仮想空間

趣味の変体仮名

義経千本桜 第二


読んだ本 https://archive.waseda.jp/archive/index.html
     イ14-00002-842


24(左頁)
   第二
吹く風につれて聞ゆる ときの声 物すさましき気色(けしき)かな きのふは北闕の守護けふ
は都を落人の 身と成給ふ九郎義経 数多の武士もちり/\゛に成り亀井六郎駿河
次郎 主従三人大和路へ夜深に急ぐ旅の空 跡ふり返れば堀川の御所も一時の雲
煙 浮世は夢の伏見道 稲荷の宮居にさしかゝれば 亀井六郎おくればせにかけ付 正しくあ
鯨波は鎌倉勢 後ろを見するも無念也 御赦を蒙つて一合戦仕らんと 申上れば
いやとよ重清 都にて舅川越太郎が云し鎌倉殿の憤り明白に云開き 卿の君の


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あへなきさいごも 義経が身の云訳なるに はやまつて弁慶が海野の太郎を討たる故
やむ事を得ず都をひらくは 親兄の礼を思ふ故此後は猶以て 鎌倉勢に刃向はゞ 主従
の縁も夫限りと 仰せに二人も腕撫でさすり 拳を握つて控ゆる折から 義経の御跡を慕ひ
こがれて静御前 こけつ転びつ来りしが 夫レと見るよりすかり付き どうよくな我君と暫し
涙にむせびしが 武蔵殿を制せよとわしをやつた其跡で 早御前をお退きと聞き二里三里
おくれる共 追付は女の念力 よふも/\むごたらしう 此静を捨置てふたりの衆も聞へ
ませぬ わしも一所に行様に取なしいふて下さんせと 歎けば供に義経も 情によはる御心

見て取て駿河次郎 ヲゝ主君も道すがら噂なきにはあらね共 行道筋も敵の中 取分けて落
行き先は多武の峯の十字坊 女義を同道なされては寺中の思はくいかゞ也と すかしなだむる時し
もあれ 武蔵坊弁慶息を切て馳せ着き 土佐坊海野を仕舞ふてのけんと 都に残り思は
ず遅参仕ると 云もあへぬに御大将 扇を以ててう/\と なぐり情も荒法師を 目鼻
もわかずたゝき立 坊主びく共動いて見よ 義経が手討にすると 御怒りの顔色に思ひがけ
なき武蔵坊はつと恐れ入けるが 此間大内にて 朝方殿に悪口せし迚御勘当 永々出仕も
せざりしが静様の詫言で 御免有たはきのふけふ 其勘当のぬくもりが手の中にほの/\と まだ


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さめ切ぬ其中に 又候や御機嫌をそこなふたそふなれど 弁慶が身に取て 不調法せし覚へ
なし ヤア覚なしとはいはれまい 鎌倉殿と義経が 兄弟の不和を取結ばんと川越が実義
卿の君が最期を無下にして 義経が討手に登りし 鎌倉勢をなぜ切た 是でも汝が誤り
で有まいか サア返答せよ坊主めと はつたと睨んで宣へば 武蔵は返す詞もなく 頭も上げ
ず居たりしが 憚りながら其事を存ぜぬにてはあらね共 正しく御前の討手として登たる土
佐坊 いかに御意が重い迚主君をねらふをまし/\と 見て居る者の有べきか さある時は
日本に忠義の武士は絶果てなん 誤りならば幾重にもお詫言仕らん いかに御家来なれば迚

余(あんま)りむごい叱りやう 是といふも我君の漂泊よりおこつた事 無念/\と拳を握り 終(つい)
に泣ぬ弁慶が足らない涙をこぼせしは 忠義故とぞしられける 静も武蔵が心をさつつぃ
あれ程にいふてじやのに どうぞマア御了簡と やはらかな詫言の其尾に付いて亀井駿
河 御免/\と詫びければ 義経面(おもて)をやはらげ給ひ 母が病気で故郷へ帰りし 四郎兵衛忠信を 我
が供に召連れなば武蔵が詫は聞ね共 行き先が敵となつて 一人でもよき郎等を力にする時
節なれば 此度は赦し置くと 仰に弁慶はつと斗に頭をさげ 坊主天窓を撫廻し 是に懲り
よ武蔵坊 アゝ静様は重々の詫言 いかいお世話と悦べば マアお詫がすんでめでたい 是


