仮想空間

趣味の変体仮名

画証録  傀儡考・百太夫・夷子まはし

 

主に文楽人形遣いの祖に関する部分を読んでみた。慣れない筆跡に大分苦労しました。

いっぱい間違えていそう。間違いはいつもの事だけどいつもに増して。

 

 

 読んだ本 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533618

 

14(左頁5行目)
 傀儡考  百太夫  夷子まはし
和妙抄雑芸具に傀儡を載て久々豆とある如く偶人なり 然るに遊女と同類のものとすること何故とも弁へたるもの
なく あらぬひがごとのみいふめり 又偏に旅館の出女と心得るは詞花集(別哥)あづまへまかりける人のやどりて侍りけるが暁に
たちけるによめる 傀儡靡く はかなくもけさの別のをしきかないつかは人をながらへて見むなどあればにや是によりて藻塩
草などには遊女を海辺のあそびとし傀儡を陸地のあそびとするは嗤ふべし 旅館の女をしかいふは後に准へていへ
る也 こはもと人形を舞しまた放下などをせしものゝ妻むすめどもの色を?(うり)しものなれば傀儡とは呼たるなり
朝野群載第三傀儡子記曰傀儡子無定居無当家穹廬艶帳逐水草以移徒類夷狄之俗男則使弓馬
以狩猟為事或双剣弄七丸或舞木人闘桃梗能生人之態殆近魚龍曼蛇之戯変砂石為金銭化草木為鳥獣
能驚人目女則為愁眉啼粧折腰歩■■笑施垢朱伝粉唱歌淫楽以求妖媚父母夫知不誡■亟(しは/\)難逢行人旅客


15
不嫌一宵之隹会徴嬖之余自献千金繍服錦衣金釵鈿匣具莫不異有之不耕一畝不彩一枝桑故不属権官
皆非士民自限浪上不知王公傍不怕牧事以無課役為一生之楽夜則祭百神鼓舞喧嘩以祈福助東国美濃
参川遠江等党為豪貴山陽播州参院馬州等党次之西海党為下其名傀則小三日百三千載万載小君孫君
等也動韓娥之塵余音続梁聞者霑襟不自休今様古川様足柄竹下催馬楽里鳥子田歌神歌棹歌辻歌満
圓風俗咒師別法士之類不可勝計即是天下之一物成誰不哀憐者哉とあり 此文誤写多く疑はしきことすくなから
ずといへども 概略(おほむね)は知らるゝなり 舟を家としてうかれありければ 居処の定めなく 男となる者はむねとするしわざなく
弓馬をならひ狩猟をなし 又は放下の伎してしな玉をつかひ 木偶(ニンギヤウ)を舞し人にみせて 物をこひ世をわたる也 猟は人気なき
嶋山などにわけ入てすべけれども 弓馬とある馬は心得かたし 是を飼置ほどの大舶にはよもあらじ 誤字なるべし 木偶は人
つどふ家居多きあたりに行てなす事とはしる その妻むすめよそほひかざりて色を売を 父母(オヤ)も夫(ツマ)もこれをしれ
ども誡めずと文には書たれども さにはあらじ もとより しかさするが此ともがらのなりはひ也 徴嬖の余 千金の贈りもの
ありといふ條(クダリ)自他のけぢめ弁へがたきやうなれど 是は女とものかたへ うく事也 文意は身を売て冨る故に 珎異の服飾たらはぬ

