仮想空間

趣味の変体仮名

摂州合邦辻 下巻 合邦庵室の段

 

読んだ本 http://www.enpaku.waseda.ac.jp/db/index.html
     イ14-00002-452   (参考 イ14-00002-451)


下巻

 

35 左頁四行目  (合邦庵室の段
「立帰る 願以此功徳の音止(こへやむ)が回向の向(もうし)上げ
百万遍の同行中座並上下の差別なく 心姿安居の岸はづれ合邦夫婦か志
逮夜の料理そこ/\に 気儘手料の給仕こそ心一おあい馳走也 講中一番
乾煎(はしやぎ)口煎餅屋の槌右衛門 折箸片手にしやにかまへ ヲゝ奇特によふ勤めさつしやる


36
見れば新しい戒名も張て有れど炬燵の櫓や焙銅(あぶりこ)の様な字斗りで一つも読ねど
此様に味い事拵へて講中を呼しやるからは どふで身中(うち)の仏でござらふ 誰じや知 
ぬが頓生菩提と 念仏に汁菜噛交ぜる 蓮池の葩煎(はぜ)やの婆 志の仏が
有と聞た故 今夜の念仏は我一と請出したでいつもとは夜食も格別 麦飯
にとろゝ汁 ひりやうすの平 蒟蒻の白あへでは いかな亡者もずる/\と極楽へ
滑り込み しゃり/\仏にならしやろと いふも馳走の追従口 主合邦取繕ひ 今夜
百万遍はいつと遁れぬ亡者の手向 国を隔てて暮す故命日も知らず 夫レで戒

名も手作に 大入妙若大姉 御存もない仏に御苦労をかけまする 則ち是が逆縁の成仏
心斗のほんの茶漬 何も無くと御酒も三献 よふまいつて下されと夫が挨拶女房は眼に涙の含み
声 久しく顔も見ず 死目にさへも得逢ぬむごい別れ せめて未来を仏にと 御苦労かけての百
万遍よふこそ参つて下さりました サアなるもならぬも挌盞(さん・各盃?)でと 取の盃めん/\にヲツト有る/\溢(こほれ)
ると 夫婦が強いぶん大分にこりやたべ過た満腹と 膳は取ても?(うつふ)いて時宜さへならぬ腹塩梅 いかい御
造作御馳走と 礼もそこ/\同道共 皆打連れて立帰る 跡に女房は御明しの 灯はかき立れど晴やらぬ
子故の闇の詢云(くときこと) 天にも地にも独りの子 やつぱり道心者の娘で置いたら 非業の最後もさすまい物


37
なま中河内一国の大名の奥様といはしたは親の科 五年六年逢見ぬ親子 病ひでも有る事か苦し
ひ死をする時に 嘸や親々恋しいと思ふたで有ろ 慕ひもせふ 今はの念に引されて未来も迷ふて
居るで有ろ 可愛の者やいぢらしやと身を平伏して泣き託つ 合邦は尖り声 コレお婆エゝ同し事を繰返して
未練な述懐 不仕合せ故十年以来(このかた) 天窓は剃ても心は昔の侍気質 独りの娘を高安殿へ嬪
奉公 奥方に引上られても 親有り共名乗らぬは 斯いふ浅ましい姿故 我子の肩身も窄(すほら)ふと
折節の状通にも 必ず々親一門もない者と云募れとくどい程いふてやつたも 娘の影けで立身望む
と 世上に云るゝが面倒さ 潔白な親とは違ひ 子と名の付た俊徳様に 無体な恋をしかけるのみ

か 跡迄を慕ひ廻り 大恩の夫を捨て 家出した徒めらう 其儘にして有らふか 早速に追人をかけ ?(なぶ)り殺しにかな
成たで有ふ 不所存を提げたやつ 子と思はねば不便にもいぢらしうもなけれ共 弔ひの百万遍は折々の貢の礼
又見す知らずでも釼難で死だ者は 弔ふてやるが天窓の役 そなたも武士の娘だてら エ見苦しい泣顔と 叱
れば婆は猶涙 可愛そふに其様にむごたらしうは云ぬ物 畸人(かたは)な子に不便をかけるは世上の赦し 女ごは誰しも有る
ならひ 廿(はたち)そこらの色盛り 年寄た左衛門様より美しいお若衆様なら 惚れいで何とする物ぞ 徒者の不義者のと 叱る
のは生きて居る中 死んだ跡じやちつと斗可愛やと云た迚 仏の咎めも有まいと 恨み嘆けば爺親も心の底は子を
思ふ嘆きを見せじとかふり振り アゝイヤ/\ 我子でも悪人を不便と思ふは天道へ敵対 坊主の役と一旦は弔ふたれど


