仮想空間

趣味の変体仮名

宝永千歳記 巻之五(上段のみ)

読んだ本 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2554613?tocOpened=1

 

 

27(上段を続けて読みます)

都之事(みやこのこと)

釋名(しやくめう)に曰(いわく)。国民の居所(きよしよ)を

都と云。帝王世紀に曰。大(たい)

昊(かう)宓儀(ふつき:ふくき)氏。大昊(たいひん)之(の)陳(ちん)に都(みやこ)

す。是都と称ずる始(はじめ)なり。

三代より而来(このかた)。夏(か)には夏(か)

邑(いふ)といふ。商(しやう)。周(しう)には京師(けいし)

といふ。京とは大なり。衆(おほき)

なり。大衆の居所なり。故(かるがゆへ)

に以て天子の都と名づく。

又都は美(び)也。陽松庵(やうしやうあん)が曰。都

とは何を以てか美と訓ず。

都は鄙(ひ)の対(つい)なり。鄙は田

舎なりと云云。又和朝(わてう)の

 

 

28

都は神武天皇。辛酉年(かのとのとりのとし)

正月朔日(ついたち)に。帝(みかど)位に即(つき)た

まひて。帝宅(みかどのいえ)を。大和の柏

原に経(いとなみ)始(はじむ)。それより五十代

桓武天皇の御宇(ぎよう)に。今の

山州(さんしう)華洛(くわらく)。平安城を以て。

風城(ふうじやう)の地とす。延暦三甲(きのへ)

子年(ねのとし)。五月十六日に。中納言

藤原の小黒満(こぐろまつ)等(とう)の。諸博

士に詔(みことのり)して。山背(やましろ)の国。乙(おと)

訓(ぐに)の郡(こほり)。長岡と云所に。

往(ゆき)て相(み)さしむに。帝の御(おん)

意(こゝろ)に決し給はず。同十二年

に。又小黒満左大弁。紀(き)の古(こ)

 

佐美(さみ)等に勅して。山城の

葛野(かどの)の郡(こほり)。宇太(うだ)の邑(さと)を観(み)

せしむ。即(すなはち)四神(しじん)相応の地也

と奏す。今慥(おもふ)に東に流

水あり。加茂高野の連水。

是青龍(しやうりう)に応ず。南に沢畔(たくはん)

あり。伏見竹田の広野。是

朱雀に応ず。西い大道(おほぢ)有。

九重縦横(じうわう:たてよこ)の巷。是白虎に

応ず。北に高山(かうざん)あり。上賀

茂の峯。是玄武に応ず。

抑此賀茂と申は。山城の

総祠(そうし)として。別雷(わけいかづち)の神

なり。爰をもつて。賀茂の

 

 

29

社に使をつかはし。都をうつす

のことを告しむ。六月諸国

に課仰(おほせ)て。帝都の宮門(きうもん)を造

らしむ。ついに翌年甲戌

10月二十一日。宇太の邑(さと)に

大裏(だいり)を造(つくり)成す。是則(すなはち)平

安城の帝宮(ていきう)なり。勅して

のたまわく。此都は百應不

易の地なり。かるがゆへに

安城と号す。しかるを

高倉の御宇。治正(ぢしやう)四年庚

子六月に。平相国(へいしやうこく)清盛。私(し)

意をもつて。強(おし)て。都を福

原に遷(うつす)といへども。いくほど

 

なく。平家没落して。又再(ふたゝび)

安城に帰(き)す。まことに

清盛。朝廷をあなどり。おの

がおごりを慾(ほしいまゝ)にしけん。暴悪

といひつべし。小松内府(こまつのだいふ)

重盛此悪事を諌(いさめ)かねて。熊

野権現に詣(まふて)て。命を取給へ

といのりたまふ。賢子(けんし)の所行(しわざ)

也といへども。不孝。不智。不勇。

三の罪あり。身体。髪膚(はつふ)を。

やぶり。そこなふだに。誡めぬ

るを。神にうつたへて命を捨(すつ)

