仮想空間

趣味の変体仮名

ひらかな盛衰記 第三

 

 読んだ本 https://archive.waseda.jp/archive/index.html
      イ14-00002-696

 

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   第三 道行君が後ろ紐
捨る身を 捨てぬほだしは子ゆへのやみ 空もあやなき暁の 髪も形も宵
の儘世のうさつらさ悲しさを いはぬ色なる山吹御前月さへ西に落人の 桂
の里のなんぎより しるべの方に一夜二夜 あかしくらせど忍ぶ身は 都ちかくも
物うしとげに思ひ立俄旅 人目をはつる 取なりは身にはゞもなき麻衣の
木曽路をさして 行く道のあゆみくるしく真砂地を よむ斗なる桂川
お筆がせなにおふさむこさむ 猿のべゝかつてきしよ かつてめしたる若

君の あやうき所をのがれしも まさるめでたき御うんのつよさ なき我
つまの種よ形見よ わすれ草やけのゝきゞす 夜の靍 子を悲し
まぬはなき物を ましていはんや人として 親の別れを白糸のちすじをわけし
父君に にたりやにたりいたいけざかり あれ/\あれを見や ふたつつれた
る雲井のかり 古郷へ帰る我々も君の古郷へ帰れ共 おしのかた羽の
とぼ/\と 子に迷ひ行さよ千鳥つまもはん三つ瀬川 四つ塚
東寺九重の 都の中はおのづからかたむく笠の打しほれ 今落人の


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身の上も 人にしられし白川の 水もよどみてあはた山 あはれ父なき稚子をす
かせば肩にすや/\と 転(うたゝ)ねいりの余念なき爰こそうばが懐と 所の名さへ
有物を お乳も添乳もなゝきそなきそ ひるねの夢はかはらねど かはる姿の
アゝ恥かしや丸寝がちなる我々に色も 有かと袖袂ひくなひかせし日の岡の
恋のとうげもこへわびて いやといふのはな浮世のならひよさいな底の心は
ホンニえしらいでさいな それがじよいなまじよいな はるかにうたふこえ/\゛
は松をしらぶる春風かそれかあらぬかこたましてやう/\跡を老の身の

道におくれて鎌田隼人 娘がかたせ休めんと 抱き取たる駒若丸 おとせでお
よれよい殿 ねん/\ねんねこせい いとしい殿よ花やろ 花やろ/\花一
時とながめても 気味の命にくらべては盛久しく 若君も父御の武勇
を受つぎて 生長(おひさき)栄へましませと 諸羽の宮に人々は 暫く法施奉り
今たどり行 道芝もさいつ頃木曽殿の 鞭打給ふ所ぞと聞ば草木も外
ならず 浮世なりける世なりけり きのふめでたき人だにもけふはたゞかふう
たかたの あはづが原の討じにを思ひやるさへ悲しやな 矢一つ来つてわが


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つまの内兜に射付しは 天の咎めか武運のつきか ついに其手で馬上より
おちこちの土となり給ふ 所はあれよ あの雲の 下こそ君のさいご場と 見る
に付け語るに付袖は 涙の春雨にしほれ詫つゝ山吹も心地すぐれず
見へ給へば 立寄いさめ慰めていざゝせ給へと御手を引き 見渡せば 春の日あしも
走井(はしりい)やならはぬ旅に身もつかれ 世のうき事をゆふ嵐さら/\さつと
吹くれば つまも裳(もすそ)もひら/\/\ ひら/\/\と吹分け過て大津のしゆく
今宵は爰にかり枕 袖をかたしく旅やどりつかれを 晴させ「給ひける

東路をのぼりくだりの 旅人も 二つと三つに追分や大津にならぶはたごやの 棟
門多き其中に名高き関の清水やが とくより奥に客とめて料理拵へまな
板の 音もてぎ/\亭主が気くばり 下女も男もそれ/\に 茶運ぶ風呂焼(たく)人
とめる 門賑はしきたそかれ時 あらさうと 道引給へ観世音 はこぶあゆみの巡礼姿
背に国名を笈摺の年は六十に色黒き 達者作りの老人が 娘と孫を打つれ
て 胸にかけたるふだらくや 紀の路大和路打過て けふも暮ぬる鐘の声 三井寺
札納め爰かそこかと指しのぞけば 亭主がかけ出てコレ親仁様 お泊りなら脇ひら見まい


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名代の清水や座敷がきれいな木賃が安い サアおはいりと引とむれば アゝこれ/\めつ
たに引ぱつて着物破つて貰ふまい なんぼとめたがりやつても 木賃を聞にやぼか/\
とはいらぬ親仁 サアいくらじやきり/\いふた ハテ定まりは三十なれどよい様にしてとめましよ
わい イヤよい様とはよい衆の事 おらはずんどびんぼな西国 道々も杓ふつて巡礼に御ほう
しやで 貰ひ溜めの米も有れど たつた今跡の石場で 蕎麦をしたゝかしてやつたりや
腹袋に足が入てあす迄煮炊きも何もいあらぬが ナント卅宛(づゝ)でとめぬかい ハアそりや
安けれと巡礼衆の事じや物 儘よ負ましよ イヤやすうはないぞや 銭の高いが合点か し

かけてつかへば五分四五リン利が有すぎよ サアそんならおよしわらぢとけ サアぼんあがろ ヤアえい/\
と 襖隔てて次の間に打寛いで 扨あるいたは けふは大道そちも草臥 おりや猶の事道べた
で気斗いらくら 船頭と鼈は 陸(くが)で埒の明ぬ物 やれしんどや腰いたや ドレ其枕取てた
も アゝやい/\コリヤ槌松よ 其襖明ん物じやこはいぞ/\ コリヤ爰こいじゞかんでやろ エゝきたない
洟(はな水)では有ぞ ヲゝあれ/\又飯ごり引出すはい 去とは只手のないやつ ヤほんに夫で思ひ出した ヲゝ
宿の衆 どれぞちよつと頼んましよ早ふ/\ ヲゝこれとつ様けたゝましい何ぞいの イヤ此飯ごりがさ
/\と洗ふて貰て あすの出立の残りをつめる 菜(さい)は茄子(なすび)に大根(だいこ)を取交ぜ 香物のこけら


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鮓 頼んで置と諂はぬ たつみあがりのとんきよ声夫レといはねど紛れなき舟乗とこそ
しられたり 同し浮世に 憂思ひ 人忍ぶ身はおのづから 茅にも心奥座敷 山吹御前は先
逹て爰にやどりを仮初も ならぬ旅につかれ果御こゝち例ならねば お傍離れぬ
鎌田隼人娘のお筆諸共にいたはり 介抱する中に何のぐはんぜも泣く出す 駒若君のやん
ちや声襖一重に聞くも気のどく アレおよし あちらの旅人も子が有そふながさつてもせがむ
は わやくいふなァ だましてもすかしてもおこりおるとどこにも迷惑 ハアゝなんぞやりたい物じやが
ヲゝ夫よ 童すかしはこんな時 今跡で買た大津絵やろと取出すを 槌松が掴んで放