38
畜生めが其戒名 引破つて仕廻い成と そこらの事はそなた任せ 抹香も切れたら盛成りと 御明かしも
消ぬ様に仕なりと 勝手にしやれおりや構はぬ 満更懇ろな他人の死だ様にも思はぬ故 思はず涙
かアゝいや 涙は出ねど年の科 此眼が眇(かす)んで/\とすり赤めたる恩愛の涙隠せど悲しさは 声の
曇りに顕はれし 夫の心酌む妻は手向けの水の哀れげに せめて未来の助けにとくゆらす 香の
薄煙思ひは富士の高根共袖は清見がせきとめて涙おさへる鉦の音 いとしん/\たる夜の道  ←
恋の道には暗からね共気は鳥羽玉の玉手御前 俊徳丸の御行方 尋兼つゝ人めを
も 忍び兼たる頬かふり包み隠せし親里も 今は心の頼みにて馴れし故郷の門の口 立寄る跡

より入平夫婦 御両所の御行方爰とは聞けど奥方の 姿見るより様子もと 戸脇に厚き藪畳
身を顰めてぞ伺ひ居る 斯くとはしらず玉手御前 干破(ひわれ)に洩るゝ細き声 嬶様/\と呼は慥に娘
の声 ヤアわりやまだ死ぬか 殺さりやせぬかと 立上りしが心付き ふり返り見る女房の方 鉦に紛れ
て聞へぬは 是幸いとそしらぬ顔 嬶様/\爰明けてと 叩く戸の音聞咎め 合邦殿 今こな様は
何とそ云てか イヤ何共いやせぬ そりや空耳で有ぞいの イヤ空耳かはしらねど ちらりと聞へた
娘が声 ハテ合点の行ぬと立上る そふおつしやるは嬶様か ちやつと明けて下さんせ 辻でござんす戻り
ました と聞いて恟り ヤア戻つたとは夢ではないか 健(まめ)に有たか嬉しやと かけ出る裾を取て引留め ヤイ/\/\


39
狼狽へ者はふれてもやれいでも 我子に不義をsっかけた畜生 侍の身で高安殿が助けて置かしや
る様なければ 何の今迄存命(ながらへ)て うか/\爰へは何しにこふ ア隠すより顕はるゝはなし 親はないと云しても有る事知て
娘が手から度々の合力金 二人が命を養ふたは 皆高安殿の御厚恩 其夫の目を掠め 畜生
の心提げた娘 譬へ無事で戻つた迚 門ばたも踏まされふか 元より娘は切られて死んだ ガ 今物云たが娘
なりや 夫レこそ幽霊そなた気味が悪ふはないか 肉縁の深い程死人になれば怖い物 必ず門の
戸明けまいぞと 云に女房は イヤ/\/\ 幽霊は愚か狐狸の化けたのでも 今一度見たは娘が顔 若しや恐
しい物で有て 眩暈(めをまはし)て死だら仕合せ いとし可愛子を先立 生きて業を曝そふより 一目見たいと

振切るを 猶引留めて ハテ悪い合点 狐狸か幽霊なればまだしも 若し誠の娘なら 高安殿へ義理
の言訳 以前は刀を指した役 親の手にかけ殺さにやならぬ 夫レがいやさに留めるのじやと 泣ねど親の慈悲
心を 聞く子や妻は内と外 顔と顔とは隔たれど心の隔て泣き寄の 真身の誠ぞ哀れ成 娘は涙押
拭ひ 門の戸口に口を寄せ 爺様のお腹立 お憎しみは御尤 是には段々と言訳有れど人目を忍ぶ此身の上
マア爰明けて下さんせと 泣々願へば母親は アレ聞てか合邦殿 言訳が有といの 聞てやつて下さんせ ハテ娘
と思へば義理もかける 幽霊を内へ入るに誰に遠慮も有まいぞへ いか様のふ 此世を放れた者なれば世間
を憚る事もない そんなら早ふ呼込で 茶漬でも手向けてやりや 可愛や立寄る所はなし 幽霊も


