仮想空間

趣味の変体仮名

安政 箇労痢流行記

 

読んだ本 https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ya01/ya01_00014/index.html


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転寝(ころびね)の遊目(ゆめ)序
正享間記(しやうきやうかんき)てふ書(ふみ)の中(うち)に正徳六年の真夏(なつ)
熱症おほく世に流行(はやり)て大江戸のまち/\に
病て死する個月(ひとつき)のうちに八萬に余りぬるにぞ
棺を工(たくむ)いとまなく酒の空樽(あきだる)を贖ふて亡骸を
おさめ寺院(てら/\゛)に野辺送る おき土の場(には)も埋(うつむ)るに
咫尺(ところ)なければ其宗体(てい)を論せず 火葬ならでは

 

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請(うけ)おさめ次このゆえに誰も渠(かれ)も荼毘所に
おくるに棺の数かぎりもなく積重(つみかさね)て半月を過(すぐ)れ
ども焼こと能(あた)はず 到来の順を待ず日数(ひかず)はるかに
経て貧き者の亡骸はいかにともすべなく處の
長(をさ)がはからひにも届かで経に
公廰(おほやけ)に訴へまうし候に最(いと)もかしこに泰命(おほせごと)を蒙り
速(すみやか)に寺院におほせて葬り難きは回向の後に

菰むしろに包て舩に乗せ品川の沖にしづめて
水葬になさせ給ひしとぞ記たり されば此たびの
暴病(にはかやまひ)に人のおほく損するさまもその時の事に
似かよひたれば いにしへの当時にたくらべ今もむかし
となる折から濱柄(はましぐさ)ともなしてんものをも筆まめびとの
かひしるしたる老婆心をむげに見捨むことの
本意(ほい)なく一種(ひとくさ)の晴紀(そらおほえ)をもて序に換(かふ)るものならし


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安政つちのえ牛の秋きく月
 はしめの八日にふきいほりにすむ
  きのおろか しるす

安政 箇労痢流行記(ころりりうこうき)概略(おほむね)
紅花(こうくわ)の風に散り。黄葉(くわうえふ)の霜に移る。盛んなる物の衰ふること。此世の
ならひ自然(をのづから)なり。さるが中に常ならぬ風に誘はれ少(わか)きは老たるに先迄も
又定りたる業(わざ)にして。生死は決(きはめ)て量るべからず。しかはあれ当時(このごろ)流布の。
暴瀉病にて死するぞ。凡俗の心には。更に天命とは思ひ儲けず。今茲(ことし)安政
五戊午年六月下旬。東海道筋より流行初(はやりそめ)。近国にひろがりて。
此病に犯さるゝ者。九死に一生を保つは稀なり。遠く隔る地は去来(いざ)不知(しらず)
僕(やつがれ)が輩(ともがら)。既に目前(まのあたり)に見聞しる土地(ところ)をいはんに。大江戸は七月の上旬。


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赤坂辺に始り。霊岸島辺にも多くありて。日ならず諸処に
押移り。八月上旬より中旬に至りては。病倍々(ます/\)盛んにして。死する者
大きは一町に百余人。小(すくな)きは五六十人。葬礼の棺大道小路(せうぢ)に陸(うち)
続きて。昼夜を棄てず絶ゆる間(ひま)なく。御府内数万の寺院(てら/\゛)は。何所(いづこ)も
門前に市をなし。焼場の棺所せきまで積みならべて山をなせり
夕(ゆふべ)に人を焼く葬坊(をんばう)も。旦(あした)に荼毘の烟りと登り誂へられし
石塔屋も。今の間に自己(おの)が名を五輪に止(とゞ)むるなど。一々に言ひも
尽くさず。博識(ものしるひと)の漢(から)の倭の史(ふみ)とも披閲(くりひろげ)ても。未だかゝる例しを見

