仮想空間

趣味の変体仮名

日高川入相花王 第四

 

読んだ本 http://archive.waseda.jp/archive/index.html
      イ14-00002-680


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   第四
むかし/\此所に真那古の庄司といふ者有 頃しも春の始めつかた熊野
三所権現に あゆみをはこぶ諸人(もろびと)の 往来(ゆきゝ)に宿の施しは誠に出家侍の 屋
敷は余所にかはりけり 召使の嬪婢(こしもとはした)何かは白木に書付ける 札の数々取納め 何と
お雪どふ思やる いつぞやより熊野参りをおとめなさるゝは 何ぞ御願でも有ての事か
さればいの そして立ちしなには此様に所書きを渡し 毎日/\施しの宿 かはつた事ではないか
いのと噂も漏れて一間より 秘蔵娘の清姫が年もいざよふ月の顔 しとやかに

立出そなた衆の合点の行ぬは理り 委しい事はしらね共父上の云付 人に善根
功徳とすると 其行先がよいと有 それ故とまつたお衆達へ心一ばい御馳走申す
も どふぞ都で見初めた殿御 今一度逢たいわしが願ひ わがみ達もそふ思ふて 随分
大事にしてたもと 咄し半ばへどいや/\奥より出る熊野道者 姫の傍に手をつかへ 宿
銭いらず夜前より 結構なお料理を下され 有がたい仕合と 一礼居へば嬪が 札をめい
/\手に渡し 是は爰の所書き参り下向の人々に しんぜておしへて下さんせと 聞て皆々
押戴き 扨有がたや忝けなやと悦びいさみ 出て行 時の間も ぬれてかはかぬ袖袂


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夫(つま)の行方を尋ねわび一夜を爰におだ巻姫 襖をひらき立出給ひ 夕もじより段々の
お心づかひ 殊に御念もじのお詞 先年もなじんだやうにお心やすう好まし 足の痛を幸に
あまへての逗留 伴ひ来りし者は 岩代とやらへ詣でたれば 帰る迄今しばしおとめなされて
是はまあ旅といふ物はものうい物 必お心置ず共いつ迄も逗留遊ばせ そしてまああ
なた様のお国は何国(いづく) 熊野へは御願でも有てお参り遊ばすか さればとよ自らは都方の
者なるが 夫の行方を尋ねかねいつはかとなき憂き旅路 あはれとおぼし給はれと聞て こ
なたも打しほれ 殿御の行方を尋るとは身につまされておいとしや お恥しい事ながら自も

去年(こぞ)の夏 都詣でに見初めた殿御朝夕恋しう思へ共 何国の誰共名もしらず 心一つ
にはかない恋路 そんならおまへも殿御をば アイ恋したふ身でござりますと 互に明かす
女子気の 馴初めやすき物なりけり ほんにわたしとした事が 御存じもない京物語 いとゞお
気の 結ぼふれ 見ますればきついお髪(ぐし)の損ねやう 撫付て上ませう それはまあ/\
忝けなけれど 余りと申せばお慮外な ハテ御遠慮に及ばぬ事 女子共櫛笥持ちや
といひつゝ立て黒髪の 梅花の露の玉よりも 数珠つまぐつて剛寂僧都 跡に
ひつ添ふ鹿瀬(しゝがせ)十太相伴ふて入来れば 予を忍ぶ身のおだ巻は 座を立奥へ行跡の


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障子引立て出向ひ 是は/\僧都様十太様 最前より父上のお待かね 庄司殿の待ち
兼より此方の心ぜき きのふの勝負は先手後手のふ十太様 成程貴僧は庄司と碁の
勝負 我等が相手は清姫 碁石は恋しいそもじの顔 見たい斗に碁は付けたり こりや
今夜は必いやおういはさぬ 待て居るぞとせなたゝき打つれ 奥に入にけり うき旅を 今ぞ
始めて三熊野へ 年ごもりの山伏白川の安珍と やつせばやつす桜木の親王 庄
司が軒にたゝずみ給ひ 行暮したる修行者 連れにはぐれ難儀に及ぶ 一夜の宿を 
御報志あれと しほ/\としての給へば 出合頭に清姫が何心なく顔と顔 ヤアお前はと

走り寄り ヲゝそふじや 都で見初めた恋しいお方 夢ではないか現にも忘れぬおまへのお姿は かは
れどかはらぬ我恋人 ようまあきては下さんした マア/\こちへと手を取て 内へ伴ひ立つ
居つ 悦ぶに猶ふしぎ晴れず ついに見なれぬ女郎の 我にしたしき詞付き いぶかしさよと有
ければ 始めてはつと心付き今さら何と返答も 顔にたかるゝ栬葉の ちりもうせたきふぜい
にて 嬉しい余りに跡先忘れ お尋に預る程 答る事さへ面(おもて)ふせ 御身は御存なき事なが
らさりし皐月の京内詣でに お姿をかい見しより目にちらついて朝夕に 思ひ忘るゝ事も
なふ 年月こがれた心根を 不便な共可愛共 思ふて嬉しいお詞を 聞してやいのと打付けに


