仮想空間

趣味の変体仮名

声曲類纂 巻之三

 

読んだ本 http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/200017224/
 
  (123コマ9~11行目翻刻と異なる・125富本豊前掾の項なども)

 外題や人の名前の漢字なんか半分近く読めないよ。

 


100
  巻之三
江戸諸流浄瑠璃
略伝系図
浄瑠璃作者名譜

声曲類纂 商


101
   目録
薩摩浄雲(門人の事 系図) 虎屋源太夫 杉山丹後掾
江戸肥前掾(子半之丞 并門人)長門掾 虎屋永果(門人)
桜井丹波少掾(子長太夫 并門人)筑後掾 油田茂兵衛
鳥屋次郎吉 四郎与吉 結城孫三郎
天満八太夫 石見掾 佐渡太夫
吾妻新四郎 江戸孫四郎 村山金太夫
大坂七郎太夫 対馬五郎左衛門 伊勢大掾
南北喜太夫 鶴屋源太郎 近江大掾語斎(門人 の事)
土佐少掾(子源太夫并門人の 事浄るり目録)薩摩外記(門人の事)広瀬式部太夫


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手品市左衛門 延宝天和頃操座看板の図
和歌山五郎兵衛 江戸半太夫(子并門人の事 浄るり目録)一寸見河東(門人の事系図 岩本乾什か事
 浄るり目録三絃引山彦 源四郎の事 同系図)市村若太夫 大薩摩宝膳太夫
常盤津文字太夫(門人の事 系図)豊名賀造酒太夫 富士岡若太夫
吾妻国太夫 三条美栄 松本数馬太夫
富本越前掾(門人の事)同二代越前掾(同三代目の事)富本斎宮太夫
清元延寿斎(同二代目 の事)富士松薩摩掾(同 門人)鶴賀若狭掾(同鶴吉の事門人 の事并系図
鶴賀新内(門人 の事)岡本宮太夫 祇園太夫
江戸浄瑠璃作者歌舞伎狂言作者大略
   以上

声曲類纂巻之三
   「江戸之部」
 (紋)江戸浄瑠璃太夫始祖
    天下 一      薩摩浄雲
泉州堺の町人にして虎屋次郎右衛門と云(或云 小平太)後薩摩太夫と改め薙髪(ちはつ)し
て浄雲と号す世に次郎右衛門入道と称す寛永正保の頃行はる(本人ののる江戸上 るり系図ぶ浄雲
 文禄四年乙未 に生りと云々)其始沢住検校より曲節を習ひ得て江戸に下り多く新作を綴り
一派の曲譜(ふしはかせ)を語り出す(其文句多くは短し昔は端上るりにて
                  段上るりは浄雲より始るといへり)弟子丹後太夫丹波太夫太夫
長門太夫等何れも其聞え高し(以上世事談綺音曲道智論竹豊故事等の説なり右に記す
              る四人の弟子は何れも虎屋と号せり正保慶安の頃四天王と
 称誉せしとかや)
江戸節根元集には京都に小平太と云者瀧野検校の弟子と成御当地へ下り七郎左衛門の助音をかたる是より
関の東に普く弘まりければ清玄といへる人六段物の文作を与ふ七郎左衛門小平太是に節を
付て語り工夫して人形に合て興行す七郎左衛門上京して丹後掾と受領し小平太は薩摩
掾と受領するとかや云々
事跡合考に云紀州の浪人小平太といふもの(同書注に浄運と云 土佐掾が師匠なり)京都に於て浄瑠璃といふ一ふしを語り


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出し沢住匂南といふ琵琶法師の三味線に合せ西宮の傀儡師源之丞といふものに人形をまは
せしよりしきりに京都にもてはやされ終に江城下に下り中橋広小路其頃はいまだ藪原なる所に
芝居を立て此一曲を諸人に見せたり是寛永年中の事なり然るに或諸侯御在府
の日気晴らしながら馬を牽せて此辺徘徊ありし砌此芝居に入て見物し入興のあまり後日
居館に招きて興行せしめられたり其時此小平太か人形こと/\く土偶なりこれによ
りて大身の興として通四丁目に京都より下りて江戸中夫迄只壱人のみ渡世とする
人形師鶴屋といひしものありしに申付て残らずかの人形を木偶にせられたり元より
小平太紙の幕を用ひたりしがかの御館にては紫の絹の幕及び布の幕に家の紋付たるを
出してかけさせられたり其時の浄るりは曽我物語なりけり紋尽の段にいたりて○○○は
某侯の紋と語るべきを御家の御紋とかたりしを興に入らせ給ひ褒美としてその木偶も幕も小
平太にたまはりしとなりその後薩摩太夫とあらため永くさつまぶしの俗唱あり浄るりに
木の人形を用る事こゝにはじまれりと云々

(漢文略)

玉露叢といふ草紙に寛永十二年江戸境町において天下一下り薩摩太夫鼠木戸の上に幕を
絹の紫に染十文字の紋を付且又浄瑠璃人形の衣裳其外歌舞妓役者の衣類等結構を尽せ
しかば国家より是を禁し給ひさつま太夫を始彦作勘三郎等禁獄せられしよしいへり
薩摩節上るりの作は大かた北条宮内といふもの作る元神職にして浪人せしとも或は武家
の陪臣にして仕へを辞せし人とも云
寛永廿年印本あづまめぐりに行けは程なく禰宜町に左近がかぶき舞角力さつま虎屋があや
つりの始りたるか土佐が能下略こゝに土佐か能とあるは人形に能を舞せ其間に上るりをかたり
ける由奇跡考にいへり又寛文の江戸名所記に大薩摩小さつま丹後掾など名のりて鼠戸を
かまへ太鼓を打日毎に各が営とす云々又元禄の江戸惣鹿子に浄雲といひしもの外記が座に入
一段つゝのあひの狂言の如くに語りけれは聞人かへつて能より面白きと思へり其後おのづから能は人よ
せになりて浄るりをほんとせり外記か流れはその土佐之浄雲か末は伊勢の大掾なりとかやとあり
前の節ともあんずるにこれかれ等しからさるもありよつてこゝにつらね出して好者の訂正をまつ
のみ或人云両国柳橋柏戸(りやうりや)河内屋某は浄雲が子孫なりといへり
牟芸古雅志といふ随筆に延宝五年境町芝居の図を載てさつま小太夫座あり元禄二年の


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図鑑綱目には無座太夫橘町さつま小太夫とあり同年の印本惣鹿子にはさつま三郎兵衛が芝居
太夫土佐掾が脇小太夫とあり
沽涼が無事談綺にのする所のさつまが系図に江戸節根元集をもて増補しこゝに記すといへども
いまだその可否をしらず

元祖薩摩浄雲(次郎右衛門入道)
(子)薩摩太夫(次郎右衛門) 大薩摩(次郎右衛門 龍閑町住)
丹後掾            外記太夫(下りさつま) 式部太夫
長門掾            土佐掾(虎之介) (子)土佐掾(虎之介)
丹波掾            近江掾語斎   手品市左衛門
太夫(虎や)        肥前掾(丹後子)
永閑太夫(虎や)      
大源太夫(虎や治へ 後に喜元)(江戸)半太夫(半之介剃髪して 後に梁雲と云)
小源太夫(虎や竹之介)    河東(藤十郎 河東代々系図次に委し)
(子)永閑太夫(金右衛門)  和泉太夫

(次郎右衛門弟子)文太夫 (二代目)文太夫 (弟子)如雲太夫
(同)主膳太夫(正徳より元文始頃まで 三座の芝居へ出る)(子主鈴事)主膳太夫

むかし/\物語に云昔は境町の操薩摩太夫筑後丹後近江肥前永閑あやつりの浄るりは酒呑童子あるひは生(いけ)
贄花車など其外浄るりの仕組始は富貴にさかえ中頃世に落郎等忠を尽し義を立親主兄の身
替りに立孝を尽し義を専にしてあはれなる事を交へ末には世に出又富貴になる躰を作り誠に
勇をみがく事有あはれ成事もありて少しは身のたしなみにもなるべきか心付の為にもなり第一 規式正
しく人形の拵様先大将人形はえぼしひたゝれを着す郎党には立えぼしを着せひたゝれすあうを着
す女の主人は髪はすべらかしかつら帯をかける召仕の女は夫々の装束なり御台は十二一重の
装束男女共義式正しく拵也浄るり始る前に先式三番能のごとく成事をいたし其次に人寄
とて和田酒盛一なかれ前上るりにして其跡にて其日の本上るりを何にてもはしめる也道理
至極したる事多く又あはれなる事も入誠に泪の留がたきほどにして義理つまりたる所働もかひ/\
敷智仁勇の郎だうざんげんにて不慮に罰せらるゝ所にて思はず歯を食しばるやうになる是を
太夫も役者も手柄とするなりと云々

  虎屋源太夫
浄雲が門人にして境町に操芝居興行し寛文の頃京師浪花に登る弟子虎屋
太夫(受領して上総掾藤原正信 といふ前巻にしるせり)同相模太夫越後太夫続て芝居を勤むと伊勢


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島宮内(京師に上りて一派をなす 前巻にくはしく記せり)も源太夫門人なり(竹豊故事に京都山本角太夫も 源太夫か弟子とあり)

