仮想空間

趣味の変体仮名

男色大鏡 第一巻


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     請求記号:ヘ13_01753
     (1)


2
日本紀愚眼に耽(のそか)は天地はじめて
なれる時ひとつの物なれり。形葦茅(がい)
の如し是則神となる。国常立尊
とまうす。それより三代は陽の道
ひとりなして衆道の根元を顕はせり。
天神四代よりして陰陽みだりに交わり
て。男女の神いでき給ひ。なんぞ下げ
髪のむかし当流のなげ嶋田。梅花の


3
油くさきうき世風に。しなへる柳の腰
紅井の内具(ゆぐ)。あたら眼を汚しぬ。是等
は美児人(びしゃうにん)のなき国の事欠け。隠居の親仁
の玩びのたぐひなるべし。血気栄んの時
詞をかはすべきものにもあらず。総て
若道(じやくだう)の有難き門に入事おそし

 貞享四年竜集丁卯陬日

男色大鑑 本朝若風俗 第一巻
 目録
「一」色はふたつの物あらそひ  二丁目
神代のはじめは衆道の事
日本に隠れもなき女嫌ひの事
美道根元記口談の事

「二」此道にいろはにほへと  六丁目
若道の手本書く事
都の花より里の前髪の事
情懸けし法師は行方しれぬ事


4
「三」墻(かき)の中(うち)は松楓柳は腰付  十丁目
思ひ入は児舞帳にしる事
病中の願書は満に籠める事
惜しきは角入ずに元服の事

「四」玉草(たまづさ)は鱸に通はす  十五丁目
大社は若道もむすぶの神の事
三年の通ひ姿聞く人泪の事
恨みは死にさまに書置の事

「五」墨絵につらき剣菱の紋  廿一丁
くろ焼は命をとる薬の事
女筆も手すじしるゝ事
忍び川は矢さきに沈む事  目録終

 色はふたるの物あらそひ
天照神代のはじめ。浮橋の河原にすめる。尻引といへる。鳥
のおしへて。衆道にもとづき。日の千麿の尊を。愛した
まへり。萬の虫迄も。若契の形をあらはすがゆへに。日本を
蜻蛉(せいれい)国ともいへり。素戔嗚尊老いのことかきに。稲田姫
たはふれ。それより世に姦き赤子の声。取揚ばゝ仲人目(か)
鼻(か)も出で来。嫁入長持葛籠。二親のやかひとなれる。男色ほ
ど美なるもてあそびはなきに。今時の人。此妙へなる所
をしらず。されば若道のふかき事。倭漢に其類友
り。衛の零公は、弥子瑕(やしか)に命をまかせ。高祖は籍孺に心
をつくし。武帝は李延年に枕を定めたまふとなり。
我朝にも。むかし男。伊勢が弟の大門の中将と。五つせにあ


5
まりての念友此年月のうちに。花を見ぬ春。秋の月を
わすれ。わりなき情には雪をかづき。嵐を袂に入。氷の橋を
わたり。とがめる犬に焼食(やきめし)をあたへ。穴門のきびしきに。相鎰
をこしらへ。闇にも星の林をうらみ。蛍のひかりをもにくみ。下部
の涼み捨てたる。腰掛とやいふものに。足は蚊の地に染なし。是
にもあかず曙をかなしみ。前髪の風にかはらぎ。ばら/\鶏の
別まに。ふらぬ雨かとの泪すぐに硯にそゝぎ。筆におもひをは
こび。通臺集と名第(なづけ)て。此事一巻に残せしに。いかに是は
見捨。なんぞや。女の事を物語につくり。ういかうむりせし
も。奈良の都に。いかずの念者を見かきり。若紫の帽子。是
ぞ野郎の元祖なるべし。なをうしろつき。陽桃の春をい
ためるよそほひ。垂柳(すいりう)の風をふくめるにひとし。毛?西(もうしゃうせい)

施(し)も恥ぬべし。なを男盛になつて。業平も根本美少
人をすけるに。浮世に陰陽の神などゝいふ事。茶葉のか
げにて。さぞ口惜しかるべし。又吉田の兼好法師。清少納
言が甥の清若丸に。千度(ちたび)のかよはせ文は。人も見ゆるし。一度
の艶状たのまれて書きし。浮名の末の世迄も。やむ事なし。
人皆おそるべきは此道なり。我生(われしやう)を請て。其時今の智恵
のあらば。女の乳は呑まじ。摺粉(すりこ)あま物にて。人間そだち
たる。ためしあまたなり。兎角は男世帯にして。住み所を
武蔵の江府に極めて。浅草のかた陰にかり地をして。世の
愁喜。人の治乱をもかまはず。不断は門をとぢて。朝晩前に
若道根元記の口談。見聞覚知の四つの二の年まで。
諸国をたづね。一切衆道のありがたき事。残らず。書き集め。


6
男女のわかちを沙汰する
十一二の娘はや前後ろ見ると 同じ年頃の少人歯を琢
て居るは 女郎にふられての床と 痔のある歌舞
妓子としめやかにかたると 気のかたわつらふ女房あ
つかふて居ると 切々無心いはるゝ若衆持ちて居ると
子ども買てあそぶ座敷へ水神鳴の落つると れい
せいとしまぬうちに死んでくだされいと剃刀を出だすと
博奕にまけてのあくる日十五(かこひ)ぐるひすると さがり
口の買置して飛子を咄すと 入聟して宵から寝
て次第にやせると 主の子を念頃して昼ばかり顔
見ると 六十あまりの後家がくれないのきやふして
小判読みて居ると 角前髪の木綿帯してむかし

