仮想空間

趣味の変体仮名

画証録  相撲人古図

 

傀儡子の項を読むうち少し字に慣れたので、慣れ覚えている間にお相撲も読んでみました。

 


 読んだ本 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533618

 


5(左頁)
画証録            喜多村信郎著
    相撲人古図 丸山仁太夫明石志賀之助 古今行事人の粧
相撲の節会は安元年中より絶て其名のみ聞と古今著聞集に見えたり 按るに源平盛衰記永安四年
七月廿七日相撲の召合あり 大内にて行はれしは此時までにて其後聞えず 公事には絶しかど世には猶さかりに行
はれて鎌倉にて是を執行せられし事東鑑に往々見ゆ 其頃畠山ほとの大名をはじめ大力にして相撲をと
れるものゝふ多く聞たり また職人歌合なとにも相撲出たる 皆これを業としたるもの也 是にても世に行はれし
事を思ふべし ○玉勝間に江家次第にすまひの事をいへる様 犢鼻褌着狩衣差紐と見え著聞集には 烏
帽子袴なと着ながらすそをくりてとりたりしやうも見えたり 然るに栄華物語根合巻には はだかなるすがた
とものなみたちたるそうとましかりけるとあれば むかしより裸にてとりしにこそといへり おもふに狩衣など着るは
相撲とらぬ間の儀なるべし 古画を見るに皆然り 又半日人の家などにて試みにとることもあらむには裾くゝる
までにて裸体に及ばぬ事もあるべし 相撲のけるき儀式は江家次第西宮記等に委しく出たり 今更いふに


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(絵図)
相撲長左右各二人 冠?褐衣布帯
籌判府生左右各一人 装束同上
是は勝負に随て
立合て郡判す 故に
立合といふ
勝方の立合は
舞ふといへり
これ今の
行司也 古は行司といはゞ奉行の事也

○古画相撲人

さや巻たふさぎに着たり

古記に犢鼻褌とはあれど
たふさぎをいふべし

(上)
○九巻本
栄華物語
かゞやく藤つぼの巻 図左

○同上 図右

年中行事歌合奥書にも左右の相撲人
犢鼻のうへにかりきぬはかまをきてとあり
されども是はいまだ相撲とらぬ間のさま也

(左頁上)
甘露寺職人歌合 相撲取

常々のおもひ
出に相撲の
節に
めさればや

○鎌倉職人画

たふさぎはみな此体也 前に当る処紐あり 後は裂きて
二つにしたるもの歟 されば結びし処を四つ結といひしことも聞えたり 今は
  是を三つ結といふ


(5の続き)
及ばず 相撲人の古図ども爰に写す 其体を見べし ○劣る記事はさておきつ 勧進あるひは勧場
に出たることを考ふるに そゞろ物語もと吉原の事をいへるに 観せ物ども数々挙たる内相撲も見えたり また
色音論草子にも禰宜町にさこんが歌舞妓舞相撲とあれば 慶長より寛永ごろ(そゝろ物かたりは慶長 色音論は寛永年中の冊子也)
専らみせ物にあり 相撲大全に 勧進相撲は山州千菜寺八幡宮再建に付正保二年六月下鴨会式の内
十日が間興行す 是京都勧進相撲の起り也 江戸は寛永元年 明石志賀之助寄相撲と名付 四谷塩町にて
天晴六日興行す 是始也といへるは非なり 勧進とは寄を勧ることにて堂社建立の為のみいふにあらず それより