 (蕪の紋:天下一)杉山丹後掾藤原清澄
堺町に操芝居興行す扁額軌範に云箕山(きざん)が大鑑に杉山氏承応元年のなつ
江戸より京都に登り忝くも口宣を頂戴して天下一杉山丹後掾藤原清澄と名
のる倅子も又受領して肥前掾といふ云々江戸節根元集に京都杉山七郎左衛門
と云町人瀧野検校の妙曲に感心し深く望て師弟と成り技芸を覚京都
の一風とす後上京して丹後掾と受領すと云々(同書に云杉山丹後か子伊之助肥前掾 薩摩掾弟子大内元左衛門半之丞獺田
 半兵衛次郎太兵衛とあり本書云二代目丹後掾はじめ半左衛門といふとあり世事談綺に
 初代丹後掾は浄雲が弟子とあり
 伝に云七郎左衛門 寛永の頃 高貴の御前にて浄るり二段を語り其後又仰事ありて
 生贄といふ浄るりをかたる後紫の幕に蕪の紋を染てたまはりしが世々家紋とすと云り)

(欄外上注釈)
明和七年 印行の煙 霞綺談 にいふ丹後と いふ上るり語 
遠州海辺 徳松村と いふ所にて 十郎左衛門と 云者を殺 
害し其地 の寺院に入 ていさぎよ く自殺す 其墓今に 
あり天和三 亥八月の事 なるよし記り こゝにいふ 丹後掾に や

  (蕪の紋:天下一)江戸肥前掾藤原清政
杉山丹後掾が男なり(世事談綺には浄雲か弟子か 長門太夫が門人の様に記せり)元大坂町に住居して境町に(丹後 掾の

(挿絵:欄外上注釈)
東海 道 名所 記に 載る 所 
江戸 大さつ ま芝 居表 の図


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(挿絵:欄外上注釈)
好色 一代 男に 載る 所
丹後 掾芝 居内 の図

 あと なり)操芝居興行す寛文の頃一派を語り出し肥前節とて世に名高し(元禄二年 の江戸
 図鑑綱目江戸惣鹿子等には無座 
 の太夫としるしてあり)男半之丞後二代の肥前となる門人半太夫江戸半太夫 なり)
太夫太夫等あり(初太夫太夫は半太夫が 脇をもつとめし也)
 延宝四年印本 蝶々子撰 当世男に
  堺町肥前座にて若竹の末一段や浮世節 宗因
此時代の浄瑠璃太夫都て櫓幕に天下一と記せり是浄瑠璃太夫の受領也
とかや天和の頃是を禁せらるゝとぞ

  長門
世事談綺に浄雲か弟子と見ゆ江戸節根元集には丹後掾は弟子とあり
長門掾門弟半左衛門清五郎小太夫等あり

  虎屋永閑(大さつまとも号せし也操芝居の 看板に大なる虎を出せしと云)
太夫か門人にして一派をなせり貞享元禄の頃永閑節とて行れぬ呉服町に


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住居して境町に操芝居を興行せり(永閑斬髪にて語りし 事は次の巻の画を見るへし)座元は薩摩三郎兵衛
にて脇を小源太夫等語りし也(惣鹿子には無座太夫ありさみせん弾山崎 源左衛門は永閑半太夫等が相方なり)門人大源
太夫(通称喜兵衛といふ後に喜元とあらたむる
   といふ是か弟子に寿徳といふものあり) 畳屋庄助小源太夫(竹之丞 事改)
等あり(小源太夫は延宝の頃木挽町にて あやつり芝居興行せり)

 (紋:天下一)桜井丹後少掾平正信  櫓幕の印(印)
薩摩浄雲か門弟にして初名和泉太夫といふ受領して丹後少掾と云葺屋
町に住し塚町に操芝居興行す(江戸鹿子に葺屋町夷屋店
              和泉太夫脇長太夫虎や源太夫と有)其男(なん)を長太夫
といふ(父に似て強勇なり口論にて人をあやめ死刑に処せられし
    由血気物がたりに云り住居住よし町なり)源太夫(二代目とらや 源太夫か)とともに
脇をつとめし由図鑑綱目にいへり
関東血気物語に云桜井和泉平の正信は生得強勇にして勝れて大力なり
しが職人商人と成ては事により無念成儀もあり人に構はぬ浄瑠璃太夫然るべし

と思ひ終に名人となりけり其時有名の太夫は受領仕り綸旨も頂戴せし故
人も用ひ大名方御前浄瑠璃にも罷出けり此太夫勇力有かにまかせ浄るり
も強き事を好みて語り鉄の弐尺ばかりもあらん太き棒にて拍子をとる
よつてはるか後俳諧宗匠貞佐(ていさ)が代々蚕(享保 十一撰)と云集に「親丹波毎日
岩をたゝきわりと云付合(つけあい)の句あるは此太夫が事也二代目和泉太夫迄人形の損
るも厭はず人形の首を抜打割打更に構はず悦んでかたる元祖市
団十郎は荒事師の開山なりしが此太夫の有様を深く用ひ今の海老蔵
迄も其なを残せしなり丹波かりそめにも弱き事を嫌ひて木戸働の者迄
も一器量ある者を集めけり(中略)此太夫生得の如く浄瑠璃も古今奇妙なる
坂田の金平と云事を語りはじめ荒々敷事此上なし此外にも大薩摩丹後
近江語斎伊之介肥前土佐外記半太夫式部皆名人にて語り候へども是ばか


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りはおよばす虎屋永閑或諸侯の御好にて五条入道武者衣にふし付いた
せしばかりなり云々
江戸名所咄に和泉太夫浄瑠璃は岡清兵衛と云もの作るいつぞの程には金時が
子をきんひらなりと云ひひろめ渡辺の綱が子をたけつなといひはやらしてより昔がたりに
云伝へたる弁慶時宗朝比奈などは彼金平が片手にも足らぬ様に聞えければ怪力
乱神好むをこの者どもは金平を語るを聞てはそばにてこぶしをにぎりきばをかみ
てよろこぶ程に金平といふ事を三才のわらべ迄も知りて日本国へ弘まりたり
中略 此清兵衛ちかごろ病死したりときゝてあはれにもをしく思ひければ
 金ひらをつくり岡清病死して惜や思へば学もたけつな

岡清兵衛か作は金平鬼をとりひしぐあの事を専らにあらはし金平節とてもてはやしけると
かや 享保の頃金平さいごと題し金平死して地獄廻りせし事をつゞりしより評判
あしくすたりしを又金平蘇生と作り直してよりふたゝびはやりけるとかや余が見る
ところの和泉太夫上るりは

 金平法問論 金平天狗問答 金平兜論 金平黒熊 金平千人切 金平大酒論
 金平最期 金平化粧問答 鎌倉官領結城合戦 釆女雅平座列
 此外上方の上るりを和泉太夫の語りし本をも見たり中古金平本にて小児のもて遊び
 し草紙は肥前節の上るりを絵入にせしより始れり今の時代の正本皆絵入にして享保
 の頃にいたりても板本多く進藤助五郎清春奥村政信羽川珍重等か画多し
 次の巻にいさゝか摸本を出せり)

譚海に云和泉太夫は武部太夫が親と同時代なり坂田公平の上るりばかり語りて和泉太夫節と
て土佐外記ふしに似て夫よりあら/\敷聞ゆるものなり殊の外子供抔好みて流行たる物なり
しか後に金平地獄廻りとて死したる事を作りて語りしよりすたれてはやらず芝居つぶれ
たり老後に人形町にて金平の人形こしらふる所にかゝり居てうせたりと云々按るに三
四代に及びて退転せりと云
寛文延宝の頃和泉太夫座に野呂松勘兵衛と云し人形遣ひあり頭平めにして青黒き顔色の
賤気なる人形を遣ひて是をのろま人形と云のろまは野呂松の略語也又鎌斎(けんさい)佐兵衛
と云は賢きかたちの人形を遣ひ相ともに賢きと愚成との体を狂言に仕始し也京大坂のあや
つり芝居に野呂間麁呂間麁呂七麦間なと名を付道化たるこわいろをなし上るり段物か間
狂言を成したり云々のろま人形は今にのこりて古風を存し壱人遣ひなり


 筑後掾(江戸上るりなる由伝れど其伝詳ならず初巻昔々物語の条下に橋本
     筑後の事あれ共其説疑はし一説に浄雲か子なりともいふ
 油屋茂兵衛(絃曲大榛抄:げんきょくたいしんしょう油屋茂兵衛つくれる
       小うた有これか一族なるべし) 鳥屋次郎吉(二人の名江戸名 所咄に出)
 四郎与吉(両人の名歟壱人の名歟可考江戸 名所咄し洞房語園抔に出


109(挿絵)
江戸 名所 記に 載る 図
「せつきやう
「天満八太夫
「おくり

「天下一大さつま
「上るり たかたち


110
右の輩其伝詳ならず證を得て次譜編に誌すべし

 説経(紋)結城孫三郎 葺屋町にて操座興行す
      (譚海に江戸浄るりの始は結城孫三郎と云説教節を葺屋町にて
       太鼓矢倉を上しが始なりといへり系図詳ならず)
      天満八太夫 堺町操座(脇武蔵権太夫天満重太夫 太夫 元也)
 同 天下一 石見掾藤原重信(堺町操座)
 同 (紋) 佐渡太夫豊孝(堺町操座)
 同     吾妻新四郎(霊巌島 操座)脇庄太夫
 同     江戸孫四郎(堺町操座)脇長太夫(図鑑綱目には江戸 孫三郎とあり)
 無座説教太夫 村山金太夫因幡 町住)大坂七郎太夫(南鍋町住寛文頃木挽町に説教
                           座興行す後堺町に芝居取建ると云)
右の輩伝系詳ならず尚後輯に詳なるべし宝暦の頃お結城十太夫(紋所丸に 鷹の羽)
なといへる説教太夫有しが今は結城座の名目操座に残れ共茂太夫節の芝居と成たり

