仮想空間

趣味の変体仮名

傾城阿波の鳴門 第二


読んだ本 https://archive.waseda.jp/archive/index.html
     ニ10-01136


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 第二

桜井主膳と表札を 打ねど其名隠れなき 阿波の一城主玉木衛門之助殿譜
代の侍主従供に武蔵野の月も忠義に目もふれぬ 堅い屋敷の内庭に掃除
は得手のやちこらさ打水玉の露程も かげひなたなく見へにける 立切一間 音ないて立出る女
房関の戸 はでを好まぬ裲の 姿心もしとやかに ヲゝ庭の掃除は又平鉄内 日番の勤め怠りな
く二人共大義/\ 殊に夫はきのふより管領職の御召にて 今において帰りもなく 御用の節
はしらね共 さのみ気づかふ事も有まい 帰られ次第用事もあらんせめてしばしの内成共
部屋へいて休息しや 早ふ/\といたはる下部 然らば御免と両人は 勝手へこそは立て行 取次役の


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嬪共ばら/\と走り出 申/\奥様 前方お館に勤られし中間(げん)の十郎兵衛殿 何やらお願の筋
有迚 お次にひかへて居られます ムゝ何十郎兵衛がわしに逢たいとな 何はとも有爰へ呼
びや 早ふ/\に嬪共 其儘立て入来る 館の住居(すまい)かはらねどかはる姿の十郎兵衛 勘当の
身のはゞもなき 身すぼらしげに踞る ヲゝ珎らしや十郎兵衛 歩中間(ぶちうげん)とは云ながら主膳殿の
心に叶ひ 立にも居るにも十郎兵衛と 情が怨(あだ)と成世の中 連れ合の気に背き国を出
やつてもふ六年 顔は見ず共便りでも聞たいとは思へ共 夫の気質を計り兼案じくだせしそなた
の身の上 お弓も無事で出来た子も 息災でいるかいのと残る方なき関の戸が 尋も深

き三世の縁 身にしみ渡る十郎兵衛 涙と供に両手をつき 奥様の仰のごとく 見るかげもな
き私を人らしく思召 重々と厚き旦那の御恩 報ぜん事もあさましや 酒に犯され 郡兵衛殿の
家来と口論の上 手疵負ほせし拙者が誤り 縛り首にもあふべき所 喧嘩両成敗と有て両
人共に御追放 巳やれ今一度 何卒旦那のお為に成 御勘当の詫せんと 思へど叶はぬ足手ま
とひ 三つに成娘をば国元の母に預け 女房連れて大坂の しるべを求め五六年 うき世渡りは致せ共
御主人のお身の上拝まぬ日迚はござりませぬ 女房めが申には 赦しの出る迄はお国へは入事叶はず
承れば今年は此地にお渡り遊ばさるゝ 折を見合せ勘気の願ひ ひらにぜひにといさめられ 心は先へ


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飛立てど はいり兼たるおやしきの 御門前に一時余り佇む中に門番衆が咎めを横に漸と
昔の誤り今の身に思ひ当りし此身の上 叶はぬ迄も御赦免の詫の綱手は奥様の御情
お慈悲と斗にて先非を 悔みし男泣心を 不便(ふびん)と思ひやり ヲゝ其悔みは道理/\ けふそなたが来
たこそ幸い よい時分に呼出そふ 最早帰りに間も有まい 次でまちやといふ間なき 旦
那の帰りと下部は声 しらせまばゆき奥庭へいそ/\立て入にける 早立帰る桜井主膳
常には酌まぬ盃の廻り過たるむいき酒 羽織の肩のずれるもしらず ひよろ付く足元 ノウあぶ
ないやと関の戸が 取手をじつと引寄せて ヲツトひあからせ給ふな北の方 手前お上より帰りがけ 思ひ

付たる葭原の揚屋で数献下され 其上有がたい御意の趣 咄して聞そか イヤ/\よしに致そふ
アゝ面白い手管の諸訳(しよわけ) 聞たからふがマアならぬ 何と憎いか/\ ホゝゝ是は又ついに覚ぬ酔姿 ヶ様
な事としつたらばお乗物でも上ふ物 ナゝ何との給ふ 我等酔は仕らぬ 堅いそもじのお迎より
たいこ中居に送られて 漸只今古きを去りて新しう 外へとめ木の香箱に かげとひなたの
二つ紋 付ねばならぬ我等が心 お気に入ずば御勝手次第 候べく候の暇(いとま)の状 書て進上申そふ
かと 酒がいはするざれ言に 悋気の口を閉ぢられて何と云寄る片男浪 さはぐ胸をば押しづめ ヲゝ
あのおつしやる事わいの 折々左様のお楽しみも 且は身の養生 私が何と申ましよ ムゝ


