仮想空間

趣味の変体仮名

薩摩歌妓鑑 第四

 

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      ニ10-02059


29(左頁3行目)
   第四 松原の段      顔も裳(もすそ)も紅裏(もみうら)に露を 縫ふてぞ
夜嵐に 星吹ちらす蛍火や提燈希にしん/\と 虫のむつ言かまびすく 昼さへくらき 松原の
廿日余りの宵闇に 思ひの闇も暮添ひて道を急がす乗物へ どうど打たる鉄砲に魂飛だる中間
小者 云がいなくもちり/\゛なり 鳥おどしのかげ猟人ならで 人をねらひし虎狼身は蓑虫の薦かぶり とゞめさ
さんと立寄乗物 大事の手ながら遉の関口 一腰抜て めくら打卑怯者めと罵る声 おこしは立じと切る刀


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ぱつしと払ふ強勢(がうせい)手練 急所の毒気五体に通りくるめく所を畳かけ とゞめは帯せし今一腰 ひらりと
抜て喉(のどぶへ)より大地へぐつと身の泥を 人にかぶせる薦かぶりあはや人音せんかたな 血刀提(ひつさげ)逃て行 下部がしらせは
耳に斧(まさかり)木の根 石原蹴立る足 小梢も息も切次第 すべる血汐の扨こそ爰に 提燈おこせと引たくり
見れば違はぬ夫の死骸 ハアなむ三宝と鳥の塒も驚く斗三方四方四つ目結の 提燈の火に死骸の
刀 扨は人音にあはて刀も得抜ず 逃失たに極つた いたはしやほいなやと 空しき手を取り顔と顔 死骸にそゝぐ
血の涙朱(あけ)を 争ふ斗なり かくと吹くる暴風(のはき)のこたま 胸に響きて源二左衛門 しづま諸共走り付 ヤア榊殿
たつた今承る エゝ生けておかいで叶はぬ 大事の武士を残念/\ アレ早向ふへ検使の提燈 暫く是にと控へる

夫婦 主の威光の高提燈 検使結城大学 一皮内はぬり隠す 青皮(せいひ)の覆の鋏箱 腰打かくれば
榊は手をつきさつま夫婦 御苦労さよと挨拶す 何の/\ 源二左衛門殿夫婦お聞なされた 扨々内
記殿は 申そふ様もない仕合 榊殿の心の内 察し入て居申す あつたらしい侍 殿にも殊の外の御惜み かふ申す大学
迄もいか斗残念 兼て内記殿の武辺を 妬むやつの所為(しはざ)と覚ゆる 何にもせよにつくいやつ 儕殿
の息を以て詮議仕出し 敵は討せ申す 先ず疵を改めんと 老眼ながら少しもくもらぬじやうはり眼コ 肩
に一ヶ所腹に二ヶ所 胸板より背骨へかけて鉄砲疵 扨打たり/\と 頭(かしら)よりつま先迄 一々とくと見
改め ナニ源二左衛門殿 其元には別しての御懇意 嘸お力落しで御ざらふ 御推察の通り朋友を失ひ両腕


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を取られし心地 さこそ/\ 其両腕後ろへ廻し 尋常に縄かゝれ源二左衛門と 思ひがけなき詞に恟り 大学
殿心得ぬ一言 身共は何ぞ仕落でも致したかなと 尋れば目を見出し しら/\しいとぼけ顔 科の子細は
いはひでも知れた事 関口内記を手にかけた大罪と 聞よりはつと一座の仰天 ムゝ存寄らぬ疑ひ シテ其
証拠は ヲゝ証拠なくて云べきか 是を見よと死骸の刀 くつと引抜 サア是でも覚がないかと 指付くる
はなむ三宝 さつま重代身の魂くつわに預けやりしとは いふても晴ぬ身の恥辱 サアぐつ共云て見よ 我
魂が我訴人 天道の直ぐなる所 よしさはなく共今日既に お広間にて打たさんとした両人 内記を切た極つ
て有 歴々殿の御知行頂戴しながら 私の遺恨に打果す馬鹿侍 外龍の兜の盗人も外には