     対馬五郎左衛門 木挽町操座也(元禄二年の図鑑綱目江戸鹿子抔には 無座太夫新乗物町住とあり)
 (紋) 伊勢大掾 堺町操座(紋所丸に十文字をも 付しといふ
      惣鹿子に浄雲か末とあり或人の蔵せる江戸浄るり系譜に浄雲か子と云り)
     南北喜太夫 木挽町操座元 或南北を南都に作る
     (東海道名所記に木挽町の方へ行たれは喜太夫か浄るり其外まことかうそ
      か異類異形の物を見する云々といへり其頃木挽町も境町と同じく
      芝居見せ物多くありて賑ひしと見えたり
     鶴屋源太郎 堺町南京操座(按ずるに源太郎は上るり語にはあらず)
右の輩系図詳ならず證を得て次編に委しくすべし

     近江大掾語斎(相方三絃弾 松村権之丞 縣外見)
杉山丹後掾が門人にして承応明暦の頃一流を語り出し後薙髪(ちはつ)して語斎と
号す語斎節とて世に称せられしとそ俗称岡島吉左衛門(或は勘兵衛とあり洞房 語園に其元新町の家持
 入道そて語斎と云承応
 より貞享迄とあり)と号し人形町に住す弟子近江市左衛門丸市九左衛門自休


111
永休等あり(江戸惣鹿子に語斎無座の太夫とあり
      或書云永休は永閑か弟子也とも)
異本洞房語園(享保廿一 年編)に云京町弐丁目に勘兵衛といふ者ありて其頃時花(はやり)し
丹後か浄瑠璃を聞取て語りしか甚之丞が(甚之丞といへるは森甚之丞とて三絃の上手也正保明
                   暦の頃江戸町二丁目に住し同書に見えたり又
 縣外見といふは三味せんの上手江戸町に
 住して近江語斎が相方也又能書也とあり)すゝめて云様其方が浄瑠璃器用なれば丹後がし
りまひせんも口惜し一流語りかへ然るべし此前四郎与吉といふ者が語りし浄るりの
風面白かりしとて語り聞せけれは勘兵衛は彼四郎与吉と丹後をかね合
一流に語りかへ後に近江太夫語斎とて世上へ名を弘めけり云々

又元文の洞房語園には岡島吉左衛門京町に住す三絃は甚之丞を師として上るり
語り出し明暦中に受領して近江の大掾といひ後剃髪して語斎といふとあり
寛文梓行の吉原讃嘲記時の太鼓と題して遊女の評判をつらねたる草紙に江戸町助左衛門
内いなばと記してあふみがゝりの上るり吉原の元祖にして世に近江節の面白きといふは此いなば
よりおこれるよし記したり近江節といへるは語斎か節をかたりしなるへし同じ頃梓行の吉原
小唄惣まくりにもあふみかはりふしとて小唄をのせたり其頃吉原遊女にて小唄に名ありしは京
町高島やの勝山新町建出しの井筒角町高砂やのかるも同町万字やの朝妻其頃唄の四
天王と称しける由洞房語園に見えたり又前の讃嘲記にきゝたきものといへる件にかるも花夕

がつれぶしまんよがさみせんいなばが浄るりとありいなばが事むかし/\物がたりにも見えたり
  (紋)天下一 土佐少掾立花正勝(紋所丸に十文字をも付る 土佐かさみせん杉田
                  平五郎 畳屋庄左衛門等なり)
二代目薩摩次郎右衛門が門人(或長門掾門人又は伊勢掾門人とす惣鹿子には外記
              が流れとす譚海には外記より分れたりと記せり)にして
内匠虎之介と云自ら一流を語り出し受領して土佐少掾と云堺町に住して同町
に操座を設けて芝居興行す(江戸図鑑綱目に脇大坂町小太夫境町横町庄太夫座元
             さつま三郎兵衛とあり江戸節根元集に三郎兵衛は丹後掾
 弟子と あり)寛文延宝の頃より土佐節とて世に行れたり(一書に後改てさつま左内と号ると云音曲
                            道智論に土佐節慶安より行るゝとあるは
 いかゞあるべき寛永のあつまめぐりに記せる
 土佐が能とあるは別人なりや)男を内匠源太夫と云(後土佐少掾 となる)弟子内匠小太夫
同長太夫太夫万太郎(後に広瀬或都 太夫といふ)庄太夫良抔あり

昔々物語に今の土佐の祖は信長公の御前にて上るりを作り語始し橋本筑後といへるものゝ末なる
よし記したれども詳ならず江戸節根元集に土佐掾本姓片岡氏なるよしいへり
土佐節はとりわけ江戸に行れし事諸書に見えたり紫のひともと浅草寺花見の条下に扇
おつ取手拍子にて当世はやる土佐節蓮生坊が高野詣東を見ればと語り出す其座に在し
やせ法師お梅といふがこらへかね三味線しらへ合せつゝ金剛峯寺(ぶじ)と納めしは心言葉も及はれず
云々享保の頃も猶土佐節の盛に行れしかば大尽舞の唱歌天満屋の土佐節といへるは江戸
町一丁めの娼家天満屋仁右衛門土佐ぶしの上手にてありし故なり宝暦六年梓行の下手談義聴聞


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集といへる草紙に土佐ぶしも近世は乞食のわざとなりていやしむるよし記せり此時代
はや廃れしと見えたり
土佐節は義太夫ぶしと体裁同じく六段続の狂言を取組たるもの也此時代は上るり本多
くは細字に書し絵を加えて幼童の戯翫とす又半紙本に摺て章句を加えたる
もあり是は宝永の頃よりのものなり

土佐節六段物語浄瑠璃目録見聞のまゝこゝに記す

 酒顛童子 和田酒盛 名護屋山三 塩屋文正 現在松風
 大職冠二代玉取 紅葉狩 楠湊川 艶色桜小町 光源氏袖鏡
 難波物語 源氏十二段 当世薄雪 融大臣 遊覧揃
 定家 土佐日記 一の谷八島 女眉間尺 三世二河白道(高尾)
 中将姫 小野道風記 全盛くらべ せみ丸 大塔宮熊野落
 花鳥大全 (周防 内侍)美人桜 殿飾難波鏡 万歳頼政 京四条お国歌舞妓
 洛陽寿 蓬莱源氏 源氏六条通 同続源氏 柏木右衛門
 泰平篁(たかむら) 芳野内裏 皐月十二段 相生源氏 対面曽我

 牧狩曽我 兵(つわもの)揃 養老 平仮名大全 (通俗)傾城三国志
 続三国志 鈴鹿山大嶽丸 今川かづら 一心二河白道(桜姫清玄)
 金山左衛門岩屋城 坂東安房国立山城攻 博多露左衛門色伝授
 京太郎 末広昌源氏

中古の遊人土佐節を雅なりとてもて遊ぶ事盛に行れ六段の内景事道行など唱ふるもの一段をえらみ
て語りたるけいこ本多し色竹と称する本にのする所をもて左に記す但し前に記せる目録の
内自ら重複なりと知るべし

 祝言同蓬莱 呉越四季の段 文正道行 調度尽し(源氏十二段 の内) 小鳥つくし(同)
 名香尽し(同) 笛の段(同) 玉もの段(同) 四季の調(てう:同) 姿見の段(同)
 枕問答(同) 通ひ小町 業平東下り道行 同鏡の段 御深草院梅見車
 同芦屋の里名所道行 芦刈笠の段 市の屋開山揃祈の段 卅三所順礼道行
 浅草名所浮世拍子 染色つくし とほるの道行 ちかの塩がま 三世相洛陽名所物語 
 同雨夜の前北野詣道行 巴だいこたねなほ道行 同太鼓の曲
 兼好花売の段 松風村雨汐汲の段 同狂女の段 桜姫道行(二河白 道) えしんの道行
 虎御前待宵の恨 なごやの道行 かつらきつぼねおり なごや風流しかたものがたり
 唐橋茶の湯 浦づくし 前中書王武略之巻(しゆじやうの道行) 蓬生坊道行
 同高野入 しづか姿見の段 義経忍ひ物語 あたか勧進帳 弁慶舞の段
 一休忍びの段 同高野入 一休山伏問答 大塔宮くまの道行 同忍びの段


113
 花無世の段 関東小六道行 東国下り道行 源氏重代釼の巻 葵上あつさの段
 同祈の段 虎少将道行 虎少将しかた十ばん切 反魂香めいどのさんげ
 童子よろいづめ 頼光山入

