仮想空間

趣味の変体仮名

一谷嫩軍記 第一

 

読んだ本 https://archive.waseda.jp/archive/index.html
     ニ10-01008

 


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  一谷嫩軍記  座本豊竹越前少掾
戦克の将は国の爪牙(そうけ)犬馬の人を労則(いたわりくれんば)帷蓋(いがい)を
以て是を覆ふ 況や大功の人においておや重んぜずんば有べ
からずと 漢書に見へしも宜(むべ)なるかな 九郎判官義経
の下知に依て 奢り平家を討亡し 朝家をやすんじ奉らんと
軍慮をうながす堀川御所「日夜に評議區(まち/\)なり
いで其頃は寿永三年二月(きさらぎ)半ば卿(きやう)の君の御父平大納言時


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忠 愉(ひそか)に須磨の寓居より入来を 儲けの上座にすゝめ 先ず以て遠路の
所御苦労千万と 挨拶有ばされば/\ 様々術(てだて)を以て 神?と八咫の鏡
は念なう奪ひおふせしが 十握の御剱は安徳天皇 昼夜随身ましませ
ば思ふに任せず 先二色の神宝受取給へと有ければ 謹で重拜(ちやうはい)有り
コハ忝き御念志 是偏に舅君の御働と 悦喜に時忠重ねて 扨
又平家の要害 険阻を頼の地理陣取 中々容易の事にあらず 則
絵図に印せりと取出し手に渡せば逐一細見ある所へ 五條三位俊成卿

よりのお使者 只今是へ御出と 取次声や長袖の 花野香名のみ 菊の前 裲姿
のつしりとたばひ 頃なる白菊の露をおびたるごとくにておめず 臆せず打通り
大将の御座近くしとやかに手をつかへ わらはゝ御状三位が娘菊の前と申者 父
俊成は禁裏にて千載集の役 折から旅人とおぼしき者 此歌を集(しう)に加へ
て給はれと一向の願ひ 見れば天晴秀逸と感じながらも 私に加へん事おさだか
ならず 御伺ひの為参上と 大事の斗琴詞数いはぬ色なる恋人の 短冊御前に
指置もえしやくこぼるゝ風情也 義経も忠度(たゞのり)の詠歌としれどさあら


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ぬ体 手に取て吟じらる さゝ波や 志賀の都はあれにしを 昔ながらの山桜かな ハレ香し
やあてやかや 何かは苦しかるべきと 賞美の詞を時忠打けし ヤア其歌集には入られ
まじ 罷ならぬと傍若無人 さゝゆる詞を菊の前 イヤ申時忠様 お聞の通あの歌は
父俊成も感心し 君も御賞美ましますを集に入なとおつしやるは誤りばし有て
の事か 憚ながら今一度吟じかへして御評議有れと いひも切せずヤア愚か/\ ソレ其歌
薩摩守忠度白髭明神社参の時 志賀にて詠みしは犬打 童も知る所 元来(もとより)
忠度は俊成が門家 弟子ひいきに平家へ近寄 後ぐらき此使追かへされよと

云ほぐせば 菊の前詰寄て イヤ申 弟子を贔屓にかへ我へ心を寄るとは大切
なるお詞 それには慥な証拠といふは其方と薩摩守 兼てより様子有事
知ている 其縁に俊成が 平家をかいふ所存といふが某が誤りかと 我も平家
で有ながら前後揃はぬ詞たゝかひ 義経暫しととゞめ給ひ 平家方に縁有り
と 一旦不審立上は俊成卿迄越度と成り 集に入る事かたかるべし 去ながら所存有ば
此短冊 義経が預りとも角もはからはん 此趣きを伝へられよと始終を遉両
将の 風雅の返答尤と時忠詞を控ゆれば 力及ばず菊の前猶も摺寄手をつかへ


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父俊成も此秀歌惜しむ心に候へば跡よきに御差図と 思ひ定めし云の葉も 花
に嵐の時忠に 心残してお暇申し五條の館へ立帰る お次の方より武蔵国の住人岡部
の六弥太忠澄 熊谷次郎直実参上と 披露を待ず立出て 六弥太御前に手
をつかへ 頼朝公より御墨付至来と指出し 西国の軍数日迄引に付き再三の御催促
一日も早く御出陣と 諌めと供に次郎直実 君御存しられずや 鎌倉には佞臣おゝ
く 義経は平大納言時忠の娘 卿の君に御心を寄られ 亡慮のかまへなんどゝ頼朝公
に讒言申族(やから)も有と承はり候へば 時移るは悪しかりなん 急ぎ御出馬然るべしと詞を揃へ

