仮想空間

趣味の変体仮名

本朝廿四考 第三 (桔梗原の段) 

 

読んだ本 http://archive.waseda.jp/archive/index.html

      イ14-00002-741

 

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    第三 (桔梗原の段)
名も山深き信濃路に ?(やさ)しき花の名に呼し爰ぞ桔梗が原とかや 甲斐と越後の領分に
わけて立たるさい目の場所 馬草を苅に奴らさ 一本きめた刀より研ぎ立て鎌でくはつさくはさ 踏
あらしたるめい/\が主の威光をかり場の領 是も同じく二人連 籠に?を指し荷ひ 見て恟りの
どつてう声 ヤイ下主め うらが部屋ではついに見た事もないしやつ顔共誰に断り此馬草を苅
ほした 悪く言訳ひろいただ 二人共に首が飛 盗人めらと云せも立ず ヤア下主の口から下主
呼はりしやらくさい 忝くも甲州の主信玄公のお馬の飼料 うぬらが知た事でないすつこんで

けつかれと 猶も引ぬく手先をとらへ ヤア此印が目に見へぬか 甲斐の領分は是へ東 西は越後
領分と書て有は うぬらが眼にかゝらぬか 盗人といふたが誤りか サア/\何とゝきめ付られ 返答こ
つつり後ろから 握り拳を二つ三つ 傍輩をぶたれては 後日に主君へ言訳立ぬ やぶれかぶれと二
人の奴 いどみ争ふ折こそ有 両人共にじづまれと 声裲の裾けはらし 高坂弾正が妻の唐
織 越名弾正が女房入江 夫レと指図に嬪共用意の腰かけ奥井家老の 女房と見るより
下部共 わかつてこそは蹲る 入江邊りに心を付 誰ぞと思へばお馬屋の沓蔵百内 何故の争ひ
ぞ 事によつては聞捨られず 包まず語れと尋れば ハイ/\ 喧嘩の元は馬の飼領 信玄殿の家


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来とぬかし 此方の領池へ踏込 苅あらせし狼藉者 我々に見付られ 言訳なきの掴み合と 語る中
よりもふよい/\ 夫レでさつぱり様子が知れた 国がかはれば心迄かはる 甲斐の国はすへて盗賊は
やりしと 人の噂もうそではないと あてこすられて唐織もむつとはせしが押しづめ 互にお主の
確執よりおのづと隔てる両家の中 家来の仕落は幾重にも 詫び申す筈成共 只今のお
詞に すべて甲州に盗賊有と おつしやつた 其一言が承はりたい ヲゝ唐織様とした事が 何の根
問に及ぶ事 元此信濃は村上左衛門 義晴殿の領池成しが 謙信様と信玄様両人して切取
あひ 此所
にさいめの印 夫レを知りつゝ狼藉せしはあなたの御家来 国の守の扶持人さへ是じや物

ましてや町人百姓は猶以て 狼藉するは知れた事 イヤおつしやんな 印有と云ながら一つに続きし
原なれば 誤て踏越しもいはゞ下郎の苅取る草 イヤ下郎にもせよ誰にもせよ其過ちを
させまい為 建てたるほう木は国下の禁制 花咲く木々の枝迚も折取まじと記せしを手折るは
則落花狼藉 此領分の印に限らず 譬白紙に書く迚も 事を制する理に等し 是皆
国の教へとして 掟を守るは貴人より下々の掟とする 謙信様の息のかゝつた領池へ踏込草一筋
でも苅取たは 国を盗むも同じ事 其儘捨置いては夫弾正が越度 女房の身として見て居
られず 高坂様はとも有れ私が夫弾正殿 ついに一度も名を穢せし事なければ お前の殿様と一


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口には ほんにいふても下さんすな コリヤ面白い聞所 お前の殿様が執権なら私が殿様も執権職
イエ/\そりやお前の胸一つ 深い様子はしらね共 侍衆の口くせにも 高坂様は逃げ弾正 こちの夫
は鑓弾正 人に勝れた鑓の上手と 逃足早いお侍とは異名さへ違ふ物 まして心の内外も
違ひやんすとほのめかす イヤコレ入江様 武士の身は情によつて 引も逃るも軍のならひ ヲゝよい口
な事おつしやるな 情でそんな異名を取武士の法がござんすかと いはれて唐織当惑の 何と
せんかた此場の無念 広言憎しと思へ共入込た越度といひ 夫をさみする詞の端聞につらさ
もいやまさる 涙隠して 入江様 花によそへ名に顕はし 非を改るお前の存分かへす詞も家来の