  (紋)天下一 薩摩外記藤原直政(三絃 新右衛門 岡本小四郎 松島源左衛門 抔なり)
二代目外記節とて世上に流行り堺町に操座を設て芝居興行す門人源次郎左源太
左平太薩摩左内(享保の頃也後に剃髪 して調翁といふ)薩摩宮内(同じ頃也)清五郎平太夫抔あり
外記中山万太夫とともに芝居興行せり万太夫は其先中山佐世之助といひし歌舞妓女形にて小唄の
上手也後に万太夫と改上るりをもかたり又唄の芝居を興行す尚五巻目にしるせり 或人云外記
節は段ものなし一段づゝの端ものなりと
鎌倉屋豊芥の筆記に云此外記太夫が方へ弟子になりたきよし申込人あれば先其人に対面し其
許には是迄何ぞ音曲稽古被成やと聞く時近江節和泉節手品節永閑節肥前ぶし半太夫
節土佐節など何にても習ひしわざを其儘に答ればひと口語り聞せらるべしといふてかたらせその
声に応じて弟子となし又は其許の声がらは我等か節より半太夫がよろしからん又は永閑然
るべしと夫々に手紙をつけて頼み遣しける又わが流にかなひたるものには身力を入れて教る事
太夫が気風なりとかや然るに或夜大坂町の銭湯へおもむきしに当座にて興行せし矢筈
源氏の三段め長谷部信連戦死の処を声はり上てかたるを聞て心に感じ僕に問ひしにあれ
こそ此身の芝居の中売惣右衛門方より出る菓子売にてあだなをあま鯛といふものなり

と聞て湯よりかへり脇語りさつま源次郎を招き轡の紋の麻上下一具小袖一重今晩中に縫たて
明日持参すべしと申遣し翌日惣右衛門をよびてかのものを同道せしめあつらへ置し上下小袖をあた
え夕部の事をかたり是よりさつま半太夫と名のり浄るり稽古出精いたしなばあつはれの太夫
となるべしと褒美せしかば半太夫其恩を感じ是より稽古して名人にはなりしとなり

  広瀬式部太夫
土佐掾門人(或外記が門人 なりとも云)始万太郎と号し後式部太夫と改め一派をなし貞享元禄
の頃式部節とて世に行る河東の節付にも多く式部が節を加えたりとぞ江戸図
鑑綱目に無座の太夫住居富沢町とあり(譚海に式部太夫か上るりは外記武士に似たる
                  もの也一度市村座へ出て語りたる事有し也云々)

  手品市左衛門
土佐掾門人と云(或伊せ掾弟子共長門太夫
        弟子清五郎に学ぶとも云)手品節とて一派をなせり河東もこれが
曲節を慕ひ節付に式部節とともに多く用ひたりといふ
延宝天和の頃操座小芝居名代看板の図とて牟芸古雅志といへる草紙に
載る所のものあり左に模(うつ)し出せり


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(上)上 るり 上 るり
たんぜん  十兵衛
新ぞう   二郎兵衛
よ太郎   新右衛門
ふく太郎  善右衛門
天下一土佐少掾橘正勝
若女    彦三郎
弥蔵    太郎右衛門
はうた   勘兵衛
さみせん  庄左衛門
けんさい  左
とろ平   六左衛門
やつこ   村山金右衛門
弥蔵    伝左衛門
天下一丹波少掾平正信
おやま   三左衛門
小うた   六郎兵衛
さみせん  七郎右衛門
金平    八左衛門

(下)堺 町
万のふ丸  鶴右衛門
同     五郎兵衛
はつくま  三之丞
ふじ井   丹三郎
かるわざ  つね右衛門
ひやうし舞 小源
中むら   善五郎
そめ川   勘四郎
はしもと  市三郎
花嶌    弁之助
市川    さもん
  (万能丸一円)
天下一播磨守?(坐?)
  (そうえん)
小たんせん 三之助
ながうた  円之丞
大うた   小伝次
上かたふし 次左衛門
永かんふし 小右衛門
さみせん  勘右衛門
はやしふえ 又次郎
くわしやかた吉兵衛
はやし   八三郎

(左頁上)
上 るり
おやま   庄左衛門
与九郎   勘兵衛
太郎ま   仁兵衛
助惣    彦兵衛
天下一薩摩外記藤原直勝
てつま方  三郎兵衛
けんさい  左兵衛
小うた   千之助
さみせん  三郎左衛門

(下)説 教
能人形   庄太夫
とんつう  与三兵衛
とん七   七右衛門
ちや平   五郎兵衛
天下一石見守藤原重信
おやま   五郎左衛門
小うた   庄左衛門
はうた   半右衛門
さみせん  四郎三郎

直勝とあるは直政の誤 石見守とあるは石見掾の誤なるべし 播磨守とあるは歌
舞妓芝居にや

  若山五郎兵衛
貞享元禄の頃一派を語り出して若山節と号し世に賞せらる又小唄を能く
して上手の聞えあり(譚海に云芝居にて狂言のあひしらひに一口つゝうたふは若山節と云
          もの也説教節上るり節さま/\なる節を交えてうたふなりと云々)


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  (紋)江戸半太夫 (相方 三絃青柳三右衛門)
幼名半之丞といふ後江戸半太夫と改む始て説教祭文の上手なりしを肥前太夫
すゝむるにまかせ浄瑠璃にかへて則肥前太夫に学び一家をなせり(元禄の江戸名所 咄に江戸半太夫
 が説教とあり譚海に半太夫外記節より出たり又永閑は
 弟子なりともさつま左内か弟子也とも云由記せるは取へからすと)甚左衛門町に住して境町に操芝居
興行す後(正徳 の頃)薙髪して坂本梁雲といふ貞享元禄の頃より世上にもてはや
され今に江戸節又半太夫節とて廃る事なし浄雲以後江戸にての名
人なりしとかや(沾涼か世事談綺に半太夫は何院とかいへる修験者の子なりとまた塚原
        市左衛門といふもの半太夫或は外記か上るりを作るよし同書に見えたり)
太夫男宮内は早世し 半次郎後に二代目半太夫となり(二代目半太夫梁珉といふ 元文より宝暦の頃にいたるか)
半三郎(或は 亨蔵)後に梁雲といふ(初代半太夫の脇は江戸吉太夫同初太夫西太夫抔つとむ二代目
                  半太夫脇は江戸半九郎同文次郎同半十郎抔かたりしなり)
門人多き内にも天満屋藤十郎一派をなして河東ぶしといふ(其伝次に 記せり)又意教
(譚海に意教は浄土宗某寺の所化にして半太夫に上るりを学び後還俗して上るりかたり
 となり一派をかたりいだしていきやう節と云半太夫よりは節こまやかなれと花やかにはなき

 ものなりと云り按に
 意教何某にも学べり)双笠(さうりつ:ともに僧也是も半太夫に 学びて名人なり)抔尤其名高し(半太夫没後寛 保延享の頃迄は
 江戸操人形江戸節土佐節肥前節抔にて其内中芝居にさつまと云へるは江戸節にて興行あり
 しが夫より上方の義太夫節になりしといへり
 豊芥の筆記に云半太夫は操の座元なりしが一度退転に及んとせし頃紀伊国屋文左衛門歎かは
 しく思ひ半太夫か放埓をいましめて金子弐千両を貸あたえて興行せしむ此ときの名題
 浅草帷子黒小袖といふ六だんつゞきの狂言にて殊の外大入をなせりといへり)

  (半太夫稽古本 印章) (印)

太夫座興行の浄瑠璃外題見聞のまゝ左に記す(稽古本の表紙或巻末に御座敷 浄るりと記せし物多し是一段
 物の景事道行なといふ物なり次に記せる河東節
 上るりは半太夫が上るりを其儘に語りし物まゝあり)

 源氏十二段(二段目小六検見物語四段目姿見の
       段同四季の調同御座うつり) 生贄(三段目道行 五段目教化の段)
 和泉城(二段目調伏三段目起請文 同勝負分け) 日蓮記(五段目山入の段 并教化の段)
 黒小袖浅黄帷子(三段目初瀬前道行 四段目草紙売)丹波与作(初段霊宝三段目道行同馬駕籠の 段五段目たる井おせん道行同物狂ひ)
 夜目遠目笠の内(四段目大和之助道行同 大和物語五段目京わらんべ)女庭訓(初段助成角力物語三段目髪すき 五段目虎少将道行)


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 参会和(やはらぎ)曽我(四段目袂の前道行 五段目忍びばせを) 本朝勇士鑑(三段目花売り 五段目浅草八景)
 湯名の遺恨放下僧(初段温泉揃 三段目道行附わにの段
          四段目対面の段并装束の段并かつこの小歌)
 出世盛久(四段目法正覚道行 五段目十界の図物語)平安城都定(四段目草花尽付天皇忍のたん 六段目御経祈みさをの前道行)
 全盛桜狩(三段目清玄祈四段目桜ひめ道行
      後に替り名代花の投杯六段目四季の舞) 景清雷問答(四段目景清道行 五段目同労破り)
 聖代時津風(初段金輪の段三段め逢坂山付琵琶の段四段目清貫道行同釘打の段付り
       小ひじりの段笠のだん鐘のだん契り名代蝉丸紅葉傘)
 神力小鍛冶初午参(三段目名釼の巻 
          同釣狐二段目行田道行)絵合源氏色安宅(三段目十二段并笛の段鑓踊 六段目女郎名寄祭文)
 禁中綱引合(二段目鬼神揃 四段目臺の前道行) 愛着鳴神上人(三段目七夕まつり 五段目父母道行)
 古今七人男(三段目木曽の花子 四段目巴山吹道行) 忠臣京土産(三段目黒木売四段目牛若丸 千島前道行六段目金山物がたり)
 (京橋中橋お万か紅 風流嫁さくら)関東小六(三段目花軍五段目露の前 
                       道行六段目小間物かたり)(虎があしだ 少将が差櫛)嫁入五人曽我(二段目紋つくし三段目 元服帯引五段目禅師
  房談議中村座にてかたる柄原市左衛門が
  作にて大あたりをなせりと云り)   (西行はむかし江口 の今の長かもし)傾城旅衣(三段目六百姫道行 江口の道行)
 百日曽我(三段目けいせい受状
      五段目虎少将扇売) 吉日袖留曽我(初段幟紋つくし三段目をんな かみゆひ同髪すき四だんめ