申ける 大将莞爾と打笑ひ ホゝ両人が諌め尤ながら 謀を帷幕の内にめぐらし
勝事を千里の外に顕はすこそ始終の勝利たるべき也 義経發向遅なるは 安
天皇所持し給ふ三種の宝都へ返すを妬く思ひ唐土天竺へも渡すか 若し海
底のみくずとならば 宝棺の伝ます 日の本はくらやみ とやせんかくやと心をいため 是に
おはする平大納言時忠は 心堕弱なる御方なれば謀て縁者と成 頼むより早かけ入
て是見よ 神?内侍所は我手に入 宝剣は安徳帝御身を離させ給はねば
術を以て奪かへさん要害厳しき平家の備へ 絵図に画せて案内をしる


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見よ/\旁険阻を頼みの油断を見合せ 鵯越より真下り 逆落しに責入らば
あはてふためく平家の一類 討取は手裏に有りと 智仁勇備の良将の軍慮を聞
て諸大名はつと感ずる斗也 ノフ時忠卿 一旦縁を組し上は別心なき聟舅 天下
の為の謀御心にさへ給ふなと忿(いかり)をなだむる頓智の詞 時忠は黙然と指俯いて居
たりける 義経重ねて ヤア誰か有る用意の制札 はつと答て高札さゝげ御前に指置け
ば ずつと立て床の間の 筒に生たる薄桜に件の短冊結び付けいかに両人 今度
の軍は勅諚の一戦 私の趣意にあらず 六弥太は薩摩守忠度の陣へ向ひ 御

願ひの此御詠歌千載集には入しか共勅勘の御身なれば名を顕はすを憚りて 読
人しれずと記されし趣きを演説し 集に入たる其印 此短冊を結びたる山桜を送
べし 又熊谷は搦め手の 経盛敦盛固めたる須磨の陣所へ打向ひ 若木の桜を
汝が陣屋 義経花に心をこめ 武蔵坊弁慶に筆を取せし高札 此花江南所
無也 一枝折盗の輩においては 天永紅葉の例に任せ 一枝を伐ば一指を剪べし
此禁制の心をさとし 若木の桜を守護せん者熊谷ならで外になし 其旨屹度
心得よと高札は直実 歌は岡部に給(たび)らればはつと両人領掌し心を含む禁札の


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外を和らぐ和歌の道花をいたはる大将に実有 色有情有 恥有時忠詞なくふせう
/\゛に立上れな 二人の勇士も退出の底の底意を堀川や 深き恵を汲分けて祝
ひ ことぶく「御代の春 柳桜や松梅も皆御慈愛に生茂り 北野の社かう/\と
木の間/\に打幕の内は男女の色はへて都ぞ 春の錦なり 九郎義経の御台卿の
君 幕しぼらせて出給へば 跡に付く嬪共 申/\姫君様 いつにないそは/\と何を御らん遊ば
すと 尋られてさればいのふ 義経様は此頃は毎日の御詣で 則けふが満ずる日とけさ程より御
参詣 お道迎ひの心にて思ひ立た此遊山 木々の花より紅葉より早ふお顔が見たさ

にと 夫婦に成ても惚ている 心は詞に出にけり 嬪共も気をのぼしかはのそらめかあれ
/\/\ 社の方より深編笠立派な若衆供に連れ当世風のやさ姿お姫様御らふじや
れ ようにたじやないかいなと いふ間程なく九郎義経天満神へ日参にけふ百日の満
願も 人目を忍ぶ深編笠熊谷の小次郎を供の丁稚に引連て しづかに下向まし
ませば 卿の君出向ひ けさとく参詣遊ばして今頃の御下向は 定て道に面白いお心寄
が有たであろ さすられなされた此肌を 改めたいと引寄て ふと股ふつつり アイタゝゝゝ何がいた
いへま一つと つめつた跡の此糸はゆるしの色と見へにける 義経も御機嫌よく イヤ是はめい