べきや。神は非礼を受たま

はず。みだりにころし給へと

 

 

30

祈ればとて。神それ科なき

人を殺したまはんや。清盛

の悪事。瞽叟(こそう)にしかず。つねに

よく重盛の諌(いさめ)に。したがひ

給ふ。なんぞ争子(じやうし)となつて。

長く悪を救(すくは)ざる。世みだれ

て禍(はざわひ)の。およばん事を恐る

れとも。父母兄弟を捨(すて)て。

ひとり。まぬかれんと。する

怯弱(けうじやく)の。いたりにして。忠義

なき也。誠に桓武帝の創

草最勝(さいしやう)の地たる事も知

べし。神社評説に云。桓

武帝都お平安城に遷す

 

時。群臣。諸博士を。めして。

王都長久の事を。(せんぎ)あ

つて。八尺の土偶人(じん)を造り。

鉄の甲冑を着せて鉄(くろがね)の

弓矢を持(もた)しむ。帝みづから

祝して曰(のたまは)く。此京の守護人

とす。爰において東山(とうざん)の峯

に埋みて。西面(むき)に立たり。

今の将軍塚これなり。治承

三年七月二日に鳴動する

こと一時に三度。其後は

終に。めいどう。せずとなん。

されば国家に変あるときは。

此塚鳴どうすと。云伝(いひつたへ)たり。

 

 

31

比叡山(ひえのやま)

桓武天皇御宇(くわんむてんわうのぎよう)。延暦七年

に僧最澄伝教大師也)。始て比

叡山。延暦寺を。ひらきて。

根本中堂を建(たつ)る。同二十

三年に遣唐使を発す。此

とき伝教(でんげう)大師入唐(につとう)し同

二十四年に帰朝し給ふ。天台

の法を相伝し。名を異朝(いてう)に

残せり

▲賀茂山は。雷神也。下賀茂は

御祖神(みをやのしん)糺の宮(たゞすのみや)と申なり。

上賀茂は別雷神(わけいかづちのしん)なり。昔

賀茂健角身命(かもたけすみのみこと)のむすめ

 

玉依姫(たまよりびめ)。河辺にあそぶ時に。

丹塗(たぬり)の矢(や)流(ながれ)きたる。取て

かへり家の檐(のき)にさす。扨一

人の男子を生(うめ)り。その父を

しらんために。盃を男子に

もたせて。汝が父に与ふ

べしと。いふとき。かの矢の

前に置(をく)。この矢はず。鴨

の羽(は)なれば。其姓(しやう)を賀茂

氏とするなり。此とき男子。

われは天神(あまつかみ)の子なりと

云て。飛で天にのぼり。

雷(いかづち)と成(なる)。これ今の上加茂

なり。玉依姫も同時に。天に

 

 

32

上(のぼ)り。槻(つき)の木の下にくだり

て神となる。是いまの下

鴨なり。丹塗の矢もまた

神となる、今の松尾(まつのを)大明神

これなり。神道の家には。

大己貴命(おほあなむちのみこと)の变化なりと

申なり

▲京都の五山(ごさん)は。皆禅宗

南禅寺。瑞教山。開山。大明(めう)国(こく)

師(し)。亀山院(かめやまのいん)の勅願なり。天

海(かい)の例に準じて。五山の上(かみ)に。

居(すへ)らるゝなり

天龍寺霊亀山(れいきざん)は。夢窓(むそう)国

師の。開起(かいき)なり

 

万年山。相国寺(しやうこくじ)。開山は夢窓

国師なり。

建仁寺。東山(とうざん)の開山は千光(せんかう)

国師なり

東福寺。恵日(えにち)山の開山は聖(しやう)一

国師なり

万寿寺は。九重の内なれば。

山号なし。開山は宝覚(ほうかく)禅師(ぜんじ)

