仮想空間

趣味の変体仮名

難波丸金鶏 第二 

 

読んだ本 https://archive.waseda.jp/archive/index.html
     浄瑠璃データベース イ14-00002-604


30(三行目)
   第二 天満老松町の段        おさらば/\と別れ行
常磐なる 老松町に侘て住む 淀屋の手代新七が妻のおつるは賃綿の手馴ぬ業も初世帯 そよ
吹く風に表口 明けて五つの新松が 一人遊びのやんまひやう/\ こち返りや そつちにや水がない 水さへ暑き日盛り
におちよぼからげの伏見笠 軒端/\を見廻してコレ/\そこな子 アノ淀屋の新七といふは此辺りではござらぬか 知てなら
教てたも ムウ其淀屋の新七といふはとゝ様じや こな様どつからござんしたえ ムゝ新七の息子か ヤレ/\嬉しや 京の長次郎といふ

伯父が来たと案内仕や そんなら爰じやござんせと 内へはいるもとつぱかはコレ/\かゝ様京から長次郎様といふ伯
父様がござんしたぞや ヤレ/\コレはお珎らしい お暑い時分によふこそと あをぐ小山のうちは同士何の遠慮も打くつろ
ぎ 終に逢ねど聞及んた弟嫁のおつる殿とはこな様か 私は塩の長次郎といふて新七が為には兄でござる 今は伏
見の砂川に飯綱(いづな)つかふたり品玉の茶碗斗で朝夕仕廻 是がほんの喰ず貧楽 ちいさい時から新七も私も別
れ/\に居ました 漸去年廻り逢様子を聞ば新七は 淀屋殿に手代奉公 妻子も有と聞た故 いつぞは下つ
てしみ/\゛とこな様にも逢ふし甥の新松が顔も見たいと思ふた斗で貧乏隙なし 今度急用で下つた故序な
がらの入部入 土産といふも恥しけれど深草の名物団(うちじゃ)夫婦の衆は一本宛 次に伏見の香椒(とうからし) 辛ふなけれど


31
煮染(にしめ)て置はつまり肴にだんない物 コリヤ坊主よ そちへの土産は何とよいか 深草の此牛 何ぼ大坂に
虎屋饅頭は有ても こんな細工の焼物はござらぬ そして右向の牛は富貴するといふ程 此牛のねた程金
儲して おもやの淀屋殿にあやかれ テモ新七によふにた事はい いかい気もせで有ふ イヤモウわたしか手一つで打たり舞
たり 殊にきついわんばく太郎手に合こつちやござりませぬ コレ伯父様にお礼申しや イヤモウ縁はふしきな物 新七様
にふと馴染間もなふ此子を設てから お世話でこふしておりますが明け暮れお前のお噂斗 幸主もいつぞやから
内へ戻つて居られますか けさとうから出られましてモウ追付帰られませう 何はなく共御昼(こゝ)てもと立んとす
れば アゝこれ/\何にも構ふて下んすな 私が今度下つたは此中桂元格様といふお医者から御状を下され 明

日は川口の瑞見山の辺で旦那衆か芝居事の慰が有 元格の思ひ付で此長次郎が品玉や 手づ
まをお目にかけたい程に早々下れと有故に 何でもしてこい金儲と夕部夜舟で下りがけ噂を聞ば瑞見
山で芝居事をなさるゝは 淀屋の辰五郎様じやと聞た故 定めし新七もいかれふさかいで委い様子も聞たさに
新七の戻りやる迄待て居るのも隙費へ 是から私は元格様の所へいて 戻りによえおといふて下され あつちへ
いたら定めし馳走 爰な馳走は預けます そんなら必お帰りに ヤレ/\暑いに御苦労様や イヤモウ何も銭もふけ
坊(ぼん)よいてこふさらばよと 云捨てこそ出て行 跡見送りてテモ扨も 主とは違ふて気かるなお方 夫レはどふと新
七様 此マア遅い事はいのと 見やる内にもふら/\といねむる新松抱上 ヤんまにつられて草臥たか ドレ/\ねさし


32
てやりませふねんねこ/\/\の 声もなまめく暖簾の奥 床しくも入る跡へ 木々に鳴く蝉の羽衣肌薄き 単(ひとへ)
羽織に編笠も深き忠義に新七が 思案有げに立帰る 跡より道具や伝兵衛が申/\と声かけて 是は/\
新七様 只今お前へ参る所よい所で御意得ました いか様是は幸と サアおはいり内へ伴ひ 呼にしんぜた用
事といふは指料(さしれう)の此脇指 昔作りで気に入ぬ故いつそしかへて仕廻たいが マア何程に有しやる見て下されと
指出す 一腰取て打ながめ目釘こち/\打はづし テモ錆たは 此身はどふやらよさそふにこされ共 私等が見ては二
そく三文 身は此儘にお留なされ柄廻り鍔くるめ お気に入ずば私が申受たふござります 外様ではなし大事
のお出入 じやんきり只今廿両何とよい値でござりませふが イヤ/\夫では放されぬ三十両と思へ共マア五両

買しやれ 何の如在申ませう 其かはり何成とお目にとまつた小道具を 小利口にして差上ましよ 是で
私も少々おかげを蒙らにや立ませぬと 拝み倒しの口車 そんならぽんと負てやらふと大気に見せるも下心
入いで叶はぬ急用の金に詰りし切羽際 柄と此身の別れ坂後にぞ思ひ白露の 汗手拭でぐる/\巻
たんすへ投込 ヤレ嬉しや気に入ぬ物払ふたら気がさつぱり イエモウ私も大慶と 小道具包懐中し然らばお暇
申ましよ 御金は夫レにヲゝ御大義 御用もあらば重ねてと小腰かゞめて立帰る 程なく表へ歩みくる用
有げなる添編笠 前後を窺ひ立休らひ 内を覗て手をたゝけば 新七辺を見廻して立出れば小声になり
此間御頼の一義 今日迄に残らず調ひ 書付是にと懐中より 一通渡せばさら/\と読より早く巻納め


