仮想空間

趣味の変体仮名

玉藻前曦袂 三段目 道春館の段

 

読んだ本 http://www.enpaku.waseda.ac.jp/db/index.html
     ニ10-01240


38 左頁
道春館の段
思ひ寝の 夢の間枕に契る 明がたや 琴のしらべは初花姫 嬪共にうた
はせて ひく爪音の気高さよ 右大臣道春の夏座敷 松吹風も一しほ
に いとゞ増(まさ)るらん折ふし一間騒かしく 走り出たる桂姫 のふ釆女の助は何


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国へぞ 是のふ/\と取付て ヤアそなたは妹の初花ハア恥かしやと 袖覆ひ胸
なでおろす斗なり 初花姫は不審顔 申姉上けたゝましい今のお声 こはい
夢でも御らふじたか お気もじわるふはないかへと 介抱すれば面はゆげに そ
なたの手前も面目ない さつきに母様が旅行の恋といふ題を給はりしゆへ
すざまんと思ひしに 何やかや心のもつれ案じわづらふおしまづき もたれかゝりしう
たゝねに釆女之助と只ふたり宇治の川辺をそこ爰と 賤(しづ)の手業も
打ながめ 苫を敷寝のかぢ枕 嬉しい夢を見たはいのと 咄し給へば嬪共 どふでそ

んな事かして此お汗出たはいのと つとの乱れに櫛入て いたはり申せば初
花姫 此比はくよ/\と どふやらお顔の色もわるい 其様に きな/\と思し召おしつ
らひでも出やうかと 案じらるゝと姉思ひ 手を取かはす姉妹の 中ぞ
床しき大内育ち かゝる折から入来る安倍の安清 几帳のこなたにたゝずみて
後室様よりお召によつて只今参上致したりたそお取次と云入る 声に飛
立つかつら姫 嬪はした立さはぎ そりやこそ今のが御出たと さゝめきあへば ノウ姉
様 自らは釆女之助の見へた事おしらせ申さん皆こちへと 心きかして立って行 まだ


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うら若き初花の やがて其身も恋ざかり ほのめきさかりの嬪共引つれ奥へ入る
跡に 人と間待ち兼かつら姫 逢たかつたと走り寄 縋り給へばふり放し ヤレ声が高
いお姫様 委細は御存じ有通り 皇子の方より毎度の催促 御入内有ば双
方無事に治る浪風 もし御得心なき時は後室様の御身の上 爰をよふ
弁へて拙者が事は思ひあきらめ下されよと いふ顔つれ/\打守り エゝそ
りやあんまりじや曲がない 今更いふも恥しながら 北野詣での折からに思ひ
初めたが身の因果 ほんに寝た間の夢にさへこがれ 焦るゝ恋しさに 迚も叶

はざ思ひ切 忘りよと思や 思ふ程猶忘られぬ 女子の因果 夫レに引きかへ胴欲
な むごいわいのと一筋に 思ひ詰たる娘気の訳もなまめくうらみ泣 折ふし
次の一間には 花もうし嵐もつらし諸共に散ばぞさそふさそへばちると 古歌
を吟ずる母の声 ハツト思ひし姫よりも釆女之助は気をあせり 扨は様子を
御存しか見付られては互の難義 まづ/\奥へと押やられ是非もなく/\も入給ふ
時しも襖押明て 館の後室萩の方 しとやかに座し給へば 釆女之助両手
をつき 憚りながら御前様安泰の体を拝し 恐悦至極仕る シテ今日お召の様子


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御用いかゞと窺へは 奥口見廻し萩の方 近ふ/\と小声になり そなたも兼てしる
通り 先祖より伝はりし獅子王の釼 何者の仕業にや盗み取て行方しれず 此
事禁庭へ聞へなば藤原の家はもつしゆ もしもの事が有たなら 草葉の夫
へ云訳なく とやせん斯やと自らが 身につゞまりし今の難義 便りといふはそなた衆
兄弟 力と成てよき様に 思案を頼む泰清と世にしみ/\゛と聞やれば 釆
女之助頭を下げ委細承知仕る 我々が為には御主人同前の道春公 いかで疎略
に存ずべき 天をかけり地をくゝつて隠るゝ共 草を分つて尋ね出し御手に入んは案