40
嘸肚饑(ひだる)かろと身を背けるは泣く百倍 母は悦び門口のとしや遅しと開く間も おなつかしやなつかしやと 縋る娘
の顔形 前後ろ見つ肌に手を入てもやつぱりほんの娘 嬉しや健で居たかいの そふとは知らいで逆様子 アタ忌
々しい百万遍弔ひした夜に無事な顔 ひよつと夢では有まいかと 抱しめ/\嬉し泣 父も程
経(ふる)娘が顔 見たさに思はず立寄れど 以前の詞と世の義理を思へばちやつと飛退て 手持悪いぞいぢ
らしき 母は漸心をしづめ 世間の噂にはの そなたはアノ俊徳様とやらに恋をして 抜け出
やつたの イヤ不義じやのと悪ふいへど そなたに限りよもや/\ そふいふ事は有まいの 嘘で有ろ
/\ 嘘か/\と箸持てくゝめる様な母の慈悲 面(おも)はゆげなる玉手御前 母様のお詞なれど

いかなる過去の因縁やら 俊徳様の御事は寝た間も忘れず恋憧(こがれ) 思ひ余つて打付けに 云
ても親子の道を立て 難面(つれない)返事堅い程 いやまさる恋の淵 いつそ沈まば何所迄もと 跡を
慕ふて歩徒足(かちはだし) 芦の浦々難波潟 身を尽したる心根を 不便と思ふて供々に 俊徳様の
行方を尋ね 女夫にして下さんすが 親のお慈悲と手を合せ 拝み廻れば母親も 今更呆れ
我子の顔 唯打守る斗也 父は兎角の詞なく 納戸の内より昔の一腰引提げ出 ヤイ畜生
め 儕にはまだ咄さねど 元おれが親は青砥左衛門藤綱と云てナ 鎌倉の最明寺時頼公
の見出しに逢て 天下の政道を預る武士の鑑と云れた人 おれが代に成ても親の影 大名


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の数にも入たれど 今の相模入道殿の世に成て 佞人共に讒言しられ 浪人して廿余年 世を見限
つての捨坊主 此形(なり)に成てもナ 親の譲りの廉直を 立て通した合邦が子に よふも/\儕が様な 女
の道も人の道も むちやくちやな娘を持たと思へば 無念で身ふしが砕けるはい 高安殿が今日迄 う
ぬを助けておかつしやる 御心底を推量するに 元儕は先奥方の嬪 後の奥方に引上げふと有た時
達て辞退しおつたを 心の正直懇望で 無理やりに奥方形(なり) アゝ手をかけず奥様共云さずば
此時義にも及ぶまい 殺さにやならぬ様に成たも 皆我業(わざ)とお身の上を顧みて 親人
の義理に助けさつしやるを ア有がたい恥しいと 思ふ心が芥子程でも有なら 譬へどれ程惚れて居(おつ)

ても 思ひ切に切られぬといふ事はないわい 夫レに何じや 其のざまに成ても まだ俊徳様と
女夫に成たい 親の慈悲に尋ねてくれとは ドゝとの頬げたでぬかした あつちから義理立てて
助けて置かしやる程 生けて置いてはこつちも又義理が立たぬ 覚悟せいぶち殺すと 早抜かくる
刀の鯉口 母は取付きコレ合邦殿 ソリヤ了簡が違ふた/\ お慈悲て助けて下さる娘 お志し
を無足にして 殺して義理が立ちますか ハテ此上は随分と異見して 俊徳様の事思ひ切りらし
命の代りに尼法師 いか成科の囚人(めしうど)も助かるは衣の徳 浮世を捨れば死だも同然 どこへ
の義理も立つ道理と 奥へ指さし様々と 宥め偽寄(すかし)て母親は 我子の膝に膝摺り寄せ 聞きやる


