仮想空間

趣味の変体仮名

妹背山婦女庭訓 第二(猿沢池~つづら山・鹿殺し・掛乞・万歳~芝六忠義)

 

衣掛け柳と猿沢池

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読んだ本 https://www.waseda.jp/enpaku/db/
      ニ10-00469  ニ10-02226


24(左頁)
   第弐
猿沢池の段)山又山も都路は心に連れて奥深き 名も猿沢の池にさへ波立 世こそうかりける こなたの道
よりたとり来る山働きの狩人共 打連立て立留り コレ丸右衛門 こちが仲間の芝六が 此
間から夜狩して能代物付出した 夫でおいらを助けの雇ひ つゞら山から山城境へ入込で居る
との事 今夜はぐつと働いてやらにやなるまい ヲゝサもふ明ても暮てもおいらが相人は猪武
者 五六疋射とめてやつてくつと褒美を貰はふ サア/\行ふと世渡りに 追はるゝ猟師山も
見ず 足を早めて急ぎ行 世のうさは尊(たか)き卑(ひき)きも亡き魂(たま)の雲隠れせし思ひ人 釆女


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の局の跡慕ひ 勿体なくも万乗の帝の歎き浅からず御所を忍びの夜の靍 ?
とは更に人知れず 舎人も武官にも 只官女のみ道案内 池の辺へりへ御車の きし
さへ物淋し殊に目盲の君なれば哀も勝る御姿 の給ふ声も打しほれ此辺りが猿沢
の池なるかと 仰に官女近寄り 此間久我之助清舟奏問申せし通り 釆女様入水の跡 猿
沢の池にて候と申上れば今更に 御落涙をせきあへて 思ひ出せば去年の秋 民の?(営?)
なみ憐れみて 我衣手は露に濡れつゝと丸が詠せし傍らに筆を取し其釆女 早や此世には無
人とや 誠に我衣手は 涙に濡るはしならん せめて今宵の手向ぞと わきもこがねくた

れ髪を猿沢の池の玉藻と見るぞ悲しきと詠し捨御涙とぞ限りなし かゝる折しもこなたより
おは打からせし浪人姿 御車近く手をつかへ 女中方へお頼み申す 帝の御車と遥に見受申した故 押
て御願申す事有 憚ながら奏問の御取次頼入ると聞し召 ナニ珎らしや淡海なるか
と 仰に猶も頭べをさげ 私過つる節会の時 神例の式を過ち とくよりも勅勤蒙り 先
非を悔いて内裏を遠ざけ 市中に顰(ひそま)り有る所 曽我の蝦夷我意をふるひ 父鎌
足も蟄居致させ 猶玉体も安からずと聞より前後顧ず 何卒玉体守護
の為 勅勤の御赦免を願ひ上奉ると 土にひれ伏侘にける 君叡感斜めならず 朕


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が不注のなす所か 左右に奸佞び人絶へず 蝦夷帝位の望有て反逆の企て有る事
嫡子入鹿大臣が忠臣に事顕はれ 安倍の行主を使に立今日事を糺すに及ぶ
いまだ帰り来らねど 蝦夷が自殺は目下(まのあたり)鎌足内裏をさげし事も悔むにかいなき有
様ぞ 今よりは元の淡海 再び忠勤励むべしと さも有難き免許の勅諚 淡海初め
付々も 皆悦びを奏する所へ 禁庭の勤番使御車の御跡慕ひ 息つぎあへず馳
参じ 主上是に渡御なる事漸相知れ御注進 今日曽我蝦夷館へ行主公勅
使として大判事を召連れられ 渠諸(かれが)反逆吟味の所 速やかに白状有て蝦夷は其

座に切腹有り 清澄是を介錯す 然る所行法に取り籠つたる入鹿大臣 宝蔵へ忍び入り
村雲の御釼を奪取 誠は親蝦夷に越へ王位を望む大悪人 主も忽ち手にかけ
禁庭へ馳込だり 是に支へる公卿の面々 或ひは蹴殺し切倒し上を下へと逃さまよひ さし
もに広き禁裏の内人種も尽きん斗 猶も追々注進と 呼はり捨てて立帰る 皆
々はつと驚きに わきて帝の御歎きいか成天の咎めぞや 思ひ計らぬ入鹿が悪心
我四海の主として 臥所さへなき身となるは 浅間しき境界と歎かせ給ふを淡海は
御心よはき御仰と 勇める中に思慮を廻らし 密に官女の耳に口申合せて 車に向ひ