出(いで)ず。名たゝる医工(くすし)の鑑定にも。病根名証を知るよしなく。
徒(いたづら)に頭(かしら)を傾(かたぶ)け。手を拱(こまぬ)きて死を待つ而己(のみ)。如何(いかん)とも方便(せんすべ)なし。
適々芳香散(ほうかうさん)の如き御伝方。和蘭(おらんだ)シーボルトの経脈(験?ためしたること)なんど。救急
の要方を得るとも。卒病即死用るに間(いとま)なく。服するに時を失ふ 故(かるがゆへ)に
土俗病名を孤狼狸(ころり)と渾号(あだな)して。あらぬ説を流言(いひふら)し。妖怪変化の
所為なりとし。且水毒といひ魚毒とす。是が為に市中の上下。水上
清き玉川の流を汲ず。盤(はち)に踊る生魚を喰ず。貴(たうとき)も賤(いやしき)も日夜此
病に犯されんことを愁ひ。門戸(かど)には諸神(かみ/\゛)の守札(みふだ)を張り。八つ指(やつで)の木の葉を


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釣し提。十字街(まち/\)は鎮守の神輿を舁出し。獅子頭を舞はし。繽繙
幣帛を振り繽繙(ひらめ)かし。軒並家毎を祓ひ浄(きよ)めるあれば。かゝる年の
疾(はやく)過ぬべしと思ふより歟。門辺に松竹を錺り立て。七五三縄(しめなは)を引
巡らし。煎豆を蒔もあれば。厄祓ふとて外面に来るあり。その様
祇園會と年越とを打交へたる心地せり。是なん未曾有の珍事
にして。古今来の不思議なれば。目前(まのあたり)に見し顛末(もとすえ)を記するついで。
神仏応護霊薬の効験(きゝめ)をも誌(しる)しとゞめ。後患なから
しめん事の用に備ふと金屯道人まうす

 於出島千八百五十八年第七月十三日 当日本安政五年五月
此両三日中出島市中とも一時に下痢且追々吐かゝり申候 右患病
の者既に昨(さく)十二日一時に三十人相煩ひ将又(はたまた)亜墨利加(あめりか)蒸気船ミシツ
ヒーにおいても右様の腹病多人数御座候に付 右病原は究めて
流行のものと奉存候 右は他国にても頃日(このごろ)多分發り申候
一隣国唐土(もろこし)にても諸街市(まち/\)海岸にはコレラアシアテイス病名
 流行仕 右に付日々死失多人数御座候由 依之(これによつて)出嶋に
罷在候欧羅巴人どもに付ては右下痢殊の外変症仕実真
コレラ病に不相成様防ぎ方可仕儀に御座候 右の模様にては


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真実相發可申 右病の害と相成候 食物顕然(げんぜん)に御坐候 右食
物類禁止仕保養の手当示し置申候
  第一 胡瓜
  第二 西瓜
  第三 李 杏子 桃
 右二品は至極大事の下痢不可服(ふくすべからさる)物に御座候 第三品は
 於日本(にほんにおいて)相用候のに未熟の菓物(くだもの)是は顕在害に相成申候
欧羅巴の諸国其外国々において右様の病気発し候節は
 右病の増長防ぎ候為 其国民の右害に成候食料の儀

 告げ知らせ勿論売買禁じ候事必要の儀に御座候 依之(これによって)和
 蘭政府医師たる役目に御座候 且つ又日本人に付ては
 右の通り養生法一統示し方 強いては難申上(まうしあけがたき)儀と御坐候
  第一胡瓜西瓜未熟の杏子李等相用い候儀堅く禁(いましめ)候事
  第二人々裸にてかならず夜気(やき)と禍(ふれ)ふ申様心掛可申 夜分
    決して衣類覆はず寝入申間敷候事
  第三日中暑気とふれ余り心労の仕事致す間敷候事
  第四諸惰弱の行い 殊に酒呑過候儀もつとも害に
    相成候事


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  第五若し下痢相覚え候はゞ直様療用の手当致し
    猶予いたす間じく候事
右の通り申上候 訳合にて私共を襲い候危敵たるコレラ病除き
去り候 御賢慮可らい在誠に御座候

     和蘭海軍方第二醫官
     於日本窮理学官
       ウエイエルボムベフアン
         メードルフヲールト

この写しは長崎出嶋舶来の蘭人より奉行所へ書上候 和解にして全く日本
国のみ右病の流行するにあらざることをしらしめんがためこゝにしるして
世界のわづらひなる事顕然たり