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さき伏見繁昌なりしに 諸国より名誉の相撲とも来て京にも伏見にも勧進せし事 義残後寛など
にも見えたり 又右の説によれば京都は江戸よりも二十年ばかりおくれたり さはあるまじ 近江国は昔より相
撲をとる者多く 石部草津の両宿より御合て相撲をとる 大名方に聞及ばれて相撲の衆とて召かゝへ給ひしと
東海道名所記などにもいへるは文禄慶長ごろの事也(粟津の猿などいひし者是なり)又志賀之助が四谷にて興行せしと
いへる寛永の年号恐らくは寛文の誤にや 寛文延宝の頃盛なりし丸山仁太夫といへる者と志賀之助相撲
とりしとなり 関東遊侠伝に夢野市郎兵衛とて勇猛義気の振まひ世に聞たる者あり 志賀之助年
ころむつびやねかりけむ 其頃京都に角力の御催ありき(節会絶てかゝる御催あるへき誠とも覚えねど 此ころはいまだかやうのかりそめなる事もありしか)大関は丸山仁太夫
なり 此者大漢(ヲトコ)にて三尺の間には横にならでは入がたきが 力は門扉をじゃづし大名を持などするに双ぶもの更になし
されば江戸に名高き手取志賀之助をあはすべしとの事にて有しかば 東西の日本一の勝負ぞと国々一も響き渡
れり 志賀之助此事を市郎兵衛に語りけるは この度のはれ相撲日本一の名を得むことの有無これにあり 勝負
は定めらけれ共 大かたは吾勝べし たとひ負るとも名をくだすまじとおもふ也 いかで是を見とゞけたびてんやと

いひければ 市郎兵衛心得つとうべなひ打つれて都に上れり 既にその日にまりければ市郎兵衛けふの相撲
負たらむには我も命はなきもの也 そこをよけんとしては相手を付むに事ゆかず 唯二人ながら重ね切にして我腹
のきりやうを諸人に見すべしとて?なひ行 やがて相撲とり結ぶ時市郎兵衛はにらみつめてひかへたり 仁太夫力まさ
れるにや志賀之助を引つめてつと差あげぬ あはや投出さるゝと見えしが 志賀之助宙にかへりて仁太夫を蹴たふし
たるは山の崩るゝ如くにて ほむる声堂上堂下一同にしてなりやまず 志賀之助は是に依て日本無双の錦を得て面目
を施して 退り出たる丸山が弟子とも安からぬ事に思ひ むくひせんと企るよし聞えれば 市郎兵衛はからいて彼等を
懼(おそ)るゝには足らねども 勝て冑の緒をしめよとこそいふなれ あとをば我に任せよとて あすは志賀之助江戸へ下るといひ
?てその夜みそかに忍ばせて京師を送り出しぬ あけの日市郎兵衛は羽織の背(ソビラ)に日本無双明石志賀之助といふ
文字を縫付たるを着て 深あみ笠引こみて立出たるに 丸山か徒の企ありといひしは虚説にや有けむ事故にて 江戸へ帰
れりとなむ ○近世奇跡考にも此事を引て丸山仁太夫を仁王仁太夫といへるは心得がたし さる美名有しことを聞ず 又
志賀之助を市郎兵衛と共に寛永中をさかりにへたる者といへるも非なり(市郎兵衛は元吉原にて喧嘩の事により誉を得たる由見え 志賀之助は四谷の


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勧進相撲のこと寛永元年といへる
説を合してさはいふにこそ されど
市郎兵衛か行年もしれず おもふに志
賀之助より齢高かりしき仁太夫志賀
之助は壮年の程なるへければ寛永
盛りの時とするは誤れり 本書にはこの
年の事をいはず 又羽織も音跡考には
事を飾りて今糸繍(ヌヒ)黒繻子の羽織と
いへるも本書にさはなし たとひはか
なき草子なり共原文の儘に引べし
餘りぐだ/\しきは文をかへもすべけれど 違
はぬやうに書ねき也 然るにあらぬ事を
加ふるはいと/\妄り也 おのが上(カミ)にかけるも
原文の儘にはあらず 要をとりて引直
せりこと長ければ止(ヤム)ことを得ざる故也)