▲浄土宗の。本寺(ほんじ)

知恩院。大谷寺(たいこくじ)の開山は法然

上人なり

黒谷(くろだに)。光明寺の開山は。円

光大師なり

善道寺。井上(せいしやう)山の開山は。聖(しやう)

 

 

33

光(かう)上人也。是鎮西派と云

三鈷寺(さんこじ)の開山は。善恵(ぜんえ)上

人なり。是を西山(せいざん)派と云

永観堂禅林寺の開山は。善

恵上人なり。此寺の本尊をば。

みかへりぼとけと云

▲吉田(よしだ)此社(やしろ)は。春日大明神

を勧請するなり。貞観

中に、藤原。山蔭卿これを

建立す。一條院。永延の年。

初て奉幣使(ほうへいし)を立(たつ)。ならの

京にては春日。ながをかの

京にては大はら野。平安

城にては吉田。みな帝闕(ていけつ)

 

にちかくありて。宝祚(ほうそ)をま

もり給ふ。御神なり

神楽岡に。霹靂(へきらくの)神をまつる

事。延喜式第一に。見えたり

大原野 此山を小塩(をしほ)とそ。

文徳(もんとく)天皇の御宇に。始て

此まつりを。おこなはる。春日

と同体なり

▲鞍馬 藤(とう)の伊勢人(びと)と。云人。

常に観音を。あんぢせん

事を欲す。ある夜の夢に。

北山に白髪のおきな在(あり)

て。告ていわく。此山は。かた

ち三鈷(さんこ)に似てつねに五

 

 

34

色(しき)の雲を出(いだ)す。誠に霊地

なり。なんぢ此所に。くわん音

を。あんぢすへしと。覚(さめ)て其

所をしらず。依て常に乗

れる白馬に。鞍を置(をき)て其

行(ゆく)まゝにして尋けるに。

馬の止(とゞま)るところ。すなはちゆ

めに見し山なり。依てこの

所に大悲多聞(ひたもん)と。大慈観音

とを。あんぢす故(かるがゆへ)に。くらまと云

▲僧正谷(そうじやうがたに)は。不動明王(ふどうめうわうか)。示現(じげん)の

地なり。源の牛若此所に

て。天狗に剣術を相伝

たまふと云り

 

大徳寺。竜宝山の開山は。

大燈国師(だいとうこくし)なり。紫野(むらさきの)也

▲しちく しちく村と云所也

▲嵯峨 嵯峨天皇(さがのてんわう)の離宮

なり。奝然法師(てうねんほうし)入唐(につたう)して。

毘首羯磨(びしゆかつま)がつくりし。赤栴(しやくせん)

檀(だん)の釈迦の像を得て。帰

朝し。奏問(そうもん)をとげて。皇居

をあらためて寺とし。清涼(しやうりやう)

寺(し)と号し。釈尊を安置(あんぢう)す

愛宕山。朝日の峯。将軍地

蔵は。百済国(はくさいこく)。日羅(にちら)の霊也と

云へり。文武天皇の御宇。大

宝(ほう)年中に。役(えん)の行者。雲辺(うんへん)

 

 

35

上人と。泰燈(たいたう)の事也。始(はじめ)て此

山に入。神廟(しんべう)を建(たつ)。その後。

光仁天皇の御宇に慶俊(けいしゆん)

僧都(そうづ)。勅によつて中興す。

桓武天皇の御時。愛護(あたご)

山大権現と号し奉る

▲山崎 酒解(さかどけ)の神と申也。

沙門(しやもん)慈信(ししん)。ある夜夢に。宝(たから)

寺(でら)の観音の御(をん)つげに依て。

うつし奉る所なり

▲石清水(いわしみづ) 貞観年中の。和

州大安寺の僧。行教(げうけう)。つくし

宇さ八まんに参りし時。

大菩薩夢に見て。なんじ

 