  御触書之写(おふれがきのうつし)
此節流行の暴瀉病(ぼうしやびやう)はその療治かた種々ある趣に候得ども その中(うち)
素人心得べき法を示す 予め是を防ぐには都て身を冷やす事なく腹に
木綿を巻き 大酒大食を慎み其外こなれ難き食物を一切給(たべ)申間敷候
若し此症催し候はゞ寝所(ねどこ)に入て飲食を慎み惣身を温め左に記す芳香
散(さん)といふ薬を用ゆべし 是爾已(のみ)にして治する者少なからず 且又吐瀉(はきくだし)甚だ敷く
惣身冷ゆる程にいたりし者は焼酎壱弐合の中に龍脳又は樟脳壱弐匁(?)
を入れてあたゝめ木綿のきれにひたし腹并に手足へ静かにすり込み芥子泥を
心下(しんか)腹手足へ小半時ぐらいづゝ張るべし


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  芳香散(はうかうさん) 上品・桂枝(けいし)細末・益智(やくち)同・乾姜(かんきやう)同・各等分
右調合いたし壱弐はいづゝ時々用ゆべし

    芥子泥粉 饂飩粉 各等分
右あつき酢にて堅くねい木綿にのばし張候事 但し間に
合はざる時はあつき湯にて芥子泥ばかりねり候てもよろし

    又法(またほう)
あつき茶に其三分の一焼酎を加し砂糖を少し加へ用ゆべし 但座敷を
閉ぢ木綿きれに焼酎をつけ頻りに惣身をこするべし
  但し手足の先并に腹冷ゆる所を温鉄又は温石(じやく)を布に包み
  
  湯をつかひたる如き心持に成程こするも又よし
右は此節流行病甚しく諸人難儀致し候に付其症に拘(かゝ)はらず
早速用いて害なき薬法諸人心得のため無急度相達(きっとなくあいたっし)候事

   牛・八月
千住小塚原辺此度視認おんぼう数多の事故(ことゆえ) 手廻り兼 数日その
儘に致し置き臭気立ち 下谷辺浅草辺抔殊の外迷惑の趣にて
夜中(やちう)は猶更甚敷此体にては右臭気にふれ候者共 疫癘(えきれい)敗熱等
の病症相発し可申被 医道方は此節より心配致し候趣に付 当分仮
埋(うづめ)等義致し候歟 又は手廻し致し方可有の掛暑く勘弁いたし右様


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の次第に不至(いたらざる)様精々其筋へ可申渡候
右の通り寺社奉行より其筋へ申渡候間 町中其心得を以て埋葬の
儀取計ひ候様可申渡候

   牛・八月
此節流行の病症にて死亡人多く市中一統恐縮の余り 中には
祈祷被唱(となへ)手遊びの神輿或は獅子頭等夜中町内持ち歩み行候 掛の
趣畢竟邪気除け候儀被軽き者共心得違ひとて 右様の所業致間
敷とも申し難く穏やかに祈祷等致し候儀は格別多人数集り候様子
にては平日被違い此節柄火の用心は勿論都て物騒敷儀無の様

兼て申渡置候に付 相慎み可罷在(まかりあるべく)儀右体心得違ひ有の間敷全く
風聞迄の義被相聞へ候得共 御中隠中(いんちう)万一心得違の者
有之候はゞ当人は不及申に町役人共迄急度可及沙汰候条其旨
町中不洩(もれざる)様可触知(ふれしらすべき)ものや

   牛・九月
○此節深川富吉町道具屋何某なる者流行病にて死したる
貧窮なるやからの葬具調へ兼候者へ棺桶を施すに日毎(ひゞ)四十五六
宛(づゝ)出す 是又未曾有の功徳ならずや
○当八月中旬佃島漁砂(りやうし)何某なる者に野狐(やこ)取つきけるにぞ


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近隣(あたり)の者馳あつまり神官修験の祈りを乞ふてさま/\゛と攻ける故
にや 狐彼者の体を抜け出で外(と)の方へ逃げ去るを在りあふ人々追欠て是を
捕へ即時に打殺してければ長(おさ)たる者のはからひにて彼狐の死骸を
焼捨て烟となし其辺(ほとり)に三尺四方の祠を建てて霊を祭り すなはち
尾崎大明神と崇めけるとぞ
○京橋南伝馬町壱丁目桶屋何某の娘 当病に犯され吐瀉甚
しく絶えもいるべき形相(ありさま)なれば父母大ひにおどろき周章(あはて)近辺の
町醫横田何某を乞ひて見せしむるに 彼医者容体をうち見 脈察
してとても存命覚束なし されども捨て薬一帖を参らせんとて