さばこそ いやじや/\と泣わめく ヲゝこりや/\破るなやい エゝしはい坊主め コリヤよう合点せ
い 此絵は座頭の坊が褌を 犬がくはへて引く所 こりや目がなふて面白ない よその子にやつ
てのけ 我にやこれ/\衣きた 鬼の念仏噛くだく 撞木を持て鉦(たゝきかね)くはん/\/\ イヤくはんくはん
/\と紛す中におよしが襖押明て コレ申お隣のおちいさいのがきつい泣やう 是進
ぜましよと指し出せば お筆が取て押戴き 是は/\忝い お前にも子達が有に よい
物しんぜて下さんした これ/\あつかホゝよいのじや アレ余所のやゝ御らうじませおとなしい
事わいの ヲゝあのおつしやる事はようおとなしかろぞ 其わんばくさ意路わるで どうも


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かうも成こつちやござりませぬ お前のは色白に美しいよいお子やの おいくつでござります
サア此お子は三つなれど 年よはでござんすはい 扨もいや/\ そんなりや是とおない年 同し三つ
と云ながら此坊主は 二月生れで年づよ ホンニ夫でか大がらにも有り健(たくま)しい子でお仕合 見れ
ば巡礼さしやんすそふなが 奇特な事や所はどこぞい アイ所は是から大方十二三里も下(しも) コリヤ
およし 主の臍さぐる様にエゝぐつ/\した物の云やう たつた一口つい津の国の船頭じやといふ
たがよいわい アゝせはしない ちつと人にも物いはせたがよいわいの マア聞て下さりませ 此様に乳
呑子を抱へ長旅を致しまするも 私が稚なじみ 此子が爺は随分達者な人で有たが

ふと風の心地と病み付たが定業やら 間もなう死れて今年がてうど三年に当りま
すれど 何を供養施も内証のかいは廻らず 西国は結構な事じやと聞ばせめて足手
を引て成と夫のぼだいを弔ひたさに 思ひ立ての巡礼と語るを聞て山吹御前 あの子も
三つ我子も三つ爺親に別れたとは 果報拙なやいとしやなふ 自とても殿御に離れ
便りなき身の旅の空 世にはにた事も有物と身につまさるゝ御涙 アレ聞たかおよし あな
たも御亭様がないといやい そりや悲しいは尤じやが 生き身は死に身合せ物は放れ物 何
ぼ泣ても返らぬ事 さつぱりと諦めて早ふ男を持たしやりませ ハテそふなけりや我も人も


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肝心の商売が成ませぬ 夫レでこつちも近頃幸な者婿に取たが 此およしが柁の取様が
よい故か 何時共なふ帆柱立て 乗りまする押まする 舟一まきならござれ/\ そこでから
は一たすかり大舟に乗た心 外に望は何にもないが たつた一色サアいづくの浦でも ない物は金
と化物 有る物は質の札と借銭 こいつも根継でござります 見りやお前方はよい
衆そふながどこ元からどつちへござると問れてお筆が取繕ひ サア我々は都を離れ片山
里から信濃路へ心ざしエゝ聞へた 善光寺参りじやな ヲゝいかにもそれ/\ 夫レに付てなん
ぎな事は 是にござるお主様が俄の御病気 アゝお道理でも有 ついに是迄道一里とお拾

ひなされた事なければ おつかれの出るも尤 わしらが足さへ草鞋にくはれて ホゝまめが出
来たでござりましよ そりや針でつかしやりませ 惣体豆といふ物は 突とじく/\
汁が出まする アゝこれとつ様 ひよかすかと出ほうだいな何ぞいの イヤひよかすかしやない よう
なる事をいふてしんぜる アレまだいのヲゝ笑止な人やと袖おほへば イヤ/\ちつ共くるしうない 最前
から手前も出て 挨拶するも合点なれど 却て興もさめふかとわざと控へて居
申た 今娘がいふごとく御主人の御病気親子の者が御介抱も 旅宿なれば万事心に
任せず 何がなお慰みと思へ共 口おもたき我々では埒明かぬ 正真の旅は道連かう打寄るも


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他生の縁 サア/\遠慮なしに何成共 お気のはる咄しを頼む アゝ旦那殿こりや迷惑 おら
は咄しは何にもしらぬに ヲゝ有るぞ/\たつた一つ咄しましよ 昔々ぢいは柴かりに ばゞは川へ
洗濯しに アゝこれ/\ そりやあんまり 子供も知た昔咄し古い/\サア古いによつて洗濯
しまする 洗ふても磨いても あたらしうならぬ物は寄る年と此顔の 真黒なはしつかい
牛 もふ寝たとよござりましよと 蒲団てんでに寝転びて咄し半ばへ亭主が
によつこり ハアゝこりや皆まだお休みなされぬか さらば行燈を取ましよかい 此儘置けば油
代が十文出まする ヲゝそりや合点じややつぱり置いたり 爰で一つ談合が有 両方兼

た此行燈 そつちもこつちも勘定づく 何と 三文まけて貰をかい ヘツ扨もこまかい虱の
かは イヤおらが虱より此蒲団はどふやらうぢ/\ 千手観音はおらぬかや ハテ勿体ない巡礼
が観音嫌ふてよい物か 信ありや徳有奇特には 道中けがのない様に 乗うつつて
ござりましよと笑ふて 勝手へ入にけり 跡は互に旅草臥子供の添乳肘枕 咄
のあども転寝(うたゝね)にとろ/\ 寝入る折こそ有 村中をかけ廻る歩行がによつと門口から 御
亭主内にか ヲツト何じや イヤ何じやはお尋者きびしい御詮議 委しい事は来てきか
しやれ サア/\今じやちやつと/\ ホイそりやいかざ成まい 遅くば庄屋のたくら者 又頭


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から噛むじや有ろと 気もわくせきだかた/\に羽織引かけ出て行 既に其夜も 更け渡り
遠寺の鐘も幽かなる 灯火細くかげさして 四方に人音しつまりぬ 旅ぞ共しらぬ
稚子 隣同士宵寝まどひの目をぽつちり ちぶさ離れてそろ/\と 這出て一人
にた/\笑ひ つむりてん/\てうち/\あはゝ 間(あい)の襖をこへ行ば こなたの子も出て這廻り
諾(うなづき)あふて寄りこぞり おせ/\小ぼうしがおない同士 互に愛するごとくにて 機嫌えがほ
のしほの目細目 きせるぐはた/\手すさびや菅笠取て着たは松茸ほしがる顔で つ
かめばやらじとひつぱり合 余念たはいもなかりしが 悦ぶ先にほつと欠(あくび)も子供の常 又行燈

