仮想空間

趣味の変体仮名

一谷嫩軍記 第四

 

読んだ本 https://archive.waseda.jp/archive/index.html
     ニ10-01008

 


72(左頁)
   第四 道行花の追風
礒千鳥 いく夜寝ざめの物あんじ 二世とかねたる たゞ
のりは はかなくうたれ給ふ共 又鎌倉へとらはれ共 噂とり/\゛
菊の前 心細布胸あはず けふ立そむる旅衣きつゝ なじみを
かさねつる やしなひ君とかしつきの 老女ひとりをつえはしら 名は
有ながら呼なれしうばらの 里を出こして あづまの空へと思ひ
立 心の内こそ はるかなれ足よはづれの 玉ほこに末しら


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浪のむこ川や 昆陽(こや)のゝ池にすむ月も心はくもる片袖
の其移り香も筐かと思ひぞつもる芥川 いつかふしみも 跡
になし 殿御にやがて近江路と 見へ渡りたる風景も心せかれ
て行道はつまさきあがりに石はら 老女は足をいたはりて 申々お姫
様 行く先遠き旅の空御身の労も出やせん マアしばらくと道芝に
立やすらへば菊の前 ヲゝみづからが気のせく儘 跡先見ずに道を急ぎ
年寄たそなたのなんぎ 足がいたみはせぬかやと 互にとふつ

とはれつる しんみなじみの底ふかきにほの浦なみ山々もしけ
りし峯は 八わうじ いそべに見ゆる唐崎の松は扇のかなめ
とやあれこそ しがの山ごへの よき詠ぞと教ゆれば菊
の前打ながめ ノフしがの山とはあれ成か なつかしや忠度様の御
詠歌を 千載集へ父上が撰み入給へ共 勅勤の御身をはゞかり読
人しれずと末の世迄 御名を削りしほいなさを 御歎きの涙にて
濡れし筐の片袖は 忍びあふ夜の添ぶしも君は 左が寝がつ 


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てに 打きせ給ひし口ずさみ 面影のかすめる月ぞやどりける は
るや昔の袖の涙小袖の涙や有し夜の ぬしは雲井に隔りて
昔語りと成給はゞ 此身の果はいかならんと歎きに草の露ぞうく
おなし思ひを押かくし 老女は力つく杖に道を たすけて行さきを
たぐり 寄なん布引山心も関の別れより 伊勢やおはりの海つら
に立波を見ていとゞしく 過にしかたは遠ざかり しらぬ山々里々に
日をかさね夜をかさねほつれし?(つと)に風はとふ濱松過て山坂にかゝり

まりこやおきつなみ 富士のけふりの立のぼり 行衛もしらぬ旅人
の姫ごぜ連れと 悪口に 君とそひねにともしびよせて かゝげて見
れば そふたか/\ いとはづかしや けせばいとしいお顔が見へぬ 是ぞ誠に
恋のやみそふいふたがむりかへ いとむづかしや けせばいとしいお顔が見へぬ
是ぞまことに恋のやみそふいふたがむりかへ むりもわやく
も したがいのつまにふたゝび大いそと 心斗はいそがれて足は
もつるゝ藤沢やえにしの便りほし月夜かまくら にこそ「着にけれ


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栄へぬる平家の一門悉く西海の波に亡び再び栄ゆる源氏の御代 猶長久
の御祈願と靍が岡の八幡宮 新に造営有ければ 日々に威を増す神
詣で賑はふ空も長閑なる 向ふの方よりのつさ/\供人引連醒井(さめがい)兵太 ヤア家
来共 道々もいふ通り主君頼朝公より 平家の余類は根を断て葉を枯せと
の仰によつて 隠れ忍ぶ残党を取誡る身が役目 随分四方に眼をくばり
うさんな者と見るならば 男女に限らず搦めとれ 手柄はそち達ほうびは某
屹度申渡さんとはい/\/\も仰山に社深くぞ入にける 跡に社参の一むれは