調合なすうち彼の娘は悶乱なして息たえしかば医師も本意なく
そこ/\に程近き我家へ立帰りしが いかゞしけん忽ちに腹
いたみてその儘に息絶たり 妻なるものおどろきかなしむに
近隣の者走(はせ)あつまりさま/\゛に介抱なせども顔色死相に変じ
寸脈も通はず 此時咲きに此医者を招たりし桶屋にては むすめの
死骸(なきがら)を棺の中(うち)に納んとしける折 ふしぎにも彼娘茫然として
蘇生(よみがへり)しかば父母はじめあたりの人々再び驚くばかりなるが両(ふた)親
は盲亀(もうき)の浮木にあひたる如く喜ふ事大かたならず此はしを
かゝりたる医師の方(かた)へ告しらすに医師は今死したりと云こし


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ければ再三驚腑慨嘆(きやうふかいたん)当病ぼ火急なるに舌をまきさるにても
いぶかしきは病者の死したりしと思いしは却て蘇生人を活かさんと
する医生は忽ちに死す死生時を同じうして手の裏をかへすより
速かなり されば娘が入らんとせし棺は不用になりたればとて彼医師
のもとへ送りやり彼方(かのかた)のウ有用(うよう)になしたりしも因縁とこそ思へれたり
○湯嶋三組町魚屋何某の妻 店に出て品物を売銭を取ん
としてその儘倒れ小半時の間吐瀉甚しく 喉(のんど)のあたりにふくた
みたる物出(いで)来て苦悩甚敷 終に其時を過さず息絶けるに 彼のんどの
一物口中より黒気(こくき)と成て立昇り消えうせけるもふしぎの事や

  流行時疫  異国名コレラ
一薄き羅紗又はうこん木綿或はもんぱの類にて
 昼夜とも腹を二重ほどまき置くべし
一桶に湯をいれからしの粉を五部斗り其中に
 加えて折々両脚の三里の辺まで浸すべし
一家の内に何にても炊くものをなして湿気を除くべし
一一切の菓類(くだもの)を多く食(しよく)ふべからず

  同治法
一此病をうけたりと知らば熱き茶の中へ其茶の
 三分一焼酎を入れ砂糖すこしを加えてのむべし
 又座敷をたてこめて風にあたらぬやうになし
 其上羅紗のきれ又はもんぱに焼酎をつけて惣身
 を残る方なくこすりてよし
  但し手足又は腹などへよく意(こゝろ)をつけ ひえる
  ところあらば温鉄或は温石(おんじやく)をあたゝめ布(もめん)につゝみ
  浴湯(ゆあみ)せしほどの心持ちになるまで摩擦(こする)べし
 干時(ときに)安政第五戊午年八月    施印

(下段)
此一むらは何がしのとのより
桜木にのぼせてほどこし
給ひけるを又いへ/\にても
うつしえてひろくひろまり
けるゆえにや 此手当にて
たすかるものいと多しと也


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○余が知己なる何某当八月中旬こたびの
暴病(にはかやまひ)にて死せし者の為に小塚原なる荼毘
所に至りし折 人焼く葬坊(おんばう)人足の語れる様を
聞たりしに 去(さんぬ)る七月十五日の頃より焼釜追々
に一ぱいに相成て焼き数多分なりと思ひの
外(ほか)月末に至りては少しく減りて
釜焼も余り候ひしに 八月に至り
四月より五六月の間は死人二三十
宛(づゝ)も残り 十日過ぎより六百人程も

焼き残り候へば 此分
にては中々今日より
来たれる分は
九月二日三日
頃ならでは
骨揚(こつあげ)には
相不成(あいならず) 如此(かくのごとく)の
次第故金子
何程出(いだ)し給ふ

「小塚原」「汐入つゝみ」
「みのわ」「やきば」「新吉原」「日本づゝみ」


15(挿絵)

「荼毘室(やきば) 混雑の図」

 

 