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夫でこそ主膳が女房 粋(すい)め/\と背(せな)たゝき いやといはさぬ釘鎹 打ば響かす表の方 小野
田郡兵衛様御入なりと 取次声に驚く女房 アゝ申今のを御聞なされたか アゝ成程 お国の御家
老 郡兵衛殿のお入なれど 此体では逢れぬ/\ 我等暫く睡眠致さん 宜しく計らひ給はれと廻
らぬ舌を巻かける 管(くだ)ももつるゝとろ/\目 奥へ行さへちとり足 衣紋繕関の戸か 出向
ふ間もなく小野田郡兵衛 兼て心は隔ての襖 さもあらけなく入来る 顔も詞もにが/\敷く
コレサ関の戸殿 只今勝手て主膳殿はと尋れば 館にござると承はつたが 手前が参つたと聞
て 最早おはづしめされたかな 是は又おあられもない お珎らしいお前のお下り 悦びこそすれ何

のあなたに隠れましよ 去ながら明くるに間なき夏の夜の労(つかれ)を暫し奥の間に ソレ女子共 郡
兵衛様の御出と 主膳殿よりおしらせ申しや 早ふ/\の内よりも 桜井主膳 夫へ参つて御対面申
さんと よからぬ中も面てに出さず 上下改め一間を出 是は/\お下りの噂もなけれは 思ひよらざる
今の対面 いつ見ても御無事そふで先ずは重畳(ちやうでう) イヤ主膳殿にも堅固の体 我迚も衛
門之助殿の家老といへど 殿様なしの田舎住居 貴殿は夫に引かへて 花のお江戸の家老職
御主人のお膝元と云 跡腹痛ぬお楽しみで 御夫婦共にきつい若やぎ イヤハヤお羨しう存る
是は又郡兵衛殿の 女夫の者をしよげさそふでか サア/\是へ 先ず是へと 合ぬ工合(ぐあい)を間に合て


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持ち長ずれば図に乗て 遠慮えしやくも高上り 桜井主膳異義繕ひ 最前主人
に御意得たれど 其元のお噂もなかりしが 当着召されたはいつ何時 シテ殿には御対面済ましたか
アゝいや/\ 国元を出ましてより頃日迄十日の道中 思ひがけなふ参つたは ちと折入て其元へ 相談
致さねば叶はぬ故 未だ主人にも対面とげず 参りがけに山口定九郎殿へ立寄り 直ぐ様是へ参りし
所 貴殿のお顔を見受ぬから無礼は真っ平 是は又痛み入 用事と有ばゆるりつと 打くつろいで
お物語 コレ関の戸 早いが賞翫ついちよつと一種一瓶(ぺい)申付きやれ ほんに私とした事が 最前
より取紛れ お茶さへも上ませずお赦しなされと立上る アいや奥方お心遣無用/\ 茶も酒

も所望になし 併主膳殿のお志 無下に致すも本意ならず 迚も御雑作に預かり次手
只一色の肴には 主膳殿のお手際 すつぱりと切腹めされ 夫を肴に一献酌まふ 奥方早
く御用意と 聞もあへず膝立て直し 申夫(おっと)主膳には何誤り 何科有て腹切るのじや 疎忽(そこつ)
な事おつしやつたら お国の家老とはいはしませぬぞ 女房だまれ 譬ひいか様の事有共 郡兵衛殿
の差図を受け腹を切る某ならず 殊に又切腹と有れば家の大事 左様の大事を舌三寸申出した其
子細は 問ふには及ばぬこなたの胸に覚有る今度の誤り 御先祖より代々続く 浪風立たざる家筋な
れ共 主膳といふ馬鹿侍にたらされ 毎日毎夜の廓通ひ 管領家の沙汰大方ならず