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思ひがけなき只今の注進 是より馳付け遠見を致し 安否を言上申さんと 出行ふりの偽る
も 目しいの君の御心地を休むる(てだて)こなた成 木影に暫し佇む中 取々いさめ奉る 暫く有て
淡海は 急ぎ帰りし足音して御車近く息をつぎ 只今遠見致せし所 諸国の軍勢蟻
のごとく禁庭へ馳参り さしもに猛き入鹿大臣直ちに退け候へば 忽ち内裏は穏やか也 早入御(じゆぎよ)
なせ候へと誠しやかに相述れば 主上は安堵の御思ひ御悦びは限りなし 淡海が官女を制し
急いで還御と先に立 長柄を取て舎人役 押て行衛はいづことも空定めなき
空いさみ 露踏分けて 「(つづら山の段)剽(たど)り行 山手の道より親子連れ爰に名高き狩人芝六 弓矢手挟

いつきせき 人絶への木影に立留り 声を?(ひそめ)コリヤ三作此間から夜の狩 是は渡世の表向き雇ひ
のせこ共山手谷々方々とかけ廻す 此物音の騒ぎに紛れ兼てそちに云付た 彼の爪黒といふ
女鹿は千疋が中に一疋 夫取たいばつかりで此様に 骨を折り其念力が通つたやら アノ葛籠
山の向ふの谷合 見付け得た其爪黒 アノ猪狩の螺鉦(かいがね)でぼつ立たら驚いて 向ふの山を
越すは必定 そちは是から谷へ廻り青顧(せこ)に螺鉦打鳴させ 件の鹿を追出せ/\ ヲゝ心得まし
た シタガ是とつ様 追出すは安い事じやが 鹿を射るは所の法度 お前の身に難義が出来て
は かゝ様やわしが身は どふしませふと稚気に 後ちを案じるさかしさは 孝行見へて不便也 ハテ扨気の


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よはい事をいふそれしられてたまる物か もししられたらば百年め 命かけな事するのも此身の
栄耀を望むでない 所詮此狩人商売人間のする業じやない せめてわいらには狩人が
させとみなく 侍にせふ斗じや とゝが身に気づかひはない程に サア/\早ふ谷かげへ おれは別つて
麓の方 合点かぬかるな心得たと 示し合せて親と子が 道は二筋引別れ山路をさして
ぞ 「(鹿殺しの段)急ぎ行 谷山峯に 輝かす数の松明螺鉦の響きに連る青顧の声松の嵐も
囂(かまびす)き スワよき時分と芝六は弓矢つがへて麓の方木影に隠れ待つ所へ 猪を狩出す山
路の騒ぎ供に驚きかけ来る鹿 件の爪黒得たりやと 切て放す矢あやまたず 鹿の

咽喉(のどふえ)貫きて其儘そこへ倒れ伏 三作はかけ付けて とゝ様射とめさつしやつたか シイ 声が高い
ヲゝ首尾よふ仕とめた エゝ爺様とふやら剛(こは)ふなりましたと身を震はして涙ごへ ハテくど/\と気づ
かいすな 人の見ぬ中帰れば済むと 傍り見廻し 心を配り 鹿引?(かたげ)親子連宿りをさしてぞ「(掛乞の段)立帰る
三笠が本の雨舎り烈しき嵐吹こして君が御遊の御車は此藁家(あばらや)にとゞまりし 猟師芝
六か侘住居 妻のお雉も健(まめ)やかに つかへ参らす大君の供御のしかけの米粒を撰も
女中の手?(すさみ)に 紺の藪膝緋の袴 打交りても女子同士 つい馴安きならひなり
ホンニいか様上々様といふ物は 此様に一粒/\米を撰り 是はちつと色が黒い 是は角が欠た


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のと皆撰り出して 上げます米は二粒か三粒 神様より大切な十善の主様 斯なふては
やらぬ筈 是を思へば勿体ない 王様に上る供御を踏む碓(からうす)を踏ば足が腫ふと いへば女中が
何のいな 上様でも肝心の時は やつぱり臼かお好きでな 勿体ないとこつちから遠慮す
ればけつかして 下馬緩怠とお叱りなさると笑ひ綻ぶ障子の中 しほたれ公家の
しよげつはさ しよんぼりと立出 ウ/\上臈達 夜も早初更けに及びしに 夕御所の供御
何として遅はなる 膳番は何国に居る怠りなりと呵らるゝ ホゝゝゝお公家様方とした事
か やつぱり禁裏の格式で 何のマア猟師の内にそんな仰山な膳番とやらが有