徒侍の附き/\も一際目立旅乗物松かげに舁すへて 是は靍が岡八幡宮と申
まして源氏の御代を守りの御神 御拝がてらに風景も御覧なされて然るべう
存ますると 頭(かうべ)をさぐれば乗物より 武士にはあらぬ風俗は九条の町に全盛を 菅
原といふ太夫職 是は/\今都では口利きの牽頭(たいこ)様 喜六様宗助様などゝいふて大がい
あまい若様達は 水銀なしにてん/\から/\ 天上さするからくりの名人様達 それを供
侍にしてほんにマアかはつた趣向ではないかいなァ かう打揃ふていたらば主はきつい機嫌
であろ そしてもふ六弥太様の屋敷は爰からはつい近いげな 三年ぶりて顔見よふ


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かとわしや飛立やうに思ふているはいなァ いか様是は御尤此喜六宗助は日頃旦那の
お気に入 お供をするもお馴染だけ 是からおまへは大名の奥様 訛りちらす女中の中へ
ヲゝしんきわしやいやいなと今迄のせりふではマアぶたいつきが済みませぬ 高が旦那は幕
の内 御一門のお付合などは路考慶子で雲上に万事そこらはちよんの間では付合
なされませと 余所へ通ぜぬ教の詞しつた同士こそすゞしけれ そこらはわしがこんたんして
いる 帯の仕様も此形(なり)も蔵屋敷の振舞でよう見て置た屋敷の風俗 遁
す物じやないはいな おつとよし/\ それはそふじやがかへしぶりのお寝間の段 お労の出ぬ

様に地黄丸でもあがつてしたが必薬酒は御無用と咄半へ家来引連醒井
兵太 ヤア鎌倉に見馴ぬ女の風俗都者に極つた 平家の余類も疑はしい連帰つ
て吟味する ソレ引立いと立かゝれば 傍に二人の牽頭はわな/\ 都者とは御睡方 した
がお尋なされます平家とやらかつけとやら微塵も覚はござりませぬ ヤア偽るまい
/\ 武士に似合ぬがち/\と震ふは曲者 ソレくゝれと二人を投付蹴飛せば 物に馴
たる菅原は騒ぬ色目しとやかに イヤこれ聊爾さんすなお侍 自らは岡部六弥太忠
澄が女房と 聞よりも醒井兵太 スリヤおまへ様には六弥太殿の御内証とな 是は


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/\存ぜぬ事迚慮外千万 拙者義は則六弥太殿の下目付 イヤモウ何が物で
ござります 当時はきゝの六弥太殿へかういふ事が聞へては何さ/\ とにかく是は家来
共が麁相ハテ不調法千万と まじめになれば二人の牽頭 醒井兵太頭が高い ハア
まちつと高い ハア/\と家来も一度に真倒(まっさかさま)額を土にすり付る 其間に菅原目
まぜでしらせ 乗物上させ足早に引添てこそ急ぎ行 跡には一度に顔を上 是は
したり夢ではないかや サ夢じやによつて醒井兵太 皆こい/\と打連て松かげ にこそ
走り行 跡よりしと/\ 二人連 花や楓(もみぢ)と見し夫(つま)の便りを何と菊の前 詞の林打連て

あてども波のかげ遠き宮居を 暫し伏おがみ 何とマア林此様にうか/\とさまよふも
忠度様のお顔が見たさ 須磨の軍の乱れよりどふ成なされた事じややら 此中は打
つゞき夢見の悪さ わしやいかふ気にかゝるはいの お道理/\ そりや此乳母も同じ事 以前
の夫は平家の侍 兄と妹と二人の子の親 様子有て退き去した かはいげもない夫さへ思ひ
出すが女のならひ 娘は都に勤奉公 兄太五平も軍に出ると云ましたが どふ成おつた事
じややら おまへも私も思ひ出す事斗で 夜かなよつぴと泣くらす 長の旅路の御気休
め ちと床几へとすゝめられ涙戻りの身の上咄し 並木のかげに誰やら人 深編笠の


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牢人姿旅の方には醒井兵太様子立聞く家来共 ソレ搦めよと追取まく 林は姫
を後ろにかこひ ヤア聊爾せまいぞ 我々は八幡様へ参詣の者 何故に搦よとは ヤアぬか
すまい 聞た所が忠度の妻菊の前 平家の余類遁れぬ所と林を引退け姫君
に飛かゝるをなふコレ待てととむるを蹴倒し 泣さけぶ菊の前をひんだかへ 既に危き
折からに深編笠の侍が 兵太が利き腕ぐつと捻上蹴飛せば アイタゝゝ ヤア爰なあみ
笠め 大切な科人を召捕役目の妨げひろぐ 先儕から詮議有やつ くゝれよたゝけ
よと立かゝれば 物をもいはず雑兵を宙に掴で天狗の礫 はらり/\と投飛せば

