仮想空間

趣味の変体仮名

声曲類纂 巻之一下

 

読んだ本 http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/200017224/

 

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ことのねも たけも
ちとせの こゑする
は ひとのおもひに かよふなりけり  後撰集 貫之

 

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  巻之壱下
京師浪花諸流
浄瑠璃語略図
系図

声曲類纂 宮(下) 


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「京師浪花之部」
京 引田淡路掾 天正の頃の人なり
(漢文読めない)
江戸砂子に都巡りと云ものを作れるは瀧の沢角か門人京東洞院目貫屋長三郎といふものなりとある
は都巡り見物左衛門と云る五段つゞきをいへるよしなりむぎこがしといへる草紙に元禄梓行の鸚鵡が
杣の序に竹本筑後譲か書る文を引て目貫や長三郎が上るり人形に合せて慶長 帝 叡覧あり
しより上るり太夫受領を拝し世に行れて阿口(あくち)の判官・弓継・鎧がへ・井戸田・五倫くだき・是を五部の
本節と伝へ侍る云々とあり

(枠外上段)
東海道 名所記 に後には 淡路丞 と受領 せし西 宮の夷か きとあれ ば淡路丞 は傀儡子 の受領号 也傀儡に 淡路座 の号ある 事古し 三才図会 にいふ所は 目貫や 長三郎 と淡路 掾と混 したるか
(枠内本文)
東海道名所記出雲のお国が歌舞妓の事を記せる次に浄瑠璃はその頃京の
次郎兵衛とかやいふ者後には淡路の丞と受領せし西の宮の夷かきをかたらひ四条
河原にして鎌田の政清か事を語りて人形をあやつり其後がうの姫あみたのむね
わりなどいふ事を語りける次に河内左内といふもの出たり女も南無右衛門左門よし
たかなどゝて浄るりを語りけるをかぶきと一同に女はとゝめられぬと云々

 上村日向少掾藤原氏百:もゝ太夫と云)
音曲道智論といへる冊子に云摂州西の宮神主森丹後と云ふ者同社の社家
森兼太夫と両家争論の事あり 公聴に達して兼太夫非分となりしかば男子壱
人ありしを丹後に託して同国尼ヶ崎称念寺といふ寺院に便り世渡りの為工夫をこらし
古き経櫃を造り直し小き人形を作りて自作の章句に平家に似よりし節をつく
りてうたひ人形を廻しつゝ市街を歩行(あるき)ければ見る人これを賞したる夫より京都に登


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正保慶安の古
画京師
芝居の図

大崎則房の蔵に
して今二枚おりの
屏風となれり
按るに残闕(ざんけつ)なる
べし

看板に
じやうるり
内記と
あり

右の上


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其二
右の 下

幕の紋所
各考あるへ
し好事
家の明鑒(明鑑)
をまつのみ


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若衆歌舞妓の図
図中の額に如此
書してあり

 定
来る八日より於此所
六条中の町又一
大かぶき仕候
太夫 蔵人
   市十郎
   金作
御望みかた/\は
御見物可被成候
卯月八日

其三
左の 上


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其四
左の下


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り世渡りせしに大内炎上ありし頃にて御築地のひまより 若宮様此筥芝
居を 叡覧ありしかば登上登下これを見そなはゝじめ給ひくさ/\のひきてもの給はりて
後日本操座宗匠諸芸諸能の冠 勅免上村(或云 山本)兼太夫と給はり其後天正五年
丁己 御宣を拝して上村日向掾と名乗る淡路国三原郡三条村に所縁有りて立
越人形を作り貧困の田夫にをしへて是をつかはしむ城主の免許をも蒙りて操芝
居を取建る是浄瑠璃太夫受領の始也と云々(今も西の宮境内に百:もゝ太夫の社としてあり傀儡の 祖師なりと云り前の道智論の説其是非知るべ
 からずといへども見あたりし儘こゝに挙ぐ 譚海:たんかい云浄瑠璃かたる者の某少掾大掾太夫なとゝ称する
 事元来人形造りて 禁裏へ奉りし者に受領号をゆるされけるがはじまり也其後上るりといふ物を
 語りて人形に合せてあやつりもて遊びし間おのづから上るりをかたる者勢ひ強く人形を遣ふものは其下に
 回る様に成たる故いつとなく人形遣ひの受領号を上るりかたる者にうばゝれて称する事に成たる也
 といへり 又道智論云 御免を蒙りて興行するは櫓を上桟敷をかくる也右のなきは端多:ばた芝居と
 いふ也櫓或は城戸:きどと云城郭に準じて大切の名目也後世城の文字を恐れ木戸の文字に替ゆ櫓の上に
 梵天帝釈を勧請し障礙:しやうげ災難を祓ふ祈りといひ槍を並ぶるは非道を禁るなりと云々
 役者五雑俎云 お国照て小野にて芝居興行の時は白幣を矢倉の四隅に立たり天正年中より寛永
 年中迄幣にてありしに明暦中に麾:ざいに転じたりとあり凡芝居は慶長の末に起り承応三年甲
 午の春より三ヶの津に宮芝居を免し給へり京都には元和中七ヶ所の櫓を免し給ふと云其後増減

 ありとなり
 京雀云 五条橋通りもとは六条の坊門通といふいにしへは松原通を東へ道ありけるとかや今こゝの大橋は東
 の川端に人形あやつりの芝居を構へ細き仮橋をかけて侍りしに 太閤秀吉公の時伏見より
 禁中へ参内し給ふ道筋よしとて此大橋をかけられ人形あやつりの芝居をば今の四条川原へ移さ
 れたりとかや

  京 河内 (苗字詳ならず六字南無太夫 等と同じ頃なり)
役者五雑俎に慶長十八年丑四月十五日監物 口宣(くせん)頂戴して河内といへり其後段々相
続き正徳五年未年親類へ譲り其後出雲といへり又改名して和泉といへり其後又
譲りを受享保十四年酉二月八日御免ありて立花河内となりたりとあり(按るに立花 河内は宇治
 嘉太夫か門人なり 松の葉にいにしへ大坂屋の河内風といひて
 うたひし云々とあるは別派の小唄なるべし)

  京 竹本若狭掾 (浄瑠璃芝居なり)
寛永十九年午十月十六日口宣頂戴して若狭掾といへるよし同書にいへり

  同 天下一 杉山丹後掾藤原清澄


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承応の頃江戸より登り四条河原において芝居興行次第三巻江戸の部にくはし

 京(紋) 日暮(ひぐらし)八太夫(説教讃語名代なり八太夫尤古しと云 何れも四条河原に芝居興行す)

 同 同紋 小太夫(前に同じ)

