仮想空間

趣味の変体仮名

澪標

読んだ本 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2534204

 

 

1

大阪新町 細見図 澪標

 

 

3

  序

郭(くはく)くるは又大かまへ廓(ほがらか)也慶(はかる)也

民の慶(はかり)居る所也とこたつ矢倉の

やうに堅い四角な講釈なれど

其巨燵(こたつ)も美婦(たをやめ)の腰掛と見れは

あてやかにもいとめてたふ思ふ人の

来るは/\寄くるはてふ其人流は

なるべしやかの大中臣能宣朝臣(おほなかとみよしのぶあそん)

の〽うしろめた底の意(こゝろ)はしらず

して身をうちとけて任せつる

 

 

4

かなと詠し給ひしはやをとせ(八百年)余(あまり)

以前の時代あんじ過(すご)しとも

きこゆべきか娯(たのしみ)なふてはつとまらぬ

とはいそとせ(五十年)まへ浪花の濱荻(はまおぎ)

冊中(さつちう)名言唯萬物勤(たゞはんもつつとめ)の一字に

とゞまりとゞまらぬは月日の歩み

日々/\にあらたなるより新町

とは唱ふるならんとおのづから古き

名所(などころ)と成りもてゆきいよ/\

繁花の装ひを絶ず問ふたり

 

瀧の糸筋やまと機(はた)に織上し

操をたてぬき其情(じやう)の深き事

淀川のよどみなく流れて出て

浪花江の身をつくしても逢(あは)ん

とぞ思ふよりして恋わたる也と

真実(まめ)なる心に風の前の草の

なひきやすく時めく心には浪の

上の月の静りがたくたがひに通ふ

心づかひき松の精を手本として

〽人しれずうき身に茂る思ひ草

 

 

5

おもへは君ぞ種はまきけるとなん

藤原の隆房ぬしのつぶやき

給へる宜哉(むべなるかな)と世の中をひとつみ

感じて古(いにしへ)の人しあらば今を

あふぎてこひざらめかもと

思ふも何かなにはのかたつぶり

津の国にありべも  吟古市人識

 寛政こゝのつ巳を 当春月

 

  凡例

一大坂新町惣名寄の事は元禄年中

に色三味線また色里案内といへる書

に顕し其後宝永年中に懐洗濯(ふところせんだく)と

号し改正しける其以後改(あらため)怠(おこたり)しに此

四五年頻(しきり)に思ひ立新(あらたに)改正して委(くわしく)

撰(えらみ)今新町といへる已前(いぜん)の方角よち

考出し(かんがへいだし)町小名(こな)の由来迄記し廓中

名所古跡年中行事其外(そのほか)花街(くるわ)古実

古例抔(とう)まで考合(かんがへあはせ)詳(つまびらか)にす

一和漢柳陌(くるわ)の通号称号などの事は

都島原一目千軒といへる書に委

記し置(おき)ければ爰に略し勿論和漢

引用書(もちゆるしよ)目録は書(かき)のせずこれは本?

の連面にて知るへし

 

 

6

東口

はいると恋風 生をるは

とらのうそふく 店ある ゆへ歟  由縁斎貞柳

 

 

7

一諸国に花柳(くるわ)多しといへども当津

揚屋に勝りたるはなし諸構廣(しやかうひろ?)

中々筆にも書つくしがたけれども

遠国の諸客にしらしめんが為この

奥に百分一(ひやくぶいち)の絵図を顕し侍る

一昔より当所に名高き太夫多し

といへどもなかんづく諸国へ名を発し

たる分は太夫の品といへる奥へ

名をかきのせ其因縁をくはしく出(いだ)す

たとへば夕霧あづまのたぐひなり

なを故実古例其外此書にもれ

たる事は追々考出し増補を

くわゆるもの也

 

大阪新町

細見之図  澪標(みをづくし)

  品目

一廓起源(くるはのきげん)

一新町開基 并町小名因縁(しんまちのかいきならびにてうこなのいんえん)

一柳陌格式(くくるはのかくしき)

新町橋年暦(しんまちはしのねんれき)

一東西大門濫觴(とうざいだいもんのらんじやう)

一土地方角考并門/\開発(とちはうがくのかんがへ并もん/\のかいはつ)

一花街名所古跡(くるはめいしよこせき)

 

 

8

并 蕪嬶吉例(かぶらかゝのきちれい)

越中橋最初(えつちうばしのさいしよ)

櫻屋敷春興(さくらやしきのしゆんけう)

附(つけたり) 櫻井精冷(さくらいのせいれい)

松屋敷枝折(まつやしきのしをり)

観音裏随縁(かんをんうらのずいえん)

道者横町杓子掛由来(だうしやよこまちしやくしかけのゆらい)

高瀬丹羽佳境(たかせのにはのかきやう)

山家敷勝景(やまやしきのしやうけい)

蛍澤水嬉(ほたるのざはのすいき)

 

一花柳(くるは)年中行事

揚屋無双(あげやのぶさう)

一同(おなじく)座敷画図(ざしきのぐはと)

一茶屋員数(ちややのいんじゆ)

一里詞篇(さとことばのへん)

太夫品(たゆうのひん)附 一夜妻弁(ひとよづまのべん)遊女解(ゆうじよのかい)

 附 越中 総角(あげまき)

   夕霧 并引舟初発(ひきふねのしよほつ)

   吾妻(あづま) 松山

一傘印(かさじるし)

 

 

9

一長持運送 并調度通用(てうどのつうやう)

一仕着行粧(しきせのぎやうそう)并二日着(ぎ)三日着

一身請門出(みうけのかどいで)

一天神位階(てんじんのいかい)并小天神 店天神

一鹿子位部類(かこいのぶるい)

  附 月影汐相当(つきかげしほのさうとう)

一牽頭女郎情(たいこぢよらうのじやう)并芸子風俗(げいこのふうぞく)

一籬節一曲(まがきぶしのいつきよく)

一局暖簾差別(つぼねのうれんのしやべつ)

一和気称号(わけのしやうがう)

 

一禿由緒(かぶろのゆいしよ)

一呼迎女古実(よびむかへおんなのこじつ)

勧進芝居太鼓不打由縁(かんじんしばいたいこうたざるゆえん)

一夜見世繁花(よみせのはんくは)

一限太鼓作法(かぎりのたいこのさほう)

   増補之分(ぞうほのぶん)

一君粧俚評(くんさくのひへう)

一途中之式(とちうのしき)

一座敷之容儀(ざしきのやうぎ)

一呼立之大法(よびたてのたいほう)

 

 

10

一禿之利発(かふろのりはつ)

一引舟之掛引(ひきふねのかけひき)

一芸子牽頭之容儀(げいこたいこのやうぎ)

一仲居取持(なかいのとりもち) 并にかしぶりの呼出

一遊客之幽趣(ゆうかくのゆうしゆ)

一粋之弁(すいのべん)

一中古好み衣裳(ちうここのみいしやう)

一夕霧の文(ふみ) 并衣裳

一家々珎雅(ちんが)名物

一里詞篇

 

一価諸分(あたひのしよわけ)

一遊女門出之故実(ゆうじよもんでのこじつ)

一紋日定目(もんびじやうもく)

一方角大略図

揚屋茶屋名寄(なよせ)

一商人(あきんど)名物名寄

   已上

 

 

11

大坂新町 細見之図 澪標

 ◯廓起源

当津の柳陌(くるは)は往昔(そのかみ)天正慶長の頃

より諸所に遊女を抱へ渡世のみの有

しを寛永年中に今の土地を下し

おかれ諸所の遊女を一所(ところ)にあつめ

一廓(いつかく)の内に軒をならべさせ其頃木村

亦(また)次郎といへる浪人者に右廓の

庄屋年寄を被為仰付(仰せ付けなされ)永くけい

せい町と成今寛政十年までをよそ

百七十年余になる也

 ◯新町開基 并町小名因縁

前にいふごとく新(あらた)に町となりしより世人(よひと)

 

 

12

新町とよぶ惣名(そうみやう)なり亦当津にては

中(なか)といふ

 

 新町のあかしの

  ふねか汐干潟

 

 ▲瓢箪町 但南組

通り筋なり其已前道頓ぼちに

ひやうたん町とて有其所の一町元和

の頃此ところへ移せり又古老の曰(いはく)

元来伏見浪人に木村又次郎と

いへる浪人ありし由(よし)此人元木村氏

の御乳(おち)の人の子にて故ありて豊

臣家御馬印の瓢箪を伝来して

所持す故に小名(こな)と成たるよし元和

 

寛永の頃木村をかたどり木村屋又

次郎と名乗廓七町の惣支配して

玄関には武具など錺(かざ)りおきしに二

代目又次郎に相成り天和年中に

役義に障りありて庄屋年寄の役

断絶すそれまでは新町通すじを

又次郎町とよびけれども其後より改て

瓢箪町といひならはせりこれ新町

橋を越て通りすじ也

  其南ヲ▲佐渡嶋町(さどしまてう) 但南組

天正慶長の頃より上博労(かみばくらう)に有也

佐渡島与三兵衛といふ者相続の地

なりしに寛永の頃今の地に移り一廓(くわく)

の内に与三兵衛開発の縁によりて

佐渡島町とよぶ此西の一町を俗呼(ぞくよん)で

 

 