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からは此静が君のお供をする様に 取なし頼む武蔵殿と 思ひ詰たる其風情 今詫言
頼だ迚当り眼な返報 義経でもあつと申たけれど此弁慶其意を得ぬ 御家来
さへ跡先に引分れて行忍びの旅 落付く所は兼て聞置く多武の峯 是以て女は叶はず
夕部にかはる人心なれば 十字坊の所存も量りがたし 是より道を引ちがへ 山崎越えに津の国尼
か崎 大物の浦よりお舩にめし 豊前の尾形を御頼有ふもしれず 夫レなれば長の船路 猶
以てお供は成まい ふつつりと思ひ切て都にとゞまり 君の御左右(さう)を待給へと いふにわつと泣出し
今迄お傍に居た時さへ片時おめにかゝらねば 身もよもあられぬ此静いつ又逢れ

る事じややら 行き先しれぬ長の旅跡に残つて一日も 何と待て居られうぞ いか成うきめ
に逢迚も ちつ共いとはぬ武蔵殿 連ていて下さんせと涙ながら我君に ひし/\と抱付き
離れ かたなき風情也 静が別れに判官も目をしばたゝきおはせしが 只今武蔵が云通
行先知れぬ旅なれば 都に残り義経が迎ひの舩を待べしと 亀井に持たせし錦の袋 夫レこな
たへと取出し 是こそ年来義経が望をかけし初音の鼓 此度法皇より下し給はり
我手には入ながら一手も打つ事なりがたきは 兄頼朝を討てと有院宣の此鼓 打たねば違
勅の科遁れず 打てば正しく鎌倉殿に敵対も同前 二つの是非をわけ兼たる此鼓


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身をも離さず持たれ共 又逢迄の筐共 思ふて朝夕なくさめと 渡し給へば 手に取上 今迄
はさり共思ふ願ひも綱も切れ 鼓をひしと身に添て かつぱちふして泣いたる 亀井六郎すゝ
み出 長詮議に時移り土佐坊が残党原 討て来らば御大事と 重清に諌められ
涙と供に立給へば 静は其儘我君の御袖にすがり付き わし一人ふり捨られこがれ死に死なn
より 渕川へも身を投げて 死ぬる/\と泣さけべば 人々も持余し 過ち有ては我君の御名の疵 何
とせん方駿河次郎 立寄て会釈もなく取て引退け 幸のしばり縄と鼓のしらべ引ほどき
静の小腕(かいな)手ばしかく 過ちさせぬ小手縛り 道の枯木(こぼく)に鼓と供に がんじがらみにくゝり付け

サア邪魔払ふたり いざゝせ給へと諸共に道をはやめて急ぎ行 跡に静は 身をもがき我君の
後ろかげ見ては泣ないては見 エゝどうよくな駿河殿 情にてかけられたしばり縄はうらめしい 引けば
悲しやお筐の鼓がそこねう何とせう ほどいて死せて下されと 声をはかりに泣さけぶは
目も当られぬ次第也 落行く義経遁さじと土佐が郎等逸見(はやみ)の藤太 数多の雑兵
めい/\松明腰提燈 道を照して追かけしが 枯木のかげに女の泣声 何者ならんと立寄つて ヤア
こいつこそ音に聞 義経が妾(おもひもの)静といふ白拍子 縄迄かけてあてがふたはうまし/\ 此鼓も義
経が重宝せし 初音といふ鼓ならん 此道筋に判官も隠れ居るに疑なし 福徳の三年


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めと 藤太手早く縄切ほどき 鼓をばい取立行んとする所へ 四郎兵衛忠信 君の御跡し
たひ来て 斯くと見るより飛かゝり 藤太が肩骨ひつ掴み初音の鼓をばいかへし宙に提(ひつさげ)二
三間 取て投退け静を囲ひ ふんちかつて立たるは心地よくこそ見へにけれ ヤア忠信殿よい所へ よふ
みへたと悦べば逸見の藤太 扨は忠信よき敵 搦め捕て高名せんと ばら/\と追取まく
ヤアしほらしいうんざいめら ならば手柄に搦めて見よと 云せも立ず双方より 捕たとかゝるを
ひつぱづし 首筋掴んでえいやつと 右と左へもんどり打たせ 透間もなく後ろより 大勢ぬき
連れ切てかゝれば 心得たりと抜合せ つばなの穂先とひらめく刀を 飛鳥のごとく飛越はね

こへかけ廻り 眉間肩骨なぎ廻ればわつと斗に逃退たり おくれて逃ぐる逸見の藤太が
そつ首掴んでどうど投げ足下にふまへ儕等が分際で此鼓を取んとは 胴よりあつき頬(つら)
の皮 打破つてくれんづと ぽん/\と踏のめせば ぎやつと斗を最期にて 其儘息は絶果たり
鳥井の本(もと)のこかげより義経主従かけ出/\ めづらしや忠信と 仰を聞よりはつと斗 こは存じ
よらぬ見参と 飛しさつて手をつけば 亀井駿河武蔵坊 互に無事を語りあふ 忠信
重ねて頭をさげ 先はかはらぬ君の尊顔 拝し申て拙者も安堵 某も母が病気見舞
の為お暇給はり 生国出羽に罷り下り永々の介抱 程なく母も本復致し 罷り登らんと