王城に帰(かへる)べし。我もともに

行(ゆき)て。皇祚(くわうそ)をまもらんと

のたまふ。行教ふしぎに

思ひ。都にのぼる時。山崎に

いたるに。又霊夢をかふむる。

さめて東南をみれば。男(おとこ)山

鳩のみねに光あり。行

教すなはち奏聞して。

勅使を立られ。宇佐を

此ところに。勧請(くわんじやう)ある也

▲稲荷は。和銅年中に現じ

給ふ。弘法大師。東寺(とうじ)の門

前にて。明神翁(をきな)になりて

稲をになへるに逢たまひ。

 

 

36

東寺の。鎮守となせり

清水寺は。和州小嶋寺の

沙門。延鎮(えんちん)。宝亀九年四

月に。霊夢によりて。淀川

に至りて。見るに。水に金色(こんしき)

の一すぢあり。ふしぎに思

ひ。みな上(かみ)を尋もとむれ

ば。瀧のもとに一つの草庵

あり。内に老翁あり。名を

ぎやうえい居士(くじ)といへり。二

百歳もてる千手(せんじゆ)の像あ

り。是を延ちんに与へて。東

方へ飛さる。延暦十七年

に田村麻呂狩(かり)して。かの草

 

庵にわけ入。延ちんに逢(あひ)。

はじめよりの由を聞(きゝ)。あり

がたく。あもひ大同二年より。

建立し給へる。御寺(みてら)なり

祇園 御垂迹(ごすいしゃく)。素戔嗚(すさのう)

のみことなり。清和天皇

御時。貞観十一年御託

宣ありて。此地に遷(うつし)奉る。

又牛頭(ごづ)天皇とも。武答(ぶたう)天

神とも。申なり。此尊(もこと)南海

の女子(むすめ)にかよひたまひし

時。日くれければ宿をからん

とおぼしめす。其所に蘇民(そみん)

将来(しやうらい)。巨旦将来(こたんしやうらい)とて。兄弟

 

 

37

あり。一巨旦(こたん)に宿を求(もとめ)給へ

ども。借(かし)まいらせず蘇民

貧(まどし)けれ共。借(かし)もてなした

てまつる。其御報恩に。蘇民

が子孫は。疫癘(えきれい)をのぞかせ給(たまふ)。

巨旦は金神(こんじん)とて今におそ

ろしき方(かた)の神也。稲田びめ

又はり女は年(とし)徳神(とくじん)也。八王子を

はします。へうび。わうばんなど。

と申。八将神(はつしやうじん)是なりと云々

▲比翼連理 長恨歌(ちやうごんか)に云(いわく)。

七月(ふつき)七日(なぬか)長生殿。夜半無(ひと)

人(なし)。私語(さゝめごと)せし時。天に在(あら)ば

願(ねがはく)は比翼の鳥と作(なら)ん。地に

 

在ば願は連理の枝と作ん。

と作れり。又大かゞみの歌

に。生(いき)ての世。しゝての後の

のちのよも。羽をならぶる鳥

と成(なり)なん。又秋になす。ことの

はだにもかはらずは。我も

かはせる枝となりなん。山海(せんがい)

経に云(いわく)。崇吾山(しうござん)に鳥あり。

そのかたち鳬(かも)のごとくにし

て。一の翼一の目。相得て乃(すなはち)

とぶ。名付て蛮々(らん/\)といふ。見(あらは)

るゝときは。天下大水出る

と云り。注にいわく比翼

の鳥は色青く赤し。鴟𩾵(めな:めれ?)