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通りの様子なれば どの様にしやつても そなたの恋は叶はぬ程に ふつつりと思ひ諦めて
早ふ尼に成てたも 十九(つゞ)や廿(はたち)の年栄(ばい)で器量発明勝れた娘 尼になれと勧めるは どんな
心で有ろぞいの 助けたい斗ッに花の盛りを捨てさせて かゝれ迚しも黒髪の百筋(もゝすじ)千筋と撫でしもの
剃らねばならぬ此時宜は 何の因果と斗にて縋り付て 泣居たる 娘飛退き顔色かへ エゝ訳もない事云
しやんすな わしや尼に成事いやじや/\ 折角艶よふ梳き込だ此髪が どふむごたらしう剃られる物 今迄の屋敷風は
最ふ取置て 是からは色町風随分派手に身を持て 俊徳様に逢たらば あつちからも惚て貰ふ気 怪家にも
仮にも 尼の坊主の 云出して下さんすなとけんもほろゝに寄付けず そふぬかしやモウ堪忍がと 父が身構へ母親

は ヲゝ道理でござんす 腹の立つは尤じや がモウ半時かしいて一時 わしに預けて下さんせ 手のうらを返す様に 思ひ
切らして見せませふ 夫婦に成て長の年月 たつた一度のわしが願ひ 聞届けて下されと 願へば是非も
中の間へ 見返りもせず行父親 母はいぢばる娘の手 引立/\無理やりに納戸へ こそは入る月の 影さへ見へぬ目なし ←
鳥 番ひ放れず浅香姫 一間の内より俊徳の御手を引て忍び出 今の様子を聞くに付け モウ暫くも此内にお
前はどふも置きまされぬ 何国(いづく)成とお供せふと 手を引く立れば俊徳丸 我業満(みて)ず母上に斯く迄思はれ参らす
るも 身の在障とは云ながら 館を出し頃には勝り 両眼盲(しい)たる其上に かゝるけやけき姿をば おめにかけなば
母上の 愛着心は切れもやせん 案内せよ今一度 御目にかゝつて其上に 入平夫婦も尋ね来ば召連れて立ち


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退かんと 宣ふ声を聞取る門口 アゝいや我々夫婦は先刻より 始終の様子承はる 此所にごさ有事里人の噂に
聞けば若し敵方へ漏れては大事 一刻も早く御供せんと 気をせく折しもかけ出る玉手 ナフなつかしや俊徳様 お前に逢ふ
斗ッにいくせの苦労物案じ 心を尽したかひ有て お健なお姿見たはいなと 縋り給へば身をすり退き ヘエゝ情
ない母上様 館にても申すごとく 同氏さへも娶らぬは君子の誡め 増して親子の中/\に 恋の色のとヶ程迄
慕ひ給ふはお身斗か 宿業深き俊徳にまだ/\罪を重ねよとか 昔は桃李の粧ひ成共
今は見るめも妨嫌(いふせき)癩病 両眼盲て浅ましき姿はお目にかゝらぬか 是でもあいそが尽きませぬか 道も
恥をも知り給へと 涙と供に 恨れど 愚かな事をおつしやります 其お姿も私が業 むさい共うるさい共

何の思はふ思やせぬ 自ら故に難病に苦しみ給ふと思ふ程 いや増す恋の種と成り 一倍いとしうござんすと 又取付けば 不
審(いぶかし)ながら フウ此業病を母上の 業とおつしやる其子細 さればいな 去年霜月住吉で神酒と偽り コレ
此鮑て勧めた酒は秘方の毒酒 癩病発する奇薬の力 中に隔てをしかけの銚子 私か呑だは常の酒
お前のお顔を見にくうして 浅香姫にあいそ尽かさせ 我身の恋を叶へふ為 前世の悪業消滅と 家出
有しはよい幸い 跡を慕ふて知らぬ道 お行方尋る其中も君が筐(かたみ)と此盃 肌身放さず抱しめて いつか
鮑の片思ひ 難面はいなと御膝に身を投げ伏して口説き泣き 様子を聞て俊徳丸 無念と思せど義理の親 恨み
も云れず兎に角に 我身の不運と御落涙 姫はいつそ涙も 出ぬ腹立紛れ取て突退け エゝ聞ば