13

越後町といふ此コトは佐渡越後と並の

国の縁をとりて佐渡島町の次を越後

町とよぶ也

  其南ヲ▲吉原町(よしはらてう)但北組 片原町也

北天満郷に吉原といへるところあり

それより移す故名づくといふ寛永

年中に今の所にうつる又通筋(とをりすし)

の北を阿波座といふ

  上(カミ)ヲ▲新京橋町 但北組

  下(シモ)ヲ▲新堀町 同断

これいにしへは阿波座にありしを

慶長年中に此ところにうつさる

なり

 

  其西ヲ▲九軒町(くけんてう)但南組

此所揚屋ばかり居る也此廓始りし

とき揚屋九軒を取立たる町ゆへ

かくのごとくよぶ也又揚屋町ともいふ

根生(ねをい)の揚屋九軒町に今六軒あり

又新堀町に三軒佐渡島町に三

軒合十二軒有又其外にもあまた

揚屋有くはしくは揚屋の部に出たり

尤此町年寄は有ながらけいせい屋年

寄とは格別にて諸事五人の支

配を受(うく)るなり

  其西▲佐渡屋町 但南組

往古(そのかみ)高麗橋すじの住人に佐渡

忠兵衛といへる人有此廓開発の

 

 

14

とき打あまりの地を故あつて拝

領し一町一家敷となせりよつて

佐渡屋町と云其後忠兵衛より人手

に売渡し漸(やうやく)佐渡屋といへる名目

小名(こな)爾已(のみ)に残れり但(たゞし)此町年寄組

ともなし代々瓢箪町年寄見届

支配す佐渡屋忠兵衛といへる人

其後宍喰(しゝくひ)屋浄甫(じやうほ)松屋宗甫(そうほ)と

いへる二人へ二つに割(わり)ゆづられ又松屋

より宍喰屋へ一所にゆづり今は又

一町一屋敷也しかれども一端二つに

わかれし故今二軒役也宍喰屋は

四代つゞき夫より平の屋四郎兵衛

といへる人買得(ばいとく)し二台つゞき

其後持主だんだん替り此屋しき卅四

年已前亨保九辰年大坂大火にて

 

類焼して四十五軒の内茶屋商売

のもの借宅(かりたく)して居たりし処類焼後

槌屋家敷なり大座敷丹羽あり此

廓四筋なれ共筋の外七町にわかありあり

  ◯柳陌格式

惣体廓の内何ごとによらず往古

木村屋又次郎庄屋惣支配の格を以

今に又町の年寄下知す

  ◯新町橋年暦

西横堀順慶町筋にかゝる橋なり

往古は廓一方口にて有し其時

分には此橋なし東西の門御赦免

の後寛文十二子年にはじめてかゝる

これ廓繁昌の為にねがひしゆへ

 

 

15(図会)

 

 

16

廓中として掛(かく)る橋なれば新町ばしと

いふ則(すなはち)絵にあらはす今寛政十年迄

百廿八年に成なり

  ◯東西大門濫觴

東西大門口にむかしは番所をたえ

置(をき)けるこれは御用之節門こをかため

入込たるものをしめ出しにする事有

且又喧嘩口論あるひは狼藉もの

などを召捕る為の番所常(つね)は女

郎禿出入の改(あらため)所也承応年中

番所へつく棒さすまたじつてい

等(とう)の用心道具御赦免ありしに

亨保九辰年出火にて類焼し

其後は見えずなりにき

 

  ◯土地方角考

東は西横堀助右衛門町孫左衛門町

藤右衛門町を限り西は立売堀南裏

町南は長堀北側平右衛門町宇和島

町富田屋町かぎり北は立売堀

側助右衛門町中之町を限り東西

の大門口に各(をの/\)番所有むかしは西一

方口にてありにし明暦三酉年に

東の大門口御赦免にてそれより東西

の大門といsふ其後寛文八申年に

用心門五ヶ所御赦免なれども常は

あけずにありしに亨保九辰年

大坂類焼後吉原町の門をひらき

又宝暦四戌年京橋町北門を

ひらき同年佐渡島町東の門を

 

 

17

ひらきし也これによつて今は門五ヶ

所あり各番所(ばんどころ)有

  ◯花街名所古跡

   ▲蕪嬶之吉例

往古此新町開発の頃より通すじに

新(あたらし)屋といふ女郎屋あり此あたらしや

の末に清春尼(せいしゆんに)といへる人世渡り貧(まづしく)

して或年の暮に雑煮の餅さへ

調へかねて蕪を餅のかはりに用ひ

元朝(ぐはんてう)の祝儀おさめけり其年より

次第に繁昌して後には大分限(ぶんけん)

者(しや)と成其例にまかせ毎年雑煮に

かぶらを入れ祝儀しけるにより世人

蕪嬶(かぶらかゝ)といふ異名せり今は此家絶(たえ)

てなし

 

  ▲越中橋最初

寛文年中新町庄屋年寄をつとめ

居たりし木村屋又次郎抱(かゝへ)に越中といへる

全盛の女郎毎日揚屋入道中の刻

限には見物の老若男女貴賤くん

じゆ大道(どう)に充満し往来急にし

がたく則又次郎屋敷の裏より九軒

町へ水道にはしを掛急成ときは此

橋より揚屋入いたせし故これを号(がうし)

て世人越中橋と云古跡也今はなし

 宝治百首    為遣朝臣

  あはれは我恋に心をかけはしの

  さていつにてか たのみわたらん

 

 

18

▲櫻家敷春興 并桜井清冷

元禄年中まで通り筋に桜屋

松屋敷とて有桜屋しきといふは彼(かの)

蕪嬶と異名しけるあたらし屋清春

家敷跡に大木の桜あまた有し

九軒町あげ屋井筒屋太郎衛門

是を買得し持伝へけり毎年春毎

に桜咲頃は井筒屋の桜やしきとて花見

大臣くんじゆして甚(はなはだ)賑はしき正徳元

卯年四月八日類焼して今はなし

此庭に桜井戸とて至て清水(せいすい)有

其家家敷は通筋にあり

家集   源三位頼

御ねよりも花の木すへのひまなきは

たちやならへる峯のしら雲

 

  ▲松屋敷枝折

松屋敷といへる有これも通り筋

桜やしきのむかひ南側に吉野屋と

いふ女郎屋有其裏に大木の松有

これも見付に成ほどの樹(き)なりしゆへ

南北の名物なりこれも正徳元卯年

の出火に類焼して松さくらとも今は

なし

 玉葉集   俊頼朝臣

  松蔭のうつれる宿の池なれは

   水のみとりも千代はすむへき

▲観音裏随縁

万治寛文の頃通筋西大門口南側

 

 

19

門際の屋敷に薬師堂大宝(だいほう)といへる

三宝院派(ぼういんは)の山伏あり二間四面の堂を

建(たて)守り居たり延宝の頃彼薬師堂

を白髪町くはんおんの地へ移す彼

くはんおんも大宝所持のよし不分明(ふんみやうならす)

右門口南側の家敷を今所の人

の呼んでくはんをん裏と云

 ▲道者横町杓子掛来由

道者(だうしや)横町といふは瓢箪町東の門より

一丁目の南へ入横町也春(はる)道者(だうしや)多

く此横町和気(わけ)取の見せ付はん

じやうする故其名有又杓子掛(しやくしがけ)と

いふは東の門へ入直(すぐ)に北へゆき新

京橋町のひがし横町を云子細は

和気女郎の見せ付のむかひ水道

 

の前に今に至つても板の塀有是

はしりさきの水はじき板に似たりとて

俗に杓子掛と異名せり

 ▲高瀬庭佳境

吉原町の東に高瀬屋といへる茶屋

の庭泉水(せんすい)築山(つきやま)いたつて絶景

なりけるより諸客此所に来らざる

といふ事なし名物の庭にてあり

しに亨保年中に絶て今はなし

 ▲山家敷勝景

吉原町の西の端に茨木屋幸斎(かうさい)

といへる女郎屋の長(ちやう)ありし其住

ける庭泉水築山樹木飛石燈籠

数寄屋かこひ座敷は申におよばず

 

 

20

善つくし美つくし花やかなる事

どもなりしに亨保三戌年御咎(とがめ)にあひ

今はなし

 

延文御百首

 世のうさにかへえてはなとかすまさらん

   いかなる山のあらしなりとも

 ▲蛍沢水嬉

八九十年已前より佐渡島町裏

水道の際へ家々の庭草を掃(はき)すて

掃ためけるに右の腐草(ふそう)化(け)して蛍と成

うら/\へ散乱して宇治瀬田の由縁(ゆかり)を

おもひ出されはじめは廓中(くるはちう)の人々計(ばかり)

其頃に出見物したりけるが次第/\

蛍おびたゝしく飛かふにより大臣達

 

もいでや見侍らんと揚屋より毛氈を

取寄(とりよせ)竹床几などかけ爰に酒宴

など催したてたるとぞ水辺(すいへん)にては有

闇夜の一興いふばかりなしはじめは

水辺の塵塚にて中くは詠(ながめ)になる

ものにてはなかりしに今は一つお名所

となりたり是といふも此所繁昌

の基(もとひ)なりとおぼゆ

 ▲花柳年中行事

「正月」此里の賑ひ筆にもをよび

かたししかし大道に門松をたつる

事なしこれは御用地故通すじ町

幅せまき故一統に遠慮してかくの

ごとし横町をはじめ隣町(りんてう)はかまはず

瓢箪町すじばかり故実ありとぞ

 

