仮想空間

趣味の変体仮名

火水風災雑輯(一)50~54コマ

 

読んだ本 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592140?tocOpened=1

 

 

50

嘉永七年

「聞書 諸国大地震并出火 

京大坂堺河内紀播州丹波 丹後其外国々少々つゝの不同は

あれとも大てい同時同様の大地 震誠に稀なる珎事也

  十六日くれ方にて 七十三度

(上段)

   奈良

寅六月十四日夜八つ時ゟゆり始明六つ時迄少々つゝ

ふるひ十五日朝五つ時ゟ大地震にて町家一軒も無事な

るはなく勿論一人も家内に居る事ならず皆々野又は

興福寺其外広き明地などにて夜をあかし大道

往来の者一人もなく皆内を〆よていつれに居共不分

毎夜/\野宿にて

目もあてられぬ次第也

南方清水通り不残

家くづれ木辻四ツ辻ゟ

西十軒きり崩れ鳴川

町にて二部通りのこり

北方西手貝通りにて三部残り北半田西丁手貝通り南北

大くつれ川久保町大崩れ家二軒残る中ノ方細川丁

北向丁北風呂辻子町右三町別して大くすれ其内にも

三条通りゟ北は少々くすれ都て奈良中の大そんじ

前代未聞の大変なり

死人凡弐百五十人小児五十人けが人数しれず

古市木津も家四五軒のこる

十六日暮方までに七十三度の大地震なり

   伊賀

上の十四日夜九つ時ゟ大地震はゆりはしめ御城大手

御門大にそんじ市中は凡六戸通り崩れ四部通は菱に

なり猶又鍵の辻ゟ出火にて黒門前迄焼失に

およぶ夫ゟ嶋の原といふ所ゟ大川原といふ所迄螺の

ために一面の泥海のごとく其混乱筆につくしがたし

十六日暮方迄に七十五度の地震なり

(下段)

  郡山并に南大和

六月十四日夜九つ時ゟ少々ゆり始め八つ時に大地震柳町

壱丁目ゟ同四丁目迄家数凡卅八九軒くつれ其外

市中凡三部通り家くづれ其外奈良同様也

 死人凡百弐三十人小児十七八人けが人多し

誠にあわれ至極也是も十六日くれ方迄七十三度ゆる

一南大和ゆり出し同時けが人少々死人なし家少々

そんじくつれるほどの事もなし

  江州

六月十四日夜九つ時少々ゆり始め七つ時ゟ大地震にて

三井寺下ゟ尾花川と申所迄家数百軒余崩れ其外

せゞの城少々そんじ土山などは四五軒つゝ七八ヶ所くつれ

此内の人六部通りおしにうたれ四部は助かる又石山は別して

大寸成岩なども崩れ落殊に大そんじ其外御城下

在町大そんじ是も十六日くれ方迄大小廿六度ゆる

  勢州四日市

六月十四日夜四つ時ゆり始め六つ時ゟ大地震と成家数

三百軒余崩れ昼五つ時ゟ出火にて家数四百軒余焼失

 死人凡百四五十人しれざる人弐百人余

  越前福井

六月十三日五つ時ゟ塩町かじや町

より出火東西南北共不残焼失

其跡大風にて九十九橋ゟ二百町

斗り寺院百ヶ所両本願寺

焼失近在凡十ヶ所焼失其

晩四つ時に鎮り申候

又十四日夜八つ時ゟ大地しん

田地なども泥海と成所々の家崩れ死人凡四五十人誠に/\

其混乱筆につくしがたし十六日暮方迄に大小六十七八度ゆる

 

 

51

天保五午 二月七日 大火に附 御救小屋場所附」

「御公儀様ヨリ」此度数万の人々え

御救小屋御立被下きかつにも及はす

雨露にもうけずそのうへめい/\

御鳥目を下されし事実に

たうとく有かたき

御仁政のほど申もおそれ

多き事ながら万民よろこび

万歳をそうたひける

  一毎日御たき出し

  御用にえ深川追茶屋/\ヨリ

     持はこび いたし候

(上段)

