仮想空間

趣味の変体仮名

一谷嫩軍記 第二

 

読んだ本 https://archive.waseda.jp/archive/index.html
     ニ10-01008

 


21(左頁)
   第二
酒極る刻(とき)は乱る 楽しみ極る時は悲しむとかや 廿余年の栄華に夢跡なく覚
て都をひらき 平家の一門楯籠る 須磨の内裏の要害所は海上はけはしき
鵯越 追手は生田搦手は一の谷」の山手より 浪打際迄柵ゆひ廻し 赤籏風に
吹靡かせ 参議経盛の末子無官の太夫敦盛 父に代て陣所をかため事厳
重に見へにけり 頃は弥生の初つかた 月さへ入てくらき夜に熊谷か一子小次郎直家
先がけて初陣の高名を顕はさんと出立姿は沢瀉を 一しほ摺たる直垂に小桜縅の


22
児(ちご)鎧 猪首に着なす星兜 星の光りに只一騎心は剛の武者草鞋足に任せて
はやりをの 山道岩角嫌ひなく 一の谷の西の木戸陣門に走つき 一息ついで四方をな
がめ ハツア嬉しや我より一番に先かけする者もなし 跡より人のつゞかぬ中切入んとかけ廻れど
乱杭さかもぎ隙間なく厳しく戸ざす陣所の門 いかゝせんと見廻す内 悠かの奥
に管弦の音 夜は深更に及んだり 折節山路に風もやみ海上も波しづまれば ぎが
くのしらべ哀げにさも面白く聞へける 小次郎は思はずも心耳をすまし聞とれて アツア実にも上
臈都人は 情もふかく心もやさしと父母の物語 今こど思ひ合せたり かゝる乱れの世の中

に 弓矢さけびの音はなく糸竹の曲をしらべ詩歌管弦を催さる ハア床しさよ いか
なれば我々は 邪見の田舎に生れ出鎧兜弓矢を取かくやんごとなき人々と敵として立
向ひ 修羅の釼をとぐ事は 浅間さよと斗にて覚へず涙をながしたる まだうら若き小
次郎が 身の程々を汲分けて感ずる心ぞしほらしき 後ろの方に蹄の音 誰なるらんと窺ふ
内 平山の武者所馬上ゆゝしくかけ来り 小次郎が顔見るよりも 敵か味方かいぶかしく何者成
ぞと声かくれば 小次郎もすかし見て ヤア末重殿かさいふ和殿か コハ小次郎かと馬よりおり
立 フウ我より先へ来る者はよもあらじと思ひしに ホゝ心がけ神妙/\外の人なら平山が先陣


23
を争ふて一番に乗入んが 初陣の健気さに先陣を汝に譲る 気遣なしに切入
/\ エゝなふ平山殿 あの管弦の音御聞なされ 扨も雲の上人は又やさしさが違ひます
の イヤサ夫を和殿は得知るまい 昔諸葛孔明が司馬仲達に押寄られ栓方つき 櫓にて
香を炊て悠々と琴弾て居るを見て 謀もあらんかと我智恵に迷ふて仲逹は逃しと
聞 アレあの管弦も其通り 何怪しむ事はない早かけ入て高名せよ 但和殿が醜(おそろし)くは某
が先陣せうか何と/\と気を持され 血気にはやる小次郎直家 木戸口に走り寄り門打たゝ
き大音上 敵の陣へ物申さん 武蔵国の住人しの党の籏頭熊谷次郎直実が一子同

苗小次郎直家先陣に向ふたり 平家方に名有る人々出あふて勝負有れと高らかに
呼はれば 門内も騒立 すはや敵の寄たるぞ 出向ふて討取れと 木戸押ひらけば小次郎は太刀抜
かざしかけ入を ソレ遁すなと軍兵共俄にさはぐ鯨波 太刀音人声かまひすし 平山いかゞとためら
ふ所へ 熊谷次郎直実我子の先陣心にてつし足を空にかけ来り ヤア平山殿なぜ伜小次郎
見給はずやと尋を得ずされば/\ 最前是へ見へし故小次郎に色々段々 あの大勢の敵の
中へ一騎打は叶はぬぞや ひらによしに召れ後詰を待ての事がよかろといろ/\にいさめても
はやり切たる若者無二無三に切込れしと聞より直実髪逆立 子を失ひし獅子