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存ずる中 君腰越より追かへされ 鎌倉殿御兄弟中不和と承はるより 取る物も取あへず
都へ帰る道すがら 土佐坊君の討手と聞夜を日についで堀川の 御所へ今晩かけ付しに 早
都をひらかせ給ふと 聞より是迄御跡したひ 思ひがけなき静様の御難儀を救ひしは 我存
念の届きし所と 申上れば御悦喜有 我も当社へ参詣して 今の働き委しくも見とゞけたり
鎌倉武士に刃向ふなとかたく申付たれど 土佐坊討れし上からは其家来を 忠信が討たる
迚構ひなし 今に始めぬ汝が手柄天晴/\取分けて 兄次信も我矢面てに立て討死したるは
希代の忠臣 其弟の忠信なれば 我腹心をわけしも同前 今より我姓名をゆづり

清和天皇の後胤 源の九郎義経と名乗り まさかの時は判官に成かはつて敵を欺き
後代に名をとゞめよ 是は当座の褒美迚家来に持せし御着せ長 忠信にたびけ
れば はつと斗に押戴き頭を土にすり付/\土佐坊づれが家来を追ちらせしと有て 御着せ
長を下し給はる其上に 御姓名迄給はるは生々世々の面目 武士の冥加に叶ひしと 天を
礼し地を拝し 悦び涙にくれければ 判官重ねて 我は是より九州へ立越え 豊前の尾形
に心を寄せん 汝静を同道して都にとゞまり 万事宜しく計らへと 君は静に別れを惜しみ
便りもあらば音信(おとづれ)んさらば/\と立給へば 今が誠の別れかと立寄り静を武蔵坊 亀


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駿河立隔て押隔つれば忠信も 我君に暇乞互に無事をと點(うなづ)き合 歎く静
を押退け/\ 心づよくも主従四人 山崎越に尼ヶ崎 大物さして出給ふ コレなふ暫し待て
たべと 行くをせいしとゞむれば 御行方を打守り 顔ばせを見る様で 恋しいわいのと地にひれ伏
正体もなく泣ければ ヲゝ道理/\去ながら 別れも暫し此鼓 君の筐と有からは 君と思ふ
て肌身に添へ うさをはらさせ給へやと 下し給はる御着せ長 ゆらりと肩にひつかたげ なだめ
/\て 手を取ば 静はなく/\形見の鼓肌身に添 尽きぬ名残にむせかへり 涙と供に道筋
をたどり/\て「行く空の 夜毎日ごとの入船に浜辺賑ふ尼ヶ崎 大物の浦に

隠れなき渡海や銀平 海をかゝへて舩商売店は碇帆木綿 上り下りの積荷
物 はこぶ船頭水主(かこ)の者人絶(だへ)なき舩問屋世をゆるかせに暮しける 夫は積荷の
問屋廻り内をまかなふ女房おりう 宿から客の料理拵へ 所から迚網の物塩から
な塩梅も あまふ育ちし一人娘 お安がついの転寝に風ひかさじと裾に物奥の襖
をくはらりと明け 風呂敷わいがけ旅の僧によき/\と立出れば 是はまあお客僧様 今御膳
を出しますにどこへお出なさるゝぞ されば/\西国へ出日和待て 連供迄もほつと退屈
只居よよりは西町へいて買物をしてきませう 是は/\残り多い 他のお客へは鳥貝


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鯰 御出家には精進料理分だつて拵へたに 終あがつてござらぬか イヤ/\愚僧は山府ぶなれ
ば精進せぬ 鳥貝鯰よかろぞや 夫レでもおまへ けふは廿八日で不動様の縁日 ほんに
そふじや 大事の精進 ハテなんとしよしよことがない いてきませうとふいと立あいた/\/\ ハアお
客僧様何となされた イヤ別の事でもないが ねて居るは爰の娘か 此子の上を踏こへたれば
俄に足がすくばつて エゝ聞へた ちいさふても女子なれば 虫がしらしてしやきばつた物であろ ヤア
大降りのせぬ中に いてきませうと武蔵坊 ばつてう笠ひつかぶりいふく共なく急ぎ行 母は
娘の傍に寄りコレお安 其様に転寝て 風ひいてたもるなやと 抱起せば目をすり/\