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わく けふは遊山と聞し故 大内は色所嫁入ぬ先に結ばれた よしみの人にもお出合かと 遠
慮で態遅うきたと もたせ詞に姫君は顔打赤めコレ申 そんなさもしい濡衣の疑ひ
受る覚はない わやくな事をと斗にておろ/\涙に嬪共 こりや殿様の皆御無理 何ぼ程
隠しても新枕が証拠人 たいそに有たかなかつたかお心に覚があろ アレ/\申お姫様の癪が
上つた 療治して上なされ 何ぞで足納(たんのう)なされたら虫がさがろとむりやりに押やるもし
ほ行もしほ 小次郎来れと打連て 幕の内にぞ入給ふ 己が心のだくぼくに人を埋みて平
山の武者所 荷擔の人と出合の約束 かたへに打し幕の役目覚のめうが巴 あほう

な事を企て我身をしらぬ平時忠 跡に続て梶原平次 幕より立出小手招
き一つ所へ寄つどひ 武者所時忠に打向ひ 先達て景高を以て御願ひ申上たる 彼
経盛へ遣はされし玉織姫 呼戻して某が妻にせよとの御事 則今日此所で
聟舅の結の盃 外に御相談の義も有と景高の内意によつて 是迄推参
仕ると挨拶すれば打點き ホゝ貴殿を聟に取ば此時忠も大慶其子細あは 義経が 
邪智にほおり 三種の神器を奪はん為卿の君を望しを 何心なく縁を組 神宝を
ふか/\と渡したる今の後悔 義経は末々迄我と同意の者にあらず 何とぞ姫を取


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かへし是成平次かげ高 相聟二人都の守護に据おかば 禁庭は我心の儘 此上も
なき悦びといふに平次はしやゝり出 ノウ武者所 貴殿も我も娘達を女房に貰ふて有
ながら 卿の君は義経が館に居らるゝ 玉織姫は経盛が西国へ連下れば 両方ながら
おも長な談合 サア其事を此平山もいろ/\工夫していると 案じに時忠打笑ひ ハゝアい
や其義は何より安い事 経盛と某頃日(けうじつ)不中に成たれば 娘を戻せと云やらば縁切
て戻すは治定 又卿の君が事は コレかう/\と囁けば平次聞よりぞく/\踊 ハゝア奪い取とは
おちえ/\ 幸けふも此所へ参詣と聞し間 首尾を窺ひ奪ひ捕ん 扨此上は義経

亡す術が肝要/\ 幕の内にて熟談申さん いざと三人立上り サア平山殿お出なさ
れ アいや/\貴様は姉婿マアお出 イヤ先舅殿から御入有と 俄に舅聟呼はり 水
の月取猿松共 伴ひてこそ入にけれ こなたの幕より小次郎は勢ひ込でかけ出すを 待
と一声かけながら義経立出 ヤア/\小次郎 けしからぬ勢ひにていづくへ行やと宣へば 君しろし
めされずや 此前にて三人が以前よりの相談 末々君の怨(あだ)するやつばらかたつぱし打殺し 禍ひ
の根をはらはんと又かけ行をヤレ早まるなと引とゞめ 汝より義経か始終の様子は
知たれ共 軍を出さぬ其内に 一人でも味方の勢討取は不吉/\ 又某を亡さんと彼


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等がいか程もがいても 燈心で盤石及ばぬ事 構はず共捨置と さも大様に宣ふ
中 幕の女中声々に のふ悲しや卿の君様御自害遊ばしたと さけぶに義経小次
郎も驚きさはぎかけ付れば 御いたはしや卿の君釼にふして事切給ひ 枕に残る一通有
こはいぶかしと押ひらき見給へば 筆のはこびも定まらず読も哀の文のあや 誠に御館
へ入しより幾千代迄も末かけて 御情を受参らせんと悦びも仇夢となり 我親の
悪心と見るより心附々にも 聞へを憚りとく/\とくり返し読終り ヘツエ是非もなし 親の
悪事に心をくるしめ 世を見限りしか残念や 死ず共済むべきに遉女の細き心傍に

居ながら別れにも我身を恥て詞さへ かいさず果しか不便やな みじかき契で有し
よとやゝ御涙にくれ給へば 悲しさ増る嬪共 血気にはやる小次郎も供に涙にくれ
居たる 暫く有て御大将屹度思案をめぐらし給ひ 小次郎こよと耳に口 コレかう
/\とつど/\に云含めよくはからへと斗にて 編笠に大目を忍び 館に帰らせ給ひ
ける 直家は指し心得辺りを見廻し卿の君の御立也と高声に呼はれば かた入の幕には
平山梶原スハよき首尾と夕暮時 頬かふりに顔かくしけちいに囁き頷き合手
ぐすね引て待所へ 嬪婢付随い御乗物を先に立 小次郎跡に引添て歩み来る