物なしと也 専ら歌曲をむねとすと見たり 弾吹の具常に身に携へありてなるべし 枕双紙に とりもてるものくゝつの
ことゞりといへり そのかみのいひならはしにや 何にまれ弾く物をばことといふ也 浪のうへに生涯を送りて 王公あることを
しらず 課役なければ いきほひ有人をも怕(おそ)れずなどいへれば 是迄盗類にて遊女よりも賤劣のもの也 嘉禄四年百
首寄傀儡恋 為家 大い川岸の苫屋の竹柱うかりしけるやかきりなりけむ 拾芥抄に云 霊所七瀬大井川傀儡居住
上一町許り云々なと見たれば 家造りて住るもありしは後の事なるべし かゝりし後は遊女になかれてすべて遊君と
いへるにや ○夜ごとに百神を祭りて福助を祈れる事は遊女もおなじ 遊女記に 南は則住吉 西は則廣田以て之を為
祈徴嬖之處殊に事百太夫道祖神之一名也人別に?(ケツレハ)之数及百千蕩人心亦土風而己(ノミ)とある是なり これらが
身は旅路に在かことくなれば道祖神を祭りけむもことはり也 和妙抄に 道祖神(サヘノカミ)岐神(フナドノカミ)路神(タムケノカミ)と並べ挙たれど 大
かたかよはしいけり 又傀儡神といふことは今昔物語廿八巻に もとは傀儡子にて有けるもの目代になりて守の前に
て下し 文字に印指す時傀儡子多く来て 守の前にて歌ひ笛ふきしに 目代うかれて三度拍子に印さすといふこと
ありて 下文に黙レハ一国ノ目代ニ成テオモヒ念レタル事ナレドモ尚其心不失シテシカ有ケン ソレハ傀儡神トイフ物ノ狂ハカシ


16
ケルナメリトハ人イヒケル 又卅一巻豊前大君知世中作法語の中に 除目(ヂモク)ノ前ニ大君ノイフ事ヲ聞人不成トイフヲ聞
タル人ハ 大ニ嗔(いかる)テ 此ハ何事云居ル舊(フル)大君ゾ道祖神ヲ祭テ狂フニコソ有ヌレナドイツテ腹立テナム返リケルとあり その
かみさへの神を取ふり狂ふといふ諺有しとおぼし 傀儡神といひしは道祖神の事と聞ゆ 百太夫はおのれ文化
八年の春 津の国西宮にまうでしに(此時開帳ありて賑はしかりき)御本社に向ひて 左のかた半町余り奥に小き祠ありて 戸びら
開きたり その内に古き雛めける人形あり 冠衣にて坐する形して 顔は新たに紅白粉をきたなげに塗たり 是百
太夫の神像なり 其伝記など不稽の事なればにや 摂津志また摂陽群族等の書にも是を載せず 地誌
などにはとまれかくまれ記すべきことなれをや 名所図会には 百太夫の祠神明社の旁にあり 此神は西宮傀儡師
の始祖なりとのみしるせり 社家に板行の頼像あり 縮図にして爰に載(ノス) これを道君坊と称ふるよしを考ふる
に誤多かり 道君坊伝記といふもの有 不稽の佞作なるは論するにもたらぬものなれども序(?)誤説の異同に挙
るなり (深文真字もて書たれど今その旨を取てかなにうつす)道君房といふ人は西宮大神夷子三郎殿の宮司となりて神慮にかなひしが
此人うせて後神慮にかなふものなくて 風雨定まらずつよくあらしかば 百太夫藤原正清といふものに勅命あり

(絵図)

f:id:tiiibikuro:20190401162948j:plain

て道君房か頼象を作り 是を舞して神を 慰めまつらしむ それよりあるゝことやみし程に
太夫は諸国を巡り此術を以て諸神を祭
るといふ 後に百太夫道君房が形象を淡路国
にとゝめて此術を伝ふ 百太夫淡路国三原に居
住す 死後西宮の傍に祭る 今これを業とす
るものは みな百太夫か後弟なり これ諸国浮業の長たり 寛永十五年文月吉日 坂上入道とあり 是は道君坊
を人形とし百太夫を舞し人にしたり 影像の上に題したるは 道君坊百太夫神と二名を一体とす 其説異なる
をみ?ば此伝記は淡路の傀儡子が伝ふるものならむ さはれ二説ともい誤なり 舊本今昔物語十二巻に 天王
寺にすむ僧名を道公といふ 年来法華経を誦して修行す 常に熊野に詣て安居をつとむ 帰路紀伊国美奈
部郡の海辺にて日暮ければ 大なる樹の下に宿りしに 夜半に馬に乗たる人二三人来て 樹下の翁は候かといふに 樹下より


