仮想空間

趣味の変体仮名

日本振袖始 第五 八雲猩々 (附・大蛇退治の段)

 

読んだ本 http://archive.waseda.jp/archive/index.html

      ニ10-00299 
 

77(左頁)
    第五 八雲猩々

すでにじこくも夜半の雲 天をこかせる篝の煙 谷ふかふし
て嶺そびへ 山水たぎる皺(ひ)の川上 八つのもたひにとく酒を
たゝへ 影をうかへる高棚に 五重のあら菰しめを引 贄の少
女をすえ置たり むざん成かな稲田姫 きのふ迄も今朝迄も ←
おちや めのとにかしづかれ あらき風にもあてぬ身をつれなく
一人捨られて 父よとよべはたにの声 母よとよべは松の風 かゝるべし


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とは爰にさへいざ白小袖のふり袖も しぼりかねたる哀さよ
時に山なりしんどうし 谷の水音さゞ波立あれ/\遠(おち)に雲
おこり 俄に降くる雨のあし 鳴神いなづま天地を返し大(おろ)
蛇(ち)がすがたあらはれたり きゆるとすれど 吹上て 又山かぜがたく
篝 ひの川上に年を経て住とにごるはこきうすき 酒にもま
るゝつくもかみ 乱れ心は何ゆへぞ 我宝剣に心をかけ 岩長姫とは
うまれしか 蛇道の縁はきれやらず 悪女と生れ人に笑はれにくま

れし びぢよは悪女のほむらのたね よしとはいはじあしはらや 八嶋
の浦の外迄も 見めよき女を取つくさんと ひの川上にかくれ住
八つ岐の大蛇と成て 人を取事毎年也嬉しやこよひぞめぐり
くる/\姿は女 心はいかに 鬼共蛇共みへわかず 見るめもくらき こゝろ
やみ きゆるは露より心の玉 かゝやく大蛇が眼の光 あれこそこ
よひの我贄(にえ)ぞと しもとを振上紅花(かうくわ)の舌をふりたて/\ あ
ゆむとすれ共毒酒のかほりに引とめられ 立よる一つのもたひの


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かげ 爰に女はあり/\/\/\有明の 月夜にあらぬかつら女の姿は
一つ 陰は二つ三つ四つ五つ 七つ八岐の大蛇が魂 八つのもたひ
に八つの形 いで飲ほしてそこ成女を にえにとらんと飲でも乱るゝ
酒のさゞ波 よりくる/\よせくる面(おも) おもてをひたしかしらをさげ
のめ共/\つきせぬいづみ 次第にかたふく大蛇の影 面色変じて
あかねさす 角は珊瑚の枝をふり立 憤怒の酔に只引の 山
もくる/\野もくる/\ふみとむれはよろ/\/\ 立あかれは

たぢ/\/\ かつはとふせは乱れ心はたゞ一身 返す/\も恐ろしや
たきのひゞきはつゞみ まつかぜふえのね しづくとつもりて
きくすいきへながれ たけのつやのかんろ 月はかげありあけ
あさぎりゆふぎり そへてくむはたま水 おもしろの夜(や)ゆふや
やあんようりうし /\ なつてんりうたんきん/\くはさいた
ぎんなんきんかんようばいかんばいひやうたんほうせんくは
やあんてつせんくは /\ せんだんぢんちやうけ ふようりんご


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ちやうしゆんはんげさう えゝすえ えゝえすりよえゝす
えすするゝよこんりやう えすゝりよこんりよこんちん
こんりやうこんちんかう ころ/\/\び おきてはまろび
おのが心のたはふれは 人の命の あたかたきすてたる身さへ
もしや又 のかるゝたけはと見まはせは 爰の山かげかしこの
岨(そは) 八岐にまたがる大蛇(おろち)がすがた東南西北四めん四ゆい
はたゝらいでんまたゝく内 八つの顔は顔然たり誠の女はあれ