 同  説経与八郎

何れも時代詳んらず竹豊故事に云京都にて昔は浄瑠璃はやらず説教与八郎
歌念仏日暮林清同弟子林故(りんこ)林逹(りんたつ)等を玩べり云々是寛文以前の事なり
説教の事其始詳ならずいにしへの浄瑠璃多くは仏教により因果のことわりをのべ
て作り人をして悲哀せしむるをもてならはしとせしより説教讃語などゝなづけて
世に行れしものか夘花園謾録(ばうかえんまんろく)にはもと仏菩(ぶつぼさつ)の縁起を唄ひて世人を仏道に勧め
悲哀を主として人をして流涕を催さしむ本は鉦鼓をならし唄ひしに今は三味線
に和する事になれりと云々(按るに仏説によるを説教と号し歌念仏とも名つけて鉦にも合し 神仏故人を祭るを祭文と名づけ錫杖ほら貝に合せしをともに

 三味線に和してうたふ事になれり)
又同じ頃浄るり操外記七郎兵衛外記門十郎などいへるも京師に行はれしなり

 京 左内 苗字詳ならず
承応の頃の人にや江戸薩摩が門人なり杉山丹後等と同じく江戸より上りしものなる
べし(左内節とて行れ土佐節などの節付 にも左内節の名ほゞ見えたり)

 同 伊勢島宮内(いせじまくない)
江戸虎屋源太夫の門弟にして一流を語り出す伊勢島節とて承応の頃より行れ
ぬ弟子佐太夫相続し北野に於て常芝居を興行し宮内か浄瑠璃又播磨掾
加賀掾等の浄るりを語る享保二年酉二月十一日伊勢島宮内と改め後剃髪し
て節斎(せっさい)と号す(佐太夫其以前喜代竹大和 とも号しけるよしいへり)
東海道名所記云近き頃に江戸より宮内といふもの上りて左内とせり合ひ色々珎ら
しき操をいたしける程なく宮内は死けり(名所記の編成りしは万治といへり 近頃とあるは承応明暦の頃にや)左内もなくなり


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今は其子ども打続て操りをいたしめん/\受領せし中に喜太夫(虎屋喜太夫 なり)と云もの
上総掾になりて太平記を語る其曲節(ふし)平家とも舞とも謡とも知れぬ島ものなり
とあり(浄るり年鑑に宮内が上るりも江戸の大さつまと等しく 五段つゞきの外題を聞ずといへり)

 京 天下一 上総少掾藤原正信(篇額軌範に載る延宝四年祇園社の額四条河原の 図に喜太夫が芝居櫓幕に竹に虎を画けり)
江戸薩摩源太夫の門人にして始次郎兵衛又虎屋喜太夫といふ明暦三年上京
して四条に芝居興行す(役者五札雑俎に云虎屋喜太夫明暦三年酉七月十二日口宣頂戴して 虎屋上総掾といへり上総掾病死して倅五郎兵衛名代を譲り受
 宝永六年丑七月廿九日御免あり一とせ口宣御改の事ありしに類焼の時口宣を失ひし故改めて
 とらや喜太夫といへりとあり竹本義太夫も延宝のころ喜太夫が芝居をつとめしなり)
竹豊故事に云京師には昔は浄瑠璃葉流(はやら)ず寛文中に江戸虎屋源太夫上京有
てより浄瑠璃繁昌し常芝居も出来たり云々事跡合考に浄瑠璃語り説教
人形廻し等悉く寛永元年以後追々京大坂より下りたりしもの也とありされと
三都ともに盛になりしは承応明暦の頃より以後の事なるべし

四条通 ひかして かわら道」
「とらや喜太夫
(枠外上)「寛文の印本 京雀にこの図あり」

上総少掾
「藤原 天下上総 正信」
藤原正信

「日くらし小太夫
やうじや


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同じ頃源太夫が門人相模太夫越後太夫等も京師に上りて芝居興行せしといへり

 大坂(紋)井上播磨掾藤原要栄(あきひさ)
通称市郎兵衛といふ京師に住して大内の御簾を作りてたてまつる事を世態(なりはひ)とす
謡を学びて音声生れ得て自由なりければ虎屋源太夫が門に入て浄瑠璃を学び
古流の節譜(ふしはかせ)に心を付工夫を凝し風斗(ふと)江戸万歳の音に気を付て殊となし自
然と珎敷一流を語り出し浪花に下り寛文の頃より世上に流布せしかばあやつり
人形に合せ芝居免許を蒙り井上大和譲藤原要栄と受領を拝し後又播磨
掾と受領す貞享二年乙丑五月十九日五十四才にて京師に終れり法華宗長明寺(ちやうみやうじ)
に葬(さう)す播磨が余風今に伝り播磨地など号し竹本豊竹ともに此流を汲む事
芸道の規模といふべし(播磨の時代浄るりけいこ本堅く秘して他見をゆるさずたま/\これを 得て京にて梓行するといへども小冊にして細字に書し一段/\のさし
 絵をくはへ幼童の翫ひとせり故に其道を学ぶ 人は写本を以てけいこせしといへり)門人多き中にも井上市郎太夫(幼名石屋三右衛門 と云播磨死後

 尾崎権左衛門と共に 芝居をつとむ)清水理兵衛等尤名人なり理兵衛は大坂安居の天神の南に住居せる
徳屋といへる柏戸(りやうりや)成しが此道に執心深く終に上達して芝居を興行す(延宝天和 の頃也此時
 上東門院といふ上るりを語り其門人竹本筑後掾いまだ 五郎兵衛たりし時脇を勤め始て床に於てかたりしとぞ)播磨死後にも今播磨と賞誉せら
れしが後に薙髪(ちはつ)して伴西(はんさい)と号せり市郎太夫も段々世に行れて自ら櫓を上
げて興行し新浄瑠璃もありしが其後何方へ趣きしや終りを知らずと
 (柳亭主人云昔の浄るりは都て六段なり十二段と裂きしもの歟京都にては井上はりまより五段につゞめたり
 といふ江戸にては宝永正徳のころまでも当古風を失はず土佐掾和泉太夫等が浄るりみな六だん
 なりと云々)
播磨掾并門人の語りし浄瑠璃目録左に記す(播磨の内語りし上るり節事数百段有 よし西沢九左衛門蔵板上るり年代記にのせた
 りと云々)

新十二段(いにしへの十二段 と作りかへたる也)二王の本地 日本廻り(中古の見物左衛門 の綴り直し也) 船遺恨(粟津太郎 かたき打)
女袖鑑(後に作直して 日向景清と云)都女商人(放下僧 能のやつし也)二親孝行(みのゝ国 太郎助)金平法問諍(あらそひ)
白籏の由来 敵討の遺恨 祇園精舎 天鼓(てんこ)(近松門左衛門 作)


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貞享二年印
西鶴諸国は
なしい載る井上
播磨が芝居の
図なり