有まい 家来共 科人源次兵衛が大小もげ 畏たと立かゝるを左右へばつたり うづ虫共 武士に向つて推
参な ヤア武士とは何が武士 禄を掠める盗賊め 手向ひするかときめ付られ 大小くはらりと投出し
いかにも関口内記は此 源二左衛門が手にかけたと 内記が死骸に打向ひ ヤイ関口 魂あらばよつく聞け 
お身を打たは此源二左衛門 今日若殿より告げ来る兜の紛失 ハテしなしたりお家の大事 心を合せ詮議
せんと 力に思ふ御辺を打たは 必定兜を盗だやつ 同日同作の仕わざと サア大学殿の疑ひかゝつた
は身の不運 とても遁れぬ源二左衛門 科人に成るは詮議の一つ 譬此儘刑罰にあふとても家中にはまだ
究竟な若侍共が残つて居れば 追付宝を捜し出しお家は治まる 去ながら 両人の若者共が 今日屋敷を


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出おつた時は一生の 別れとは知おるまいと氷のごとき両眼も 思はず解ける一雫に恩愛 忠義こもりける
事こそ有れと事助嶋蔵 汗にだいなし鼠色宙を飛で立帰り たつた今道で承つた 主人の敵は源二
左衛門 榊様なぜお討なされぬ サア立めされと詰かくる刀の鐺むづと取 ヤアちよこざいな 棒ふり虫の軽わざ
したが たてづいて見よふと思ふ志がいぢらしい 爰は一ばん おらが相手に成てやるべい サアぬけ/\ ヤアうぬには相
手にならぬはなせ 放さぬ互の争ひ事助待て 女なれ共内記が妻 儕に打せて 榊や三五兵衛は ヲゝ出かし
たといふて居られうか うろたへ者と叱らるれば しつまも同く嶋蔵控へい 主を指置き出過者めと云捨
て 榊が膝元つつと寄り 内記殿の御内証 爰は夫が一生の大事 弥敵は源二左衛門に極めて 殿へ願ふて

討つ心か サア返答が聞たいと 詞の釼詰かくれど 見向もやらず検使の前 しとやかに手をつかへ慥な証
拠有上 夫の敵は源二左衛門とは申ながら 手負の疵の様体(やうたい)鉄砲のだまし打 源二左衛門殿に限り よもや
卑怯な事はせられまい と私は存ます 殊にヶ様の曲者は 随分人にしらされぬ様とこそすべきに とゞめの刀
を残し置 態と顕れる様に拵へた所 いかにしても疑はしい とくと詮議相済迄 源二左衛門殿を私にお預下され
其上にて 敵打仰付られ下さる様 御検使の御取なし頼上ると願へば大学 イヤサ敵討は叶はぬ ムウそりや又
なぜな ヲゝ源二左衛門斗でない 内記も同じ科人じやはい 伜共に云付け 若殿を放埓に仕込だ佞人共 知るま
いと思ふか 兜の紛失はお家の大事 身は関東の付家老 主人迚用捨はならぬ 是より東(あづま)へ立こへ 若殿を直き


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に糾明 其上ではまだどふ祟りがこふもしれぬ それ迄は榊 願ひに任せ源二左衛門を預ける 其代り
内記が死骸は 塩漬にして 源二左衛門女房しづまに預ける 両人共に屹度申渡いたと 主人を甲の
てつぺい下し 科負し身は力なし 然らばけふより拙者が體 其元ぶお預申 ハテ大事の敵 大切に致さ
にやならぬ 詮議済む迄お前に預けるお前の命 お煩ひの出ぬ様にと えしやくこぼるゝ敵同士 家来共
両人をきびしくかこひ 屋敷へ送つて寝ずの番 いざ帰らふとのつさ/\ 預けらるゝも預かるもか
ごのきりすの 友喰や奴と奴がにらむ眼も かはり果たる御主人に涙の 玉をのり物へ 葬
礼式礼一つに野辺の 手向草 しきみとなりし榊葉の神ならぬ身ぞ