24
の勢ひ敵の陣へかけ入たり 爰やかしこの鬨の声に平山独りえみ ヤア思ふたつぼ/\
親子共に袋の鼠今の間に討れおろ 日頃からあの熊谷めと六弥太めが出頭を ?い(にくい)
/\と思ふて居たに エゝ時節も有ば有る物 手を濡らさず風の神よりよい敵 其上親子も
剛の者 死物狂ひと働かばよつぽど敵もなやましかろ あらこなしさせ討死さし 其跡へし
かくれば高名手がらは思ひの儘うまいぞ/\ /\とぞく/\いさみ悦ぶ所へ木戸口にあまた
の人声 スハ敵ぞと身かまへし窺ひ居るもくらまぎれ 熊谷次郎直実我子を
小脇にひんだかへ陣門をすつとかけ出 ノフ平山殿おはするか 伜小次郎手を負たれば養

生加へに陣所へ送らん お手かがら有れと云捨て飛がごとくに急ぎ行 平山案に相違して
油断ならずと馬引よせ 打乗間もなく門内よりあまたの軍兵抜つれて 我討留ん
とかけ出れば心得たりと抜合せ 受つながしつ多勢を相手 火花をちらしいどむ内 無官の
太夫敦盛は さはやかに六具をかため駒をすゝめて乗出し 平山を見るよりも まつし
くらに打寄給へはさしつたりと渡り合ふ しばしはさらへ打合しが 先を取れし武者所 殊に多勢
に取まかれ 臆病神の誘ひてや 駒の頭を引かへし行先しらず逃出せば ヤアきたなし
返せと声をかけいづく迄もとあをり立跡を したふて「追て行 敦盛様ア 太夫様いのふ


25
此くらいのに只お一人 あぶないはいのふお帰りと いへどあてども波ちかき 礒ばたをうろ/\と袖
は涙の玉織姫 夫を尋朧夜に心細身の一腰かい込 あなたへ走りこなたへ迷ひ すま
の浦辺をそこよ 爰よと尋 さまよひ給ひけり 早しのゝめに人顔も ほのかに見へし山
道より平山の武者所 漸逃のびすまの浦 駒の足を休めんと暫く 息をつぐ中に玉織
姫と見るよりも やがて馬より飛でおりつか/\と立寄て コレお娘 テモよい所で出合まし
た いつぞや京で見初めてから 目の先にちらつくやうで 起きてもねても忘れず 思ひ余
つてそ様の親御時忠殿へいふたれば やらふと有を幸に迎ひにやつた其跡でも アゝ木娘なら

じゆつながろ マアねてからどふしてかふしてと ほんに/\どこもかも木のやうに成て待てい
たに 迎にいた玄番を殺しよう待ほふけにめさつたなふ サア乗物のかはり此馬に乗せ連
ていんで女房にすると 引立れはふりはなし エゝあたいやらしい 親が赦そがどうせうが 敦盛
様とは二世の約束 かういふ内にも御行衛を尋逢て死なば一所 邪魔しやんなとかけ行を
ひんだかへ ムゝ敦盛を尋るのか コレなんぼ尋ても敦盛の行衛 水の底迄有所はしれ
ぬ そりやなぜに ヲゝ敦盛はたつた今我手にかけ討て仕廻ふたヤアなんと 敦盛様を討
たとや ハアはつと斗にどうどふし 人目もわかず声を上歎 しづませ給ひしが 夫の敵と


26
身がまへし切付る 腕首掴んでヤアこいつ手向ひか モウ了簡ならぬといふ所をいはぬ ても
此手のやはらかさしんじやうな事はいな モどふも/\エゝ武者震ひのする程どふもならぬ
コレ悪い合点しや とんと心を入かへおれに随ふ気にならしやれ 女房に持てかはいがる サゝどふか/\と
猫なで声 姫はいかりの涙まじり コリヤ世が世ならそちが様なむくつけな侍は傍邉(あたりほとり)へ
も寄付ぬに 随へのなびけのとは穢はしいいまはしい エゝ腹立やと又切付る 腕首捻じ
上取ておさへ サア女房に成かならぬか いやなら殺すが何と/\と 太刀抜持て傍若無人
ヲゝ殺さば殺せ畜生め エゝ誰ぞ強い人が来て こいつを切てくれぬかともだへ 給ふぞ