の誓紙を見ていると 嶋原通ひすぎて家質の流
るゝと 道頓堀ぐるひ過て御城米かりて切の近づく
と 百物語に若衆の化もの出ると さつた女房の
ねだりにもどると 楽屋がへりの編笠のぞくと
道中にて禿にお位をとふと 高野坊主の小姓に
なると 隠居の手懸者になると 竃(かま)払ひの神
子男ばかりの内を心懸くると 伽羅の油を売り子が中間(ちうげん)
部屋をいやかると 歯黒付くる女の口もとと 若衆
の髭ぬく手もとゝ しらぬ揚屋の門で雨やどり
をすると 子供宿から闇に提灯かさぬと 風呂屋
者と知音(ちいん)すると 三十日切の若衆しのぶと 遊女
を請出すと 野郎に家買ふてやると よし原の太鼓


7
に羽織かすと 川原のこんがうにこまかね預けて置と
新町へ盆前に行てよねと念頃になると 芝居の顔
見せ前に子供の情けふかふなると 茶屋女の菓子食
と 香具の若衆の秤目せゝると 川御座に。太夫
子のうしろ髪見ゆると 花見かへりの女中乗物に鹿子
のつま先見ゆると 上下を着る少人の小者に書物
もたせて行と ゆたやかなる腰元のはしたに時代蒔絵
の文箱持たせて行と 大名御物の大書院に座し
たと 築地女郎のしどけなき立姿と 脇ふさぎたる
若衆に状をつけて笑わるゝと 大ふり袖の女におもひ
懸られ尻目で見らるゝとはいづれか。ふたつどりには。
其女美人にして。心立てよくて。其若衆なるほど。いや

風にして。鼻そげにても。ひとつ口にて。女道衆道
を申事のもつたいなし。惣して女の心さしを。たとへ
ていはゞ。花は咲ながら。藤づるのねじれたるがごとし。
若衆は針ありながら。初梅にひとしく。えならぬ匂ひ
ふかし。爰をもつて。おもひわくれば。女(じよ)を捨。男(なん)にかたむ
くべし。此道のあさからぬ所を。あまねく弘法大師のひ
ろめたまはぬは。人種を惜みて。末世の衆道を見通
したまへり。是さかんの時は命を捨つべし。なんぞ好色
一代男とて。多くの金銀諸々の女につきやしぬ。只遊興は
男色ぞかし。さま/\の姿をうつし。此大鑑に書もら
さじと。難波浅江の藻塩草。片葉の芦のかた耳に
しれみな聞ながしの世や


8
(挿絵)


9
 此道に。いろはにほへと
角屋敷ばかり六ヶ所。大名借しの手形迄。腹替りの弟に
譲り。都は地車のひゞき。天秤の音さへ物のかしましきに。
朝夕黒木売も女の声に聞あき。加茂の山陰に北を見
おろし。綾杉の村立東に洞の蔦紅葉。西に自然と岩組
あつてまかせ水の清く 南は松高く。夜は葉越の月さぞ
とおもはれ。爰に見立てて軒は笹葺をむすび。心に懸る
雲もなけれど。折ふしの時雨にぬれの道は 忘れてわす
れず。今でも美少人はとへかし我枕の淋しきは兼て
合点の身にも。寝覚の千鳥物かなしく。川音の耳にせ
はしく。老の浪立影は恥かしと読れし。石川丈山入道の住め
るも此奥よりの流れなり 岸根なめらかに野飼の牛の

残せし。万の草迄も枯果。雪におのづと道耐て。豆腐
醤油にもことをかくのみ。組戸さし籠め。川原の顔見せ芝
居も今時なん。入替る若衆方を思ひやるばかりに。其程
を過なを冬めきて。人の足音もはやく。山草被きし者
の声餅突書出し。今の徳はそれをしらずに。万事は闇
の夜もあけ。春知らせ鳥の囀りに。南枝はじめて障子を
開き。霞のうちに匂ひの油。自鬢になでつけの男つき。
誰にか見すべし。春深く山浅く無用の桜咲きて。人の?(よめ)子
後家らしき姿まじりに。清水仁和寺の花は見たらずや。
此片陰に来て。清林を酒にしたし。それさへ悪(にく)きに。色ある
女を塩もらいにおこす。ないとてやらず。其後箸借りにくる。つ
らいは見て返事もせず。やう/\西日になつて。樽は口せず


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こかし。水風呂の湯も捨て。久三も取まはしかしこく仕舞へ
ば。女はさはがしく。綿(もめん)足袋をぬぎて袂に入れ。銀の笄を
楊枝にさし替。櫛も鼻紙袋におさめ。紅(もみ)の脚布(きやふ)を内懐
にまくりあげ。上着の衣裏(えり)をかなしみ。首筋を取のけ。木の
枝に懸置きし木地笠をとり/\に。いそぐや暮の面影。今朝
とは見ぐるしく。町の女房のよろしからぬ事ばかり目に
かゝりぬ。帰るさに生垣よりのぞき。肴懸を見て。出家でも
ないが見ぬ顔をしをると。声高にしかる。そのはづ也。それ
がし女好めば。月鉾の町に歴々の入縁あれどもかつて取
あはず。それのみならず。修学寺の御幸に。御所乗物に
つき/\゛の。紫に四つ紋の後ろ帯。玉むすびの黒髪の見
ゆるもうたてく。北の方の窓ぬりふさぎて。日影草のある

