仮想空間

趣味の変体仮名

声曲類纂より 覚え書き

 

 二巻迄読んで気になった箇所の抜き書きです。今に伝わる名作が生み出された時期がわりと一極集中していること、その繁昌に伴い名人と呼ばれる人々が登場し、人形仕様や舞台機構に工夫が加えられ刻々と進化が促されていく様子がわかって面白かったです。義太夫年表よりお手軽な点が良く、詳細は義太夫年表に当ればよいと思います。

 

読んだ本 http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/200017224/

 


佐々木大鑑(元禄十二年十月 竹本古上るり)前 末広十二段 切 心中泪の玉の井(元禄十五午五月 豊竹座にて世話上るりの始なり)

 

前)日本王代記 (切に)曽根崎心中(元禄十四年五月 近松作 此上るりはおはつ徳兵衛の心中にして元禄十六未四月廿三日の事也 世話上るりの始にして大当りなり)

 

前)荏柄平太 (切に)源五兵衛 小まん 薩摩歌(元禄十七申正月 近松作) (前)甲賀三郎近松作)(切に)おふさ 徳兵衛 心中重井筒(宝永元申 四月近松作)用明天皇職人鑑(宝永二酉三月 近松作 当年より竹田出雲座元に成 傾城鐘入の段出語りのはじめなり筑後掾ワキ竹本浪花 三絃竹沢権右衛門おやま人形辰松八郎兵衛出遣ひの始なり八郎兵衛は古今の達人にして手摺を放れ無量の手段を遣ふに全身少しも乱るゝ事なし京大坂にて誉れを取後江戸に来つて其名高し享保の始御免操りの櫓幕を上芝居興行せり〔紫の幕 ともいふ〕是を辰松座と号せしなり辰松幸助三十郎ともに名あり宝暦か頃枡太夫丹後掾辰松にて興行のときむらさきの幕を三日の間引しことありしとぞ)

 

持統天皇歌軍法(正徳五年八月 近松作 此節迄は上るり短く間の物にのろま人形の道化或からくりありしか 国せんやの上るりより以来はこの事なし)

 
(父は唐土 母は日本)国性爺合戦(正徳五未十一月より三年越十七ヶ月興行す作者近松門左衛門也 九仙山 竹本頼母 内匠理太夫 竹本文太夫 三絃鶴沢三二 三段目政太夫 豊竹万太夫 同難波等にて大入をなしこの後度々この上るり興行せり)(稚は日本 老は唐土)同後日合戦(享保二酉二月 大幕の上に小幕を引はじむ 此節吉田文三郎初て出座)

 

太平記 住吉巻)車返合戦桜(享保十七丑四月 文耕堂作 和泉太夫出座 三月大和太夫死す 今度車返し上るり大森彦七人形に指先の働きを始む 六月朔日芝居焼失 仮家にて興行)

 

芦屋道満大内鑑(同十月出雲作 三嶋太夫出座 内匠太夫と改む 此節儀太夫 式太夫 和泉太夫 春太夫 七太夫 常太夫等勤む 今度与勘平の人形より腹のふくるゝ様に作り始む 是より操人形三人懸りになる 夫迄は壱人遣ひなり 当秋京へ行)

 

赤松円心緑の陣幕享保廿一辰二月 文耕堂 松落作 此時四段めに三代目吉田文三郎遣ひ始て本間入道の人形眉毛の動く事を細工す 此年十一月儀太夫上総掾に受領し祝儀出語天神記冥加松三絃鶴沢友二郎なり 受領は祝儀進物を芝居の表へ飾り始む

 

ひらかな盛衰記(元文四未四月 文耕堂 松落 可啓 小出雲 千前軒作 芋屋平右衛門事竹本島太夫始て出座 吉田文三松ヶ枝の人形に長さしかねと云事を始む 後菅原の千代なとに遣ふなり)

 

摂津国長柄人柱(享保九年八月 宗輔 蛙文作 入鹿大臣の人形口を明く細工を仕出す 八王丸の人形つかみ手迚五本の指はたらく事を始む 切に芦刈の段 出語上野掾 ワキ和泉太夫 三絃野沢喜八郎 人形出遣ひ藤井小三郎)  