ヲゝ母様 おまへのなさる事見て居て 終とろ/\と一寝入 ヲゝ夫ならば目をさまして kさなら
ふた清書きを とつくりとよふ書て とゝ様のお目にかきやと 子には目のなき親心 手を引き納戸
に入にける かゝる所へ誰共しらぬ鎌倉武士家来引具し 亭主に逢ふと内に入ば 女房
驚き走り出夫は他行何の御用と尋れば 身は北条が家来相模権五郎といふ者 此度義
経尾形を頼み 九州へ逃下るとの風聞によつて 鎌倉殿の仰を受 主人時政の名代として 討
手に只今下れ共 打つゞく雨風にて舩一艘も調はず 幸此家に借り置いたる舩 日和次第
出船と聞く願ふ所なれば 其舩身共が借請け艪を押切て下らんず 旅人あらばほいまくり


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座敷を明て休息させい 早ふ/\と権威を見せてのし上れば 女房はつと返答に当惑
しながら傍に寄り 御大切な御用に舩がなふて嘸御難儀 手前のお客も二三日以前より
日和待して御逗留 今更舩を断り云て お前の御用にも立がたし 殊に先様も武士方なれば
御同船共申されず 何とぞ御了簡有て 今夜の所をお待なされて下さらば 其中には
日和も直り何艘も/\ 入船の中(うち)を借調へて上ませうだまれ女 逗留がなければ儕等
には云付ぬ 所の守護へ権付けに云付くる 奥の侍がこはふておのらが口から云にくゝば 身
共が直に云べいと ずんど立袂にすがり おあせきなさるは御尤なれ共 お前を奥へやりまし

て 直に御相対さしましては舟宿の難義 何分夫の帰らるゝ迄 お待なされて下されと
手をすり詫れどヤアひちくどいめらうめ 奥の武士に逢さぬは さつする所平家の余類か
義経の所縁の者 家来ぬかるな油断すなと とゞむる女房をはね退け突退け 又取付を
あらけなく踏倒し蹴倒すを 戻りかゝつて見る夫 走り入て彼侍が手を取て まつひら御免下
さるべし 則ち私此家(や)の亭主渡海や銀平 御立腹の様子我等に仰下さるべしと膝を折手を
つけば ムウ儕亭主なら云て聞さん 身は北条の家来なるが 義経の討手を蒙り 奥の
武士が借ったる舩此方へからん為 奥へふん込身が直に其武士に逢はふといへば わが女房が


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さへぎつてとゞむる故に今此時宜 ヘエ憚りながら そりやお前が御無理な様に存られます
なぜとおつしやりませ 人の借て置た舟を無理にからふとおつしやりますは ナア御無理じやご
ざりませぬか 其上にまだ宿かりの座敷へふん込ふとなされたを やらんとおつしやつて女房共
を踏だり蹴たりなさるゝは お侍様には似合ませぬ様に存ます 此家に一夜でも宿致し
ますれば商い旦那様 座敷の中へふんごましましては どうも私がお客人へ立ませぬ どうぞ御了
簡なされて お帰りなされて下さりませ イヤ素町人め 鎌倉武士に向つて帰れとは推参
是非奥へふん込むとそり打かへしてひしめけば アゝお侍様 夫レはお前の御短気でござりましよ

私も船問屋はして居ますれど 聞はつつておりますが 惣別刀脇指では 人切る物じや
ないげにござります お侍様方の二腰は身の要害 人の麁忽狼藉を防ぐ道具じや
とやら承はりました 去によつて武士の字は戈(ほこ)を止(とゞむ)るとやら 書きますげにござります ヤア
こりやくなやつめ あざけるほうげた切さからんと抜打に切付くる ひつぱづして相模が利き腕むずと
取 コリヤもふ了簡がならぬはい町人の家は武士の城郭 敷居の内へ泥脛を切込むさへ有
に 此刀で誰を切る 其上に平家の余類の義経の所縁なんどゝ 旅人をおどすのか よし
又判官殿にもせよ 大物に隠れなき 真綱(まづな)の銀平がおかくまひ申たら何とする サア真


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綱がひかへた ならばびく共動いて見よ 素頭(すかうべ)微塵にはしらかし命を取楫此世の出舩と
刀もぎ取宙に提持て出 門の敷居にもんどり打せば 死入斗の痛みをこらへ頬をしかめ
て起上り 亭主めよつく覚て居よ 此返報にはうぬが首さらへ落す覚悟せよ まだほう
げたたゝくかと 庭なる碇をぐつと指上 微塵になさんと投付くれば 暴風(はやて)にあふたる小船
のごとく 尻に帆かけて主従は跡を見ずして逃失ける ホゝウよいざま/\とたばこ盆引よせ
何と女房 奥のお客人も今のもやくやお聞なさつたで有ふなと 女夫がひそめく咄し
声 もれ聞経てや一間の襖押ひらき義経公 旅の艱苦にやつれ果たる御顔ばせ 駿