の内 御気遣ひ遊ばすなと力を付る折こそ有 皇子様よりの御上使としらせの
声 聞て釆女はいぶかる面色 御台は眉をしはめ給ひ 皇子様より御上使とは姫
を入内の催促ならん 自らよきに計らはん まだ咄したい事も有 釆女之助はマア奥へと
仰に否む色目もなく然らば後刻と夕間暮 礼儀は厚き式台に心を奥へと次
の間へ立別れてぞ 入相時 早夕陽も 傾きて 無常を告る鐘の音
もいとゞ 淋しき黄昏や間毎を 照らす銀燭の光り まばゆき白書院
程も有せず入来る鷲塚金藤次秀国 素襖の肩肘いかつげに


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上座にこそは押直る 斯くとしらせに館の後室 衣紋正しく出迎ひ 御
上使様には御苦労千万 皇子様より御諚の趣き仰聞られ下さりませと
辞譲(じじやう)の詞に一揖(やう) 上意の次第余の義に有ず 皇子兼々御懇望有し
獅子王の釼 今日中にさし上るか さなくば娘桂姫が首討て渡さるゝ
か 二つに一つの御返答 サ只今仰聞けられよ ハア コハ存じがけなき御難題 その
釼は紛失致し 所々方々と尋ぬれ共今において行方しれず 今暫くの
御用捨(ようしや)を アゝイヤそりやならぬ 皇子様心をかけられしかつら姫 度々

催促有といへ共とやかくといひ延ばし打捨置かるゝ事 貴族の威
勢にぶきに似たりと以ての外御憤り 釼がなくば桂姫 首にして
お渡しなされとのつ引させぬ釘鎹 胸にひつしと萩の方 途方
涙にくれ給ふ 後に始終桂姫 こなたの間には初花が忍んで様子
立聞くとも しらず御台は涙をはらひ 迚も手詰になる上は いづれ遁
れぬ娘が命 未練の申し事ながら 一通り聞てたべ 過ぎ去り給ふ夫道
春夫婦の中に子なきを愁ひ 清水のほとりなる三神の社へ立(りう)


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願込め三七日の参籠 其帰るさに産子(うぶこ)の泣声 肌に添しは雌龍の
鍬形 よし有人の胤ならん 神の御告と連帰り育て上げしは桂姫 間もなく設けし
アノ初花 右と左に月花と眺め暮せし姉妹(おとゞい)を 是非に一人はない命 殺さ
にやならぬ所となり せめて夫がましまさば 問談合も有ふ物 何を
いふても身一つにかゝる憂目も前生(さきしゃう)の 報ひか罪か悲しやと 身を
悔みたる御涙とゞめ 兼てぞ見へけるが 思案きはめて顔を上 杖柱
とも思ふ姉妹 勝り劣りはなけれ共 釼で殺さば三神への恐れといひ

殊に義理有姉娘 爰の道理を汲分て 妹の初花をかはりに立て給はら
ば 此上もなき御情と 云せも果ず声荒らけ ムゝスリヤ三神の咎めは恐れ
神の御来の王子の仰御用ひはなされぬか よしそれは兎も有 上意受
た某に 身がはりなどゝは思ひも寄ず 無益の問答聞耳持ぬ サア只
今と詰寄っていつかなひるまぬ其顔色 叶はぬ所と胸をすへ イヤのふ
御上使武士は物の情けをしるといふ自らが一つの願ひはコレ此双六盤 二人の
命を天道の差図に任せ 負けたる方の首討ばせめては夫を定業(じょうごう)と


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あきらめらるゝ事も有 どふぞ此義を御了簡 コレ慈悲じや情じや 聞き
分けてと 義理と恩愛二筋に つたふ涙は雨やさめ身にふりかゝるかつら姫
母の情の有難さ お慈悲といふも口ごもる 娘の袂にしらさめのはれ
間は更に見へざりき エゝさま/\のよまい言 見物するもまとろしけれど ハテ何
とせう是非がない サきり/\とお始めなされ カ(か)勝負の付かすぐに
寂滅 ヲゝ成程/\ それと明たは女気の嘆きに心かきくもり 取乱しては詮
もなしたゞ余所ながら随分 一思ひにといひさして詞なく/\とり出す

用意の褥(しとね)四隅には立つる樒(しきみ)の一本も 露を持つ間やかげらふの 哀れはか
なき有様を几帳の影に釆女之助 かゝる難義も我故と 思へど出るにも
出られぬ時宜 千々に心を苦しめる思ひは 同じ母親が 是が冥途の
杖かと 思へばいとゞせきのぼす胸は子故の五月闇あやめも分かぬくも
り声 娘々と呼出す アイと返事も一やうに 斯くとは誰も白小袖
死出の晴着と姉妹が 姿も対の雪柳 しほれ出たる屠所
の道羊のあゆみたど/\と最後の 座にぞ押直る 一目見るより萩の方