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とも中々火急に焼候事は出来不申と物語れり 彼人辺をかへり見るに庭
に積み上たる棺の数限りなくしてかぞふるに間あらず 始は大通りを至りしかど其帰る
さには三輪(みのわ)辺に所用あれば焼場の裏門を抜出んと諸院の園中を指覗きつゝ
其処を過るに 諸宗はさもなけれど一向宗の荼毘所は殊に多く棺をかき入るゝに
場所(ところ)なければ往還の傍らに積揚げて両側に充満し 道はゞ一身の往来のみのれば
其臭気甚敷 手拭をもて半面を包み足早に新町の通に出たりしが
追々荼毘所に持はこぶ棺の数往来に引続きて 上野広小路までその
数かぞへしが わずかに半時の間道は半道にたらずして荼毘所に遣す
死人とおぼしき棺数のみ百七十三ありしとて慨嘆の余りに語れり

○御府内四里四方町かず三千八百十八丁各(おの/\)三十六丁壱里にして百六十八里
 十三丁なり 此度暴瀉病流行につき死亡人多く依之(これによりて)御救(すくひ)被下置

(上段)
○表店八十五万十三軒
  男 三百四十万十四人
 壱人五合ぶちとして此米高
  壱万七十石七升
  女 百七十万二十八人
 壱人三合ぶちとして此米高
  五千百石八升四合
○裏店九十二万五千二百二軒
  男 百十一万千百二十人
 壱人五合ぶちとして此米高
  五千百五十五石六升
  女八十五万千二百八人
 壱人三合ぶちとして此米高
  二千五百五十三石三斗二升

(中段)
○盲人 九千百十三人
○出家 七万百十人
○尼僧 三千九百九十人
○神主 八千九百八十人
○山伏 六千百四十八人

〆 九万九千四十八人此米高
  四百九十五石二斗四升五合

御府内町方惣人数合て
〆 七百十万千三百十八人
○今般御頼の儀は表裏
不限貧民へのみ被下置るゝ

(下段)
○但し長袖地借三才以下
には不被下死亡人は勿論也
○貧民男三十一万六千廿人
此米高 壱万五千八百壱石
○同 女子廿万七千五十六人
此米高 八千百十六石八斗

右は御救米六万俵高御
割付を以被下置るゝなり
貧民男女御救米合て惣
〆 二万三千九百十七石八斗
常四斗相場此代
 〆金六万両なり


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○流行の病をもつて身まかる人々の中(うち)に其名四方(よも)に聞こえしを聊か
 こゝに記す 猶貴賤の差別なきは見ゆるし玉へ 又余病もあるべき歟

(一段目)
書家 大竹蒋塘
同  市川米庵
諧謔 惺庵西馬
同  福芝斎得蕪
同  過日庵祖郷
狂歌 燕栗園
講談 一竜斎貞山

(二段目)
作者 緑亭川柳
同  柳下亭種員
画工 歌川国郷
角力 宝川石五郎
同  万力岩蔵
三絃 杵屋六左衛門
同  鶴沢才治

(三段目)
画師 菁々所其一
作者 楽亭西馬
太夫 清元延寿
同  清元染太夫
同  清元鳴海太夫
同  清元秀太夫
同  都与佐太夫

(四段目)
役者 松本虎五郎
同  尾上橋之助
同  嵐小六
同  嵐岡六
三絃 岸沢文字八
作者 五返舎半九
女匠 都千枝

(左頁一段目)
咄家 馬勇
同  上方才六
画工 立斎広重
同  桜窓三拙

(二段目)
同(三絃)清元市造
碑名 石工亀年
画家 英一笑
狂歌 六朶園

(三段目)
太夫 常盤津須磨
同  常盤津和登

人形 吉田東九郎

(四段目)
女匠 常盤津文字栄
同  同 小登名
太夫 竹本梶尾
同  豊竹小玉

 ○当時のされ歌も聞およひしを三つ四つしるす
借金を娑婆へ残しておきざりや冥途の旅へころり欠落 紀のをろか
此たびは医者も取あげず死出の山よみじの旅路神のまじなひ 作者不知
ぜいたくを吐て財布のはらくだし三日転(ころ)りと寝つゝけもよし はれます
流行にかゝれさきたつうき中にアレいきますと恋もする也 思晴


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埋(うめ)はこむ焼場は困る苦の中に何とて魚喰へなかるらん 作者しらず
       「お寺はよろこべ二日で仏になつやはヤイ
知己(ちかづき)を往(ゆき)つ返りつとふらひのともにゆかぬぞ目出度かりける しる猿