33
段々のお世話御苦労千万 入用金四十両の内 当分是に廿両お渡し申と指出し 残り廿両は晩方いつ
もの碁屋へ持参致し 其節万事の相談 然らば夕方御意得ませうおさらば さらばと別れ行 跡に何
か新七が 工夫をこらす表口 かはい男に逢坂の関より つらい世のならに ホウ徳市かよふこそ/\ そふおつしや
るは新七様何やら私に イヤモウさしての用でもないが マア/\はいりやと内に入 爰へ/\と手を取て膝と膝とお
押ならべ 扨頼たい用事といふは 此中内分に入用有て 去人に金廿両程借用したが今日中にかへす
約束 所かおもやが取込で けふのふり合が出来にくいといふて先も義理の金 つい断りも云にくい そこで貴
様に頼むといふは おもやの御隠居小庵様に成て挨拶がして貰ひたい せりふの高は 此小庵が呑込で居る

程に マア十日程待てやらしやれ 若し新七が済まさすは こちの勘定場で渡そふとつい一口いふてたもれば 忽ち埒の
明く事じや 是非に頼むと厭状(おうじやう)ずくめ 夫はお安い事ながら 先の相手がてつきりと 小庵様を知ておりませふがな
ハテ訳もないいかな/\ 内にござれば奥住居 花見遊山も乗物でなければござらぬ故 小庵様といふは男じや
やら女じややら世間に知た者がない ムウそりやマアそふもござりませふが 小庵様は私が様に盲人では有まい
かな 夫も工面して置た 東の町の立木勘蔵が所で 細工の入目を買て来た コレ/\是しやいらふて見や コリヤ水
晶てした物じやが かんちなどに片目入れると 忽ち両眼日月のごとく 本の目より景気がよい 是を貴様
の目にはつて 旦那の譲りの茶縮緬の此羽織 是を着てのつしりと 物いひ身ぶりを温和にやりかけ


34
高上にやつてたも 是を首尾よふ仕果せたら 官上りの一番帳じや コリヤ忝い呑込ました そこらはぬかる
君じやない 仕内を追付お目にかけふ そんならそろ/\やりかけふ アレ/\あれへ見へるがモフそふじやと 羽織打着せ
むりやりにあたまおさへて座に直しさあらぬ 顔して待居たる 程なく来かゝる件の金借(かし)銭屋の銀助 額の
皺より延したる縮緬羽織かざす扇の夕日かげ ずつとはいれば新七が能こそお出こなたへ/\と 慇懃めける挨拶は
いはねど借人(かりて)と見へにける イヤコレ新七殿 先達て用に立た金子廿両 四五日前にも利足揃げ 忝いと持て見へ
ねばならぬ筈 但は淀屋風吹して わしらに足を引あすのか 顔に似合ぬ仕方の悪いおさんでは有はいの サア/\其
金受取ましよ きり/\渡してやらしんし アゝいかにも/\ 御尤イヤモウ早速持参致そふにと心では存ながら おもや

も此間は西国北国の御大名へ 八千八百八十八万両といふ先納を包ます故 殊の外の取込 夫故今日の所を 今十
日程御用捨に 待てくれいといはんすのかそりやマアならぬ 義定(ぎぢやう)した日切の金 身のかははいでも取らずに
いんでは口がひやがる 金借(かねかし)仲間でしはんぼの棟梁 鬼神の銀助と呼れた此男 爪に火を燈す様にして設け
溜た金銀を こな様(さん)達の栄耀遣ひにあてがふ事は成やせぬ サアくししなされ受取らふと 中々聞ぬ挨拶に
徳市そろ/\見繕ひ さらば役目が廻つたとせりふくり出す咳ばらひ ムウ何か其元は少々の端(はした)金を借つしやる
銀助殿といふのか お近付に成ましよ 手前は定めて音にも聞つしやらふ 金銀米銭(へいせん)山のごとく 何くらからぬ
淀屋の隠居 アイ慮外ながら小庵でごんす アゝ扨はお前が小庵様 初てお目にかゝりました スリヤ其元は小庵


35
を見しらずか イヤモウ今が初めでござります そふも有ふ/\ アゝついでに辰五郎がお目にかけたい マア渡しに似て目のはりが
よい あれではあづまが思ひ付たも無理ではござらぬ 扨と 新七が申通りおもやも此中はきつい取込 あまた
手代共もござれど新歌の稽古のイヤ弁天講の 或は嫁入年忌法事せがみあるくに隙がござらぬ そ
こで新七も金の才覚成にくければ思はざりしに身の恥辱 そこを貴様か仁王門の様につつぱつて狸く
すべる様にいはしやつても今は野中の一つ水 済ぬ金をば中にも暫し すむはゆかりの此小庵 但貴様は此金を 待
がつらいか煙がういか とかく浮世は銀助殿よ 和らぎ給へ/\ アゝいま/\しい何の事じや くらいどれの隠居にや
かまはぬ サア/\新七金受取ふ渡せ/\とせり立れば ヤアわりや大事の御隠居をくらひどれとは何でいふ

た そふじや新七聞所じや まだ一ぱいも呑ぬ中に くらひどれといはれては淀屋の隠居が立ぬ/\ 此新七も
立ませぬ 何で御隠居に口過ごした ヤアしやくさいどう衒(がたり) 廿両の金渡せ サア渡さぬかと新七が 胸ぐら取は徳
市が ヤアさせぬはと腕まくり 擲きかゝれば銀助がかはすもしらず新七を ぴつしやりげんのみコリヤおれじや 何しあ
がると徳市を取て投れば銀助が あらめんどいと突飛す 拍子に入目が抜き落れば 銀助取上ヤア是は 扨
こそ儕まいす者 贋盲じやない贋目明きじや コリヤ新七 わりや銀助をくはんた仕事にかけたぞよ 了
簡がと両人が胸ぐら取て ふり廻せば マア/\待てと一間より女房おつるは走り出 三人を引分け/\中に立 イヤこれ
金借の銀助様(さん) 廿両の金渡しませふ アノこな様が アイ私が金爰で済ましませう したが預る手形が有る


