仮想空間

趣味の変体仮名

浪花文章夕霧塚 第九冊目

 

読んだ本 https://archive.waseda.jp/archive/index.html

     浄瑠璃本データベース  イ14-00002-603

 

63(左頁)

  第九冊目

錦なす都の家居 軒はへし 猪隈(いのくま)通りに憂ふしの竹の格子に井の字窓 手習指南の看

板も墨ぐろに書く能筆の流儀も玉置新蔵と所にしるき弟子取も けふは休みと未明から

留主は一人の母親が 手まめに箒取かたづ付け隅々迄もはき掃除 きれい好とはしられたり 折から

表へ 頭巾まぶかにかぶりし男一僕は連れねど腰は二本ざし 門口に彳て 頼ませう新蔵殿はお宿にか

と いふ声聞て母は立出 躮は他行致しましたがお前はどなた 扨は其元は新蔵殿の御母義な 手前は

大坂道修町藤屋伊左衛門と申者の一家でござるが 新蔵殿とお近付てはなけれ共承り及び

 

 

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ちと御無心が有て参つた ナントお帰りの程はしれますまいかな イヤモウ若い者の事なれば 折節色町の

遊び所へ参りますれば 帰りと申てもしれませぬが マア何の御用でござります サアこなたへ申も

気の毒てはござれ共 御子息が色町へお出を御存の母御 大方お聞及びも有ふ 右伊左衛門義は若気

の余り 新町の傾城屋の夕霧になじみを重ねし所に 此度外ゟ見受の相談有により廓

を欠落 伊左衛門もいづくにおるか今に在り所しれず 此頃承れば其見受の客といふは則是の新蔵殿

跡へ廻つて親方へ見受金を渡され夕霧が身分は無事に相済たるよし さすれば主有女と

連れ立退たる伊左衛門は蜜夫同然 御立腹の段察し入て気の毒ながら 御無心とは爰の事

 

迚もくされやつた中 見付次第赦さぬなどゝ思召てからが畢竟は益ない殺生 何とぞ御料簡有

て夕霧が奉公人詫文を此方へ下されなば 何程か悦ばしう存ませう ホウ其様子は此母も委細に

存ておりますれど 我子ながらも新蔵が所存をしらねば 早速に進ぜませう共ナア申 今暫く新蔵

が戻る迄待合せて御らふじませ 然らば左様致そふかい いざこなたへと案内につれ一間にこそは入にけれ

所から清き流れの加茂川やたゞす顔でも色白に 容義けたかき女房は御所かと見れば肩裾の

ちらし模様は屋敷風色を包しふくさ物 手にすへて行後ろかげぶんこ結びもかはゆらし コレ/\女中待給へ

と なま酔どれの鬚奴足もしどとに付まとひ コレきだんは何がおつかなくて足早に行める イヤわ

 

 

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しやお使がいそぐによつてこな様と同じ様にべら付く事はならうんはいの イヤ身もべら付た事は嫌ひだから 今

の返事をちやく/\しめた ハア返事とは何のこつちやへ ハテ其返事はの やつこ/\何するべい そ様をだかへてかう

するべいと べつたり抱付きしなだれる 肘(かいな)を漸ふり払ひ ヲゝいやらし何じやの イヤ何とゆつたら恋さ/\ どふ

ぞ叶へてくれめしたらそれこそもふ ほんに/\とつぴやうじもなく有がたくて親子共に はらり/\と涙を流

いて悦ぶべい ハゝゝこりやおかしい こんなことに子供衆がいるかいの いる共/\ ソリヤどこに 爰にきつとしていますし

かも坊主の子でござる ヲゝわつけもないうたてやと逃(にぐ)るを抱とめコリヤ何じや 是は大事の物じやはい

の 其大事の物ちくと見せたい アゝこれ/\手あらうして下さんな見たか成程見せう程に とつとゝいん

 