いたはしし 強気の平山むつとせき上 ヤアにつくい女め なびかぬ上に色々の雑言恥面かゝされ
堪忍ならず 生け置て人の花と詠さすもむやくしい 思ひ知れと持たる刀胸板ぐつと突通
せば あつと一声苦しむ折から 後ろの方に鯨波 すは又我を追くるやと 駒を引寄せ飛乗
て逸散に其場はるかに「落失けれ 去程に 御舩を 始て 一門皆々舟にうかめは
乗おくれじと汀に打寄すれば御座船も兵舩も 遥かにのび給ふ 無官の太夫敦盛
は道にて敵を見失ひ 御座舟に馳せ付て 父経盛に身の上を告しらす事有と 須
磨の磯辺へ出られしが 舩一艘も有ざれば詮方波に駒を乗入沖の方へぞ打せ


27
給ふ かゝりける所に後ろより 熊谷次郎直実 ヲゝイ/\と声をかけ 駒をはやめ追かけ来
ヤアそれへうたせ給ふは平家の大将軍と見奉る まさなふも敵にうしろを見せ給ふ
か引返して勝負あれ 斯く申某は 武蔵国の住人熊谷次郎直実見参せん返
させ給へと 扇を上て指招き暫し/\と呼はつたり 敵に声をかけられて何か猶予の有
べきぞ 敦盛駒を引返せば 熊谷もすゝみ寄り 互に打物抜きかさし 朝日にかゝやく
釼の稲妻かけ寄り かけよせてう/\/\ てふの羽がへし諸鐙 駒の足並かつし/\かしこは須
磨の浦風に鎧の袖はひら/\/\ むれいる千鳥村千鳥むら/\ばつと 引汐に寄せては

かへり 返りては又打かくる虚々実々 勝負も果し有ざれば いそふれ組んと敦盛は打
物かゝりと投給へば コハしほらしと熊谷も太刀投捨て駒を寄 馬上ながらむづと組 えい
/\/\の声の内 互に鐙を踏はづし両馬が間にどうど落 すはやと見る間に熊谷
は敦盛を取ておさへ かく御運の極る上は 御名を名乗り直実が高名誉れを顕はし給へ 又
今生に何事にても思ひ残す御事あらば 必達し参らせん 仰置れ候へと懇に申にぞ 敦
盛御声さはやかに ヲゝやさしき志敵ながら遖勇士 かく情有武士の手にかゝり死せん
事生前の面目 戦場に赴くより 家を忘れ身を忘れ 兼てなき身と知るゆへに 思ひ


28
置く事 さらになし 去ながら忘れがたきは父母の恩 我討れしと聞給はゝ嘸御歎思ひや
る せめて心を慰む為 討れし跡にて我死骸 必父へ送り給はれかし 我こそ参議経
盛野末子 無官太夫敦盛と 名乗給ひしいたはしさ 木石ならぬ熊谷も見るめ涙
にくれけるが 何思ひけん引起し鎧の塵を打はらひ/\ 此君一人助し迚勝軍に負けも
せまし 折節外に人もなし 一先爰を落給へ 早う/\と云捨て立別れんとする所に 後
の山より武者所数多の軍兵 ヤア/\熊谷 平家方の大将を組敷ながら助るは二
心に紛れなし きやつめ共に遁すなと声々に罵るにぞ 熊谷ははつと斗いかゞはせん

と黙然たり 敦盛卿しとやかに 迚も遁れぬ平家の運命 爰を助り行く先にて
下主下郎の手にかゝり死恥を見せんより早く御身か手にかけて 人の疑ひはらされよ
と 西に向て手を合せ御目をとぢて待給へば いたはしながら熊谷は御後に立廻り 弥
陀の利釼と心に唱名ふり上は上ながら玉の様なる御粧ひ 情なやむざんやと 胸も
張裂気おくれに 太刀ふり上し手もよはり 思ひにかきくれ討兼て歎に時も移る
にぞ アゝおくれしか熊谷 早々首を討れよと 捻向給ふ御顔を見るに目もくれ心きへ
伜小次郎直家と申者てうど君の年恰好 今朝軍の先かけして薄手少将負


29
たる故 陣屋に残し置たるさへ心にかゝる親子の中 それを思ヘば今爰で討奉らば嘸や
御父経盛卿の 歎を思ひ過されてと さしもに猛き武士も そゞろ涙にくれいたる アゝ
愚や直実 悪人の友を捨 善人の敵を招けとは此事 早首討てなき跡の回向を頼む
さもなくば 生害せんとすゝめられアゝ是非もなしとつつ立上り 順縁逆縁供に菩提
未来は必一蓮托生なむあみだ仏 南無あみだ仏 首は前にぞ落にけり 人の見るめも
恥しと御首をかき抱き 曇し声をはり上て 平家の方に隠れなき無官の太夫敦盛
を 熊谷次郎直実討取たると呼はるにぞ 礒に臥たる玉織姫絶入し気も一筋に