に手をかけて こなたが引けばあなたも引き突戻せば押かへし 引あふ拍子に土器ゆ込み
灯火ばつたり真暗闇 我と我手に驚きてわつと泣出す子供の声 寝耳に恟
目覚す人々 こりや何事とうろ付く中 亭主が注進先に立 梶原が家来番
場忠太 大勢引連かけ来り それ遁すなと下知すれば 捕た/\と乱れ入る 音に驚く
家内の騒動 震ひわなゝきあつたふた 危さこはさも暗紛れ 行当るやらこけるやら
上を下へと「立さはぐ 風も烈しき夜半の空星さへ雲に覆はれて 道も文なく物
凄き裏は田畑を隔ての大藪 押し分けかき分け忠義一途にかい/\゛しく お筆は片手に若


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君抱き山吹御前の御手を引き かけ出て息をつぎ 扨もひやいや危い事 とゝ様は多勢を
ふせいで跡から追付 早ふ逃よと有し故 めつたむしやうに走つても くらさはくらし勝手はしらず
どつちへ逃てよからうとうろつく向ふへ数多の人声 又むら/\とかけ来り 遁さぬやらぬと無二
無三打てかゝれば叶はじと 山吹御前に若君渡し 一腰ぬいてはつし/\てう/\つばさの早業さ
そく 飛りがへ切ひらき弓手になぐりめてに受け ひるまずさらず戦へば さしもの大勢たま
り兼逃るをやらじと追って行 跡にはあ/\山吹御前 長追仕やんな戻つてたも 此隼人
はどふしやつた アゝ気づかひやあぶなやとあせる向ふへ打合い切合い切結び 追つまくつつかけ

来る番場を相手に鎌田隼人 忠義にさへたる切先刃先 受つ流しつ上段下段 秘術
をつくし戦ひしが 忠太がいらつて打つ刀 受はづして弓手のかたさきけさにずつぱと切下げられ
心は鬼神とはやれ共 腕もよはり目もくらみ 足を立難(たてかね)たぢ/\/\ よろ/\/\とよろめく
所を 付入付込みたゝみかけとゞめの刀一えぐり はつと驚く山吹御前 逃しも立てず向ふへ
つつ立ち サア女其伜渡せ/\ ヤア何者なれば此狼藉 様子が聞たい合点がいかぬ ヲゝ様子は
そつちに覚有筈 朝敵謀叛の義仲が伜 敵の末は根を断て葉を枯らす ハアぜひ
もなや 此子一人助けた迚さまで怨(あた)にもかいにも成まし生きとしいける物ごとに物の哀はしる


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物ぞ 取わけ武士は情をしる 自はともかくも此子が命を助けたい 慈悲じやくどくじや
後生じやと 涙と供に詫給ふ ヤアあまちこいならぬ/\ 当歳子でも男のがき生け置
ては後日の怨(あだ)諄(くりこと)いはずとサア渡せと 飛かゝつて引取は わつと泣く子を放さじと取付き
給ふを?(もぎ)はなし 突飛せば又すがり付く はねのくればむしやぶり付きやらぬ/\と泣給ふ ヤア面
倒な女めと?(かたさき)掴んで投付れば うんと斗に息たへ/\゛ 其隙に若君を 宙に提(ひつさげ)首
はつしと打落し小脇にかい込飛がごとくにかけり行 山吹御前は夢心地 むつくと起て
ハア悲しや 西も東も弁へぬ此子の科はなき物を むごやつらやどうよくや かへせ戻せ

の声も遥にお筆が聞付け 息を切て立帰りはつと驚き抱かゝへ コレお心は慥なか 若
君様はどこにござる 様子をおうしやれサアどふじや /\とせき切て 問ば答もくるしげに ホゝ
お筆が遅かつた 情なやたつた今追手の者が爰へきて 隼人も討たれ駒若も殺
された ソレ首切て逃たわいの エゝと仰天狂気のごとく 呆れて詞も出ばこそ 胸も張
裂く悲しさの 涙はら/\立たり居たり 身をもがき歯を噛みしめ エゝ口惜や今一あし
早くばなあ 女でごそ有れやみ/\と討たしはせまいに シテ其切たやつはどつちへ逃た 顔見しつて
ござりますか アゝ此くらさでは夫レも知れまい 名はお聞なされぬか イヤ/\顔も名もしらねど


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梶原が所為(しはざ)で有ふ かはいやわつとたつた一声 泣たが此世の暇乞 父御といひ
子といひ刃にかゝりはかなき最期 剰へ是迄付添 忠義をつくす隼人迄爰
で死ねとの約束か こはそおいかなる前生(さきしやう)の 報ひる罪か浅ましやと 御身も
絶ゆる叫び泣 お筆も有るにあられぬ思ひ 父のさいごはお主へ忠義悔む心はなけれ
共 おいとしや駒若様 けふの今迄あいあらしうわたしを廻し かた時も離さず抱かれてない
つ笑ふついたいけな お顔をやつぱり見る様なと くごき立/\声も 惜まず歎きしが
涙の中に心付せめて一目若君の お死骸なり共見ん物と あたり見廻し尋る心

も空も闇 あやしや血にそむ稚なからだ 手にさはるをかき抱き 涙と供に撫廻し/\
ハア此さる物はどふやら手障りもちがふ そして何やらびら/\とこんな物はめさぬ筈 合点がい
かぬとよく/\すかし見 ヤア是は違ふた 申し/\こりや若君ではござんせぬ ヤア何といやる
駒若でないとは ハテ此死骸は笈摺かけているわいな どれ/\ほんにかはつたこりやどう
じや 是は/\と二度恟り ムゝ扨は今の騒動に 相宿の子と駒若と取ちがへたかハア悲し
や アゝこれ/\そりや何おつしやる 悲しい事はござんせぬ コレ取ちがへたのでな 若君のお命に
気遣ない 是則天の恵御運の強さ アツア嬉しや/\有がたや コレお悦びなされませ コレ申/\


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是はしたり なぜ物をおつしやらぬ ハアゝ又眩暈がきたそふな 是は/\お気のよはい ふが
いない事では有ぞ これ/\申といへ共よはる身の上に 悲しさつらさ気をもみ上 又嬉し
さにがつくりと引取息もあへなきさいご お筆はあはてうろ/\きよろ/\ こりや何とせう
どふせうと 脉取て見つ耳に口 これ/\申 山吹様いなふといふ声さへ人を憚り 思ひ切て呼
れぬか エゝ情ないエゝどんなと 心はちゞにくだけ共 早色かはり手足は氷と冷切て 押動
かせど其かいも 涙先立魂も供に消入うき思ひ 大地にかつぱと伏まろび 声の限り
を泣つくす 理りとこそ聞へけれ やゝ有て顔を上 ハアゝそふじや/\返らぬ事 悔むまし