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聞程余りじやはいな/\ 玉をのべたお姿を よふアノ様にしやつたなふ 母御の身として子に恋慕 人間とは思はね
ど 道ならぬ事も程が有 サア元のお顔にして返しやと 恨み余つてはしたなさ 玉手はすつくと立上り ヤア
恋路の闇に迷ふた我身 道も法も聞耳持たぬ モウ此上は俊徳様いづくへ成共連れ退て 恋の一念通さて
置ふか 邪魔しやつたら蹴殺すと 飛かゝつて俊徳の御手を取て引立つる アゝフ穢らはしと振切るを 放れじ
やらじと追廻し 支へる姫を踏み退け追い 怒る眼元は薄紅梅 逆立つ髪は青柳の姿も乱るゝ嫉妬
の乱行 門に夫婦が身に冷汗 こらへ兼てかけ出る合邦 娘が髷引掴みぐつと差込む氷の切先 あつと玉
ぎる声に恟り戸をめり/\かけ込む夫婦驚く御夫婦 情なや母上を手にかけしかと御涙 娘を抱へる母親は

心からとは云ながら ヲゝ術なかろ苦しかろと 嘆けば今更人々も涙々を添へにける 合邦は怒りの顔色 筋 
骨立てて ヤア皆何の為に其涙 ナゝゝゝ何ほへるのしや女房共 われ泣ては左衛門様や俊徳様御夫
婦へ 心の義理が立まいがな 此様な念の入た大悪人を まだおのりや子じやと思ふか おりやもふ/\憎ふ
て/\ どふも斯にもたまらぬ故 十年以来(このかた)蚤一疋殺さぬ手で 現在の子を殺すも 浮世の義理とは云
ながら 是が坊主の有ふ事か コリヤ儕斗か此親迄 仏の教へうぃ背かして 無間地獄の釜こげに よふ  ←
しおつたなァ魔王めと えぐる拳を手負ひは押へ ヲゝ道理でござんす 道理じや/\憎い筈しや カ
是には深い様子の有る事 物語る中此刀 必ず抜て下さんすなと 苦しき息をほつとつき 様子と云


45
は外でもなく 外戚(げしやく)腹の次郎丸様 年かさに生れながら 跡に生れた俊徳様に 家督を継がすを
無念に思ひ 壺井平馬と心を合し 御世継の俊徳様殺そふと云ふ兼ての工み 推量斗りか委しい様子 立ち聞し
て南無三宝 義理有中のお子と云 元は主人の若殿様 殺させては跡立たず 此上は俊徳様 御家督
さへお継ぎならば 次郎丸様の悪心も自然と止んで お命に別条ないと思案を極め 心にもない不義
徒ら云ふもうるさや穢らはしい 妹背のかためと毒酒を進め難病に苦しめたは お命助けふ斗りの
術(てだて) 恋でないとの言訳は 身をも放さぬ此盃 継母の心子は知らぬ 片思ひと云ふ心の誓ひ
継子継母(けいしけいぼ)の義は立ても 嘸や我夫通俊様 根が賤しい女故 見損ふた徒者と おさげしみを受るの

が 黄泉(よみち)の障りに成はいのと いへど合邦嘲笑ひ 夫レ程知れた次郎丸が悪事 ナゝゝなせ通俊さま
へ告げぬぞい たつた一口に云さへすりや 癩病にする事も 不義者にもならぬはい 口利根に云廻した迚 今
に成てそんなくらい言訳 くふう様な親じやない イヤ/\そりやとゝ様の御了簡違ひ 其様子を夫へ告げなば 道
理正しい左衛門様 お怒り有て次郎丸様 切腹お手附は知れた事 次郎丸様も俊徳様も 私が為には同じ
継子 義理有る中にかはりはない 悪人なれど殺しては 先立たしやんした母ごぜが 草葉の影でも嘸や嘆き
隔てた中故訴人して 殺したかと思はれては 世間も立たず 義理も立たず 通俊様もお子の事 何の
心よからふぞ あちやこちやを思ひやり 継子二人の命をば 我身一つに引受て 不義者と云れ 悪