夫をしたふ念力の耳に入りしかむつくと起 ノウしばし待てたべ敦盛様を討たとは いかなる
人かノフうらめしやせめて名残に御顔を 一目見せてといふ声も深手によはる息づかひ 見る
より熊谷御首携あゆみ寄 敦盛をしたひ給ふはいか成る人と尋けれは 今はの苦しきこ
はねにて 我こそは敦盛の妻と定まる玉織姫 お首はどこに エゝもふ目が見へぬと撫
廻せば ムゝ何お目が見へぬとや ヲゝいとしや/\ 御首はコレ爰に/\と手に渡せば わつと泣々し
がみ付 膝にのせ抱しめて 消入 絶入歎しが ノフこれ敦盛様 アはかない姿に成給ふなふ
陣屋を出させ給ひしより御跡したひ方々へと 尋る中に源氏の武士 平山の武者所


30
我を見付て無体の恋慕だまし討んも女業 此ごとく手にかゝり二人が二人で悲しいさい
ご せめて別れに御顔が 見て死たいと思へ共 深手に心が引入て 目さへ見へぬか悲しやと 又御
首を撫さすり 宵の管弦の笛の時 後にと有しお詞が 今生後生の筐かや 此世の縁
こそ薄く共来世では末ながう 添とげてたべ我つまと顔にあて身に添て 思ひの
限り声限り なくねはすまの浦千鳥涙にひたす袖の海 引汐時と引息のちしご
と見へて絶果たり 熊谷は茫然と どちらを見てもつぼみの花都の春よりしらぬ
身の今魂はあまさがる 鄙に下つてなき跡を とふ人もなき須磨の浦なみ/\な

らぬ人々の成果る身のいたはしやとひたんの涙にくれけるが 是非もなく/\玉織
のなきからを取おさめ 母衣をほそいて敦盛の 御死骸を押つゝみ 揚巻取て引結び 手
綱をたぐり結ひ付る 鞍の塩手やしほ/\と 弓手に御首たづさへて 右に轡の哀げに
檀特山のうき別れ  悉陀太子を送りたる しやのく童子が悲しみも同じ思ひの片手綱
涙ながらに「帰りける 昔より爰も名におふ津の国の 兎原の里に幽なる埴生
の宿に独り居の 林は老の営みに糸針取て人為業(しごと)つゞりさせてう洗濯の 糊かい
物を打盤の 手元も暗き黄昏時 世のうきに いさゝめならぬ身の願ひ 忍びて


31
人につげ櫛の 薩摩守忠度は俊成卿の館より 須磨の陣所へ帰らんと急
きの道も行暮て やどりもがなと爰かしこ あれし軒端もなばら成 ふせやの門に
立寄給ひ 都方より西国へ歌修行の旅の者 案内もしらぬ道に労れ 日も暮た
れば迷惑致す 卒爾ながらお宿の御無心 頼入と有ければ ハアゝいや爰は所の法度
にて人宿は致さね共 我も人も行暮て宿のないはなんぎな物 殊更?(やさ)しき歌
枕 御修行の方と聞ば別案も有まい 宿はせず共マアはいつて たばこでも
参りませと 戸口を明て ハアおまへはどふやら見た様なお方じやが ヲゝそれよ前方都

でお目にかゝつた忠度様でござりますな ムゝそなたは五条の三位に居た 菊の前の
乳母でないか 成程/\ ハテめづらしや お久しや 先こなたへと伴ひて 上座に直し手をつかへ
マア何か指置お尋申ませうは 此度源氏の軍勢 平家を責んと都へ乱れ入に
付 御一門残らず西国へ落させ給ふと承はりましたが お前斗何として今迄都にはござり
ました ホウ其子細は兼てそなたもしる通り 某は俊成卿の和歌の弟子といひ
分てしたしき中なるが 此度師卿撰まれし千載集に 我読み歌を加はりなば 譬敵
の手にかゝりかばねは野山にさらす共 此世の本望敷嶋の道を求しかいならんと


32
思ふ心の一節に 狐川より引返し 俊成卿の館に立越願ひしが かゝる時節に平家の
詠み歌 私に加へん事もいかゞと 息女を以て尋の為源氏方へ送られしが いまだ其沙
汰なき内に 早合戦最中と聞心せかれて立帰る 生田の陣所も程ちかしとは云
ながら 暮に及べば陣門もひらくまじと 此所へ立寄しもふしぎの縁と宣へば さればわたしも
稚なじみの夫が不所存 置去にして行衛知ざる折から 縁を求て俊成様へ乳母
奉公 養い君菊の前様御成人に付お暇申 かゝるべき伜も有やれど 性がわるさ
に勘当致し 今独り身の貧楽と応せぬ苦労はござりませぬが 承はればおまへと