 ○八月朔日より晦日まで日々書き上げに相成候死人の員数(かず)
朔日百十二人 二日百七人 三日百五十五人 四日百七十弐人 五日 二百十七人
六日三百五十人 七日四百六人 八日四百十五人 九日 五百六十五人 十日五百十九人
十一日五百七人 十二日五百七十九人 十三日六百二十六人 十四日五百八十八人 十五日五百八人
十六日六百二十二人 十七日六百八十一人 十八日五百六十一人 十九日五百九十七人 二十日四百六十九人
廿一日三百旧十二人 廿二日三百六十三人 廿三日三百七十人 廿四日三百七十九人 廿五日四百十四人

廿六日三百九十七人 廿七日四百十六人 廿八日四百三十五人 廿九日四百四千七人 晦日三百三十三人
  〆一万弐千四百九十弐人        程有て候由
       
此分金書上此外之人別なしの者数一万八千7百三十人九月に相成候て
九月に至りては大きに減し三四日頃は五六十人に相成夫よりははたと
相止み通例に相成申候

或院主の談話(はな)しに曰く八月一ヶ月に送礼数凡そ一ヶ年分も来りし故
平日(つね)は飯炊門番老爺又門前の無業人(あそびと)を雇ひ大概世話敷成たり
とも事欠くことはなかりしが 此度(こたび)は石工(いしや)定日雇(しごとし)も皆々掛りて間に合かね
井戸掘(いどや)職人を頼みたるにて漸々安堵をなしたりとなん


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○千住掃部(せんじゅかもん)宿に
奈良屋平次郎
といへる小間物
商人(あきんど)ありける その
妻当八月廿日頃
浅草山谷に所用
ありて赴(おもむき)ける
途中今戸(いまど)の方(かた)より
頭(かしら)を剃(そり)こぼち痩枯(やせがれ)
色青ざめたる若き男の
素裸にて童等に
追はれて来るに

行合(ゆきあひ)たり 余りに人の立つどひて
喧しければ何事やらん狐つきの
類にやと立よどみて人に問ふに
当病の為に死して焼場にやられし
者の只今蘇生(いきかへり)て焼場を逃出(にけいだし)
此処(こゝ)彼処(かしこ)をうろつくなりと
語りしかば 例の虚言(そらごと)にやと心
にも留(とめ)ずその所を立さり 後に
聞(きけ)ば是全くの事にして
蘇生(そせい)の若人(わかうど)は市ヶ谷
辺の商家の
 倅なりけるとぞ


20
○湯島の辺(ほとり)に貧くくらす
夫婦の者ありけり 夫は
久しく病に臥て此頃
少しく快気(こころよき)かたに
赴きたれど 未だ立居
自由ならず その妻なる
ものは今に稀なる
貞節にして夫が長々の
病(わづらひ)に朝夕の烟り立かぬるを
その身かひ/\゛敷(しく)立働き小商(こあきない)
などしてその日を過し 夕(ゆふべ)に家に
帰りて夫の介抱おごそかならず
しかるにその妻こたびの暴病に
犯され一日病て その夜
終に空敷(むなしく)成けるが
懐妊して九ヶ月に
成れり 知己(ちかしき)者
打寄て談合し

夫は病て
葬式の
手当も
なかりしかば
手段して金
子を調へ
菩提所に送り
焼場にやりて骨
拾ふ日を約し近隣の
者は立帰りぬ しかるにその
夜かの妻なる者焼場の
葬坊(おんぼう)が枕辺に立顕はれ
夫が長々の病に臥し
不如意の折から又我身の為に
一倍の物入ありては後の術計尽(つき)
果(はて)なんと思へば是のみ迷ひの
種なりと さめ/\゛と打泣(なき)ける
斯する事三夜なれば葬坊も奇異なる△

(右頁下)
△事に思ひ
その夫が
杖に
すかりて
骨揚に
来る日
子細を
尋問(たづねとひ)誠に
夢想と
割符を
合せしごとく
なれば
焼料を
戻せしうへ
別に
香典の
料を○