46
人に成ても身を果たすが 継子大切 夫の御恩せめて報ずる百歩(ぶ)一と 言訳聞て人々は扨はそふかと疑ひ
の晴る程猶母の嘆き ヲゝ小さい時からの気立てではそふなふて何とせふ 曇り霞もない人を 悪ふ云
すが口惜い そなたも嘸や口惜かろ 其心根を推量して可愛ひはいの/\/\可愛やと むせび
返れば爺親は コリヤ娘 其心でなぜに又俊徳様の跡追て 家出したが合点が行ぬ ヲゝ尤なお咎めなれど
何国迄も行方を尋ね あなたのお目にかゝらねば労はしやアノ癩病 御本復はござんせぬと 聞
て入平不審顔 フウ何とおつしやる お前が傍に付てござれば 御本復なさるゝとは さればの事
典薬法眼に様子を打明け 毒酒の調合頼む折から 本復の治法委しく尋ねしに 胎内より

受る癩病ならず 毒にて発する病なれば 寅の年寅の月 寅の日寅の刻に誕生したる女の肝  ←
の臓の生血を取り毒酒を盛たる器にて 病人に与へる時は 即座に本復疑ひなしと 聞いた時の
其嬉しさ 夫レでと此盃 身に添へ持て御行方 尋ね捜す心の割符 とゝ様かゝ様何と疑ひは晴ましてござんす
かへ フウスリヤそちが生れ月日が妙薬に合ふた故 一旦は癩病にしてお命助け 又身を捨てて本復さそふと 夫レで
毒酒を進ぜたな アイ ヘエゝ出かしおつた出かした/\ 娘コリヤやい モゝゝゝ何にも云はぬ 堪忍してくれ/\ 日本は扨
置き 唐(から)にも天竺にも 今一人とくらべる人もない貞女を 畜生の悪人のと にくて口云斗か 親の手に
かけむごい最後も コ此おれが愚鈍なからじや あほうなからじや 赦してくれとどふど居て悔み 涙ぞ


47
道理なる 始終を聞て俊徳丸数行(すかう)の涙(なんだ)拭はせ給ひ 探り寄て継母の手を取り押戴き/\
なさぬ中の義を重んじ御身を捨てての御慈愛 誠の親共命の親共 云にも尽きぬ御厚恩 身を百千
い砕く共何と報じ尽すべき 有難や忝やと頭を畳に付け給へば 其お心とは露しらず 勿体ない道知ら
ずとさけしんだのが恐ろしい お赦しなされて下さりませと 両手を合す姫の侘び 遖女の鑑共
云るゝお身に悪名受けかゝる御最後労しやと 入平夫婦も悲嘆の涙 母は正体涙にくれ 本に此子が
生れたは寅の年の寅の月寅の日の寅の刻 世間へ沙汰をせぬ物と世の教へをば大事ぞと
夫婦親子の其外は犬猫にさへ隠したに 義理にせまれば我と我が身を責めはたる無常の虎

ひょんな月日に生まれたは持て生れた不運かと 嘆けば道理と一座の涙 逢坂増井の名水に 龍骨(りうこ)
車かけしごとく也 手負いは顔をふり上て 兼て覚悟の今の最後 未練に嘆いて下さる程 結句私が未
来の迷ひ 此様子を我夫(つま)へ 具さに願(がん)は俊徳様 不義の言訳立つならば 思ひ置く事一つもない 命を捨た
御褒美には 二郎丸様のお命をお助けなされて下さる様 必々父君へお願ひなされて下さりませ イヤ/\/\
叶はぬ迄も御養生 何卒存命(ながらへ)下さるが 慈悲の御恵子の為親を殺しては 我身の冥加恐ろし
ひ ヲゝお優しい事よふおつしやつて下さりました 去ながら迚も助からぬ此深手 死ぬるは兼々望みの事 母親を
殺したと思し召しては私が罪 お嬪の此玉手 お主の為に身を果たすは 武士の家では身の誉れ 泣いてや