命が大事じや家来共 皆こい/\と云捨て逸散にこそ逃て行 跡に二人は胸押
なで 是は/\どなたかは存ませぬが 危い所へおかげ故 コレおまへもお礼おつしやれと 姫君
供々嬉し泣 手を合すればアゝこれ/\お礼には及ばぬ嘸御難儀 シテ承はれば女中には忠
度殿に嫁の有菊の前とな アゝいや左様ではハテお隠しなされなとつゝと様子承はつた おいとし
や忠度卿には早御果なされたはいの エゝそりやほんかシテ/\様子は 御存ならば聞してたべとそゞ
ろ涙のふるひ声 ヲゝ恟りはお道理/\ さいつ頃すまの浦の合戦に 岡部の六弥太忠
澄に渡り合 右の腕(かいな)を打落され ついにあへなく御さいごと慥に世間の取沙汰


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拙者京都の者なれば兼々和歌の銘人と聞及んだ忠度卿 お咄し申すも他生の縁と
聞内よりも姫君は こは何とせんおいとしや 跡に残りて自らは何楽しみにながらへん なむあみだ
仏と懐剣にて自害と見ゆるをなふコレ待ってと 林がなだめとゞめてもイヤ/\/\はなして殺して
情じやと とゞむる かいも泣なけぶ イヤサこれ女中 死る命を忠度卿の為に捨ふと思ふ心はないか
ムゝ何といはしやんす 過ぎ行給ふ忠度様の為に此命を捨いとは どふしたら又お為に成ませうな
と いふに牢人傍をながめ小声に成 さすがは俊成卿の御息女 雲の上人程有て敵を討
ふといふお心が付かぬかと 云れて姫君涙をはらひ ほんにそふじや悲しいと斗に心が付いて 夫の

修羅の妄執をはらす敵といふは岡部六弥太 林おじやお姫様ござりませと逸散に
かけ行をアゝこれ/\待った/\ 其様にしどけなうてはアゝ敵討心元ない お陰六弥太忠澄といふ
ては武蔵国の大名なれ共 おのれ討たいで置ふかと女心の一念とくとkたまりましたかなと
心さぐれば二人共 ほんにそふじやと懐剣にて互に自身の髻を 切んとすれば押とゞめ
いかにも御心底見へました 未来の夫へ命を捨又の夫は重ねぬといふ切髪 供に付添ひ尼
法師とさまをかへても主人の敵討そふといふ老女の誠 ヲゝ遖見事/\ 縁はなけれど
見捨ぬは武士の情と 矢立取出し洟紙に さら/\さつと 書き認め コレ此通り 敵の方への


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入込やう 御縁あらば重ねて逢ふと立帰れば ハアはつと押いたゞき イヤこれ申お前のお名は
ととふ隙も 松吹風に隔られ 主従二人點き合い立別れてぞ「急ぎ行 ナント作蔵
弥嘉内 上方からけふ奥様がござるといふが 旦那六弥太様の奥様か 但は隠居楽人
斎様の奥様かいなァ こなやつしらないな/\ けふござる奥様といふはな 旦那様が上方でこつて
りと談じやつたお色だはやい 何お色とは紅の事ではないかい イヤこいつけふがる兵では有 色と
いふはな都九条で菅原といふお傾城の事たいやい スリヤあの十文字とやらふんである
く 国太夫節の親方殿か ヲイやい 旦那六弥太様の奥様に成に けふ此内へぬめり

込のさ なんとうまい事ではないか イヤサ夫はそふと 合点のいかないは是の隠居様 御子
息の六弥太様とは 同年くらいの親子の中 おらは新参者で様子はしらないが ありや
マア何なる事たいな おらもすつきり合点がいかない 親御様じやといふてあの様に大事にさつ
しやるは 若しは旦那の念者では有まいか したが念者を兄分といふは聞たが 親分とはあた
らしいと 仇口々の折からに 門前賑はふ遠見のしらせ上方の奥様只今是へ御入と
いふもとつかは奥よりも待儲けの女中方 着連れ打連れ出迎へは 早舁入るる乗物に
牽頭末社を供廻り 思ひ付なる出立は しろとめかざる風情なり 中にも小槙は