36
かへ ハテ金借を商売にして居る者が証文とらいで能物か イゝヤ預る手形じやござんすまい ソリヤ勤奉公
の証文爰へ出さんせ 直々に奉公人が判致しませふ ヤア/\何といはんす イヤお前は金借とは偽り 嶋原の傾城
屋様で有ふがなと いふに銀助新七も恟りしたる風情也 おつるは其儘新七が 胸ぐら取て下に引すへ 新七様
聞へませぬ 子迄なしたる夫婦中 なぜ此わしを隔ては下さんす 私も昔は新町で百夜(もゝよ)といふた引舟 多くの
人に付逢て人の風俗物ごしを知まいと思ふてか 爪に火を燈す金借様が 黒ちりめんの長羽織緋羅
紗の腰さげ 其上古町に住むお方が どふなんせかふなんせ どふさしやんせは聞馴た 京の嶋原の物いひ 合
点がいかぬと思ふた故 坊(ぼん)を添乳(そへぢ)の其中にも心ならぬはお前の身の上 ほんに今迄わる遣ひ色狂ひは扨

置 紙一枚そまつにせぬ親方思ひのお前様よく/\手詰の金でかな嘸気苦労に思はんしよと 添乳の
袂の濡る程 わたしやコレ泣て斗おりました わけてふしぎは爰へきて足かけ五年が其間 四つを限りにいんだ
お方 二月余り以来(このかた)は此内に昼夜の居続け どふやら心にかゝれ共子中なしてけふが日迄 親子三人添臥し
して 寒山寺の鐘聞といふ 珎らしいやら嬉しいやら云出し兼たお身の上 左程詰らぬ品に成り入いで叶はぬ金
ならば なぜ打明て此わたしに 勤をせいとはおつしやらぬ 三人ぐるの狂言で義理詰にして女房に 勤をさそふ
といふ様な 水くさい気がわしや悲しい 譬此身はくづおれてもお前に世話をかけまいと 何着たい共巻たい
共 ついしかいはぬ辛抱がお前の目には見へなんだか コレ申新七様胴欲なお心とかぞへ上たる真実の恨 涙に


37
新七が 何と詞もないじやくり涙商ふ女郎屋も 袖にとく/\徳市が 入れ目もぬるゝ斗なり 新七漸涙を
おさへ いかにも道理尤じや 何を隠そふ先々月 番頭宗兵衛がわんざんにて 淀屋の家を追出された 是と
いふも辰五郎様余りお身持放埒故 段々御異見を申たれば 金言耳にさかふとやら 追出されるのみなら
ずお出入迄を止られたれ共 そなたにいふて苦にさすが気の毒さに けふ迄は隠していた しりやる通おれが
事は お過なされた親旦那のお気に入 夫故度々郭のお供にいて 其節そなたにふと馴初め 縁えかな今は是
子迄有夫婦中 淀屋の手代で候と人にもしられた新七が かういふ貧しい住居をさすも 主人の内の
塵一本 おのれ我身に付けまいと奉公大事に思ふ故 節季/\のあてがひも 嘸や不自由と思へ共

其顔もせずしんまくに終に仕付けぬ賃為業(ちんしごと) 余所の手代の妾衆は女ゴ嬪下男 さも花やかに着錺
て 芝居の初日花見遊山 楽しみ暮す人も有ふ 夫羨しい共思はずに アノわんばくな小坊主抱へ 達者な身
でも有事か つかへの上に腹帯して日がな一日あつたふた 艱難苦労の仕飽(しあき)さす 其女房に何とマア勤奉
公してたもと 夫の口からいはれうか 夫故かふした拵へ事 金の入はも主人辰五郎様へ忠義 手を合す堪忍
しや 不運な夫に連添たが前生(さきしゃう)からの因果じやと 思ひ諦めちつとの内 勤てたもといふ声も涙にかるゝ水
無月の胸に氷室やとけぬらん 有あふ人も供涙の中に徳市目をこすり 私はほんぼに借銭の断りいふ
のと思ふた故 身につまされて御隠居役 首尾よふやらふと思ふたに お子迄有おつる様を アノ嶋原の


38
勤とは 夢見た様なもらひ泣 アゝお道理じや悲しかろ お茶でも一つ上たいと聞に女郎屋立上る 壺の一杓
染付の茶碗に汲むもみづしらずお慮外ながらわたしへと おつるが取て一口呑 コレ新七様さしまする 死別れする
時は水盃をするとやら 此世に居ると思ふてはな 夫有る身が何トマア 人に肌身がふれられふ 死だと思ふて
下さんせ スリヤ あの 勤してたもるか ハテ何いふもお前が大切 新七様モウ新松には逢ますまい 常々あの子
はいねが悪い程に アノ気を付けて下さんせ 何かに付けてお前のお世話 申し灸でもすへて随分と養生し
て下さんせ 煩はしやんすりやあの子も難儀 酒(さゝ)でもあがつて苦にせぬ様にコレ申 きな/\と女の様に 私
しやナ アノ 廓は気が晴て アノ気が晴て面白いと 泣ぬ顔する心根を思ひ廻してハゝわつと涙 尽せぬ折

からに サア/\かごが参りました 一番舟がモウ出ますと いふに銀助心得て 年季は二年身の代は三十両
極めの証文 是に御判と指出せば 夫婦が供に印判をおしのかたはのとぼ/\と 子に迷ひ行く さよちどり サア/\
旦那判がすんだら乗せましてと 泣入おつるを むりやりにけさ 暁の鳥かねを今ぞ別れと思ひ子の 新松
ふつと目をさまし かゝ様わしもいきたいと わつとなく子を徳市がありや灸(やいと)じや/\灸(きう)すへにと抱しめて
とゞむる涙 ゆく涙残る涙の身の代も 露の形見と 取上て見送り 見かへり「別れ行

  瑞見山飯綱(いづな)の段
宗兵衛松兵衛手を合せ ノウ大蛇様御免/\ 助給へと泣叫ば元格はふるひ声 けう大蛇が見入ては


39
迚もこちらが命が危い 惣体此海上で鮫やふかの見入には めい/\が大事の物を海へ投ると忽ち
に かやうの難を遁るゝよし 拙者は此頃法界寺の開帳で 受て来た地蔵様の御守り 龍王
へ祈りの為と投込ば 松兵衛同く守りより 二月堂の牛王を取出し投入れば 宗兵衛は只夢現 おれは仏
嫌ひ故牛王も守りも有にこそ 大事の物は此紙入小判や一歩も入れて有れど 此命にはかへられ
ぬ なむ大蛇様助てたべと 件の紙入投込ば ふしぎや大蛇はよは/\と 汐に連て跡ずさり 扨こそ
奇特が顕はれた 此間に舟を漕退けよ 船頭楫子と三人が声をはかりに呼はり/\ ヤアこりや
どふじや 此舟には船頭も居ず櫓かいもない ハテめんよふなと三人が 忙(あきれ)る中にも元格が ハテ埒も