 

21

「二月」初午二ノ午廿二日彼岸中

此里の紋日にて賑はしき事也

「三月」毎年春三月桜さかりの頃

よい暮方より初夜過迄通筋辻々

にてはなを売(うる)事有桜をはじめ

山吹或は牡丹芍薬百合紫陽草(あぢさい)

夏菊の時節まで売是はなはだ賑

はしく一興也

      十万堂 来山

花咲て死とむないか 病かな

「四月」八日花摘(つみ)にぎはしき也

「五月」門松に準じて通筋にのぼり

を立ず男子有家々は居宅(いたく)のうらに

立る也これも町幅せまく御用地の

 

さまたげにならざる遠慮也横町を

はじめ隣町はかまはずかくはあれとも

紋日にて諸客入つどふ事賑々し

「六月」当月中は諸所の御祓にて

取わき此里の群集(ぐんじゆ)中にも当所の

祭は仁徳天皇にて廿日廿一日両日也

ばくろ町にて殊の外の賑はひ諸

人従横(じうわう)に充満し廓中の大紋日

なり年によりねり物など出てくんじゆ

おびたゝし

「七日」七夕祭是くるわ中賑々し

     ?(灼?)刃(亦?)亭 移竹

 けいせいの大勢つれや あまの川

例年十三日朝七つ時より五つ時まで

 

 

22

聖霊云(せうれうこん)の青物市有東西の門内

通筋の両側軒下に店をはりっみや人

出所のものは勿論他所よりも買人(かいに)

来り郡をなすことすさまじ十四日

より晦日まで大紋日なり同月太夫

踊といへることあり新町太夫踊とて

むかしより仕来り踊のふりも他所のと

替りはなはだ風流なる事也これも

例年有たるに定りたることなし年々の

づりにて催す事也或は町々大道

にて町踊の事おまり又先年

佐渡島町にて踊場をかまへ木戸

を張り客一人に踊子一人宛(づゝ)揚させ

其料にて踊入用をまかなひたる

事も有此ときは客がたの取沙汰

ろしからざるゆへ中絶したりそのゝち

 

通支持にて寛保三亥年廓の内に

おどり場をかまへ女郎屋より踊子の

世話いたし踊場雑用(ざうよう)は揚屋茶屋

よりいだし見物はあげ屋茶屋より

なしでは見せず七月十五日より八朔

までにて此趣方よろしく繁昌

なりしがこれも又中絶す

又大寄(おほよせ)といふ事あり八朔まで諸方

賑々しけれど二日より秋のあはれ

を知る所を花やかなる大臣ありて

揚屋座敷において廓中の隙(ひま)

なる女郎を残らず揚切てあつめ

座敷踊を催す事也今に至り

大臣ありて大寄せの座敷おどり

有此花やかなる事筆にも及び

がたし

 

 

23

又卅六年已前盆中(ぼんぢう)には廓中家々に

燈籠を仕出(しいだ)し紙細工絹細工など

さま/\手を尽し仕けれども此内

風雅なるものありて余りおもしろ

からざる仕出しものなりとて申合(あはせ)て

やみたり

「八月」名月に女郎より客へもて

なしとて杉折出す事有花美(くはび)を

尽し或は御所車八景やかた舟

などさま/\のおもひつきにて嶋臺

にひとしき種々の造り物にてつめ

ものは蒸菓子又は酒さかなあるひは

茶箱に仕込みて送るこれ最(いと)興

ある事にて言葉に述べがたし

「九月」後の月見八月の格式に

同じ又諸所の祭ありて当月中は

 

大紋日也六月の御祓と同日の事にて

くはしくは奥の紋日定につまひらか也

   推本才麿

秋の善男はなかぬ ものなれは

「十月」亥の子の祝ひ揚屋は甚

祝ふにぎはしき事也御影講(みえいこう)十夜

これ勿論也

「十一月」此月紋日多しといへども取分(とりわき)

家々の煤払これ紋日也

  宝普斎 其角

 煤掃て寝た夜は

  女房めつらしや

「十二月」事はじめ家々の餅つき

 

 

24

節分これは別して大紋日にて廓

中の大祝にて賑々しき事云に

述がたし其余(そのよ)の紋日は奥に日限

詳(つまびらか)也

揚屋無双

諸国にくるわといへるもの多し

といへども当津の廓至て寛活

なり殊に此地の揚屋に勝りたるは

なしさればむかしの大臣達の金言

に京島原の女郎に江戸吉原の

はりをもたせ長崎丸山の衣装を

着せ大坂新町の揚屋にてあそび

たしtぴひ置たり門構(かどがまへ)先寛活

にてはながら遊席の粧ひもつとも

いさぎよし唐土(もろこし)にて紅楼(こうろう)などいへるも

 

かくはあるまじとおもはるる水楼(すいろう)と

いふも此所に叶ひたり西に海を湛(たゝ)へ

東に川をたなびき南北に遠山(えんざん)

そびへ山水の致景(ちけい)をならべ書院庭

の面(おも)の有さま中々言語にのべがたし

筆にも及びがたけれども右のつぎに

揚屋座敷を百分一の絵図にうつす

其余の揚屋は事繁(しげき)故絵図にもらす

其余のあけやものこらず太夫を始

いづれも来る茶屋へは太夫は勿論

天神迄出ず当津の揚屋軒数定(さだまり)

なし依て年々(とし/\)軒数増減あり

 九軒町井筒屋にて 油煙斎貞柳

おなしやうな情の霧も見なみより

  にしこそあきの色の極上

 

 

25

「新堀町 大和屋吉郎兵衛」

惣二かい ざしき あり

「大ざしき」「上湯殿」「水や」「かこい」「湯どの」「納戸」「小座敷」「十二畳敷」「水や」

「臺所」「玄関」「女中へや」「玄関「西ざしき」「ともべや」「西表の間」

「むかうの間」「内玄関」「西こうし」「東こうし」

 

 

26

「新町 住吉屋半次郎」

惣二かい ざしき あり (図内略)

 

27

「九軒町 井筒屋作兵衛」

 

28

「九軒町 吉田屋森左衛門」

 

29

よしだや 其二

 

30

「九軒町 住吉屋長四郎」

 

31

「九軒町 勝屋惣七」

 

32

「越後町 住吉屋重兵衛」

 

33

「越後町 津国屋彦九郎

 

34

「越後町 茨木屋次郎三郎」

 

35

「えちご町 茨木屋四郎三郎」

 

36

「えちご町 高嶋屋長次郎」

 

37

「越後町 播磨屋与兵衛」

 

38

 ◯茶屋員数(ちややのいんじゆ)

茶屋唐土の通号の事都島原

細見一目千軒といへる書にくはしく

のせたれば略す新町中に茶屋と

いへるは惣合四十五軒有是御赦免

の株也他所にちがひ当津の茶屋と

いへるは甚大きなる構にて奇麗なる

事他国の揚屋も及びがたし尤所の

作法にて揚屋と違ひに天神以下(いげ)の

女郎は茶屋へも出る也

 夕かほや酔て          はせを

   顔出す窓の穴

◯里詞篇

吉田屋といへる揚屋二軒有

      吉田屋といへるより

  • 金六万を    端の兼好といふ
  • 喜左衛門方を 中の兼好といふ

いばらき屋といへる揚屋二軒有

  • 四郎三郎方を よこ町の童子といふ
  • 政次郎方を  新宅のごとしといふ

すみよし屋三軒有

  • 彦三郎方を  新すみのえと云
  • 長四郎方を  中すみのえと云

   むかしは長四郎西の方に住吉屋

   嘉兵衛とて有それゆへ中のす見

   のえと云此二間九軒町

  • 和吉方を  よこすみのえと云

 

 

39

  • 京屋長左衛門方を  みやこといふ

又扇屋といへる家何軒もあれども

  • 三郎兵衛方を  東あふぎやと云
  • 四郎兵衛方を  西あふぎやと云

いづれも風雅成異名を呼来(よびきた)る也

今は津春の播与などゝ家名の頭(かしら)

字などにて通用するとぞ前々

のごとく風雅なる異名にて呼たき

もの也

 ◯太夫品 并 ▲一夜妻弁  ▲遊女解

廓女郎の内上(かみ)に立べきものを

太夫と称す和漢の通号の事は

一目千軒にくはしく述置(のべをき)たり昔

より遊女を一夜妻といふ号あり

 

古老の曰是今も相当せるといへるは

非也又歌の題に傀儡(くゞつ)といへるもこれ

遊女也

 六百番歌合  定家朝臣

  一夜ふす野上のさとの草枕

 むすひすてたる人のちきりを

といへるを見たれば廓女郎と異(こと)かはり

侍る歟長明が海道記に

 矢橋(やばせ)をちてく赤坂の宿を過(すぎ)むかし

此宿の遊君(ゆうくん)花のかんばせ春こま

やかにして欄室秋かうばしきや有

けり顔を潘安仁(ばんあんじん)が弟妹にかりて

契を三列史の妻妾に給へり

下略

又関の下の宿を過れば色をならぶる

 

 

