仮想空間

趣味の変体仮名

画証録 遊女 白拍子

 

 加速のついてるうちに続けて読んではみたものの、難し~! 画証録疲れました。

 


 読んだ本 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533618


11(左頁)
   遊女 白拍子
和名抄乞盗類に 遊女楊氏漢語鈔云 遊行女児(宇加礼女一云阿曽比或説云昼遊行謂之遊女持夜而発其淫奔謂之発也俗云夜保知)と有 もとより
賤き部類なから高貴にももてあそばれき 栄華物語松のしづえの巻 後三條院天王寺に詣させ給ふ條に
二月廿二日のたつの時ばかりに御船いだしてくださせ給ふほどに江口のあそびふたふねばかり参りるゝほどそ給は
せける 朝野群載遊女記自山城国?渡津浮巨川西行一日謂之河陽往返於山陽南海西海三道之者莫不
遵此路江河南北邑々處々分派(一本作流)向河内国謂之江口蓋典薬寮味原牧掃部寮大庭庄也到摂津国
神崎蟹島等地比門連戸人家無絶娼女成群棹扁舟着旅舶以薦枕席聲遏渓雲韻飄水風経廻之
人莫不忘家州虞浪遊釣翁商客舳舮相連殆如無水蓋天下第一之楽地也江口則観音為祖中君小馬白女
主殿蟹嶋則宮城為宗如意香炉孔雀立牧神崎則河菰姫為長者孤蘓宮子刀命小児之属皆是其尸(屍)
羅之再誕衣通姫之後身也上自卿相下及黎庶莫不接牀第施慈愛又為人妻妾歿身被罷難賢人君子不
免者行(中略)長保年中東三條院参詣住吉社天王寺此時弾定大相国被寵(?)小観音長元年中上東門院文


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有御幸此時宇治大相国被賞中君延久年中御三條院同幸此寺社狛犬?等之類并舟而来人謂之神
仙近代之勝事也相伝日雲客風人為賞遊女自京洛向河陽之特愛江口人刺史以下自西国入河之輩愛
神崎人皆以始見為事之故也所得之物謂之団手及均分之時無憲耻之心者忿属之其大小諍論不異
闘乱或切麁絹尺寸或分米斗舛■■有陳平分肉之法其豪家之侍女宿女下舩之者謂之■■亦遊得
少分之贈為一日之資云々 (長保の度の事は前に引る栄華物語に見えたる是なり 古事談にも御堂御出家
 の後七大寺に参らるゝ時小観音来れり 御堂このよし聞かれて赤面有しとしるせり)また栄
花物語(殿上花見の巻)長元四年九月廿五日女院(上東門院)すみよし岩清水へ詣させ給ふにてくだらを給ふほとにえくちといふ処
になりてあそひども笠に月をいだしらでんまきえさま/\゛におとらじまけじとしたてまいりたりと有 遊女はかならず傘
をさして船中にあり明衡の新猿楽記に遊女をいふ処 昼荷?任身上下之倫夜叩航懸心往還之客といへり 月を
出しとは傘にかゝる絵をいふ也 小舟をこきめぐらして旅舩につきて乗うつる事也 櫓をこぐは侍従の女のわざ也 此さま
法然上人画伝などに見えたり 御幸などにおそれ気なく押て参りなどをし其頃のならひにて公卿達多く遊女
にかよはれし故なり 古事談に遊女香煙は小野宮殿と二條関白と大臣二人に通したりとあり されば才能も

すくれたるもの多かりと
みゆ 年山紀聞月記を引
て云 建仁三年五月十三日
御幸記雨降時々己持参
上御向殿小時還御 遊女
着座神崎妙スベリテ顛
仆ス今按これは西行と贈
益ありし遊女也 新古今
にても妙とよむへしと
いへり 宸遊に侍る事も
有し也 また長門本平家