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御主人には閉門との噂 聞くと其儘此家へ来たは 貴殿の口からいはさん為 サア有やうに白状/\ ハゝゝ
何事かと存じたれば イヤモ其義なればお心遣ひ無用にめされ 微塵いさゝか覚なき 廓通ひの
御取ざた 手前の殿の名をかつて奢りを極めし紛れ者 尋出す其間五十日の延べを乞請け
やすらかに事を納め 主人を供せし某に切腹せよとは何のたは言 ホゝ夫程の義は知行米を
戴くかはり 生れ子でも申上ふが 若し又其尋るやつが其元の手に入ぬ時は 念に及ぬ切腹
す ムゝ貴殿が腹をめさるれば 衛門之助様の御身も晴ますかな イヤサ済むと思さば今爰で 切
腹を見届ませふ イヤ郡兵衛様おひかへなされ イヤ申主膳様 お二人の争ひを 聞は聞程只な

らぬ 主人の御事お前の身の上 ヲゝ様子しらねば道理/\ しりやる通り某を急のお召と聞やいな
取る物も取あへず 屋敷を出る其折から 主人も供に御前へ参るべしと重ねて向ふ使者の口上 途
中にて出合頭 直様主君の御供申承りし其趣 衛門之助其身の徳を甲(かう)に着て 日々の
奢りはいふに及ばず 剰へ葭原の廓へ入込 毎日毎夜の芸尽 又有時は時ならぬ月雪花の
催しにて 名有る太夫も我一となじみ重ねて手に手を取 屋敷の内も廓同前 武士に似合
ぬ三絃(さみせん)太鼓 現ぬかして大名の家名を下すは何故ぞ 早く言訳致されよと 尋の内も立
板に水を流せる主人の返答 十が九つ其座にて 申訳は立たれ共 衛門之助と云ふらし訴へ出たる


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上なれば 其名を付いたる紛れ者五十日の日延の内 某急度(きつと)吟味をとげ 主君の言訳致さん
と遮て願ひしかば 早速に相叶ひ我は夫より葭原へ馬鹿に成て窺ふ所 衛門之助といひ
ふらし 上もなき大騒ぎにて立帰つたる残念至極 イデ追かけんと思ひしが イヤ/\一旦此場の陣
を引き ゆるかせに詮議せず捕へがたしと思ふから 我も是より身持放埒 主人の為の遊興は 毒
を以て毒を消す 主膳が極めし胸の内 連添者にも深く包み 惰弱に見せしは詮議の
第一 イヤ主膳殿おかれい/\ 潔白らしう聞ゆれど 管領よりの仰の通り衛門之助殿をそゝなかし
高雄といへる太夫を見受さしたもこなたの計ひ とつく存じておる某に うはぬんめりの突き

付け売り 其手では行ぬ もふよいかげんにいふて仕廻やれ ムゝ左程実正御主人を 御供せしといふ ヲゝ
慥な証拠見せませう 山口定九郎殿 最前の女是へ同道、えされ 早ふ/\ 畏たと定九郎
連れ立姿振袖の 打かけ模様外ならぬ実(げに)も廓の風俗と 紛ふ方なき其粧ひ 主膳殿
見られたか 今日是へくる道すがら 此者に出合し所 主膳様のお屋敷はと尋る余り 様子を聞
ば右の段々 山口殿諸共に同道したる此女 何と覚がござらふが イヤ存ませぬ 拙者此者江戸表に
罷りおれど 葭原へ参つたは夜前が初め けいせいにもせよ何にもせよ 手前毛頭近付ではござ
らぬ ヲゝそふでござんす イヤ申女中様 是に居らるゝは私が夫 桜井主膳と申ますが お前の尋


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心充ては どこへお出なさるゝへと 問れて高雄も打につこり ついいおめもじいたさねばお顔見しらふ様も
なし お名は違はぬ主膳様 私はお前の御主人衛門様に受出されし 高雄と申者でござんすが 衛
門様のおつしやるには 屋敷の内は人目有 桜井主膳と名をいふて 何じや有ふとそこへ行 委細は
文で跡からと 教への道も跡や先尋迷ひし折からに あなた方のお目にかゝり尋るやいな 無体に私を
駕にのせ 連て見へた此お屋敷 わたしや何にもしらぬ事 悪い所へよい様に取なし願上ますと 声
さへしどけなまめけり 桜井ふしぎの顔色(がんしよく)にて ムゝ心得ぬ高雄の詞 我家を目充に入込せしは
某の越度(おちど)を付け 切腹させんず工(たこみ)事 コリヤ/\女房 詮議有る高雄太夫 奥へ伴ひいたはり置け