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を見るよりも 爰かしこよりむら/\と走寄て乗物を 奪ひ捕んとおつ取まく 小
次郎すかさず身がまへし ヤア慮外なるうづ虫めら 忝くも義経公の御台卿の君の御
乗物 狼藉を働て後悔すなときめ付る ヲゝサ/\卿の君知ている 四の五のなしに
渡さぬと其前髪首さらへ落すと罵れば 小次郎はたまり兼引ぬいて切かゝるを こ
なたも抜連渡り合切結ぶ太刀かげに 女中は残らず逃ちつて 直家一人大勢を相
手受つ流して戦へ共 遉に腕の云甲斐なく やう/\其場を切ぬけて乗物捨置
逃帰る サアもふよいは長追すな いでまあ早ふ恋人のお顔を見んと平次景高 乗

物の戸を明て斯くと見るより恟りし アゝころや死ているは ヤア/\やあと時忠も 平山諸
共指覗き 驚く中にも時忠は添たる一通こりや何じやと ひらき見るより又仰天 ヤア
扨は最前から相談した様子を知ての自害と見へた ハアはつと斗さしうつむき 途方
にくれて居たりける 景高はくつたく顔 エゝ埒もない 是はまあどふせうそいのふ平山殿
サアどふといふたらこふせうぞい 申時忠卿の御思案はござりませぬか ハテ思案といふてどふ
せうぞい 得心で死だればねたりにもやられまいし 此儘で葬礼せう聟の役に景高
供をして焼香めされ ハイいやこれ末重殿も相聟 葬に立ずにや居られまい サア/\

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ござれと誘れて平山はふせう/\゛の仏頂面 時忠は涙ながら 平山景高 遠路墓
所迄御出御苦労千万と 礼状文句を口上てのべの送りの営と打つれ てこそ
「露時雨 古郷をやけ野が 原と 見返りて 修理太夫経盛卿一門の人々と 供に都を
落汐の搦手をかためんと 福原にとゞまりて手配何や萱の御所しばし仮居の事
しげき中に養子の玉織姫 軍の事も色事も絵で見た斗味しらぬ行儀育
の器量よし女房達と諸共に 浮世咄の跡や先 越中次郎兵衛盛次が妻の
うらばひそ/\声にて申皆様此乱のない先から姫君と敦盛様云号斗で御祝

言の遅いのは どふした事と尋れば 忠清が妻の槙の尾 サアじだいお姫様がおぼ
こでしかけを待てござる故いつ迄も埒が明ぬちよびくさ咄しもしかけたり 人のない
間にお傍へ寄てつめつても見たり 御祝言のない先に 内証の祝言は済様にせ
にや 姫ごぜは立物じやないはいなと なぶれば姫は真請にして ほんにとうからそふしたら
つい夫婦になられふ物 それしらなんだそしてまあ 寝てから何といはふやと袖打おほふ
其風情 葉の裏に咲玉椿色を含みてかはゆらし 取次の侍罷出時忠卿よりのお使
者大館玄番殿御出と 知する声に女房達 申お姫様 お里の便殿様へ申上んと


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三人は 打連てこそ入にけれ 参議平の経盛卿 時忠の使と聞一家がならふ平の
中 いかなる事か云送ると 御座諸共立出給ひしづ/\と座に直り 時忠卿のお使者 是
へ通せと仰の内 頬も形も大館玄番いかつがましく畏り 主人時忠申越候は 先達て
其元へ遣はし置玉織姫 いまだ敦盛殿と祝言も御座なき事 是以て互の幸
存る旨候へば 御戻下されよと主人が口上 則迎ひの乗物も ようい致し参つたり 早く
姫をお渡し有とさも押柄にのべにける 経盛卿の詞を待ずみだい所藤の方 姫君
に打向ひ ナフ玉織 親御から迎ひにきたかいぬる気か いにともないか そなたの心次第ぞと