河亀井も跡にしたがひ立出る こは存よりなやと 夫も俄に膝立直し夫婦諸共手
をさぐれば 隠すより顕はるゝはなしと 兄頼朝の不享を請け世を忍ぶ義経 尾形を頼み
下らんと此所に一宿せしに 其方よくも量り知って 時政が家来を追い退け 今の難
義を救ふたる業に似ぬうい働き 我一の谷を責し時 鷲の尾といへる木こりの童(わつぱ)に
山道の案内させしに 山賊(やまがつ)には剛なる者故 武士となして召つかひしが夫レに勝た汝が働
天晴昔の義経ならば武士に引上げ召つかはんに おひなき漂白の身と 武勇烈
敷大将の 身を悔みたる御詞 駿河亀井も諸共に無念の拳を 握りける 是は/\有


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がたい御仰 私も此かいわいでは 真綱の銀平迚人にしられていますれど高が町人 今日
の働も必竟申さば竈将軍 些細なことがお目にとまつて 我々連れに御褒美の御
詞冥加に余る仕合せ 殊に君を見覚へ奉るは八嶋へ赴き給ふ時 渡辺端嶋より兵船の
役にさゝれ 拙者が手舩も御用に達し 一度ならず此度も ふしぎにお宿仕るもふかき
御縁 去によつてお客を存申上たきは 北条が家来取てかへさば御大事 一刻も早く御上船
然るべしと 云もあへぬに駿河次郎 我々も其心 此天気にて御出船はいかゞあらん アゝそれを
ぬかつてよござりましよか 弓矢打物はおまへ方の業 舟と日和を見る事は舟問屋

の商売 きのふけふは辰巳 夜半には雨も上り 明方には朝嵐にかはつて 御出船に
はひんぬきの上々日和 数年の功にて見置たと 見透す様に云けるは其道々としられ
ける 亀井六郎ずんど立ヲゝ銀平出かしたり 其方が詞に付いて雨の晴間に片時(へんし)も早
く 主君に御供仕らんと申上れば義経公 船中の事は銀平が宜しく計らひ得させよと
仰にはつと頭をさげ 只今も申通 幼少より舟の事はよく鍛練仕れば 御見送の客拙者
も手舟で 須磨明石の邊迄参らん 元舟の有り所は五町余り沖の方 舟は則ち日吉丸
思ひ立日が吉日吉祥 我も雨具の用意を致し跡より追付奉らん女房 君を御


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見立申せと云捨納戸に入ければ 妻は心得御身をば隠れ簑笠参らする ヲゝ心遣ひ
忘れじと 亀井駿河諸共に簑笠取てきせ参らせ 二人も手早く紐引しめいざゝせ
給へと主従三人 打連立て浜辺に出兼て用意の艀(はしふね)に召給へば 両人も飛乗り/\
サア/\船頭仕れと もやひほどけば女房 門送りして船場におり 御武運めで度まし
/\て 御縁もあらば重ねて御目にかゝるべしさらば /\に艪を押立沖へ出舩
女房は いきせき内へ入相時 アゝ心せきやと 火燧(ひうち)ならして油さし神棚
おうへに灯をてらし 娘々お安/\と呼出し 暮方に手習もおきやらいで 今夜はとゝ

様侍衆を 元舩迄送つてなれば そなたもねる迄爰に居や ほんにぬしとした事が 千里
万里も行様に身拵へ もふ日も暮た 楊伊賀よくばいかしやんせと よべどくつ共おらへ
なし 若し昼の草臥で転寝では有まいか 銀平/\と呼立れば 抑是は桓武天皇
代の後胤 平の知盛幽霊なり 渡海屋銀平とはかりの名 新中納言とも
盛と実名を顕はす上は 恐れ有と娘の手を取 上座に移奉り 君は正しく八十一代の
帝 安徳天皇にて渡らせ給へど 源氏に世をせばめられ 所詮勝べき軍ならねば 玉(ぎよく)
体は二位の尼抱き奉り 知盛諸共海底に沈みしと欺き 某供奉して此年月 お乳(ち)