ない二人の衆 是はほんまの海ではないわいの ほんにいか様そふじや/\ 最前塩の長次郎は 此座敷を
海にして見せふといふて樹木のかげへはいつたが 忽こんな海になつた 大蛇がこはさに気を取
れて跡も先も忘れてのけた ヤレ/\こはいめにあふた サア/\元の座敷にして 飯綱事おいて
くれ長次郎頼むと三人が 誤り入ばどこ共なく柏手ぱし/\聞ゆれば 大海忽ひかたとなり
庭の夏草おひ茂る 瑞見山の邊なる照月庵の一構 渡海作ると見へたる衣装入れ
たる車長持 三人つく/\其上に 是は/\と忙果て夢の覚たる風情也 宗兵衛はむくりをにやし エゝ
埒もない元格殿 塩の長次郎が飯綱を見せふと 京三がいから取寄て是が何の気慰み こちら


40
をいらふて遊ぶのか あたけたいなとつぶやけば元格ぶ首尾の天窓(あたま)をかき 何を致すも若旦那
辰五郎様へのお慰 御機嫌直しに何なりと品をかへてお目にかけふ ヤア長次郎/\と 呼れてはつと
木影より 羽織袴も慇懃に放下師めかぬ取廻し 松兵衛見るより眼をむき出し いかに飯綱
の法じやとて爰ら辺りを海にして こちらを大蛇に呑そふとは大それた工(たくみ)事 今の大蛇はどふし
たと まだ半分は夢心地長次郎くつ/\吹出し 大蛇の正体お目にかけふ 噲(くはい)助殿/\と よべば傍(かたへ)の
下(した)家より テンテレツクテン ヒツイヒヤリヒウヤラリと口笛の 拍子に乗てかけ出れば 三人驚き スリヤさつきの大蛇と見へしは
噲助か いかにも長次郎のいひ付て 大蛇の天窓は梨地の重箱 紅の舌と見へしは重かけの紅(ひ)縮緬

跡へ続し胴体はあづま様の青海織 金入の此帯我等が所作は此通り 頭と尾とをかう持て
テンテレツクテン ヒイヒヤリヒウヤラリつつと寄たらお前方が 色青ざめてがち/\/\御仁体な顔付で なむ大蛇様は
はねましたと いはれて三人まじめ顔 そんなら最前投込だ三色の物はどこに有 夫は残らず此方にと
袖より出し三人へ渡せば受取宗兵衛は 紙入の中改め見て 負惜みするへらず口 いか様辻放下の目くらまし
あんな事して能はづみに何に寄ず上げおろと 悪口すれば長次郎 イゝヤ淀屋のお手代殿 此長次郎も古(いにしへ)武士
の食もかぢつた者 放下こそすれけし程も盗み根性はさげませぬ 元来(もとより)飯綱をつかふ者は陀(だ:口へん)
枳尼天(きにてん)の法を行ひ 欲気が有ては勤まらぬ 御自分達の身に過たお主の金てえよふすりや


41
天地の大蛇に見入られ日月の腮(あぎと)にかゝる 異見の為して見せた 小盗するとは誰が事と 睨み付け
たる勢ひに気を奪はれてもじ/\と 手持ぶさたをくろめる元格 アゝ腹立て見せるのも長次郎が飯綱
の業 此元格が取持て 辰五郎様へお目見へさそ いか様爰は噲助が貰ふといふも飯綱の業 サア/\わつ
さり酒にして 辰様へおめ見へと いふに長次郎イヤ/\ 拙者はちと叶はぬ用事 後刻おめ見へ致しませう 辰五郎様
へよい様に お取なしをと元格に 暇乞して長次郎は旅宿をさして立帰る 折から庭の飛石伝ひ中居禿
が走来て お三人様へ辰五郎様のおしやりんす 嶋の内や新町の女郎衆や役者衆が皆見物に
見へました モウ始ふとおつしやつてじや おつと合点呑込だ モウ口上をいはせますと若旦那にいふ

ておじや サア/\噲助口上いひ おつと爰にと連出れば よし/\役人揃ふた皆々装束/\と
楽屋へ打つれ入る跡に 調子はり上げ口上も爰を晴とぞ見へにける とうざい/\ 扨此所は諸人
一代道中記の段を淀屋辰五郎いばら木屋吾妻 両人にて相つとめまする 則ち道中記
の義は瑞見山を正道山五常の峯になぞらへ 名所/\を立札にしるし置き此間を道行の
文句に綴り 則太夫は 淀屋宗太夫ワキ同じく松太夫三味線九の噲助 七墓廻り
の修行者に桂元格其外付添相勤まする様にござります 弥此所が淀屋辰五郎
いばら木屋吾妻 正道山五常の峯より心中谷迄の道行 さやうに御らふじませ


42
   諸人一代道中記(しよにんいちだいだうちうき)  ふし事
聞説(きくならく)行路難(かうろだん)は山にあらず海にあらず 人間反復の間(あいだ)に有とかや 譬を爰
に引く弓の 矢たけ心もいつしかに結ぶ妹背の山高き 五常の峯はいづく共 羅衣(らい)
錦繍の空薫(そらだき)に 踏迷ひ行六つの辻 学問堂に夜をてらす雪や蛍もかげ消て
鼓が瀧や 謡橋 舞の袂も花やかに 色取越に名を流す傾城が原衆道坂 この手橋の
裏表 俳諧門の摺物は 色や仲居にぜいたく橋 夜あるき川の流れては うかむ瀬もなき
十五塚 鉄火が原の付合も恋故沈む欲が淵 末は思ひの久離(きうり)坂 宿なし橋にすむ月も

我身の秋やてらすらん 申々 アノ辰五郎様やあづま様のおしやりんす 其様な堅い浄るりでは
道行がどふも出られぬ程に 国太夫ぶじで衒なんせといな 早いこつちやと云捨て 禿はびんしやん
走り行 そんなら松兵衛口上から云直さゞ成まい ヲツト合点じや 東西/\ サテ此所は弥辰五郎あづま
道行の段てござります 浄るりは則宮古路国太夫ぶし 両吟にて相勤まする様にござり
                                 ます