「土橋久保町原 一ヶ所

筋違御門外 一ヶ所

常盤橋御門外 一ヶ所

数寄橋御門外 一ヶ所

幸橋御門外 一ヶ所

神田橋御門外 一ヶ所」

(二段目)

「両国広小路 二ヶ所

江戸橋 一ヶ所

八町堀 三ヶ所

築地 壱ヶ所

御小屋数 都合十三ヶ所」

右出火に付御救小屋に罷在候者又は所々難渋

之者どもへ而て合力ほ?(ど)こし召出候品飯?名前付

(下段)

天保五甲午年二月七日大火に付

御公儀様ゟ御救小屋所々え御建被成下

難有仕合に奉存候猶又此度諸町々より

両国佐久間町御救小屋えほどこしの姓名

一壱人前 たばこ 銭百文つゝ    浅草駒形内田

一壱人前 竹のかわ包 一つ宛    浅草伝法院

一壱人前 紙五帖 はし       通油町 さかなや十助

一壱人前 おはち一つ ちやわん一つ かうじ町 伊勢八

一壱人前 てぬくひ 一筋つゝ    御蔵まへ かさくら

一壱人前 銭三百文         同所 ふじさし二番組

一壱人前 どびん一つ ちやわん五つ 筋違 うちだ

一壱人前 銭三百文つゝ       佐久間町 ふしみや

一壱人前 銭七拾弐文つゝ      なまへしれず

一壱人前 銭三百文つゝ       東両国 内田 岡崎屋

一壱人前 ひもの廿枚つゝ      両国(丸に竹)

 右之通り難渋の人々え施候仁心之慮也

 

 

52

凡(およそ)世上の災(わざわひ)といへる内雷火天火等は

天の??(聖啼?)にして人力もて量(はかる)べからず

されど平生より心慮なく火をば麁

略になし其身斗にあらで其余災

他人に及事偏にいたはしからすや

嘉永戌年二月五日は朝より

嵐烈(はけしく)折から朝五つ半時麹町五丁め

裏通より失火して高貴の御館(ち)を始(はぢめ)

御はた本其外大小の御屋敷且は神社

仏客あまた類焼なしける故諸人力を

尽(つくし)防消(ふせきけす)と雖(いへとも)風強(つよく)して思はず広大に至(いたり)

冬天をこがし煙雲を染(そむる)家居は崩(くづり)音

すさまじく遠辺に聞ておびたゝし 其夜の亥刻に火は静(しづまり)て

諸人安堵の??なすと雖斯も世の煩(わづらい)とならん事其恐不少(おそれすくなからず)

我も人もつとめて火の元を大事になり殊に下人などに猶

?く示て火を敬ひつかづときはかくつちの神の恵をかふむり△下へ

上ヨリ

ツゝク△其家ます/\冨さかえて

火災をのがるゝよし古書に

見へたり其外火は人を善の

徳ありて其恩をしらず

みだりにあつかふ事ゆめ/\

有へからず是によりて

唯々世の人の為にも識ぬ

べき事と遠方の人にも

しらせん便ともならんと

図をしるし拙云を添るのみ

(図内省略)

 

 