給はる日延の今日より 其曲者を尋出し 主人は勿論此身の言訳 さつぱり仕上てお目にかけふ
山口わせいと立上る イヤそふは得致さぬ 拙者貴殿の組下とはいへど 疑ひかゝりし其元なれば
屋敷の内より外へ迚は 一寸も動かさぬ 夫が互に身の潔白 何と郡兵衛殿左様ではござらぬ
か 中々左様 譬へ貴殿がいか様に尋られても 左程の大事を仕出すやつ めつたにお手には入ます
まい 入ぬ事に骨折て 跡で後悔なされうより 身が前で切腹/\ 弥主人に科なくんば 誤
ない義を申上 家を立つるは拙者が役目 イヤ申 夫(おっと)が詮議致さふと承つて立帰つた 御前の
指図に違変(いへん)は有まい さすれば吟味も此方から尋出す 此役目 十郎兵衛おじやと関の


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戸が 差図にはつと立出る心 いさみのひらく眉 イヤノウ十郎兵衛聞きやる通りの品なれば 主膳殿に
成かはり 殿の名を衒(かたり)し曲者 一時も早く詮議仕出し 夫に手渡しする気はないか 何が扨最前より
始終の様子承はり 出るにも主人の傍 お前様のお情で結構な役目を給はる 此勢ひに一詮議
戦車にお任せ下されと 聞もあらせずだまり上らふ 郡兵衛が前共憚ず 誰が赦して此家へ
うせた うぬは元国元で 身が家来に手疵を負せ首ぶち放す所を 是成主膳がぬつ
ぺりこつぺり 命助る其かはり 一生脚(すね)は切込さぬと 潔白らしういふて置て 内証で呼に
やり 此詮議さそふ抔とはのぶといせんさく 侍の礼義もしらぬ 犬同前の巳等は 庭の小隅で

尾をふり廻し 捨ぶちくらふがよい役と あく迄悪口こらへ兼 短気の十郎兵衛立かゝるを
押ゆる目遣ひ ハアはつとしづまる弱身へ付込しね悪(わる) 屹相かへて立かゝるは 此郡兵衛
に刃向ふのか 慮外なやつと傍なる茶碗真額(まつかう)くだけと打付くれば 眉間に当つて流るゝ
血汐 猶もこらゆる無念の顔色(がんしよく) サア云分あらばぬかして見よ 刀脇差さすやつならば よも
や云分有まいと いへど主膳も理の当然 はたとふさがる関の戸も 何と開かんやうもなし
折から下部があはたゝしく 京都の町人藤屋伊左衛門と申者 御詮議の手がゝり有て お旦那へ
直談(ぢきだん)と申次に控へ罷有 通し申さんやと窺へば ムゝ何にもせよ詮議の手筋と有からは 遠


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慮に及ばぬ是へ通せ 関の戸は先ず奥へ 高雄太夫を同道仕やれ 十郎兵衛も早帰れ 勘
当しても主の内 願ひに来るはまゝ有事 咎めに及ぬそちが身の上 用事あらば重ねて
聞ふ 早々立てとどこやらにこもる詞のしめくゝりすご/\ 立て行姿 見やる女房も奥の間へ
しほれし枝に うく露の身にぞしられて咲く花は 名にし藤屋の伊左衛門 馴し屋敷も改
めて 白洲にこそは畏る 珎らしや伊左衛門 互の無事は語るに及ず 先ず何か差置き詮議の
手がゝり 殿の災難此身の難儀 いはず共能くしつたり シテ其方が手がゝりとは いか様の筋成
ぞ早くいへ/\ ハアイヤモお気遣ひ遊ばすな 其お尋者が知れました 何尋る者がしれたとは シテ其者

の有所は何国(いづく) 仮名実名何と/\ イヤ外迄もなく 葭原狂ひに殿様のお名を汚(けが)せし大
罪人は 則私でござしますと 思ひがけなき詞に不審 一ばい晴ぬ小野田郡兵衛 大口明い
て高笑ひ ハテ様々のやつがうせて 大切な詮議の腰折 ヤア/\佐渡平 アレ引立と呼はれば
はつと答て立出る 顔は互に見て恟り ヤア ヤアわりや葭原でたいこの佐渡七 じやがの団
八と云合せ 此伊左衛門を殺さんとせし其方が 爰へはどふして 其形(なり)はと いはれてきつくり郡兵衛が
しらす目の内呑込奴 ヤア素町人め慮外千万 一合取ても武士の家来 たいことやら鼓こや
ら ない名を付けるうぬは何やつ 見た事もない毛二才め 主人の意じや きり/\立ふ ムゝ アノお侍の