  道行若葉裳(わかばのもすそ) 宮古路国太夫ぶし   ます
月と花とは同じ詠(ながめ)でも夜半(よは)とあしたのふた思ひ 寝ても 覚ても忘られぬ 寝乱れ髪を
其儘の あづまを先に辰五郎が 手を取かはすいもせ鳥 いとしかはいの諸はがい互に見せつ見せられ


43
つ 姿のあやめかきつばた ほんにふたりが此中は どふしたまてふな神様が結ばしやんした縁じややら まだ
突出しの其夜からふと 逢初し床の内 かはいらしいと思ふ程いつど何にもえいはずに お前の帯に
手をかけて わたしがといた肌と肌じつとしめたらソレお前が ほんの事なら嬉しいと其一言が身に
しみ/\゛それからけふの今迄も 逢ぬ日迚はなけれ共 只気がゝりは移り気な 余所の女中に殺生
な 苦をさせまして下んすなと恨まじりに寄添ば 男の心は川の瀬といふたは薄雪時代の
事 身を打客は多けれど 客故女郎の紙子着たは神武以来(このかた)聞ぬ/\ アレまだあんなむり斗
いつたいお前は八幡からアノ云号の奥様が有といふ事知ながら 譬まゝたき水汲の みづし奉公に

身をさげてもお傍に居たいと思ふ故 悋気する気はなけれ共主(ぬし)よ 夫(つま)よとえいはずに 一生
日かげの身じや物と 何ぼ心で諦ても便りないやらはかないやらわたしが胸の悲しさを推量して
下さんせ 何くど/\とよしないあんじ 女護の嶋へ吹流され 女の肌にまぶれても ふかいと人
にいはれたる 浮名にぎりも有物を ぐちな/\とたはむれも人目の関に隔られ 袖をかざしの道
芝や 裳ほら/\しどけなくかふ手を引れ行ふなら何の恨も夏草の 枯果つる共二世三世
生れかはりて此様にくるり くる/\輪廻の車やどりあらそふ夕がらす 若葉隠れにちら/\/\沖の
帆かげや入日かげあすのうき身をけふ爰に 長き仇名の捨所心中谷にぞつきにけり


44
イヤ申辰五郎様(さん)お前のお手にかゝつて死れば 何にも思ひ残す事はない お前は何ぞ心残りはないかいな イヤ
もふさして心残な事もないが 禿の金弥が水揚を 人手にかけるが残念/\ エゝ悪性な憎てらしいと
悋気交りのせりふの中 鉦ちやん/\と修行者が ヤア心中見付た/\と 走り寄ば辰五郎 是は元格
悪い間じや 愁(うれへ)のせりふもいはさずに ほんにけうといとちり様と 三人笑ふが仕組の果口 引舟禿は走り
出汗を巾(ふく)やらあふぐやら 宗兵衛松兵衛立寄て 去とは出来たけうとい/\ 若旦那の所作事元格
殿の悪身 わけてあづま様見事で有たと いふにあづまはヲゝ笑止 わしやもふ随分笑ふまいと思ふ
た故 練り物に出た時より ついめをしたはいなァ イヤもふきつい御苦労じや サア若旦那打ませう

しやん/\も一つとせいしやん/\ 祝ふて三度しや/\んのしやん わつと騒ぎの最中へ 仲居がいそ/\走り出 アノ見物
の内から道頓堀の役者衆 藤田靱負(ゆきへ)様といふ女形が 辰五郎様にお目にかゝりたいとかごが是へ参りました
コリヤ面白いサア飲めるは 宗兵衛松兵衛呼にやりや ソレ吸物よ盃よとうき立所へかご舁すへ 内より
出る其姿羽織は空色縮緬に 越後ちゞみの桔梗嶋 大振袖の若衆方 元服天窓の紫
帽子 能々見れば手代新七 ヤアコリヤどふじやと人々は 顔見合せて忙れ居る 宗兵衛あざ笑ひ ヤア珎らしい新七
旦那の内を勘当しられて コリヤ又役者に成たな 但は無心か泣事か 旦那のお目通へ叶はぬ/\ ヲゝ松兵衛
がつまみ出すと 肩先取手を突放せば 辰五郎膝立直し ヤア我所で手向ひする慮外者 アゝイヤ/\


45
勿体ない 全く手向ひは致しませぬ 御意に違ひし此新七 お目通へ出まするは憚りといふ事を存ても
此形(なり) 先ず一通り聞てたべと手をつかへ もと私はかぶき役者 藤田小平次が抱へ 藤田靱負(ゆきへ)と申女形でござり
ました 所に親旦那与茂四郎様のおかげで 見受をなされ手代並の方向何が育ちが育ちなれば 算用
算勘は存ませず 何一つ御用に立て 御恩を送らふ様もござりませぬ 私が口から申もいかゞながら 律儀
一遍の役に立ず 其律儀をお見込なされ親旦那の御臨終の時お呼なされて 随分辰五郎が事
を頼む 必人に笑はしてくれなと 仰られたお詞がぞつこん此身にしみ込で どふぞ御実体(じつてい)におとなしう お家
相続なさるゝ様にと 神参りしてもあなたの御身の事斗 其奇特もなふ不行儀な御身持 御異見

申せばお気にさからひ終にはかやうに御勘当 御恩のお家へ足踏ならず心にかゝるは御身持 余所ながら
承れば段々募る奢りの数々 最早淀屋も仕廻じやと 世間の噂を聞に付け情ないやら無念なやら
此新七は男泣に泣て斗おりました 淀屋のお家は大坂でも二軒とない家筋 もしもお家に疵が付
ば 御先祖御不孝御身の恥辱 ながふとは申まい どふぞ今年一年御身持を改てたべ 御恩を受て
人と成た新七が 昔を忘れぬ此姿 皆の目からは気違共恥しらず共思しめさふが 何を申も旦那が
大切 此ふつゝかな此形でやつこ頭へ野郎帽子 かけた心にめんじられどふぞ御心入かへて ヤレ辰五郎
は奢りがやんだ 傾城狂ひもとまつたと世間の人にいはれてたべ コレ拝ますお情じや お慈悲じや