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大友真鳥(まとり) 日本王代記(五天竺 節事) 荏柄(えがら)平太 神道蟻通し
百合(ゆり)若麿 甲賀の三郎 源平恋の遺恨 道釈禅師伝 
長谷寺利生記 土蜘蛛退治 金剛兵衛左文字刀 兵庫の築島
二代の敵討 田村将軍初観音 理屈物語 一休物語
頼光跡目論(しほがまのだん馬の段 節事尤名高し) 源氏筑紫合戦(宮島八景のだん 節事)
根元曽我物語 聖徳太子伝記 業平一代記 源氏熱田合戦
(長生段四季の段 節事) 頼義北国落(掛物揃のだん節事 尤よしとぞ) 頼朝七騎落
花山院(くわさんのいん)物語(晴明神嵐の段 節事) 菅原親王行状記(歌仙の段 節事) 蒲御曹子東踏歌
金剛山合戦(屏風八景 節事) 大曽我富士の牧狩 賢女手習鑑 日向景清
信濃源氏木曽軍記 大織冠知略玉取 大念仏由来 三浦北条軍法競
楠千早合戦 河津角力の遺恨 東大寺大仏縁起 佐々木藤戸先陣

三浦大助老後誉 源氏十五段(市郎太夫) 五大力菩薩(同) 待宵物語(清水理兵衛)
源氏東の門出 上東門院(理兵衛) 松浦五郎旅日記 道寸軍法競(七夕祭 節事)

 京(紋)宇治加賀掾藤原好澄
紀州和歌山(宇治と云 所なりと)の産なり伊勢島宮内が弟子にして宇治嘉太夫と号す元来謡に
くはしく其頃井上播磨が音曲世に流行(はやり)ける故自ら工夫をこらして別に一流の曲節を
語り出だす寛文の頃宮内が名代を以て芝居を興行し延宝五年巳十二月十一日宇治加賀
掾と受領を拝し新作の浄瑠璃を作らせ然る古本大字八行の正本を始て梓(あづさ)
に上せ謡本の如く節章をさし初しは此加賀掾より起れり(貞享二丑年七ついろは の上るり五段を四条小
 橋壺屋に与へて刻せしむ則八行の本なり音曲道智論に嘉太夫近松門左衛門を頼みて趣向の文を
 作らしめはじめて節を配りしはつれ/\草といふ本なり此時板に上せしといへり)
此人謡の音節を和らげて語りしかば呂律(りよりつ)甲乙(かんおつ)連続して今の世までも嘉太夫節
加賀節とて其違風残れりとかや貞享の頃大坂へも下り後又京へ帰り始終三十


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年の余京にて宇治の一流をはやらせ宝永八年卯正月廿一日(或八月 十一日とも)七十七才にして終
れり其子宮内同八月廿一日嘉太夫と改相続て芝居を勤む(加賀掾芝居へ竹本筑後未 理太夫といひし頃脇にかゝへられ
 西行物語の二段め藤沢入道夜盗の修羅をかたりしとき元来大音にて甲乙とゝのひ座中へ聞えわたり
 て音声鮮なりしかば加賀掾深く感じ以後此道に名誉をあらはすべきは此人なりと賞美しけると
 かや貞享三寅年加賀掾難波に下りて井原西鶴が作りたる暦といへる浄るりをかたるそのとき
 義太夫が方には賢女の手習新暦と題して両座甲乙を争ひしとなり又加賀掾自ら作りし上
 るりもありいろは物語其外にもありとぞ人論訓蒙図彙:きんもうづい浄るり太夫の条下に中の頃都の宮内左内
 とて上手のあり御代御長久なればいやまし上手も出来ていまみやこにては嘉太夫太夫とて其名四方
 に聞えたる名人ありて両流を田舎迄もてはやせりと云々 こゝに角太夫とあるは末に記せし山本土佐がはじめの名なり)門人多き中にも宇治伊太夫事竹本
若狭が芝居を継で野田若狭と改め後たけもと彦太夫へゆづる富松薩摩
(延宝六年十一月 廿八日受領す)立花河内宇治相模同若太夫同甚太夫等何れも誉れ高し(冨まつ さつま
 其師の跡と継て芝居繁昌せり是宝永正徳より享保のはじめなりとぞ
 若狭は北野七本松原亀屋伊右衛門定芝居にて久しく興行せり)

加賀掾并門弟の語りし浄瑠璃目録左に記す
大礒虎遁世記(加賀掾始て興行の ときの上るりなり) 小晒(こざらし)物がたり 百人一首万年宝

西王母 一心五戒の魂(たま) 身代り問答 融大臣
今川了俊 柿本人麿 大仏供養 西行物語(延宝五年)
染殿の后 吉備大臣  浄蔵貴所(じやうさうきしよ)八坂塔  俵藤太
和田軍(いくさ) 中将姫 かしは崎 弓削道鏡(ゆげのだうきやう)
当流小栗判官近松 作) 元服曽我  融通(ゆづう)大念仏  阿部宗任東大全
日本武尊 小袖曽我  衣通姫(そとほりひめ)和光玉  三井寺狂女
十六夜物がたり 晴明道満行力争 夜討曽我  麻耶山(まやさん)開帳
小野道風額揃 法隆寺開帳  弘徽殿嫉妬(こうきでんうはなり)打(近松作) 源頼家鞠始
武帝閏正月 薩摩守忠度(一名 千載集) 惟高惟仁(ひと)位争  三社託宣由来(延宝六)
須磨守青葉笛 富貴曽我 門出八しま 浦島太郎七世縁
遊行上人名号記 こよみ(西鶴作 貞享二年) 蒲冠者鞠初 賢女相生松


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弱法師 徒然草近松作) いろは物語(加賀掾作) 天神御本地
鳥羽恋塚物語 世継曽我(此上るり殊に名高し此時朝比奈の人形に足を付始しが是より 諸流ともにたてものゝ人形に足を付たり是より以前は人形足を付ず次の図
 を見て知る べし)  伏見常盤 葵の上 藍染
凱陣八島(西鶴作) 東山殿子日遊 本領曽我 関東小六東六法
弁慶京土産 平安城都遷(うつし) 頼朝由井浜出  (おなつ 清十郎)歌念仏
呉羽中将廿三夜侍 曽我七ついろは 桑原女之助 津戸三郎往生要集
遊君三世相 源三位頼政 葛葉道心物語 主馬判官盛久(近松作)
団扇曽我(近松作 石井仇討也) 義経懐中硯 寿永忠則 苅萱道心物語
結城七郎小袖売 大江山 傾城反魂香 東山殿追善能
和州三都経 静法楽舞  猫魔達(ねこまた)物語  新豊穣御祭
曽我美男草 忠信廿日正月 飛騨内匠 梅花垣