に甲斐なき身も。歌と読みとあつて。里ちかき童子
をおしへ。手習屋の一道と名によばれて。年月をおくりぬ。
折ふしは弥生中の四日の空。朧けなる暮かたより。夜習ひ
の心懸は明日のさらへ書きを互に恥ぬ。文字を落とせば鯨ざし
の数を当られ。又は机を負はせ門ぜんをまはわす事もお
かし。其日の当番は下加茂の地侍。篠岡大吉九歳。小
新之助同年なりしが。此両人皆より先に来るに。道
橋のたよはく暮に渡るも浮雲(あぶなし)と。大吉高からげして新之
助を負て川を越し。いたはる風情。殊に筧の流れも手桶に
はこびて。茶の間に炊付け。落葉の煙をいとはず。座敷はく
までも独りはたらき。相番の人には万をゆるす。新之助は懐
中鏡見て。前髪のおくれなで付け。身をたしなむ様子こざ


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かしくおもはれ。空寝入をして見るに。大吉が手をしめて。
日外(いつぞや)の所は今に痛みますかといふ。是程の事はと肩をぬげ
ば。草紙錐封じ小刀にて。若道の念約の印紫立て。少し
おもはれたるを思へば。我ゆへの御身の疵と。泪四つの袖を
したし。悔むを見て。大唐の鄭の荘公は。御年もまだしき時。
子都(しと)を愛し給ひて。玉の袂より御手を取かはし。細行の
道車を留めたまふ粧ひも。かくやと思ひ計る。魏の哀王は。
竜陽君を念友に定まりて後。女乱おさまり。国中衆
道に諒(まこと)あるをしるとかや。我此道を深好(しんしよく)するによつて。自
然と若年にわきまへて。浅からぬ心さしすえ迄見届け
るに。連理面々鳥のかたらひ。愚かに頭(かしら)をならべ。暫時も離る
る事なし。なをさかんになる時は。二人か美形にひかれて。

(挿絵)


12
僧俗男女にかぎらず。千愁百病となつて。恋(こが)れ死に其
数しらず。その頃鹿(しゝ)が谷の奥に念仏の行者住たまへり。
八十余歳をたもち今となつて。彼両若の衆さかりを見
て。後世(ごぜ)を取はづし前生を忘れたまふとや。有人の語
りければ。いづれに御心の有もしらずとて。両人共に彼草
庵に尋ね入に。あんのごとく花も紅葉も捨たまはず。春秋
よりの思ひをはらさせ給へり。残る言葉もあれば重ねて
音信(おとづれ)けるに。はや御出家はましまさず。世を思ひ葉の
二またの竹に。きのふの日付にて書おかれしは。旅衣な
みたに染むるふた心。思ひ切るよの竹の葉隠れ。此老僧は何
をか恥たまへり。すぎにしや真雅僧正の事も。思ひ出
るときはの山の岩つゝじ。いはねばこそあれ恋しき物と。

その竹を横笛二くわんに細工のえものにおこさせ。寒
夜の友吹きすれば天人も雲より覗き。無官の太夫
もあらはれ。今の世の庄兵衛など。息の出所を感ずる。
さればはかなきは人の身。詩人は沈夢夕日と作れ
り。歌人はかりの屋どりの曙ともよめり。あゝ現か
幻しか。新之助せめて霜ならば。昼消ゆべきに。夜
のあくるをもまたず七つの鐘の鳴る時。目覚して目を
ふさぎ。十四歳にして。末期に此川水を残して。深く
なげかすは大吉なり。今は聞く人もなしと。笛竹
をうちくだき。これも気ふりとなし。その身は常
精進となつて。岩倉山にとり籠り。手づから
剃刀にて。惜しや黒髪を


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   垣の中は松楓柳は腰付
世界一切の男美人なり。女に美人稀なりと。安倍の
清明が伝へし。子細は女の面は。白粉(はくふん)に埋づむのみ。唇に紅(こう)
花(くわ)歯を染なし。額を作り眉の置墨。自然の形には
あらず。ひとつは衣裳好みに人を誑かす事ぞかし。絹帷
子の袖涼しき。風の森近き里に身を隠し。生国の
大隅にも長浪人は住うし。栄華はむかしになりぬ。橘
十左衛門とて武道すぐれても男。古主にも惜みたまへど
も。家老職の者との口論。是非なく城下は闇に立のき。
時節の朝日を待ちぬ。女は山城の国栗栖の小野の奥そだ
ちなりしが。年久しく一条村雲の御所に宮づかひ
して。親里の碓(からうす)の音も。今は玉琴に聞き替へ。同じ油火も