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局役 しとやかに手をつかへ 是は/\長の御道中御機嫌宜しうおめでたいお国入 いざマア
お入と乗物の 戸を明お手を取々に かしづかれつゝ 立出る姿は武家をやつせ共 昔
を残す詞くせ 是は/\皆様いかいお取持 どれがどれやらうい/\しい 万事は皆を
頼ぞへ なんと喜六主(す)宗助主と いはれてシツシ はてこれ申 いひえいなァ わしや聞へぬは
むつ様 久しぶりの女房の顔 ヤレ菅原か久しや/\と出さんしそふな所を 昔にかはらぬお
もはせぶりか わしや逢たら一通きつと一番云ねばならぬと 長ふすはるも日頃のなら
はせ 傍には手に汗コレシツシにちやつと居直り ほんにマアわしとした事が始ての付

合になめたらしいヲゝ笑止と袖覆ふさへ里めかし何と皆見やつたか都女中はわ
さ/\とかぶき芝居を見る様な風俗ほんいんそれ/\ いや申奥様 殿様は今日叶
はぬ御用で外へ御出お帰りも追付 まあ夫迄はお労休め お湯でもめして緩
りつと 御祝言の御用意遊ばせ 皆のお衆は勝手で休息 いざゝせ給へと皆々は
奥と口々に立別れ 打連てこそ入にけれ 程なく又もしらせの侍 奥方様都より
只今お入と 詞の下より嬪局 こりやまあどふじや どちらぞが狐ではないか 是非
一人は紛れ者に極つた どふやら奥にござるのが ヲゝ笑止の詞付尻声がなかつた


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化かされまいぞ合点かと 睫をぬらす其隙に 日かさにつるゝ八もんじ 梅や 桜と見
ゆれ共 散でかひなき袖の露 やつせばやつす菊の前 昔は雲井の月にめで
けふは浮身を川竹の 流れに染るはで衣装 林は花車を身にかへて赤前垂
の紅も 顔の紅葉と照添て余所目を包む里詞 コレ申太夫さん 爰が日頃
逢たがらんしたむつ様のおやしき けふといふけふ天下晴ての奥様遠慮はない 必気
をしつかりと持しやんせと いへどしほれし菊の前 我のみ世をばかこち顔 別れにし
其日斗は廻りきて 又も返らぬ人ぞ恋しきと 上東門院の女房伊勢太輔(たゆふ)の

歌の心 夕部の雲朝の雨と誓し事も楚王の夢はかない浮世あぢきなの
此身の上と斗にて思はず 結ぶ露時雨 アゝこれ/\それはまあ何いはしやんす あられ
もない事ばつかり エゝ聞へた 昔の勤めを隠そふと 堂上めかしてヲゝ虚云(うそ) 都九条の
お傾城菅原といふ事は 何ぼ隠しても知れて有 皆の女中は都勝り 粋(すい)のうは
もりナア皆様 宜しう万事お指図と いふ間あらせず先走り旦那お帰り/\と しら
せに嬪口を揃へ サアもふ楽じや一時に一人来た嫁御の正体本阿弥様にかけたらば
ついくら紛れにさぐつてもはいり付た門口は心覚へが有そふな物と 云捨奥へ入跡へ岡部


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六弥太忠澄は威勢も高き広書院 しづ/\帰る廊下口二人は見るより ヤアあの
こなたはきのふ逢た深編笠の侍 いか様日外(いつぞや)見しり有六弥太殿ににた顔と 思へど
かはりし形恰好 ふしぎに有たが其こなたが いかにも横目の忍び姿 岡部六弥太忠澄
さ スリヤ願ふ所夫の敵と 手早く懐剣突かくる 二人の利き腕しつかとおさへ コリヤサ/\
まだ祝言もせぬ中から 悋気いさかひ早い/\ ナ合点か 此六弥太を付ねらふ付けつ廻し
つ恋慕ふ 其女房を合点で呼迎へたは互の心底 年月疎遠に打過た 恨もあ
らふ憎からふ道理じや ハテサ憎い/\はかはいの裏よ ハゝゝゝ嬉しい/\ したが走るを妾(せう)と云娶るを