巴太鼓 牛若武勇始 寝物がたり  和気(わけの)清麿
源氏三代記 仏舎利 源海上人 八はながさ
栄華物語 五百羅漢 粟島御縁起 熊野開帳
婚礼祝言記 伊勢物語 源氏供養 秘密護摩
遊や物がたり 石山寺開帳(野田 富松) 吾妻歌七枚起請(同) 吉岡兼房染(同)
新腰越訴(うつたへ)状(同) 難波五人男(同) 西明寺殿行脚松(あんぎやのまつ・富松 さつま) 傾城姿見池(同)
夕霧筐の袂(同) 富士浅間舞楽諍(ぶがくのあらそひ・同) 今様いろは物語(同) 辛崎一本松(同)
白髪寿命髪置(同 伊藤流枝作) 椀久狂乱笠(同)  魂産霊(たまよばひ)観音(宇治)
誓願寺名号記(同) 女人即身成仏記(同) 傾城今西行(同) 傾城八重桜(同)
鞍馬山師弟杉(同) 曽我花橘(同) 玉黒髪七人化粧(同) 南都御影森(同)
念仏往生記(同 一名大原問答青葉笛) 忠臣身替物語(同) 遊行念仏記(同)


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(枠外上)「源氏 供養 といへる 加賀 掾 上るり 本の 口絵 なり」 
 ▲宇治嘉太夫口上  中の中入より出る
扨おの/\さまへお断を申上まする。これにおりまするはかゞのぜう
でござります。此度坂田兵七郎座本を仕りまするに付。此
方のしばいを。かしまする様にと。申されましたゆへ。即兵七おや。坂田
藤十郎とは。まへ/\よりかゞのぜうも。心やすふかたります中。ともかくも
と申て。しばいをかしましてござります所に。御ひいきつよふ。はん
じやういたし。一入忝なふぞんじまする。其お礼のため延引ながら。是迄
罷出ましてござります。扨わけて申上まするは。此度の狂言は。源氏
くやうを。三ばんつぎにとりくみ。水からくりに仕りまする。此げんしくやう
の義。かゞのぜういぜん。あやつりに仕り。いえの上るりでござりますゆへ。
此所でげんじくやうの。夢中のすまあかしの。二まきの段を。かたります
老音(らうをん)でござります間。すへ/\まではきこへがたふござりませふけれども。
そこもと御しんびやうにござりまして。お聞なされて下されませ。其為
お断を申上まする。(あだち三郎左衛門 口上)扨嘉太夫も。此上るりをかたりませふけ
れども。がくやでからくりの。せわをやかれますゆへ。上るりはかたりませぬ
即宇治伊太夫。同若太夫。かけ合つれふしに。紫しきぶ石山にて。す
まあかしのまきを。見ましたていを水がらくりに合。かたりまする。とふざい/\
「あだち三郎左より口上」
「しやみせん引」
宇治嘉太夫口上」 水大 がらくり
げんじくやう
すまあかしの
二まきの上るり
「加賀掾かたり」
「宇治伊太夫
「宇治若太夫
「江州 石山 源氏供養 水大 がらくり」

頼政歌道扇(野田 富松) 傾城我立杣(わがたつそま 同 同) 傾城富士嶽(同 同) 瀧の都連理鏡(同)
伊勢御辻宮(宇治) 傾城浮洲岩(うきすのいは 同) 八幡宮和光白幡(わくわうのしらはた 同) 三井寺豊年護摩(同)
大黒天万宝御蔵(同) 南大門秋津峯(同) 愛宕山旭の峯(同) 大和歌五穀色紙(同)
傾城紋日暦(同) 忠臣いろは夜討(立花 河内) 関東小六丹前姿(冨松)

 加賀掾浄るり本末に此印章あり (印)

(此時代は同じ上るりを何れの座にても語り又は外題を改しものあり井上の花山の院を加賀掾方にて弘徽殿うは
なりうちとかへ井上の日向景清を松本治太夫の方にて鎌倉袖日記と改め山本土佐の都志王丸を岡本文弥
は山枡太夫と変じ加賀掾の団扇曽我を竹本筑後の方にて百日曽我と題せし類也
加賀掾芝居倅嘉太夫より甥久五郎へ譲り受其後弟山十郎享保十二年ゆづり受山十郎
より元文五申年人形つかひの上手宇治山十郎事嘉太夫へゆづり受たり
宝永の印本松の落葉に宇治加賀掾作の浄るりとてのせたり章句を作りしにはあらで節はかせ
をつくりしかはしらざれど文中芝居坐元の事をこめたるも珎らしければこゝに挙ぐ但しこの
浄るりはあやつりにかけてかたりしかはあらで坐敷上るりなどいへる類のものなるべし

  四条河原涼八景 宇治加賀掾
春過て青葉のこずえ涼しげにしげる木の間の花うつぎ夏の緑もことくにゝ似るべくもなき九(こゝの)


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重(へ)の京の水際たちつゞく四条河原賑ひは八雲立てふ御歌の神の御(み)氏子家とみて大きに和らぐ
秋津洲の大和大路や大和橋一むら竹の東雲もやゝ明渡すまきの戸の音羽の山にこたまして
ひゞく芝居の朝太鼓あかねさす日の赤前だれすしにてたちししづのめが顔にえしやくしなふ申礼めせ
よいば桟敷でも取てあげましよお羽折もお笠も杖もあづかりておちやは跡から上げ申いりははや
くも(早雲長 太夫也)はじめりおあし千くわん万太夫都万太夫 なり)年をかさねてはんじやうのかめやはくめのじやうるり
は(かめや久米 之丞也)めでたいこくの加賀掾(宇治加賀 掾なり)サア礼めせとたきつくるはがまのたぎりりん/\/\しやんとむす
びしはなたか帯乗物のでかご所せき紫帽子御所かずき思ひ/\のだてすがた女中がちなる物見也
扨又涼の夕景色神のみたらし結ふ手に夏なき年と思ひ川水に蛙の声たてゝまとやの篝打けふり
かなたこなたに灯火のやゝ見えそめてほどもなく京石垣西はまたほんとにつゞく石垣まちの軒にあらそふ
釣行燈上は三条橋の下しも松原のこなたまでながれにつゞく水茶屋はくもらぬ空の星月夜天の
河原もかくやらん納る御代の太平記あるひは平家物がたりつれ/\草談議辻能をかしく拍子と
り(謡)「かもの山なみいたらしかけ/\うつりうつろふ縁の袖を水にひたしてすゞしむか/\神はうけずやい
ろざいもん(祭文)「はらひ清め奉るの色のさかりはあづまなる八百屋のむすめお七こそ恋路のやみのくらが
りによしなき事を仕出してつみはしだいにきはまりてすぐにひきだすあはれさよ是は恋路の世の噂
歌につくりてよみうりの手拍子揃ふ笠の内よい/\/\朝日さす間もそりや梅の雪きえて残りし其
名を宣へばはなのみやこにおなじみ男恋のなさけのやまとやなりと人もいひしが其名もともについに
無道の嵐ときえて夢かうつゝよ身の上のほまれはるかにからくりまとおやまがおにゝうらがへり鬼が仏にな
むあみだなむあみだ仏歌念仏(歌念仏)「さるほどによの中の人間のめかの姿を見せんとて花ひらいてし
めすまさにしんの知識たりそのかみはわしの御山にのりの道今はしけんの中にたゞよふアゝあさましや此身は
さて沖こぐ船のかぢをたえいつかいたらむねはんの岸こゝろのつなにまつはれて色にひかれ香にまよひ
なさけの竹の枝しげきかねのひゞきかりんちりゝん/\とおとそふる楊弓歯医者辻角力おしあひ
/\ゆきかよふこゝはんじやうのところてん夏すぎあきは祇園まち花をかざりしをどり子の