  老母対面同梶原軍 付大切いくさ) 貞任責(伊達ひめ 道行)
 好色与之助(三段目清見八景五段目稲荷勧請
       此節より虎や庄太夫脇を勤る) 名古屋(三段目かつらき 道行)
 山科右大将色遊び(三段目右大将忍びの段同主従
          道行五段目殿上闇討の段) 和国美人歌争ひ(三段目小袖模様 五段目天狗揃
 弘徽殿(三段目うはなり討の段五段目主上 
     道行六段目晴明いのり)    (井の頭ふたり女 鍋冠り日親)即身猫股(三段目公家のたん 行平須磨へ流罪の段) 
 その外一段浄るりは枚挙に遑あらず

享保四年亥十一月新右衛門町本屋又七といふもの品川宿の町人にかたらひ御殿山の上り口に芝居を
とり立辰松八郎兵衛名題にて若松の丸の中にかたばみの紋のやぐらまくを上げ同十八日より三日
の内興行しけるが高貴の御方御免あるへしとの仰事ありしにより其場を引はらひしころ江戸
太夫休座の時なれば半太夫が芝居を借受辰松座とあらため以後辰松座となれ
り此辰松は古今人形つかひの名人にして出遣ひも是よりはじまれり

  (紋)一寸見(ますみ)河東
品川町の豪家(魚店 なり)天満屋藤左衛門が男(なん)にして藤十郎といひ河東と号す(本姓 伊藤
 氏なるよし碑文に見えたり母方の姓を河辺と云此家に同居して居たりしかは河辺の河と藤十郎
 藤を東にかえて河東と号す此頃上木の三養雑記に云十寸見:ますみと名乗事は真澄の鏡のくもりなく
 いさゝかもたがはずかたり伝ふ
 といふ意なるよしいえり)志世利(こころざしせいり)にかゝはらず酒をたし(な)み遊嬉(いうげ)しつひに臺(うてな)を破りて


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江戸半太夫が門に入り浄瑠璃節を学び半太夫が節を和らげ手品市左衛門と広瀬
式部太夫が節を交えて一家の風をなし出藍のほまれ高し(享保の頃歌舞妓芝居へ 出て所作に合せて語りし事
 度々なり出語りの事なし
 簾の内にてかたりしなり)享保十乙巳七月廿日四十二才にして病みて死す築地本願
寺中成勝寺に葬る存在の時四人夕丈(せきじやう)を養ひて家をつがしめ藤十郎と改
(後剃髪して 栄軒といふ)二代の美をなし又河東の名は門人河丈(かじやう)に与ふ(此時一流二派に別れ藤十郎へは 三味線弾山彦源四郎属し
 河東へは十寸見東古
 したがひけるなり)其流今にたえず河東節とて江戸の名物とはなれり門人一寸見
蘭洲(らんじう)(江戸町二丁めの娼家蔓蔦:つるつた屋庄次郎は事也廓中に於て名高し二代目蘭州は娼家佐倉
         屋又四郎と云剃髪して志明と云寛政十二年八十三才にて終れり又四郎養子又次郎
 東尓:とうじと云蘭尓とも云ひ三代目蘭州と
 なる俳諧をなして号を其爪:きさうといふ)同意教同忠右衛門抔其外上手多し
享保の頃浅草北馬道に住し俳諧の師岩本乾什:けんじふ河東としたしく交り河東節の文句をあま
 た作れり 満足軒 千歳兒 竹婦人抔の号あり宝暦九年卯二月十七日没す辞世「雪解や
 八十年び作り物 或書に竹婦人は始吉原江戸町天満屋仁左衛門といえる娼家なり五十才のころ
 剃髪す大尽舞の小唄に天満屋の土佐ぶしとあるは則竹婦人か事にして土佐ぶしの浄
 るりをよくかたりし由なり性猫を
 このみ常に十二三疋を畜ふといへり

築地成勝寺河東墓碑の文(正面に始祖河東の墓と鐫し後面に法偉釈清西信士
            とあり台座に亀の形をえりたり其文無下に拙きを
 あながちに訓點を施したれば通じがたき所もあらんかし)
(漢文略)
 享保十年乙巳七月廿日 十寸見河丈 十寸見夕丈 建

右の碑文政己丑の火災に罹りて焼損すよつて碑文を假名に和らけ天保癸巳四月改建てたりしも
同甲午の火災に再びやけて缺損したり
河東代々の墓は牛島長命寺にあり六代目忠次郎事河東寛政中に達るところ也
  六代河東辞世 極楽の道も明るし梅さくら
  三代東雲辞世 さま/\なかけもうつりし水のあや
袖かゞみといえる浄るり本の奥に
  引はせて腰より下のやなきかな 河東
  吹れては牛をも隠す柳哉 河丈


118
  そら解のやなきは風のかかれかな 夕丈
  水に声流るゝ糸の桜かな 山彦
  河風やこゝも柳のやなきはら 沾耕

河東節系図(江戸節根元集に拠りてこゝに記す)
 元祖河東(天満や藤十郎品川丁住
      河東以来十寸見を姓とす) 双笠(さうりつ 半太夫同門にありけるが河東に付名人なり
                      芝居をつとむ双笠は江戸を姓とす) 河笠 古笠 双巴 井爪 双爪 花笠
 二代河東(幼名河丈吉原大門外下太や庄右衛門
      享保十九年三月五日死)      三代河東(幼名河洲下谷茅町菓子や宇平次
                            後吉原揚や町住延享二年七月廿一日死)
                       河丈(金二郎 後山の手河東) 河丈(新右衛門) 河丈(龍山丁 善五郎
 夕丈(二代目藤十郎 後清洲栄軒) 東佐(次郎右衛門元は宇平次河東の弟子也後に三代め
                     藤十郎の名栄軒より譲受る又能見冨暁と云) 
 蘭洲(江戸町二丁目庄次郎 享保十三年死)蘭洲(又四郎 後志明)東尓(又次郎 後に蘭尓蘭州)

 四代河東(宇平次甥也本銀町住伝之助節付の上手
      明和八年十一月十五日死)河洲(かやば町宮原忠次郎 後に河洲)
                  東佐(藤四郎 後夕丈)
                  東洲(吉原娼家鎌倉や平八郎後檜物丁住 寛政十一年死)
 五代河東(初名沙洲本郷春木町薪や平四郎延享頃行る
      後剃髪して東雲と云安永五年三月十三日死)東尓(神田佐久間町茗荷や市郎兵衛 寛政中吉原にて死)
                          東暁(ゆしま切通し 七右衛門)
               
                          東雅(本郷元町産惣右衛門 明和中死)
                          文尓(神田多町ふや文次郎 寛政中死)
 七代河東(初名沙洲浅草三間町伝蔵
      文化九三月東雲と改文政三年 十月廿六日死)藤尓(新場金七)
                           東栄(深川土橋 仙石や庄五郎)
                           東和(神田多町 雁金や安兵衛)
                     八代河東(始東川後東洲又沙洲と改文化十四年十月廿六日死す死後
                          贈名して河東と云俗称才助と号し山谷に居せり)
 初代河東稽古本印章
 双笠同 (双笠後 所如此)
 河丈同
 二代藤十郎夕丈同


119
 蘭洲同
河東節浄瑠璃外題は夜半楽(やはんらく)鳰鳥万葉集 幸葉集 十寸見要集 十山集抔の
内より抜粋してこゝに誌す此内半太夫浄瑠璃より抜出したるもの多し(目録前後混乱 ありとしるべし)

式三番叟(初代半太夫)蓬莱(同)大和之助道行(同)京わらんべ(同)鎗をどり(同)
傾城受状(同)おせん物狂ひ(同)同道行(同)風流しかた松(同)江戸の道行(同)
伊達姫道行(同)信田妻道行(同)釣狐の段(同)放下僧道行(同)同鰐の段(同)
同小唄鞨鼓の段(同)狂女の段(同)清つら道行(同)桂暦(同)祐成相撲物語(同)
虎少将道行(同)小鍛冶名釼の巻(同)清見八景(同)臺の前道行(同)袂の前道行(同)
史記の舞(同)虎少将扇売(同)なるかみ道行(同)露の前道行(同)巴山吹道行(同)
袖留曽我髪結の段(同)同道行(同)公家踊り(同)とらかみゆひ(同)
天皇忍びの段(同)黒小袖(同)金山物語(同)草花つくし(同)景清道行(同)
小袖模様の段(同)国性爺貝尽し(同)蝉丸道行(同)逢坂山笠の段悟りの段鐘の段
悉多太子道行(同)幕紋つくし 傾城年の内(同)伝教祈 鎌倉
都鳥 四季調 墨絵 竹生島 はつねむこ
浮世傀儡師(外記)住吉祭(同)十郎髮梳(江戸 吉太夫)なれそめ曽我 浦島道行
にいの前道行 丑の時参鉄輪(双笠)杜若縁の丹前(同)せんべい紋つくし(同 斗文作)七夕織姫祭
松の内(元祖河東 享保四年)松の後(同)禿万才(同 乾什作)式三献神楽獅子(同 柏筵作)同忍びの段(同)