物かあなた方には御存ない 貧乏世帯といふ物は 何も角もたつた一人 むつ
くりと起きると釜の前 庭の掃除は仕丁の役 お清所の飯焚(まゝたき)役 鎰(かぎ)の出し入内
侍役とんと仕廻しまふて寝る所かお后様 百人前する事なら手の廻らぬは御推
量遊ばせ 此又こちの王様は 遅い事じやと夕やみに 山を仕廻ふて親子連いきせ
き背(せな)に大風呂敷 寒風に汗たら/\ おりの我家の門 嬶今戻つたと内に入り
コレハ/\大切なお方々 なぜ端近ふ出しますぞ お前方もお前方 在所の?(ねり)もの
見るやうな 其大そふなお姿で によろ/\と出てござつては 何ぼふ山家の一つ家でも 誰か


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見まい物じやない お局方も年中神子殿の様に 其長い物を此狭い内で引き
ずつたら 裾踏で転けさつしやろ 夫でコレ 奈良の町でよい流買てきた サア/\是をお召かへと風呂
敷解て取出し 着せるとてらの行尺も 哀きのふの長袖を在所小紋かます
似せ兜羅綿のひらた帯ねから似合ぬ御装束 矢背のけらを見る様な 名もかへて
右大弁助様 お前は大納言兵衛様こちらか髪も町風に嶋田とやらに結直し おあちややお
いちやにお梅が香 在所のかゝの風俗は憚りながら私か伝授 アゝこりやかゝ 上様の御膳
へまだか 何れも様も嘸御空腹にござりませぐ イヤ/\心つかひ無用/\ 帝さへ御安体

なれば 臣等が事は苦しからずと 殿上人も世に連て かゝり人の身の気の毒顔 イエ/\
何ほ尋常におつしやつても 内裏様も喰はにや立らぬ 思ひなしかきのふから めつきりとお顔が
細つた かゝマアちやつと握り飯なとして上いと 亭主如才内証のしがをくろめて入る所へ
腰に能面ぶら/\爰へ郡山の搗き米や 内方にこんすか ヲゝ新右衛門様よふお出たれど折
悪ふ今日は ヲツトお内義 又留主といふのか 晦日(つごもり)に来るといつでも朝から内に居ぬ
故 けふは留主を云さぬ様に 気をかへて朔日に仕かけた 払はぬ癖に節季に書き出し
なぜおこさぬと 小みづがいやさにコレ 持て来た此書付 去年の尻残りが六十八両三分


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五厘 いつ迄釣付るのじや ふづくられては居ぬ男じや サア/\/\今払や金受取ふと 傍り響かす
声高く 大納言様とゝめ ヤヨ下々の者 いとはしたなき争ひかな しづまれよやと有ければ
ヤ貴様何じや ハア手の筋見る人か コレ茶一つ汲で下あれ アゝめつそふなあなた方は大事
のお客 何じや客じや 茶代も払はずにあんなけに人取込で まだ茶やを衒のじやの
コレ喰ひつぶし達おれが喚くが無理か此書き出し ソレ見やしやれ ムゝ此切紙は色紙の形
扨は哥かとつく/\゛眺め ハテ珎らしき五つ文字 書き出し一つ茶代六十六(むそむ)つ 去年の霜月残る
銀(しろかね)是は恋歌共思はれず イヤ恋も恋借銭乞じや 何にもせよ下々には 優しくも

三十一文字をつらねしな エゝ三十や四十の端た銭じやないわいの 貴様もかゝり人ならよふ聞かしやれ
爰の芝六は盗人じやかふいふが無念ならサア金払へ かふは云物のコレ嬶衆 こなさんの心
次第で 結構は了簡が有るにナ アレ薄い芝六に 百目近ふ仕送つたは しやりから付入て
貴様のしゃり塔 とふから念かけて居るに しやり迚は胴欲な 留主が定ならコレどふぞ
とひつたりと抱付けば アゝ是何さしやんす 主が内に居やしやんすぞへ ヤアゝ内に居
なら銀(かね)受取ふわい イゝエ留主じやわいな 留主ならちよつとゝ又取付 首筋掴んで板
間にどつさり 恟りしながら負けぬ顔 ヤア芝六 夫程内に居ながらもふ留主つかふな サア茶


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代受取ろかい イヤ茶代は渡して有 ソリヤいつ渡した ヲゝ密夫の代三百目の内で 六十六匁引て
跡が二百三十四匁 こつちへ今請取ふ ヤア夫は サア今渡せ サア/\/\と詰かけられ ぎつちり詰つた
入口ひつしやり 門からしめて留主じや 密夫も茶代も 逢さへせねば取やりなし 留主
は五分/\ 算用済んだと お留主に成た腰の骨 ちが/\(万歳の段)引ずり逃帰る 姿は地下に
落ながら心の官位右近衛の 中将淡海公する/\と立出る 兼秋卿 政常卿 君に
も益叡慮めでたく御渡り 是といふも芝六夫婦が深切 虎の口の御難を遁れ
此家に匿ひ奉れ共 計らざる入鹿が乱 帝の御耳に達しては弥御悩も重(おも)らんと 何事