しくみをどえいはすみだ川これもあたらしふねへ

 大坂 伊藤出羽掾
其伝詳ならす常盤津系図浄瑠璃元祖岡本文弥伊藤出羽掾と記し次に
記せる所の文弥を文弥節の二代目とす尚考ふべし  (又一中節系図常盤津 系図に山本河内曰飛騨      
(掾を出羽掾が門人のやうに記せり河内掾飛騨掾壱人の名にして別人にあらず且浄るりかたりにあらすし
 て人形師なり次にくはし)
(出羽掾芝居浄るり外題とて操年鑑にのせてありされども初代出羽掾は尤古し名代を以て興行
 せしものにて文弥等かかたりし浄るりなり)

 前内裏島都遷(享保十七 子十二月) 孝謙天皇倭文談(是は外題出たるばあkりにして 此せつ芝居断絶すと云)

 一心二河白道 贋金文七

 京(紋)山本土佐掾藤原房正
虎屋源太夫が門人といふ(本出羽掾が弟子又はいせ島 宮内が弟子ともいふ)始大坂に居し後に京都に移る初名を
角(かく)太夫といふ延宝五年己壬十二月十一日口宣を拝して土佐掾と改む(歌舞妓事始には後 相模と改るよしいふ)


54
浄瑠璃太夫浄瑠璃
御前のことをつくり
ふしをつけかたりはしめし
とかや中頃みやこの宮
内左内とて上手のあり
御代御長久なれはいや
まし上手もいてきて今
みやこにては嘉太夫
太夫とて其名四方に
きこえたる名人あり
て両流を田舎(てんしゃ)まて
もてはやせり
「上るりがく屋」
「上るり太夫

「人形遣(つかい)」さま/\の人形
ありくびを左右には
たらかすは宮内左内
よりはしまるとかや道
行舞女がたかるわざ
をつくすを上手とす

(此図は元禄三年七月開板の人倫
 訓蒙図彙・じんりんきんもうずい七の巻の指画に
 して山本土佐掾か芝居の図也
 此図は太夫出かたりなく人形も
 独つかひにして足の付たる
 人形なし)
「土佐掾」
「人形遣」


55
一流を語り出して角太夫節と称し世に行はる門人長太夫太夫八は友等あり土佐
掾が芝居浄るり外題左に記す

角田川 小野篁(たかむら) 天親(てんしん)菩薩  愛護の若
阿漕平次  伝教(でんぎやう)大師記  王照君 清水清
源氏道草三つ物 三条小鍛冶 女人性生記 久米仙人
都志王(つしわう)丸  飛騨の内匠 天王寺彼岸中日 善光寺開帳
信田小太郎 信田づま 熊井太郎孝行の巻 西教寺七万日回向
三世二河白道(にかびゃくだう) 小敦盛 鉢かつぎ 小栗判官
逆髪(さかがみの)王子横車  因幡堂開帳 眉間尺物語 石堂丸
浦島太郎 入鹿の大臣 四十八願記 平親王将門
花山(くわさん)法皇礼記  袈裟御前物語 酒顛童子 日蓮上人徳行の記

(竹豊故事に云手妻人形は山本弥三五郎事飛騨掾に始る南京あやつりは寛文延宝の頃より遣ひ始しよし
 京都山本角太夫芝居に専ら遣ひしなりと云々因に云錦分流が編の棠(からなし)大門屋敷といへる草紙にから
 くり細工人はおやま五郎兵衛其子山本弥三五郎是を伝へて無双の名人となる一筋の糸をもつて大山を
 うごかせ小刀一本をおつて形あるものを作りて是をはたらかしむ別て水学の術を得水中に入て水
 中より出るに衣服をぬらさすわづかなるはさみ箱に船を仕込川水に浮て用を達すこの儀
 叡聞に達し禁庭において細工の術を叡覧にそなへ即細工人に仰付られ山本飛騨掾清賢・きよかたと受
 領し翌年雨龍・あまりやうの細工をさしあげ河内掾に重官任せらるとあり或云山本飛騨掾からくり浄るり
 名代御免ありしは元禄十三辰年なりと云り)

 大坂 岡本文弥
山本土佐掾が門人と云天和貞享の頃にや伊藤出羽掾が芝居に於て一流を語り弘めし
かば文弥節と号して浪花中におてはやしぬ(竹豊故事に大坂表には前々虎屋源太夫 表具又四郎道具や吉左衛門等語りしかとさして
 はんじやうなのりしが岡本文弥一流をかたり弘めてより浄るりはんじやうせしといへり其頃山本飛騨手妻人形
 の所作事あやつりなど取更へし故見物これを悦び次第に賑ひて遠国迄も名誉をあらはしぬと宝永
 四年の印本男色比翼の鳥に文弥節も古めかしとあれば宝永の頃ははやすたれたりしにや太田蜀山子の
 俗耳鼓吹(ぞくじくすい)に云文弥といへるふしは文賀といひし座頭の三絃に弥太夫といへるものゝ上るりを合せてかた
 りしなりよりて文弥と号しけると名見崎喜惣次 
 剃髪して大喜都の物がたりなりとあれども證としがたし)門人小林平太夫(京)岡本鳴渡太夫(大坂)
 (始阿波太夫と いへり)続いて世に鳴しとなり又岡本廣太夫同利太夫等あり文弥(并)阿波


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太夫浄瑠璃外題左に記す(此両人并に治太夫一中等何れも先師土佐又は井上の 浄るりを多くかたりし故新作少しといふ)

三枡(さんしやう)太夫  源如上人記 曇鸞太師記  大職冠方便(てだての)玉
阿弥陀坊 守屋大臣 日親聖人法難記  中将姫蓮(はちすの)曼荼羅
三田八幡御伝記 恋塚物語 百合若高麗攻め  契史国(けしこく)物語
長命寺開帳 中山利生物語 雁金文七(元禄十五年八月文七罪科に處せ られ同九月九日此狂言初日なり)
善光寺開帳 照天姫操車(てるてひめみさをぐるま)  当世様(いまやう)続日本紀  卅三間堂棟由来(むなぎのゆらい)