松明(しやうめい)進むると云なし。賤の家の糠味噌迄も。酒塵(さゝぢん)と
言葉を改め。物毎やさしくよきを見習ひ。風義もそ
れにつれて。都顔になりぬ。十左衛門世にある時この御所
に筋目あつて。此女廿二の冬。はじめての猪(いのこ)の日乞請け。夫
妻にして。此中に一子常ならぬ生れつき。母自慢もまこ
とにうるはしく。名をさへ玉之助とて。今八十五歳になり
ぬ。面向不背の髪の結ひ振。龍宮よりの見入れも有べし。此
美形の田舎には惜しやと。見る人の申せし。今の東武
に身体望みを懸け家ひさしき若党金沢角兵衛積年
五十にあまれば。物のさばき慥なるもの付けて。旅はじめ
の曙いそぐに。名残の姿を見送り。かまへて武士の心懸は。
命をおしむ事なかれと。此一言より外はなし、母親は


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角兵衛が近くによりて。しばらく囁き別れさまに。中に
も其事をよと仰られける。つれ/\゛の者ども何の事かとお
もふに。玉之助角兵衛をまねき。只今母人申されしは。我に
執心の人頼むとも。文なとの媒つかふまつるなと仰けるか。
誰人にてもこがれての状たまはるを。蟠りて届けずば
汝恋しらずなり。我たま/\人界(にんがい)に生をうけて。然も又
世に悪まれぬ程の形にして。其情しらぬも口惜し。大唐
の幽信が楊州にて。無情少年と。宗?(そうぶん)に作られしも。難顔(つれなき)
心からなりと語りたまへば。角兵衛も分別して。いづれ
ふくろ様のやうに御気づかひあそはしては。浮世に若道は
絶申べしと。大笑ひして行に。夏海の静に室津より
あがりて。須磨の関といふも恋せばつらかるべし。相坂(あふさか)の

関と聞も忍ぶ身ならばと思ひやられ。勧修寺(くわんじゆじ)のあ
たりより北を見渡し。母の古里もあの山陰ぞかし。今は
所縁(ゆかり)の人もなくて問はずうち過。梅の木の茶屋とて。和
中散の売薬あり。汗をしのぐ冷や水うれしく。江戸より
御迎の男爰に出合て。御奉公のあらましを申せば。心よく
水無月はじめつかたにつきて。間もなく御目見へ済みて。
会津に御供申てくだりぬ。心さし人に越おのづと御前
よろしく。国中にありし少人の花は。皆入日の朝顔
なりぬ。或暮風絶て。鞠垣の柳楓もうごかず。岩倉主
水。山田勝七。横井隼人。玉之助いおづれも色ある蹴出し。
御前の御機嫌此時とまるべき所。玉之助手前にて落つる
事度々なり。日頃は家中一番の上手。飛鳥井の家にも


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生るべき人と。沙汰いたせしにと見るうちに俄に眼ざし
替り。身にふるひ手足青ざめて。装束ぬぎもあへず。沓音
絶て。はや息の通ひもなかり。をの/\おどろき水いそぎ
薬をあたへ。正気の時屋敷に送りて。色々医術を
つくし給へども更に甲斐なく。次第に浮世の事極りぬ。
此一人のなげきに世間の鳴りをやめける。爰に笹村千左衛門
と申て。御領境の御番所あづかりて。御城下の人は見しらぬ
程の。すえの役人なりしが。玉之助をあこがれ明暮おもふに便り
なく。いつどは書通に心を御しらせ申べしと。おもひ込めしうち
にかゝる仕合せ。御命にさはる事あらば。中々世には住むまじと思
ひ定め。又昼機嫌をうかゞひ。夜に入て御気色を尋ね日に

(挿絵)


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三度づゝ半年あまり勤めけるに。あやうき露命まぬ
かれ。塵汚(ぢんえ)を潅ぎ。月代をあらため。御前の御礼をはじめて
仕舞。年寄中残らずまはりて私宅にかへり。角兵衛に
見舞帳を取よせ内見するに。笹村千左衛門と申書付。病
気そも/\より此かた。毎日三度つゝの見舞。是はいかな
る御人ぞとたつね給へ共。誰が存知たる者もなし。御家
に筋目もあつて御入候やうに。いづれも存候は。御気分の
御事しみ/\と様子をやづね。よきと申せはよろこび。
あしきと語れば忽ちに眼色かはり。常の人とは各別のな
げき。相見へ申のよし御物語申せば。いまだ近付にさへなら
ぬ先に。頼母子き御かたと斗云やみて。千左衛門屋敷は
はるかなる所尋ね。此程の御礼に御門前迄と申入れば。

かけ出是は有難き仕合せ。かゝる野末迄の御初足。またも
や袖風の。尾花もさはかしき此夕べ。只御帰宅と申せば。世は
稲妻の暮またず。消ゆる身のかさねては待たれじ。すこし
御咄し申事心にやるせもなし。先ずそれへと書院に通り。二
人より外には松ちかき端居して。我等が胸の中あく
る所は爰なり。此程の御心づかひ思ひ合すに。近頃卒爾
ながら。数ならねども我に。若しも御執心あらばけふより
身をまかせんために。忍びて是にと語り。千左衛門赤面の
泪折ふしの紅葉に時雨あらそひ。後は下心のあらはれ。兎
角言葉では申がたし。正八幡の内殿に。所存を込置くの由
申せば。すくに参詣して神主右京に子細をきけば。御病
のためとて日参。願状の箱納め置かれけると申。それをと