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扨は様子を聞きしかと 先を取られて今更に とかういらへも涙なる 母の嘆き
にかき曇る心は月の桂姫 漸に顔を上げ 委細の様子はさつきに
から 残らず聞ておりました 塒(ねぐら)はなれし郭公(ほとゝぎす)子で子に有ぬ自を 此
年月の御養育 まだ其上に妹迄自らを助けんとさま/\゛の心づか
ひ 思ひ廻せば廻す程空恐ろしい身の冥加 胸にせまつて一
言もお礼は口へは出ぬはいなァ こんなうき目を見せますも皆自らが
徒(いたづら)から 迚も叶はぬ恋故と 覚悟はきはめておりました露ちり御

恩を送りもせず 先立まする不孝の罪 お赦しなされて下さり
ませ 産みの父上母様はどこにどふしてござるやら 命の際にたゞ一目
あふて死たい顔見たい是斗がと云さして声くもらせば初花姫
のふ曲もない其お詞 たとへいづれの胤なり共わらはの為には大事の
姉様 お前は殺さぬ自らを イヤもふそもじはながらへて 便りすくない母うへ
にお宮仕へを頼むぞや イヤ自らをイヤわらはと 死を争ひし姉妹の 心
根不便と母親は いづれをそれとわけ兼る胸は涙の三つ瀬川身も


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浮斗嘆きしが さあらぬ体にのふ娘 御上使への御馳走に 日頃手練
の双六を御目にかきや 一世一度の晴芸なれば 二人共に大事にかけ どちら
も負けてたもんなやと わつては云ぬ親心 かたへの盤を 引寄て 是が此世
の別れかと 思へは直す手もたゆくかゝる例しもあや錦 袋の紐を
とく/\と さいの河原を 此世から積む石数もおとゞいの 年も重目に
持つ涙 互に筒(どう)を取りかはし 指す手引く手も端手ならず 切つきられる修
羅道の 苦しみ受けん悲しやと 思へば筒も手もふるひしどろもどろ

の石づかひ 姉をかばへは妹を助けん物と双方が 重一壱六五二四三果てし
なければ 気をいらち エゝぐず/\と埒の明かぬ長詮議 速く勝負を付めさ
れ 早く/\と鷲塚が せがみ立れば姉妹も 爰ぞ一生懸命と心
づくしの盤の面(おも) 母は胸迄つつかへる涙呑込/\て背ける顔に露
時雨 こは目をふりし姉よりも妹が心の嬉しさくるしさ サア/\姉様がお勝なさ
れたと 首さし述べて覚悟の体 見るに母親保ち兼わつと斗に伏
しづむ 刀すらりと金藤次 勝負は見へた観念と ひらめく稲妻


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姉姫の首は前にぞ落にける ノウ悲しやと初花姫 あへなきからに
取付て悲嘆の 涙果しなき 泣目をはらひ萩の方 上使の傍に詰
寄って ヤア狼狽(うろたへ)たか金藤次 勝負に勝った姉娘 なぜ切たなぜ
殺した それとさとつて身がはりと初花が心ざし 水の泡と成たのも皆
其方が無得心 たばかられたが口惜いと 身を震はして腹立涙 上見
ぬ鷲塚せゝら笑ひ ハゝゝしやらくさい咎め立て 勝負に勝ふが勝まい
が 仰を受た桂姫 首討たが何誤り 皇子の御心背く旁(かた/\゛) 悪く身

動き召さるゝとどいつこいつの用捨は致さぬ すつ込でお居やれと 権威を甲
に傍若無人 ふり袖引裂首押包み にらみちらして立出る 御台はくは
つとせき上給ひ ヤア過言なり金藤次 女と思ひ侮つての雑言無礼
右大臣道春が妻すこ動くなと裾引上長柄の長刀追取て石突
てうと庭の面 八双三段水車 母様是は何事ととゞめ隔つる初花姫 邪
魔しやんなと突退け刎ねのけ すくふ長刀ひらりとかはし ヤちよこざい
な腕立と 首をかたへに鷲塚か秘術をつくす上段下段 運の極め


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か金藤次肩さき四五寸切下げられ思はず跡へたぢ/\/\ 付入る刃むね蹴
落され是はとかけ寄る御台のよは腰 とうと打付け動かせず 釆女
是にと飛で出 抜き手も見せず鷲塚が脇腹ぐつと突込白刃 急
所の痛手にとつかと座す おこしも立ず声あらゝげ 皇子に諂ひ
悪事をすゝめ 人を損なふ獄卒め思ひしれやと刀の柄えぐるかて首
しつかとおさへヤレまて釆女早まるな 云残す子細有 ヤア此後
に及んで何云訳 血迷ふたか金藤次 イヤ血迷ひもせずかくれも