53

「関東 類焼 大地震

「御救御小 屋三ヶ所 浅草広小路 深川海辺大工町 幸橋御見附外」

乾坤和順せざるときは陰地中に満て一時に發す是地上に地震といひ海上に津浪といふ山中に発する時は洞のぬけたるなど

皆風雨不順の為す所にして恐るべきの大事なり于茲(うじ:ここに:このたび)安政ニ年乙卯冬十月二日夜四つ時過るころ関東の国々は

地震のとゝかさることなく一時に舎坊を崩し人命を絶こと風前のともしびの如し其中に先御府内焼亡の地は千住小塚原

不残焼け千住宿は大半崩れ山谷橋はのこらす崩れ今土橋きは数十軒やける新吉原は五丁共不残焼死人おびたゞしく

田丁壱丁目弐丁目山川町浅草竹門北馬道聖天横町芝居町三町北谷中谷の寺院南馬道ゟ花川戸半町程やける山の宿町

聖天町は崩る浅草寺は無事にて雷門の雷神ゆるぎ出す広小路並木辺残らす崩れ駒形町中頃ゟ出火諏訪町黒船町御馬や

川岸にてやけどまる御蔵前茅町辺冨坂町森下辺大破東門跡恙なし茶屋橋きは新寺町新堀共少々やける大音寺ゟ

三の輪金杉辺崩れ坂本は三丁目やける山崎町東(車?)坂広徳寺前通り崩大足又は山本仁太夫矢来内死人多し家不残崩る其外寺院は

大破損亡おびたゞし○谷中三崎千駄木駒込は崩少し根津門前は大半崩池の端茅町弐丁目境いなり向よりやけ同壱丁目不残

木戸際にて留る切通し坂下大崩仲町は片側丁崩多く両かは丁すくなし御すきや町は大崩広小路東がは中程ゟ伊東松坂屋角迄

破れ多く外神田町家の分崩少し湯島天神は崩少し門前町崩多く妻恋町少しも不崩稲荷の社無事也本郷臺破

少し筋違御門ゟ日本橋通り左右神田東西共崩多し小川町本郷様松平紀伊守様板倉様戸田様やける榊原様外かは

焼神田橋内酒井雅楽頭様同御向やしき龍之口角森川出羽守様又下口は八代洲河岸植村但馬守様因州様御火消屋敷

等なり和田倉御門内は松平肥後守様松平下総守様やける近所崩れ其外丸の内御大名方所々崩多し鍋島様御上屋敷

不残やける山下御門内阿部様のこらす大崩となり夫ゟ幸橋内松平甲斐守様伊東様亀井様共やける薩州様装束屋敷崩る

霞関は諸家様大半くづれ黒田様御物見のこる永田町三間家かうじ町辺は崩少し四ツ谷市ヶ谷牛込小日向小石川番町辺

何れも損亡おほし赤坂青山麻布渋谷白銀品川高輪臺町共崩少し赤羽根三田飯倉西ノ久保は崩多し増上寺無事

○北本所は中の郷松平周防守様やける此辺大崩にて所々ゟ出火あり同所番場丁弁天小路やける其外寺院損亡多し法恩寺

町家やける亀戸町二ヶ所やける又堅川通りは桐生町緑町三つめ花町上やける又御舩蔵前町ゟ黒八名川町六間堀森下町高橋にて

留る又下口は深川相川町ゟ黒江町大崎町はまぐり町永代寺門前町八幡宮鳥居きはみて止る又乙女橋向角大川端少しやける

本所深川おしなへて地震つよく損亡おびたゝし○日本橋ゟ南東西中通り河岸通り共大崩にて南伝馬町弐丁目三丁目左右川岸

京橋川通り迄やける銀座町三十間堺尾張町辺少したるみ新橋向築地木挽町桜田久保あたご下崩れ多し芝口通り少し

露月丁崩れ柴井町やける神明町三嶋町大崩怪我人多し神明宮恙なし濱手御屋敷残すいたむ中門前片門前浜松町金杉本

芝辺崩少し田町大木戸品川宿格別の崩なし翌三日ゟ七日迄明日すこしづゝふるひけれ共別にさはることなく追々静鑑(謐?)におよひ下々へは

御救を被下置御救小屋三ヶ所へ御立被下御仁徳の御国恩を拝謝し奉らん人こそなかりけれあらありがたき

事共なり 但しお火のせつわ三十二口なれともやけるところは図のことし 火の用心/\

 

 