 京(紋)松元治(まつもとじ)太夫
山本土佐掾が門人にして初名を菅野(すがの)伝弥といふ(或都一中が 門人とも云)貞享元禄の頃一派を
なして治太夫節といふ自ら芝居興行す倅を松元半太夫と云門人林名太夫菅野
太夫等なり(治太夫はじめは土佐が芝居にて語りしなり大かたは土佐又は井上はりまが浄るりをか たりし故新作少しといへり左に一二を挙ぐ

高砂  牛若東(あづま)下向  源氏烏帽子折(此時藤九郎盛長と渋谷金王 丸の人形に始て足を付るよし

 いへり加賀掾が世継曽我 の時と何れか先なる考べし) 石川五右衛門 鎌倉袖日記
清水寺利生物語

 京(紋)林和泉太夫
其伝詳ならず元禄の頃なり(林名太夫等が 一族なる歟)関東曽我(一名傾城 受状)といへるは和泉太夫
浄瑠璃にして近松門左衛門が作るなり(尤佳作 なり)

 大坂 表具又四郎
文弥が門人といふ井上播磨が浄瑠璃を多く語れり貞享元禄の頃なるべし
世に表具屋節又四郎節ともいへり(節付は上品なる風なりといへり表具や又四郎終れる 時よき臨終ときゝて貞柳が狂歌に「うら山し屏風
 ふすまの絵ならては見ざる蓮の座をや卜:しめなん といへり又四郎が浄るり外題残れるは

木曽義仲 難波八景 草紙洗小町 忠臣兵揃(つはものそろへ)

 大坂 道具屋吉左衛門


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其師詳ならず井上播磨が浄瑠璃を多く語れり世に道具屋節と称し自ら
一派をなせり(音曲道智論に山本土佐掾が節を道具やぶしとてをかしき節をかたりし由記せり道 具屋吉左衛門山本土佐掾は別人なり尚考ふべし元禄宝永の頃印行の当世乙女織
 といへる草紙に道具屋吉左衛門と申是も浄るりの名人老体なれども音声の達者一ふし稀なる太夫
 にて廓へ入込御坐敷を勤申され候云々といへりくるはとは大坂新町を云此時代に老体といへば寛
 文延宝の頃を盛に経し人なるべし
 吉左衛門が浄るり一二を記す)

四天王雷諍(あらそひ)  筑紫問答 金平地獄破(金平の上るりは江戸和泉太夫が上るり をそのまゝにかたりし物歟前にもいふご
 とく此時代の上るりは壱つの上るりを 三都の太夫たがひにかたり合し也) 鎮西八郎 三原合戦

 京(紋)都(みやこ)越後掾
一中節系図岡本文弥の次に記し常盤津系図にも都萬太夫事越後掾と記せり
初代萬太夫は歌舞妓にして芝居座元の名代となれり浄瑠璃をかたりしは何代目の万太夫
にや詳ならず(役者五雑記に万太夫先祖は室町家の御扶持人京屋万太夫三代目万太夫のとき寛文九年 酉正月六日歌舞妓物真似名代御赦免蒙り倅甚十郎宝暦七年寅九月四日譲を受候
 掾に仰付させられこのとき万太夫と 改名すとあり)

木屋七太夫(伊勢岡本市太夫事七太夫と改む木屋節とて 一時に行れ他流の節付も用ひたり)岸本平太夫(京都)は同じ系図に越後
掾が門人の様に記せり

 京(紋)都太夫一中(替紋:紋:紋)
一中は京都本能寺派某寺に住す弱年の頃より浄瑠璃を好み終に帰俗し山もと
土佐掾が門に入て鍛練し自ら工夫して土佐掾松元治太夫等の流儀を和らげて一流を
語り出す(譚海に文弥節変じて一中節といふに成たりと云々一中系図を見れば 都越後掾が次に記して越後掾が弟子とも見えたり都を名乗も故有べし)姫太須賀千朴
と号し後改て都太夫一中といふ元禄宝永の頃一中節と名づけ世に賞せらる(音曲 道智
 論に一中受領して都和泉掾立花盛安と号す倅も後受領して又和泉掾といふと記せり次に記す都
 譜決儀に乙中但馬掾とあり可考一中は斬髪にして紋沙の十徳を著し白ねりの長袴を着し
 小き刀を帯して出語を初しとぞ次の図を 見てそのあらましをしるべし)一中が没年さだかならず思ふに文禄宝永を盛に
歴て享保の頃に終わる歟(長寿を保し 人なるべし)男を今一中といふ 一中が聟を金太夫三中と
いふ(紋所丸の内に三つ星也江戸新吉原にのみ居たりし由なり三中門人に 味中あり三中か墓は大津の辺山中にありといへり)一中が門人秀太夫千中


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(紋所上り藤の中に千の字又折鶴をも付る江戸へ下りて 其名高し門人に千太夫歌中。千国。八宝太夫等あり)国太夫半中(後に江戸に於て宮古路 豊後掾とあらたむ)等その
外餘多あり(一中節江戸に行れてより一旦すたれ しが近ごろ行るゝ事甚し)
(菊岡沾涼が世事談綺に都一中を楊弓の名人としるせり楊弓に名ありし一中はともに京師の人にし
 て今井道二一中と号し別人也貞享の頃舘(たち)重興が編の楊弓射礼抄の注解へ今井一中追考を
 あらはせり是江戸にての事也初代一中は江戸へ下りし事なしといへり江戸へ下りしは三代一中なり
 とされば沾涼の説のあやまりなるゝつ必せり)
都三中伝へし一中節の系図ありいぶかしき事もあれど左に移し出せり(常盤津系図 はこれによりて
 作り添へし ものなり)

(左右頁上段)
伊藤出羽掾 
 岡本文弥

都越後掾
太夫一中
一中嫡子千朴改 都若太夫一中
聟 都金太夫三中
弟子 千中改 都秀太夫一中
吾妻路宮古太夫(都金太夫三中改 入道而千朴)
太夫一中(吾妻路宮古太夫改)

(左右頁下段)
大坂
 山本阿内掾 山本飛騨掾
京角太夫
 山本土佐掾
奈良
 小林平太夫
大坂阿波太夫
 岡本鳴渡太夫
大坂
 表具又四郎
いせ岡本市太夫

木屋七太夫
京 岸本平太夫

弟子 宮古路豊後掾(由太夫 半中改)
弟子 宮古路文字太夫(又都千中に習 後常盤津と改)

都三中(後盲人に成)
(清中改) 三中
(桂宇改)都三中 
     都栄中 
     都桃中


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(一中はこれより以後三人あり七代にして中絶す五代六代の墓所は江戸小梅常泉寺にあり五代は文政五年午七
 月五日に終り六代は天保五年午三月十八日終れり)
一中并千中三中等が語りし浄瑠璃の目録こゝに大抵を挙ぐ