尋給へど姫君は 何と返答いは枕 胸もふさがる思ひにて指俯て詞なし ホゝ返事の
ないは いにたい気じやの アゝあぢきないは人心ちいさい時からいつくしみ 手しほにかけ育てても
身は身で通るといふが誠 暮かゝる平家を捨日の出の源氏に組し給ふ 親御に
随分孝行仕やと 涙交りの恨の詞 経盛卿打消て ハテくど/\と何を諄  源平
と引別れ 互に心よからぬ中 娘を戻せと有こそ幸 コレ/\玄番 お使者の趣承
知致し 則娘を返し申と 立帰て達すべし 其方迎に参りし上は 此方より大に及ばず 早
く姫を連帰れと 仰にはつと大館玄番 玉織姫の傍に寄 ハテ姫君 何をう


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ぢ/\隙入給ふ 時忠の心は呼戻すと其儘嫁入の御相談 コレお悦びなされ 其
聟殿といふは 平山の武者所末重とて源氏の兵(つはもの)姉婿の義経殿と肩をな
らべる大大名 あやかり者とはお前の事 サア/\早う乗物にお乗なされと立寄中 姫
はとかうの諾(いらへ)なくずつと寄て玄番が刀 抜手も見せず切付れば 肩先ずつぱと切
込れ是はと寄を又一太刀 うんとのつけに倒るゝを 飛かゝつてとゞめの刀 さしもの経盛
仰天に 藤の方は走り寄 ヲゝ玉織 れき/\の武士も及ぬ手際心の健気 サア/\こちへ
と誘ひて 女心のはしたなう いふて今さら恥しい 其心を見る上は ノフ申 ヲゝ成程と御夫婦は

點き合て藤の方 コレ玉織 そなたに見せる事が有 待て居やと云捨一間に入給ふ
無官の太夫敦盛は父と一所に出陣の 用意取々なる中に 母のしらせに奥の間より
御用いかにと出給へば 跡よりみだい女房達調子土器携て君は千代ませ聟君は
三宝と祝しける 様子しらねば敦盛は恟りうろ/\あたりをながめおはせうれば 経盛は
取あへす ノウ敦盛卿 玉織姫と婚義の結び 其盃を取上られ姫へさして寿をと 聞
より染衣打笑ひ 申殿様 御祝言の盃は 姫ごぜより呑初めて 夫へさすか世上のならひ
思召忘れの様に存ますホゝゝゝと袖覆へば 経盛卿點頭給ひ ホゝ女房の盃を夫


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へさし 寿を祝ふ下つかたの婚礼は其通 訳をしらねば不審は尤 幸の折柄なれば語り聞
する事有と いひつゝ立て敦盛の御手を取上座に直し 其身は次に座を改め 口外へ出さね
ば知人有まじ そも此敦盛卿は 我子にて我子にあらず 元此みだい藤の方は法皇に宮仕へ
御寵愛ふかうして 御胤を身にやどらせしが 人の妬みの強ければと 先祖平の忠盛へ 白
河院より下されし祇園女御の例に任せ 懐胎の身を其儘 某か宿の妻に給りて
出生有し此敦盛 我子として育てしが院参の折ごとに 人なき間にはいもが子の歌によ
そへて御尋 浅からぬ御いつくしみ かく由緒有敦盛なれば いか成高位高官も望のごとく

成べけれ共 官位を受ては臣下の列 重ねて帝位をふむ事叶はず かく御寵愛ふかき敦盛
まさかの時は春宮(こうくう)にも立給はん御心やと 叡慮をはかり今日迄能官位の望もせず 扨
こそ無官の太夫と呼せしぞや斯物語る上からは 其土器は天盃同前 流を汲で玉織姫
三々九度を納むべしと 仰を菊のしたゞりに千代を結びの番蝶 祝ひ納る姫君
の心の内の嬉しさは 早う其日の暮たからん 経盛言葉を改て 敦盛卿へ願ひ有都騒
動の折柄 法皇御幸の御行衛は知ず 御身を残しとゞめても襲ひ来る源氏の軍兵
うきめや見せ奉らんかと 心ならず一門と諸共是迄伴ひ申せし事 嘸や跡にて法皇の叡慮


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くるしめ給はん勿体なや 其上今度の合戦は 必定平家滅亡にて 一門残らず討死せば 都
へ伴ひ申人も有まじ 御身は是より藤の方と玉織姫を具し給ひ都はいまた騒しからん
暫く北さかへ御入有 折を見合せ法皇の御殿へ移り給ふべし 今生の対面も今日限りの
経盛 暇乞に御顔ばせ見せもし見もしなされよと 涙にくれて宣へば みだいとかうの詞も
涙玉織姫女房達驚く斗うつとりと顔見合せて居たりけり 敦盛大きに恐れ入
コハ存寄ぬ父の仰 生れぬ先から親子と成けふ迄御恩を受し事須弥蒼海も
較べたらず 譬いつれの胤にもせよ後の親ならめ 東西覚て今日迄御意を背きし