で下されや エゝ色々の隙入といひつゝふくさ押明けて コレ此本は百人一首こな様(さん)見ん事よめるかへ ヤこな

女はあなずつた事をいふ 読だらいやとはいはさぬぞ そんなら見しやせぬ イヤ見にやおかぬと引合拍子 一枚さ

つと引破れば ヤゝゝゝ是はと仰天し 転業するも程が有る大切な物なぜ破つた あた意路わるいどう奴元の

様にしておこせ わしや何ぼでもきかん/\ まどへ/\とむしやぶり付く 後へによつと新蔵が戻りかゝつてつつと寄り

奴がえり首かい掴みひつかづいてもんどり打せば むつくと起て顔詠め ヤうぬはどこから出さばつてあの

女が肩を持ナゝゝなんでおらを投おつた ホウそりやしれた事女童をとらまへて 無体ひえおぐを見ちや

居られぬ 口惜くば相手に成るは サア立上つて勝負せい イヤ致したら猶いたかろ そんならとつとゝうせあが

 

 

66れと 突飛されて二足三足 思へば無念と立寄るきつさう 扨はする気か イゝヤ疝気がつつぱると腰

をかゝへて逃帰る ハレヤレ馬鹿な尻さらしめに出合て女中はいかいなんぎで有た ヤゝゝこれ/\待た/\ 見れ

ばこなたは石を拾(ひら)ふて袂に入かけ出すは そりや身を投て死るのか アイそりや又何で ナアそれは此百人

一首今の奴が破たりや お主へどぐも云訳がござりませぬ ムゝ成程そんなら尤じやが それ式の事

に死ず共どふで仕様が アゝかうさつしやれ 其手の随分板(はん)のよいのを吟味して買たがよかろ サア

それがどふもならぬはいな なぜに ハテ此百人一首は歌書(かしょ)手を撰で書(かゝ)された本なれば 買調へて間

に合す事は扨置 どこ尋ても外にはない物 所詮かうした災難に逢て 爰で死るも約束

 

事と 覚悟極めて居まするといひつゝ 涙の袖じぼる ハテ扨それはこまつた物近頃笑止千万と 本

取上ていかにも/\ こりや歌書手のひんぬき 扨も書たり見事/\と見る中思案し打點き コレ女

中気遣ひさしやんな死る事も何にもない エゝイそりやなぜに サアちつと心宛が有程にどぐぞして見よ

おれが内はつい爰じや マア/\ござれと打連立 急ぎて我家に立帰り 幸有あふ机を直し 件の本をと

きほぐし紙取出し裁ち合せ ムゝ破た紙の表は権中納言定家 裏は又正三位家隆(かりう) 何れもしれた

読み歌の 書様は是が手本 につこらしう見へればよいがと いひつゝ硯引寄せて 墨摺ながし書かゝる 天地の

明やう字の置やう假名の間賦(くば)り引捨の われかすり迄気を付てうつせばうつる筆のあや 見合せ

 

 

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/\書仕廻 破れし跡へ指入てきり/\しやんととぢ直し ッソレ改めて見さつしやれ アイとひらいて下地と見くらべ

扨も我おれ 大かたにたか/\ イヤモウにたといふ段ではない 此様にもかゝれる物か下地のに一分一点違はざ

夫で間に合した ハアゝ是は忝いよいお方に出合まして 死る命を助つた御恩は忘れ置ませぬと押戴けば アゝ

何のいのあつたら體をすつての事 どんぶりいはすが笑止さに どふやらかうやら取繕ふて進ぜるのじや みぢんも

恩にはやけぬから礼いはしやる事もない ちやつちやと持ていなしやれ そんならお暇申ます ソレ又道で大事の物

かんまへて見せまいぞ アイ 見せたらえては見入る物 どこが破りよも知ぬぞや アイ/\/\と愛嬌こぼす嬉し

さも人目を包むふくさ物袖に隠して帰りける ホウ嬉しいは尤と 見送る中に気の付はき物 ムゝ扨は誰ぞき

 

て居るそふなと 奥を見やればひそ/\と咄しの訳はしらね共 聞付ぬ声いぶかしく暫し 窺ひいる所へ 息を

はかりにばた/\と走つてくる夕霧が 門口から指覗き 玉置新蔵様の内は爰はけ ヲゝ嬉しや内にじやと つゝ

とはいつて扨も/\ 一ぺん爰らを尋たと いへ共わざとしらぬ顔 何と挨拶内証の 客に心を奥の間

に 聞耳立る思案顔 コレよそ/\しい顔せずと急な事で来たはいな ハアいつの間にきたかしらぬがどう

でもあれは男の声 イヤ男じやないコレわしじやはいな マア聞て下さんせ くはしい様子は跡の事 高がかうじや

わしやこなさんに添たさに廓を欠落した程に女夫に成て下さんせ コレ女房に持て貰ひたい頼む

はいなと打付に ずつかりいふもしこなした里のくせとはしられたり ムゝ何じやおれにそひたさにアノ廓を欠落

 