○圓光大師伝三十四巻所裁図
その文に云
播磨国室の泊りに着給ふに
小船一艘追つきたる これ遊女
かふねなりけり云々


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物語清盛厳島詣の時 室の遊女か語りし歌 花うかしぬる人もなき我身かなむろありとても何にかはせむ かやうの
たくひいと多し 漢土には水滸伝徽宗帝妓女 李師々が家に微行ありし事をいへるはうきたる事とのみ思ひしに升
菴外集(巻八十六)李師々?京名妓云々徽宗行幸之見宣和遺事甕天?語又載宗江潜至李師々家題一詞
于壁云々あり 然らは水滸伝にも事実なきにはあらず また板橋雑記に在昔宋徽宗在五国城猶為李師々立伝
云々いへり ○古へ遊女の名さま/\なれど仏の名釈迦の語なと名付たるが殊に多し 是又流行によれる也 書写
上人か生身の普賢菩を見たりといへる遊女が名は何ともなけれども これは普賢といひしなるべし 宗盛か愛せし
ゆやといへる女の名 南嶺子にくまのとよむべし 長枕記に遊女万乃と載られたり 熊野権現をことめかしくいはむと
そ ゆや権現と申方より遊女ゆやとよみ来り 謡曲も其俣を受たりと見えたり 長枕記に然ありやなしやいぶかし また
謡曲拾葉にもゆやとは母が名也 宗森の愛せられしはゆやが娘侍従なるべし??に作る処相違せりといへるもいかゞあ
るべき ゆやは侍従が名にて侍従は宗盛につかへし時の称呼ならむ ○遊女もとは河海のほとり旅舶のはつる爰に家居
して小舩に乗て出しものとみゆ 価の定めほどはいかゞありけむしるべからねど 禄の厚薄大かたはさだまりしなるべし

○鎌倉職人尽歌合

左 遊女 

河せより かけさす月の みなれ さほ 舟も流れの 浪のはる/\

(絵図)
 

白拍子

秋のおもひ一こえ にてもかそへはや 月みることの つもる夜 こゝろ


甘露寺職員尽歌合
  白拍子

鼓うちみはやしけるも いちしるく 月にかなつる 白拍子

忘れゆく 人も昔の をとこ舞 くりし かりける 恋のせめかな

六条道場一遍上人絵巻の内にもかくの如き遊女見えたり

かくて此徒多くなり いづこともいはず人の往還あふき駅路(ウマヤヂ)などの処にもきしにや 東鏡建久四年里見冠者義
成を遊女の別当となすべしと有 繁茂せし故としらる(頼朝卿景季と橋もとの君には何かわたすへきといふ連歌の事
  東鑑に見え 加賀守師高か愛せし萱津宿の遊君 大江定基が
語らひし赤坂の遊君力寿など源平盛衰記に見えたり 大かた宿々には遊君有し事みゆ)○源氏物語みをつくしの巻 社参のかへさ難波田蓑の島あたり(中略)
あそびどものつどひ集れるも上達部ときこゆれどわかやかにことこのましけなるはみなめとゞめ給ふべかめり(目を止める筈?)


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されどいでやをかしきことも物のあわれもけがらこそあンべけれ なのめなることをだにすこしあわきかたによりぬるは心とがむる
たよりもなきものをとおぼすに おのが心をやりてはしめきあへるもうとましうおぼしけりといへり こは双紙の地なら
ねども作者の心にて其頃公卿達まことには さはおぼさしめなるべし さればにやあまたかたられし事共聞ゆ
白拍子も遊女なり 遊女は音曲はなせどもいまだ舞ことはなかりしを鳥羽院の御時より始れりとぞ 是を源平盛衰
記には島千載若ノ前よりといひ 徒然草には通憲入道これを賤ノ禅師といひける女にをしくたりといへり 白拍子とは拍
子の名也 長門平家物語にも白拍子をかぞへてなどいへり(職人巻の歌にも一声に てもかぞへばやといへり)さうぞきたるさまは盛衰記に初は直衣
に烏帽子腰刀をさして舞ける故に男舞と申けり 後には事がらあらかしとてえほし腰刀を止て水干ばかりにて舞けり
といへる さもあるべし そのかみ女の舞曲を巻せしことなき故也 職人尽の内に見えたるは皆初めのさまならず えぼし引
入て大口はきたるは曲舞まひのみなり 是も腰刀は佩(ハカ)ず 漢土のむかし剣器舞は女伎雄装空手にて舞といへるに等し 又
おもふに彼遊女とも礒の嶋のと呼たるは もと住居し処よりて称(タゞ)へしなるべし 是も高貴に寵遇せられしは祇王仏か類ひ
のみならず 亀菊などは承久の乱を起せしに至れり(中つ代高貴のあたり風流に過てかゝるものまて咫尺しやすかりし 近き世になりては聞も及はずはゞ八宮両本願寺二条関白ほと遊興

ありて 朱雀に通はれしかばとり/\゛上の御沙汰に及べり 又その前後江戸にては仙台の太守を初め大家高貴花やかなる
遊賞ありける いづれも其家に事なきはなし 才能古人に及ばずといへども猶其頃迄も拙なからず手ほどは書たるもの
なりしに今ばかりの者もなく やむことなき御方にかたらふべきもの絶にしのみならず)
一統に黴毒のおそれありて中人己上はかりそめにも戴き難き物となれるはいとよし 但し此毒は古も同しかるべし