伝授小町 万屋助六心中(此上るりは延宝六午年山本土佐が芝居にて一中語り始め江戸 にてもはやりしを元禄の頃髭の無休といへる遊客ありしを取更へ
 て花川戸助六といへる男立元吉原へ通ひし事を今あげ巻に仕くみて 市川団十郎津打治兵衛にかたらひて作りし狂言なるよし立川焉馬が芝居年代記に云り) 椀久末の松山
菜種の花盛 辛崎浪枕  彦三(ひこさう)近江八景  愛染明王影向
(おしゆん 伝兵衛)川原の心中  (以上土佐掾が芝居にて かたりし上るりなり)
(次に記すものは何れも一段上るりには景事道行の類なり且前後混乱ありと知るべしこのうち近松が作れる竹本
 の上るりのうち節譜をあらためてかたりしもの多し)
都辰巳の四季 源氏妹背の鶏合 鉢たゝき小町少々道行  (吾妻 与五郎)根曳の松
吉原競(くらべ)牡丹  墨絵の島臺(栄思述) 蓬莱松尽し 丹波与作木曽路の駒
お夏笠物狂 傾城三度笠道行 用明天皇船路の道行 しのゝめ道行
都見物左衛門 山荘太夫栗の段 山崎与次兵衛道行  (吾妻 与五郎)寿門松
尾上の雲賤機帯(しづはたおび)  歳且松かさね(一中阿六栄中 栄思作)  家桜傾城姿(千中)  信田妻
(お三 伊八)名護屋帯  松羽衣(疎柳補文) 頼光山入之段  衣洗之段
童子対面之段 日蓮記龍の口御難 発述顕本の段 同佐渡の海路
同塚原問答 鉢木鎌倉軍勢揃 同常世発馬 同開運

石和川鵜舟の篝 小春治兵衛天網島 曽我記念(かたみ)送  曽我駒の泪
自然居士過去物語 蓬莱子の日松 都若衆万才 柳の前道行
安光道行 神楽高砂 梅の由兵衛小梅道行 常盤御前道行
同弥平兵衛妹が宿 高砂松の段 染暖簾(三中)  紅葉の前道行
富士曙 大君花照姫道行 けしこく道行 色畑はらみわかな
江戸八景名所尽し 八千代玉垣なをしの前道行 怨霊そが 浦千島若葉の花(千中半太夫 かけ合)
和泉式部歌枕尽し 好色遊山八景 富貴曽我宮廻り はつね
大経師お三死出の道行 しゆじやか心中島尽し道行 さつきの前道行 八百屋お七枕屏風道行
子持山姥頼光道行 奈良八景桜尽し ひみつのごま道行常盤木道行
吉日鎧曽我とらうきな川 平野八景 あづま歌七枚起請お七道行
元服曽我しゆすびん 傾城忍ぶ草 鎌倉見物左衛門(半太夫かけ合)
ゆらし三つ物姫君道行 廓の寿 三座芝居役者名寄舟遊び替り見物左衛門
泰平舩尽し 秋の七種 品川八景 龍神
きのえね(疎柳述)  三幅対政方鉢たゝき道行 祇園暖簾茶屋名寄せ 石垣風流
天智天皇美人揃 手枕曽我鎌倉八景 同進上物揃 都遊子風呂敷よせ
しきつの浦大湊風流町づくし 石垣色芦新名よせ  有馬土産湯女(ゆな)紋尽し
越路湊女郎名寄浮世万才 てつとう仙人四季山廻り 姫瀧水の上風流
はん女(山田琴 かけ合)  千卜江戸土産(初代にはあらず とも云)  千卜北国みやげ 香尽し五丁曙
傾城名寄園生松  わくらは(河東 かけ合)  三勝半七心中道行 同玉子酒
此頃草 姿見浅間 傾城浅間嶽  解語(かいごの)花
江のしま 富貴曽我 長生館 隅田の春
弱冠三番叟  緑玉(みどりの)草  (小梅 由兵衛)尾波瀬の井  都鳥


60
釣香炉 あぼし色あんどう 傾城三幅対 八重霧かしこ軒屋敷
かしく墓所 放下僧 かなむら屋 夢松風
業平河内通ひ 那須野 日向景清 田簑白鶯
えぼし折  隅田川舩の図(三中河東 かけ合) 蝉丸上下 双児隅田川
釈迦八相記 あたか勧進帳 小いな半兵衛唐橋心中 薄雪姫道行
風流隅田川  源氏十二段(河東 かけ合) 小春髪結 お夏清十郎沖中川
松の内(河東ぶし 同名)  夕霧浅間嶽(千中 三中)  吉原八景花紅葉錦廓(故左交述)
春の山(萩口琴唄 両吟)  木の葉揃  圓の月

此余尚あるべし前に記せる所の内にも今曲節の伝らざるものあり
 貞佐が編の代々蚕と云る句集に
  題 都一中  此てなし 我も十徳ほとゝきす 貞佐
         葵をも 付す 黒骨の瑠璃  舞蛟(虫へんに更?)
漂海と云一中が三味線は都里三と云盲人なり元来一中が寺に在し時檀家の勾当なりしが
さみせんの上手にて一中が三味線を弾あるきしが江戸へ下りて里三とあらためしといへり菅野
序遊一中節のさみせんをひきて今に相続せり
 五代印 六代印 七代印

 此図は享保八年癸卯の
 略歴を浄るりに作りたる
 富貴暦といへる一中節
 浄るり本の外題の画にて
 則一中の像なり

  六角通八文字屋板本とあり

又或人声曲の事を記したる一巻を蔵せりいぶかしき件もあれど考証のひとつにうつし出せり

 都譜決義
崇徳天皇保延二年丙辰六月覚錂(?)朗詠を和らげ今様を作る其又絶てなかりしを
 歎き前の大僧正慈鎮此素意を嗣たり)
  はるのゆふへを見わたせば花さかりかもしら雪のかゝらぬ山とそなかりけれ


61
嘉吉より応仁迄廿余年の乱れに今様の調声絶て世にすたれたるをなげき大徳寺の宗
純和尚一変して謡曲を作れり曲の章は秦四郎左衛門が家に伝ふ
  光源氏装束ものかたり
此節右近入道一変して歌を加へて専ら世に弄ぶ
  慶長十一年
○○○御地築音頭
  八千代節 松重 石引唄
六字一風伊豆の船唄をとりて八千代節を作り牛若鞍馬遊をとりて松かさねを作りのち
に唄ひたり
  堀河 風俗一段 奥州落二段
此二段は平家と東鑑によれり
  十二段物語
小野の阿通岩橋検校くらま遊びによつて作る
  頼光一生事
淀検校希清秦が家の譜に依て作る後に大さつま外記に伝ふ四郎五郎呉中出水土佐と
心を合て
  蛭か小島物語 自然居士噺
是等の遺作に節付して一外南無右衛門に譲る都に西鶴と云は
侍なり 天正 正親町院の例を以て万治年間
叡聞に達せり都節譜章の響はけだし是より濫觴とす
  布谷平左衛門 後西鶴 都乙中但馬掾
寛永年間幸若無免状して村松幸内猿若に十番の狂言を伝ふ