唐団扇(同 高尾作)酒中花(同)竹馬鞭(同 乾什作)京女あらせ帯(同)雛の磯(同)
きぬた(同小田原町 貝や又兵衛)帯曳男結び(河東河丈夕丈)丹前里神楽(元祖 河東)二星鵲のかし小袖
山下金作早川初瀬出端雛の出遣ひ 斑女扇八景 口舌の鶏 常盤の声
梳櫛男の黒髪(河東河洲蘭尓)とらが文 隅田川舩の内(河東 都三中 両吟)
そが馬上老母道行 かみや心中 文枕(役者己白 百庵の号也)萬年草高野心中 春雨二人禿(双笠)
紋尽し翼の賀布団(河丈夕丈)手越少将水上蝶の羽番(はつがひ 河東夕丈 河丈)元服五郎
手欄干(海五作)百夜猫(同作)月見(同作)ますかゞみ(青車作)初春稲荷参
春駒(樽巷郎作)袖かゞみ(元祖河東 河丈夕丈)白楽天舟の内(元祖)四の時(海五作)恋暮三輪の山(狐鶯作)
尺八初音の宝舟(二代め藤十郎恵方みやげ 屋形かぐら 三つの旦
七種(東花坊佳読述)雲間(抱山宇述)吉原八景 三つつばめ
お夏笠物狂ひ 甲子(瑞英作)小紋づくし 鶴のあゆみ 京の雲
待宵 白玉道行 温泉揃(河東河丈 夕丈)傾城道中双六 袖几帳
かたみ送り(享保十四年正月門之介追善 二代め半太夫)封し文 風呂屋曽我 明ぼの道行
十郎絵草紙売 お千代半兵衛宵庚申 蓬性道行 菖蒲草
明烏口舌の枕 桔梗原道行 四季の蓬莱(河東河丈夕丈)みとりの羽子板
高砂 里云葉 斑女狂女草枕(河東河丈夕丈)卯月のいのり
桜尽し 里の黒髪 まかきの錦 富士筑波二重霞(藤十郎 藤三郎 藤四郎 助六狂言
翡翠の柳(双笠)初音の守鼓 助六花街二葉竹 一重帯 袖若葉
提灯紋尽し(乾什作)せいし曽我 百遊び後日のかいどり 湯名の巻筆(双笠)
山桝太夫粟の段(一中ぶし 同名)竹馬踊(夕丈)老の鶯(蘭洲)江の島(元祖河東 乾什さく)
いの字扇(享保十九年訥子がために 乾什作る)灸すえ巌の畳夜着(庄右衛門事河丈 夕丈 宇平次)柳の紙雛(栄軒)
うかふ瀬(奈良茂かために乾什作る 庄右衛門河丈)有馬筆(乾什作)絵蓬莱(同)吾妻あふき(河丈)


120(挿絵)

 花かたみ
きんくわ一日おのつから
えいくわも露のやとりそ
とかたみにそてをしほ
りつゝさむれはもとのま
ほろしを見はてぬ夢に
なしはてん枕に結ふ草
とけて花になるてふ
手向草桔梗かるかや
女郎花しをん(師恩・紫苑)といふは
かの人のをしへし道に
さく花をしらてや
あたにたをるらん


121
水調子(角町中万字屋の名妓玉菊河東すしの三絃をひきし故同十三年七月玉きく三回忌の
 とき河東の門人蘭洲の催しにて乾什これを作れし河丈夕丈ワキ宇平次なり)
花かたみ(河東追善大川に出屋形舟にてかたる乾什かさくなり)
ひとせ川(上に同じ舩にてかたる夕丈庄右衛門)よるのにしき(元祖河東十三回忌宇平次)
一寸見桜(河東追善の為とて作る文句の内元祖卅三回先人十三回に当るといへり)
源氏十二段浄瑠璃供養 恵井志述(河東一中両作なり)
七重八重花の栞 追善水の月(都友述)秋の白樛木(いるで 友我述)
おきなが鳥(蘭洲五十回安永六年山岡明阿子述)姿絵(柳里恭作)汐汲里の小車(件清述)
千とでの枝(訥子述 伝之助)助六廓の家桜(伝之助)同廓の花道 同縁の江戸桜(宇平次)
乱髪夜の編笠(宇平 次)四季の屏風(忠次郎河東名弘め)常陸帯花の柵(忠次郎)
ぬれゆかた地主のさくら(宇平次)咲分相の山(宇平次)恋さくら反魂香(伝之助)
契情反魂香(忠二郎)栄籠花の里(堀越 二三次)桜の曙(二代め 源四郎弘め)ぬれ扇(乾什作 宇平次)
廿日の月(六代め河東追善伝之助)御田(三升作 忠二郎)巻羽折(貞従述伝蔵河東名弘め)
道成寺(忠二郎)露の二葉(元祖源四郎十七回忌追善忠二郎)

太夫河東抔存生の内の正本今まれに蔵せるものあり今の世の一寸見要集十山集抔のごとき
ものにあらずいともわびしき摺本にして甚だ質素なる物なり表紙に何れも直伝章指とあり

江戸節根元集に云三絃弾山岸源四郎の事丹波掾和泉太夫が相方の三絃弾
弾左衛門と云者山岸と銘ある継棹の三絃を所持す(三代目石村 源左衛門作)老年に及びし
頃三絃弾村上源四郎といふもの兼て懇望せしかば望みに任せて与えし時喜び

の余り本姓村上を改め山彦と称す(この時山彦と改姓の弘めに竹馬の 鞍扇八景を作らしむ享保の頃といふ)元来源四郎は
太夫が操座の合の狂言の唄を弾たりしが木村又八が弟子となり半太夫
を習ひ得て元祖河東相の内を語りし時より始て河東が相方とはなれり
後伜秀次郎事二代源四郎となれり二代目源四郎伜秀次郎へ名を譲り
剃髪して存侯といふ寛政年中語れりこれより源四郎の名代々相続せり
元祖源四郎は戸塚在修験某の弟なりと云々
同書に河東節三味線の由緒とてしるせりいさゝか潤色して左に挙ぐ

源弥(盲人なり)喜斎(異本洞房語園に桶屋喜斎とてさみせんの上手也喜斎が六節懸とて
           名を取しもの也慶安明暦の頃江戸町二丁目に住すとあり)
(源弥弟子)天下一平左衛門 (平左衛門弟子)庄左衛門 (同)甚左衛門 (甚左衛門弟子)八郎兵衛
(八郎兵衛弟子)山崎源左衛門肥前永閑半太夫 抔の相手なり) (源左衛門弟子)木村又八(ぶつかぶりと 異名す)


122
(又八弟子)山彦源四郎(始村上源四郎)
 (源四郎弟子)
河良(三河町住 響の雲と云る三絃所持す
   河良の名これより代々名のれり)  (河良弟子)良波(後河良 神田社内住 天明中死)
                    (二代)河良★(最下段の続へ)
★(二代河良弟子)良波(後河良本郷日かげ町)
  波暁(赤城前住)
  小源次(平右衛門町住 早世)
 (三代)河良 (弟子)良波(喜せ都事)

(上の段源四郎弟子河良の次に戻る)
百次(尾張町住)
秀弥(三田)(弟子)秀弥(天明中 死)(二代秀弥弟子)岡安喜三郎(品川宿鉄右衛門事 河丈相手)
弥四郎(浅草)(子)長蔵(後秀二郎 又源四郎と改む)
半次郎(吉原住 寛政中死)
和蝶(後藤十郎と改三絃ひき也)
宇右衛門(神田なべ丁)
二朝(池のはた松坂や 寛政中死)(子 三代)源四郎(秀次郎事)
(二代)源四郎(剃髪して存侯と云 寛政中死)文次郎(吉原住 桐や伊介)(二代)文次郎(吉原住)
                      新九郎(千住宿住 天明中死)
 これより以上の系図後編に詳なるべし

  (紋)市村若太夫国治(くにはる)
七代目市村羽左衛門河虹(かこう)が弟にて式部太夫が門人なりといふ(通称茂兵衛或は善三郎と云 享保元文のころなり)
脇薩摩喜内相勤む(三絃江戸半四郎山彦宇佐衛門岡安源助 松島源左衛門杵屋文次郎抔なり)

  (紋)大薩摩主膳太夫
寛保延享の頃行はる譚海(たんかい)にに云市村竹之丞か弟善蔵といふもの薩摩左内が
弟子になりて大薩摩主膳と云てさつまふしを語り始めたり嵐左内といふも
さつま左内が弟子にて太平記の事を専ら語る事にせし也一流を語り出して
主膳と左内甲乙なくはやりたり嵐左内は和らかなる節さつま主膳はあらけたる
節を好みて語りたりと云々(此説を見れば前の若太夫と主膳と伝来等しく同人の様に思はる
             若太夫後主ぜん太夫と改めたるよしなをたづぬべし)
同じ頃大さつまを名乗れる太夫には朝日太夫(主膳が男 なりと云)(同)多仲松尾
太夫(何れも三絃 杵屋なり)等あり明和の頃も大薩摩大扇太夫同文太夫抔ありて(三絃前 に同じ)