歎くまじ 一先ず此場を立退きて妹千鳥と心を合せ お主の怨父の敵 逃隠るゝ共
天地の間 命限り根限りやはか助けて置べきかと かけ出しがイヤ/\/\夫レより大事の
/\若君 片時も早く取返そふアゝいや待てしばし 死骸を此儘捨置れず 無縁の此
子父の體諸共に 隠さんとは思へ共前後に満たる多勢の追手 隙とらば却て
妨げ せめてお主の面影を 先々かしこへ葬らんとあたりにしげる竹切て かき上げのする
笹の葉はなき魂(たま)おくる輿車 ながえもほそき千尋の竹 肩に打かけひく足
もしどろ もどろに定めなき 渕瀬とかはる世の憂を身一つにふる涙の雨の おやみ


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もやらで道のべの草葉も ひたす袖袂なく/\ たどり「行空の 難波潟あし
火焚く家(や)の片庇 家居には似ぬ里の名や 福嶋の地はおしなべて世を海渡る
舟長の 有が中にも権四郎とて年も六つを十かへりの 松右衛門といふ通り名は養ひ
聟に譲りやる 門に目充の松一木所に蔓(はびこ)る親仁有 志す日に辺り近所のばゞ
嬶達 お茶参れとて招かれて ナフ権四郎様 けふは志の日じやお茶呑と およし様の
直にお使がら共ない忝い 誘ひ合せて参つたとどや/\内に 入ければ よふこそ/\
けふは娘が前の連れ合 此槌松めが本のとゝが三年の祥月命日に当つた故渋い

茶を焚きました 呑でゆつくりして下され 常なら箸でもとらせます筈なれど
しつての通り足よはな娘や孫を引連て順礼の長道中 物入の跡何にもしませ
ぬ とはいへ娘なんぞないか 何ぞと申たら人手はなし 此子はせがむ ほんの心斗をばあがつて
御回向頼ますと 霰交りの煎り豆に端(はな)香持たせて汲出せば もふ三年に成
ますか アゝ月日に関守すへざればじやの 今の松右衛門殿はござつて間もなく しみ/\゛
と付合ねば心入れはしらぬが 死しやつた此槌松の爺御はてうど此にんじんの太菜の
様に 毒にならぬ人で有たにいとしや/\ 南無阿弥陀 皆回向してお茶参り


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ませ 海鹿(ひじき)のおあへ此たんぽ 扨もうましと舌鼓 茶請に咄し噛交ぜてあだ
口々のやかましさ 皆船頭の女房とて乗合舟のごとく也 ヤアよい序じや権四
郎様お尋申事が有 別の事でもない此わるさ殿 連て巡礼なさる迄は色
黒に肥ふとりて 年のよりせいも大がらに病気なふてほんの赤松走らかした様に
門を家と遊びやるを見ては あやかり者じやと羨んだ子が 何として又此様に色
白に痩こけて 思ひなしか顔のすまいもかはつて 背もひくうよは/\と外へとては
一寸出ず あれが巡礼の奇特か観音様の御利生かと 打寄ては是ざためんよな

事やと尋ければ其事 ありや前の槌松じやござらぬ違ふた/\ ちがふた訳
思ひ出すものふ恐ろしや 聞て下され 娘よ 何日(いくか)の夜やらで有たな ハテ廿八日の
ヲゝ夫々 又跡の月の廿八日三井寺の札を納めて 大津の八丁にとまる夜 何かは
しらず御上意じやとつた/\と大勢の侍が コレ見さしやれ咄しするさへ身が震ひ
ます ほんお世話にいあふうろたへては子を倒(さかさま) どふ負たやら娘が手を引たやら 走
つたやら飛だやら漸毒蛇の口の遁れ 逃て行先は又狼谷 谷の水音松吹く
風も跡から追手のくる様に思はれ 扨も命は有物かな真黒の夜に四里たらずの


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山道を 息一つつがばこそ 水一口呑ばこそ 命から/\゛伏見へ出て 初て背なに負た
子の顔見ればなむ三宝 相宿の襖ごし 宵に咄しもしたわろが 連た子と取ち
かへたに極つた 大義ながら一走いて もと/\へ取かへてきてくれと娘はせがむ ヲゝ尤取
戻してこふと思ふ程先のこはさ いかな/\一足も行れるこつちやない 今には限らぬ取りかへす
折が有ふ 先のわろも子を取違へ 人の子じや迚どろくへろくにはしておかぬ筈 此
子さへ大事に育て置たら 三十三所の観世音のお力 枯れたる木に花さへ咲じや
ないか 一先内へ戻つて 潰した肝をいやしてからの上の事と 昼舟に飛乗て戻る中

乳呑ふと泣く 持合せたを幸いに娘が乳呑せたら夫なりに月日も立 名も
しらねば呼付けた槌松/\といや我名と心得 祖父(じい)よ/\と馴なじむいた/\しさ 今
ではほんの槌松めも同前に かはゆござるといふ声も咽につまらす老心 娘
も供に涙ぐみ 時の災難とは云ながら 縁有ればこそ此子が手塩にかゝり 他人がまし
うもする事か 嬶様/\と此乳を 呑みもすりや呑ましもすれ なじめば我子も同し
事 此子憎いでは夢いさゝかなけれ共 けふの亡者の手前も有ならふ事ならてつ
取早ふ もと/\へ取戻したうござんすと語るを聞てばゞかゝ達 夫レで疑ひ今は


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れた 大願立ての西国廻り現世みらいの観音様の引合せ あつちから槌松を連
て やがて尋て見へましよぞいのふ 必きな/\思はぬがよい サア皆の衆あんまりお
茶呑てけつくおなかも昼さがり いざござれお暇と打ち連出る門の口 櫂の先に
笠かつ付け 打かたげ立帰る聟の松右衛門 ホこりや皆お帰りか けふは前の聟殿の三
年忌 内に居て供々御馳走申す筈を 遁れぬ用事で罷り出近頃の亭主ぶり
まそつとゆるりとはなされいて まそつとの段かいの ゆるり鑵子(かんす)の底たゝいて帰り
ます 余り茶には福が有 呑でお休みなされやと住家/\に立帰る ハア親父様

今帰りました 茶事に間に逢ふ釜の下でも焚ふと 気がせいても相人はせか
ぬ大名のゆつたり 遅なはつた嘸お草臥女房共大義で有たの 何の大義な事は
ないお前こそ嘸おひもじかろ ぼんよ とゝ様お帰りなされたかとなぜお傍へいきやらぬ
どりやまゝ上ふと立上るコレ/\女房 まだほしうない望な時にこちからいをふ 扨申親
父様 大名の中に梶原殿は 取分の念者と申すが違ひはない お召によつて船頭松右衛門
参上と奥へ云て行 やゝ暫くして御家老彼の番場忠太がお出なされ先達
て指し上た逆櫓の事書一つ/\尋る程にける程に 問ひ殺した其上で其通申あぎよ