  奈良法師山崎通 新発意太鼓 門松祝
是者猿若が家に伝ふて乙中と猿若とは此西鶴より始りたるものや
         藤原福信謹写
六字一風 四郎五郎 呉中 出水一外等の事他に所見なしこゝに記せし西鶴は次の巻に記す大坂の俳師
西鶴か事とも見えず此巻を書せる藤原の福信も何人にやしらず

 京(紋)宮古路豊後掾橘盛村(みやこぢぶんごのじやうたちばなのもりむら)
都一中が門人にして始は都国太夫半中(はんちう)と号し後に宮古路国太夫と改め一中節を
変化せしめ一流を語り出し享保三年戌十一月大坂竹本座に於て始て芝居を勤む
(此時博多女郎浪枕 といふをかたれり)夫よりこのかた国太夫節とて諸国に聞ゆ(江戸節根元集に国太夫が弟 子文五郎といふもの江戸に下りて
 豊後掾と改るよし記して国太夫と豊後譲を 別人とする事附云のせつなり)享保の末江戸へ下り宮古路豊後掾とあらため
(役者五雑俎には享保 十五年江戸へ下るとあり)葺屋町河岸播磨といへる小芝居を勤む(此時睦月の玉椿名古屋 心中といへるにかなむらやおさん
 村上常五郎畳屋伊八に沢村嘉十郎勤め大当りをなせり都て 豊後が節所作によく合ふ節なれば分てこれを賞しけるとかや)同十九寅年堺町中村座
於て誉れをなしそれより世人宮古路節又豊後節と称して世に行はる(元文四年 己未宮古


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 路の曲節御制 禁あり)元文五年庚申九月執る□才にして病みて語れり(延享三年寅九月 宮古路文字太夫
 浅草寺奥山薬師堂の前に墓碑を 建る銘文略也按るに葬地には有べからず)門人可内弁中林中(豊後譲国太夫半中といひし頃の弟子 なり後上るりを止めて針医となれり)
太夫太夫太夫太夫豊八河内太夫佐渡太夫志妻太夫吾妻太夫式部
太夫右膳文車造酒太夫久我太夫太夫太夫鈴鹿太夫太夫太夫美名
太夫太夫小妻太夫富士太夫等其外数ふるにいとまあらず(豊後掾三味せんの相方 は鳥羽や三太郎が弟子の
 佐々木市蔵三絃の手付三右衛門也国太夫始は竹本豊竹の世話上るりを取直して語りし故 新作の五段つゞきの時代事なし此時代まで出語りに一刀を帯しけるが今此事なし)宮古路文字太夫(豊後が 伜或は
 養子共 いふ)後常盤津と号し一派をなし今に連綿たり(按るに宮古路豊後江戸へ下りてより浄るり行れ それが髪の風を学びて油にてかため毛筋はわれ
 めなしわげのこしを突立元結多く巻入がみ少し八はけ先に竹串を入巻鬂(びん)とてびんの毛を下より上
 へかき上月代のきわにて巻込て結たり是を都風呂風とも又文金風とも云よし我衣賤の小手巻(をだまき)等に云り)

都一中門人
 宮古路豊後掾(始国太夫半中)  (稽古本の印)
  江戸 宮古路文字太夫(後常盤津と号す)
   同 宮古路加賀太夫(後富士松薩摩掾と号す)

   同 宮古路綱太夫
   同 宮古路数馬太夫(後松本と号下品の一流なり)
  江戸 富本豊前掾(始宮古路品太夫と云其後常盤津小文字太夫と改む
           師と絶して別家となり一家をなす三の巻にくはし)
   同 富本斎宮(いつき)太夫(後剃髪して延寿斎と号)
   同(二代)富本豊前太夫(初名馬之助)
  江戸 敦賀若狭掾(始宮古敦賀太夫と号し後富士松と改め師と絶して苗字を朝日と改め
           若狭掾と受領し又苗字を敦賀とあらたむ三の巻にくはし)

 京 宮古路仲太夫
譚海に云仲太夫は一中節と豊後節の間を語りたる故に仲太夫といへり殊に豊後
掾いまだ江戸へ下らさる時故珎らしき事にして仲太夫大にはやりたり元より声
よく器用なるにまかせて浄るりは修行なけれどもはやりたりとぞ(仲太夫もとは伊勢 古市抔の旅芝居
 をかせぎて役者の衣裳 着せといふものなりしと云り)又文仲といふも仲太夫が弟子にて常に仲太夫が脇を語りある


63
きたり(是は堀江町の 足袋やなり)後に林中竹文中を取たてゝ宮古路と名乗たり仲太夫が三味
線につまいちと云盲人あり始土佐節を弾たりしが土佐節廃れて仲太夫節を
ひく又宮古路志津摩と云ものあり仲太夫が弟子也(志津摩流の手跡をよく 書し故かくいはれしなり)志津摩
浄瑠璃に器用にして後には仲太夫とはりあふ程に成り豊後掾が弟子になりて人の
知たる者なり(中略)宮善(みやぜん)といふは宮本善八といふ霊巌島の商人(あきうど)なり仲太夫が弟子
にて浄るり巧者也と云々(享保の末元文 のころなるべし)

 大坂(紋)宮古路繁太夫
豊後掾が門人なり繁太夫節とて一派をなし大坂島の内に行れたり

 京(紋)宮古路薗八(そのはち)(鸞鳳軒と号す 三絃豊沢友藏・三津木富蔵等なり)
同門人にして江戸へ下り宝暦明和の頃薗八郎とて一時三都に行れしと云始宮薗
太夫同和国太夫太夫等勤しなり今も江府に邂逅(たまさか)に此曲節残れり京師

にも残れど彼地にては下品の類とていやしむるとかや(薗八の舎弟宮薗春太夫江戸に 於て一派をなし春太夫節とて行
 れたりこれが弟子清八といへるは三味せんの上手なりしが
 声よくして上るりを覚へ宮薗千枝といふ天保五午年終れり)

 京 春富士正伝(はるふじしやうでん)
寛延宝暦の頃京都より江戸へ下り吉原に居す正伝節とて一時世上に行れ
豊後節の一類也(京都にて醤油を商ひし伝兵衛と云ものなり世人醤伝とよびしかば文
 字をあらためて正伝と号すると今京師に残れど下品の類ひとていや
 しむる とかや)

声曲類算巻之壹畢