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の人を女房といひ 一天の君を我子と呼び 時節を待しかひ有て 九郎太夫義経を今宵
の中(うち)に討取年来の本望を達せんは 悦ばしやな 典侍(すけ)の局も悦ばれよと いさ
める 顔色威有て猛く 平家の大将知盛とは其骨柄に顕はれし 扨は常々の御願ひ 今
夜と思し立給ふな わきて九郎はすゝどき男 仕損じばしし給ふな ヲゝ夫にこそ術(てだて)有 北条が
家来相模権五郎といひしは 我手下の船頭共 討手と偽り狼藉させ 某義経に方人(かたうど)
の体を見せ心をゆるさせ 今夜の難風を日和と偽り 船中にて討取る術なれ共 知盛こそ生
残つて 義経を討たん也と さた有ては末々君を御養育もならず 重ねて頼朝に怨(あだ)も報はれず

去によつて某人数を手配り 艀に跡よりほつ付き 義経海上にて戦はゞ 西海にて亡びたる平家
の悪霊 知盛が怨霊也と雨風を幸に 彼等が眼をくらません為 我形も此ごとく 怪しく見
する白糸威 此白柄の長刀にて 九郎が首取立帰らん 勝負の相図は大物の沖にあた
つて 提燈松明一度に消へなば 知盛が討死と心得 君にも覚悟させまし 御骸見ぐるし
なき様に ヲゝ跡気づかはずとよき奏をしらせてたべ 知盛早ふと勅(みことのり)こは有がたしと龍顔を
拝し申せばおとなしき 八つの太鼓も御年の 数を象る相図のしらせ 早お暇と夕浪に
長刀取直し 巴波の紋 あたりをはらひ砂(いさご)を蹴立 早風につれて 眼をくらまし飛が


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ごとくに「かけり行 跡見送つて典侍の局 御傍に指寄て 今知盛のおつしやつたを
よふお聞なされたか 稚けれ共十善の君 此さもしき御姿にては軍神への恐れ有り 御
装束と立上り まさかの時は諸共に 冥途の旅の死に装束と心にこめし納戸口 涙隠し
て入にける 夜も早次第に更け渡り 雨風はげ敷く聞ゆれば 今頃は知盛の難義しや
らにとおしやと ねびさせ給へば一向(ひたすら)に 案じ詫たる御気色 程なく局は山鳩色の御衣冠
うや/\敷臺にのせ 其身も供に衣服を改め一間を出 片時も早く御装束と御傍
に立寄り 賤の上着を脱かへて 下の衣上の衣 御衣冠に至る迄めさしかゆればあてやか

に 始の御姿引かへて神の御末(みすへ)の御粧ひ いと尊くも見へ給ふ サア是からは知盛の吉左右(きつさう)
を待つ斗と そよとの音もしらせかと胸とゞろかす太鼓鐘 すはや軍真最中と君のお
傍に引添て しらせを今やと待折から 知盛の郎等相模五郎 息つぎあへず馳せ付けば様子は
いかに 早ふ聞せよ/\と局もせきにせき立たり されば兼ての術の通暮過より味方の小
舩を乗出し/\ 義経が乗たる元舩間近くこぎ寄せしに 折しも烈敷武庫山嵐に連れ
てふりくる雨雷(いかづき) 時こそ来れと水練得たる味方の勢 皆海中に飛込/\ 西国にて亡びし
平家の一門 義経に恨みをなさんと声々に呼はれば 敵に用意やしたりけん 提燈松明ばら


40
/\と味方の舩に乗移り 爰をせんどゝ戦へば味方の駈武者大半討れ 事危し見へ候
某は取てかへし 主君知盛の御先途を見とゞけんと 申すもあへずかけり行く サア/\大事が發(おこ)つて
きた さるにても知盛の御身の上気遣はし 沖の様子はいかならんと一間の戸障子押明くれば 提
燈松明星のごとく 天をこがせばまん/\たる海も一目に見へ渡り 数多の小舩やり違へ/\ 舟矢
倉を小だてに取り 敵も味方も入乱れ舟を飛越はねこへて 追つまくつつえい/\声にて
切結ぶ 人かげ迄もあり/\と戦ふ声々風につれ 手に取様に聞ゆるにぞ あれ/\御らんぜ
あの中に知盛のおはすらん やよいづくにとのび上り 見給ふ中に提燈松明 次第/\に消へ

失せて沖もひつそとしづまれば 是こそは知盛の討死の相図かと あまり軻れて泣れも
せず途方に くれて立たる所に 入江丹蔵朱(あけ)に成て立帰り 義経主従手いたく働き
味方残らず討死まつた主君知盛も 大勢に取まかれすでに危く見へけるが かいくれに
行方知れず 必定海に飛込で御最期と存ずれば 冥途の御供仕らんと云もあへず
諸肌くつろげ 持たる刀腹に突立て汐のふかみへ飛込ば ヤア扨は知盛もあへなく討れ給ひし
か はつと斗にどうど伏し前後もしらず泣ければ 君も見る事聞く事の悲しさこはさ取交ぜ
て 供に涙にくれ給ふ 局は歎きの中よりも君を膝に抱上 御顔つく/\゛と打守り 二とせ