せぬ 先ず暫くと押とゞめ苦しき息をほつとつき 元来は東国武士下野
の国那須野の何某 故有て所領に離れ 当地へ立越さまよふ中女
房の初産 うみ落したは女子の子 浪々の身の悲しさ雌龍の鍬形相
そへて五条坂のほとりにすてしか 程なく妻も世を去りてうき年月
を送りし内 思はず皇子の見出しに預り当家に伝はる獅子王の釼
盗み取て得させなば 一廉(ひとかど)の侍に取立てんとの頼み ハゝア畏つたと忍び
入 奪ひ取たはコレ此鷲塚 ホゝ御驚きは御尤 敵に目がくれ悪


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人の皇子にしたかひ積悪無道かほど邪見の心にも忘れかたきは
恩愛の 捨し娘はいかゞぞと 案じ煩ふ折も折 最前御台の御物語り
聞いた時の其嬉しさ 肉身のお子にかへ かばひ給はるお慈悲心 有
かたしとも嬉しさ共 何と詞の有へきぞ 須弥より高き御厚恩万か一も
報ぜずして しらぬ事とは云ながらお家にあだする人でなし たとへ鬼
畜の身にもせよ 初花姫の御首に何と刃があてられふ お手に
かゝつて相果るはせめて心の言訳ぞと 先非をくゆる身の懺悔 扨はと

斗母娘釆女之助立寄て ムゝシテ其御釼は御邊が所持せらるゝか アゝイヤ
獅子王の釼内侍所諸共に 皇子の館に隠し有は術をもつて取かへ
されよサア斯く物語れば剣の盗賊 いづれも立寄て御成敗なされ
よと よろほい/\首取上 コリヤ娘 コリヤ爺(てゝ)じやはやい/\ なぜ物いふ
てはくれぬぞと ねふれる如き死顔を打守り/\ 今端に成て二
親をこかれしたふた心根が いぢらしいやら不便やら 其時名案は安
けれ共 恩義の二字にからまれてしつとこたゆる辛抱は 熱鉄(ねつとう)を


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のむ心地ぞや 焼野の雉子夜の鶴子をあはれまぬはなきと
聞 あたら莟を胴欲に首打落し手がら顔むごい親じやと冥
途から恨ん事の可愛やと 我を忘れし男泣 心を察し萩の方
あやも涙に正体なく 一樹の影の雨やどり一河のながれをくむ
人も深いえにしと聞物を藁の上からそたて上 手しほにかけた
親じや物かはゆふなふて何とせう 十七年の春秋が一期の夢て
有たかと 返らぬ事をくとき立かこち給へは初花も供に涙にむせかへり

ほんに夕べも今朝迄もかふした事が有ふとは神ならぬ身の情ない なん
ぼ捨ても子じやないかなぜ自らを切なんた 今から誰とついまつや事
のさらへや十種香も 手向の種と成たかと声も惜しまず叫び
泣 釆女も遉愛着と 義理のしがらみ恩愛の血筋の別れ
鷲塚が 鬼をあざむく両眼にたばしる涙はら/\/\ 四人が涙一時に
落て流るゝ 袖の海 膝に淵なすごとくなり かゝる折しも勅使と
呼はる声諸共中納言重之卿衣紋正しく入給へば 思ひかけなく人々は


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敬ひ請じ奉る 重之優美の御声にて 曾(さいつ)頃禁庭にて哥合せ
の折から 息女初花姫よりさし上られし読哥 みさび江に庭の玉藻
は乱る共 しらるな人に深き心をと有しを 帝叡感なくめならず 御賞美
の余り女官の烈に相くわへ玉藻の前と改めて 召つれ来るべしとの
勅諚 ヤア/\仕丁共 云付たる所早く持て アツといらへて白臺に更衣の装
束うや/\敷御前にさし出せば はつと親子は有難涙 辞するは恐れと母親
がとり/\゛着(き)する五つ衣 綾羅錦繍緋の袴芙蓉のかんばせたをや

めの あたりまばゆき 其粧ひ 釆女之助はつつと立上り 我は是より
姫が首皇子の館へ持参して 虚実をもつて御釼を奪ひかへし
て奉らん早おさらばと立出る コレのふ暫しと母親が 首に名残の
唱名はすぐに黄泉路の道しるべ 道の案内と鷲塚が刀を
ぬけばかつくりと もろくも枯るゝ芭蕉葉の 露の玉藻もうる
ほふ袖 しぼり兼たる朝日の袂雲井の御所や九重の大内 山へと