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暫く待 よふ暫て有ふぞ なゝの三時待せて置て殿が直にお逢なさるゝ 是へお
出なさるゝと其重々しさ物云のかたくろしさ 船頭松右衛門とは儕よな 智謀軍術
逞しき義経へ 此景時が能存ぜしといふ逆櫓の大事 疎かに聞請がたし 儕舟に逆
櫓を立ての軍 調練したる事や有夫聞んと問かけられ 此度親父様に習ふ
て 逆櫓といふ事初めてしつた此松右衛門 返答にこまるまいか なんぎせまいか ほつと
せしが分別致し 御意ではござれ共売舩の船頭ふぜい 軍といふ物は夢に見た事
もござらぬ 逆櫓の事は我等が家に伝へ 能存じて罷有まするなどゝ申して間に

合を云たれば ムゝさも有なん 然らば汝覚有船頭をかたらひ 今宵密に逆櫓を
立 舟のかけ引手練して其上にしらせよ 事成就せば御大将の召舟の船頭は汝
たるべし御褒美は此梶原が取持 ながく船頭の司として獏大の財宝をくだ
さりよと有る直のお詞 其嬉しさに初めの術なさ打忘れ あたふたと帰りかけ 日吉
丸の船頭の又六灘吉の九郎作 明神丸の冨蔵 こいらは梶原様のお舟の船頭
幸三人を相手にして日暮から 逆櫓稽古に此方へ参る筈 御教なされた
手際を見せ付け立身出世はたつた今 是と申すも御指南のおかげ忝い 坊主よ


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悦べ 結構なべゝきせて持遊びに飽かせうぞ 女房共親父様悦んで下されと
語る聟より聞く嬉しさ イヤサ不器用なやつは千年万年教ても埒ちや明かぬ
まんざら素人のわか様が 入聟にわせられて一年も立や立ず 天下様の弟御
の召さるゝ御舟の船頭する様に成といふは おれが教た斗じやない 其身の器用が
する事ておじやらしますよめでた/\ 聟殿の草臥休め 娘十二文持て走ら
むかい イヤ/\/\御酒も帰りがけに九郎作が所で下された 一生覚bぬ大名の付合 膝は
めりつく気骨は折る 播磨灘で南風に逢た様なめにあふて 頭痛まじり

草臥たといふ段ではない 暮迄はまだ間も有ふ 親父様御ゆるさりませとろ/\と
一寝入り およしコレ見や 坊主めが眠るは幸いとゝが添乳せん ねん/\ころゝとかきいだき
納戸の内にぞ入にける 娘裾に何でも置たか 出世する大事の體風ひかすな
祝ふて舟玉様へ燈明もとぼせ 御神酒上たい買てくれぬかい 買迄もない是を
お備へなされませと棚からおろす難波焼 ちろりと用意は有たなおと 老のしやれ
言軽口も神慮は重き 一対の徳利に余る親心 妻は火爐(ひばち)の石の火に夫の威
光耀けと 油煙も細き燈明に 心をてらす正直の神や 光りを添ぬらん 妻かふ


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鹿の果ならで なんぎ硯の海山と 苦労する墨憂き事を数書くお筆が身の
行衛いつ迄はてし 難波潟福嶋に来て事とへば門に印のそんじよそこと松を目
充に尋より ハア御免なさりましよ 松右衛門様はこなたか お名をしるべに遙々尋参つ
た者 お逢なされて下さつたら忝ふごさんしよと 物ごしのしとやかさ アレとゝ様 松右衛門
殿に逢たいと女ゴが来た ろくな事では有まいと行く先しらで女気の 早悋気する
詞の端興がる嗜め 松右衛門に逢て姉じやといふても悋気するか 夫程気づ
かひなら呼込で 逢せぬ先に聞たがよい どなたじや女中 どつからござつた 松右衛門

内に居まする遠慮せずとはいらしやれ 夫はまあ/\お嬉しやと 笠解き捨て内
に入 お前が松右衛門様かお近付でなければ お顔見しらふ様はなけれ共 なけれ共なりや
なぜござつた サア申何がらしるべにならふやら 摂州福嶋松右衛門子 槌松と書た笈
摺が縁に成て ヤアそんならこなたは大津の八丁で 又跡の月廿八日の夜のアノお子様を取
違へた者でござんす 道理で見た様な顔じやと思ふた事 是は夢か現かいのふおよし
悦べ 槌松を取違た人じやとやい 此方からも行衛尋てもと/\へ取戻す筈なれ共
何を証拠に尋て行ふ手かゝりもなく 泣て斗居ました 其かはりには取違たそつ


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ちの子供衆 兎の毛で突た程もけがさせず 虫腹一度痛ませず娘が乳が沢
山な故 喰物はあしらひ斗乳一度あまさせず ヲゝ夫よ 風一度ひかさばこそ 親子が
大事にかけたに付ても 此方の息子めも嘸御役害お世話で有ふ よふ連てきて
下さつた忝い/\ さるさよ割れ内を忘れたぁなぜはいらぬ イヤ門にではござんせぬ エゝ
連の衆が跡から連てお出なさるゝか 嘸御やつかい忝い/\ ハテ早ふ逢たいな 娘お礼を申
しやいの アゝとゝ様せはしない此お礼がちやつきりちやつとつい云て済む事かいな 申此槌松は
なぜ遅い お連の衆が門違はなされぬか 此槌松はなぜ遅い 我子はいかに孫はいかにと立

かはり入かはり 門を覗いつ礼云つそゞろに悦ぶ親子のふぜい お筆が胸に焼鉄(がね)さす今
さら何と返答も 泣もなかれず指俯き 暫く詞もなかりしが お願ひ申さねば叶
はぬ訳有て 恥を包み面目を凌いで尋参りしが そふお悦びなされては 気が後れて物が
申されぬ マア下に居て下さんせと涙ながらに押しづめ 改めて申すもあらきなき其夜
の騒ぎ 手ばしかう逃隠れなされたお前方は巡礼の功徳 此方は一人は病人なり男
迚は有にかいなき年寄 逃るも隠れるも心に供せず 取違た其お子は其夜にあへ
なく成給ふと 聞て恟りとは何故にとはいかにと 余りの事に泣もせず仰天するこそ道


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理なれ 人の身の 仇なりと兼ては聞ど其夜の悲しさ ようもけふ迄はながらへし 云訳なが
らの物語聞て恨を晴てたべ 高ふはいはれぬ事ながら 連れの女中と申は私の御主人
騒ぎに取違へしとは思ひも寄らぬ若君は猶大切と私がかき抱き御病人の女中は親が
手を引 一度は旅籠やの憂き目は遁れ出たれ共 追かくる武士の大勢気は樊?(はんくわい)と
防いでも 何をいふも老人の云かいなく討死し 若君は奪取られ気も狂乱の様に成て
女中もほつたらかし 大事の若君取返さんとかけ廻る 月なき夜半の葉隠れ尋廻る笹
垣のかげ サア爰にこそ若君は有と 取上て見たれば悲しやお首がもふなかつた よく/\見れば