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など下さりますなサア/\とゝ様 コレ此鳩尾(きうび)を切裂て 肝の臓の生血を取り 此鮑で早ふ/\と気をいる娘 隠れる(?)
親憎いと思ふた張合なりやこそ 切も突きも成た物 今では真底可愛ひ娘を どふマア夫レがむごたらしい
若役じ入平殿とやら 大義ながら頼ます 是は迷惑千万 主人の介抱お世話の御礼 どんな御用も
相勤めふが 御主人同然の玉手様 どこへ刃が当てられませふ 是斗は御免/\ 名代には女房共 エゝこちの人にん
げもない勿体ない奥様を どふマア夫レが赦されて下さりませ/\ エゝ未練な用捨 所詮其心底ては
叶ふまい モウ人頼みには及ばぬと 懐剣逆手に取直せば マゝゝゝ待てくれ 娘迚も生きぬそちが命 臨終
正念未来賞仏 仏力頼む百万遍 此人数でくる数珠の 輪の中(うち)で往生せいと 取々広げる数珠

の輪の 中に玉手は気丈の身がまへ俊徳丸を膝元へ 右に懐剣左に盃 外には爺の親粒が導
師の役と鉦撞木 母は涙の目も明かず 宵は死んだと思ひ子が 回向の為の百万遍 今又
無事なと悦んだも 露と消行進めの念仏 どふでも亡者に成のかと 嘆けば父もかっきくれて 百八煩
悩の絆を切れば六道四生の苦を免れ成仏将に疑ひなき 仏の金言偽りなくば 数珠の内
こそ寂光浄土と鉦打鳴らし 光明遍照 十万世界 念仏衆生 摂取不捨 涙 くり出す 数
珠くり出す なむあみだ仏/\/\ 見るめひやいさ人々は眼を閉ぢ気を閉ぢ一心不乱 南無あみだ仏/\/\
/\/\/\内になんなく切裂く鳩尾 自身に血汐受けたる盃 差付ける手もわな/\/\ 俊徳丸は


49
押戴き 母の賜(たまもの)天地にも余る斗りの御芳志と 唯一口に呑乾し給へば 不思議や忽ち両眼
開け 面色手足も瞬く中 昔の姿に帰り咲き花の顔ばぜ見る手負い 苦しき方頬に
笑ひ顔 ヤア御本復かと一座の悦び 早断末魔の四苦八苦 鉦も早めて責め念仏
なまいだ/\/\/\/\ 願以此功徳平等に 死骸に取付き縋り付き 悲しみ涙忝け
涙庭に 波打斗也 嘆きの中に母親は 頭の雪を打はらひ 娘が菩提の尼衣 俊
徳君も涙をとゞめ広大無辺継母の恩 せめて少しは報ずる為 出世の後は
此邊に一宇の寺院を建立し 母の尼公(にこう)を住侶とせん 継母は貞女の鑑共曇らぬ

心は晴る江に月を宿せし操を直ぐに月江寺と号(なづく)べしと 仰せは今も尼寺と 常念仏の鉦の
音に昔の哀れや残るらん 父は常々勧進の閻魔の御項持仏に据へ 不産(うまず)で死んだ娘が為
地獄の苦患を助けるは自力他力に此仏体建立して我住家を其儘一つの辻堂に
営むも又 平等利益東門中心極楽へ 娘を往生なし給へと 願ふ心は後世の為 現世の名
残数々は 百八煩悩夢覚めていつか再び鮑貝 涅槃の岸に浮瀬と 筐に残る盃
の 逆様事も善知識仏法最初の天王寺 西門通り一筋に 玉手の水や合邦が辻
と 古跡をとゞめけり かゝる所へ主税之介 二郎丸壺井平馬高手小手に縛め来は二人  


50
が悪事露顕の上大殿の御意を受け 君のお行方尋る折から里人が知らせに寄て御安体の
御尊顔 殊更難病御本復此上の悦なしと申上ぐれば俊徳丸 継母の貞心つど/\に次郎
丸の命乞 悪の根ざしは此平馬と入平が太刀風に首は大地へ落瀧津和泉河内を
打合せ 治まる御威勢高安の 俊徳丸の物語書き伝へたる筆の跡千歳の春こそ目出たけれ

 

 

 

合邦ヶ辻閻魔堂

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 大阪市浪速区下寺3丁目