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御家来なら 猶以て詮議が有 ヤア細言(こまごと)いはずとうせおれと 肩口取て引立る 桜井主膳し
ばしととゞめ 殿の名を衒しと出たる大切の科人 其儘にして次へ立て 主膳様控へ召され 主君の
御意は背かねど 其元の差図が受ぬ ヤア巳中間風情のざまをして詞を返す慮外者 早く
立てうせおれと はつしと投る火入のさそく 頬(つら)にべつたり石灰も 染る血汐は十郎兵衛が返し
としらぬ短気の奴 刀のこい口とゞむる郡兵衛 佐渡平下がれ 疵は受ても苦しうない 定九郎
殿と諸共に帰れ/\ 何もかも此胸に ナ サア無念をこらへ旅宿へ帰れ じやと申ても是が ハテ
帰れといはゞ早うせふと きめて帰すは主従の 胸の一物向ふ疵 のり押ぬぐひ立帰る 桜井跡

を打見やり サア伊左衛門 そち一人がわざにも有まい 何者に頼まれしぞ 包まず明かせと和らかに
とはるゝ汐ににじり寄り 隠しても隠されませぬ 元の発りは葭原の名さへ色有る高雄迚 振袖
なれど天晴な器量勝れし太夫職 ちよつと見初て夫よりは 夢共なく現(うつゝ)にも 只忘れぬ
其面ざし 思ひ出す程猶どふも 任せぬ此身は町人也 高雄にもせよ誰にもせよ 太夫と名が
付きや大名道具 町人風情がいか程に金銀つんでもけがな事 買事ならぬが廓の掟 叶は
ぬ事に骨折らずと 儘よと思へど儘ならぬ 恋はくせ物心の外と 思ひ付たる大名出立 玉木衛
門之助様と云ふらせし上からは 手討にあふ覚悟の前 是より外に露いさゝか申上ぐる詞なし 一時も早く


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成敗なされ 御不審かゝり申訳偏に頼み奉ると命を塵と投出した けいせい狂ひの白状は様子
有へに見へにける 郡兵衛一々聞すまし そふぬかしや違ひも有まい 暫しも主君を苦しめ 其
首刎て埒明ふと 立上るを先ず/\暫く 彼が成敗を貴殿にさしては 主膳は何を以て申ひらき
仕らん 差図を受し拙者を指置き 其元が手討にして 又もや我に誤り付 追い失はん御所存か イヤサ
そふでは サないと思さばしばしが中 奥へござつて休息めされ 彼にもとくと覚悟させ せめては念
仏の一遍も唱へさするが未来の為 ハテどふ成と勝手に召れ しばらく奥で相待つ中ぶち落して
仕廻れよと 理非を糺さず殺したがる詞の意路(いぢ)は夕霧に 叶はぬ恋の意趣ばらし爰で持込

立て行 とはしらずして桜井主膳 身を失ふも恋とはいへど惚た斗にかる/\゛と一命捨る其方ならず
御恩有殿様の御難儀と聞付て 科なき其身に拵し科人と成志 御主人にも嘸御満足 併此
度の事斗は 誠の科人のしるゝ迄は ハテ疑深い主膳様 惚た印は互の誓紙 高雄の方から送りし
起請 是見てたべと懐より 取出し渡す紙包 其儘取て押ひらく 内は白紙に巻添し小柄を取て
見て恟り ヤア此小柄こそ 先殿のお胤を 㜳(やど)せしお嬪へ 後の印と給はりし 三疋獅子に家の定紋 サア
惚たと申は其小柄 ムゝ シテ是を所持せし御方は ホゝ先達て此屋敷へ御入有し高雄様 早々是へ御
出と 呼れてはつと関の戸が傅き申先殿の 姫も今更改る主従共に深切の嬉し涙に父の恩