若君でない 証拠は此笈摺 騒ぎの紛れに取違しな 扨は若君のお命に恙なかり
けりと 一度は安堵せしが かはりを戻さねば取返されぬ若君 もと/\へ取戻す種になる
人の大事の子を殺し 何をかはりに若君を取戻そふ悲しい事を仕やつたと夫を苦に病み
主君の女中も其座ではかなく成給ひ 悲しみやら苦しみやら 私一人がせたらおふた身
の因果 此笈摺を導にて尋参りしは お果なされたお子の事は諦めて 此方の若君を
戻して下さるゝ様の緒願ひ 大事にかけてお世話なされたと物語聞に付け 面目ないやら
悲しいやらあぢきなき身の上を 思ひやつてたべ親子御様とかつぱとふして泣ければ 祖父は


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声こそ立ね共涙を老に噛みまぜて 咽につまればむせ返り身もうくやうに泣
ければ 娘は心も乱る斗むなしき笈摺手に取て やれ槌松よ嬶なるは夕部の夢
にまざ/\と 前のとゝ様に抱れて天王寺参りしやると見たは 日こそ多けれ爺
御の三年の祥月なり 命日のけふの日に便り聞く告げでこそ有つらん 夫レとはしらぬ凡夫
の浅ましさ けふは連てくるかあすは戻りやるかと待て斗居た物を 大きな災難に
あふて笈摺に書たせんもない 是が何の二世哀楽巡礼も充にはならぬ 観音様
もふがいない恨めしや懐かしや あはれ此事が夢で有てくれかしと 顔に当抱しめて

声をはかりに身もだへし前後 ふかくに泣いたる 娘ほへまい 泣けば槌松が戻るか よ
まい言いや二度坊主めに逢れるか 兼てぐちなと祖父が呵るをどふ聞てと いふ詞に
すがり付 夫々かふ申私も女子じやが ぐちでは済まぬ祖父様のおつしやる通いか程お歎
なされた迚槌松様のお帰りなされるといふではなし 再び逢るゝといふではなし さつぱりと思し
召諦めて 此方の若君をお戻しなさつて下さつたら アゝ有がたい忝いと悦ぶ私が心がどこへ
いこふ 槌松様のみらいの為には仏千体寺千願 千部万部の経だらに 千僧万僧の
供養なされたより 女子だまれ 何の頬の皮でがや/\頤たゝく 恥をしれやい 我子


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を我育るには 少々の怪家させても不調法が有ても親だけて済め共人の子にはな
ぎりも有り情も有る 主君の若君のとおいやるからは 夫しらぬまんざらの賤しい人でもなさ
そふな 此おれは親代々舵づかを取て 其日暮しの身なれ共 お天道様が正直 大事にかけ
て置たそつちの子身せうか いや見せまい 見やつたら目玉がでんぐりかへらふぞ 人の子をいた
はるは こつちの子をいたはつて貰ふかはり 大抵大事にかけたと思ふかい コリヤそんなら又なぜ尋
てこぬとへらず口ぬかそふが 尋ていかうfにもしるべの手かゝりはなし そつちには笈摺に
所書が有 けふ連て取かへるか あすは連て来て下さるか 逢たら何と礼いはふ

と明けても暮ても待てばつかり コレ此襖をみおれ かはいや槌松か下向にかふと
いふたを聞分けず むりに買手三井寺さんがい 持てあるいて嬉しがつた 鬼の念仏に
餓鬼げほう殿の頭へ梯子さいて月代そる大津絵 藤の花のお山も買おらずけほう
殿の絵を買たは あの様に鬚のしらがに成る迄 長生しおる瑞相 鬼の様に達者で
金持て世界の人を 餓鬼の様に這いかゞましおらふ吉左右じやめでたい戻りおつて見
おつたら 嘸悦ばふと張て置て待たに 思へば梯子はげほう天窓(あたま)の下り坂鬼の傍に這い
つくばふ餓鬼に成てお念仏で助かる様に成おつたか 思へば思い廻す程身も世もあら


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れぬ よう大それためにあはせたなァ 夫になんじや 思ひ諦めて若君を戻して下さ
れ 町人でこそ有孫が敵 首にして戻さふぞとつつ立上る のふ悲しやと取付くお
筆を押退けはね退け 納戸の障子さつと明ればこはいかに松右衛門若君を小脇にかい
込刀ぼつ込力士立 お筆驚きヤアこな様は あの樋口のコリヤ/\/\女 ムウ聞へた 最前帰りが
けの樋の口で ちらと見た女中よな 若君は身が手に入て気遣ひなし いふてよけれ
ば身がなのる 合点か 必樋の口を樋口などゝ麁相いふまいぞと睫(めまぜ)でしらせば
打點き しつまる女聞ぬ祖父 松右衛門でかしたりな さつきにからのもやくや寝られはせまい

聞たで有ふ そちが為にも子の敵 其子骸(しびと)づた/\に切刻んで女ゴ渡せ イヤそふは致すまい
なぜ致すまい サア夫は サア夫とは エゝみづくさい云ひでも知れた 儕が胤を分けぬ槌松が
敵じやによつて致さぬな 其根性では祖父が儘にもさしやせまい もふやふれかぶ
れじや おれがいふ様にせぬからは親でも子でもない 娘そこらかけ廻つて 若い者大勢
呼でごいと気をせいたり ヤレ待て女房人をあつむる迄もなし 親父様どふ有ても槌
松が敵此子を存分になさるゝか くどい/\ ハアぜひもなし 此上は我名も語る子
細を明かして上の事と 若君をお筆にいだかせ上座に直し 権四郎頭が高い 天地


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轟く鳴る雷(いかづち)のごとく 御姿は見ず共定て音にも聞つらん 是こそ朝日将軍 義
仲公の御公達駒若君 斯申す我は樋口次郎兼光よと いふに親子はあら肝とら
れ軻れ 果たる斗なり 樋口お筆に打向ひ 扨々女のかい/\敷 跡々迄御先途
を見届る神妙さ 山吹御前も思ひ寄らぬ御さいご 御身が父の隼人もあへなく
討死したりとな 力落し思ひやる夫に付けてもかくて有 樋口が身の上嘸不審
若君の為には祖伯父(おゝおぢ)ながら 多田蔵人行家といふ無道人を誅罰せよとの
御意を請け 河内国へ出陣の跡 鎌倉勢を引受け粟津の一戦 誤りなき御身を

やみ/\と御生害遂げ給ひし 我君の御さいごの欝憤すぐにかけ入 一軍とは存ぜしかと
思へば重き主君の怨(あだ) 術(てだて)を取て範頼義経を討取 亡君に手向奉らんと此家に
入聟し 逆櫓を云立早梶原に近付 義経が乗船の船頭は松右衛門と事極る
追付本意を遂ぐる様に成に付け 此若君の御在所は何国(いづく) いかゞならせ給ふと心ぐるしき折
も折 最前よりの物語障子越に聞に付け 見れば見る程面やつれ給へ共 紛(うたが)ひもな
き駒若君扨は思ひ儲けず願はずして 所こそ有日こそ有れ其夜一所に泊り合せ 取
かへられて助かり給ふ若君は御運つよく 殺されし槌松は樋口が仮の子と呼れ御身代に


