仮想空間

趣味の変体仮名

絵本太功記 六月六日

 

読んだ本 http://archive.waseda.jp/archive/index.html
      イ14-00002-093

 

44(左頁)
    同六日の段
扨も逆賊武智光秀 多年の恨一戦に春長父子を打奉り 妙心寺に砦を構へ
勝ほこつたる諸軍の勢ひ 供に威風を顕して備へ厳しく守りいる 中央には光秀の母さ
つき 褥の上に座をしめて イヤノウ四王天 何事も見ざる聞かざる云はざるに 咄しが有らは嫁女庚申
待ち 緩りと聞かふドリヤ奥へいて夢でも見ましよと 立を引留田嶋頭 後室様の御立 腹 其
理なきには有ね共夫レは一途の思召 幕下と成て春長へ 身を寄給ひし御大将 時を得て其
機に臨むは 天の時を知といふ 何卒御機嫌直されて光秀公に御対顔偏に願奉ると 願へは供


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に嫁操 只幾重にもと手を突て願ふ心に夫マ思ひ 道理にも又殊勝なり さつきは少し
面を和らげ 夫レ程に迄皆の衆が 頼を聞ぬも年寄のかた意路 そんなら息子殿の帰り次第
奥へしらしや コリヤ女ゴ共は来て腰を打 ヤアエイと老の立居もおも/\と 嫁が介抱四王天 引添
てこそ入にける 斯たる世にも花開く 色香もしるき初菊が 奥の隙間を立出て ほんにマア
此重次郎様は しんきなお方では有はいなア こちの思ふ様にもない 間がな透がな軍学とやら 色の道
には疎いので 一倍心をいためると 女心の物思ひ後ろに立聞く重次郎 初菊殿是にかといふ
声聞てヤア重次郎様か エゝ聞へぬわいなと斗にて跡は得云ぬ かほこさは 赤らむ顔に顕はせり

是は又嗜みやいのふ 又しても/\ 顔さへ見れば恨みのたら/\ 親々の赦しを受け コレ未来永々
かはらぬ女夫 少しも隔てはないわいの アゝイエ/\つんともふアタしんきな 永々とやら未来とやら
其さきの世は しらね共 縁を 結ぶの神様が 御苦労なされうない子の ふり分け髪の其
中から あれと是との結び合 親の赦しも有物を ついに一度の逢瀬さへないは 余り胴
欲な お情ないと娘気の 胸の有りたけかきくどき恨かこつぞ道理なり 思ひは同じ重
次郎 ハテもふ今迄は不調法 以後は屹度嗜む程に コレ赦してたも/\ そんあら願ひを ハテ誰憚
らぬ云号 世間広ふ遠慮はいらぬ エゝ忝や嬉しやと ひつたり抱付く妹と背に わりなく


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見へしえにし也 折から轟く轡の音 光秀公のお帰りと しらせに恟り飛退く二人 所体繕ふ
こなたより 妻の操も出向ひ 待つ間程なく立帰る 武智十兵衛光秀 武威轟かす強
将の常にかはりし屈託顔 席を改め詞を正し ホゝ三人共出向ひ大義 シテ母人には御機嫌
よくお渡りなさるか サアイナア先程も田嶋頭と自らがわつつくどいつ どふやらお口が和らぎ 母
様とも睦じう ムゝホ夫レは重畳出かいた/\ 左有らば直ぐ様御対面 イゝヤ夫レには及ばぬ 母が直々参
らんと声うちかけを引かへて 木綿布子に風呂敷包 せなにちよつこり賤の女(め)の姿見るより
驚く人々 操は傍に摺寄て 系図正しき武智の御家 殊更四海の武将とも仰がれ給ふ

夫光秀天下の御母公様共云るゝ御身が浅ましき姿は 若しやお心違ひしかと 尋ねににつこと
打笑hじ ホゝ忝くも清和源氏嫡流たる武智の系図 元より武勇の家柄なれ
ば 誰に恥べき謂れなし 老は寄れ共心は鉄石 渇しても盗泉の水を呑ずとは お身達もよふ
知ている筈 心穢れた我子の傍 片時も座を同じうせんは我日本の神明へ恐れ有り/\ 
伯夷叔斉をならひ只 雲水に従ふて出行母 是が此世の別れぞと 義強(つよ)の母も
恩愛の涙かきらす有様はいとゞ 哀ぞ増りける 光秀は黙然とさし?(うつぶ)ひていたりし
が 操の方は涙なから コレ申我夫マ 母様の只お一人 いづくを当てと長の旅 なぜお留なされませぬ