菊の前様は どふやら訳の有 ハアゝいや私に御遠慮はない事 夫に付てお咄申す事
も有どこりやおつての事 まあ/\遠路のお草臥 あれへござつてお休みと いふも
?しき饗(もてなし)に 貧家の塵も繕はぬ主が案内に打連て 一間にこそは入給ふ まだ
宵ながら かきくもる 空も心もくら紛れ うそ/\窺ふ大男 枳穀の生垣押破り
ぬつとはいつて揚口 納戸へしかける指足ぬき足 忍び込間に主の林 物音聞
付立出て窺ひいる共しすまし顔 袋に入し一腰かい込そろり/\と表の方出ん
とするを コリヤ待と 声かけられて恟りし 逃行所を飛かゝり むしやぶり付て引戻せば


33
遁れんやらじと掴み付 引ぱるはづみに頬かぶり脱げて落たる顔見付 ヤアわりや太五
平じやないか アゝこれ/\母じや人 声高にいはしやんな 盗人を捕て見れば我子也けり
じや 人がしつてはおれよりまあ こなたの外聞が悪いわいの テモ扨も憎やの/\ 儕が様な
性の悪いやつが有ふか ハテ有ばこそ酒も飲ます 色事はこつち任せ 三絃(づる)もちつくりかじるて
や 喧嘩もめつたに前先の見へぬ事はせず 又これ/\もあんまりにじりかすりはくひませ
ぬはいの アゝ慮外ながら万能に達した男 サア其悪い事が積つて親に様々難義をかけ
妹娘を勤奉公にやつたも皆儕故 まだ其上にうはぬりかけ 盗する様に成たは よく

/\因果な生れ性 そしてまあ外でも有事か 親の内へ盗にはいるとは アゝこれ/\
こなたもほんに年に似合ぬまたな事いはしやるわいのコレ他人の所へはいるとの 忽ち此
首がござらぬはいの そこで若見付られても命に気遣ひのない様に 高をくゝつて親
の内へはいつたは 我子ながらもアゝ発明な者じやと誉てはくれいで 何じややらぐど/\/\/\
と 愚痴な事斗いはしやるはいの コレそんな事聞きや気が尽ますと いひつゝ腰の
すつぽんから有あふ茶碗へどぶ/\/\ ソレそれ/\其酒が止まぬから發つて横着な気
も出るはい コイリャやい 見るけがもない此母がな 人為業して漸と其日を送れば いかな


34
/\一銭の貯へも サア有てたまる物かいの ない事はおれがよう知ている じやによつて
銭銀の望はない コレ此一腰がほしさに イヤそりやならぬ といはしやるは エゝ親父殿が残し
置れた重代といふ事か サアそれじやによつてよう切れふと思ふて 盗心は 商せうにも望(もと)
姓(で)はなし 仕覚た職もなければ 人足廻しの茂次兵衛所にかゝつて居て 歩荷(かちに)持しても 儲け
にくい物は銭じや 夫に毎日飯代を払はにやならず 三文でも余つた時はかたかはくんでやつ
てのける 是じや済まぬと思ふからふつと気の付たは 今源平軍の中 うそ/\と見廻つて
拾ひ首でもしたら知行に成まい物でもないと 思ひ付は付ても是も丸腰ではな

らぬ業為(しやうばい) 夫で此刃物を盗とはいふ物の 親の物は子の物じや コリヤ貰ますぞや
アレまだのぶとい事斗 子なればやれどわりや勘当したりや他人じやはい そんなら借ま
す イヤならぬと せり合中へによつとくる 人足廻しの茂次兵衛が ハア太五平爰にか ばさま何
やらせり合しゃるが アゝ扨は勘当の詫を聞まいといふ事か イヤなふ詫所じやござらぬ やつ
ぱり性根が アゝコレ/\直らぬとはいはれまい おれが世話にしてからめつきりとよう成まし
たぞや もふ了簡してやらつしやれ コリヤ太五平 うつかりとしている所じやない 此度の軍
に付て弓持の鑓持のと大分人歩が入故 それ/\の人をせんさくしてやつたが また籏