17
とて翁候といへば 連々に御供すべしと命ず 翁云駒の足損ねて乗がたし 明夜はいかにもして参るべし 年老て行歩叶
はす 馬乗ども是を聞て打過ぬ 道公これを怪み 夜明かて尋みれば道祖神の形作りたる有 多年を経て朽たり 男形
のみにて女はなし 前に板にかける絵馬あり 足の所破れたり 道公是を見て弥あやしく思ひ 絵馬の破たるを糸もて綴り
置て 今夜よく見むとて待けるに 夜前の如く馬のり来やれは 道祖も馬に騎て供に行に 暁に及て道祖帰り来て
道公に向て拝して云 聖人の駒の足療治し給へるに依て公事を勤めつ 我は此樹下の道祖也 多の人は行役神にて国の内
を廻るには 必箱を前役とす 若共奉せすれば罵りて笞(シモト)をもて打るゝ苦み堪かたし 願くは下劣の形を棄て上品功徳の
身を得むとおもふ聖人の御力に依べしといふ 道公宜ふ処よしといへども我の及ふ所にあらず 道祖又云 聖人今三日爰に
留りて法華経誦給はゝ 我其力に依て苦も免れて楽に卦らむとて消失ぬ 道公その如く心を致して誦経す 第
四日に翁来りて道公を礼して 我聖人の慈悲に依て今既に所願を得て補陀落山観音の眷属と成て菩の位に
昇らむとそ 其虚実を知らむとおぼさず 草木の枝にて小き柴船を造り 我木像を乗て海に浮めて 其作法を
見給へと云て失ぬ 道公又是に随ひ柴舟に像を乗て放ち浮ふるに 此時風波なく舟は南を指て走り去ぬとあり

(要を撮てしるしぬ)此物がたりは法華験記下巻また元亭釈書九巻などにも見えたり(俳諧水鏡に十二月斎宮の絵馬 晦日の夜伊勢斎宮の樹下道の傍
に小祠あり こよひ里人絵馬をかへる事あり 行役神をなだむるわざとかや 天王寺の道公師云々 
あり 又宮すゞめ巻七絵馬の神とありて僧道公の古事をいへり 人の知る物語也)この道公を道公房と称へ
たちけむを道君房と誤れる也 絵馬はいつれの社にもかくべし 是いにしへの馬形の遺風也 続日本紀廿九巻 神
護景雲三年二月乙卯云々毎 社男神服一具女神服一具其大神宮及月次社者加之以馬形并鞍などあり 木馬
なるべし 洋土には馬の絵を板に彫て描たるを 紙馬といひて 神に手向て焚ことあり 彼物がたりの馬足傷ありといふ
と似たることは ?余叢考巻三十蚓菴瑣語云 世俗祭礼必焚紙銭甲馬有穹窪山施煉師 名亮生 摂召温師下
降臨去索馬連焼数神不退師云献馬己多師判云馬足有疾不中乗騎因取未化物視之模板折壊馬足断
而不連乃以筆続之師遂退然則昔時画神像於紙皆有馬以 為乗騎之用故曰神馬也 こゝにて社頭にかくる扁
額何の絵かけるをも絵馬といふ 馬形をもとらする也 さて百太夫といふことは数の多かる故と思はる 彼遊女記にも人別(ゴトニ)
割(ケヅレバ)之数及百千といへり 神に太夫の名あるは八所御霊の藤太夫太夫等の類也 また続世継花のあるしの巻 花
左大臣遊事し給ふ処 御せうとの君たちわか殿上人どもたえず集りつゝあそび あわれたるはさることにて 百太夫