123
大薩摩の曲節行れしが今は長唄にて此節をかね覚え歌舞妓芝居
にて勇士の出端荒事抔にたま/\用ゆるのみにして一派の太夫なし

  (紋)常盤津文字太夫(代々檜物町に 住す)
京都寺町の町人(位牌を售:売 ふといふ)俗称駿河屋文右衛門と云(宮古路豊後掾が実子或は門人 にして後養子となるともいふ)
元文の始江戸に下り中橋の辺に住居す始は宮古路文字太夫と云しが元文
四年己未宮古路の曲節 国家より禁じ給ひし後延享四卯年関東文字
太夫と改む関東の文字猶禁ぜられしかば又改て常盤津と云自ら一派を
なし安永十年辛丑二月朔日□才にして病て終れり禅宗麻布広
尾祥雲寺に葬す(寺中景徳院 旦那なり)門人数多あるが中にも品太夫小文字太夫と改
後一派をなして富本豊前太夫と号し両流ともに枝葉ひろぐりて今に栄
えけり(江戸節根元集に常盤津の名は脇かたり志妻太夫造酒太夫抔其頃常盤橋の辺りに住居
    しければふと思ひよりて常盤津と改し由いえどもしからず説あれども故有て略す常盤津

 上るりを集めて常盤竹と題する ものありしげければこゝに略す)
常盤津浄瑠理系図とて其家の蔵版あり前巻に載る所の一中節の系図へ書綴たる物也

   浄瑠璃師範
抑松のめてたきこと萬木に勝れ十八公の粧千年の緑をなして
古今の色をみす秦始皇の御狩の時天俄にかき曇り
大雨頻に降しかは帝雨を凌かんと小松の後に寄り給ふ?(いおりてん)

  浄瑠璃太夫
一代目岡本文弥
   伊蔵出羽掾(一流)大坂山本河内掾 山本飛騨掾 京角太夫事山本土佐掾
二代目岡本文弥(一流)奈良小林平太夫 大坂阿波右衛門事岡本鳴渡太夫 大坂表具又四郎
三代目都萬太夫事都越後掾(一流)伊勢岡本市太夫事木屋七太夫 京岸本平太夫
四代目須賀千ト事都太夫一中(一流)子都今一中 都秀太夫千中


124
四代目菅野伝弥事松本治太夫(一流)子松本半太夫 京林名太夫 京菅野宇太夫
五代目都半中事宮古路豊後掾(一流)
六代目常盤津文字太夫(一流)
七代目今文字太夫事隠居号常盤津太夫文中(一流)
八代目小文字太夫常盤津文字太夫(一流)
九代目祖文字太夫曽孫今小文字太夫常盤津文字太夫(一流)常盤津文字□

常盤津元祖稽古本印章縮図(印)

  (紋)豊名賀造酒太夫(とよなかみき太夫
元祖門司太夫の門人にして宝暦の頃行る尤名人なりしとぞ脇豊名賀富士太夫
同志津磨太夫同佐野太夫同喜久太夫同登美太夫等なり

  (紋)富士岡若太夫
元祖文字太夫の門人にして常盤津太夫と云安永の始富士岡とあらたむ脇曽根
太夫太夫名尾太夫三和太夫太夫百合太夫抔なり何れも富士岡といへり

  (紋)吾妻国太夫
二代目文字太夫弟子也始大和太夫と云天明七未年若太夫と改後師と絶して
寛政十一未年吾妻国太夫と号す一代にして絶たり

  (紋)三條萬菊(三絃沢村大吉 瀧中吾妻等なり)
萬菊は歌舞妓役者なるべし明和のころなり(後深川に趣きし 幇間喜六といへるは此ものなりと)


125
  (紋)松本数馬太夫
宮古路豊後掾か門人にして一派をなし松本と改む(按るに鶴賀 若狭の類ひ也)脇淀太夫太夫
志摩太夫志喜太夫太夫太夫太夫小野太夫等なり何れも松本と号せり

  (紋)冨本豊前掾藤原敬親(のりちか)
宮古路文字太夫か門人にして宮古路品太夫と云(俗称福田 弾司と云)其後師無事太夫常盤
津と改し時ともに同姓に改め名を小文字太夫とあらたむ延享元子年師と絶
して後寛延二年巳十月(或は宝暦 二年とも)冨本豊前掾と受領す自ら一派を弘めて
今に相続せり明和元年申十月廿二日四十九才にして終れり浄土宗浅草
新寺町専修院に葬す門人数多ありて枚挙に遑あらず(男馬之助豊前太夫 と改む次にくわし)
中にも(紋)豊太夫(紋)斎宮(いつき)太夫 大和太夫 常太夫 等上手の聞えあり

  (紋)二代冨本豊前掾藤原敬政(のりまさ 両国元柳橋傍住)

幼名馬之助といふ十才の頃孤(みなしご)となり斎宮(いつき)太夫か為に補助(ふじよ)せられ又造酒太夫
教をうけ十六才始て芝居へ出て語り廿六才の時豊志太夫と改後豊前太夫
なり文化十四年丑十一月嵯峨御所より免許を得て豊前掾と受領す声の態
世上に鳴り文政五年午七月十七日六十九才にして病て終れり(専修院に 葬す)門人数
多ありて一挙にして尽すべからずよつてこゝに略す当時三代目豊前太夫
(通称 午之助)出藍の誉れあり

  (紋)冨本斎宮太夫
初代豊前掾か門人なり元来武家にひとゝなりしか後町人となり米商人と
なり神田川の辺又南茅場町に住し清水屋太兵衛と号す浄瑠璃を好みて
諸流い渉る二代豊前太夫午之助たりし時頼によりて後見となり斎宮太夫
改名し午之助は豊前太夫とあらたむ後不和となりて本姓清水を名乗り


126(図会)
山王神田の御祭礼には
都下に名たゝる浄るり
語り諷うたひきそひ出て
その態を催すあるが
中にも常盤津冨本
の両流は久しく江府
に行れわきて近ころ
清元の一派盛んにして
都鄙これか妙曲を賞
しあへり

我子にて候へ
あれに
鉾の児
大江丸


127
剃髪して延寿斎と号す(延寿斎の名は高貴の 御方より賜る所也とそ)享和二年戌五月十八日七十三才に
して病に終れり本所中の郷成就寺に葬す

  (紋)清元延寿斎(本石町三丁目住)
横山町に住し茶并油を鬻(粥:ひさぐ)し岡村屋藤兵衛か男なり幼名吉五郎と号し
幼より浄瑠璃を好み延寿斎に随身して斎宮太夫の名を譲り受延寿斎
の脇を勤む師没して後故あつて文化五辰年豊後路清海(きよみ)太夫とあらたむ
(この時紋所 青海浪を用ふ)然るに清水の姓絶ん事を歎き清水氏の末荒井某の望により
改て清水と名のる文化十一戌年市村座へ出し時故あつて清水を改め清元と
号し延寿太夫といふ(清水の清の字をとりて しかあらためしと云)一派の曲節を語り出して世に賞せら
る薙髪して二世の延寿斎と云文政八酉年五月廿六日終れり法華宗深川
浄心寺へ葬す門人数ふるに遑あらす

(図会)
古今六帖
ひく人は
こと/\ なれと
松風に
かよふ しらべは
かはら さり けり


128
清元稽古本の末に太田南畝子清元延寿の四字を句の上に置て潜あり

 (略)

実子巳三(みさ)次郎栄寿太夫と号し(栄寿の名高貴の 御方より賜る所とそ)父没して後延寿太夫
改め世に行るゝ事甚し餌鳥屋敷に住して俗称を岡村屋藤兵衛といふ
弘化甲辰の冬亦改めて太兵衛といふ(藝名も太兵衛 といへり)男を栄寿太夫といふ

  (紋)冨士松薩摩掾(相三絃 竹沢平八なり)
宮古路豊後掾か門弟にして始宮古路加賀太夫といふ師と絶して後延享

四年卯の春(此時市村 座へ出る)冨士松薩摩掾と改一派を語れり門人敦賀太夫
師の流を一変せしめ敦賀若狭掾といふ其外門人新内(新内節 元祖也)古賀太
加音太夫 須賀太夫 佐賀太夫 加国太夫 古賀太夫 津賀太夫 加名太夫 加賀路
太夫 加和太夫 須磨太夫 津磨太夫 古磨太夫 園筑 加賀八 加賀繁 加長 加重
加賀吉 加賀筑 加賀七 加賀六 加賀豊 加賀薗 津音八 加賀妻等なり
  稽古本印章 (印)

  (紋)鶴賀若狭掾(俗称庄兵衛といふ 芝高輪に住す)
宮古路加賀太夫の門人にして高弟なり始は宮古敦賀太夫と号せしが
師加賀太夫冨士松薩摩と改し時ともに冨士松敦賀太夫といふ後年師と


