薪をひろひ。谷の水を結ひあげ。よきにいたは
り申せとて。わが身も出家入道し。熊野道者にあわれみ
をうけ。しらぬ山里をめくり。門なみをかぞへ。乞食の姿と
なり。露の御いのちをはごくみ奉り其年も過残れは。姫
君十四のはるの頃。ものゝふは心ちわつらひ、七日と申に終
にはかなくなりにけり。姫君の御なげき。なのめならす
悲しみ給へとも。そのしるしなけれは。けうやう念頃に
し給ひ念仏の功をつみ給へは。妻の女も姫君の御身
のうへ。夫のわかれ一かたならす。心ぼそきはたとへんかたな
し。いよ/\念仏ひまなく申ける。ある時姫君の仰けるは。


15
(挿絵)

なんぢ何ともして祇を尋てえさせよ。称讃浄土経千巻
書たてまつり。武士(ものゝふ)が後世をもとふらひ。又は母上の御菩
提をも。とひ奉らんと仰けれは。此女房悦び申て。里に出
料紙を求まいらせけれは。姫君御よろこひありて。いそき
彼御経を書給へは。すでに十五になり給ふ。又都にまし
ます父とよなり館(たち)に仰けるは。今は峯の雪もきへ。谷
の氷もとけ。やうやくとうりうにて。狩してあそばんと
思ふなり。村の者共に狩人もよをせよと仰けれは。人々
承り。あまたの狩人引ぐし。彼山にわけ入。峨々たる嶺に
のほり。やう/\谷にくだり。こゝをせんどと狩せらるゝ。有谷


16
の底にけふり一むすひ立のほる。豊成是をあやしめ。駒
かけよせて御覧すれは。わつかなる柴の庵あり。戸を開かせて
御覧すれは。五十はかりなる女あり。又かたはらに。十四五計
の姫君のいつくしきが。机によりかゝりて覆面をたれ。御経
をかき給ふ。豊成御らんし。汝まことの人間に非す。豊成が心
を引みんために抑か招のふかき山に。いまたいとけなき上らう
の住給ふへし共覚えす。天人の影向か。又は変化の物かなのり
給へ。さなくは命をとらんと仰けれは姫君聞召。覆面を取
給ひて。我は天人の影向にてもなし。又はへんげの物にても
さふらはす。君の御子中将姫とはみつからなり。十三のとし。

継母の偽りにより。此山において命をとらるへきにてありし
を。ものゝふあわれみをなし。我をたすけて則つまの女房
越めしよせ。あはれみふかくいたはりしに。武士は過にし
春の頃。心地をわつらひて。はかなくなりて候。か程くわはう
つたなき我身。露の命もきへすして。あまつさへ父母
あひ奉るはるかしさよ。誠やらん親えんなき者は月日の
光りにさへあたらすとこそ承り候へ。いかに三世諸仏も
我をにくみおぼすらんとて。ふししつみなき給へは。豊成
聞召。いそき弓矢をかしこに御すてあり。是は夢かうつゝ
かとて。姫君の緒そばにより。年月われをさこそうらみ


17
終らん。御れい一たんのきにうしなひ奉れと申付たりし
が。後悔申し事はかりなし。同し年の人を見ても。御こと
のみ朝暮(あけくれ)恋しく思ひ奉り。念仏申経をよみても。御
ためにと祈りつるに。そのしるしにや今生にて逢
たてまつる嬉しさよ。日頃の御恨をは。年老たるとよ
なりにゆるし給へとて。御涙せきあへさせ給わす。御供の
人々も今一入のよろこひなり。扨御こしを召よせ。よこ
はきの御所へいれ奉る。一門のかるがう諸家の御悦び。
其げんざんは隙もなし。帝叡覧まし/\て。いそき后
にいわひ給ふへしとて。りんげん度々下りたれは。豊成も

(挿絵)


18
喜悦の思ひをなし。御いとなみはかきりなし。御供の女房
達。花をかざり色めきあひけり。姫君つく/\と案
し給ひけるは。われ無益(むやく)の生死(しやうじ)にいろを染め又三途の
故郷に帰らん事うたかひなし。それ無常の殺鬼(せつき)は。
王位にもあわれみをなさす。焔王の使は后にも情
をかくへからす今日は十善の位にのほるとも。明日は
無間の底にしつまん事眼前なり。此たひ生死をい
とはすは。いつかりんえの里をはなるへしと覚し
めし郷めけるが。たゝし是程まても御いとうしみ
をなし給ふ親をふりすてゝ出でなば。ふかうのとが