も包隠し 只太平の容(すかた)にもてなし 御目盲(しい)させ給ふを幸い 藁(あばら)屋をやはり禁
裏の御殿の中と 偽りすかし参らする我々が気苦労 此上ながら御悟りなき様にと 詞半ばの
やれ畳 出御也と警蹕(けいひつ)の声諸共に押明くる 明り障子の御格子に御いたはしや天
皇は 此賤が家とは夢にだに白平絹に緋の袴 褥に玉座なりければ 各々シイと
公卿達威儀を正して拝謁有 配膳の典侍(すけ)あちやの局 四方の御盤 平戸焼の
茶碗土器(かはらけ)其儘に下る御膳を淡海押とめ 朝餉(かれい)昼の御膳(もの)少斗召上られ 今夕(こんせき)の
供御はお手も付かず 此儘下げよと勅諚か 扨はお料理が御機嫌に叶はぬか エゝ不調法な


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御膳番の大隅大炊頭屹度申付けんと 立んとするをヤヨ淡海 さな心いためそよ 膳番の者
の罪ならず 両眼くらき病ふの上釆女が別れの歎きに沈み 思へば詮なき心の迷ひ 不徳の君とさ
げしまん恥しさよ 爰は常寧殿よな 夫に詰しは誰々ぞ ハア大納言兼秋 右大弁政常 其外参
議 中将少将 百官百司残らず参内仕る 御目だに明きらかならば 遠方の御幸(みゆき)はならず共
此内裏の中にても見所は様々 其障子の絵絹には桐に鳳凰 見事な彩色 上段の絵
は 竹林の七堅 又清涼殿の廊下より奥の間の四季 杉戸には芦に鷹 雪に梅 種々色
々の名画名筆 毎日見ても飽かぬ御殿 夫よ初春にもならざるに 梅壺の梅今を

盛り 君の御目も開かるべき瑞相にて候と 誠しやかに奏問有ば 実左社(さこそ) 十善の位には即(つき)なが
ら 此九重の内だにも見る事叶はぬ常闇の御裳(みもすそ)川の流れを穢す我誤りのなす所 誠
に此月日は内侍所の御神楽 兼てしゆらいも有べし 病平癒の祈りなれば 楽人共を召出し 寿
の管弦を始めよ 早とく/\と仰に恟り ハツ/\と斗俄に管弦の才覚も出て 返らぬ倫言の
冷汗ながら ハア/\是はよき思し召 楽は何がよからふぞ 還城楽か 武徳楽か 楽人只今追付是へ
エゝ何として遅参致すと 立端のしほに芝六が 手を引て門に出 扨迷惑な勅諚 俄
に管弦のお望 譬出来るにしてから 笛太鼓で騒ぎ立ては 忽ち人に御有家を知らるゝ難儀


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何と智恵は有まいか 智恵といふて 私らがてこにおへぬ楽とやら 舞とやら 一体お前がこん
な内で太平楽おつしやるからじや ハア何と是はどふ有ふ 私暫く広瀬に居た故 べれ/\
万歳を覚えて居ます 坊主めに舞して私が鼓 管弦の代りには成まいか 素襖烏帽
子がないけれど そこらはがくれ様の一徳 常の形(なり)でも大事ない/\ ヲゝそれ究竟と御前に出 楽人述引
仕る中 広瀬村の万歳瀧口へ参り候 梅の早咲と申し 春に先立参るも吉左右 庭上
にて千秋(せんず)万歳 相勤めさせ候はん ソレ御免なるぞ始めませいと 仰もあいに愛らしく時の幸い才
若の 扇開いて万歳と有難かりける我君の 悩(なう)しづまり御目も開き給ひけるは誠に目

出たふ侍ひける 昔の京は難波の京 中の京と申は志賀辛崎の松の色 かはりし物は我々
が身の有様 君は」かはらせ給ふなと 千歳の齢ひ奉る 忠臣の柱は月卿(けい)雲閣 日本の柱は
日天子 三本の柱は左近右近の花橘 四本の柱は紫宸殿 五本の柱は五畿内安全
八重九重の内迄も治まり靡く君が代の 千代にや千代を細石の祝ひ寿申すにぞ甚だ
叡感おはしまし いしくも祝しつる物かな 誰か有禄取せよ 管弦糸竹(しちく)も諸義は同じ けふ
舞楽も事終れば 百官百司も退出有れ 朕も夜の御殿(おとゞ)に入らん 思へば我は斯のごとく
錦繍羅稜の内に座し 民の艱苦を露しらず 徳なふして栄華に耽る 神の照覧