18
と世にはつきてかぎりなしなどの あさゆふな神つかふまつるふきものひきものせぬはすへなくて 外より参らねど
うちの人にて御あそびたねることなく 伊賀太夫 六条太夫などいふはぐれたる人どもにて云々いへり これは何くれの
太夫といふがおほかたあるを 百太夫といへるなんめれど 世に語もの弾ものする傀儡子が祭る傀儡神の名によそへて
しか呼たるも知べからす また此神西宮にあるよしは遊女記に 西則廣田云々殊に事百太夫云々ある廣田は西宮の神
社なり 男山岩清水末社記に西島居外云々夷廣田第五 三郎殿第六 百太夫第七 とあり(源平盛衰記 鬼界嶋の條に 夷三郎と申神を祝祭る岩
殿といふ処あり)夷三郎とひとつに称ふるはひごとにや いまだ考えず 傀儡子記に道祖を祭るよしはいはざれども 百神を
祭るとあれば百太夫はかならず其内にこもるべき也 今昔物語にいへる傀儡神にても知るべし 此輩が沖へまつれつ神
なれば是を傀儡子の始祖などいへめり 古へ此徒ならでも多く祭れるよしは上に引る今昔物語にておもふべし また
外記日記天慶元年九月二日云々 近日東西両京大小路衢刻木作神相封安置凡厩体像髣髴太夫頭上加冠鬢邊
垂桜以丹塗身成緋彩色起居不同遁各異貌或作女形太夫而立之臍下腰底刻陰陽構凡案於其前置杯器
於其上児輩猥雑拝礼慇懃或棒幣帛或供香花號四岐神又称御霊未知何祥時人奇之と見えたり 四岐神を

?桑略記には日岐神とあり それに従ふべし 此文百太夫の神像よく合へり かく多く祭りしより今に諸国道祖神
多きなるべし されど百太夫と称ふるは神には聞も及ばす 懐橘談(承應二年出雲への紀行也)松井邑に道祖の神社あり 當國風土記
意宇郡狭井社と有 今能義郡なる是なるべし 今童が道端の道陸神といへる是なり 正月十五日に童部共より合て
竹葉松の枝をとり集めて社を作り 道祖神を辻々に祭り 陰相を作りて女をたゝき 螽斯を祝するも此遺風なる
べしといへるはわるし これは粥状の半により また此日道祖の祭りもすれば此神の猥藝に陰形付ることよりおもひよせ
人うつ杖をやがて陽具に造り(是を孕み棒 大のこんごうなと呼処あり 大のこんごうは大のおのこ子の訛言なり)彼是とり雑(まじ)へて新婦を祝する事としたるは滑稽
なる事といふべし 江戸本所亀戸村より正月十四日朝まだきより童男(ヲノワラハ)共集り処々より群を分て出る 各其内に小船の形を作
たるに 松竹を立 内に小き幣多くさして 是を二人にて舁たる 前後には小き鉾幟あるは 木にて作れる陽物を持て 千艘万艘
と呼びはりて町々をあるけは 家々にて初穂とらする処には幣一つを代りとす 午時ばかりには其邑に帰る旧例なり 是道祖祭に
て船を用ること道公の故事もおもひ出たる(但し其故事より出たる)祭にもあらず おのづから然る也 按に 南島雑話三宅嶋の條に
正月十四日廻船漁船その乗組の者の子供等 船のひな形を造り順を立て村中を 
家別に持歩行 是を稼初(カセギゾメ)と云と有 亀戸も舟つきの村なれば 此祭も同じ類
なるべし されば是も道祖の祭り故その事ひとつに混じたるなり


19
家々に用いたる しりくめ縄 草木の枝にて扁を造り焚上る また木を削り人形として紙を衣(キヌ)とす 是をさへのかみと呼て
手々に携へ布袋を頸にかけて打むれつゝ村家に米を乞ひ集め 作りたる小屋の内にて物くひ遊ふ料とす 然して後
 