事なけれど 是斗は御免有 一所に出陣仕り 御馬の先にて潔う御恩を送らせ給はれ
と涙に くれての御願ひ 経盛卿押かへし一旦の義心尤なれ共 親の恩と天子の御恩 一つに
いふも恐れ有 是非御承引なきならば法皇への申訳は切腹と面色かはれは敦盛
卿 ハゝア誤り入奉る 此上は仰に随ひとも角も仕らん ムゝ都へ帰り給はんとな ホゝ承引有て
嬉しや/\ 源氏の勢は丹波路と 津の国の街道より二手によすると聞及ぶ 敵の見ぬめの
浦伝ひ 難波大江の岸を越へ河内路より登り給へ早ふ/\ 畏て敦盛は用意と一間へ入
給へば ソレ藤の方玉織も旅の支度を急れよ ヤアコリヤ/\染衣皆の者取賄ひにいけ/\と


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仰にみだいはサアおじやと 皆引連て入給ふ 経盛悦喜限りなく サア心安し是からは一の谷
へ馳向ひ 持口を固めんと独云しておはする所へ 内府宗盛の使として雑兵一人馳来る
経盛卿へ過急の御用と一通を指出せば何事やらんと押ひらき 何々三くさの合戦味方
敗北 是に依て主上を始門院二位殿密に讃岐八嶋の浦へおひらき有 貴殿御
舩を守護との仰によつて 迎ひの兵舩指遣はす 急ぎ出逹有べき由 読も終らず
心せき立 サア事急也猶予ならず 急て妻子に別れは告る 再び逢も互の輪廻 此
儘に出行ん案内せよと使を引連急ぎ浜辺に出給ふ かくとはしらず藤の方けふ別れ

てはいつか又 逢見ん事はかた糸の結び馴にし夫婦の縁せめて名残を惜まんと 座敷
をそつと立出て経盛卿我つまと尋給へと面影 見ぬ隈々を爰がしこ見廻す中
に落たる一通 ひらき見るより恟りし コレ/\皆の衆早ふ/\殿は出陣なされたはいのと 呼は
り給へ御声に 玉織姫女房達追々に走り出一つ所に寄集り 互に顔を見合て
呆れ 果たる斗也 かゝる折節奥庭より間近く聞ゆる轡の音 何事やらんと見る所に敦
盛其日の出立には雛靍縫たるひたゝれに 鎧は緋威同じけの鍬形打たる兜を
着て 廿四さいたる染羽の天 重藤の弓を持いさみすゝんで乗出し給へは玉織見るより


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帯引しめ 小つまかい取かい/\゛しく なげしにかけたる長刀追取 母様さらばと庭に飛おり
轡面に引添たる みだいは驚きヤア/\敦盛 都へ登れと父の仰 其出立は心得ずと
尋給へはおろかや母上 父の命に随ふは一旦の孝行 兄上達一門残らず かばねをさらす
必死の戦場我一人都へ帰り何面目にならかへん 是より一の谷へ馳行 父にかはつて
陣所を固め潔う討死して 名を後代にとゞむる覚悟 親にさき立不孝の罰
御赦されて下さりませと思ひ込だる其有様 母上思はず両手を上ヤレでかしやつた
敦盛 それでこそ我子なれ ヲゝ嬉しいぞや/\ いで餞別を祝はんと 召たる裲ひら

りと脱ぎ 惣じて軍に立時は 敵に矢種を隠す為母衣(ぼろ)をかけると聞伝ふ 是を
かけて出陣仕やと 心の内は筐ぞといはぬ情や母の衣やなぐいに打かけ給へは ハツア
御芳志有がたし/\ コレ/\玉織 跡に残つて我にかはり母上に孝行有 戦場へ連
行事は叶はぬと宣へば 姫はわつと泣出し 年月待た夫婦の盃 かはす間もなくふり捨て
残れとはどうよくな わたしやどこ迄も付て行 邪魔に成なら今爰で おまへの手
にかけ殺してたべ なんぼうでも離れはせぬと 鞍に取付鐙にすがり歎したふぞいぢらし
き イヤ未練なりそこ放されよと あせり給へはみだい所 ノフ敦盛 一門の人々も皆妻