妻といふ 婚儀は人の大礼なれば表立て祝言を取結ぶは暮六つ 寝物語は
浮世の夢老女 一間に伴ひ用意をしめされ 身は大切な親人へ今日の御機嫌
窺ひ マア夫迄はおいきやれさ スリヤ暮六つ限りに婚礼の用意 忠澄殿 忠澄様待て
おりますぞへ ハテ扨せく事はないおいきやれと 詞の目釘打しめし 心隔ての襖と襖引
別れてぞ「入にける さほ鹿の 妻待兼て菅原は そろ/\出る奥の間は 音も
耳なれし里の歌 誠なれ共 あはねばうそよ しんき心のやるせなや アノ胡弓三絃(しやみせん)は
御隠居様をいさめの御酒宴 ほんに歌のふしではある 何ぼ六弥太様の心はかはるま


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いと思ふて居れど 三とせ隔て逢迄はわしやどふも心が済まぬ 逢たらどふしてこふ
してと案じも同じ菊の前 暮六つ迄もけしなく だまして討ん下心 忍び出たる背(せな)
と背 べつたり行合アゝこはと 飛のく二人が顔しつ/\ ハゝおまへはどなたじやへ ハイわしは私じや
が マアそふおつしやるおまへはどなたじやへと 問かけられて菊の前 わしはアノ慮外ながら 岡
部六弥太が奥様都九条の菅原といふしやの果でござんすと 聞て菅原ホゝゝゝ
こりやおかしい其菅原といふ傾城の御本家様をとらまへて 菅原といふしやの
果じやのとはテモきつい間違ひやう ムゝ嬪衆か但又家中衆のお内儀様か 近付に

成ましよと上から出れば菊の前 イヤ/\和歌三神を証拠其菅原はわしじやはい
な イヤおれが事じや イヤ/\わしじや/\/\と聞て菅原あきれ果 コリヤまあ何のこつちや ムゝウ聞
へた扨は大事の夫を吸取ふとする鼬の様な女ゴじやな そしてまああた憎てらしい
あの美くしい器量はいの サア/\こりやもふ気疎いかんしゃくが發つてきたはいな ムゝよい
/\ 互にいふては水かけ論 深い浅いは夫が証拠 たとへ年号はかはる共いかな/\かはら
ぬ中 直々逢て吟味する サゝおじやいこふと立上れば ヤア/\両人待て/\と声かけて
ゆぐぎ出たる此家の隠居名も身の上も楽人斎 ほうろく頭巾大袍(うちぎ)左右に胡


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弓と三絃を提げ二人を尻目にかけ アゝ紛はしき二人の菅原 詮議の道具は此胡
弓と三絃 誠や傾城白拍子は 酒色に流れて淫声を顕はす 二人の内どち
らでも 誠傾城菅原に極まれば 祝言さするは此親のこふけ サア弾け聞ふと
褥の上 脇息取て打もたれ サア両人 ハテしぶとい何隙どると手詰の場所 ヤア
親人 音曲お聞なさるゝに及ばず 其一人の紛れ者引出してお目にかけんと 立出る六
弥太を取て引よせ ヤア小ざかしい 親をもどく不孝者見るも中々いま/\しいと 脇息    
取てつけ打 なふコレ待てと菅原と供に暫く菊の前 わなゝきふるへば六弥太

が 衿がみ取て引よする ともに若木の親子の中様子有げに見へにける サア弾け女
ヤアきよろ/\と何うぢつくとせんかたも 涙かた手に連れ弾の 心々やかへるらん身
をすつる里あればこそ浮瀬の あるを頼にうき勤 ヤアもづよいひくな 詮議は
済だ 九条の町の傾城菅原といふは 此女に極つたと思ひがけなき菊の前
アイ/\おまへはきつい調子聞 とてもの事に祝言をと いそ/\すれば気づかひすな モウ
暮六つ程も有まい 勝手へ入て用意/\ アゝ忝いコレこちの人必詞違へまいと
敵討ふの気ははり弓アゝこれ/\と菅原が とむるもよそに走り入 やらじとかけ入る