 

 

38

ならばざれば。飛(とぶ)こと。あたはず。

爾雅(じが)に曰。東方に比目魚あ

り。ならばされは行(ゆか)ず。其名

を鰈(てう:かれい)と云。南方に比翼の鳥

有。此(ならば)ざれば飛ず。其名を

鶼(けん:かためどり)と云とあり

連理の枝と云ことは。捜神記(そうしんき)

に曰。宋の時。太夫(たいふ)韓馮(かんひう)といふ

人の妻。其容(かたち)はな/\美し。

康王(こうわう)これを奪(うばふ)。馮(ひやう)うらむ。

王これに因て。論じて城旦(せいたん)

と為(なす)。妻ひそかに馮に書(しよ:ふみ)を

つかはす。其辞(ことば)に曰。其雨(あめ)陰(いん)

陰(いん)たり。河(かわ)大(おほひ)にして水深し。

 

日出(いで)て。心(むね)に当(あた)ると。王其

書(ふみ)を得て。左右(さう)の臣にとひ

たまふ。其意(こゝろ)を解(とく)ものなし。

蘇賀(そが)といふ臣いわく。其雨

陰々たりとは。愁(うれへ)て旦(また)思(おもふ)を

云なり。河大にして水深し

とは。往来(ゆきゝ)を得ざる也。日出(いで)て

心(しん)に当るとは。死の志し有

なりと。俄にして馮すなはち

みづから殺(しぬ)。其妻すなはち

ひそかに。其衣(きもの)を腐(くた)す。王

これと与(とも)に。臺(うてな)に登るに。妻

ついに身を臺の下に投(なぐ)る

左右の人衣(きもの)を捉(とらへ)て。止(とゞ)めん

 

 

39

とすれども。衣(きぬ)腐(くち)て手に

とまらずして死す。書(ふみ)を。の

こして曰。願(ねがはく)は屍骨(しかばね)をもつて。

馮(へう)と合(あわ)せ葬(ほうふり)たまへと。王怒(いかり)

て相向(むかひ)に分(わけ)て。埋(うづ)ましめて

曰。なんぢ夫婦相思(おもふ)。もし此

塚相合(あひあは)ば。我阻(へだ)てじと。いく

ほどなく。二の塚の端に、各々

梓木(あづさのき)生じて互に屈(かゞま)りて

相枕(あいつく)。根は下(しも)に交り。枝は上(かみ)に

錯(ましは)る。遂に其木を号して

相思樹(あいおもふのき)と云

▲虞公(ぐこう) 漢に虞公と云もの

あり。善(よく)歌ひ。能(よく)梁(むねき)のうへの

 

塵をして。起(たゝ)しむと。杜子(とし)

通典(つうてん)に見えたり

▲秦青(しんせい) 列子(れつし)曰。薛譚(せつたん)歌を

秦青に学ぶ。未(いまだ)秦青か技(わざ)

を窮(きわめ)ずして。みづから是を

尽すとおもへり。遂に辞し

帰る。秦青とゞめず。郊衢(こうく)

といふ所にて。餞別(はなむけ)して節(せつ)を

撫(ぶ)して。悲(かなしみ)歌ふ。声林の木

に振(ふる)ひ。響行雲(ゆくくも)を遏(とゞ)む。

薛譚(せつたん)すなはち反(かへら)んことを

求(もとむ)ることを謝(しや)す。身を終(をふ)る

まで敢て帰らんことをいはず

▲魯陽戈(ろやうがほこ)と云は。魯陽公(ろやうこう)韓と

 

 

40

戦(たゝかふ)て既に勝利を得んとす

る時漸く日西にかたむく 陽

戈(ほこ)を援(ふつ)て揮(まねき)しかば日為(ため)に

反(かへ)ること三舎(さんしや)ついに勝(かつ)ことを得(うる)

と云云

西施(せいし)は美人なり。其家西に

あり。心(むね)痛(いたむ)ことを煩ふ時に。心(むね)を

推(をさへ)て。顔を顰(しかめ)て傷(いた)む。其容

なを美しと。人皆ほめければ。

東隣の東施(とうし)は。天下の悪女

なりしが。西施をうらやみて。

我も些(ちと)。顔を顰て見るべし

と思(おもひ)て顰たれば。いとゞ醜き

面(つら)が猶あしく成しと也

 

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