有へし。ひそかに棄恩入無為真実報恩者の理り
をおもへは。心よはくてはかなふまし。仏道修行のなら
ひ。父のふけうは一たんの事。われ浄土に生じて二親(しん)
をいんだう申さんこそ真実の報恩にあらさ
らん。さりなから只今いでなは又二たび父を見奉
る事有まじ。さいごのげんざん申さんと。花
やかに出立。父の御前に参らせ給ひて。御涙を
ながし給へは。大臣殿も此よし御覧し。何の今恨み
にてゝや。涙をはうかへさせ給ひ候そ明日はくらい
につけ奉らんなり。萬(よろづ)御恨をは老体のちゝに


19
ゆるさせ給へと仰けれは。姫君その色みへては。い
かゝと覚しめし。わか身位につきても。父もろ共に
さかへん事こそ。身の悦ひにては候べきに。御年は
日々によらせ給へは。すえの御名残を思ひ出し。い
とし涙もせきあへす候と偽をのみ申させ給へは豊
成を始たてまつり。なみいたる人々。すえの世迄
もたのもしき御心だてかなと涙をながさぬ人も
なし。やゝありて大臣殿涙をおさへ仰けるは。これは
皆世上のならひ。生死かぎりある事なれは。あな
がちになけき給ふへきにあらすとて。袂を顔に

あて給ひけり姫君は色々の御物かたりありて父
をなくさめ奉り。御座敷を立給へは父もよに頼
もしとそ覚しめしける。扨姫君夜も深更に成
ぬれは。いそき出させ給ひけり。葎の宿のあれたるを
だに。立わかるゝは悲しきに。ましていわんや。南殿の
御名残恩愛の御なじみ今をかぎりの事なれは涙
はかりそさきたちたる。奈良より当麻(たへま)へは。七里の
道なるを。いつしかかちにてあゆみ給へは。御足やぶれ
紅の血なかれけれとも。道心をおこす始そとおぼし
めしいそき給へは。やう/\たとりつき。ある僧坊に


20
立よらせ給ひ御出家のよし仰けれは。聖申されける
は御有様を見奉るに。たゝの人にてはましまさす。
後の御とがめもいかゝ候へき。その上われらいやしき
身にていかてか御出家をゆるし奉るへきと辞退
申されたりけれは。姫君聞召わか身いとけなき時
父母におくれ一人たのみのつなめのとにさへはなれ。
今は頼むかたなき身なれは往生極楽のためぞかし。
出家になり。御しひをもつてさきとす。発心の志
あらんものをは。とかく仰候そ。御剃刀をいたゝきたて
まつらんと御手を合せ仰けれは。聖かささねて辞退

におよばず。御ぐしをおろし改名をさつけ奉り。御名
をば。せんにびくとそ申ける。扨もせんにひくは。御
本意をとげさせ給ひて。当麻寺(たいまてら)にこもり。一つの
誓願をおこし給ひ御祈念あり。われ誠に往
生をとぐべくは七日の中に正身(しやうじん)の弥陀如来。目
前に現しおがまれさせ給へ。しからずは。けふよりなが
く門戸を出る事有へからすと。ちかひし給ひ。既
にとぢこもらせ給ひけり。爰に第六か日にあたつて。
天平しやうほう年中六月十六日酉の刻に忝も
わうごん巍々(ぎゝ)たる 化尼(けに)一人墨染の御袖かき合せ。


21
出現し給ひて。せんにゝつげてのたまわく。汝かし
こくも弥陀を念する心さしの誠なる事を我
しつてきたれるなり。せんに慥にきけ。極楽のあ
りさまを織あらはし。おがませ申さん。蓮のくき
を百駄たむけ給へと仰けれは。せんになのめに
悦び給ひて。随喜の涙をながし。掌をあわせ。
化尼に向ひ。三度礼拝参らせ。やがて父豊成の
御所へ使をたて給へは。大臣殿大きに悦び。帝へ
此おもむき奏問し給へは帝歓喜まし/\て。
在々所々に人をたで。蓮のくきを百三十駄。当

(挿絵)