仕落 今は此儘帰る共満つれば欠くる道理にて けふのお礼は 重ねて屹度 ヲゝそりやおつしやる迄
もない 私が方に悲太刀は受けぬ 此以後主人の領分へ 露程もお障り有は二度と赦しは致さぬ
と 残す詞も針の先 真綿に包む唐織が立寄所をとゞむる下部 ぜひも涙の道筋を
左右へこそは別れ行 爰に諸州筑摩郡(こほり)の邉(ほとり)に住む慈悲蔵といふ者有 生得親に孝心の
道は昔の郭巨にも かはらでつもる年の数 三十の上は漸と二つか三つの稚子を 抱き入たる懐の内
曇りなる 冬の空 寒さを凌ぐ種ならで 敵の種となりふりも 茫然として佇めり ハア誠や人
間の吉凶は 生るゝ時の運に任すよいふ 母の胎内を出しより誕生の祝儀迚 ざゞんざ諷ふ


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悦びは 貴人高位はいふに及ばず 下方民の我々迄も 悦びに悦びを重るが親子の縁 夫レに引
かへ其方は わづか慈悲蔵が?と 生れ来るもそちが因果 親の心子しらずと我肌付くれ
ば親なく 結ぶ栄華も夢の夢 ぐはんぜなけれど聞てくれ 親として子を捨るは 人間ならぬ境
界と 笑ひし此身に廻りきて 今といふ今其方を爰に捨置此親が独りの母へ孝の為 捨
れは拾ふ神仏の 力をかつて成長せよ 親と思ふな子てないと 思ひ切ても切兼る 産みの母が
敵といひ 我も不便さ身にせまれと そちをかはへば不孝と成孝を立ればそちが難儀
理にせまりたる思ひ子を捨る此身の孝行より捨らるゝおことか孝行 むこいとはし思ふなと

言訳 涙目も明かねば そつと傍(かたへ)に置く土の上に伏たる稚子が わつと泣出す声に恟り抱
上 泣を道理と爰かしこ 山を越て里へいた 里の土産の見納めと 抱しむればすや/\顔
遉童の気さんじと打守り/\ 名は慈悲蔵の慈悲もなく 今目前に捨置て帰る
としらぬ心根を 思ひ出せば不憫やといとゞ 涙のやるせなき ハア我ながら誤つたり 心よはく
て叶はじと 包み廻せし絹の香の思ひは二重胸の闇元の所へ押直せど しらぬ子供の寝
入ばな一世の別れと諄(くりごと:くどい)を 跡に残して雪国のつもる敵としられたり かゝる折ふし甲斐国
の執権高坂弾正時綱 供人数多引ぐして当所筑摩の御社へ詣での道もぼう木の傍


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件の捨子に眼をくばり 人音稀な街道に捨られし稚子は 犬狼の餌食は治定 見捨る
も本意ならずと 家来をとゞめ歩み寄 ムゝ最早水子といふでもなく男子と見へてけ高き
寝顔 いやしからざる者の躮 何故爰に捨置し 子細はいかにと見廻す小袖の絎(くけ)紐に 付たる
提げ札手に取上 何々甲斐の住人山本勘助と 読も終らずふしぎの顔色 此山本勘助といふは
生国は三河の者 山賤と見へて魂は異国の韓信孔明にもおとらぬ軍者主人兼て御
懇望 かゝる乱世の其中でも 諸方に招く今日只今 此稚子に名を記捨たる主こそ
芳き勘助を味方に入る信玄公へのよき土産 ヤア者共身が屋敷へ連帰れと詞

にはつと若党中間 抱取んとする所 高坂殿暫くと 声をかけたる立派の侍 家来に
つかせし鑓印 長尾入道謙信が郎等 越名弾正忠政 我領分に打通れば 高坂は甲
斐の領ぼう木を中に挟み箱 ふ知成中の両執権 すは事こそと下部迄かたづを 呑で聞
居たる イヤ何高坂殿 只今物かげより承はれば 是成捨子が下札に 山本勘助と書付し故お
拾ひなさるゝ御所存とは存れ共 見まする所双方の領分へかゝり合せし上 貴殿の儘にも
成ますまい 手前の主人長尾謙信 日頃望みし折に幸い 国姓名を書顕はし爰に捨しは
某が 願ふてもなき忠義の一品 貴殿にやつては武士が立ぬ ぜひ連て帰りたくば弾正が