41
余りは此見苦しきあばらやを 玉の臺(うてな)と思召ての御住居 朝夕の供御(ぐご)迄も 下々と同じ
やうにさもしい物 夫さへ君の心では 殿上にての栄華共思ふてお暮しなされしに 知盛お
果なされては賤がふせやに御身一つ直奉る事さへもならぬ様に成果てて 終には此浦の土
と成給ふかや 上もなきお身の上に悲しい事の数々がつゞけばつゞく物かいのと くどき立/\
身もうく 斗歎きしが アゝよしなき悔みごと 御覚悟急がんと涙ながら御手を取 なく/\「浜辺へ
出けれど いと尋常なる御姿此海に沈めんかと 思へば目もくれ心もくれ身もわな/\と
ぞふるひける 君はさかしくましませど 死ぬる事とは露しり給はずコレのふ乳母 覚悟/\

といふて いづくへ連て行のじやや ヲゝそふ思召すは理り コレよふお聞遊ばせや 此日の本にはな
源氏の武士はびこりて恐ろしい国 此波の下にこそ 極楽浄土といふて結構な都が
ござります 其都には ばゞ君二位の尼御を始め 平家の一門知盛もおはすれば 君もそ
こへ御幸(みゆき)有て 物憂き世界の苦しみを まのがれさせ給へやと なだめ申せば打しほれ給ひ アノ
恐ろしい波の下へ 只一人行くのかや アゝ勿体ない 此お乳が美しう育て上たる玉体を あのなん
くたる千尋の底へやりまして 何と身もよもあれうぞ 此お乳もお供する いとしかはいの
養ひ君 何とお一人やられうぞ 夫レなら嬉しいそなたさへいきやるならば いづくへなり共行わいの ヲゝよふ


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云て給はつたと 引よせ/\抱しめ 火に入水に溺るゝも先の世の約束なれば 未来の誓
まし/\て 天てらす大神へ御暇乞と 東に向はせまいらすれば美しき御手を合せ伏拝み給ふ
御有様 見奉れば気も消へ/\゛ ソゝよふお暇乞なされたのふ 仏の御国はこなたぞと ゆひ指す
方に 向はせ給ひ 今ぞしる みもすそ川の流れには 波の底にも 都有とは詠じ給へば ヲゝおで
かしなされた よふお詠み遊ばした 其昔月花の御遊の折から かやうに歌を詠給はゞ 父帝は
申に及ばず 祖父清盛公二位の尼君 取わけて母門院様 なんぼう悦び給はんに 今は
のきはに是がまあ云にかひなき御製やとかきくどき/\涙のかぎり声限り歎きくど

くぞ道理なる 局は涙の隙よりも 御髪かき上かき撫て今は早 極楽の御門出を急
がんと 帝をしつかとだき上て 礒打波にもすそをひたし 海の面を見渡し/\ いかに八大龍
王がうがの鱗(うろくず) 安徳帝の御幸なるぞや 守護し給へとうづまく波に 飛入んとする
所に いつの間にかは九郎義経 かけよつて抱留給へば のふ悲しや 見ゆるして死せてたべと ふり返
つてヤアこなたは 声達なと帝を小脇にひんだかへ 局の小腕ぐつと捻上げ 無理無体に引
立/\一間の内に入給ふ かゝる所へ知盛は大わらはに戦ひなし鎧に立つ矢はみのけのごとく 威(おどし)も
朱(あけ)に染なして 我家の内に立帰れば 跡をしたふて武蔵坊表の方に立聞共 しらず


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知盛声を上天皇はいづくにまします お乳の人 典侍の局と呼はり/\どうど伏 エゝ無
念口惜や 是程の手によはりはせじと 長刀杖に立上り お乳の人 我君とよろぼひ/\かけ
廻れば 一間を踏明け九郎判官帝を弓手の小脇にひん抱き 局を引付けつつ立給へば あら珎らし
やいかに義経 思ひぞ出る浦浪に 知盛が沈みし其有様に 又義経も微塵になさんと 長
刀取直し サア/\勝負と詰寄る¥れば 義経少しもさはぎ給はず ヤア知盛さなせかれそ 義経
云事有と帝を典侍の局に渡し しづ/\と歩み出 其方西海にて入水と偽り 帝を供奉し
此所に忍び 一門の怨(あだ)を報はんとは天晴/\ 我此家に逗留せしより なみ/\ならぬ人相骨柄