35
持がたらぬ故そちをやらふと思ふて一遍尋た 外の事より辛道はせいで マア賃がよい
がいかぬかと 聞て林が早気づかひ 賃がようても軍場は命がけ こりやよしにしたらよ
かろ ハテやくたいもない 高が命に気遣ひがあれば 雇れる者は一人もござらぬ あつちの手
人と違ふて 道具持は切合の勝負はせず 若し流矢でもくれば楯の後へちやつと隠
れる ばさまえいか 鑓長刀がひらめげば 人の後へちやつとかゞむ とかくちらほら気転きかし
て立廻れば 怪家する事は微塵もない ほんのこけしらずといふ物じや 其段は此茂
次兵衛が受合 コレ則先様からきた 丈夫な装束見せましよと 風呂敷ほどき

取出すは 雑兵なみの陣笠鎧 見るに太五平ぞくつき出し そりやおれが望所じや
大勢に打交りえい/\わいがいふて見たい ヲゝサそんならちやつと身拵へとてん手に帯と
くぞんざぬぐ じばんの上に黒革の鎧上帯しつかとしめ 一腰さすが侍の小手
脛当も似合たと 陣笠着て コレ太五平 そち先様知まいから 嬶に所をヲツト合点
母者人 ヲゝそんなら太刀の折紙を 添てやらふと納戸より 取出し渡せば忝い/\ コリヤ
怪家すなよ コレ夫もよい/\此形も よいよやな よい よいやな よい/\/\/\よいやな 身
ぶりは練物見るごとく いさみすゝんで「こそは急ぎ行 林は跡を 打ながめ かたはな子がかは


36
ゆひと 有様は不便にござる とにもかくにもお前のお世話 忝ふごさります お礼がてら
に酒(さゝ)一つ進ぜたいが 奥には為業を取ちらして置ました 納戸で成とまいつて下され
イヤそりや御無用 ハアテ買ては進ぜぬ 余所から貰た諸白に 鰯の肴でたつた一つ
是非に/\と無理やりに 納戸へ押やり勝手から 銚子盃持行も 子故のあいそと
しられたり 風さそふ道の時雨も 恋ゆへに 身は濡鷺の菊の前 走付たる一家
の 門の戸けはしく打たゝき 明て/\と宣へば 林は聞付誰じや/\ イヤ大事ない者じや 大
事ない者とは ハテわしじや 菊の前じやはいの サアお姫様とは心得ぬと 庭にかけおり

戸を明てほんにそふじや まあ/\お入遊ばせと いふ中もどふやら気づかひ 見れば付
添人もなし 何として夜に入てお一人お出なされたぞ さればいの忠度様の遊ばした お歌
の事にとやかくと隙取内を待兼て お立有しと聞と早跡をしたふて 出たれ共 心に任
せぬ女の足 爰迄来ても追付れぬ 道はしらず日は暮る そなたの所は前方に
摩耶参りの時よつたを便り 漸尋あたりしが此やういおくれては 忠度様に逢事は
成共/\ そりや又どふして コレ 忠度様は先程お出なされて奥にござる ヤアそれはほん
か嬉しや/\ 早ふ逢たいあはしてたも 成程お逢なされませ じやがコレ 旅草臥で


37
休んでござる けたゝましう起さずと そつとはいつて肌身を付 しつほりと御寝な
れと 粋(すい)な詞におもはゆく ヲゝ乳母とした事がじやら/\と何ぞいの わけもない事
斗といひつゝ片頬い笑の眉 ひらく襖も待兼て いそ/\として入給ふ 折節納戸の暖
簾上 欠(あくび)ましくら立出る茂次兵衛 ばさま いかい雑作でござつた 是は扨わしとした
事が 不作法な亭主ぶり イヤモ手じやくでたへつおさへつ 銚子切引かけたりやくついりかし
てぐつたりと寝てのけた 内に大分用が有 いかい馳走其内きましよと云捨
て とつかは急ぎ立帰る 時も一間 さはがしく何の様子か菊の前 襖をあけの裾けはらし

かけ出給へば林は驚 コレ/\申と引とゞめ 何事が發つた気色をかへてとうかはと お前は
どこへござります 様子おつしやれどふじや/\ サア其様子はいの 忠度様がどうよくな わしに
暇をやるといの ムゝそんならお前のお腹立は尤じやが 高いも低も夫が女房に暇を
やるは よく/\了簡ならぬ筋か 其訳を立なされにや コレ科ないお前に疵が付ぞへ マア
とつくりと気をしづめ思案して御らふじませ イヤ思案迄もない 其訳は立て有ど 互に
思ひ初しより夫よ妻よと云かはし 一生添ふと思ふた物 縁切れてはかた時も何とながら
へ居られふぞ 恨つらみもありそ海一思ひに身をしづめ 底のもくずとなる覚悟 とめず