40

住民は人を宿(しゆく)して主とし窓にうたふ

君女(くんじよ)は客をとゞめて夫とすあはれむ

べしちとせの契りを旅宿の一夜の

夢にむすび生涯のたのみを往還

の諸人の望にて 下略

池田の宿の遊屋大磯の虎きせ川の亀菊

などなるべしこれらを社(こそ)一夜妻とぞ

おぼゆれ是とても今いふ出女とはかはり

しかるべき遊君にてはにしへの班女(はんじよ)花子(はなご)

なり唐土(もろこし)にて遊女といへる類ひむかしは

日本にもありて

    類歌遊女恋 有家朝臣

  舩のうちにさしもうきたる契りかほ

   うらやむほどのねことありけれ

と聞え侍る今様朗詠などをうたひ

 

舞けるとなん都は水辺にうとき土地

故なし当津は水辺自由なる所

にてむかしの遊女といへる類ひ今も

川口などに見へ侍るしかれどもむかしの

遊女とは違ひ糸竹のしらべもなく只

情(なさけ)を商ふのみにて一口に論じがたし

寛文年中は当津の廓繁昌盛ん

にて名高き女郎も其頃多しなかん

づく相互に諸芸を専(もっぱら)はげみける

とぞ古人の撰(えらみ)おかれし俳諧の集物(しうもの)

にも当所太夫の発句など見へたり

左(さ)にしるす

        夕ぎり

  児の親手笠kとはぬしくれかな

    秋の子程あはれなる中に  ながと

  櫛さきに力なきこそすゝきなれ

 

 

41

花さき

  男なき寝覚はこはひ蚊帳?

   すみうかりける廓の 今さらにかなしくて

   あふしう

杜若いつ見んことそ訳なから 

  しつか

  白雨やいとしい時と憎いとき

    桃の節句を 

         もろこし

柳まけ去年のおとこのとつた髪

其外はこれを略す今も前々のごとく

何事も風雅なる事のみあるや近頃は

聞へ侍らず当津の太夫といへる

ものは中々といにしへの遊君などにも

おとらざるもの也尤さし掛傘あり

 

天神より以下傘はさしかけず太夫

限る也又いにしへは引舟つれたる事は

なかりし也

  ▲夕霧の事 并引舟初発

柳町を許命せられし原三郎左衛門

といへりし浪人は京嶋原の内女郎屋

の長となり今に至つても相続して

其家筋有今一人の林又市郎と

いへりし人是も同廓に居て女郎屋

と成天正年中より相続し来りて

扇屋四郎兵衛といへり同所桔梗屋

意得(いとく)といへるもの廓中と意味合

ありて大坂へ引越ける此あふぎやは

廓中と訳もなかりしが意得と懇意

なる故おもひ立一所に大坂へ引越ける

 

 

42

頃は寛文十二子年也此夕霧下ると

いふ噂大坂中の沙汰にてけふは下るか

明日は下るかと毎日/\川すじの見物

おびたゝし夕霧は勿論京女郎の

下るといふ歌を作りて当津名物の

まがき節を付諸人廓中に入込み

揚屋の遊びを催ふしたりかゝる事

なればいづれ京女郎の分(ぶん)ははんじやう

なりし中にも夕霧は聞しに勝りて

美艶なる事誠に芙蓉の露を

含(ふくめ)るがごとしと其頃もてはやしける

其上万芸(ばんげい)に達し行義発明言語

にのべかたしと或(ある)書記(ふみ)に見へ侍る

全盛日々にまし一時に方々の揚屋

より大臣のまねき繁ければあまり

つとめがたくて毎日鹿子住(かこい)女郎を

 

 

43

限りにや翌延宝六午年正月六日と

いへるに病床(やまいのゆか)に死す町の人おしむ

事松を離るる蔦かづらのごとし

かくても有まじければ翌七日西寺町

浄国寺に葬りける法名

  花岳芳春信女(くはがくほうしゆんしんによ)

と号(がうし)今に浄国寺に件の石塔ありて

扇屋一統絶ず年回を執行(しゆきやう)する

 源氏物語

  山里にあはれをそふるゆふきりに

  立出んかたもなき心地して

扇屋四郎兵衛二代目をあふぎや

三郎左衛門と云それより段々と相続して

今の扇屋孫七扇屋弥三郎両家

 

元祖村又一郎末にて違所(ゆいしよ)ある

家筋なり

    藤屋伊左衛門  

    扇屋夕霧     阿波鳴戸(あはのなると)

といへる音曲の作り物有此伊左衛門

といふ事跡かたもなき事也此趣向の

内に阿波の大臣といへること有此阿波の

大臣とさすことは由縁ある事也其頃の

大臣に大坂阿波屋某とて大分限

の人あり此夕霧にふかく馴染病中

も殊の外深切なる世話をよそんがら

して死(しゝ)た事と聞よりなを/\厚

恩をかけけるとぞ則九軒町揚屋

吉田屋喜左衛門方の客なりしよし

其頃かぶき芝居の立役元祖坂田

藤十郎同年二月三日より夕霧

 

 

44

名残の正月と云外題にて則藤屋

伊左衛門に藤十郎なりてけいせい買(かい)の

狂言にて大にはやりけり同年に右の

夕霧狂言を四度出し翌年正月

二日よりまた夕霧一周忌といふ狂言

を出し三年忌又七年忌十三回忌

十七回忌とてくり返し/\延宝六

午年より坂田藤十郎死去せし

宝永得丑年迄夕霧狂言

十八度出(いだ)せりこと/\く大当りにて

ありしとぞ此全く夕霧が威徳

藤十郎が妙手なるべし此事委(くはしく)は

耳塵集(にぢんしう)に出たり近代嵐三五郎 来芝

沢村国太郎 其莟 毎度大当り也          

                   鬼貫

  此塚は柳なくても あはれなり

 

  ▲越中の事

延宝年中木村(このむら)屋又次郎抱(かゝへ)に越中

といへる太夫有容色いふ斗(ばかり)なし

太夫道中の節は廓中見物の

くんじゆ押も分られずよつて歌に

いふごとく急の揚屋入にはうら道より

水道に橋をかけて通りしよし

橋に名を残せし程の事也又ある時

あげやにて我相方の客風呂へ

入らんとせしとき下帯まてはづして

いらんとせし時姿見苦しとて俄に

おもひ付湯具の緋ぢりめんの二布(ふたぬの)

をときはなしそれに紐付て与へし

より此風を越中褌といふ越中

褌は越中国より始りしとは大きなる

 

 

45

俗説なり誠に其時の大臣はもろこし

の花清宮(くはせいきう)の歓楽もかなふまじと

推しやらるれ其外此太夫につき

さま/\名の残りたる因縁あれども

事繁きゆへこゝに略す

  ▲あづまの事

佐渡島与三兵衛家代々暖簾に

「(図)佐渡嶋」かくのごとく画(え)ありしゆへに

         誰(た)がいひ初しや終(つい)に富士屋

と家号に呼びし也しかれども町にて

佐渡島勘右衛門と申たるなり

寛文年中此家の抱に吾妻と

いへる太夫ありて越中夕霧にも

ならぶほとの全盛にてありし器量

すぐれ天性位高く其上糸竹一通は

 

いふに及ばず万芸に通じ諸国の群客

我一とまみゆる事を争ふ其中に摂州

山本村に坂上(さかのうへ)与次右衛門といへる有徳人

ありけるあるとき此津に来りあづま

の名高きにひかれ九軒町井筒屋

太郎左衛門が方にて此あづまにふと

折よく逢初しより昼夜足を爰に

とゞめそれより馴染をかさね揚詰の

あそび井筒屋の座敷を建直し

やりけり此大臣与次左衛門定紋三つ柏

にて有けるより太郎左衛門が座敷の針がくし残らず柏のかな物を打し

たり結構の家造(やづくり)筆にも及びがたし

此井筒屋太郎左衛門といふ揚屋廿四五年

以前絶(たえ)はて今はなし与次左衛門建立

のざしきも終に水上の泡と消うせたり

 

 

46

大臣山本村与次左衛門を世に山崎与次兵衛

とぞいひかへたり其頃にも珎敷(めづらしき)事にて

ありしにや歌を作りあづま請だせ

山崎与次兵衛うけだせ/\山崎与次兵衛

そつこで請だせ三百両と諷ひしなり

其頃女郎の身の代三百両といへるは

めづらしき事にて今云千金の幅より

もすさまじかりし此あづま坂上氏に

なじみて後我すがたを画(えがき)て賛望

まれければ

 身はなには心はみやこ 名はあつま

  とのぶりのぼる 恋の山本

と書付送申よし今に摂津国河辺郡

山本村某に件の一軸伝来すと也

 

  寿門松(ねびきのかどまつ)

  在所駕(ざいしよかご)

などいへる作り浄瑠璃文句もみな

少づゝ由縁あること也その外よしのや

あげまき又は松山などいへる名君達

あまたありしなれどもこれを略す

遊女に取りては当津は四神(じん)相応

の地なるかや昔より日本に名をあげ

たる女郎多しあげまきに馴染し

萬(よろづ)屋助六は何国(いづく)の人や其来由末(レ点)詳(そのらいゆつまびらかならず)

松山になじみし椀久(わんきう)を元日金歳越(がんじつこがねのとしこし)

といへる浄瑠璃文句に作りたるなり

さまを見れば節分の夜殊に壱歩

豆板を入れて揚屋ざしきにて蒔(まき)