17
開き見るに。貞宗の守脇差に一通筆を尽し。玉之助身
の上をいのる。さては不定の命。此願力にてのがれける。いよ/\
身捨がたくと。念友するにはやもれ聞えて。御仕置の役人
改めて。両方一度に閉門。はじめより死に身に定めければ。更
になげかず。かゝる時の便りとて。状文の通ひも。片陰に忍
び道を付けて。年月あまりかくありしが。今は世にあれ果
申せば。三月九日に切腹仰せ付られ候はゞ。有難かるべし
との訴状さしあげ。其日を待けるに。横目まいつて。御意申
渡して。何の事もなく。元服を仰せ付けられ。千左衛門も別(べち)の
事なく御ゆるされける。此上いと互に申合せて。二十五歳に
なる迄は。向後音信普通とかため。顔見合せても詞も懸ず
此御恩をわすれず御奉公を勤めけるとや

   玉章(たまづさ)は鱸に通はす
年々花は替らず。歳々(せい/\)人同じ姿にあらずといへり。殊更
若道の盛り。脇塞げば雨ふり。角入るれば風立。元服すれ
ば落花よりは難顔(つれなし)是を思ふ時は情といふ事夢にたとへて
見る間もなし。爰に八雲立岡の守に仕へし。増田氏(ましだうぢ)の二男
甚之介とて。美少自然の形。文武の諸芸十一歳の春はす
ぐれて。世の人心を懸ざるはなし。日本国中に又あらずと。
大社に神の集つて是沙汰なり。此念縁を同じ家中にむ
すべ給へり。森脇権九郎今年廿八歳にして。何事をも人に
越へ頼母敷侍なり。甚之助十三の秋より憧れ。草履取の
伝五郎にしたしみ。玉章書きておくるに。世間を忍めば松江
の鱸の口に入て。供部屋迄つかはしけるに。其明くる朝御髪を


18
からずき仕る。御懐へ落し懸しに。鏡に常住の御顔
移れば御機嫌と申さではと。権九郎思ひ死にのありさ
憐れにふびんに。言葉に数をつくして申せば。其文はあけ
て見もやらず。硯せはしく筆を取兼ての御風情。いま
伝五郎か申と思ひ合せて。最愛(いとをし)さ嬉し
けふより世の?(そしり)をかまはず。御因みを申べしと右の状も其儘
封じ込め。僅かのうちも恋路はやるせなきに。此事しらせてよ
と仰せけるは。婀娜(やさしき)御心入と水櫛捨てて立出。権九郎許(もと)に
行きてあらましを語れば。かたじけないとは大かたなる事ぞと。
逢ぬ先より泪に袂を浸し。十四歳の夏の夜。人に待たるゝ
鳥も情懸初めて。余所に洩聞へてはと潜(ひそか)に戯れ。十五十
六の秋迄は。月より外には人もしらざりしに。恋は一河(が)の流れ

すえの奉公人に。半沢伊兵衛と申者。甚之介を思ひそめ。
若党新左衛門を無理頼みに。数通の文取あげざれば。
伊兵衛今はやめがたく。我物の数ならねば兎角の御報
もなし。先契の方御しらせ有べし。さもなくば見合次第
に御恨み申べしと。一命捨てて申せば今迄は包めどもm、心得の
ためにもと思ひ権九郎に語れば。下々なればとてあ
などる事なかれ。世には命といふ物ありてこそ互ひに
楽しみもあれ。其心のやすまるかへり事分別して見
給へと申せば。甚之介忽ちに血眼となつて。深く契約の
上はたとへば。殿様の御意にもしたがひ申べきや。思ひ極
め此男を討て捨んと思ひしが。先ず伊兵衛を武運にま
かせ。首尾能しまひかへる太刀にて。安穏には置まじき


19
物をと。常の起源に宿にかへり。内々の御恨今宵うき
世の闇を晴させ申べし。天神の松原に出合たまへと果し
状をしたゝめ。新左衛門に申付早速伊兵衛方へつかはし。
三月廿六日の昼にさがり。けふをかぎりに入逢の鐘。無
常は兼ての事なれば。今更夢におとどかず。いつよりは心よ
く二親にも姿を見せ。諸親類は残らず。したしみの方迄も
筆を残し。是が恨の書おさめと。権九郎かたへの一通
胸にある事ひとつ/\。ことはりせめてぞ聞えける
まことに初めより。身は我身ならずと申せし事は。御方
とかくある中を人しらば見ゆるまじと。不断ぞんずる折
ふしかゝる仕合せ難儀とはおもはず。今晩山寺にて討果
すなり。年月の御よしみおぼしめさば。一所に御身を捨

給ひても惜かるまじき御事ぞかし。相馴て以来(このかた)の恨
今申さでは末の世のさはりとおもへば。有増(あらまし)書残す
一 貴様御屋敷迄は。遥かなる所を通ひ申候は。三年のうち
に三百二十七度。一夜も何にあはざる事なし。横目夜廻
りを忍び。姿を替て。小者の風情に丸袖をかざし。杖提
燈を提て行く時も有。又は法師の様にもなり。人こそしらね
かく迄心をつくし。過し年の霜月廿日の夜思ひ煩ひしに。
宵は母人枕に離れざりしに。命は朝(あした)を待たず逢はで果なば
とかなしく更行く月を恨み乱れ姿にて。笹戸の陰に忍びし
に。我足音としらせられ。燈(ともしび)そのまゝ影なく。御物語もやみぬ。
去迚は心づよし。此時のお客うけたまはりたし
一 此春花軍(いくさ)を。狩野の釆女が書し扇の裏に。恨み侘びほさぬ