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菅原を引とゞめて楽人斎 我上方に有し時 見ぬ恋風にあこがれし 九条の里
の傾城菅原 けふといふけふめぐり逢もふしぎの因縁 世伜六弥太此女に暇を
やれ エゝそれは 夫レはとは得心せぬな サア/\/\どふじやとせり詰られて返答も呆れ果てて
ぞ見へにける イヤこれそこな若い親仁様 こなさんは/\/\ あちらをほんの菅原じやと
いふて 今又私を菅原じやの イヤ見ぬ恋に風ひいたのと がつくりそつくりな物の云
やう 若し又六弥太様がさらんしたらどうせうと思はんす ヲゝ女房にして抱てねる エゝ
ムゝゝ今奥へやつたはな ありや薩摩守忠度が云かはした菊の前さ 伜六弥太

は夫の敵祝言といふは偽り 女に涙もろい倅のうんつく 敵を討れるアリヤ約束
じややいと 聞より菅原狂気のごとく そんならあの今の女中様に命をやつ
て 此わしとはどの命で添しやんす 海山こへてはる/\゛と 添にきた女房の身に
も成て見たがよい 余りの事に涙さへ胸に冰(こゞつ)て出ぬはいなとたゝく畳のいひ
がひなき ヤアとても命のねぐさつた六弥太 連添てもいんまに若後家 嫁に
歎きをかけるも不便 コリヤ子より達者な此親仁 思ひこんだる恋の意路 かうといふ
がいふまいがけふの今から身が女房 かうといへやい/\親孝行じやヤイ伜 さり/\暇の


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状をかけ 子は三界の首かせとは 今身の上にしられたと 傍若無人の横車
持余してぞ見へにける 菅原涙打はらひほんにそふじや よその女に見かへる夫
心中立るは大きな愚痴 そんならおれに随ふか エゝ随ふ段か帯といてねて花
やろと立寄ふり そはなる刀抜打に切てかゝるをかいくゞり ヤアこりやちよこざいな
ほで転業とはね飛せば 透間なく又切かくるを真のあてうんと斗に倒るれば
六弥太透さず取て投 注連(しめ)を錺し箱よりも陣笠鎧引出せば見るよりハツト
楽人斎ひるむ所をはつたとねめ付 陣笠鎧両手にさゝけ なんと親人此二色

の笠鎧覚が有ふ見しりるらん 誠や故人の詞にも 用ひられる時は鼠も虎
となるといふ まだも能ある人の身の上 こな天命しらずの匹夫め 今改めて
いふにあらねど 女房菅原が六弥太をづがひなしと思はん面ばれ もとこな
やつは六弥太が籏持の雑兵 所存有て此ごとく 親と敬ひ尊教すれば方
量もなき兼ての我儘 あまつさへ我女房に無体の恋慕 無法非道の
人畜め わるく動けば五体を八つ裂 サアひとつでも動いて見よと鎧をもつ
てさん/\゛に折よ砕けと打なやせば 頭巾はぬげて撥鬢奴興の覚めたる風情


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なり 恥を恥共思はぬ強悪 アヤイこな六弥太しらずめ 今鎌倉で岡部の
六弥太といはれて 栄華に暮すは 誰様が顔じやぞやい わりやおめ/\と忠
度に組しかれたを忘れたな 其時に此郎等 右の腕を切落さずば コリヤ
此首は有まいがな いはゞ手柄は此奴(やつこ)よいは是からばれ次手鎌倉殿の御所へ
いて 六弥太が高名は 此鼻がさしましたと 注進の上武蔵一国我手に
入るが意趣ばらし 待ておれべら坊めと かけ行所を菅原がそふはさせぬと
切付る 六弥太は只たばこの煙さはがぬ太五平菅原を膝の下にしつか

とねぢ付 コリヤまつ此ごとく薩摩守忠度が あの六弥太を下に組敷
首をかゝんとせし所 一間をかけ出菊の前かう切たかと太五平が右の腕を打落し
敵といふは六弥太殿と思ひの外 誠の敵は此太五平 夫の恨をとゞめの刀 お
もひしれと立寄給へば ヤアこれ今暫く待てたべと 起上る太五平は 手負に屈せ
ぬ強気(がいき)の面色 アゝ忝い/\姫君 此奴が念がとゞいて よう切て下さりましたの コリヤ
妹々初霜と 聞て恟り菅原は ムウ初霜といふは私が稚(おさな)名夫を知たこな
様はと 問れて太五平涙をいかめ ヲゝかう斗いふては合点の行ぬは尤 おりや稚