38
と殺してたもいのふ 死る/\と斗にて 跡は詞も涙なる イヤ/\何ぼそふおつしやつても
乳母はどふも合点がいかぬ 是には定て深い様子が ホウ其子細は忠度が とくと申
聞せんと しづ/\と立出給ひ 天の憎む所天に誅罰すと 入道の不善一門の積悪
によつて かく迄傾く平家の運 此度の戦ひも十が九つ味方の敗軍 某も討死と
覚悟極めし事なれば いつを期してか添果ん 思ひ切て帰られよと いへ共中々聞入ず 陣
所へ伴ひ行んと有 時に忠度女に迷ひ陣中迄供したりと 世の人口にかゝるといひ 死
後迄縁を切たれば 俊成卿の御身の上 平家にしたしき咎を受ついには源氏の仇

と成て亡び給はん悲しさに 態と難面(つれなく)いひ放し 暇をやりしは忠度が 師の厚恩を報ぜん
為 恨と思ひ給ふなよ とはいへもしも運に叶ひ軍に勝ばながらへて 二度逢んも計りがたし
それを頼みに行末の 契りを楽しみ待給へと 口にはいさめ心には 是今生の別れぞと思ひ
廻せばいぢらしく さしも武勇にはり詰し 弓弦の切し心地にているもいられぬ座を
そむけ 脇目に余る御涙つゝみ兼させ給ふにぞ 夫と悟りて菊の前 イヤ/\何ぼ其
様に ふたゝび逢ふの添れるのと 潔うおつしやつても 誠しからぬ身の覚悟 討死としり
ながら何と見捨ていなれうぞ いづくもお供して生きる共死ぬる共 一所でなけりやわしや


39
いや/\ むごいつれないお心と縋り付て泣給へば 林も心根思ひやり 供に袖をしぼりし
が 態といさめの声はげまし 今の程ことを分け 理かいをといて云なさるに 達てお供とおつ
しやれば 親御様へは不孝といひ 殿御の為には猶ならぬ いかに姫ごぜなれば迚其弁へがな
いかいなふ アゝうとましいお子では有と 詞を尽して供々にいさめすかせどいやおふの諾も涙
中々にはなれがたなきふぜいなり 折節風に誘はれて 間近く聞ゆる鯨波 耳を突
抜く鉦太鼓乱調に打立/\ どつとかけくる討手の大将 真先に大音上 平家の落人
薩摩守忠度 此家に忍びおはする由 注進有て慥に聞 召捕ん為梶原平

次景高が向ふたり 譬鬼神なればとて 八方を取かこめば迚も遁れぬ 尋常に縄
かゝられよ 異議に及はゞふん込で搦とる いかに/\と呼はつたり 人々扨は茂次兵衛が
注進せしかと驚けば 忠度ちつ共動じ給はず 二人を奥へ忍ばせて 太刀おつ取てつつ立あ
がり ヤアおこがましや景高 源平互に鎬を削り刃をあらそふ戦場には向はず 我一人
に多勢を以てかこむ卑怯者 汝ごときにやみ/\と縄かゝる忠度ならず いでや手並
を見せんずと 太刀抜放し身繕ひ 景高いらつてソレふんごめ 下知に従ふ雑兵共
門の戸蹴破り一同に かけ入/\かけ向ふ 多勢を屈せぬ早業に真向 立わり


40
車切 四方八方ぱつし/\ なぎ立給へば雑人ばら 皆我一に跡ずさり 忠度いかりの御
声にて うぬらごときに刃物はいらずと 大手をひろげ待給ふ 手並にこりぬ雑
兵共 一人かゝりは叶はしと 大勢一度にどつと寄 引掴では人礫 あやどりなんどを見る
ごとくめさましかりける「次第也 勇力無双の働に さしもの景高気おくれし
逸足出せば雑兵共 叶はじ物といふ波の 立足もなく我先にむら/\ばつと 逃失
けり 相手なければ忠度卿 息を休むる其中も油断ならざる埴生のやどり いかゞし
てふせがんと 心をくばる時しも有 又もよせくる鬨(ときのこえ)貝鉦鼓責太鼓 手に取ごと