こそと しうねきかんばせつゝ息はいわほをうかちこぼくをたをし
落くる木の葉ははら/\/\ あらはらだちや/\いつはる人の心
の酒 もりてくゆるとかひ有まし思ひしらせん思ひしれ
と 八つの姿はつきまとはつてくる/\/\たくれはちひろの大
蛇が形 眼は火焔ほのほのそびら うろこをならし角をふりて
雲をまき上まきおろし 高だなめがけかゝりしはすさましかり
ける「いきほひ也 姫は有にもあらればこそ しするに二つの道


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なしとたゞ一筋に思ひ切 たにへかつはと飛おるればつれなき
玉のおのづから 土手のへいさにおり立たり うれしや生る道
筋とめさすもしらぬ草の原みたれ/\て逃まどふ 大
蛇はいかりのうろこを立めうくはのあぎとは利釼をはき 山かく草
木どうようし 河水をかへし大地をけたて追立追つめ
追めぐり よは腰を引くはへたゞ一のみの毒蛇の口 のがれがたなき
世のたとへあはれはかなき有様也 せきにせいたる尊のがんしよく

まつくろに成てかけ来り 姫がかたき天下の仇いつ迄のがし置べ
きぞ 宝剣出せと心体八膚に力を入 小脇にうんとだきしめ
えい/\/\と引たつれば ゆう力和光のいきほひつよく よはる所
をどうとなげつけかうべにしつかとふみまたがり 釼をかへせ姫
かへせと角をつかんで捻付る 時に胴骨うごき出 大蛇がそびら
を腹の内よりさら/\と切さばき いなだ姫朱(あけ)に成て顕れ出 尾
づゝにかくせし十握の宝剣やす/\取て候と 右と左に宝剣利剱


82
二振袖に引さげてにつこと笑ひし其かんはせ 尊御悦喜涙浅からず 天
のむら雲の御釼と名付大日本宝そろふぞめでたけれ 尊大蛇
がかうべよりすん/\に切ふせ/\亡し給へば 天児屋をさきとして
大山祇蘇民将来手摩乳夫婦 日月の御はたまつ先に押立
御迎ひの諸ぐんぜい野に満ち山にしき嶋の 歌にやはらぐ君が
代は八嶋の外の国迄も 日本の威をふり袖の 人民無病延
命に五こくは 家にみちにける (了)

 

 

 

 

日本振袖始

 大蛇(おろち)退治の段

 