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昔を思ひ忍び泣 主膳異義を改て 先殿御死去の砌より お前様のお行衛を 諸所方々と尋
れ共 今迄しれざる主人の御胤 サア私もお噂を承はつております故 惚たと申も其小柄葭原
に置ましては お家のかきんと存るから 惚て/\惚ぬいた太夫の見受 大名の名を衒たる入訳 くどふ
いはねど主膳様 御得心なされたら一時も早御成敗 ハテ死でしまへば事済むと さつぱりとした男ぶり
隠れ浪花の夕霧とつがひ離れぬ蝶々の 花に飛かふ中ならん 桜井主膳かんじ入 殿のお胤を葭
原にて傾城遊女と云ふらさば 家老を勤る我々が誤り 其誤りを隠したる其方なれば 助け置たき
者なれ共 郡兵衛を始とし高雄様を先殿のお胤といふ事我口より露顕して 上へはどふも打明られぬ

さすれは御前で受合た 紛れ者の詮議を正し 主人の帰りを立るが第一 不便なからも伊左衛門 覚
悟せよと云放せど心は健気とかんずる涙 姫も涙の顔ふり上 帯はとかねど自らは情を受し伊
左衛門 迚も一度は葭原に濡し此身を今と成 大名のお姫様とふつつかいふて下さんな やつはり仕
付た道中がわしや嬉しいととこやらにこもる涙は一筋に 落て流の身にぞしる 遉に殿の御胤
と 背撫さする関の戸が 又も涙にくれ合時 ヤア/\伊左衛門 最期をしらすくれ六つの かねての覚悟
奥庭へ我も用意と立上り姫を伴ひ入にける 待ちに待たる小野田郡兵衛 刀提(ひっさげ)奥より立出 是


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は内室 主膳殿には伊左衛門めが首討めされたか何とでござる イヤサ関の戸殿 人に斗物いはし なぜ御
返答めされぬと 重かけたる一間の内 響く太刀音関の戸が 胸にこたゆる夫が声 科人伊左衛門が
首 不便には存ずれど殿の名を衒たるお家の為の大罪人 御覧なされと首桶の ふた押明て指出す
伊左衛門には似ても似ぬ コリヤ何者の首 伊左衛門めはナ何と召れた ホゝ驚きは理(ことわり) 此首こそは佐渡平に
かたふどしたる競組(きほひくみ)の団八と申者 褒美のわけ口貰はんと僅かな金に目がくれて 貰に来たは
こいつが不運 思ひ計て某が 裏より廻して真此通り ヤ何か何と ヲゝ知まいと思召すか 最前帰つた佐渡
平めい左衛門と顔見合すがいなや 互に驚く其座の模様 聞合すれば葭原で 殿と思ふて切込だ

れば 伊左衛門より大事の科人 ヤアだまり召れ 佐渡平めは国元より 召連た身共が家来 イゝヤそふはいはさ
ぬ 夜前此地へ当着召れた其元 其又家来の佐渡平が 伊左衛門とは何国て顔を見受ましたな サア
夫は たつてあらがひ召るゝと 追かへされた奴がかはり 御自分にも詮議がかゝり 切腹召れずば成ますまい
そこを存て此所へ 折幸いな此首を 藤屋伊左衛門と名を記し科の次第書顕はし 鈴の森にて獄門にか
け 死骸は則京都の親元へ送り届る上からは 伊左衛門は死たる同前 助て殺す拙者が政道 違変ご
ざらば此首の 科を顕はし申上ふか サア夫は 何と違背はござるまいと 事を納る主膳か情 小庭に聞い
る伊左衛門 しほ/\として手をつかへ お志は有がたけれど 若し贋物と此事がお上へ知れば御身の難儀 ホゝ其義


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は少も気遣なし お咎有は汝が次第 申開きは胸に有 とは云ながら伊左衛門 仮にも成敗したる身の此後幾と
せながらへても 藤屋伊左衛門と名乗がいないや 其時こそは見遁ならず 討て捨るが掟の第一 高雄太夫
身の上は 某慥に預つたれば そちが頼みし親元へ 急度渡してくれんずと余所を憚る表向き 首桶だかへ立
上り 郡兵衛も其儘御前へ御苦労ながらと挨拶に 返答しかなのひしやくしや腹 当り眼に角立
て家来共 伊左衛門めをぼいまくれと呼はる声も割竹の情用捨もあらしこに 追まくられて伊左衛門 心斗消
て生き残る姿弔ふ親里へ 立寄る事も渚の千鳥泣く音 不便と見送る夫婦 必ぶじでと一云もいふにいはれ
ぬ関の戸が今ぞひらくる桜井の 色番争ふ難波潟名も 夕霧に逢坂やしるべの方へと 「行く雲の