46
慈悲じやと摺寄り/\むせぶ涙に忠臣の鏡もくもるしんみの異見理りせめて 哀也 ヤアコリヤ新七のうそ
つきめ 左程大切に思ふ物がなぜ町中へおれが事を悪(わる)品に云あるき アノ金蔵に年寄から封印を
付さして 此おれに不自由をさしおる 皆是儕がした事じや 此中もアノ元格に家買てやらふと
思や 封印で金が出されぬげな 折角親が始末して溜て置れたあの金を 大事の廓で遣は
ずに むざ/\家質(かぢち)や大名借(がし)に薪ちらぞふ筈がない 間違ふた了簡で粋と呼れる辰五郎に
異見立置てくれ ナントあづまそふじやないか サアぐつ共いふて見いと しどなき詞に新七は 其お心故悪
人共の讒言を誠になされ 此新七をお憎しみ何のお前のお身持を悪品に申ましよ 是皆傍(はた)の

わんざんと 聞より宗兵衛むつと顔 わんざんいふとは誰が事じや コリヤヤイ儕がみそさゞいの様なちいさい根性
に引競べて 何じや旦那が奢らしやる こちの旦那が一年に二万両や三万両遣はしやるは こちとらが一ぱい酒
呑より軽い事じや ごくにも立ぬおとがい利かずと 足本(もと)  の明かい中(うち)きり/\とうせあがれ イヤきり/\といぬ
まいわい アゝいとしいは若旦那 何をいふてもうは気盛 そこへ付込悪人共 あらゆる奢をすゝめ込 十両入れば
元格へ面当てか 但はこちとら二人が事か 其上旦那をぬけ作といはぬ斗のむかしかた モウ堪忍袋の緖
が切れたと 宗兵衛松兵衛両方より ぶちにかゝるをはね飛せば 宗兵衛すかさず立かゝり 儕をぶつは


47
旦那の御意じや ムゝ旦那の御意とは ヲゝ旦那といふは此宗兵衛 おりや辰五郎が兄じやいやい ムゝ何と兄とは
ホゝ様子有て親人が 番頭にして置かれたれどおれは主筋 其旦那がぶつが何とゝ 首筋掴で取て投げ 旦
那の御意じやと松兵衛も踏んづ擲いつこな微塵 エゝ無念なと宗兵衛に掴かゝればおのりや是旦
那にて向ひひろぐかと いはれて儕松兵衛めと取てかゝれば おりやしらぬ 旦那の御意じや/\はやいと いはれ
てはつと身を投ふし エゝ惜しい無念なと 歯切きり/\身をふるはし何と詞も泣涙心の内ぞ不便なり
モウ/\よござる 元格が衣にめんじて了簡なされと能気味顔の挨拶に 重ねて是にこり上れ サアうせあが
ろと引立る 一間の内より女の声 宗兵衛松兵衛マア待てと とゞむる声は聞付し慥に隠居小庵様 なむ三宝

といふ中に襖押明け立出る 傾城風のだて模様せける色目をしとやかにくるは姿の八文字  頭(つむり)に似合ぬ有
様は 様子有げに見へにける 宗兵衛松兵衛忙(あきれ)顔 ヤア是は隠居小庵様 其お姿はと立寄るを 有合杖のたは
む程はつし/\と擲伏 起上る宗兵衛が胸ぐら取て引ずり引寄せ ヤイ爰な慮外者め 何じや辰五郎が兄じや
サア兄じやによつて兄といふたが何とした イヤ儕はふといやつじあなァ 人聞悪い兄呼はり 新七始あづま殿も
一通り聞て下され 身の上語るも恥しながら私も昔は新町で大坂屋の大部といはれし身 前(せん)与茂四郎
殿に受出されて 程なく辰五郎を設てより 淀屋の家の奥様 嬪婢に傅かれ 栄耀栄華の其
中にも あの子一人を大切に夫婦が中の月花と 思ふに付けて案じるは稚な子の疱瘡 八幡守りよ岸田


48
堂よと祈らぬ神も有にこそ ある時あの子が乳母が咄に 私が古郷津の国の西の宮近所に 産所村
といふ在の天一といふ 疱瘡守りの神様故其一村は疱瘡が軽い 夫故其在の者と兄弟の盃すれば 譬
海川隔ても疱瘡軽ふといふ 夫こそ幸そちが在所のどれぞよさそふな男の子と アノ辰五
郎に兄弟の盃をさしてくれと 其座で直ぐに頼だれば 乳母が在所でせんさくして連れて来るはアノ宗兵衛
其時の名は三太郎 辰五郎よりも年かあさなれば 兄にして兄弟の盃 夫より程なく軽い疱瘡 テモ咒は
有物とアノ三太郎を不便がり 仮にも兄と号た者を土かぢりはさゝれぬと 内へ引取幼少より兄弟同前
に育て上 成人さして今では番頭 家内の仕置で候と其我儘さどうらくさ 憎いやつじやと思へ共

死れし主の遺言故 目をふさいて堪忍すれば段々悪事に実が入て 真(まこと)な手代はいぢり出し 家内の
者を味方に付 あの辰五郎をそゝり上 あらゆる奢を勧め込み淀屋の家を呑ふとする 恩しらずの
大悪人 女でごそ有左程の事 しらぬえはなけれ共 何をいふても辰五郎が正体もなき心得 若しあら
立たらどの様な仇をせふも知れぬ故けふ迄はこらへて居た 此上から兄顔をしおつたら 其儘では置ぬ
ぞよ 夫に引かへ新七の段々の忠節 嘸やそなたの思やろには アノ放埒が目に見へぬか 母は異見もえ
せぬかといやらぬ心が恥しい コリヤヤイ辰五郎 今迄異見が云たふても 腹はかり物淀屋の家筋 我子なが
らも卑下をして 何の氏ない玉の輿か淀屋の家を退転さすかと 勿体ない事ながら 今では昔受け