さつする所平家の落人 弁慶に云含み帝をさぐる計略 誤て踏こへしに はたして武
蔵が五体のしびれ 其上我に方人の体を見せ 心をゆるさせ討取術(てだて) 其事を量り
しり 艀の船頭と海へ切込 裏海へ舩を廻しとくより是へ入こんで始終くはしく見届け帝
も我手に入たれ共 日の本をしろしめす万乗の君 何条義経が擒(とりこ)にするいはれあらん
一旦の御艱難は平家に血を引給ふ故 今某が助け奉つたる迚不和なる兄頼朝も 我誤り
とはよも云まじ 必ず/\帝の事は気づかはれそ知盛と 聞嬉しさは典侍の局 ヲゝあの詞
に違ひなく先程より義経殿 段々の情にて天皇の御身の上は しるべの方へ渡さふと


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武士のかたい誓言悦んでたべ知盛卿と 心魂を砕きしに 今夜暫時に術顕はれ 身の上迄
しられしは天命/\ まつた義経帝を助け奉るは 天恩を思ふ故是以て知盛が 恩にきるべきいは
れなし サア只今こそ汝を一太刀 亡魂へ手向んと 痛手によろめく足踏しめ 長刀追取
立向ふ 弁慶押へだて 打物わざにて叶ふまじと 数珠さら/\と押もんでいかに知盛
かくあらんと期したる故 我もけさより舩手に廻り 計略の裏をかいたれば 最早悪念発起
せよと 持たるいらたか知盛の 首にひらりと投かくれば ムゝ扨は此数珠かけたのは 知盛

に出家とな エゝけがらはし/\抑四姓始つて 討ては討れて 討れて討は源平のならひ
生かはり死かはり 恨をなさで置べきかと 思ひ込たる無念の顔色 眼血ばしり髪
逆立 此世から悪霊の相を顕はす斗也 かくと聞より亀井駿河主君の身の上気
づかはしと 追々かけ付取廻せば 御幼稚なれ共大望は始終のわかちを聞し召 知盛に向
はせ給ひ 朕を供奉し 永々の介抱はそちが情 けふ又丸を助けしは 義経が情なれば 仇
に思ふな知盛と 勿体なくも御涙を浮め給へば典侍の局供に涙にくれながら ヲゝよふ
おつしやつた いつ迄も義経の志必ず忘れ給ふなや 源氏は平家のあだ敵と 後々迄も此


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お乳(ち)が 帝様にあだし心も付つかと人々に疑はれん さあれば生てお客にならぬ 君の
御事くれ/\゛も 頼置は義経殿と 用意の懐剣咽(のんど)に突立て名残惜げに御顔を 打
守り/\さらばと斗を此世の暇 あへなく息はたへにける 思ひ儲けぬ局の最期 君は猶さら
知盛も 重なる憂目に勇気も砕け暫し詞もなかりしが 天皇の御座近く涙を
はら/\と流し 果報はいみじく一天の主と産れ給へ共 西海の波に漂ひ海に のぞ
め共汐にて 水にかつせしは是餓鬼道 ある時は風波にあひ お召の舩をあら磯に
吹上られ 今も命を失はんかと 多くの官女が泣さけぶは あびけうくはん 陸(くが)に源平

戦ふは 取もなをさず修羅道の苦しみは源氏の陣所/\に数多駒のいなゝく
畜生道 今いやしき御身となり人間の憂艱難 目前に六道の苦しみを請け
給ふ 是といふも父清盛 外戚の望有によつて 姫宮を御男宮といひふらし
権威をもつて御居位につけ 天道をあざむき 天照大神に偽り申せし其悪逆
つもり/\て一門我子の身にむくふたる 是非もなや 我かく深手を負たれば
ながらへ果ぬ此知盛 只今此海に沈んで末代に名を残さん 大物の沖にて
判官に 怨をなせしは知盛が怨霊なりと伝へよや サア/\息ある其中に


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片時も早く帝の供奉を頼む/\とよろぼひ立ば ヲゝ我は是より九州の尾
形方へ赴く也 帝の御身は義経がいづく迄も供奉せんと 御手を取て出給へば亀井駿河
武蔵坊 御跡に引添たり 知盛莞爾と打笑て きのふの怨はけふの味方 あら心安や
嬉しやな 是ぞ此世の暇乞とふり返つて龍顔を 見奉るも目に涙今はの名残に
天皇も 見返り給ふ別れの門出 とゞまるこなたはめいどの出舩 三途の海の瀬踏せん
と碇を取て頭にかづき さらば/\も声斗 渦巻く波に飛入て あへなく消たる忠心義臣 其
亡骸大物の千尋の底に朽果てて 名は引汐にゆられ流 /\て跡白波とぞ成にける