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恋のいろはを打こして一筆思ふ男には 師匠はさらにいらざりし ヲゝ切なる仰理りながら 我は都
の者ならず 白川の安珍とて 熊野山へ詣でる修行者人違(たか)へばしし給ふなと 仰に姫は涙を
うかめ 人違へとは聞へぬ仰 深山鴉も白鷺も我つま鳥はしる物を ましてこがれし我
恋人 三千世界を尋ても おひとりならでないわいな それに引かへ今のお詞 聞へませぬと
いだき付き しめからみたる蔦かづら のきばは更になかりけり 事がなふへと鹿瀬がぬつと出
たる二人がまん中 はつと驚き逃のく安珍コリヤどこへ 清姫あぢやるな 首たけに惚れて
居る鹿瀬にはじやぐ高 合点が行ぬと思ふたが道理こそ是じや物 ヤイ不義者 以後清

姫にほでゞもさゝば 此十太が赦さぬと 安珍をじろ/\ながめ うぬはどふやらうさんなつら付き
桜木親王山伏となり 熊野路へ入込みしとは先達て注進 引くゝつて拷問する サアうせ
おれと引立る ノウそんなお人じやないわいのと取付清姫ふみ飛し ヤアいやらしい邪魔ひろぐ
なとあらそふ後ろに真那古の庄司 十太が首筋取て突のけふり返るをむね打に りう
/\はつしと打のめせば ほう/\に起あがり コリヤどうじや コリヤ何とする ヲゝ最前より承れば
桜木しやの親王のと 其親王どれどこに ヲゝ外迄もない其山伏 ハゝゝ鹿をとらへて馬と
いはゞ 貴殿は馬と受取るか 其山伏は安珍とて 故有て幼い時より 娘清姫に云号せし我


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聟 いらざる詮議御無用と いふに娘が傍に寄り すりやあの安珍様は わたしに云号
有る殿御かへ ヲゝそちには未だいひ聞さね共 あの若僧こそ 汝がつまよ夫よと 此場をくろむ
る当座の間に合 娘心に誠と心得 そんなら申安珍様 お赦しの出たほんの女夫 アゝ忝
なや嬉しやと悦びいさむ清姫が 其名を残す始めとは 後にぞ思ひしられたり 鹿瀬
は顔ふくらし 親王でなくばないにもせよ 何科有てわりやぶつた ヲゝ科の次第は不義密(ま)
夫(おとこ) 云号あれば主有る娘 なぜ不義を云かけた それ故ぶつたが云分あるか 返答次第手
は見せぬと 刀の柄に手をかくればこれ/\ 去とては気の短い 云い分といふにこそ いやこれ

清姫殿 随分と聟殿を御馳走なされ 尻たゝかれ其お礼 樽肴でお祝ひ申
どりやお暇と立上り 心は跡に親王を尻目に かけて立帰る 引違ふて村の役人庄司が
前に手をつかへ 只今お供仕れと郡代所より急御用でござります ハテ心得ぬ いや
これ客僧 此熊野路へお下り有るよし とくより聞て施行になぞらへ 多くの人に宿するも
心は君を イヤこなたを待たる庄司が寸志 去ながら今聞るゝ通り 郡代所よりの召しといひ 鹿瀬
が詞を聞くに 桜木の親王の詮議一途に事極る 此所は鵜の目鷹の目 道成り興行の
寺こそは究竟の隠れ家 ナ合点かサ早く/\ 我も急ぎ御用筋 娘留守せよ 使い大


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義じや供仕やれと心 残して出て行 跡に清姫いそ/\と 何をまあ案じ顔 父上の赦しの
出た 天下晴れた我夫何角の咄しは奥の間でと 明くる襖の内よりおだ巻ヤアおまへは我
君 アゝこれ/\ 我は安珍白川の ナ白川の関 人目の関と紛らせば 悟るおだ巻悟らぬ
清姫 イヤお前あなたをしつてかへ イヤ/\/\ ついに見た事もないお人 ヲゝそれで落付た 女
中様おまへも悦んで下さんせ あなたが都で見初めた殿御 恥かしながら今宵から エイそんなら
おまへは 清姫様と女夫になる心かへ イゝヤそふではなけれ共 私をお嫌ひなさるゝか イヤ嫌ふ
とは疑ひ深い そんならあなたと添ふ心かへ サアそれは わたしと添がおいやかへ サア御心底