54

「越後 信濃国地震

「信州十郡 佐久伊那高井 埴科小縣水内 筑摩更科諏訪 安曇コゝニ記ス」

抑天地不時の変動は陰陽こんじて天にあれば雷雨となり地にいればぢしんをなす 部(分けるの意か?)神仏のおうこも是をおさむる事かたし されば此度

弘化四丁未三月廿四日夜亥の刻より信州水内郡の辺より前代みもんの大地震にて山をくつし水をふき火えん天地をくらまし人

馬の損ずる事おひたゞしえんばく地所にてかの地えんるいのもの安否をたづねなげきかなしむも少なからず仍てち名をくわしくあげ遠近に

しらせかつは後代のかたりつたへにもならんか先善光寺の辺ことにはなはだしそれ地しんといふより早くしんどうなし大山をくつし川を

うづめ土中ゟくわえんのごとき物ふき出し御殿宝蔵寺や丁屋は申に及ばずあるひはつぶれ或は大地にめり込大ばんじやく???

僧ぞくなん女ろうせうの死人あげてかぞへがたしあまつさへ地火八方にちり不残せうぼうし廿七日迄水火にくるしむ事中/\

ひつしにつくしがたし是より北のかた大峯くろひめ山戸がくし山上松北江しんかうじ福岡上の西条吉村田子平手宝?

まち小平落影小高大高柏はらしほじり赤川せき川の御関所辺ゟえちご高田御ぜう辺廿四日よりゆりはしめ廿九日

午の刻頃別してつよくゆり土蔵寺しや人家をくづし首きごふりの分ことにひどく大山はくづれ田畑をうづめ大水にておしなが

し死にんけが人多くその内長沢村と申小村にて死亡の者六七十人も是あり皆土にうづまりわづか手足のみ相みへ

是はぜんかうじより二三日おそくそうどうに及ぶ同寺よりひがしの方はこんとう宿間の御所中の御所あら木此辺ゟ百余か?ん

ことにきびしくおばすて山の名はおろか親は子をすて子は親をたづね大地におちいり火えんにまなこくらみ路はさけてどろをふき出し

近辺の山/\一同にくづれ川をうづめ此へん平地と成にげまよふ人/\やちうといひ山なりしんとう来けむりに方角をうしない谷へ落

川にはまり木石にうたれ水火になやみ牛馬のそんじおいたゞしく青木嶋大塚間嶋こしまた水沢西寺尾田中辺ゟ「はに?ろ?」

に至り松代の御城下辺きびしく度々ゆり返しにて廿九日の朝晦日の夕方迄つよくふるひ山々よりがんせきをくづし安庭むら山平

むら さらしな郡の内 両村の間に岩くら山といふ高山半面両はしくづれ一方は四十丁一方は九十丁ほどさい川の上手へおし入其辺のむら/\うづまり

こう水あふれ七八丈も高く数ヶ村湖水のごとくみなぎり平林かけ村赤しば関屋西条関屋川上下とくら中条横尾金井鼠宿

上下の塩じり村辺つよく「ちいさがた郡」秋和生塚上田御ぜうか西の方は新丁かみ小しま下小じま此辺山なり地中はらいのごとくなれは此

辺の者どもいきたる心ちなく前田手つか山田別所よねざは沓かけなら本一の沢等およそ百四十三ヶ村ほど善光寺ゟ南の方北原ふじ枝

雨の宮小嶋やしろ向八幡志川山田新山この辺山つゞき「筑摩郡に」至りほうふく寺七あらし赤ぬ田洞村おかだ町松岡あり?し水くみゟ松???

御城下きんへん百二三ヶ村ふるひつよく家居を多くたをす庄内田貫橋ちくま新町あらい永田下新上新三溝より飛騨えつちう堺松もと

より西の方「あつみ郡」五ふち犬がい小海渡し中曽根ふみ入寺所熊くら成金丁ほそがやから町とゞとき村下丁堀金むら小田井中むら

上下鳥羽すみよし長尾柏ばら七日市まゝべ此辺きつね嶋池田丁ほりの内曽根原宮本くさを舟場むら度々ゆりかはしひどくして

「さらしな郡」内小嶋はしもと大原和田下いちばかるい沢よし原竹房いま泉三水あんぞこ小松原くほでら中のうしろ町人家の損亡多し??(善光?)