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立たるは二心なき某が 忠臣の存念天の冥慮に相叶ひ 血を分けぬ子が子と成
て 忠義を立てし其嬉しさ 何に類の有べきぞ 是も誰かげ親父様子ならぬ我
を子となされ 親ならぬ我を親とする槌松 恩も有りぎりも有 余所外の子と
取違ての敵ならば そこに御堪忍なされふが女房がよしにと申す共 其敵あんおんに
置べきか 親父様の御歎き我も不便さは身にせまれ共 相人に取れぬ主君の
若君 弓矢取る身の上には願ふてもなき御身代 祖父親の名を上た槌松 其名
を上げた元はと問へば 私を子となされし親父様の御厚恩 千尋の海蘇命路の山 夫レ

さへ恩には中々くらべがたけれど まだ其上に大恩有主君の若君 孫の敵迚祖父(ぢい)
様に切らされうか 我手にかけて主殺しの悪名が取れうか 花は三芳野人は武士末
世に残る名こそ恥かしけれ 御立腹の数々御歎の段々 申上ふ様はなけれ共 親と成り子と
成夫婦と成其縁に つながる定り事と思召諦て 若君様の先途を見届まだ此
上に私が 武士道を立させて下されば 生々世々の御厚恩 聞分けてたべ親父様と 身を謙り
詞を崇め忠義に凝たる樋口がふぜい 兼平巴が頭をふまへ 木曽に仕へし四天王 其隋
一の武士(ものゝふ)と世に名を取しも理なり 権四郎はたと手を打て そふじや 侍を子に持てばおれも侍


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我子の主人はおれが為にも御主人 ハゝゝサア/\聟殿お手上られい 舟玉冥理再び丸額
に成て 炊食(かしき)する報も有れ 恨も残らぬ悔みもせぬ泣きもせぬ 娘精出して早ふ又槌
松を産で見せおれ 扨は御得心参りしか ハアゝ忝や嬉しやと互の心ほどけ合 千里の灘の
漂(うかれ)舟湊見付しごとくにて悦びあふこそ道理なり お筆嬉しく若君を樋口の次郎に
手渡しし そこにかくておはすれば此お子に気遣なし 浮沈みは世のならひ 私が妹此津の国に
勤め奉公するろ聞く 夫レが行衛も尋たし大津で討たれし親の敵 討て亡者へ手向たし何や
いかやら事しげき 私が身の上早御暇と立上れば そふ聞て留めるも無調法 エゝ残念

ながら我等の身分け力にならふ共得申さぬ 御勝手にお出なされ 聟殿ハテもきどふ
な せめて二三日足休め 夫々とゝ様のおつしやる通りかふ心がとけ合ば 初め何のかのと申した
程けつく名残有 ひらにと留てもとまらぬ気 涙にくれ/\゛若君を頼まるゝの頼むのと
いふ中かいの 本意を遂て又御出さらば/\と門送る袂見返る袖お筆は別れ
出て行 扨々々武家に育た女中は格別 娘今からあれ見習へよ こりや爰にそ面
倒な笈摺が有 どこへ成ととつとゝ捨ててしまへ 親父様夫は余りな思召切 せめて仏
前へ直し香華も取逆様な事ならが 御回向なさつて取らさつしやれましよ 侍の親に成り


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て未練なと人が笑ひはせまいか 何の誰が笑ひましよ ハアゝ嬉しや/\蟻やうはさつきに
からそふしたかつた 娘納戸の持仏へ火をともせと 手に取上げる笈摺の 先年お生かさふ
と思ふたに たつた三つで南無あみだ/\ 槌松聖霊頓生ぼだい 聟殿ごされ娘も
こいと 見れば見かはす顔と顔 供に涙に 暮の鐘かう/\ とこそ 聞へけれ早約束の
黄昏時又六を先に立て 冨蔵九郎作三人連れ門口から用捨なく 松右衛門殿内にか 約束
の通り参つたと高呼はり ヲゝ待て罷おりますと身かはるに拵へ飛で出 御大義/\は
いつてたばこでも参らぬか いや/\大事の急ぎの御用 精出して跡でのたばこ しつぽりと先

やりませうぞや ヲゝともかくもと皆川岸におり立て 繋げる手舟の渡海作りとも
づな とき捨飛乗/\ ナフ松右殿舟で妻子を養ひながら 恥しいがついに逆櫓と云事
はヲゝしらぬ筈/\ 何事もおれ次第教へてやる サア九郎作と又六は おも柁取柁の艫櫓
を立てた 冨蔵是へお出なされ おれがする様に櫓を立てた 皆の衆 此様に舳から艫
へ向て櫓を立つる 是を逆櫓といふはいのふ 惣じて陸の戦ひは敵も味方も馬上の
働き かけんと思へばかけひかんと思へば引く事も 自由げに見ゆれ共舟といふ物は又格別 しつて
の通り汐に連れ風に誘れ櫓拍子立てて押す時は 行く事も早けれど 乗戻さんと思ふ時は


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おも柁とり柁風波を考へ 取柁づかの手の中舟をくるりと本のごとく押廻して漕ぎ
戻す 夫さへさす汐引く汐にもちがふて 舟に過ち有る時は八万ならくの憂めを見いとし
かはい 妻子に再び逢れぬじやないか いかにもそふじや 其憂めを見まい為の此逆櫓
サア其艫の櫓を押した/\ おつと心得やつしつししゝやつしつし三段斗漕出す サアかふ舟を
漕寄せて 追つまくつつ戦ふ時 謀に乗せらるゝか敵にあら手が加はるか スハ負け軍と
見る時は 舟押廻す迄もなくコレ此逆櫓押立てて 冨蔵合点か合点じや/\やつ
しつし しゝやつし元の所へ漕戻す 透を窺ひ冨蔵九郎作櫂追取松右衛門が諸

膝ないで 打倒さんと右左よりはつしと打 心得たりと踊りこへ陸へひらりと飛上れは 三人
つゞいてかけ上り ヤア卑怯也松右衛門 儕木曽が郎等樋口次郎兼光といふ事 梶原殿
よく御存知なされ 逆櫓の稽古に事寄せて 搦捕り連れ来たれと我々に仰付られた 尋
常に腕廻すか打のめして縄かけふか 腕を廻せと罵たり 樋口から/\と打笑ひ 推量に
違はぬ上は何をか包まん 朝日将軍義仲の御内において 四天王の随一と呼れたる樋口の
次郎兼光 儕等ふぜいが搦捕んとは真物付いたる一番碇蟻の引にことならず ならば手柄に
搦て見よ ヤアしやらくさい広言跡でいへと櫂ふり上 なぐり立たるを事共せずかいくゞつて引