20
袖たにの歌を。しどけなく筆染しに。恋は此風に夏をしの
がんとおほせて。よろこばしたまふ間もなく。此筆者代待ちと
落書をあそばし。下人吉介に取させらるゝのみ。又えさし十
兵衛方より。御求めあそばされし雲雀。御秘蔵ながら所望
せしに給はず。北村庄八殿へおくられし事。御家中一番の
御若衆様なれば今に浦山し
一 当四月十一日に奥小姓のこらず。馬上仰せ付られしに。節原
太郎左衛門拙者の袴をひかへ。後ろに土付申候と払ひたままり
しに。御かたは跡に立給ひながら。御おしへもなきのみ。小沢九郎
次郎殿と目まぜして御笑ひ。年頃の情にはさは有まじ
一 五月十八日の夜半過迄。小笠原半弥殿にて咄し申候を
御腹立(ふくりう)。其晩も御断り申通り。謡稽古に小垣孫三郎殿

松原友弥殿同道にて参り。此外に相客はなし。半弥殿
はいまだ御若年の事。孫三郎殿は私と同年。友弥御存
知の通のもの。毎夜の参会も。是はくるしかる間敷を。今
に御嫌疑(うたがひ)あそばし。折ふしの御当言心懸りにて。日本の
諸神口惜さ。此時にいたりても忘れ難し
一 念契の此かた。あかぬ曙の別れに。我屋敷ちかく迄。御送り
あそばしてもの事を。村瀬惣太夫殿門前より御帰り。釆女
殿前の橋まで年かさねしうちに。二度ならては御見送り
もあらず。おおぼしめし入の御方御恨みあれども。是程の野辺迄
もとおぼしめさるべし。彼是御恨みあれども。是程悪(にく)からぬ
事は。大かたならぬ因果かと思ひ。泪より外はなし。只今迄
のよしみに。一へんの御回向にあづかるべし。夢と思へば現。


21
世のはかなき事を見にだぐへてのおかしき
○花盛おもはぬ風に朝顔の夕影またぬ露の落かた
と斗書付。申残したき事のみなれども。けふをかぎりの暮
も近付ば。名残も是まで。寛文七年三月廿六日
と留めて。森脇権九郎方へ。今宵四つの鐘の鳴る時分持ちて
参れと。伝五郎に申付て。入相の太鼓うち出すとかけ出る。
甚之介装束は。浮世の着おさめとてはなやかに。肌には白
き袷に。上は浅黄紫の腰替りに。五色の糸桜を縫せ
銀杏の丸の定紋しほらし。大振袖のうらに、かき入し紅
葉ほのかに。鼠色の八重帯。肥前の忠吉弐尺三寸。同作
壱尺八寸の指添。小刀ぬき捨目釘をあらため。城下より
壱里離れし。天神の松原に行て。大木の楠を後ろに。蔦かづら

に形をかくせし。岩に腰を懸け相待つくれに。はや人顔
も見えぬ時。大息つきて権九郎かけ付け。甚之介かと言
葉をかくる。腰ぬけに近付きはもたぬといふ。森脇泪を流
し此節申分けにはおよばず。後の世の渡り川にて。心底
を語らんと申せば。無用の助太刀頼まじと論ずるう
ちに。半沢伊兵衛家中荒者を。十六人かたらひ来る。
四人一度にぬき合せ。命の捨所を爰に極めて。入
乱れ切立。甚之介が手に懸けて二人。権九郎か太刀下
に四人きりしき。十六人の内即座に六人手負七人。
残る者行き方しらず。見方にも小者吉助当座に相
果。権九郎も目の上に浅手。又甚之介も右の肩先
に。二寸ばかりのかすり。首尾残る所もなく此近在に


22
永運寺と申あり。忍びて門に入住僧を頼み。両人切
腹の跡を。御出家の御役にと申せば押留め。是程迄
にあそばし迚もの事に。喧嘩の次第を老中大横目衆
まで申あげて。諸人の中で腹きり給ひ。世に名を残
し申されよと。詞をつくしそれより番所にいそぎ。右の
段々申せば御詮議の後。目付衆をつかはされ。切腹
待つべしとの仰せわたされ。其夜に城本へ引取り。諸
親類に御預けあそばし。疵養生仕れのよし。相
手は逃げ申者。見合に打ち捨てと仰せ付られ。手負も国中
を舩どめして。せんさくあつてうたれける。その後
甚之介事。御掟相背き申。千番不届きにおほし
めしつれども。親甚兵衛忠孝の者。甚之介義も兼て

(挿絵)


23
御奉公よく勤め。殊更此度の様子。若年には神
妙なるはたらき。権九郎儀も。甚之介を御免あそば
すに付き。子細なく御ゆるしありがたき仰せ渡され。右
のごとく番組に入て。当月十五日より罷り出候様(やう)にと
かさねての御意なり。彼の永運寺に行きて。其時
のはたらきを見るに。刀に切込七十三所。鞘にも
切付け十八所。着類は只くれないに染なし。左の袖
下も切落され。かゝるはげしき場にして。その
身は深手もおはず。又ためしもなき若武。い
づれも袂を泪になさぬは。なし。此寺にて伊兵衛
一身の死人を。念頃に弔ひしは。猶しほらしき
こゝろざしとそ沙汰せり。かやうの美少すえの