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い時に別れた わが兄の兵之助じやはやいと 聞にいよ/\ふしぎはれず ムゝ其又現
在兄様が此妹に惚たといひ そして何じや姫君様 よう切て下さつたと 覚悟
の様子は合点がいかぬ ヲゝ疑はしいは尤 今さら語るも涙の種 姫君様も聞てたべ
元我親は ヲゝ其訳は此六弥太が推量に違はず 汝が親は平家の大将 三位
中将重衡の家臣 臆病者の名を取し後藤兵衛守長で有ふがなと
聞て太五平ハゝはつと仰天 ア扨々驚入たる忠澄殿の明察 草にも心置
露の やどり定めぬ我生立 御存しられし様子はいかに ヲゝその誰か有 縄付

ひけと詞の下 思ひがけなき乳母の林 見るめいふせき縄目の恥 妹は見るより
ノウ母様かおなつかしやと走り寄 此マア縄目は何故と姫も手負も驚けば イヤ始
終の様子一通り六弥太が云聞さん菊の前もお聞有 さいつ頃都出陣の折から 御
身の父上俊成卿より密の内意 和歌の弟子たる忠度は 一方ならぬ縁もあれば
くれ/\頼と余義なき仰 所に源平生田の合戦 向ふ敵と渡り合互に 馬
を乗はなし念なう下に組敷しが 面ざい見れば見知有忠度卿 扨こそ俊成卿
の御頼は爰ぞと心得 助んと思ひながらも名有敵いかゞはせんとためらふ中 力勝り


90
の忠度卿にはね返されて此六弥太 組しかれしを下郎の汝 思ひがけなく後より
右の腕を切し故 いたはるかひも涙ながら御首討ておこがましう 武門の数に列る内
合点のいかぬは汝が胸中 忠度卿に打かけしは 紛ひもなき源氏方 夫には違ひ詞
のはし/\ 源氏をさみする面魂 ハテ心得ずと思ふより 兼て見置し此頭巾 裏に
正しく書付しは 三位中将重衡の戒名 朝夕いたゞく心の底扨こそしれ者手ばな
されずと思ひ付たる恩ごかし 親と敬ひ是迄に心を付しは其方が 謀叛を押ゆる
情の獄屋 今日是へ両人をぞひき入しは 汝が素性責めさいなんで尋んため

所に思はず其方が儕と名のるはこりや下郎の猿智恵 なんと思ひしつた
かと 始終を聞て太五平は肌骨(きこつ) を貫く吐息の炎 母は涙の顔を上 後藤
兵衛守長殿に 連添有しは廿年(はたとせ)以前 七つと三つのあの子供を 打て離別の
憂難義 妹が乳にて漸と俊成卿へ乳母奉公 妹は傾城あの兄は 有に
あられねわんばく太郎 侍の子といふたらば 猶我儘が募らふかと 勘当して置く
其中に いつぞや太五平我内へ刀を盗にはいあつたを 見付て聞ば軍に出ると いふ
こそ幸高名して 侍の名を顕はせよと 家の系図を折紙と 刀に添て


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たつたるが 返つてかいになつたよな ヲゝいかにも貰ひし其系図 開いて見れば
我親は 後藤兵衛守長アゝ恥しからぬ平家の侍 おのれ何でも源氏に紛
れ込 雑兵と成裏切し 親守長に対面せんと いさみに勇む一の谷 後藤兵
衛守長は 主君中将重衡をふり捨て逃さりし 臆病者畜生武士と軍
中の取ざた なむ三宝我親は 不覚の悪名取しかと 胸に盤石 五臓に石火
矢 なんぼう無念に有けるが よし/\源氏の侍の首取て高名し親子の恥を
雪がんと 心を砕く生田の戦場 夕暮空の ほのぐらく 浪打際にひつ組