(絵図)

f:id:tiiibikuro:20190401163521j:plain


信濃高井郡日瀧村にて
正月十四日 童部が
作る
道祖神の図

大サ五六寸
 定りなし

木にてけづり
墨にて画く
衣は白紙を切て
紋をすみにてかく
帯も紙を 折たる也

小屋を焚上ることぞ委しく聞しかど驚きたり その人形をば一つもらひたるをこゝに写す 遊女記に人別に是を削る
といへるに似たり また道祖祭は諸分におこなふを聞に大かた件の如く爆竹(サキチヤウ)と混じたり または大路に縄を引はへて
往還の人を遮り 要(トゞ)めて銭を乞ふ敷数多あり 塩尻卅三(此書巻のついで定まらず 今は予が見しをしるす)古へ辻祭の御霊とて道祖の事也
今昔物語延喜の御時 五條の道祖神在せし事を哉宇治拾遺に道命御師が逢し事をしるせり 五條に中頭まて
首途神といづ社ありしとかや 新猿楽記五條道祖奉粢餅(シトキ)千業手(チヒラデ ヲ)とあれば 其かみ人よく知て祭りしみゆ 幸の神

といふも是なり 衣冠の木偶男女の形を作り据へ祭りしとぞ ?桑略記なとに見えたり 石に彫て道衢にあり(今も東国に在)
是を後石地蔵と混して旧像いづれも分ちがたく 大かた地蔵とてさしぬ 寺院に崇めあり 正礼一変して謡詞となり
?変して趣を失ひ 又附言して他の物となる類すくなからずといへり 今も坂東の国々に丸き石または陰根に作りたる石を
いし神といひ 又しゃぐじなど呼もあり 武州豊島軍石神井 足立郡石神などの村名もあり(下野国には処々い石の陽物を 祭りて金積大明神など
称す 津軽には城下より東六里許 関といふ処に長四尺餘の銅像もありとなむ 源平盛衰記などに 実方朝臣奥州笠島
道祖の社頭を馬に騎て通りければ 神に蹴ころされしとあるは 古き俗説と見えたり 但し是は道祖の女神なりとあり)
されどはやく神の石像是のみならす見えたれども 陰相を作れるは道祖なる事論なし 神名帳に 能登の国 羽咋
郡 大穴持の像 石神の社 能登の郡 宿那彦の神の像 石神の社など見えたり 万葉集に 夕餉問ひ石占以而云々 金葉集に 寄石
恋といへる事をよめる 前斎院六條 あふことをとふ石神のつれなさよ我心のみうごきぬるかな 埃?抄に幸神の祠
に丸き石を置て石の軽重をもて事の吉凶を卜する事をいふ 景行紀の石を蹴て占わすこれしも又石卜といふべしなど
いへり 石神の図は古き絵巻物などに往々見えたり 今川貞四の道ゆきぶりに 播磨路しみづかながさきなど打通
たる処に又いさゝか行すぎて川のほとり近く石の塚一つ侍り 是は神の在は爰なりけり 出雲路社の御前にみゆるものら 

(欄外上)
式人物語に信濃諏訪松本辺にて石にて作りたるサイの神といふは 和合神の如く二人 手を肩にかけたる像なり
正月十五日竹を立 その末より縄を四方に引すへ門にかざりたる 草木を結付て上の方に切たる紙を付る 是を
サイハイと云
陸奥仙台にてカズと云木を切て 火にくすべ 本より末へ削りかくれば木の皮縮む(絵図)この体なるを童共持て
能婦を打 又は其家の門戸を敲く 此木をオハラミ 又 サイハイと云 用ひたる後 かの削りけかたる処より切て
是を竹の末にさし 田の中に立置也 サイの神は幸の神なれは 是削りかけをサイハイと云なるべしと云り
サイノ神トハ塞ノ神ニテ神代記ニ出道ノ神也 委シクハ古事記伝ニ見エタレバコゝニイハズ コレヲ幸ノ神ト云ハ
誤也 十五日ノ削リカケハ粥状ヨリ起ル