たる事有是は元禄年中大坂

玉屋某(なにがし)といひし人越後屋いばらきや

 

 

47

長左衛門方(今の助五郎 家なり)にていたされたる

事也又其頃有徳(うとく)の人竹の杖に瓢箪をくゝり

付門/\に立かる口をいひて物を乞し

瓢箪かしくといひし隠者ありたり

それと二品(ふたしな)をひとつにして作りたるは

作者の発明也其余(よ)は事繁きに

よりこゝにもらす

 源氏物語

  あげまきにながき契りを むすひこめ

   おなしところによりも あはなん

 後拾遺集    清原基輔

  契りきなかたみに袖を しほりつゝ

   すえのまつ山波こさし とは

 

(左頁は46コマの左頁と重複)

 

 

48

(右頁は47コマ右頁と重複)

 

◯傘印(かさじるし)

西つちや 西扇屋

上村屋 東扇屋

◯長持運送(ながもちのうんそう)并調度通用(てうどのつうよう)

太夫ハ 大長持

一天神ハ 中長持

一引船ハ 小長持

右大中小三通り有をの/\女郎屋の

 

 

49

定紋をしるし内には夜具并料紙筥(りやうしばこ)

乱箱(みだればこ)其外手箱等の物品々入女郎

極りたる揚屋へ女郎屋より持せやる也

此長持往古より有来る事なりしに

亨保九辰年類焼して今は大風呂

敷に包み揚屋へかようふ也

 ◯仕着行粧(しきせのぎやうさう)并二日着三日着

正月 三月 五月

六月 七月 九月

 御祓

右仕着(しきせ)は家々の格あれば爰に略す

外に二日着三日着などいふ事あり

是は此里の一風流にて客方より

つかはす事也衣装の結構はおもひ入

 

次第数も定りなし二日着と云る名目

は親方ゟの仕着は式日当日に着て

出る也二日目同じ衣装着て出るも

見苦しとて二日目の衣装はれ着

なればこれは客方より到来の衣装

にて出る三日着これにおなじこれ

全盛の女郎の花とす

 ◯身請門出(みうけのかどいで)

身請定り門出の日揚屋茶屋親方

の親類知音(ちいん)の銘々へ樽肴式は

絹織物等相添(そへ)祝儀となす又

もらひたる方よりもそれ/\の届(とゞけ)事

は其後門出名残のて家内一門

一家属あつまり料理に結構を

つくし盃事ありて揚屋より迎(むかひ)に

 

 

50(図会)

「瓢箪町」

 

 

51

来る乗物持せ来るも有かるきは竹(か)

輿(ご)被(かづき)すげ笠さま/\あり夫より

揚屋にて又盃事有此時なじみの

女郎達おもひ/\寄あつまり見送(みをくり)

の事どもあり門まで賑々しく見

送りはなやかなりし事どもいふ斗なし

此義式は大臣の威勢次第にて花(くは)

美(び)かぎりなし

 ◯天神位階(てんじんのいかい) 并 小天神 見世天神

此天神といへる職にも段々訳ありて

先(まづ)天神と計(はかり)いへる大天神なり

太夫についで揚屋斗出て茶屋

へは出ず此位の内に端(はし)小天神と

いふ有価(あたひ)も少々下直(かちよく)にてもつとも

 

半夜といふにも切て出るその次に

見世天神といへる有いづれも価は

奥に委し天神に三段あるなり

当津は京嶋原と違ひ天神職

は日傘なし雨天なれば天神も長柄

のかさをさしかけるなり亨保九辰年

類焼以後追込と名附不残(のこらず)大格子

へ出るなり但小天神已下(いか)局(つぼね)に壱人

も出る也よつて端小天神といふて

端女郎兼退(けんたい)也

     宝普斎 其門

 青柳の額の櫛や 三ヶの月

 ◯鹿子位部類(かこいのぶるい)并月影汐相当(つきがげしほのさうとう)

当津にては鹿恋(かこひ)とは書(かゝ)ず都とは違ひ

 

 

52

かこひと端(はし)とは同部ながら其中に

差別(しやべつ)有此位にすこし宛(つゝ)あたひに

諸分(しよわけ)有都嶋原にて鹿恋といづは

格子女郎の内にて端女郎より格式

よし当所のはしは小天神に号有

かこひは又引ふねと少々混雑したり

しかし当津の引ふね今にては都と

同格なり又むかしより此位のうちに

月の位新の位汐の位と訳ありて

価の高下有いづれの由縁より此位

出たるとおもへば月は一つ新は二つ

三つ汐といへる松風の諷より案(あんじ)

出したるときにて尤局へ出るときの

相当なり

◯牽頭女郎情(たいこぢらうのじやう)并芸子風俗

 

たいこ女郎といへるものは揚屋茶屋へ

よばれ座敷の興を催ふす為の者也

琴三味線胡弓はいふもさらなり

むかしは女舞などつとめしものなり

亨保年中より芸子といへるもの

出来たりこれはむかしのたいこ女郎

とは訳ちがひ三味線をおもてに立て

うらは色をおもとする也さるによつて

美女有むかしのたいこ女郎と違ひ容

義はすぐれたる有つとめかたはたいこ女郎

と同じさまなり

◯籬節一曲(まがきぶしのいつきよく)

昔のうたひものは朗詠変じて今様(いまやう)と

なり又はしほり萩(はぎ)といへるものなど

ありて白拍子(しらびやうし)遊女などこれをうたひ

 

 

53

舞かなでけるとなんそれよりはるか後

さま/\と作り唱歌出けり中興泉州

沙界(さかい)に日蓮宗の僧隆達(りうたつ)其妙を

得てこゝは山中森の下蔭月夜烏(がらす)

はいつも鳴(なく)といふ文句をみづから作り

うたひ出しけるより又大ひにはやり

花柳(くるは)は勿論町方にてもこれを

もてあそび他国までも隠れなかり

しとかやされば俳諧の発句にその

文句を立入れて趣向に迄なしたり

             伊丹 鬼貫

 秋はものゝ 月夜からすは いつも啼

明暦年中都嶋原にてなげぶし

江戸吉原にてつきぶしといへるもの

 

大小はやりけり万治年中大坂新町

まがきといへる女郎一風流のうたひ

ものを作り自(みづから)節(ふし)を附(つけ)てこれを

おこなふ此女郎生得(しやうとく)妙(たへ)なる音声

にて一曲をなしければ誠に梁(うつばり)の塵を

払ひけるとなん廓中(くるわぢう)は勿論諸所

町々にてもこれを諷はぬものはなかりし

よしこれを世に新町のまがきぶしと

いう元禄宝永の頃迄是を相伝

てありしに正徳年中より中絶して

いにしへの程は行はれずなりにき今も

当津廓の内に此唱歌に妙を得

たるもの有それに聞侍りしに都の

嶋原のなげぶしと江戸半太夫ふし

との間のものにて幽玄にて面白

歌なりされば都嶋原のなげふし

 

 

54(図会)

 

 

55

江戸吉原のつきぶし大坂新町の

まがきぶしとてこれ廓三名物也

 ◯局暖簾差別(つぼねのうれんのしやべつ)

都嶋原の局むかしは菅家の免許を

えずのうれんかくること叶はずのうれん

は柿染の布長さ四尺三幅にて

縫分に柑子(かうじ)革(かは)の爪結(つゆ)あり中頃

より末代不易の免許を得て当

時は時分にかくると有是嶋原の

古実也当津の暖簾古(いにしへ)は柿も有

空色もありし今紺染(こんぞめ)ばかりなり

紅絹(もみ)にて爪結あるは新艘(しんぞう)女郎と

いふしるし也此事そのはじめは天台

僧の衣の爪結よりおこりしといふ

説もありとかく今は新艘のしるっしには

紅絹(もみ)を付る也

 ◯和気称号(わけのせうがう)

むかしより分(わけ)といへる君(きみ)有是も十分に

あまりてはよろしからずとかく分て価

各じ宛に定ありし近代和気と

書す今にては価も鳥目にきはまり

たり奥にくはし

 ◯禿由緒

当津の禿は都嶋原のとは少しの

諸ちがひあり往着(そのかみ)平相国(へいしやうこく)清盛

六波羅に在住のとき拵へたまふ

三百人禿の餘風(よふう)にていにしへは

禿ども甚権式(けんしき)高かりしに今は昔

ほどの威勢はなけれども其余風故

 

 

56

揚屋茶屋より呼むかへに来る呼立(よびたて)

女にヲウヲウと答(こたふ)る也これ古代の

権(けん)の残りし所也といひつたふすべて

何国とても新艘の女郎は此内より

段々太夫職までにすゝむもの也

新艘出るときの嘉例(かれい)は廓に格式

ありていはふ事也

 ◯呼迎女故実(よびむかへをんなのこじつ)

正月三月五月七月九月

式日礼日(じきじつれいび)又臨時に新艘出る日

揚屋茶屋より向ひ女子とて

女郎一人に中居一人宛向ひに来る

なりこれも往古は毎日/\此格なり

しが今は漸々(やう/\)道中日斗(ばかり)なりし

是当津のくるわの古実也

 

 ◯勧進芝居太鼓不打由縁(かんじんしばいたいこうたざるのゆえん)