で 上に成たは慥に貴殿 シヤ六弥太殿と思ふより 右の腕を只一討 よく/\
見ればこはいかに 薩摩守忠度卿 アゝしなしたりな よし其場にて腹切んとは
思ひしかど イヤ/\忠義を顕はす時節もと 味方頼にて御首を やみ/\こな
たに討たしたる 無念といふも我誤り かくけどられし上からは 我一分の我(が)を立
ても 迚も詮なき平家の御運 せめてはいらさる此命姫君に討れんと 殺さ
れに出た手柄咄し エゝおでかしなされた姫君様 忠度卿の右の腕 切た刀で切ら
るゝも 此世の因果をはたす道理 思へば/\不運なる我身の上と悔み泣き 扨はと驚く


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人々の中に妹は傍に有る 刀取上涙ながら 顔見ぬ父の筐かと 思へばいとゞ胸
せまりくどき歎ば太五平は 妹か持たる抜き刀 手を持添てめての脇腹 ぐつ
とつつこむ覚悟の最期 こは/\いかに何故と親子は心取乱せば アゝさはぐまい
/\と押しづめ 平家方の此兄を 切たは妹が源氏へ忠義 此一刀の手柄
にめんじ 申六弥太殿 必身捨てやつて下さりますな たつたふたりのはし折
かゞみ わたしやあいつがふびんにござる 成人して名は菅原と聞たを便り 上
方へ登つた次手に九条の町 なつかしさに逢ふと思へど 身はかくすけのさびた形

全盛かざる妹が恥と 三筋の町の格子の先 よいよ鹿子様 ヨウつりひ様と
ぞめきに紛れて名をとへば 客に揚られ柏やの 二階の障子に影法師 三
絃取てなげぶしの 声を聞たがコリヤ兄弟の名案 其時の音色も声も有
々と おりや耳の底にしみ付いて 今に忘れぬ兄弟のよしみ それ故最前三絃
で 慥に妹と見極めても 平家に縁有そちなれば よもや添ては下さる
まじと 現在に女房になれの惚たのと 心に思はぬ悪党も かくはか
らはん心の内 推量してたべ母者人 エゝついに一日孝行せず 先だつ不孝赦して


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下され せめて未来は勘当/\をと跡いひ兼る いぢらしさ母は取分け妹も
正体涙に菊の前 我とても恩と情にからまされ 敵さへなき
身の上は 兎にもかくにも我つまの 甲斐なき御運と斗にて見
合す四人がとも涙 前後ふかくに見へにけるが 何思ひけん六弥太は林がなはめ
引ほどき 太五平が白状にて家名知れば詮議に及ばず 女ながらも敵の
余類 ヤアゝ後藤兵衛が妻娘此家に叶はぬ早出て行けと 聞て菅原今更
にそりや余りじやどうよくじやと いふも聞ず姫と林を引立庭へ突出し

女房去た ハテこりやナやり手の付た傾城菅原 敵の娘と聞ては添
れぬ もとの廓へ流し者 付添あるくはやり手の役目 スリヤ此わしは ヲゝサ
兄弟の縁が切ればコリヤ女房 一世の別れの名残を惜めと情の詞 ハア
尽きせぬ御恩と伏おがむ 折から拍子木家中の夜廻り 六弥太辺りに心付 コリヤ/\
そこな傾城やり手 古郷へ帰る錦の袋ソレ持て行と投出す 二人は立
寄取上見れば 暮て木の下影を宿とせば ヲゝ其下の句は 花や今宵
のあるじならまし 忠度卿のさいごの一首 ヤア扨は筐かはあはつと歎き給へば林も供


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に ありし昔を悔み泣 ハテ扨これ此六弥太が寸志の情源氏は今を盛りの
日の出 平家は暮行く アレ約束の暮六つ 夜に入ば敵味方のあはいが
見へぬ ソレ早ふ/\ ハアお志 忘れはせじ もふおさらばと立上れば 手負は今そ此世
の名残 花や今宵のちり桜妹は一人親兄の別れを胸に八重桜 姫
は筐の言の葉にむすぶ心のいと桜 あとに老木のうはざくら
涙の雨や小夜あらし しやうじふりやうは世の中のふだん桜といさめて
もつきぬなごりの 山さくらちり/\゛に こそわかれゆく