20
かたども一二侍りしをなどぞとたづねしかば この路をはじめてとをる旅人は たかきもいやしきも かならずこれをとり
もちて石のつかをめぐりて後 をとこ女のふるまひのまねをしてとをることゝ申しゝが いとかたはらいたきわざにて なむ

 

(絵図)

信貴山縁起 石神の図

f:id:tiiibikuro:20190401163614j:plain

 

侍りし か程まことや この神の本社は ほどちかき処の海中に立給ひたる
が かやうに学び侍るたびごとに御社のゆるぎ侍るとなむ申けり あらたなる
ことなるべし つたへ聞神代のことのまぐはひをうつすちかひのほどもかし也
こゝをばいはきともいはのわたりともいふにとそ云々」あり そのかみじゃ陰像
東国のみならず処々にありける也 ○また猥藝なる仏像どもこれかれあり
新編鎌倉志巻七 延命寺は米町の西にあり浄土安養院の末寺也 堂に立
像の地蔵を安す 俗に裸地蔵また前出し地蔵ともいふ 裸形にして双六
局(バン)を踏せ厨子に入 衣を着せてあり 参詣人に裸にして見する也 常の地
蔵にて女根を作り付たり むかし平時頼 其婦人と双六の勝負を争ひ互に裸にならぬことを賭(カケゴ)にして 婦人に負たれば

地蔵を念じけるに忽女體に変じ局(バン)のうへに立といひ伝ふ 是不礼不義の甚しき也 総じて仏并の像を裸形に作ることは
仏制に於て絶てなき事也とぞ 人をして恭敬の心を起さしめむ為の仏を何ぞ猥藝の體に作るべけんやといへり 又塩尻
卅三 或人問甚目寺釈迦堂に僧あり 俗におそうざうと呼は何ぞや 答云 宥頭廬尊者なり 寺院食堂に安置す そう
ざうは聖僧(羅漢をいふ也)の訛りなり 尾府の俗語に いにしへ婦人の濃(アツ)く白粉をよそほへるを おそうざうの女しといひしも むかし
甚目寺へ人毎日参り此僧に白粉をもて面顔を塗て願なとかけし風俗故かくいへると古き人語るといへり おもふに此寺
の像も道祖の類なるべし 信景が混したりといへる説にかなへり 但し甚目寺は信景その国人なるに却て心付ず宥
頭廬なりといへるはいかにぞや願だてするに白粉を其像にぬりしといへるは(△南水漫遊云々)西宮の百太夫の像に紅粉ぬりたりしも さる故と
なむ 然らはそうざうは猶僧像なるべし いにしへ男女の體を作れるよし 上に見えたる如なれば女陰を刻みたるも遺りてある
へき也(鎌倉鶴が岡にまろらかなる石に女陰の形付たるあり 自然の物のやうに見ゆれども彫りたるにや これも願がけ
なとすると見えたり ○今妓家には神棚にはりこの男根を据えへて祭る 遊女等が百太夫を祭りしに叶へり)○尤 双紙に
まふもの でくくつ でこのぼ云々あり 傀儡をいふ也 今でくのぼう(又おでゝこといふ物も有)皆道公の音の転(ウツ)でる也 関秘録五巻 でくは土偶
の通略 でく入る箱をどうこといふ 其箱に似たる故竃をどうこといふ 銅にてしたるものをどうこといふも竈に似たる故也

(左頁欄外上)
△南水漫遊に百太夫 毎年正月には白粉を厚さ三分ほとに面にぬり置 此辺の輩その年生れたる小児を詣しめ 此おしろいをとりて小児の面にぬる
 これ疱瘡諸疾を除く呪ひと云 此人形ある故に西宮に笠井氏と云人形芝居の座ありといへり


21
茶の湯のどうこといふもそれに似たるゆえなりといへり 此説も猶誤り也 先づでくは道公の音にて土偶にあらず 又竃
はもとより名あり 実名を聞ず 銅にてはり造りて湯貯ふる物は後に出来て名もなきものなれば なぞらへてどう
こと呼 おもふに其も猶茶の湯に用る器物より