芝居のかはり或は勧進能相撲等

大坂町中太鼓打て廻る此類の

たいこ通り筋西の大門の手前より

打やめ立売堀へかゝるまで打ず

此義大坂中太鼓うつものゝ習(ならひ)

にていはれある事とぞくはしくは

所の人に尋ぬべし

 ◯夜見世繁花(よみせのはんくは)

此廓開発の当座夜見世なし

昼斗なりしに延宝年中より正月

より十月晦日まて夜見世御赦免

にて霜月極月二ヶ月は暮限(くれかぎり)に

東西の大門閉(とぢ)居たりしにそのゝち

 

 

57

亨保年中に又霜月極月二ヶ月

も御赦免ありて今は年中夜見世

めりて白日をあざむき繁花なる

けしきおもしろし

 ◯限太鼓作法(かぎりのたいこのさほう)

当津の廓に時のしらせを夜の亥刻(いのこく)に

曲輪中たいこうち廻る宵より入込いる

人々を此たいこを相図に残らず追出し

大門口をしめる也此太鼓を限(かぎり)といふ也

此太鼓うつ迄の廓中揚屋茶屋の

諸客ぞめきの人々のにぎはひ軒々の

掛行燈(かけあんどう)の光白日に等し

          はせを

 鹿の角先一ふしの わかれかな

 

君粧俚評(くんそうのりへう)

京の女郎に江戸のはりをもたせ長崎の衣裳を

きせて大坂の揚屋であそふべしとは古ひ云伝へ

なり尤揚屋の無双(ぶさう)はいふも更なり余国(よこく)大坂の上

にたゝん事かたし又女郎の心ばへも京の弱(にやく)なめ

のよだれをなめず江戸の剛張(つよばり)を離れ長崎の

ばか/\敷俗好みをきず やつはり大坂の女郎

に大坂の衣裳で大坂の揚屋であそふべし元来

大坂の気性変化早き土地にゝてめづらし事

のうつり早く又質直(しやうじき)の片気(かたぎ)有って離れぎわ

すみやかなる地也よつて太夫の気性もおのづ

から京江戸の中庸をとりて情深くおもしろく

是粋客(すいきやく)の愛すべきはこゝの事なるべし

 深さ知れ水の淀みの白蓮華(はくれんげ) 筍深

又女郎の情(じやう)は筆にも尽しがたしあるひは五間(けん)口

 

 

58

十間口の家屋敷を棒につふぃ廻す力づよの通ふ

事に千里も苦にせぬ麒麟も老ぬれば駑馬(どば)

におとると衰へしも其情を捨ずかくまひ救ふ

のせりふも有しよし是抔は格別の情にてまゝ

有まじき事なれども壱人是をおこなふ時

は万人其情を感じ移さぬ事もあらじ

しかしミ猥(みだり)に雑色事をせぬゆへ此廓に心中

じやのイヤむり殺しのといふ沙汰なし余の里

に異なり雲上の情おほきがゆへなり

 七夕や切った小ゆびはどの星ぞ   田勢

  途中之式

太夫途中にて逢ふ時はいかほど懇切なる客也

ともみちをかたよらず只アとばかり云て引ふね

禿のうちを客に付ケ揚屋迄送り我(われ)は行べき所

へゆきやがて事すみて客の方(かた)へ来るべしむさと

 

したしきことばをいださば威有て猛からず片頬の

笑(えみ)の其味(うま)みはいよ/\一念のおこるものなり

 雨の梅日和の柳わらひ/\ 巾絲

  座敷之容儀(ざしきのやうぎ)

太夫座敷へ通る時は余の里に異(こと)也芸子花車(くはしや)

に席をゆづらず上座して客に付そひ温潤

含蓄の体相(ていさう)は余の里の美君に比(くらぶ)れば玉と水

晶のちがひありたばこつぎをひがらあけるまで

すべて穢(けがれ)たらん事はみづから手をやらず禿を

遣ふて是を弁(わきまへ)ずいとうや/\し九夏炎熱(きうかえんねつ)の頃も

汗かゝずみづから団(うちは)つかはず禿あふげは仰(あふぎ)しだいなり

玄冬素雪(げんとうそせつ)の寒き夜(よ)も火鉢にすりよる事なし

よくも身を持(もち)なせしものなり座敷にて牽頭(たいこ)

弁慶のおかしき戯(たはふれ)多しといへども大にわらはず

まれにいさゝか片頬(ほ)にえみをふくむ事也ゆへに

 

 

59

なれ/\まらみ新客(にいきやく)は扨もつうとしたものと

心に不興もあらんかしばらくこらへ給ふべし

席酒(しゆ)闌(たけなわ)に及び錦茵(きん/\?)鴛鴦(えんおう)のふすまの中には

打rwかへての私云(さゝめこと)身をまかす感通(かんつう:まぐはう)に虚々実々

のしこなしにはいかなる孔門(こうもん)の徒(ともがら)なりともこし

骨を打ぬかすべきものなり揚約束(あげやくそく)の泊り

にはしのゝめのきぬ/\もむかひ竹駕(かご)にせかれず

暁(あけ)のむつごと今更にたつふりとくひたるもの也

 美人不相答(びじんあひこたへず) 一坐為金銭(いちざきんせんのためなり)

 莫謾愁呑酒(さけをのまんにうれたるなかれ) 閨中自有伝(けいちうおのづからでんあり)

 月夜とは別のものかや月今宵 巾絲

   呼立之大法(よびたてのたいほう)

太夫日柄約束有て揚屋に居るを外の揚屋

の客よりかりに来る事有時はちよと耳おか

しなど私云(さゝやけ)ば引ふねを跡へ残し外の揚やへ

 

かしに行(ゆき)てひまどる事あれば約束ある揚屋

の小めろ呼立に行なりあるひは爪木野(つまぎの)太夫さあ

禿衆大吉/\/\/\こわた大吉こわたよばしないは

しななどいふ太夫の名一声(こえ)禿の名五声引舩

の名二声と定たり答へはをゝ/\とばかり云此

呼立の声聞ゆれば禿太夫に音なひ帰ること

をすゝむ此時お客の心もち残多(のこりおほ)しと夕塩(ゆふしほ)の 

引とめん袖もあら浪の立かへる跡はまつかぜ

ばかりや残るらん/\

 いぬめりの春ぬめらすなうなぎ魚梁(やな)  柯(?)園

   禿野利発

幼(いとけなき)より姉女郎の世話と成り文(ふみ)の小使(こづかひ)ソレ下

駄なをせかんばり声で古いはやり歌うたふ

て歩行(あるく)をたのしみ行違ひになぶり事いへば其

返答の利発さは禅宗の小僧と棒の折る対物(ついもの)

 

 

60

なりやがてお傾城(けいせい)と成る御出世はぼうふり虫が

蚊になるとは格別の事なり

 交りを紫蘇の染たる小梅かな 秋色

 弓となる笋(たけのこ)は別のそだちかな 去来

  引舩の掛引

素顔に島田わげ黒繻子の前帯はさつはりと

風俗よきもの也新艘太夫の進退のかけ

引する故引舟と号(なづけ)る也太夫に壱人づゝ付添(つきそひ)

襟裾のつくろひより客方のかけ引まて万事

引ふねの役なりもし揚の客早く帰りし夜は

禿は三更(よなか)を限りにおき屋へ帰り後朝迎ひに

来るなり太夫は引ふねと揚屋にて寝る也

 短夜(みぢかよ)を二階へたしに上りけり 来山

   芸子牽頭野容儀(げいこたいこのやうぎ)

芸子牽頭は座席の興を催ふすものゆえ

 

三味線役者物まねあるひは舞雑興の馬かろ

より二畳廻り迄時によりそう/\゛しき事とい

へども兼て此くるわは花やかにして古風有たい

こもえり裏に紅(もみ)かけるいやみもなし別(へつし)て近年

妙林坊は其党の長老にて高名なりしが

仏道(ねんぶつだう)に入天王寺一心寺に草庵をむすび

行くひすましいたる

 名月や釈迦の牽頭は五百人 渭北

   仲居之取持

此くるわにては初ての客人は太夫を借(かつ)て見

る也此時仲居壱人づゝ太夫の名を呼(よび)て盃を

すゝめる事あり何べん見ても見あかぬ古雅(こが)に

優美なるもの也すべて仲居も姿は花やかに

おとなしく酒もよくのむなり座敷の切上(きりあげ)

床入の時分を考へはたらき多きものなり

 

 

61

又起番(おきばん)とて一夜に壱人つゝをき番して夜中

客用を弁ずるなり諸客無気(むげ)にもて得るべき

にあらず身仕舞部屋の評判に大極上上吉上

上吉の沙汰に預るべし

 早かろがやかましかろか薺(なづな)かな  立鳴

太夫仕合あつて身請相済(すみ)夫からいづくの

横町いづくのうらに住(すむ)べくと妾宅のふしん

造作の間揚屋に預られ二枚櫛も改てしま

ちりめんに後ろ帯台所の片隅で琴花お茶

よりぬひもの習ふ有様は天人(てんにん)の五衰(ごすい)にあり

てどこやらおとなしく水ぎはの立(たつ)様体(ようだい)はほめ

んに言葉なし夜ごと/\に一双の玉手千人(きよくしゆせんにんの)