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勿体なやと 御身の事は知り給はず民を憐れむ御詞各々顔を見合せて 額に涙の天が下
暫し入御なし奉る 芝六跡にさし寄て 仰付られた彼爪黒の女鹿 近辺の山々尋ねて
も扨すくない物 是迄ついい見当らず 漸昨日見付出し 念なふ射とめ乳の下の血汐を
絞り 壺に溜め置ましあ ヲゝ大義/\ 正に天下の用に立る 得がたき鹿の手に入る事偏におことが忠義
の働き 父内大臣鎌足得より入鹿が乱を察し 罪なくして身退き 興福寺の後なる山上に取籠り 天
皇御悩祈りの祓百日の行ひ即今日が満願の終り 帝此家にまします事 先達て知らせた
れば 明暁六つの鐘を限りに 密かに是へ来るべし 其時こそ其方が勘気も赦免 改めて元の家

来玄上太郎利綱 ハアゝコハ有難し忝し 此年月の念願成就 浮木の亀共優
曇華共 此上ながら鎌足公お執成仰ぎ奉る 必ず気づかひ致すなと 主従水魚の中
臣氏 土に生ひても穢れなき藁屋の (芝六忠義の段)御殿へ入にけり 様子立聞く女房の嬉しい中の心がゝり
草臥さんしよと立寄りて イヤアノこちの人 わしやお前に問いたい事 けさの噂にマア聞かしやんせ きつい
法度をしりながら 春日の牝鹿を射殺した者が有迚 厳しい吟味がござんすげな よもやとは
思へど 万一麁相てお前やなど そんな覚へはないかいなと うらとひかけるも夫(つま)思ふしかも牝鹿は
覚へのきつくり ハゝゝゝハテ訳(わっけ)もない 奈良の傍りは赤子でも知て居る鹿の法度 石こ詰に合ふ


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事を知りつゝ殺す白癡(たはけ)が有物か したが 鹿といふは質置く事 一体しかないおれなれば
ぶち殺すは常住の事と 云紛らしてもどこやらが 鹿の子まだらの雪見酒 気が築山
で一ぱいせふ かゝかんつきやと女夫中 酔た顔でも済やらぬ 癪を押へて入にけり 村の歩人(あるき)
が表から コレ/\興福寺塔頭(だつちう)から鹿殺しの科人 猟師中間に極つた 友吟味して
訴人したら 御褒美を下さるゝおお触が廻つた庄屋殿迄早ござれと 云捨帰る高声は
小耳にはつと三作が 若しとゝ様の身の上に 詮議かゝらばどふせふと 稚心のやさしくも真実案じ
侘住みの手習ひ文庫やれ双紙 筆くひしめし何やらん 七ついろはの清書き文章 かき

捜しやのわんばく弟 コレ兄様 さつきの箱下されや くれぬとコリヤ かふじやと引たくる
筆のしんみは憎からず ヲゝ夫もやらふが コレ杉松 兄が頼む事聞てたもるか 此状を持
ての 大義ながら興福寺の門を擲いて 寺中へ差上ますといふて渡して来て
たも ムゝそしたら何ぞ賃下さるか やる共/\ 賃には春日野の火打焼買てやろ 又
嘘欺すのじじゃないかや イヤ/\ほんまじや そんなら合点じや 往て来ふと すかさ
るゝのも偽寄(すかす)のも 年より賢い杉松が 状懐にちょか/\走り 見送る兄
が書き残す 筆の命毛器用なが 仇と白地の神ならぬ折もこそ有れひそ/\


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と 表に窺ふ捕手の侍 ソレとかけ声かけ入て かけ行奥よりかけ出る芝六 待
た/\ こりや人の内へ理不尽に狼藉千万 ムゝ聞へた お前方は鹿奉行の
お手下じやな イゝヤ 此家の内に吟味有て 入鹿大臣より詮議の役人 儕
が内に 匿ひ置た者有べし 真直ぐに白状と かさにかゝれどびく共せず ハア
何の事かと思ふたら 私じや迚貧乏な狩人でも 相応のかくまいは致さい
では それを御吟味とは お役人に似合ませぬ げうさんなお侍様 ヤアとぼけ
な かくまひ置たはお尋の天皇并に鎌足が?淡海 是非あらがへは此通り