世語りにも、せめては此御書置なりとも黒焼
にして。こゝろの定まらぬ当代の若衆ともに呑ま
せたし。若道の名香としるして。なにものか中(ちう)
門に張りおく
○森脇に双十倍の御心中伽羅にも増田甚之介殿
と書付て諸人の言の葉にかゝりぬ。よき事を見
習ひ。国中の武士たる人の子はさもあるべし。
秤なやむ町人伜子。龍骨車にたよる里童
子。塩焼く濱の黒太郎迄も。形こそ其所作にいや
しけれ。此道に一命おしまず。念友のなかき前髪は。
縁夫(ぶ)もたぬ女のことく思はれて。時のすがたとて恋
は闇。若道は昼になりぬ


24
   墨絵につらき剣菱の紋
鋏箱にたゝみ舩を仕込み。取組めば三人乗りて。大河を
越すにためしあり。自然の時は様にも立ぬべし、其外浮
沓棒火矢を申立に。御合刀分(かうりよくぶん)弐百石くだしおかる。
長の浪人なれば先相勤め。兼ての望は時節と待つ年
もはや。二十七歳になりぬ。さしつぎの妹は丹波の笹
山にありしが。夫に離れて後世を捨てて。河内の国道
明寺に。十九の夏衣を墨に染しは以来(このかた)。身の取置きの
便りもなかりしに。過つる五月(さつき)頃音信(おとづれ)の冬書きて名物の
花粉(はなこ)などを送る。心ざしは万里に届きて。今児島(かごしま)
の水に浮けて。折ふしの暑さをしのぎ。汗は泪に替り。
むかしをおもふ振袖の面影。地紅の帷子を好いて。着た物

をとなげきぬ。其次の妹は十四歳になりて。いまだ定ま
る縁もなく老母と一所に引越て。しらぬ国里の住まい
も。武士の身ほと定めがたきはなし。若年にて父にお
くれしに。諸村大右衛門といはるゝも。是皆母人のはたら
きあだにも存ぜず。朝(あした)の嵐をいたはり。夕べの御寝間
もすえの女の手には懸けず。妹とも是を見習ひ。真綿
引きさして御枕などまいらせ。丸絎の帯数珠袋をも。
置き所あらため孝をつくせり。人の親はかく有べき事
なり。有時大右衛門深沢といふ所に暮をいそぎて。蛍見に
行く小町はづれなる野辺に。一村の薄花菖蒲(あやめ)の茂り。
道ばたよりは見渡し近く。小細(さゞれ)水の涌きおる埋もれ井有。
其脇に大師の作といひ伝へたる。石地蔵ましまして。


25
人心ざしの日は此所に参詣(まふ)で水を手向けぬ。爰通り
合す折ふし。侍の小者らしき男新しき文筥ひとつ
懐より取出し。彼石仏の前に置き。跡先を見合。覚へて
忘れゆく風情。いかさま様子もあるべしと。其男を
追懸。あの箱は何とて態と捨置くぞと尋ねければ。恐
れて返事もせずにげて行。是くせ者ととらへて。里
遠き野寺に引込み。色々責ても子細をいはず。重ねて
のあやまりはかへり見ず。早縄を懸て。迷惑がる住寺
に預けて。右の文箱を取に帰るに。はや里人不思議の
詮議をして。其まゝ奉行所にあがりぬ。其夜諸役人集
りて。上書きはなくとも開けと。是を見るに。御内談申せ
し毒薬身上申候。早々彼者どもに御あたへ有べし。此

状御内見あそばして後。火中と書留て。奥に丸の中に
剣菱の紋所ばかりあり。外に一袋念を入て見えけるが。連
座おどろき吟味をするに。春田丹之介といふ人の定紋也。
密に呼よせ様子を聞けども。聊か身に覚のなき大事を
引請。先ず門を閉ぢける。大右衛門聞付け彼の男を。夜更て丹之介
門外の駒よせに捕(からめ)付け。度(たび)の文箱の子細は。此者存じ候
と張り紙してかへる。既に夜明て見るに。此男舌喰切りむ
なしうなれども。其形は隠れなく。岸岡龍右衛門下人也。
さてはと御詮議ある時。はや龍右衛門屋敷を立のき行き
方しらず。其後丹之介をめして。思ひ当りたる事も有
かと。御尋ねあそばしけるに。何の事も存じ寄ざる
よしを申あぐる。此分にしては不埒におほしめせども。


26
龍右衛門国遠(こくえん)身に誤りのあればなり。重ねて見合
次第に申付べし。丹之介は別義(べちぎ)なく。御奉公を相勤め
ける。其時過てうらなく語る執心の書通千度(ちたび)なれども。
かゝるあさましき心底見極め取あげざる恨みに。よしな
き事をたくみぬ。されども恋よりの悪事なれば。此上
ながら御前世間をつゝむと咄せば。婀娜(やさしき)心入感じて
自然と沙汰して若道の随一と申も愚かなり。此人七歳
の時より。形さだまつて嬋娼(たおやか)に。一笑百媚の風情。見
し人男子とは思はず。今十五歳迄念人のなき事
は。すぐれたる美少是をゆるせり。離家の美花は人も
折らずと。李太白もつくれえい。丹之介此度の難儀を