○丸山仁太夫相撲之図
延宝年間の画寒物に出たり
四條河原みせ物の中にみゆ
画は例の編図にて
こゝに収む
この看板はヤグラの
右の角にあり

(絵図)
天下一丸山

木戸札を
売るにや也

○此図かたやの形今
といたく異也 今は
専ら土俵と呼を是
には土俵なし されど
むかしも土俵を用ひ
さるにはならず
下にみゆ

(左頁上)
明石志賀之助相撲図 延宝年中紙画 松蘿館珎蔵

         此処破れ失たり

むかし小児の
翫びの板行
絵なり
古屏風の下
ばりより此類
の絵多く出
みな延宝年
中のものなり

此図一覧の次
はな紙に聊
其形を写
しゝなり 画
紙竪一尺二三寸
横八寸余
端破れうせ
たるは惜むべ
けれど しかの助
の名書有存せる
は珎重也

下)
「しがの助」
「き村喜左衛門」
「大竹」
「かこ之助」


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この絵に大竹とあるは相撲大全に古人の名を挙たる内 丸亀衆の中に大竹弥五太夫とある是なるべし かこの助いまだ不
祥 一時童部の弄びものゝ百六十年外に遺れるは珎らしといふべし ○古へに立合といひしを今は行事といふ 相撲大全
に古代行?行事装束侍烏帽子を戴き素襖を着し露を結びてたすきとし揮(ザイ)を持て相撲を合せしもの
なり 中古風流になり えほしをとり茶筅髪にしてすあふを陣ばふりに替 戴付をはき揮を唐団扇にかへたり 此
出立漸々久しかりしに享保年中より又装束を転じて着流し小袖の上に上下を着し股立を取て立出といへり麾(ザイ) 
用ひしこといかゞ有べき 古きに依らば弓をこそ用べけれ さなくは畳み扇にてもあるべし 裁付着たるは上に出たる仁太夫
相撲の図に筒袖装束の行事見ゆ 同頃なれども爰に出たる喜左衛門は上下姿なり 江戸の風ははやく京都とかは
れるにや 類柑子闘鶏発句合に「裁つけの足に覚悟や錐袋といふ句の判詞に たちつけの体田舎行事と見えたり
と有 京師に行はれたるにかくはいふまじきなれど 其角は唯江戸をむねとしていづくをも田舎といひしか 裁付の形其頃も
上がたに行はれたる證(シルシ)に二図を出す ○又彼仁太夫か事大全には漏たり 後年享保の末の頃仙台より出たる丸山権太左衛門が
ことは同書大男の部 長六尺三寸七分とあり 相撲今昔物語に大坂天満の吉田氏なる者のもとにて大なる青竹を捻ぢ

○人論訓蒙図集 元禄三年板 ○西河祐信画 享保

(絵図)

たるを あるじめでゝ花生筒とし丸山筒と呼で秘蔵したりとなむ 此事も奇跡考に引て 丸山はいたゞきに丸き瘤
ありて山の形したれば丸山といふといへり ?(こぶ)のことも黒繻子のはふりの類にや その有やなしやはしらねど丸山の名は彼
太夫か号を襲へるなり ○睡余小録といふものに享保九年六月深川八幡宮社頭の相撲番附を載て その前頭
の初に奥州成瀬川土左衛門と有に依て 今俗に水死のものを土左衛門といふは 彼か肥満せしに似たればいふるべしと 山東
いへり さもあるべし 重ねて按ずるに 天正の頃参州の人に天津土左衛門といへる勇士あり 又云昔は大関を最手(ホデ)といへり 式
人云 腹の大なるを最手腹といふは相撲より出たり 又一書に布袋腹とも有といへり 土左衛門と是はよき一双の癖説(ヘキセツ)


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なり (土左衛門の説奇跡考に出たれども 友人照義の説也と有て京伝か考にはあらず されど是をよしと思へるなるべし)どといふは形容のこと 物の水に入たるにどぶ/\といひ人のいたく
肥たる容をどた/\といふ それよりして麁大なるをどぶつと呼 ど左衛門即是なり(又賤しめていふ言に どちくしやう どせう骨 どたま〔どあたまなり〕などの類あり)
左衛門に義なし 唯人の名にしたる也 ○又ほでとは肥たるをいふ(今細工人などの詞に肉の過たるをぼてるほどいふもこれなり)江戸人の詞に どてつ腹と
いふは即ほてつ腹也 ぼた/\などいふも肥たるにて同言と聞ゆ
猿楽狂言すまふの詞に おてつまいつたおてつかつたぞなどいふことあり 是は唯手といふこと也 人をさしての云(コト)なれば
猶もじ付るなるべし 合戦の記録などに 既に闘ひしを手に逢(アフ)といひ 戦かはで止しを手にあはぬといふ 傷をうけたるを手負
従ひ与(クミ)するものを手下といふたぐひ凡人の活動にみな手といふ 其うへ相撲にあづかりし詞なるよしは著聞集角力之部 時弘
しきりに宗平をてこひもしまくるものならば時弘か首をきられん云々 又一條にとりわきそこをてこひ申ぞ(是を坂本写本ともに
てころとあるは誤りなり)また伊成弘光相撲の条 左の手を出してこひけるを云々あり 是もてもじ重なる 右誤りててもじを一つ落したる
なり 古事談には 弘光左手ヲ指出テ手乞ケルヲとあり 手乞は手を乞にて勝負を望む也 狂言に行事などかおてといふは手
合の義也 今狂言師こ(古)とを弁へずぼてといふは訛(アヤマ)り也 さて是に依ておもふに 狂言記におてつとあるつは語勢にて上のてをつよく