 

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したのか アイ そりや忝い事の 是迄幾度か詞を尽し理を尽し 根気を尽した此男を もさつかまへて廻

す様に ふつて/\ふり付た者が 今と成てかくもふてくれ女房に成たい コリヤやい そんな事をくふ様な此新蔵

じやないはい 推量するにこりやふかい男とつつ走つても 家業はならず貯へはなし 暮がどふもいかぬから

わりや金の無心にきたのじやなと 星をさゝれてさつてもきめう 有やうは其事を頼にきてもどふも

いひ出すかゝりがなさに つまみかけて見るのか 是迄こそ堪忍したれ 身請の金を親方へ渡してな コリヤ

関破りの科をすめたりやわりやおれが女房 どうせうがかうせうがぐつ共ぬかすやつは有まい よい所へよふ

出て来た 今迄つらう当つた報ひ 待よ 存分にして見せふといふ所をいかぬじや アゝ遉は名取の夕霧

 

程有て剣(つるぎ)の中よりあぶない此内 来にくい所頼にきた志がしほらしい 恨は恨み頼むといふを引ぬが男 いかにも

無心聞てやろ エゝイそりやほんの事かいな ハテ扨そなたの様におりや嘘はいはぬはい イヤモウ何にもかも皆わしが悪

かつた コレ拝んます是じや/\ 堪忍して下さんせ ほんにどこと尋てもおまへの様なたのもしい気の美しい結

構な さばけたお方は有まいと 追従たら/\機嫌取る心の内は我ながら あんまり急であつかまし 咄半ばへ以前

の女 鋲乗物に引添ふて 来るを見るより夕霧が アレ又お客は有そふな わしや誰にも逢ともない ほんに

それ/\一間へと 指図に立てとつかはと 襖押明入にける 新蔵も内外の客に心をもむ折から 程なく入くる

乗物を 門口に舁据させ コレ皆の衆 後程迎ひと家来をかへし 頼ませふといふ声は 聞た様なと新

 

 

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蔵が 立出て顔見合せ ヤアこなたは最前の女中何としてござつた 先こちへはいらしやれ アイとえしやくし内に

入 しとやかに手をつかへ 先程は思ひ寄ぬ災難故に 死る命助かりし御恩 余りの嬉しさ隠すにも隠されず 始

終の様子を主人に申せば異(こと)ない悦び そちが命を助るといひ 左様な器用なお方にお礼の為 供々お

目にかゝりたいとて則主人も乗物で 表迄参られました 是は麁相な物ながら お礼の印に上られますと 包し

巾紗(ふくさ)とく/\と 蒔絵の箱を取出し 膝元近く指出せば 是は/\やくたいもない 最前みふ通りあれ式のこと

恩にかけふと思はねば礼を受る筈はない こりや貰ひましたも同前と押戻せばイヤそりや却て迷惑

是は主人がお礼やらお近付の為やらに上まする進物 どふ有ても留おかれて下さりませとよぎなく

 

いへば ハテ左様に云(こと)を分けておつしやるを達て申せばお礼が軽ふて戻すかと思召も気の毒 然らば申受ま

せう それは嬉しやほんにマアいかめしそふに お礼と申も恥しうござります イヤ/\何やら御丁寧と蓋を取て

恟りし ヒヤア 此色紙は ナント覚が有か以前伏見の里にて そなたが摺かへた コレ此色紙の贋物よい進物

で有ふがのと いはれてはつと赤面し暫し 詞もなき内に乗物ぐはらりと蹴放して 立出る平岡左近奴(やっこ)

姿を引かへて大小ぼつ込つつと入 ヤイ盗人め勅使の姿を贋山城の中将と偽り 親左太夫をたばかり

贋筆の色紙を以て重宝を摺かへし故 我親は切腹 其上我々迄流浪の身と成たれば 怨(あだ)といひ

恨といひ草を分ても誠の色紙を取かへし 敵を討て鬱憤を散ぜんと年月在家をさがす所に

 

 

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此間見当りし手跡の看板 流儀は玉置と見へながら心を付くれは定家やうの筆勢 アラ心得ずと思ふ