枕半点朱脣萬客嘗(まくらはんてんのしゆしんばんかくなむ)とうかりしつとめも

引かへて宵から寝次第今宵は旦那の見え

やすると松の戸さゝでさゝがにのくものふる

 

 

62

まで我からだぬすみ出しといへるいましめ

ありて豪傑のする所にあらずぬきもの青(おほ)

梅(め)でちよこ/\ばしりもゆるさぬではなけれども

願くは衣服もあらため箱ちやうちんで通ひ

たきもの也此くるわにまわし男などいへる

風狂(おとこ)はなし是抔(これら)を相手に台所酒呑気(だいどころさけのむき)の粋(るい)遣ひ

は迚も床柱(とこはしら)づれにはなるまし伊左衛門が紙子(かみこ)

着て来たは大あそびの塩ふんで来た故なる

べし粋(すい)は推(すい)にておしはかりおしおよぼすを

吉粋(きつすい)と云里遊(りゆう)の万客此心を眼目(しやうね)とすべし

   粋の弁

粋(すい)は字ヨ?ニ?ハ旡

初音ハ歳不難也易文言

純粋ニ精也ト云にざつならずとも云くわし

とも云へり萬くわしきを以て粋の骨張(こつてう)と

す粋が川まくの川をはじめ粋を解(とく)事

 

おほけれは爰にあげず又仏在世にも粋あり

大通知勝仏(だいつうちしやうぶつ)は三千の御仏の中にて独(ひとり)

悟るまし成仏の因位(いんい)を得まじと願をたて

いひけり是大に悟るとやいはん粋とやいはん

よつて粋に大通の字あり爰を以て推す

時は女もべにおしろいを飾らずしておの

づから分明(ふんみやう)なる男もいやみを飾らず太平楽

をいはずして万くわしく解さばけ自若(なんともなき)の躰

なるを粋とやほめん又仁者は楽(返り点)山といふ

所にもうつるべし

 法華経二十八品之人記品を

 法眼源筆

我ねがひ人の望をみつしほに

   ひかれてうかぶ浪の下くさ

とよめるも粋の所へ引見るべし又大通仏

 

 

63

の悟りを

 開かぬも花の名はあり八ツ手花  田勢

されば花を好みて実を好さるは粋の所

へとゝかす手嶋流の本心/\と沙汰有

も粋の場なり

  中古好衣裳

太夫の着類(きるい)当代は質素を守るといへども

中古其好みの風雅なるあり一二を記す武

蔵野に金物の鐙(あぶみ)縫ひしたるうちかけあり

又金目貫(きんめぬき)尽しのぬひ有是抔着用し立

居のせつ金物ゆえすれ合(あひ)鳴音(なるおと)しておかし

かりし又仏(ぶつ)菩薩の後光尽しぬひあり

これら粋客のこのみ雅(が)にして美麗也

近代六月祭礼ねりものに大尽の羽織すひ

にをもとの実を珊瑚珠(さんごじゆ)にてぬひしたる有

 

高名の印ゆえしるす

 世の中よ独活芽鯛の眼花盛り  巾絲

   夕霧文(ゆふぎりふみ)

前に文(ぶん)をつらねて夕ぎりの万芸をあふ

ぐむべなるべし糸竹のわざは跡残る

べくもなし只文(ふみ)の残りあり其能書(のうしよ)

雅文(がぶん)小紫に肩をならべんものか左(さ)

にうつす

          ト こかれ(?)とも

かく(?)は         つとのふ

 御なつかしき かんし 

    御めに      申候

  おりから

かゝり

  候は(?)    よふそ

 

 

64

御しめし

  参らせ候〆  あさからす

なかめ参らせ候 いよ/\

かわらぬ 御やうす

何よりめてたく おもひ参らせ候

此かたとても おなしいろに

いり候 されと

このころは 口中 いたみ

 

それゆへつとめ そこはかと

成り候 とかく

  はるにては

ゆる/\とも

   御めもし なるま

          して

いよ/\すみもとは

まちわひ

申参らせ候 たつ三郎 事

なを/\

 せいたく申候

いかふおとな しう

成参らせ候 あわれ

 

 

65

はるはさう/\

    御のほり候へか し

おそく御こし 候は

    きのとくに

 そん し候

十七日       きりゟ

   八十様

    御 も と返事

 

(不完全ながら読み下し)

御なつかしき折から、ようぞ、御しめし浅からず、眺め参らせ候。

いよいよ変わらぬご様子、何よりめでたく思い参らせ候。

このかたとても、同じ色に入り参らせ候。されど、この頃は口中痛み、

それ故勤めそこはかと成り参らせ候。とかく春にしては、ゆるゆるとも

御目文字なるまじて、いよいよすみもとは(?)待ちわび申し参らせ候。

辰三郎事、尚々贅沢申し、いかう大人しう成り参らせ候。

哀れ春は早々御上り候えかし。遅く御越し候ば気の毒に存知候。

(冒頭に戻り)

ト()焦がれども拙(つたの)う感じ申し候。かくは御目に掛かり候ば(?)参らせ候〆。

(文末へ戻る)

十七日 八十様御もと返事 きりより

    (参考:水知悠之介著 「近代大阪と堀江・新町」)

 

右は奉書地にて一軸(いちじく)となり有之外黒

塗箱紐付金銀金物

(紋)  桐の戸は夕ぎり 紋のよし

ゆふきりの文 箱之上に 金粉にて

 

右書付は萩原殿御筆のよしかくいか

めしくも御染筆(ごぜんひつ)罷為成下か事傾城の

身として類ひなき事なりなことに日本国中

おさな子まても聞伝ふほどの国色(こくしよく)高

名色(いろ)の外に感ある事どもなり文(ふみ)の名

当(あて)八十殿とは阿州の客人とやら播州

客人とやら聞伝ふ

  同(おなじく)襠之模様(うちかけのもやう)

唐織

 地(ぢ)薄玉子(うすたまご) 浮紋(うきもん)鳶茶(とびちや)白糸交り

地厚くして仕立小サし裏通(うらとふり)藤色繻子

 

 

66

袖口ともなりいたつて古風に結構なり

近代の花を好みて実を不好とは格別也

 右は扇屋四郎兵衛が所持也

  家々珎雅(ちんが)名物

吉田屋喜左衛門方に夕ぎりの文あり堺何某

の方に枕の中にありしと云々文つゞき

かたし 名当は

  なか様  夕ゟ と見えたり

又夕ぎりの手道具とて料紙硯箱ある

ひは鏡抔ありいづれも高蒔絵古物なり

又夕霧追悼の巻あり凡三千章あり

其の中の一二を記す

 夕ぎりに物うくひすやむせびなき  元順

 夕への霧朝の霞消ごくら  由平

 

又柳里恭(りうりきやう)の酔書(すいしよ)一軸多し名たゝる豪粋(ごうすい)

名たゝる青楼(せいろう)席上の酔書にやあらん

  茨木屋四郎三郎方

    表の間襖狩野筆(かのゝふで)

(図)

 

 

67

同 奥座敷妻戸(つまど)に

 狩野筆(かのゝふで) 古物雅(こぶつが)也

(図)

住吉屋重兵衛方に鮑(あはび)盃(さかづき)あり自然(じねん)而妙也

(図)

住吉屋半次郎方種子島盃あり舎中(しやちう)大尽の

おくりもの也中古打われしをふたゝび長崎

 

にて阿蘭陀つぎにせし添文(そへぶみ)あり文(ぶん)略

奥に狂歌ありから崎の松の意をとりて

 住半の名をばおもはゝ種がしま

  ふたゝひわれぬためしともかな

此盃をもつて呑し強客(がうきやく)は帳(てう)にしるす也

(図)

 

 

68

住半方額李仏(がくりぶつ)大尽の自画にて雅也焼失

して今はなしといへども粋文(すいぶん)ゆえ爰に記す

(図)

粋(すい)の大いなるを以て一義に尽きゞるなり。粋の言(こと)たる酔(すい)

也。人生れてもって酔(え)わざるは有るべからず。又推(すい)やおのれを

 

推して人に及ぼすの謂い也。又水(すい)や英器(えいき)に随ふて

これ澹(たゝゆる)謂い也。又帥(すい)や元帥大将の謂い

也。又吹(すい)や」善(よ)く鼓吹(こすい)をなす者の謂い也。又

衰(すい)や一(いつ)に千金の宝財(ほうざい)を擲(なげうつ)て相減ずるの謂い也。

又陲(すい)や遠辺(えんへん)を陲(はかる?)也。総て登楼(とうろう)最も豪盛

の者、九州、奥州の人、それ、これを謂うが、大体(たいてい)

この衆義を兼ね、この呂(りょ)を知り、酔うて乱(らん)に及ばざる。これ、

これを吉酔(きっすい)と謂う。ああ、今の世、粋(すい)と称(よ)ぶ者、何(なに)

人(ひと)ぞや。

或人問て云此外すいの字あり

炊(すい)は如何(いかゞ)答て云かしくと読てふたり

手鍋を提るの意 又問(とう)錐碓垂翠(すいすいすいすい)

誰(すい)の字おの/\いかん

錐(すい)は もむがごとく腹立る客歟

碓(すい)は 粉(こ)にひくごとく利(り)づよきをいふなるべし

 

 