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たくり 先に進みし冨蔵が頭にぢんに打砕けば 一人では叶はぬぞ二人かゝつて手に余らば 打
殺せと立別れはつしと打 さしつたりとひらく身に櫂と櫂とは相打に 互の眉間あい
たしこためらふ隙につゝと入 櫂引たくつて捨たりける 組で捕んとむり無三取付く二人
を引寄せ/\ 力に任せえいうんと踏くだく天窓のさら 微塵に砕け死てげり サア安からぬ
若君の一大事何とせん 我身をいかにとためらふ胸にひつしとひゞく鐘太鼓数百人の
おめく声 こはいかに/\と驚く中に心付 屈彊(くつきやう)の物見櫓ごんざんなれとかけ上る門の松
顔にべつたり蛛の巣や松葉の針てあいたしと 目さす斗は暗からぬしげる梢の朧

月 四方をさつと見渡せば 北は海老江長柄の地東は川崎天満村 南は津村
三つの濱西は源氏の陣所/\ 人ならぬ所もなく天のこかせる篝の光り 扨は樋口
を洩らすまじ 取逃さじとの手くばりよな さも有れいかにと飛でおり 女房共親父様
/\と呼立つる イエとゝ様は納戸のかげをこぼつて どつちへやらいかしやんした ヤアかげこぼつて
うせたとは ムウよめた訴人にうせたな 財宝をむさぼつて訴人する 兼ての気質で
はなけれ共 槌松が怨を忘れ兼夫でうせたか ハア樋口程の武士が 舟玉の誓言に
気を奪はれ心を赦し 飼犬に手をくはれたヘヘ口惜や無念やと 拳を握り歯


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をならししほれぬ娘に泣く涙 見がき立たる鏡の面 水をそゝぐがごとく也 お腹立は理りな
から とゝ様に限つてよもやそふでは有まいと 云なたむる折こそ有 組の捕手の腰明り
武威輝かす高提燈 畠山の庄司重忠 権四郎に案内させて見へければ 娘は
夫レと見コレとゝ様恨いといはせもあへず 訴人の恨かいふな/\ おれが訴人せいでも 松右衛門を
樋口次郎とは 梶原殿が能御存知なされて 冨蔵や九郎作に 搦とらそふとなされた
じやないか 夫斗じやない 四方八方取かこんで樋口が命は籠の鳥 何ぼ助けうと思ふ
ても助からぬ おれが秩父様へ訴人したは槌松めは事で サア其槌松の事をいふて松右衛門

殿が腹立て 何の腹立る事が有 親子といふ名に繋れて 孫めか親と一所に あ
つち者に成おらふかと悲しさに あれは樋口が子ではござりませぬ 死だ前の入聟の ナ
松右衛門が子でナ合点がいたか ほんの親子でござらぬからは 訴人致したかはり孫めが命
お助なされ下されと願ふたれば 段々聞召分けられ 天下晴て孫めが命はヲゝ慮外な
がら 此祖父(ぢい)が助けた 夫に何じや樋口が腹立てた ヤイ儕が子でもない主君でもな
い 若君でもない大事の/\おれが孫を一所に殺して侍が立つか 若い其大きな眼コにも
祖父がくだく心の数々は見へまいぞ 恨いとぬかす儕等が けつく祖父は恨いと気を


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せき上てくもり声 よふ訴人なされた有がたし共過分共 云ぬ詞はいふ百倍 嬉し涙にくい
れけるが すつと立て重忠の傍近く 天晴御辺が梶原ならば太刀の目釘のつゞ
かん程 死に死んすれ共 粟津の軍妹巴が身の上迄 志有しと聞く重忠殿 情に刃向
ふ刃はなし 腹十文字にかき切て首を御辺に参らすと いはせも果ずヤア樋口 死首を取
て手柄にする重忠ならず 迚も叶はぬと覚悟あらば尋常に縄かゝれよ いや/\/\
運尽きて腹切るは勇士のならひ 縄かゝれとは此樋口い 生恥かゝせん結構な 仁義有
重忠の詞共覚ず イヤこれ樋口 木曽殿の御内に四天王の随一と呼れ 亡君の

怨を報はん為 権四郎が聟と成て弓矢に勝る櫓櫂を取て 大将の舟を覆し
鏖にせんず謀醜(おそろし)し 頼もし 晋の豫譲は主の智伯が怨を報ぜんと 御辺が
ごとく姿を略(やつし) 敵襄子を狙ふ其志を深くかんじ 着たる所の衣服を脱で豫譲
にあたへ 其衣を切らせて彼が忠義を立させしは 敵ながらも襄子が情 木曽殿叛逆
ならざる事は 書置に顕はれ御さいご今更悔むにかいなし 主人に科なき樋口次郎 全く
恥をあたふるにあらず 忠臣武勇を惜しみ給ふ 大将義経の心をさつし 重忠が縄かくる
とつつと寄て 樋口が腕捻わぐればにつこと笑ひ 関八州に隠れなき勇力の重忠


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殿 力づくにはおとらぬ樋口 取れし此腕もぎ放すは安けれど 智仁兼備の力には及びも
ない事相手になられず ともかくも計らはれよと弓手の腕を押廻せば ヤア愚か/\ 忠義厚き
樋口殿の力に重忠が及んや 大手の大将範頼公搦め手の大将義経公 両大将の御仁政
文武二つの力を以て警(いましむる)此縄ぞと かくるもかゝるも勇者と勇者 仁義にうらむ高手小
手縄付を引立させ コリヤ女 樋口殿の血こそ分けね 槌松とやらんは大切な子てないか 暇乞をと
有ければ およしは泣々納戸に臥たる子を抱上 コレのふ暫し仮初も親子と云し此世の別れ 顔見
せてと指寄ば ハツア槌松に暇乞とは 四相を悟る重忠の御情 ぢいの願を聞分け給ひ助けお

かるゝ忝なさ 誰彼の情も忘れぬ コレ槌松 とゝと云ずに暇乞 樋口/\樋口さらばと
稚子の 誰か教へねど呼子鳥我は名残もおし鳥の 番離るゝうき思ひやらん/\とすがり付 娘
よ吼な 何ぼやらん/\と商売の舟歌て 留めても留らぬアゝ悲しや たとへ死でもぢごくへはやらん
極楽へやるぐぜいの舟歌 思ひ切てやつてのけう 汐の満ち干に此子ができたとな 孫が身の上案じ
るなぢいか 頼りのんえい/\われが代りに大事に育てえいよほんほゝほ本に何たる因果てと正
体もなくどふどふし 涙にむせぶ腰折松余所の千年(ちとせ)はしらね共我身につらき有為無常
老はとゞまり若きは行く 世は倒(さかさま)の逆櫓の松と朽ぬ 其名を福嶋に枝葉を 今に残しける