より女房としめし合せ 百人一首の書本を破り 欺て書入させ 摺かへた色紙とくらべるにまがふ方な

き儕が筆 こな贋物書きの大衒(がたり)め ちんじても遁れはない サア尋常に誠の色紙を渡し 立向つて勝

負せよと身がまへて詰かけたり ホゝ遖/\ 方便(てだて)を以て衒り取れば又術(てだて)を以て事を顕はす 斯面白(めんばく)する

上は微塵も跡へ寄らぬ男 成程彼色紙を衒取たは 売り代(しろ)なして金にせう為 人手へ渡し置たれば

今手前に持合さず 一人の母も有ば身の片付きを極る迄 料簡が請たいと いはせも立てず女房お雪

イヤアならぬ/\ 盗み衒りをする者は親兄弟共同罪 殊に連れ合の為には親の敵わしが為には舅

 

の敵 暫くも赦そふかと 早抜かけるを左近はおさへ 敵討は彼色紙を取かへした跡での勝負 サア其売

た先ぬかせ 其先は大坂の町人 名所(ところ)はしらぬ/\ ヤアしらぬといはして置ふかと 夫婦が立寄詰よつて 掴み

付かんず其勢ひ寄らば切らんと新蔵も 眼くはつてどみ合既に危うき折からに ヤレ待た 早まるまい 其

時の衒の張本 中将春房是にありと いふに恟り左近夫婦 新蔵もこはいかにと 見やる向ふの

障子をひらき 立出る母の行粧(ぎやうさう) 冠装束いかめしく真中にわけ入 其色紙を衒し訳申ひらかん暫く

と押なだめ 申/\ 最前の夕霧女郎 是へお出と呼出され こは/\゛ながら立出る手を取て上座へ直す

を 左近夫婦は聞及ぶ夕霧なるかと見るよりも 娘が事の不便さを 口へ出さねど心の内様子いかゞ

 

 

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いかゞと聞いたる 母は装束冠と供に指置 御幼少の時なれば何事も御存有まい お前は元私が

乳を上ました養ひ君 わたしはうばでござります ヒヤア ホウかういふた斗では御合点が参るまい てゝごは

高木宰相様といふお公家様 おまへは其お妾(てかけ)腹 お生れなされて三つの時 宰相様は科有て 御遠

慮の其中に御病死なされ 科有とて跡目も立ずお家はちり/\゛ 母御様はお前を抱て町家住居

程なお果て遊ばし 辺り近所の介抱にて 御成人なされしが 流石他人の浅間しさ 御器量のよいを幸い

大坂の新町へ売てやつたといふ事を 遥年経て承はり 段々とくはしい様子を尋れば 夕霧といふ

はきゝの女郎はお前の事成由 何とぞ身請せん物と親子が心を砕け共 大まいの金の才覚仕

 

様もなく 息子が覚へた定家やうの贋筆 又は贋事衒事 色々として金を調へ 欠落なされ

た其跡でも 関破りの科はぬきながら どふうろたへてござるやらと 年寄の夜の目も合ず 泣て

ばつかりおりました お侍様夫婦もお主持ち 主の為にせし事と御料簡も付くならば 躮が命をお助け

なされて下されませ 偽りでない証拠はコレ此冠装束 爺御(てゝご)様のお姿を 拝むと思ふてお戴き遊

ばせと 両手に捧げ指し出せば 夕霧取て押戴き/\ わしが稚い其時に聞た様な物語 扨はそなたは

乳母かいのふ 此装束がとゝ様の お筐かいのと身に添へて なつかしの昔語り恥かしの我身の上やと 涙

の瀬戸は川竹の流を 悔む斗也 新蔵も涙をうかめ 親子の者が御大切に思ふ余り 深ういひかは

 

 

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されたと聞た伊左衛門殿 子迄なしたお前を請出さぬ心底心元なく 日外(いつぞや)廓で貰ひかけたも 有やう