寺より北の方「水内郡」小ぶせかみしろあさの大倉かに沢今井赤さは三ツ又さかいむら茂右衛門村こまだて戸がへし小泉とかり大つぼ曽根土はし小せう

小ざかいわらびの深沢山なりしんどうちうやゆり動き中にも飯山尾ぜう下きびしく大水押出し人馬多く死す善かうじゟ東の方高井郡のぶん

中じまこう高米持さかい井沢八まん矢部高なし辺「佐久郡」は小もろの御城下西はたれはら市丁本町与良むら四ツ谷間瀬追はけかり宿右?

くつかけ赤沢かるい沢峠町矢さき山あさま山上州口迄すは郡は高しまの御ぜうゟ大和高木此辺少しく此内八重原大日向ほそ谷平林ぬの引

此辺は少しつよく廿四日より善光寺辺は廿五日朝やう/\少ししづまり松代えちご路は廿五六日より廿九日晦日べつしてつよくちうやのぢしん

御代官様御地頭様よりかくべつの御手配にて水火をふせぎ人民の助けふかくも御れんみんにて米銭を御遣当有がたき事実にたい平の

御めぐみ申もなか/\おろかなり夫大ぢしんをきくに遠きいにしえはさし置中古は文禄四年豊臣ひてよし公の時代伏見大ぢしんにて京都

大仏でんをたをす慶長十八年冬京都大ぢしん寛永十年小田はら大ぢしんにて箱根山をくづし寛文ニ年京中大ぢしん寛延

四年江戸大ぢしんにて七日七夜さゆる文政十一年霜月えちごの国大ぢしん天保元年京都大ぢしん是らは人のしる所なり天地の

へんにして如此数度是ありといへども此たび信じうのぢしんはきたいの珎事なり人馬死ぼうあげてかぞへがたし凡里数三十里四四方

に及ぶしかるに当時ぜんかうじ如来

おかいちやうにて諸国より

参けいの者数万人

此大へんにあひ土地

不案内にてしんたい

くにせまりしうせう

大方ならず本堂に

かけ入御仏にすがり

一心にねんじたるもの

七百八十余人壱人も

けがなく石垣を崩し

大地割たる中に本どう

山門きやう蔵泰ぜんとして無

別条は仰ぎ尊むべしむべ

なる哉人わう三十代

欽明天皇十三年三国伝来

えんぶだごんの尊ぞうにて百さい

こくより日本に渡す時の

大臣守屋物部うじ

いたんのおしへ神明の

御心にかなはじとなんば

の池にすてさせ畢

其後信州国の十人

本田よしみつ池の

ほとりを通行なすに

池の中より金じき

の光りをはなちし

ぜんとおんしえ有て善

光を御よびとめたまへ

よしみつおどろひて池

ちうをさぐりこの

如来の尊ぞう

を得て旧きやう

しなのゝ国伊奈

郡ざこうじむら

に至り臼のうへに

あんちす然るに

れいむによつて水

内郡今の地にう

つらせ給ふ御堂は三

十六代

皇極の女帝勅願也

けいちやうニ年七月

十八日太閤ひでよし

公の命によつて如

来を京都大ぶつでんに

うつされしに如来

仏意にかなわせら

れずしば/\おん

たゝりつよく還

住のおんつげ是有

にまかせ同年八月

しなのゝ国にかへら

せ給ふ是あまねく

人のしるところ

にて日本三によらい

のだい壱なりさればこの度もかゝる

きうへんの折からに御どうつゝがなかりしは

まつたくもつて仏力のしからしむるところか

末世の利沢いちじるくかつはえんろさんけいの諸

にんもさしてけがとうすくなきよしいよ/\

しんじあほぐべき事にとそ

(図内略)