いふ時つい口にありて顕はに発せざることゝ聞ゆ いとをさなきことながら女童(メノワラハ)のいしなどりに てつといふことのあるも狂言の詞
によれるにや てつは仕損ひにて他よりてつと呼は支証の義 聊かにても負はまけとして許さず 其手を吟味する意歟(か) き
さごはぢきにはつまといふこと有 こはつまづくの略也 手玉取にてつといふも手つまつくの略かとも思へど猶さにはあらじ
○此図はじめに
出しか古き相
撲人の絵の内
にあり
櫛もて髪を撫
る体也

(絵図)

いにしへも髪のみたれたるにはみづから櫛してかき撫
たるなり 後世すまひ櫛といふことも もとこれがため
なり 其説また化粧紙・力水などの事とも嬉遊
笑覧相撲の條にいひたればひらき見るべし

細川家士吉田氏家説相撲故実といふもの有 聖武神亀年中近江国志賀清林といふ者を召て行
事に定められてより 其式委く相備り多年相続の処 節会行はれずなりて志賀も断絶し後鳥羽院文治年
中二度相撲の節会行はるゝに及で行司勤むべきものなく 拙者先祖吉田豊後守家次といふ者越前国に在て志
賀家の故実を伝へしより 五位に任せられ追風の名を賜はり相撲行司の家と定められ 木釼獅子王の御団扇を賜


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はり 節会の御式相勤めしかども 承久の兵乱より節会又中絶 正親町院永禄年中節会行はるゝ時 十三代目追風
久例の如く相勤 元亀年中二條関白清分公より日本相撲の作法二流なきの義にて 一味清風と云御団扇并烏帽
子狩衣袴唐衣四幅袴を賜ふ 其後信長公秀吉公権現様御時度々相撲式相勤 元和五年四月十七日 於紀州
和歌山 東照宮御祭礼奉行朝比奈宗左衛門殿諸事申談相勤依之御刀一腰頂戴す 十五代目追風に至り
朝廷御相撲も廃絶せらるゝ故 二條家へ相願 万治元年より当家へ罷出 元禄年中 憲庿牧野備後守殿へ被為
成相撲上覧の時牧野藩士鈴木梶右衛門入門の御願有て 将軍家上覧之式一通り致相伝品々お預あり 元祖より拙者
迄都合十九代相続の故実伝授し来り 当時諸国の行司并力士どものゆるし拙者方より代々差出す 寛政元年十二月
吉田善左衛門としるせり その始祖をする志賀清林といふ者正史に所見なし まづ是にて古来の事をいへるも推て知べし
相撲大全には野見宿禰の末孫とて今肥後国に現在して相撲行司をなすとあれど 此書付にはその説見えず 虚拠多
く流布せりとみゆ ○日本相撲鑑といふものに 諸国の供御人を召集て相撲の節行はる 供御人は諸国の防人(セキモリ)なり 此故に今
 に相撲の長を関といひ習はせりといへり 此説通ぜず 相撲を奉仕する人みな防人なれば 其長たる
者のみせきと呼べきやうなし 其上書記万葉集等防人をサキモリと訓す 是崎護(サキモリ)の義と聞ゆ 海国の邊塞を守らしむ
るよりの号(ナ)也 それ故にサキモリを島守とも書り 後世最手の位を関と呼は関門(セキド)の義にて 越るものなきをいふなり