49
出された果報がけつくうらめしい 譬貧苦にせまつても夫悲しいとは思はねど 親の歎が天へ通じ
思ひばかゞいかぬといふ かはいさ余つて此母が廿年着ぬ廓模様尼に似合ぬ紅裏は さんげの為の
此姿弁へあらば聞分けて けふより心持直し母がかういふ傾城の 昔の名をば下さぬ様に コレおとなしう成て
たも 能子じややいのと古への恥を今身に着錺て 子にぎりやます教訓は わりなくも又哀
なり 始終を聞て辰五郎は夢の覚たるごとくにて 是迄度々新七が奢り/\と申たれど 何の是は
奢な事と思はずしらずの慰みが 奢でかなござりませう 御赦されて下さりませと 身を悔みたるうき
歎 あづまも供に涙声 母御様の御腹立は皆私からことつた事 モウ堪忍して上まして下さりませ

と手を合せ真実見へたる涙なる 供にしほるゝ新七も涙払ふて手をつかへ 若旦那おでかしなされた 其誤
のお詞が 幾億万の金(こがね)にも 遥に勝りし御身の宝 申御隠居様 辰五郎様の御身持モウお気遣はござ
りませぬ ヲゝ夫は嬉しうござる そんなら是はあづま殿へ母が土産と 指出す一通手に取上 エゝ是は 私
が勤の年季証文 スリヤアノ母様此あづまは ヲゝいかにも母が千両で見受はしたれど是は内証 八幡
への聞も有れば廓通ひはふつ/\無用と 聞て二人は手を合せ アゝ冥加なき御情と嬉し涙に新七が 母御
様の御志 あだ疎に思召な イヤモウ母が嬉しさも詞には尽されぬ コリヤヤイ宗兵衛 新七も此母も昔
の姿で此様に けふ爰へ入込だは云合さねど自然の誠 子を思ふ親心と忠義に心を運ぶのは かほど


50
に割符もあふ物か そちも三太の昔を忘れず義理と恩とを弁へて是から悪心ひるがへし 辰五郎大
事に守り立て松兵衛供々淀屋の家を 繁盛さして見せてたも 元格殿のおとなしう此上は療治斗
で出入をなされ 又新七は此母が勘当致して以前の通 勘定方の手代役 松兵衛宗兵衛両人共云
分は有まいがの 段々の不調法旋盤誤り入ましたと 辰五郎始め手をつけば 母は悦びヲゝ合点がいたか嬉し
い/\ 此新七もおかげ故 御恩のお家に帰り花 サア/\めでたい/\と 波風立ず此場をば丸ふ納る発明は
ういめつらいめ功を経た それしやの果と見へにける 折からいきせき九の嶋助 表口より走り込 私は最前抜け
そして 徳やに呑でおりましたが 何やら詮議が有といふて 侍衆が大勢爰へ見へますと 聞より驚く

うろたへ眼 新七表を打ながめ アレ鉄棒(かなぼう)の音がする 極めて是は此所で人寄せなされたお咎ならん 小庵様や
辰五郎様は足弱(よは)連て岸に有 御座舟に召まして早ふ/\と気をいらてば かがなされなと引舟禿あ
づまも供に落したり サアマア是で落付た そんならわしらも一所にと 宗兵衛先へ逃出すを アゝコレとこへ
/\ 爰に居て云訳召れと いはれて四人がかッち/\ うとたへ廻る其中に 捕た/\と捕り手の大勢 所の代
官九条弥籐治 淀屋辰五郎はいづれにおつ 其外の者共も是へ出て承れ 此瑞見山において 諸
人一代道中記とあのごとくに札を立 遊び所に致す事皆辰五郎が奢の余り 其上小栗判官
より淀屋へ伝る大切のかけ物 照月の二字を取て庵号とせし事 一々具(つぶさ)に聞し召れ 縄打て引けと有る


51
お上よりの御諚意サア遁れぬ所じや辰五郎 爰へ出て縄かゝれと 聞より新七すゝみ出 此義は全く辰五郎が
存た事ではござりませぬ 此ざしきを拵へしは是成手代宗兵衛が業 人寄せ致した頭取は そちらにおりま
す桂元格 諸人一代道中記を此山に取組しは 次にならびし松兵衛噲(くはい)助 あつまと申て此新七 かやう
女形の姿に成 アノ噲助を辰五郎に致して様々の遊び事 皆辰五郎が名をかつて手代共が内
証 主人に科はふぉざりませぬと 身に引かぶる忠義の白状 ヲゝ神妙なる申訳 ソレあいつらに縄打てといふ
より早く一時に捕た/\とくゝり上 四人のやつらは縄付きながら此所に預置く村の者共番をせいと 厳しく
云付家来を呼 床(とこ)にかけたる一軸はづさせ 淀屋に伝はる大切の重宝 御前へ持参とけらいに持せ

様子をしつたる手代新七 御前へ参つて白状せい ソレ引立いの声に連れひかれ出たる縄付の跡に四人
は新七様どふそ御前でお取なし 頼まするも泣声の はがいじめならうき姿後の哀を「しらま弓

  天神お旅の段
天満(あまみつ)の神の御旅所鳥居通りの夜の雨 木影はくらき対(つい)の提燈家来を先へ九条弥籐治 合羽の
袖も紅葉がさ 縄付先に追立て はい/\/\の通り道 こかげへ寄て新七が 縄解きほどき傍を見合せ 首
尾能く参つて重畳/\ ホゝ十郎兵衛殿段々の御苦労 皆の衆も大義で有た イヤモウ久しぶりの太郎仕事
何と代官と見へませふが 見へる共/\ 此新七も驚き入た かういふ事を頼だも辰五郎様が手放した奢り


52
をばさつしやる故 四十両で貴様を頼み 皆の者が縛られたと聞かしやつたら 元臆病な生れ付 是からたとへ
宗兵衛や元格かおだてゝもよもや合点はさつしやるまい スリヤおのづから今迄の奢りもなをろと思ひ付
貴様達へ苦労をかけた マア宗兵衛や皆のやつらをちつとの間でも縛つて置のが以後迄のこらしめ 私は
是から内へいんで跡の様子を聞合す サア最前のかけ者を早ふ渡して下されと いふに十郎兵衛 其かけ物
とは何事じや ハテ下やしきに有た照月のかけ物 あれは大事の重宝故あゝして置くが気遣さに けふ
の序に取て来てと頼だ故はづしてきたではないかいの サア其かけ物こつちへと いへどい諾(いらへ)も空うそふき ヤイ
あんだらつくせ アノ照月のかけ物は 小栗殿から淀屋へ渡つた大切な重宝故 大名に指上て大金(かね)に