ろ傍に有合ふ三作を取て引寄せ指し付くる刃は胸に差当る 人質取れ
て ハア/\/\ サア/\何とゝ詰かけられ 先々お待下されい 如何にも申訳致しませう
が爰ではどふも申されず 大庄屋の方迄参り 委細白状致しませう ムゝ然らば早く
サア歩め ハツ/\ コリヤ三作 わりや戸をしめて かゝに気を付けいといへ いざお役人と
打連れて毒蛇の口の一思案心は 跡に出て行 一間に様子立聞く淡海 局
/\と呼出し 芝六が心底忠臣無二と思ひしが 子にほだされて大事を誤る
今の行跡(ふるまひ) 拷問に及はゞ慥に白状 どふも天皇長く爰には置きまされず


38
今宵の中に山越えに お供して立退かん 皆々密に用意/\ 我は猶も芝
六が 帰りを待て一詮議と 鍔元くつろげ立上る マア/\/\お待なされて下さりま
せと お雉はかけ出手をつかへ お疑ひもさる事なれど あれ程に迄思ひつめ
御勘気を赦されふと 心を砕く夫芝六 中々白状致す様な 未練な心で
ない事は 私が存じております 一先ず帰りをお待なされ 其上胡乱な事が有れば
一天の君にはかへられぬ 夫とは云せず 私から切かけます 其時にこそ心底の 明
さくらさは今宵一夜 憚りながら私にお預けなされて下さりませ ムゝ実一命

をさし出し 頼まるゝ程の言上太郎 とはいひながら草も木も 我大君の国なれ
ど 今は草木にも心置かるゝ此時節 すはといはゞ用捨はならず 御前へ参つて返
事を待つと心 ゆるさぬ関の戸は 破れ障子のつゞくりも 反古(ほうく)にせじと間に合
紙 書きあつめたる胸の中 母の心を三作も供に 案ずる折からに 興福寺
の衆徒鹿役人 先に立たる杉松が しるしの門口指覗き ムゝ科人はあの?よな
捕たといふや否応云さず三作を 取て引立用意の早縄 お雉驚きコリヤ
何事 大事の子をどふするのじや ヲゝ鹿のつかはしめ 殺した者は古へより 人垣


39
の刑に行ふ大法 エゝイ 其御詮議は聞へたが 狩人も多い中 外の吟味はなさ
れいで 此子一人が知た様に あんまりな当て推 但し証拠で4もござりますか ハテ
証拠なくて名をさそふか 其?が所為(しわざ)といふ事 慥な訴人有つて明白 ムゝ其
訴人したは何所のやつじや 覚へもない無実をいふやつ 切刻んでも飽足らぬ
其訴人め サア爰へ出てお見せなされ ヲゝ訴人は此? 現在の方が注進よ
もや相違は有まいと 聞て恟り コレ/\ほん 吾儕(わがみ)はさつきにから何所へ往て居
やつた アイ わしや此状もつて あの坊様の内へ往て 連立てもどつたと

いふに怪しと引取て 読む度々に胸どき/\ 何じや お尋の鹿を殺し候
者は 私兄の三作に違ひはござなく候 そんなら此書付を アゝわしが持て往た
サア兄様賃下され 饅頭ほしいとぐはんぜなき エゝ何いふのじやつつともふ
性もない子供のいふ事 取上て下さりますな ノウ三作 何のそなたが其様
な 法度を破つてたまる物か サアちやつと云訳しやいのと つき出せば顔ふり上
いかにも弟が訴人の通り 鹿殺しは私でござります コレ/\ そなたは気が上
つたか 狼狽へる所じやないぞや イゝエ 狼狽へはしませぬ わしがうでにした事 覚への


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ない狩人の 中間の衆に吟味がかゝり ひよつとどふした人達で とゝ様の
難義にならふもしれぬ 夫が悲しさ 尋常に名乗て出ます 常々お前
の咄しにも今のとゝ様は義理の有る親じや程に 猶大切に孝行にせいと ソレ
云しやつたを わしやよふ覚へて居ますわいの わしか仕置に合た跡で とゝ様の
泣かしやれぬ様に 京の町へ奉公にやつたと いふて置て下され 是からは杉
松を わしと二人前可愛がつてや 鹿や兎の命を取れば どふで末はかふなるもの
せめてあれ一人は狩人さして下さるな そればつかりを頼みます さらばでござるかゝ

様と 親の代りに罪科を 引受る気の立派さを 思ひ合せてハアはつと 今更
未練なとめ様も あらがいやうもないじやくり 扨も/\健気なといはふか 産だ
子ながら恥かしい 義理有る後の親夫 わしやまだ恩を得送らぬに 狩人も及ばぬ
発明は 一生の智恵も寿命も十三年につゞめたか こんな子を持た親とひ
けらかしたいまれな子を 世にも稀成る大垣の土の中へ生きながら 石こ詰で殺す
とは なんぼ前(さき)世の約束でも 余りむごい約束事 イヤ/\/\なんぼふでも殺
さぬ/\ /\と我子にしつかとしがみ付き 涙の瀧にしめるにぞいとゞ くひ入る