129
絶して苗字を改め朝日敦賀太夫といふ朝日の苗字公(おほやけ)より禁しるふにより
宝暦八寅年改めて敦賀と号し若狭掾といふ(敦賀の文字を鶴賀にかへたる也相弟子 加賀八太夫と共に同年秋勘弥が座へ出る)
一派をなして世に行れ薙髪(ちはつ)して靏翁(くわくをう)といひ狂歌を好みて狂名を大木戸の黒
牛と号せり天明六年丙午三月廿二日七十才にして病て終れり法華宗浅草
田圃幸龍寺へ葬す終焉の詞を右に鐫して同寺の境内建る其文拙く記すに
たえざれば漏しつ(門人佐賀太夫 吾妻太夫 升太夫 妻太夫 生駒太夫 染太夫
         喜勢太夫 住太夫 島太夫 其外多し)
右碑文の奥に辞世の狂歌を彫たり
 生て居る内は何かと神仏ひじりもいかひ世話であつた
背面に嫡女鶴吉が狂歌あり
 すたちせしむかしそうれし親鶴の手向にとなふほゝうほけきやう
(この歌鶴と鶯と混したる様に聞ゆれど志にめてゝこゝにしるしつ)
嫡女(ちやくじよ)靍吉といへるもの父の跡を継て名人の聞えあり文政十年丁亥四月廿六日老
年に及びて終りぬ(鶴吉か娘も 又鶴吉と云)若狭掾が脇かたり異国太夫 名美太夫(門人 あまた
 ありてかぞへあぐるにいとまあらず新内加賀太夫はさつま掾か門人にして若狭掾が脇かたりなり)

  若狭掾稽古本の印 (印)

鶴賀系図

宮古路豊後浄門弟)冨士松薩摩掾(脇宮古路豊後加賀太夫
(元祖)敦賀若狭掾(始宮古敦賀太夫後冨士松と改後朝日又敦賀と改
          庄兵衛)
(一女)敦賀鶴吉(堀口町四丁め又本石町 四丁目に住)
(つる吉娘つち事)敦賀鶴吉
敦賀斎(娘照太夫
敦賀加賀八太夫(宝暦の頃の人初代新内也芝居も出る)
(加賀八太夫男)敦賀加賀八太夫(始加賀吉 系図に二代新内とあれども新内と改し事なしと云)
(二代)敦賀新内(始加賀蔵又若蔵と云盲人にして敦賀斎の弟也元鳥越
         又本所四つ目に住す文化七午七月終る)


130
(三代)敦賀新内(通称彦次郎後吉太郎始加賀蔵太夫又島太夫加賀八太夫後豊名賀薗太夫
         或は都路加賀太夫又豊名賀出雲掾又鶴賀出雲太夫抔数度変名す)

  (紋)鶴賀新内
冨士松薩摩が門人なり(本所松倉町に住す 本姓故有て略す)一派をなして新内節と称し世に賞せらる
若狭掾が門弟にあらずといへども其頃新内が一流行るゝ事盛なりしかば家名を
敦賀と改められなば我家門の繁昌ともならんと若狭掾が望によりてもだし
がたく則敦賀と改るといふ安永三年甲午八月六十壱才にして病て終れり男(なん)
を加賀吉と云後に加賀八太夫とあらたむ初代新内が門人加賀蔵二代の鶴賀新内
となる(盲人にして本所 四つ目に居す)これが門人又初名を加賀歳といひ又鶴吉も学び島太夫
号しけるが後三代の新内となり浅草駒形に住し(通称吉太郎 といふ)当世盛に行る
(若狭掾は芝居へ出る事度々なりしが新内節にて所作を催し
 かぶき三芝居へ出ることは当時の新内よりはじまれり

  (紋)岡本宮太夫 (始美家古太夫と書す)

二世新内が門弟にして加賀八太夫とも号し後改て八尾太夫といふ後又改て自ら
しか名乗る所なり本所横綱町に住し當時行はる門人あまたあり(通称安彦 といふ)

  (紋)祇園守(ぎをんもり)太夫
常盤津に学び冨本に随ひ又山田流野田検校の門に入て音曲をまなび天保
七申年始て境町操座結城孫三郎が芝居へ出藤永福寿太夫といふ同八酉年
藤永咲太夫と改め中村座へ出同九戌年祇園太夫といふ

 ○江戸浄瑠璃作者
岡清兵衛重俊(和泉太夫丹波掾 が件にいへり)北条宮内(大薩摩の 件にいへり)塚原市左衛門(半太夫の 条下に記せり)
此外古来の江戸浄瑠璃作者数多ありし由なれども其名伝らず
津打治兵衛(其伝次に記せり宝暦の頃江戸にて絹川の 
      上るりをあらはして大当たりをなせり)


131
福内鬼外(きぐわい)平賀氏 名国倫 字士彝 俗称源内といふ鳩渓 紙蔦堂 天竺老人 風来山人抔の
          数号あり東讃の産にして東都に出て物産を学ぶ田村元雄の門人にして
本草にくはしく出藍の誉あり蘭学を旨として数多の編輯多し浄るりの著述は其諸
余のみ又滑稽の編には根なし草 六部集 志道軒伝其他多し上るりは神霊矢口の渡し
尤佳作にして世上に行れぬ
吉川焉馬(本所立川通りに住す鳥亭(うてい)と号し又談洲楼(だんじうろう)といふ狂歌をよくし歌舞妓のことにくは
     しく文化八年芝居年代記十二巻をあらはす浄るりの作はさせる佳作なし文政六未年
 六月七十一才に して終れり)紀の上太郎(東都嶋河町辺の豪家 なり通称元之助と云)芝叟(大坂の人也)筒井半二(あるひは半幸 ともあり)
松貫四(葺屋町万屋吉右衛門 といへる茶屋のあるし也)玉泉堂(和泉町 住)森羅万象(岡本門人のちに二代の 福内鬼外と号す)
達田弁二 吉田鬼眼 一二三軒 八州堂 三楽坊 樹下石上 双木千竹

 ○江戸歌舞妓狂言作者
河東節常盤津岡本其外豊後節浄瑠璃または長唄めりやす等の文句は
大かた歌舞妓狂言の作者なりよつて見聞に及ぶものこゝに略記す中にも津打
英子 堀越菜陽 桜田左交等尤名高し

(貞享の頃)玉井権八(役者)南瓜(なんくは)与惣兵衛 宮崎伝吉(役者)
(宝永正徳の頃)光島七郎左衛門 樋口半右衛門(せり出しの道具を 工夫はじむ)中村清五郎
 津打治兵衛(江戸根生:ねおひの狂言作者也俳名英子といふ大坂親仁形津山治兵衛の子なり
        元禄の末より出て世にもてはやされし二河白道狂言始なりと
 宝暦三酉年市村座狂言淡しま永花聟といへるにあわしまに清玄を仕組たり頓作
 の一流にて昔狂言の時代事に世話事を取組珎らしき趣向をなす古今の名人なり
 五十七年の間当り狂言かぞへがたし行年八十余才にして宝暦十辰年正月廿日終れり
 英子が事に付てはくさ/\の話あり役者五雑俎其余のさうしに見えたり
享保の頃 より)村瀬源三郎(五月 と号)村山十平次 玉松小十郎(楓覧)竹島甚助
 坂東田助 江田弥市(冨有)津打九平治 津打半右衛門(沈伃 元立役 鈴木平左衛門)
 津打又左衛門 藤本斗文 中村少長
(元文享保 の頃)中村清三郎(藤橋と号す 中村少長の弟也)早川伝四郎(竹旦)津打菅祈(かんき)
 堀越菜陽(さいやう 初名二三次と云延享二年より 作る当り狂言多し)
(宝暦明和 安永の頃より)並木良輔(蛙柳)中村太郎右衛門 津打国次 津打三郎次


132
(当時迄也)機(はた)文輔 門田候兵衛 鈍通与三兵衛(英子が門人津打伝十郎事改め 与三兵衛と云後治兵衛と改六間
(前後混乱  堀に住し一河斎と 号せり)金井三笑(宝暦四年顔見世より作る 与風亭と号俗称半兵衛と云)
 あるべし)桜田治助(左交と云早川町に住す宝暦七年の秋津打
           治助とて出二三次に随身し後桜田と改)中村重助(故一と云岩代 町に住す明和
 元年の顔見世 より作りはじむ)河井金次(箱崎町二丁めに住す 常盤井其堂と改)奥野善助(下谷
中村山三(境町)大里栄蔵(木挽町 五町め)増山金八(呉山)真野馬烟(元左助)
瀬川馬雪(元秀介)河竹新七(能進 六間堀住)萩馬袋(元吟次 境町)仲喜市(仲峨 元半三)
沢井注蔵(注象 和泉町)平田千次(浅草 田町)西川千仙助(境町)梅田利助(沙明)
平田半三(墨海 ふきや町)木村八一(長鯨)八起好助(古可)福岡与市(飯田町)
市山又太郎(志山)中村角止 並木五瓶 松島半次(後に二代目の 桜田治助と成) 
中村虎八 瀬川秀蔵 笠縫専助(米冨)瀬川如皐(じよかう 始女形 乙女)
近松門喬 勝俵蔵(後鶴や 南北)村岡幸次 常盤井田平(後中村 河七)

福松久助(一雄)宝田寿莱 松井由輔(三幸)松井幸三(始鴻蔵)
木村紅粉助(始岡次 遠虎)奈川七五三助(義太夫ふし上るりの 作あり)田口金蔵
本屋宗七(大雄)奥野瑳助(間朝)篠田金次(後二代目 五瓶)槌井兵七(二代目 増山金八)
鶴屋南北 直江重兵衛(南北 倅)勝兵助(始亀山 若介)勝井源八(始周蔵)
田島竹助 重扇助(二代目 松井由輔)(二代目)瀬川如皐(始河竹文次 狂言堂)
(二代め)松井幸三(始新幸)

 

 此余有名の輩頗る多し尚後編に詳なるへし

 

声曲類纂巻之三 畢