69

垂(すい)は 前垂の垂(たれ)の字気のつく客を

        ほむるのいひか

翠(すい)は よわひのみどりなるをさすならん

誰(すい)の一字は尤(もつとも)妙(めう)/\いはゆる誰に見しよ

とて紅粉(べに)かねつけよそのたれならん

穴賢(あなかしこ)

 右は隴易居士の八分字を以て見事に

 書おかれし也可惜(おしむべし)??今かなを以てすは

 よめやすからんため傍訓(ぼうくん)す

住半方額(がく)王義之(わうぎし)の瘞鶴銘(えいくはくのめい)を金箔の

石摺(いしずり)にして文字(もんじ)の中又金銀の石畳形(がた)あり

文は目出度文字を撰(えらひ)て并(ならべ)たち尤その中

寂寥(せきりやう)の二字あり其二字をわざと虫食の

闕字(かけじ)にしたり商売柄さびしきと読(よむ)二字を

闕(かき)たる事趣向の眼目(しやうね)なり尤住半方は李(り)

 

物子(ぶつし)を初め万翁宗匠茶雷巾絲(まんおうそうしやうさらいきんし)御苑子(えんし)抔

其外いづれも俳家(はいか)の粋客ヒイキ多かりし

故かようの粋好み物多し高嶋屋長次郎

方奥庭築山に猿の形なる石いつのほどゟ

としらずありしにふと人のきよめあが

むるより願ひ事もきくよしにて毎朝(まいてう)

里の人々参詣す中古人此石をぬすみとり

て外へもち行しにいつとなく又高嶋屋の

庭へもどりありしと云伝ふたに図す

(図)

住吉也長四郎方に能因(のういん)法師花の井(はなのい)の釣瓶(つるべ)

あり一亘り六寸ばかり丸形くりぬき木は桐

か合歓(ねむ)か内黒塗花生(はないけ)と成有高概(槻?)辺の

 

 

70

客人よりおくられしよし文に

 立寄て花の鏡にかけみれば

  まゆしろたへにわれ老にけり

右は能因法師の歌なり其井のつるべ也

といふ事をしらせう添文(そへぶみ)なり

   里詞の篇

廓中すべて太夫すと呼(よふ)是白蔵主(はくざうす)などいひ

ぬし賢主(けんしゆ)などゝあがむる言ばなり

 なませんか なんか(上の略言なり) ちよとみな

 どうでます いつこえゝな なめくさり

きらひ すかん そうじやよろ

是抔夫々家々の言葉にてわかちあり くは

しくは通ひて聞えるべし

 御もとり(御かへりと 言をいむ) もしおちかひに(門迄送りし 時のことば)

あげて筆に尽しかたし

 

 価諸分(あたいしよわけ)

太夫  六拾九匁

天神  三拾三匁

  • 朝より暮時迄 尤昼仕廻といふ  拾五匁
  • 暮より亥刻迄 尤よい仕廻といふ  弐拾弐匁五分
  • 太鼓より朝迄 尤とまりといふ   拾五匁
  • 花といふ時一切  四匁三分

 

 

71

芸子  弐拾七匁

△花といふ時 一切  三匁

牽頭持(たいこもち) 揚屋 拾六匁  茶屋 拾四匁

鹿子位送(かこいおくり)女郎  弐拾七匁弐分

  • 昼仕廻  拾弐匁
  • 一夜揚  拾七匁六分
  • 宵仕廻  拾三匁六分
  • とまり   六文目四分
  • 一切   壱匁六分

同芸子 昼揚  弐拾弐匁

      夜揚  拾三匁六分

      一切  壱匁六分

 

同店女郎  弐拾弐匁

  • とまり  七匁
  • 一切  三匁

門出揚屋 太夫銀三両

       引舩同弐両

       天神 同 同断

       芸子 同 同断

同茶屋  天神 同壱両

       芸子 同同断

同呼屋  送り女郎  同弐匁

       店女郎  同同断

 

 

72

◯遊君出門之故実(ゆうぢよもんでのこじつ)

   いにしへ此廓の東西の大門に番所

   建て遊君を他所へ出す事をゆるさず

むかし此里のたはれ女ある客にふかく

契りしがさゝはる事ありて通路もかれ/\

になり文のかえしさへせざりけれは行て今

一目見まほしくおもへども門を守るもの堅く

禁しめけるにせんすへなく関の戸を叩て泣は

水鶏かわれかなとかこち悲しみけれは其まゝ

とある心に感しゆるしていたしける其より後

門出といふ事はじまれり今は門も数多く

遊山翫水にたはれ女をいざなひ行とも

たやすくなりにける

△但し揚屋茶屋より番所へ出るよしをつげしら

せば直に帳面へ何屋の誰門出と記し置也

 

◯和気(わけ)     拾弐匁

  但見世遊びは   六分

尤右の通の値段定は酒料とも也

但見世あそび一座切抔は酒料

別の定め也

朝飯(あさはん)料理代   揚屋 三匁  茶屋 弐匁五分

?料雑用   揚屋 六匁 噂(?)弐匁  茶屋 三匁五分 噂(?)壱匁五分

蝋燭代  揚屋 壱匁六分  茶屋 同断  呼屋 八分

右の外振舞の節は諸雑用又は好み

料理は相対次第格別の事也

右定の外雑用かゝり不申候事廓

中の定目也

 

 

73

◯紋日定目(もんびでうもく)

(略)

二月 朔日 初午 二ノ午・・・外にひがん七日が間

(略)

七月・・・十四日より晦日まて

八月・・・外にひがん七日が間

(略)

十月・・・亥の子

 

十一月・・・外に家々のすゝはらひ

 

十二月・・・外に家々の餅つき節分

但し 庚申年中紋日也(かうしんはねんぢうもんびなり)

 

 

74

惣廓方角略図(そうくるはほうがくりやくづ)

(図内略)

 

揚屋之分 是は口え画図の所に名前有

之候ゆえ爰にしるさす猶くはしき

事は爪しるしに出たせり

   茶屋之分

通り筋 筒井屋仁助  通り筋 木本屋作五郎

同 京屋前右衛門   同 折屋弥兵衛

同 住吉屋八右衛門  同 備後屋半兵衛

同 松雄屋伊右エ門  同 千歳屋政五郎

同 井筒屋甚兵衛   同 魚屋伊兵衛

同 大黒屋重次郎   同 古橋屋与助

同 辰巳屋熊次郎   同 河内屋市左衛門

同 堺屋与三松    同 紀伊国屋新兵衛

同 桑名屋重次郎   同 今井屋忠次郎

同 中嶋屋惣次郎   同 大和屋市次郎

同 高嶋屋助次郎   同 上村屋利兵衛

同 天王寺屋政吉   同 大坂屋太郎兵衛

同 上林屋治助     同 葭屋藤次郎

 

 

75

越後町 堺屋吉兵衛   越後町 吉野屋九一郎

同    山田屋卯兵衛  同    八尾屋新蔵

同    住吉屋藤蔵   同    堺屋佐助

同    河内屋吉兵衛  同    戎屋与三松

あはざ  きせる屋藤次郎  同   住吉屋九郎兵衛

   呼ひ屋之分

 京屋九兵衛   伏見屋長兵衛

 池田屋善兵衛  近江屋武兵衛

右之外に百六七十軒有

   商人名よせ之分

麪類名物  をなは門きは  和泉屋太兵衛

同      同角       津国太作兵衛

呉服物現銀店 ふじ井    嶋屋市郎治

太夫油   通筋西口    廣嶋屋忠兵衛

 

三味線所  同       藤屋平兵衛

由男香油  同       和泉屋佐市

鴨川饅頭  同       麩屋吉兵衛

植木所   西口九軒   植木屋平

から風呂  越後町     清水屋治右衛門

卓机所   九軒之東   澤池庵

三徳配名物 東口     葭屋市次郎

をざゝ紅粉  同       黒屋嘉兵衛

太夫下駄  同       抜並(直?)屋利兵衛

うなぎ飯   道者よこ町  仲屋藤七

   御断申上候

爪しるし             小本全部一札 横本出来

 此書は揚屋茶屋の名所 花車 仲居

太夫 天神 引舟 禿 女郎 芸子 舞妓

法師 牽頭持にいたるまてくわしく

しるす みをつくしを前編として

此篇後篇として各々二冊を引合せ

見るべし

 

 

76

諸国 遊所 古今柳陌大全(ここんくるわだいぜん) 追て出来 全一冊

此書は唐土(もろこし)柳莟(くるわ)の起(をこり)本朝諸国免

許の遊里(ゆうり)地名(ちめう)花街(くるわ)の名物古今遊

里上古より近世に至り相続発絶(はつぜつ)の

地名を部類して和漢の古書七十有(いう)

四部を考(かんがへ)古歌を参考し其所々

由縁有事まで委しく出す

増補 新成 琴(箏)曲つるの声 いろは分横本一冊 歌数三百五十番入

此本は今世にもて遊ふ長うた端うた

手ことを集め其上新うた十二曲を

まし加え歌のかしら字のかなを

いろは分にして幼女又はこの道を

このめる人々のたよりとなるべき

必要の書也

 

都嶋原 細見図 一目千軒 全一冊 出来

浪華 畫工 靖仲庵

天明三卯正月 寛政十午再板

東都 日本橋南一丁目 須原屋茂兵衛

京都 二条通富小路西へ入 野田藤八

大坂 心斎橋北詰 和泉屋卯兵衛版