 

(絵図)

f:id:tiiibikuro:20190401163722j:plain

 

うつせつものなるべし この器は傀儡子が首にかけて人形舞す箱を茶の湯師が好事に似せ作りて どうこと
呼で その文字を道幸と書り こは誤り也 道公と書べし ○一代男草子四巻 次の間のだうこにこうしつもやう

のきる物入置て云々あり これは戸棚をいへり 但し此條は種々たばかり事をいへるなれば よの常の
戸棚にはあらぬにや ○またくゞつの名義を考ふるに 日本紀に木祖(ノオヤ)久々能智 とある 久々は莖にて
木の幹をいふ 智は男を尊む称(名)なり 智と都と通音なり 又大殿祭祝詞に久々遅命(是木霊也)とあるほどを
おもふに木もて造れる人形を舞し働らかす時は神あるが如くなる 故にさは名付けしにや また
海つものほど入る器物にくゞつといへるは万葉集などに見ゆ 袖中抄に裏字をよみて 莎草を編
て袋にしたるをいふ也 万葉集抄には細き縄を持物入るゝその口して田舎の者の持なりといへり これら
は物実なれば名義もおなじからぬにや(なるべし) 草をもて作れる物故にさる名のある事にや
○こゝも漢土に私?子土娼などいへるたくひ むかしより種々有しなるべし 建武元年二條河原
落書に たそがれ時になりぬればうかれてあるく色好みいくそばくぞや数しらず内裏おかみ
と名付たる人の妻どものうかれめはよそのみるめも心地あし とあり 是則くゞつにて遊女とは
実なり 後には人の妻にもあらねども遊女の品降りたるを和妙抄に 夜發(ヤボチ)といへる類をくゝつとお


22
ぼえたり
○職人図彙に 夷子舞しは津の国西宮より出る故に戎舞しと号す 西宮のさし向ひ海を隔
て淡路島にも此流あり 昔はえひすの鯛を釣給ひし所を仕形にして春の初めに出けると也
今は能のまね踊のまね迄々猶す 浮沈みある音声に風あり 世に傀儡子といふは是なりといへり
淡路島三条村に源之丞・同三太夫等ありとぞ

金瓶梅繍像喪礼図
浄土に傀儡はもと表家の具といへり
そは循表の蒭人なと是也後世は
さるへき家の葬送に険道神とて
鬼をはりむきに造りて是を舞す事
あり 開路神ともいふ前に立るもの也
事物記起原軒轅本紀を引て云
帝周遊時元妃?祖死於道
この時喪を防ぐ為にこれを持る侍
故に方相并曰防喪盖其始也といへり 俗号険道

 

(絵図)

f:id:tiiibikuro:20190401163804j:plain

 

○小扇風古画
舞し人拍子するものと二人
なり 是は箱の作りやうも美
なるさま也

西宮傀儡子より起れりとぞ 其別にしるしたればこゝにいはず 雀塚噺といふものに(此作者元文の初め生れし人といへり)
傀儡子を江戸の方言に山ねこといふ 一人して小袖櫃のやうなる箱に人形を入れ背負て 手に腰鼓を敲
きながら歩行し 小童これを愛して其音を聞て呼入人形を鼓舞せしむ 浄るりは義太夫節にて三絃なく
芦屋道満の葛の葉の段 時頼記の雪の段を語りながら人形を舞し 段々好みも終り是切といふ処にいたりて
山猫といふ鼬の如きものを出して チゝクワイ/\とわめきて仕舞也 我等十四五歳迄は一月に七八度つゝ来りしが 今は絶
てなしといへり(南水漫遊に傀儡子むかしは西宮并に淡路島よりも出し也 夷子の鯛を釣給ふ仕かた致して春初に出ける故えひす廻し
えひすかきといへり 江戸の方言に山猫と云人形舞して来に山猫と名付て鼬の皮を出して小児をおとす 当時首かけ
芝居と云もその余風なりと云り)