仮想空間

趣味の変体仮名

山の段の西風と東風

 

 わたし、妹山が西風で背山が東風かと思いましたけども、背山が西風で妹山が東風というのが正解らしいです。やっぱりね。もしかしたら間違っているかもしれないってずっと気にはなっていたんだ。派手なのが東風となんとなく覚えていたので迫力の背山がそうかと勘違いをしてしまいました。妹山はこれぞザ・義太夫という感じがしましたが、確かに愁いを帯びて美しかったです。それで、放送大学のテレビ番組「舞台芸術の魅力第12回 日本の伝統芸能人形浄るり文楽」の三味線の項で西風・東風について簡単に触れており、丁度良いので引用させて戴きます。講師はあの古井戸秀夫さん。

 

まず三味線の系譜を超大まかに述べています。元祖は沢住検校、次に義太夫を弾いた竹澤権右衛門が生れ、そして義太夫の竹本座の鶴沢友次郎(西風)と、竹本座から独立した豊竹座の野沢喜八郎(東風)が生まれました。ああ大まか。
 
音楽学の井野辺潔氏曰く、
西風を語る太夫は、顎を引き付けて、どっしりと重く語る。陰影に富んでいる。
その西風を弾く三味線は手数すくなく、勘所を外さぬように、ひきしめてピシッと弾く。

東風を語る太夫は、顎を突き出し気味に語るので、軽快で明るい。
その東風を弾く三味線は、手数もおおく、旋律的でにぎやか。きれいな音色が主体。

これら西風・東風を現代のように纏めたのが鶴沢文蔵という中興の祖である。
鶴沢文蔵は近松半二と組んで多くの名作を拵えた。
本朝廿四孝、関取千両幟、近江源氏先陣館、新版歌祭文、伊賀越道中双六など。
そのうちの一つ、妹背山婦女庭訓の山の段で「背山・男性・西風」「妹山・女性・東風」というふうに三味線で文蔵は弾くことになったのでした。

 

引用は以上です。

それで妹背山婦女庭訓の初演はどんなだったのでしょう。山の段の床は初演時既に上手と下手に別れ向き合って配置されていたのだろうか。義太夫年表を見てみます。
明和八年(1771)正月二十八日より大坂竹本座にて初演です。太夫竹本義太夫、座本は竹田新松、三味線の筆頭に鶴沢文蔵の名があり、三段目(太宰館の段・山の段)の口は咲太夫、奥が三根太夫、そして詰のかけ合が染太夫と春太夫。但書きによると狂言は大当りしたようで、「闇の礫」に「其余妹背山など初段より切迄大方此お人(鶴沢文蔵)の御世話」とあるそうで、狂言の上演、集客接待何れにも文蔵さんが貢献しただろうことが伺えます。そういえば現代では東蔵さんが精力的にロビーを走り回るお姿を時々拝見します。バレンタインデーの頃にはチョコが入っていると思われる洒落た小袋を両手に沢山提げてロビーと楽屋を忙しげに往復してらっしゃるのがかわいかったです。一撥入魂ヘビー級の床とのギャップ萌えです。一方大経師昔暦ではしっとり艶々色っぽくて、これまた大分萌えました。 さてまた他の文書には「三の切妹背山の場のもとは寛延四年竹田外記役行者大峰三桜の切矢背の場に倣へり」とあって、山の段が先行作にインスパイアされたことがわかります。山の段の初演時の床が上と下に別れていたのかどうかの記述は残念ながらありません。では山の段のアイデアの元となった宝暦元年(1751)初演の役行者大峰三桜の番付を見ますと、評判は上上吉、「大和掾と政太夫のかけ合が一はね/\た鯲(どじょう)」とあるのは三段目の切のことだろうか、なかなかおもしろく聞かれたようですが、やはり床が二つ向き合っていたという記録はありませんでした。ちゃんちゃん。でも考えたら、初演時に文蔵さんが妹山背山を東風と西風に弾き分ける事になったと放送大学が言っていますので、ひとつの床に染太夫、春太夫、三味線文蔵 and more.という事になりましょうか。かっこいいですね!染太夫が西風で、春太夫が東風かな?なーんて、またこんがらがっちゃう。

 

 ところでうちのレコーダーには「文楽」と登録してあるので、放送大学文楽の講義も自動的に録画してくれたのですが、同じ様に「にほんごであそぼ」も文楽が出る回を選んで録画してくれます。最近では「ひとふたみよ」で人間にしか見えない女の子の仕草にアンガアンガして、「驚き桃の木」でフンガフンガ笑いました。気に入ると何度も見てはアンガアンガフンガフンガします。