のがれし事。龍右衛門下人あらはれしゆへなり。我をか
なしみ。此者門前につれて書付おかれし御かた。色々思
案めくらすれども。しれざる事をなげき。諸神をいのる
事大かたならず。其秋冬心懸りに暮て。明けの春山
/\の雪も松を見せて。日影に水かさまさりて。常なき
瀧を谷合に見て。細川のすえに扇網手毎に。小鮎汲む
も慰みとて行に。片里近き野辺に。色よき娘を母
の親の先に立て。はしたましりに芽荑(つばな)土筆鶏腹(よめな)
摘むなど都めきたる様子者。しばしは見るに。其人もこな
たに目は隙なくありしが。何か囁やきて。小硯に雫を
そゝぎ懐紙(ふところがみ)に書くよし。草の葉末にむすび捨てて。岩の陰
道の奥ふかく入ぬ。其筆の跡ゆかしく立寄りて読むに。此


27
野も人のしげく是より。藤見寺の南の山原に御入候。
大えもんさまと書きしは。跡より来る人にしらすべき
ためぞかしと。心を付て見る程女筆ながら。日外(いつぞや)の手
にいき移しなれば。不思議と詠むる處へ。大右衛門
来たつて。此書付をとつて行に言葉を懸け。大右衛門殿
と申は御自分にてましますか。拙者は春田丹之介と申
者。同じ家中に有ながら。いまだ御近付にもならず。
御尋ね申度き義は。すぎし年の五月に。龍右衛門小者を
御搦めくだされしは。御かた様かと申せば。いかにもそれが
し。よき折ふし出合申てと委細に語れば。御心底
の程さりとはかたじけなし。存ぜぬ事とて年月うち
過ぎ。砕石朽木とおぼしめされんも口惜と泪を流す。御

(挿絵)


28
しらせ申さぬ我殊には新参者の義なれば。遠慮
を申さては大事の御心をつくさせけると。ともに泪深く
互ひに思ひ初め何のかためもなくおのづと。念通のした
しみ忍び/\に。丹之介屋形のうらなる大河を越してか
よひぬ。いつとても不首尾はなかりしに。度重なりて
ある夜。隣の屋敷の欠作りの茶屋に宵より中将棋をさ
して有しが。酒も数過て跡は謡になりて。声さへ霜
がれて。神無月の四日の空照れば曇りて。定めなき
は人の身ぞかし。大右衛門忍び姿岸のむら芦の陰に
着物ぬぎ捨て脇差一腰となつて。思ひ川をこす浅ひ
心にあらねば。瀬のはやき時には情の浪肩をこし。魂
しづむ事幾度か。漸石垣に取つき。約束の細引を

たよりに。是ぞ恋の道しるべにして。切戸に立寄ば
手懸り程あけかけ。燈もほのかに物静なるは。いつ
に替りてと。すこし聞き合す時。内より丹之介障子け
はしく引あけ。夢にしても今のは悲しやと。独り言
申て泪そゝろなるに。大右衛門と申せばうれしやと。ぬれ
身そのまゝ肌着の下に巻込められ。是にうき事をわ
すれ最前の御悔みは何とやづねければ。今宵は待つも
一入に久しく。九つの時計を聞き寝入にして間もなく。
御身わたらせるゝ川中に。流れ木御足本に横たへ。此
難義にて惜しき御命の捨つると。はかなき夢はいつの
世に。誰見初めてうたてし。海渡る妻鹿のむかしの事
迄も思ひ出さるゝと。又泪にしづむ。然れば久しうあ


29
はぬ時せめては夢に見る事。此程たのしみはな
しと機嫌なをして。かぎりにあらねば起き別れ。又丸
裸も恋なればこそ。川浪に面影の見ゆる程は。跡をした
ひしがはるかになりぬ。隣の者共是を見付。大鳥な
るぞと。弓稽古の若侍おとらしと。遠矢をはなつ。
大右衛門横腹を通されながら。我宿にかへり。態と乱気
の書置して。自害残る所もなし明けの日国中に沙汰
せり丹之介かけ付け様子を聞くに。母妹のなげき目もあ
てられず。命有ゆへにうき事も見しと。四人に取つき
刀に手を懸し事。二三度もせしが心をしづめ。其矢は
と取あげ見れば。藤井武左衛門としるせり。さては此敵
うたではと。愁いにしづみ立帰る。何の事もなくなきから

を頼みし松林寺におくりて。土中にして。憐れやきのふ
はむかしと過ぎ行き。それより丹之介毎日墓に参詣(まふで)て
追付御跡より参るべしと。四十九日に当る日を考へ。武左
衛門を是非にさそへど。隙入よし力なく。五十二日目
に同道して。松林寺に入て。山川を見めぐりて。大右衛門
塚のまへにもなれば。両脇に新しき卒塔婆二本立
ける。一方は藤井武左衛門としるし。一枚は春田丹之介
と書き置く。是は合点の参らぬところと申。御不思議尤とは
じめを語り。近頃おぼしめしの外の御仕合せながら。
うちはたしてたまはれと。言葉を懸てぬき合。両人とも
に夢まぼろしとなりぬ。住寺驚き御断り申て。詮議の後。三つ
塚につき込みける。丹之介が思ひ入又あるべき事に非ず