出雲路や、簸(ひ)の川上と聞こえしは、谷深うして嶺聳(そび)え
人も通はぬ絶壁の、上の巌に高棚溝へ、五重の荒菰、注連(しめ)を引き、下には八つの瓶を伏せ、酒の泉を湛へつゝ、時は亥も過ぎ夜半(よわ)の雲、天に焦がせる篝の影、さながら昼とあやまたる
「申し稲田姫様、あと一息で姫を大蛇の生け贄も捧げまする高棚でございます。いかに村を大蛇かの災いから守るためとは申せ、おいたはしいことでございます。さりながら、最前御夫君素戔鳴尊様より、この爺がお預り申した蠅斬(はばきり)の名剣、これを姫の袂に忍ばせ給ひ、あれなる八つの壷に仕込みし毒酒に、大蛇が酔ひしれたる隙につけ入り、大蛇の腮(あぎと)をたゞ一刺しになされませ。さすれば尊がすぐさま駆け付け給ひ、大蛇を亡ぼし大蛇の化身岩長姫に奪ひ取られし十握の宝剣をも取り返されんこと疑ひなし。かの邪智深き岩長姫の事必ず油断遊ばすな。サゝこの蠅斬の御剣(みつるぎ)を」
と申し上ぐれば
稲田姫、震へる手先御手づから輿の戸開けて出で給ひ、姫は脇明けの袖に太刀を一振り忍ばせ給ふ。脇明けを振袖とはこの時よりぞ始まりける
姫は健気に気を引き立て
「時刻迫れば早う/\」
と仰せある
仕方なく/\従者ども高棚さして歩み往く
無残なるかな稲田姫、昨日までも今朝までも、お乳(ち)や乳人に傅かれ、荒き風にも当てぬ身を、つれなく一人捨てられて、父よと呼べば谷の声、母よと呼べば松の風、かゝるべしとは夢にだに、いざ白綾の振袖も、絞りかねたる哀れさよ
夜はなか/\に更けわたり、俄に雨降り雲騒ぎ、谷の水音どう/\と、鳴るよと見る間もあら不思議や、あやしの媼(おうな)現れたり、消ゆるとすれど吹き上げて、また山風が焚く篝、簸の川上に年を経て、すむと濁るは山水の波にもまるゝ柳の髪、乱れ心は何故ぞ
「われ宝剣に心をかけ、岩長姫とは生れしが、蛇道の縁は切れやらず、胸に燃え立つ瞋恚(しんに)のほむら、媚良き女を取らざれば、劫火の九患(くげん)休む間もなし、されば年ごろ生け贄の、美女を取ること多年なり、今宵も名にし稲田姫、鬼一口に服せん」
と立ち寄る巌のもとにこそ、思ふ女(おうな)はあり/\と見るに嬉しく紅(くれない)の、舌を吐き腮を開き呑まんとすればこは如何に、かほりも高き酒の香に心ときめき口差し入れ、暫時が程に呑み尽くし、舌打ちすればほの/\゛と、廻るや酒の酔ひ心、
残る七つの坪の中、見れば是にも有明の、月の柱の顔(かんばせ)に、なほ/\欲心盛んに起こり、彼方を覗き此方を覗き、乱れ心や乱るゝ姿、忽ち面は紅の、色九十九(つくも)髪猩々の、形と変ずる変化の業(わざ)、不思議と云ふも愚かなり
千歳ふるてう仙宮の、菊の水にもあらねども、是も齢を重ぬなる、盃の数は積もれど尽きぬは壷の泉の酒、よも尽きじ/\万酔ひこそ廻りたれ、足元はよろ/\/\と酒に心も乱れ足、暫しは輿を催しける
面白や滝の響きは、鼓の音松吹く風は笛竹の吹来る夜遊(やゆう)の一奏で、雲間の月や詠むらん
次第に回る毒酒の酔ひ、足曳きの山もくる/\野もくる/\、踏み留むればよろ/\/\立ち上ればたじ/\/\、かつぱと臥すよと見えけるが、今ぞ顕す大蛇が正体、頭は八つの苔むしる、鏡の如き両眼に鱗を鳴らして角振り立て、高棚目掛け駈けりしは、凄まじかりける勢いなり
姫はあるにもあらればこそ、今や餌食になる身ぞと、思へば消え入る心をば取り直して手を合はせ、『南無や神国八百万神守らせ給へ』と祈念の声、谷へかつぱと飛び降るれば神の護りか安々と平地にふはと降り立つたり
大蛇は怒りの口を張り追つ詰め/\追ひ廻り、難なくよは腰引つくはへ、たゞ一呑みと毒蛇の口、あはれといふもむざんなり
かゝる処に素戔鳴尊は猛虎の荒れたる如く、岩角蹴立て駈け付け給ひ
「ヤア/\八岐の大蛇、素戔嗚こそ向かうたり。剣の仇姫の敵思ひ知らせん思ひ知れ」
と御(ぎよ)剣を抜いてかゝり給へば
大蛇も口より猛火を吹きかけ、暫しが程はいどみ合ふ
神力無双の尊の勢ひつひに大蛇をどうと投げ付け、頭をしつかと踏み給へば
さしもの毒蛇ほえたけり、苦しむ時しも蛇腹をば、さつと血潮の滝津波切りあばいて稲田姫朱(あけ)になりて現れ出で
「大蛇に奪ひ取られし十握の宝剣、また尊様よりお預り申せし蠅斬の名剣、念なう取りえて候」
と右に左に二つの利剣、につこと笑うて立ち給ふ、御身に過ちなかりける、不思議といふもありがたし
尊御祝喜浅からず
「ホゝ出来したり/\常にこの山中に叢雲のたつたるは剣の威徳と覚ゆれば今より天の叢雲の剣と号(なづ)くべし」
と仰せに姫も勇み立ち、八州(やしま)の浪も治まりて、日の本の威を振袖の長くぞ君が代の直ぐなる道ぞ久しけれ

 

  (平成二十四年二月 国立劇場文楽公演 プログラム付属床本より)