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ぞ ホゝ不忠不孝との御さげしみ 今更申詫もなく せめては母のお心にさからはぬが寸志
の孝 四海の内は此光秀が掌ろにて有る おとめ申な其儘/\ ヲゝ遉は悪人程有て根強い 
魂 チエゝ云はん方なき人外めと にらむ目元にはら/\と涙かくして立出る 心のはり弓
強(つよ)弓の引ぞ 煩ふ嫁孫の中に悲しき初菊が 是のふ申祖母様と控へる手先 ふり払
ひ 見返りもせず出て行 わつと泣出す人々を制しとゝめて ヤア/\者共 母人の御行所いづく迄
も見届けよ 御手道具の用意/\と光秀か 靍の一ト声あまたの軍卒 箪笥長持
鋏箱 其外雑具鋲乗物 御母公様のお姿を 見失ふなと足早に跡を したふて急ぎ

行 跡見送りて光秀は 何角心に打うなづき 奥操?重次郎 嫁初菊諸とも次へ立
ちやれ 用事の有らば手を鳴らすと 心有げな詞のはし アイとはいへど立兼る ヤアぐす/\と何
を猶予 早く立てよときめ付けられ 心は跡に残れ共親子三人打連れて 是非なく 次へ入
相の 鐘が無常を 告渡る 実に物凄き庭の面 忍び出たる四王天 主君の様子いかゝそと 身を
ひそめてぞ窺ひいる 夫レとはしらぬ光秀が 有合硯引寄せて 筆くいしめし唐紙の表
に何やらさら/\/\かくと 見るより重次郎瞬きもせず物陰に 守りいる共 白書院 只一心
に書認め筆投捨ててむんづと座し 諸肌寛げ指し添を 抜くや玉ちる氷の刃 やゝ打


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詠め両眼に はら/\涙くいしばり 既に斯よと見へけれは 主従小影を走り出 ヤレ早まり
給ふな父上と 取付十次郎四王天 鏡の如き両眼をくはつと見開き声震はし コレ我君 コリヤこ
なた狂気召されたの 今朝より始終の様子 心得かがく思ふ故 万事心を付る某 物陰より窺へは
出かし顔に辞世の一句 順逆二門なし 大道心深に徹す 五十五年の夢覚め来て 一元に帰すとは何
のたは言 君臣を見る事塵芥の如くせは 臣君を見る事怨敵のことしと 春長猛威に増長し
て 神社仏閣を焼失し万民の苦しむる暴悪 神明是を誅するに 光秀の御手を
もつて討たし給ふ天の与ふるを取らされは 災ひ其身に帰す 左程の事を申さず共 よく御合

点のこなた様 切腹とは馬鹿/\しい 人はしらず此四王天田嶋頭 殺す事罷りならぬと居尺
高 ヲゝそふじや/\父の命は 我々始め万卒に至る迄 御一身に及ぶ御命 臣義を守る共
君是を補助せざるは 夫レ将とは申されず 只生害はとゞまり給ひ 下モ万民の苦しみを救
ひ給へと右左り 涙と供に諌めの詞 光秀はたと横手を打ハゝ誤つたり/\ 一天の君
の御為には 惜からざりし此命 暫しはながらへ事を計らん 先ずは綸旨を乞受て 猶も背
かん者共を悉く誅戮せん 急ぎ是より我は参内 汝ら二人は久吉か 都へ登るを半途に
待受け 一戦にぼつ返せよ イデ装束をと立上れは 近習小姓か心得て運ぶ大紋立えぼし


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立派に着なす骨柄は邊り輝く其粧ひ 早引出す栗毛の駒 光秀ゆらりと打
乗って ヤア/\重次郎 田嶋頭諸共に西国へ馳向ひ 必共に油断なく軍功を顕はせよ
と 詞にはつと四王天ハゝゝ君 御出陣には及ばず共 某彼の地へ向ひなば 猿冠者めが素
頭ベを討取る手裏に有り アイヤ/\彼も知れ物 定めて遠き計略有ん コハ親人の詞共覚へず
父にかはつて某が 軍配取て一戦に敵の首を実検に備へん コレ気つかひ有なと 勇み
すみし我子の骨柄 ホゝ天晴/\潔よし 我も跡より出陣と 手綱かいくりしと/\ 乗出す
駿足馬上の達者 轡の音は秋の野の虫には有らでりん/\/\ 綸旨をやがて頭(かうべ)に

頂き刃向ふやつ原打立追立切ちらし 追付け四海に義を伸(のさ)ん いそふれやつといつさんに
  同七日の段             大内山へと 急き行