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首諸共 さもない中はいつかな叶はぬ ホゝさい目の論なら金輪際 拾はにやならぬ稚子 踏ん
だる足は手前の領分 イヤ左にあらず 物の始めを頭(かしら)といへば 此方の領分を枕としたる山本勘
助 越後の国の籏大将 見事貴殿は拾ひめさるか ヲゝいふにや及ぶ 我方へ踏延ばしたる足元
が肝心要の甲斐の国 高坂弾正が拾ふて見せふ イヤ越名弾正が連帰る イヤならぬ
と刀の柄理を非にさせぬ詞詰争ひ爰に二人の女房 とくより立聞此場の時宜 見
やる眼も角菱の めい/\夫を押隔て 高坂が妻威儀繕ひ 及ばぬ私が一思案の差し
出がましけれど 弾正殿聞しやんせ 甲斐と越後の領分へ捨置し稚子は 両家に望む山本勘

助 是を手筋に召抱へるお前方の胸の内 一方へ拾はれてはぜひ一方の国の恥 其争ひの
基ひと成肝心の此子に乳も呑さず 若しもの事が有たらば お望も水の泡 何にもせよ両
方より 乳房含めし其時に いづれへ成共呑付方 夫レを印にお拾ひ有ばどちらにひけもおと
りもないと わしや思へ共跡や先思案してたべ我夫と 遉女の智慧の海 実に高坂が
妻なりし 女房出かした 争ひとゞむるちぶさの鬮取 幸いそちが持合せし乳をあたへて心見せん
弾正殿も相応な乳母でも有ば出されよと 入江に当たる詞の端 聞よりくはつとせき立入
エ おかもじ様の御思案に鼻毛延した今のお詞 越名弾正忠政が女房乳母奉公致


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さぬぞ 今一言おつしやつたら赦しはせぬと腹立声 ヤイ/\馬鹿者 大事を前に置ながら無益の
舌の音働かすな イヤ何高坂殿 負た子に教へられるとやらで 内宝の詞ににくし女房/\゛が乳
を勧め どちらへ成共形を付け 此場の別れはいかゞござらふ ホゝそりや此方も望む所 呑か呑
ぬは互の運づく 唐織早くとすゝめられだくつく胸も押しづめ 抱上れば目をほつちり 明けて三つの
稚子が わつと泣出す口の内 ちぶさふくめてすかしても 呑体さらに見へざれば 見合す夫婦
が顔と顔 コレ申唐織様 何ぼうすゝめさしやんしても 子供はどふでも正直な わしがかはろと抱取
入江 心に拝む神よりも頼に思ふ此乳を たつた一口呑でたもと ゆふりあるけとけがな事猶も正体

泣さけぶ 声をとめんと手に汗を 握り詰めたるいたいけも にくやとすねて置く露の頼も
つなも切果し入江が思ひ唐織も 残り多さに又立寄り すかしなだめて抱上れば 泣やむふし
き女房より 高坂弾正大いに悦び 軍師山本勘助 信玄公の御味方と いはせも立ず
くらい/\ 両方共に呑付かねば 未だ善悪知れざる中 其方へ連帰る 其訳聞んと詰かくる ホゝ合
点行ずばよく聞れよ 入江殿が抱上れば嘆は治定 あのごとく身が女房が手に有中 泣くぬが
縁有是証拠 又二つには 甲斐の住人山本勘助と有からは 紛ふ方なき手前の領分 最
前ちらと承はりしが 越後領へ指さゝば 此後は赦さぬとやら ソレ 御内室の詞も有ば是迚も


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まつ其ごとく 稚けれ共甲斐の町人 其元が構ひあらば却て狼藉国賊の 名を取るゝ
か弾正殿と 先にかけたる詞の裏釘 折返されてさしもの弾正 返答せき切女房入江 思へば無
念と唐織が 抱し稚子無理やりに引取ればわつと泣 是は無体な入江様 さつきの喧嘩に負た
るかはり 其子斗は叶はぬと あなたこなたと挑みあふ 裳ほら/\妻と妻 顔はほのめく薄
桜乱れちつてぞ争ふ風情 一度にわくる夫と夫 中にも高坂声励まし 実にやいたつて正直は頭
にやとる神の慈悲 一陽の春を待つ雪中の梅にも増る主君の悦び此身の忠義されば
いな お慈悲深い信玄様の御威勢か顕はれて 私が無念もたつた今 ナア申入江様 最前のお

詞にお前の殿様を何とやらおつしやつたが 今一言御所望と 嘲る女房 ホゝゝ 聞たくば名乗てき
けん 長尾入道謙信の郎等 越名弾正鑓弾正 イヤモ天晴手練の此鑓先 受てはたま
らぬ大事の稚子 連れて手前は逃げ弾正 唐織来れと立別るゝ 胸に一物二人の弾正
爰に捨子の随一と 其名も高き山本氏伴ひ 帰るぞ ゆゝしけれ