く聞ゆれば 忠度はつと心付き 扨こそ景高 大軍を催し重ねて向ふと覚たり
戦場ならば敵の勢 何万騎にてかこむ共打破りかけなやませ 誉を顕はし
見せんず物 軍中に引かへし願ふ詠歌も腰おれの 望も叶はず剰へさしも名高き
忠度が 斯くあばらやに身を忍び 敵にかこまれやみ/\と 生捕れんは後代迄 尸(かばね)
の恥辱名の穢れ 口惜や浅間しやと 拳を握りはがみをなし怒りの涙てる月に
氷(へう)をふらすがごとくにていたはしくも又道理なり 透もあらせず表の方 寄せくる軍
兵むら立つ提燈天地をてらし乱れ入よと見る所に さいはなくして討手の大将 かけえ


41
ぼしに花田の大紋さはやかに 長袴のくゝりをとき悠々然と立向ひ 武蔵国の住人
岡部の六弥太忠澄 忠度卿に見参と しづ/\と打通り傍近く慎で 此度源平
両家の軍は 私ならぬ院宣を蒙り 範頼義経罷向へば 両陣互にはれ勝負
潔き軍はせずして 抜がけせし景高が卑怯の振廻 聞に忍びず此六弥太が参りしは
義経の厳命 其子細 先達て俊成卿へお頼有し御詠歌の内 さゝ波や しがの
都はあれにしを 昔ながらの山桜かな 右の御歌千載集に入しかど 勅勤有御身なれば
名は憚りて読み人しらずと成趣則集に入たる印 此短冊を御読に入よと 山桜の流

枝に結び付けたる以前の短冊うや/\敷指出せば 忠度につこと打笑給ひ 我詠歌を
我筆の 願ひも仇花ならぬ印 御芳志の山桜 ハアゝ忝しと押いたゞき 敵味方と隔
つれば打捨置るべかつしを 思ひ寄ざる義経の仁心にて 歌人の数に加はり 和歌の誉
を残す事 生涯の本望死ても忘れぬ悦びぞや 迚も遁れぬ身の不運 死べき
時に死されば 死に勝る恥有と 名もなき愚人の手にかゝり 見ぐるしきさいごもせんか
と 後悔せし折に幸武勇の聞へ隠れなき 六弥太に生捕られば忠度が恥辱はあ
らじ サア よつて縄かけられよと 御手を廻し待給へば コハ心得ぬ御仰 某君の討手に


42
は参らず 敵味方の勝負は戦場 其時は両家のはれ業容赦はないぞ 互に時
の運に任せん 但梶原がごときよはみを見かけ ぬけがけして手からにせんと 思ふ様な六
弥太と思召るゝか ハゝゝはつとあざ笑へば 忠度卿理にふくし 実に/\是は誤つたる 盛ん
なる時は制し衰ふる時は制せらるゝ理り いかなれば義経といひ汝迄誠有二言心魂
にてつし今さら返す詞もなし 惜からぬ命なれ共明なば陣所へ立帰り はな/\敷き軍
をせん 其時望は御辺が首 忠度卿は我討取 必討れよ おんでもない事 アレ/\八
声の鶏もなく 明る間近しと申せ共 路次の狼藉覚束なし 陣所へ御供

仕らん ソレ/\用意の馬引と 飾り立たるくろの駒 御前に指よする 辞するに及ば
ず忠度卿 立髪掴んでゆらりとめせば 一間の内より菊の前 なふしばしとかけ出
給へば林は押とめ 立身で隠せば岡部の六弥太 夫と悟つて忠度の脱かけ
給ひし上着の袖刀を抜てふつつと切 コレ/\乳母といふに恟り ハテ扨ふしぎな顔せ
まい 惣して老女は嫗といひ 又姥共よぶ 今宵忠度卿のお宿を申せし御ほうひに
是を遣はす それ共 若々敷錦のかた袖年寄が貰て益なしと思はゞ 外にほしがる
方も有へし 是も其人の形見と思へ共 猶なつかしき袖のうつり香といふ歌の心 其


43
方が耳にコレ きくの前 よく心得てお受申せと指出せば コハ冥加なき仕合と
いたゞく右の片袖は 右の腕を落かたの 軍に討死し給ひし 後の哀としられたる 思ひ
の程や涙の為仁義を種の六弥太が 東雲近し急がんと先にすゝんで立か弓
いはぬはいふにやまさる暇乞さへ泣顔に見送る姿ふり返る心の程の詠歌も昔な
からの山桜 落行身にも指かざす流の枝の短冊は 世々に誉を残す種 歎の
種の離れ際 いさめを種と隔つれどはてし涙の悲しみを供になづみて耳をたれ
いなゝく声も哀そふ駒の足取諸手綱引わかれ行暁の空も 名残や惜むらん