するはい そこを見込でけふの様なぼくの高い仕事をしたと いふに驚き ヤア何と スリヤアノ碁屋て頼もしそふ
にいふたは あのかけ物を取ふ為じやな イヤあのかけ物斗じやない 名高い淀屋の下やしき 金銀でも有ふ
かと捜したれどひたひらなか ナア皆の者うつそりとした頬(つら)を見い 此仲間へ五十両や百両のめくさり金 ふてう
すると僅(わづか)宛(づゝ) こんな事では水も飲れぬ ム スリヤ皆ぐるになつて此おれを エゝ口惜い 取かへさいで置ふかと 飛
かゝりしがハアいかにも/\其元方は商売なら取らしやるは無理ではない 取れたおれがあほうから 其かけ物を盗
れては 今迄尽した忠義もむそく 夫がなふては生きても死でも 夫さへ戻して下さつたら例ひ此身をづた
/\に割れても 御恩は忘ぬ十郎兵衛殿 十郎兵衛様拝みますと 両手を合せ惣々に 腰折り


53
かゞめどふぞ申 /\/\と降しきる 雨も涙に伏拝む 心ぞ思ひやられける ハゝゝゝコリヤ こりややい 哀や義
理を弁へて 此商売が成物かと 立蹴にはつしと蹴倒せば 起上つてスリヤどふでもかけ物が ハテ
知れた事くだつくなと 聞よりくはつとせき上て 掴かゝるを引ぱつしもんどり打で ソレ皆の者片付いと 其身
は傍(かたへ)に腰打かけ己が身過ぎの摺火燧(すりひうち) こち/\打出す石の火の 命惜まず新七は五人を相手に
根限り くんづころんづ手を砕けど 多勢を相手に只一人踏んづ擲いつ引ずられ 雨にひつたり濡鷺
の 声も涙にひい/\/\ どふぞ情にかけ物を おまへ方頼ます 戻して貰ふて下されと 又伏沈めば
ヤアめんどい まだぼやくかと引倒し 踏めよたゝけとひしめく所へ 飛脚提燈足軽く新松連れてとつ

ぱかは 来かゝる塩の長次郎 それと見るより新七か こりや何ひろくと飛かゝり 左右へ投退けほふり退
新七かこひ立たるは心地よくこそ見へにけれ アゝ兄者人遅かつた 夕部咄したおどしの方便 裏くはされ
てあいつらに 大事のかけ物盗まれた ヤア/\あのかけ物を取れたか よい/\ コリヤ新松よ とゝが
傍に付て居い ソレでもわしはこはいはいの だんない/\ 伯父がいるぞコリヤ気づかひすな/\ サアどいつも動
きあがるな ヤアちよこざいなと両方から 取てかゝるをはり飛し 無双負い投げ腰もじり しめ上しめ
付け投倒し 両の足邊(べ)や乱足 踏すべるやらこけるやらさらにわかちはなかりけり 長次郎が強力(がうりき)に
打付られて皆ほう/\ 命から/\゛逃りつたり 後に忍ぶ十郎兵衛が だまし討に切かくるを 心得かさに


54
て丁ど受とめ ハゝゝ刀(どす)ひらいたは盗人のふるせよな イヤほざいたりと切込む刀 傘さつと眼(がん)つぶし 持て開
いて抜合す 刃の光りちら/\/\星が沢辺の蛍火の雨に漂ふごとくなり 透を窺ひ盗賊か切
込刀を引ぱづし 付入受たる提燈の 明かりに顔を見合て ヤアわりや阿波の十郎兵衛 そふいふわ
れは ホイなむ三宝と提燈はつしと切落し 跡くらませて逸参に 飛がごとくに逃て行 ヤア十郎
兵衛め遁さぬと 追かけ行をコレ/\伯父様 とゝ様が息がせぬはいの ヤア/\/\と気も狂乱 新七/\ エゝ
どんなと 用意の気付取出し 口に含て コリヤ/\/\新七/\/\ヤアイと呼生けられて 心付 兄者人 エゝ無念
にござる口惜い とは云ながらかけ物は 又取かへす事も有ふ こなたにもしもの事が有ては 坊主やわしは何

としませう 相手は仲間の有やつら どふいふ方便(てだて)も計られずと いふに長次郎涙をうかめ そなたや坊
主めが苦になる故 詮議の有十郎兵衛を取逃した エゝ残り多いと打見やり コレ/\新七 淀屋の内
は大騒動 ヤア/\ シテ其騒動とは サレバ/\ 辰五郎の身の奢 金の鶏紛失迄詮議がわんざん
にて 八幡の中将様へ聞へ淀屋の内は大騒ぎ 付け立る共戸じめ共取々の取沙汰 辰五郎様やあづま様は行
衛も聞ず 安治川筋は役人衆が櫛のはを引ごとく 宗兵衛初め悪者共召捕に行との事
それをそなたにしらせたく 新松連てくるあの亀井橋の上で大勢の声はする 合点がいかぬ
と見合す内に遅なつた まだ能所へ来合したも兄弟の縁つきぬ印 辰五郎様や小庵様


55
の様子をも聞合せ 品に寄たらマア当分おれが所へ同道せふと 始終を聞程新七は かういふ事が出
来ぬ先と女房迄によきめを見せ 何ぼう心尽せしに何をいづても水の泡 数代続し淀屋のお家
成り行末が思はるゝとわつと歎けば子心に 涙催す貰ひ泣 おりやかゝ様の傍へいて ねたいわいのと泣
出せば ヲゝ道理じや/\ アノかゝはな 伯父の所へいて居るはい 頓て逢そふ泣なよと 我身の上のつら
さより 子の心根を思ひやり秋の小男鹿(さをしか)夜の露 同じ思ひに声立て 泣ぬもつらき長次郎 アゝコレ
新七ぐちな/\ 皆コレ浮世の定まり事 千騎万騎の大将でも運尽ぬれば主従親子 別
れ/\のうき難儀 こつとら風情にや有り内じや 何かなしにマア砂川へ 誰憚らぬおれが内 又嶋原

への手寄りも近い サア/\おじやと弟を 背(せな)にしつかと甥が手を引けど ひかるゝうしろ髪 親はお主を
思ひ草 子は又母を恋草の 袖は露草忍ぶ草 おのがやどりの深草へ打連てこそ 「急ぎ行