加賀国篠原合戦(同(享保十三)五月 出雲 千四作 此時はじめて正面の床を横へ直す
享保九寅正月北条時頼記二度目興行の時 正面の床を横に直す 豊竹座)
楠正成軍法実録(享保十五年八月 宗介 蛙文作 此時近元九八和田七の人形に眼のはたらく事を造りはじめる) 
   
夏祭浪花鑑(延享2年7月(1745年8月)九冊物 同七月 千柳 松落 小出雲作 此太夫 百合太夫 杣太夫 其太夫 政太夫 錦太夫 島太夫 紋太夫等つとむ 世話もの九段続は是より始れり 又三代目吉田文三郎工夫にて長町の段どろ仕合ひにて人形へ水をかくる事を思ひ付 団七九郎兵衛 一寸徳兵衛 女房おたつを遣ひ おたつの姿は桔梗の帷子黒繻子の前帯浅黄のわぼうしをかけさせたり 是人形にかたびらを着せたる始なり 筑後始りてより人形師に笹尾八兵衛といふ者尤上手にて 国姓爺の頭あんたいじんの頭日本振袖の始に素戔鳴尊の頭其外数多の頭を作りしが 此度団七の頭に国せんやの頭を糸鬢になし薄肉にぬり 花色の錦又やげんの紋所にて 三つ目の床の内より大島左賀右衛門の手をねぢ上出る所新しき趣向なり 六つ目茶の碁盤じまを着せ 徳兵衛の頭は素戔鳴尊の頭を白くぬり厚ひんにして紺のごばん嶋を着せし故 今に団七の狂言此通の姿にてかふきにても操にてもこれを学べり 釣舟の三ぶは安たいじんの頭を糸びんとなし薄赤の肉色にぬり照柿の帷子龍の爪玉をつかみたる紋所 しうと儀平次は大塔宮の斉藤太郎左衛門の頭きびらの帷子を着せ今にかはらず 此時代操座次第に繁昌して歌舞妓はすたれ操り芝居の表は数百本の幟進物等おびたゞしく 東豊竹西竹本と別れてひいきつよく日毎に羣集して賑ひしとかや) 

 

菅原伝授手習鑑(延享三年八月 出雲 千柳 松落作 此天満宮の社を舞台に仕付 此太夫 島太夫 政太夫其外神主の姿にて拝をなす時 見物一同に賽銭を投しも笑ふべし

 

義経千本桜(延享三年十一月 出雲 千柳 松落作 吉田文三郎工夫忠信に源氏車の広袖を着せる

 

和田合戦女舞鶴享保廿一辰三月 宗介作 此時はんがく女人形殊の外大く造る


安倍宗任松浦?(釜:きぬがさ 元文二巳正月)釜渕双汲巴(ふたつどもえ 同七月 宗介作 錦武事和佐太夫 始て出座後錦太夫といふ 五右衛門の人形釜入の段顔色段々赤くなるやう 数四番に作る近本九八郎これを遣ふ)

 

悪源太平治合戦(延享四年七月 四段目に操おやま雀踊を仕始 豊松東五郎 若竹九郎 藤井小八郎等也 此時立役の人形に屏風手とて五本の指皮にてつなぎて働らかす

 

花和賛新羅源氏(寛延二年七月 梁塵軒作 切に操大踊いせ音頭 茶や掛行燈雀躍の仕出し右かしくの趣向は三月十八日十九日の事なり 廿日に外題を出し五六日の間に出す 作者並木丈助及び役者のはたらき殊の外の評判にて大入なり)

 

義仲勲功記(宝暦六子三月 一鳥 黒蔵主 七才子 三蔵 應津作 切に乱菊枕慈童所作 人形遣ひ藤井小八郎勤む)

 

延享以来操座看板に人形のまねきを出しけるか肥前掾か工夫によりて大芝居の如くまねきを絵看板に直せしといへり 


宝暦十二午年肥前座にて古銭場鐘掛松の狂言四段目に舞台廻り仕掛をなし大入をなせり 大坂にては此以前より始り江戸にては当年肥前座に始り 歌舞妓芝居にても此年市村座にて此仕掛をこしらへしより三座の歌舞妓に此仕掛出来たりしとぞ