19
や子を具し給へは大事ない 連て出陣/\と 聞より姫は有がた涙 母の方を伏拝暇
乞さへあら駒の 手綱に引添いさみ立 女房達も取々にお見立申せば敦盛卿時刻
移ると鞭ふり上 然らば母上もふおさらば ヲゝさらば さらば/\の別れの声も母の耳には
きつと立 駒のいなゝき轡の音あをり立てぞ打せらる 跡見送ちて藤の方こらへ
/\し満涙 一度にわつと声を上どうど ひれふし給ふにぞ 女房達走り寄いかゞ渡らせ
給ふぞと 様々いたはり参らすれば みだいは涙の顔を上 悲しい物は浮世の義理 敦盛
斗此母が臆病に育てし故 軍にも得立ぬとさげしみが口おしさ 討死にやる母が思ひ

十五や六の小腕といひ 稚い時から舞楽を好き 軍の事はしらぬあの子 つい殺さるゝ
は知た事 鎧兜を着て出たのが千騎万騎を討取て ぶん取高名したも同然 わけ
てかはいや玉織が 歌の会か香きゝに行やうに跡を追 いた心根がいぢらしい やるまいと思ひし
が夫婦と成たしるしには 一夜の枕もかはさせたく 二つには敦盛が妹背の縁にひかされ
て 軍をまどめていかるなば一日でも討死の 便りを遅ふ聞ふかと はかない事を心の頼
親の因果と斗にて 身を投ふして泣給ふ 槙の尾裏葉染衣も めい/\夫の行衛
迄 思ひくらべて一時に又もや袖をしぼりける 歎きの耳を驚かすえい/\声に人々は すはや


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敵こそ入たれとみだいを奥へすゝめやり 通路の鈴の綱引ちぎり てん手にたすきに
かけ置たる 長刀太刀小太刀をかまへ 恐れげもなく待かけしは 遉名におふ平内左衛門
越中かづさ妻女とは いはねどしれてかい/\゛しく 時もあらせず入来るは平山が郎等成田の
五郎 大勢引具し大音上 ヤア経盛はいづくに有 主人平山の武者所末重 時忠卿と相談有
玉織姫を取戻し 他人と成て津根守一家 討亡ぼせとの仰を受成田五郎向ふたり 急ぎ
玉織姫を渡し覚悟せよと罵れば ヤア推参なる小二才め 敦盛卿の廉中に
定まつた姫君様 武者所でもむしやくしやでもけもない/\やる事ならぬ 長居せばめに

物見せん早く帰れと呼はつたり ヤア延過たげんさいめ かたつぱし打殺せと 下知に随ふ
けらい共抜連/\切てかゝれば 心得多勢を相手にしてひるまずさらず三人が蜘手かくな
は十文字 或は大げさ車切太刀長刀の稲妻に こりや叶はぬといふやいな主もけらいも
われ一に 表をさして逃出るをのがさじやらじと「追て行 跡にみだいはこれのふ/\長追無用
あぶないと あせりながらも油断なく 一間に錺し弓と矢つがひ 立出給ふ折も折 取てかへす
成田の五郎かけ向ふ出合頭切て放せばあやまたず 胸板はつしと射ぬかれどうと倒
れて死たりは 云合せたることく也 追々帰る女房達此体を見てお手がら/\あはれ成


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田が身の果とどよめく所へ又むら/\ 討もらされの家来共主人の敵と込入を
イヤ面倒なと三人がまくり立たる太刀先に 刃向ふ者も嵐の木の葉ちり/\ばつと
逃ちつたり 女房達声々に サア/\申みだい様 此浦舩に乗て八嶋へ渡り殿様に 尋
逢せ奉らん 又も敵のこぬ内にいさゝせ給へといさみ立すゝめ申せどつまや子の 別れ
思へば便なく足も もつるゝ藤の方 涙に袖を染衣が いさんで見せる心は裏葉 げに
武士(ものゝふ)の女房に敵も舌を槙の尾とふり 返つたる女武者みたり四人が打連てあゆめど
跡へ引戻す 浜の真砂路つきせぬ思ひ通ふ 千鳥の浦伝ひ船場の 磯へと急ぎ行