(右頁中程)
○あたへ回向して
遣はしけるにぞ
その後には
別に□

(左頁下)
□ふしぎも
なかりし
ことぞ


21
八月十八日の事なりとかや数寄屋町大虎(家主書役兼 道具屋なり)と申者 裏煙管(うららを)のすげかへ渡世
の者 俄に異病体(てい)にて同じ長屋の者寄合(よりあひ)野狐(やこ)の付たるにやと大勢取巻問けるに 病人の申
には 某左様の者に無く京都より御用向有 鉄砲洲稲荷社へ使の者なり 此御用我等ども四つにて承
り候処 二つは道中に小田原にて犬の為に命(めい)を落し候へ共 急なる使故帰りに敵(あだ)を報はんと思へり 右左(とかく)に食に
飢たれば此処へは来りしよし やがて飯をぞ食しける其間(ま)色々と問ひ掛しに 我は八つ狐と申者なり 今度
野狐に付れざるには八狐親分三郎左衛門と書(かき)門戸(かど)に張べしと咄し終り すつと立ち押(おさ)へ居たる四五人を
ふり倒し表の戸を蹴破り馳出(はせいだ)す故 僉々(みな/\)跡を追ふたりしに 水谷町角(すみ)の稲荷の拝殿の前にて頼(たの)
申(まう)といふぞとみへしが打倒れ正体無(なき)をつれかへりて全快のよし 坂部(さかべ)と申名主の支配下にて
届(とどけ)を出(いだ)し候よし数寄屋町家主磯次郎といふ者の咄しなり

厄神も長居は
 ならじ
  あし原や
さかさに立し
  箒星には
     百舌

天文の事はいざしらず
西方(さいほう)に星出(いで)て画(え)に
かける稲の穂のごとく
是を名号(なづけ)て豊年星と
いふ

出来秋や空にあらはる豊年星 松瓶

 凡(おほよそ)ものは祝ひがち
 よきもあしきもへのごとくに
  見やぶるも又一筒(いつか)の大語(だいご)歟

雲らざる夜にすいと
     出る放屁星
 武威にくさきも
   なびくしるしぞ   重瓶


22
○或大諸侯の
藩士 木津氏(うぢ)なる
人元来剛勇の
気象にて武
術も又類なき
達人なるが今度或
夜の事なりとかや
宿直(とのい)より退出して
宿所に至るが此人未だ
妻もなければ勝手知りたる我が
家の戸を引明け内に入て寝
所に赴かんとするをり
屏風の中(うち)
より

最(いと)凄じき
異形の

妖怪
忽然と
して顕れ
出(いで)木津氏に
飛かゝるにもの/\し
ごさんなれと身をはづして腰刀(えうたう)を
抜(ぬく)より疾く妖怪の真向目
がけて切付(つく)るに
  此形勢(いきほひ)にへきえきしてや□

(下)
□かの妖
怪は身を
おどらし外の方
さして逃んとするを
木津氏透さず追とゞめ
辛くして是を生捕
燭をてらしてよく/\
見るに 是年経(としふる)狸にて
当時奇病の流行せるその
虚に付込み諸人(もろびと)
をたぶらかし
 なやむるものとぞ聞えし


23
○中橋巌倉町に本間大英と
いへる町医あり こたびの
暴瀉病に余の医師の
見捨たる病人をも自己(おのれ)
薬用医案を尽して多く
本復させたりしが
或夜近隣(きんじよ)に祝儀の事
ありて夫(それ)に招かれ少しく
酩酊して家に帰り寝まらん
としける時 鼠の如き獣物(けもの)
大英が傍らに来りしかば
アレ鼠の寄るに疾(とく)退け

よと妻に指揮(さしづ)
せしかど妻の目には
更にふれず 兎角する内
ソレ鼠めらが膝へ入たり いかゞせんと
苦しみ叫ぶに 入たりと思ふ所はれ上り
ぬれば 妻も立騒ぎその所を
布をもつて結(ゆひ)などするうち近所の人々も走(はせ)
あつまるに 大英は最(いと)くるしけに アレ又腕(かひな)へ上り
たり背(そびら)へむぐりたりと悩乱するうち こたびは
腹へ入たりとて終にその儘に息絶えける その火急なること寸間(すんかん)もあらず 是等
の類ひの奇異ある事数ふつ遑(いとま)あらず その一つ一つを後に揚て万々年の後
かゝる事あらん時の心得に書顕はすをよみねかし