22
麻の寺へつけ給ふ。そのとき化尼と。せんにと。もろ
ともに蓮の糸をくり。寺の北のすみに一つの
井をほり。いとをひたし給へは。その色五色八色無
量の色そまりけり。扨こそ彼池をそめのゝ池と
申なり。又はひかるのゝいけともいへり。同しき廿三日
とりの刻に十七八の美女一人。天人の様なるが来た
り。化尼に向ひ。御約束の糸をははや染給へるやと
有けれは化尼きこしめし。糸をははやとゝのへた
りと答へ給へは。油升わら三ばたつね給へとし
めし給へは。その油をわらにそゝき。とほし火として。

寺のいぬいのすみに。はたをたて。その夜のいぬうし
の三時が間に。たてよこ壱丈五尺のまんだらを
織あらはし。一よの竹を千々にして。一宇の御堂に
あけ。せんにゝ向ひて。化尼(けに)と化女(けじよ)と同音に説法
し給へり。さらぬだに道心ふかきのせんにびくは。
まのあたりに。かるきとくをおがみ給ひて。如来
の御法を受持(じゆじ)し給へり。抑まんだらの。たつとき
事を尋るに弥陀観音勢至は大宝花座のうへ
にして。三十七尊かたをならべひざをくみ。荘厳無
数(しゆ)の化仏たち。八功徳池の四しゆの蓮華をかた


23
むけ。あるひは弘誓(ぐぜい)の舟にさほをさす所も有。
あるひは説法聚会(じゆえ)の所もあり。宝樹のもとには。
菩薩聖衆。来聚して。弥陀供養し奉り。宝樹
の枝には。宮殿まん/\としてかゝやけり。北のへり
には。日さうくわん。すいさうくわんのぎしき。南のへり
には。十三せんちゃうのくわんもんをあらはし。中たい
は又九ほん三はいの三せんそうして大小乗の万
行万善。あらゆる處の教法は。此まんだらの内に
こもれり。是を拝むともがらは。煩悩を断ぜすして。
無上菩提を証果し生死をいとはずして涅槃の

岸に至ると見へたり。その時せんにひくは。餘のたつ
とさかたしけなさの随喜の涙(なんだ)おさへかたし。去程
に化尼と化女と御帰りのけしき有けれは。ぜんになく
/\御衣の袖に取つき給ひ。しばらく御待候へ。いか
なる人にて御わたり候そや。此まんだらを織給ふ人は
誰人にてましますそ是程の大恩をこうふり。恩を
報じ奉らすは。畜生にことならす。又恋しと思
ひたてまつらん時も。いづくの空にこそわたらせ給へ
と。そなたの空をなかめ参らせ。なくさみ奉らんと。
くわしくたつね給へは。化尼聞召。なんぢしらすや我


24
は是西方極楽世界の教主弥陀善逝(ぜんぜい)なり。かれを
織つる姫は。わが左の一の弟子。観音大師なり。汝女人
なれは。尼と現じ女人となつて来れるなり。誓願
かしこきが故に穢悪(えあく)の娑婆に来たるなりと。しめし
給ひて四句のもんをさつけ給へり

往昔釈迦説法處 今来発起作仏事
垣懇西方故我来 一入禅定永楽土

此もんの心は。むかしもかせう仏の説法し給ふ教なり。
今又発起菩薩の来たり給ひてぶつしをなし給ふ。

(挿絵)


25
つねに西方を念頃に念する故に弥陀も来り給ふ也。
一たび此道場にいたるともからは永く苦を離れ。
たのしみ絶ざる寺なり。汝いま十三年をへて。今
月今日。かならす迎に来るへしと告給ひて。光りを
はなつてこくうをさして帰り給へは。ぜんにこつぜん
として思ひをへて。神護慶雲元年六月廿三日とり
の刻に。異鳥草庵にくんじ。音楽樹頭にひゞき。廿
五の菩薩来迎し。観音はしやうれんけをかたふけ。
勢至は玉の天がいをさしかけ。中将姫をむかへとり

給へは。花ふり紫雲前後にじうまんし。終に十万憶
の遠路をすぎ。九ほん安楽の臺にいたり。極楽の主
なり給ふ御事なり。弥陀の誓願は高きをも賤き
をもきらわす。念仏の行者と引導あるへき御約
束なり。心をみださず念仏をとなへ往生をとげ
給ふへき事。かんようなり。よつてまんだらのゆ
らひかくのことし

  慶安四年八月吉日  「阿波国文庫」