聞してと 尋る二人の姫百合に 露とこたへて消へたき風情 さら/\御身を嫌ひはせね
ど 我身はなせる科有て 跡より追手のかゝる者 此家に居ては身の為ならず 御縁も有らば
重ねてと座を立給へば清姫は コハきよくもなき詞譬へ科有るお身にもせよ 是程に迄
こがれる此身 野の末山の奥迄も 連れてござつて下さんせとすかり嘆けば ヲゝ左程に思ひ詰られし
上は 成程伴ひ参らせん 旅の用意を アイ/\/\ 夜寒(よさむ)を凌ぐ上着の小袖お身に禍ひない様に 血杖
の大事に遊す守り刀取てくる間も心がゝり 必爰に待ち給へと悦びいさみ奥の間へ 行を待兼おだ
巻姫 物をも云ずすがり付きわつと斗に 泣しづむ コレ/\/\ 泣ている所でなし 何をいふ間も心せく 清


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姫がこぬ内に 先々此家を立のかん いさゝせ給へとかい/\しく 姫の手を取引立/\日高の方へと
落給ふ かく共しらず清姫は 旅の調度を取揃へ心いそ/\立出て ヤア安珍様はいづくへぞ 安珍
様/\と 尋廻れど俤も 涙かた手にうろ/\と 最前の女中も見へず めんよう合点のいかぬそぶり
コリヤわしをだまして二人ながら よもやそふでは有まいと 又も外面へ走り出 安珍様 かけ戻つては
我夫のふと 呼どさけべど其かいも空吹風の音斗 コハ何とせん悲しやと 其儘そこにどうど
伏し正体 涙にくれけるが 漸に気を押しづめ 姫ごぜの嗜みは悋気しつとゝ 常々とゝ様の御異見
此はしたない形はいのと 立寄鏡にあやしき姿 アゝこは 何じやと飛のけば 始終立聞く剛寂

僧都 コリヤ清姫 わが恋したふ安珍は 女を連れて落延びた なぜ追付いて取殺さぬ
マアあられもない事いふお方 血杖のお赦しえ夫婦になる安珍様 恨しつとの心はない 仮
にもそんなこはい事 いひ出しても下さんすな サアそれが外見ずの懐子 安珍に添はれ
ると思ふが不覚 云号のそちを嫌ひ だましすかして此家を立のき 其女と一所に日高
の方へ逃おつた 大方今時分は二人しつぽりと寝て居よ エゝすりやアノ旅の女といふは 安
珍が女房 エゝ腹立や恨めしやと 表の方をにらみ付け 拳を握る怒りの涙 しすましたりと猶
も立寄 コリヤ云号有身をもつて 人におめ/\男を寝とられ 口惜いと思ふ気はな


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いか サゝそふ思はゞ趾よりぼつ付き 二人のやつらを取殺せと たき付けられて せきくる涙 イエ/\
其様にはしたなふしたら ひよつと又あいそがつき 添はれぬやうになつたら悲しい もふいふて
下さんすな 聞く程胸がぜぐるしいと取り直す気をヤアおろか/\ うはべは貞女つくつても 嫉み
そねみの心より 蛇身となつたが気が付ぬか イヤ/\ 夫をしたひ石と成たる例しは有れど
生きながら蛇道へ落ちし例しを聞ず ヲゝうそか誠か其証拠これ見よと 鏡追取差付くれば
ふしぎや写る蛇身の形 二目共見ず逃げ行くを 逃がしも立てず突付け/\ 其姿でも悋気せ
ぬか 無念と思ふ心はないかと 鏡突付け 指し付けられこは/\ながら指寄て 写せば写る我姿 夫レ

か あらぬか蛇体の形 こはそもいかに浅ましや なんと此儘此形が 安珍様に見せられう わしや
恥かしいと斗にて前後涙に伏しづむ ヤア其身に成て何をくり言 早追つかけよとするど
き詞 聞よりすつくと立上り エゝ口惜や情なy 取直しても直されぬ心の嫉妬 生きなが
ら蛇に成たか 是も誰故 の女故 おめ/\と我夫に 添はそふ物か 腹立やいで 追付い
て此恨み はらさいで置くべきか 我夫(つま)かへせと狂ひ出れば嬪婢 取付きすがるを振切/\ 袖
袂 猶もすがるを剛寂が 支へとゞむる心は一物(もつ)一筋道 踏迷ふたるれんぼの闇 空も雪
気にくもれども まだ暮やらぬ日高の里跡を したふて 「追て行