は性根を見やう為 悪の報ひは目の前と あの侍に討るれば母の事を頼上ます サアお侍 衒取た

色紙は有所しれず 殊に御親父切腹と有れば 親の敵赦しも成まい イサ尋常に勝負は致さん お立

ちやれと身がまへす ヲゝ天晴/\ 子細を聞ては色紙を売たに違ひも有まい とはいへ了簡はならぬ親の

切腹 眼前の敵宥免ならず 尋常にイデ勝負と 刀するりと抜放せば 新蔵も抜き刀 ヤア/\と

互のかけ声 受けつ流しつ見るめもつらく夕霧が ヤレあぶない/\と立さはぐを母親が お怪家有なと引

退け/\我身をかせと剣の中 思ひがけなく飛込を 左近が払ふ切先に髃(かたさき)すつぱと切込れ うんと

 

斗に伏転(まろ)べば 新蔵驚きかけ寄る透間 てうど切込む刀を受留め 夕霧様御介抱と いひつゝ切合

切結ぶを 母は声かけ ノウお侍 こなたの親御を殺したりや わしをこなたが又切た スリヤ五分/\の親の敵

料簡付けて貰ひたさ 我身を捨て子をかばふ心を察して下されと 泣く音につれて左近夫婦 親

子の名残を惜めよと 抜身を引て暫しの猶予 過分と新蔵傍にかけ寄 ノウ母者人情ない

わざと切れて我命 助けんとの御情あんまりで冥加ない 返つて罰(ばち)が当りますと 嘆くに連て夕

霧は親子のなんぎ悲しみも 皆わしからおこつた事 情なやいとしやと取付き嘆けば手負も涙 恋こが

れた養ひ君 逢て嬉しと思う中 早い別れも先生(さきしょう)の 約束事か皆罰か 新蔵頼むぞよ 左近様

 

 

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御夫婦も 恨をはらして下されと 次第によはる老の身の 六十一の本卦より故郷へ帰るだんまつま

此世の縁は絶にける わつと泣入親子の別れ 左近夫婦も哀さの涙催し居たりしが ヤア/\新

蔵 老母が命を捨ての頼 敵討は済みながら 右の色紙の有所しれねば 我主人への言訳なし 汝も

身共も百年め 覚悟/\と呼はつたり 元来我は科有身の上 お相手に成に及ばず 御存分にな

されよと 首指延て立派の一言 ホゝウ健気なり去ながら 手向ひせねば我手にかくるに及ばず

ソレ女房 心得ましたとかい/\゛しく抜身をさげて立かゝるを 一間の内よりヤレ待れよ 新蔵か首是に有と

立出る侍 ヤア貴殿は衣笠只右衛門殿 此家にはどふして 新蔵が首といはいかにと夫婦がふしぎヲゝ驚きは

 

尤 子細有て先刻ゟ此家へ来れ共 敵討の実否(じつふ)立つ迄指しひかへたりしと 懐中ゟ取出

す色紙 左近見るよりヒヤアそれこそ尋る定家の色紙 貴殿の所持は心得ずと 驚き

けばされば/\ 大坂の町人は売物 出所の詮議に及ばず 御大切成るお家の重宝 他門へ渡さん

様もなく 殊更此色紙故 御親父といひ貴殿の流浪何とぞ其元へ渡さんと 在所(ありしよ)方々尋る折

から 今日此家へ来つて始終の様子新蔵が難儀を聞けば 元は躮伊左衛門が縁につながる夕霧故

何れも我身にかゝつた宿縁 彼是を思ふ故 子故に迷ふ親心推量有て此色紙 彼が首

のかはりと思ひ 新蔵が身の科を御料簡下されと涙ながらに指出せば ハアゝ忝しと左近

 

 

74

夫婦 請取て押いたゞき イヤ何これ新蔵 此色紙が出るからは其方に構ひなし 我は是より

国へ下り 色紙を指上げ帰参の願ひ ヲゝ其執成は此只右衛門 コリヤ新蔵 夕霧が身請証文

最前母がくれし故 其返礼の其色紙 此上は猶心を付け夕霧が身の上をと 嫁といはねは我子の

事 問ふ首尾もなくいふ間さへ なきからかゝへ新蔵が とてもの事に此様子 母が息有其中に しら

さば冥途の迷ひも晴ん 残り多やと夕霧も 返らぬ悔み取々に なくやおしかのつの国に

女房お雪は とゝまつて娘おとせが身の上を 見届け帰れと夫の詞 供に別れの暇乞 跡は無常の旅立

や 思ひは同じ 憂名残 なきたま送り門送り 見送るかげも諸共に別れて こそは「帰りけれ