41
縛り縄 ヤア成敗極る科人に返らぬ諄 今宵の中は寺中の法事 明け六つ
の鐘つくを相図に 山本の土中を掘て石こ詰の刑罰 最早七つ もふ一時 刻
限移ると引立る なふどふよくな いはゞ畜生一疋を 殺した科をそれ程の 御成敗に
も及ぶまい 御出家のお慈悲には どふぞ助けて下さりませ 叶はぬ事なら土の
中 母もいつしよに埋づんでと 取付く嶋も袂の岸 涙に漂ふうかれ一舩 縄目
の綱は親子の別れ 見返る姿霧霞飛ぶがごとくに引立行 母は正体腰も
ぬけ ヤレ三作よ待てくれ 思へば/\けふの日は 我身一人の悪日か 由緒正しい武士

の子を 一生狩人山賊(がつ)に 朽果てさする斗かは 所の法に行はれ 非業の死は殺
生の 罰か報ひか悲しやと 土邊に蹉蛇と身を打付け声を ばかりのこがれなき
患(うれへ)を払ふ玉箒 いかな大事も好物に酔てはころり芝六が 機嫌上戸の
ちろ/\戻り ヤア女性(しやう)是におはするか 此冷へるに地邊にころりは扨は貴様も酔
さましか 久しぶちの色事 ドレ抱てやらふと手を取れば ヤアこちの人か ハア悲しや なむ三
きやつ泣上戸 我等は悲しふても笑ふ 貴様は目出たい事にも泣く イヤ又此様な嬉し
い折から 祝ふて一つ泣給へと 余念たはいも泣顔を 見せじと妻も気を取直し 泣々


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笑顔繕ひて ホンニ又どこでやら きつい機嫌で戻らしやんした そふしてマア最
前の捕人(とりで)の侍 取巻れてござんした 其仕廻はどふ付たへ サレバ/\そこをぬかして能
物か 此よふ廻る舌をもつて 立板に水を流すごとく とんと匿ひませぬにて すつ
ぱりと云捨てて戻つた 雨降て地塊ると 是からは猶なた様も帯紐といて
おかくまひ申しよいといふ物じや ナ そじやないか ヤお天子様の御機嫌はどふじや
マア/\悦びや 今日の日天様がかくれ様にならしやましたらこそ かふいふ内へお成な
されて下さるといふは 有がたいといはふか忝いといはふか 嬉しいといはふか

是が悦ばずに居られふか ナ そふじやないか まだ嬉しい事が有は あすの明六つかごん
と鳴ると 鎌足様が爰へござる そこで勘当御赦される筈 淡海様の請合じや
日頃の願ひ叶ふ明日 余り嬉しさ身祝ひに 呑酒屋叩き起こして御神酒五合
備へた エゝ忝い/\ コリヤ 坊主よ あすから元の侍に成て われにも大小さゝすぞよ
ヤ兄は何所に居る 三作よ 三作よ /\は胸を裂く 妻の苦しみ イゝエイナ 作はお前の
戻りが遅さ 一人猟に行くといふて エゝ夜の内何所へめつそふな もふ猟師は
さゝぬ 誠の弓取に仕立るはあすの夜が明け次第 イヤ もふそろ/\明空(しらみ)かけるぞ


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出世の雲が見へるぞ/\ 有がたい/\ 早ふ明六つが鳴て下され 天道様 頼ます
/\と 祈る夫が空を見つ 覗く表も裏表 夜明は我子の最期時 どふぞ
此夜が 百年も明けずに有てくれかしと 胸の阡陌(ちまた)の色々に 嬉しいも六悲しいも
六つ無量の物思ひ アゝおりやもふ今夜は てうど元日を待つ心地 果報は寝て
待て ちつとの間いねつまふ 坊主はおれが懐にと こつぽりかぶる蒲団より早とろ
/\の草臥寝入 何にもしらぬ悦び寝顔 夫レといふたら三作が 心もむそく
に夫の命 夫レも悲しし 我子も可愛し 心は千々に鳴る鐘を 早つきいだす

興福寺 ハアなむ三宝 アノ鐘の数にちゞまる子の寿命 一つの命を二つにわけ 養ひ親へ
の孝行心 ほめてやつて下されと 云もいはれぬ女房が心の苦痛三つ 四つ 重ねて響く胸先は
斧鉞に打るゝ心地 五体五つにいつの世の 報ひを爰に 修羅の鐘 打切六つは ヤア知死後
かとわつと叫ぶは一時に 蒲団の中も血の涙 寝入伏たる稚子の 咽ぶへ畳にぬふたる刃 ヤア
杉松をむごらたしい 酔狂ひか乱心かと 涙もいつそ狼狽へて咽へ流るゝ呆れ泣き 芝六居
直つて声を上 中将淡海公へ申上る 其上太郎が心底を御疑ひ遊ばされ 最前の捕人は 拙者
が心を引見給ふ 鎌足の廻し者と 気は付ながら情ない 人質に心迷ひ 弥もつて御疑ひを重ね