24
前の大英の話しに似て死せざる者も数多あり 其療治かたを尋るに 彼の
身体(みうち)なるふくれし処をしかと捕へ 又跡先を結(ゆひ)などして狐身を責(せむ)るゝが如く
いざ退ぞくか退かずは斯の如しと刃(やいば)を当れば 忽地(たちまち)悩みの兪(いゆ)るもあり また
其処を突貫き血を出して助かるあり 或は其処より黒気(こくき)たち光りを放ち
散じたりなど実に不思議の事どもなり

  ○時節の前表
こゝは高田の馬場辺に去る諸侯の屋敷守(もり)森山丈助といふ人あり 此人
武事には達したれども世事に疎きと思はれたり 頃しも五月の事なるが
或夕(ゆふべ)気分悪敷(あしく)独身(ひとりみ)の心安さは夜食も喰(くは)ず寝(いね)たるが夜半の頃に枕辺に

誰やら座すると夢を見て覚(さむ)れば夢にあらずして図に顕はせるごとくなれ 不審
に思ひ尋れば我は厄神(やくじん)の王なるが四五日宿りを仮(か)せよといふ 這(こ)は迷惑の所望
かな 吾独住(われひとりみ)の事なれば一日病ても難渋なり 疾(とく)立出よと叱(しっ)したれば彼の老人は
微笑(ほゝえみ)つ いやとよ貴辺(ごへん)は悩(なやま)さじ 宿だに仮して給はらば外(ほか)に厄介なるまじといふゆへ
さらば彼処(かしこ)の一ト間に入て休足あれかしと諾(ゆる)せば門辺(かどべ)を差招くに いと賤しげな老
幼男女ぞろ/\一ト間へ入たりと見しは幻夢現まぼろしうつゝ)老人 やがて禮(いや)をなし渠等(かれら)は
僉々(みな/\)我眷属宿りの礼には斯こそと図のごとく端書(はがき)を教へ是を門部(かどべ)に張
置けば我か徒一人も這入まじ 若しや入たる家あらば此札をもて身内を撫で其病人(やむひと)
の床(とこ)の下へ敷て置きなば命(めい)を欠ず 又薬方を伝授なして必らず此年秋


25(挿絵)


26
に至り多くの人を助けよと伝へ終りて一ト間に入しが 翌日其処の一ト間に物
なく自己(おのれ)昨夕(ゆふべ)の悩みに似ず最(いと)快く起たれば例(いつも)のごとくに庭へ出(い)づ 中間(ちうげん)共
は是を見て昨日の熱の様にては斯速やかに出勤は在(おは)すまじいと思ひしなど語るに
付きて厄神が宿りを仮に来りしと話せば 下部(げぶ)も半真半疑 自己(おのれ)も一つの疑ひ
あり 且安房(あほう)らしと恥らいて其後は人に話しもせず六月も過七月初旬築
地に甥の奉公せる屋敷へ用あり赴きたるが彼家敷な?足軽頭(がしら)跡追来り
此六月甥君(おいご)に話しの有しと聞く厄神除の札二枚且伝方の丸薬を製して
与へ給はらずや 今我部屋に熱病にて最(いと)悩める者両人ありと強(しい)て乞れて
黙止(もだし)がたく甥が宅にて是を拵へ与へたりしが其翌日(あす)より病人食気を催

して速(とみ)に全快なせしとなり 是彼の甥が六月中土用見舞に来りし時
夢物語を成したるを伝へ聞たるものとなん 夫よりは彼の屋敷にて大きに札を
珍重し我も/\と乞受(こひうく)る中に一人(いちにん)酒狂者あり大きに是を悪口せしが その夜に
病付(やみつき)死したるよし其外不思議の?(しるし)ありて札を乞もの多きよし 又奇とするは老人の
言葉此秋流行(はやる)といひしより札の名当(なあて)の邪といふ文字にて例の熱病ならぬを察
しぬ

安政五戊午年五月廿五日之
 夜之行定に忘夕乎
 邪神王 定保」   指形 べに也


27
「白澤(はくたく)之図」
夜毎このえを
枕にそへて臥す
ときは凶(あしき)ゆめをみず
もろ/\の邪気を
さくるなり

神たちが世話を
やく病このすへは
もうなかとみの
はらひきよめて

「于時安政
  戊午季穐(秋)九月 天寿堂蔵梓 『宝』」