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たれば 天子も爰には置給はじ 冥加に叶ひ 一天の君を匿ひ申す 身の大慶も水の泡 勘当
御免もなき時は 生きても死でも返らぬ心外 躮を切ても他言致さぬ魂を 今改めて御覧に
入るる コリヤ女房 張詰た太郎が義心 大事の心底見せ損ふたは 三作といふそなたの連れ子元は
秦の益勝といふ楽官の女房 蝦夷の讒にて潰れた家 力に成て下されと 頼まれての後連れ
義理の有る子がかせに成て 鎌足公に根性を 見下られたが口惜さに 指殺したは二人が中に出生
した杉松 科はなけれど主人へ面晴れ 鬼になつてと酔た顔 酒ではなふて釼をのむ 侍の義
理が 歎きじやと思ひ諦め 坊主がかはりに 随分兄を 可愛がつてやりやいのとどふと

座して 泣ければ ノウコレ 夫レ程に思ふて下さる 其兄の三作は鹿殺しの科人になつて 縛られて
行たはいな ヤア /\/\/\ すりやおれが科を身に引受て 名乗て往たか それ殺してはと狂乱の
ごとく かけ出す弓手の岩壁に 太郎暫しと声有て内大臣鎌足公神事の礼
服小忌衣 心葉の冠梅が香の匂ひ 残れる釆女の御方 手に捧げたる内侍
所悠然と 出給ひ 無上太郎心底慥に見届たり 我歎きの乱をさけ よそながら
守護する天子 一日にても其方が御難をさけしは遖忠義 入鹿が心をかけたる釆女 久
我之助に云含め 猿沢の池に入水として 此興福寺の山奥に鎌足諸共隠れ住む 今


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日計らず汝が躮 大垣の刑に行ふ所 不思議に命助つたり 三作参れと仰の下 上下
改めしづ/\と携へ持ちし宝の箱明けて我子の無事な顔 ヤアまだ生きて居てくれたかと
思ひがけなき夫婦が悦び ヲゝ不審尤 天皇御悩の祈りの為天の岩戸の古例を引き 天照大
神に祈誓をかけ 百日の行満ずる今日 争ひがたき神の力 刑罰の地に堀穿つ土中に怪しき
光り物 能々見れば先年失せた給ひたる 内侍所神璽の御箱 入鹿が父蝦夷大臣とくより
謀叛の根さしにて 埋隠せし二た色の宝顕れ出しは是正に 神明の助け給ふ三作が命 今改め
鎌足が二代の忠臣 去ながら鹿を殺せし春日の掟 同じ地脉の弟か死骸を埋づみ

刑罰の 表を立てて菩提の為 印の石の其上に 突き鐘一宇鎌足が 改めて建立せんと
仰は今に暁の六つに死たる七つの子数を合して 十三鐘の音にぞ哀残りける 鎌足重ねて 此
八咫の御鏡は天照す御神の御影を写せし御正体 勿体なくも蝦夷大臣 穢れし土中に埋づみ置く
其故にこそ一天の御影を曇らせ 御目しいさせ給ひしも日月の鏡曇りし故 我行法のけふに
当つて御鏡出させ給ふ事 常闇の世の岩戸を開き 天照神天皇の御対面の時至れり 出
御ぞふと奏聞の声に応じて淡海公 御手を取て 立出る折から向ふ鏡の光り 朝日の顔
に輝きて忽ち御目も明きらかに ノウなつかしの帝様 釆女是にと走り寄 互に床しき物語


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御恋中も恐られ有 ヤア/\太郎 汝が射たる爪黒の鹿は入鹿が調伏にて 頓て
太平万乗の御代しろし召す暫らくも 民間に落給ひしは天より地中に落給ふ
是ぞ稀なる天智帝 御目も将に秋の田の刈穂の庵の仮御殿
木の丸殿に準へて けふ出陣の城郭に悪魔追伏興福寺は 我藤
原の氏の寺 いさや 是より 臨幸と 先をはらつて鎌足の威風りん/\
倫言の汗か 涙の露にぬれ 草葉に置ける芝六が 妻乞ふ雉子や
子故の闇明てもくれき六つ七つ十一 十二 十三鐘 の古跡を 今に伝へける

 

 

 

十三鐘

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