仮想空間

趣味の変体仮名

忠太平記大全 巻之四

 

読んだ本 https://www.nijl.ac.jp/ 忠義太平記大全


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忠義太平記大全巻之第四

 目録
大岸由良之助父子上がたにのぼる事
 大野木生野宇治の名所見物の事
 大岸力弥大野生野を討たんと儀する事

大野木生野天命につきぬる事
 大野木十郎兵衛飢死にの事
 生野正賢生死しらざる事


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一家より間者を上がたにのぼさるゝ事
 由良之助親子色里にかよふ事
 石坂善五むすめをとりかへす事

四条宮河納涼(だふれやう)の事
 由良之助恥辱をかうふる事
 一家より間者かまくらに帰る事

由良之助盟約の連判をやぶる事
 溝部弓兵衛が妻忠心ふかき事
 弓兵衛夫婦山科におもむく事


忠義太平記大全巻之第四
 大岸由良之助父子上がたにのほる事
およそ君のためには。身を塵中にひそめ。名を卑賎
にけがし。千難万苦におち入りても。忠臣の本懐
をとぐるは、人の人たる所以なり。されば大岸由良之助以下
のものどもは。いそがぬ日数あけくれて。卯月のなかば
すぎしころ。すみなれし故郷を。すご/\とたちわかれ。あ
るいはしらぬなみ地にうかれて。孤舟(こしう)のあやしきに袖を
ぬらし。あるひは行路を草鞋(さうがい)にまかせて。野経(やけい)のつゆ
にもすそをしぼり。遠(えん)山のくもをわけて。万仭(ばんじん)のたに
をのぞみ。きもをけしむねをひやす。時うつりことかはり。
うきをならひの世の中とは。かねてしりぬることなが


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ら。殊さらゆめ共うつゝとお。わけかねたるぞあはれなる。
中にも大岸由良之助夫婦は。力弥以下。いとけなき子
共をともない。みやこのかたへのぼりけるが。往時をおもへば。
茫然としてゆめのごとく。あまりかなしさもやるかたなさ
に。由良之助かくぞおもひつゞけゝる。
 さきだちし。君がなこりのしたはれて
  みちしほまさる。わかたもとかな
まことに群難身にせまり。欝憤っむねをせむれども。さ
すが文武のものゝふや。矢猛(やたけ)ごゝろのかひもなく。君は
なき名となりたまひ。武運のほども月ゆみの。はり
ま灘よりふなよそひ。そこともしらぬなみまくら。八十嶋
かけてこぎ出し。はるかにあとをかへりみれば・巨城(こじやう)はむな

しく。煙雨のうちにそばだちたり。むかふは蒼海冥朦
として。万里の帆風天にさかのぼる。げにや故君世にま
しませしいにしへは。甘寧がにしきのともづなをとき。蘭
の楫かつらのさほ。南海の月にふなばたをたゝき。粋に
和し興に乗ぜしに。今一葉(よう)のふねのうちには。恩賜
の袖をかたしきて。波のうへとまのそこ。ことわりしらぬ
なみだの雨に。月さへくもりがちなれば。明石のうらも名
のみして。世にすみわびし須磨のあま。わぶとや人を
わくらはに。とふか雲井のほとゝぎす。こえばかりこそむか
しなれ。孤舟一夜東帰(とうき)の客。泣て春風にむかふと。唐の
李捗が作りたる。空?灘の旅中の吟も。おもひの
こさぬゆふべかな。和田の御崎をこぐふねの。かた帆にひく


74(挿絵)


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や武庫のはま。しほたれまさるたびごろも。日もかさ
なりてゆくすえの。身ははた何となにはがた。よしあし
ごともむつかしの。みやこは人目もつゝまじと。世を宇治田原
のかたほとりに。しばしはしのびすみにけり。日ごろ耳
にきゝふれし。宇治の勝景も。今さら住どころと
なりて。おもへば人はしれぬものぞと。一子力弥をともなひ。
宇治の平等院。槙の嶋。山吹のせ。こまつなぎの松。源三
位より政が。むかしのかたみにあふぎの芝。興正寺。黄(おう)
檗山(ばくさん)など。こゝかしこの勝地佳景。ふでにもおよびがた
かりしを。かなたこなた見ありきしに。国本にての相家老
約盟の棟梁にて。一番にはづしたる。大野木十郎兵衛。
生野正賢と同道して。ふかあみがさにてとをりたり。力弥

はやく見つけ。あれ御覧ぜよ。こしぬけの大将。大野木生
野両人。かれらも上がたへのぼりしにや。当地見物のため。
来りしと見えて候といふ。由良之助きいて。げにもそれならん
とはおもへども。あみがさふかくかぶりたれば。たしかにそれ
共いひがたし。人たがへにてやあるらんといふ。力弥かさねて。
いや/\見そんじは仕らず。あれ/\羽織の紋を御らん候へ。杏(ぎよ)
葉(よう)は大野木浮木は生野。人非人とや申さん。畜類にお
とりしやつを。いけをかんは奇怪なり。かへつていかなる。
わざわいをか仕出さん。うつてすて申さんと。かけ出んと
するを。父由良之助をしとゞめ。尤なんぢがいふところ。一理
ありそのうへに。きやつをいけをかんは無念なれども。今か
れらをうちすてば。此こと世上に風聞して。由良之助父


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子こそ。会稽のこゝろざしふかく。大野木。生野をうつた
りなんど。とり/\゛に沙汰せんか。しからばかたき尾花家へき
こえて。大なるさわりとなりぬべし。ことにかれらが子共兄弟
又われ/\をかたきなりと。つげねらふこともありぬべき
ぞ。もしあやまつてうたれなば。宿望をとげぬのみか。犬死
といふものなり。かならず短気をおこすべからずと。さま
/\゛に制して。それより田原にかへりけり

 大野木生野天命につきぬる事
されば大野木十郎兵衛。生野正賢は。本国を立さりてのち。
京都にのぼり。ふたこしをやめて町人となり。金銀は沢山
なり。今よりは主なしの身。たれにおそるゝかたもなく。一生
をやす/\とおくり。えいよう栄華にくらさんと。屋をもとめ。

家居美々しく。築山やり水。種々の佳景を庭にうつ
して。琴三味線のをとに。隣家のみゝをすまさせ。
おり/\は遊里の酒にうかれ。歓楽に日をおくりしが。
欲心は日々に増長して。やめがたき世のならひ。大野木は。
なを金銀にめをかけ。芝居のかね本をせしにわづかゝ中
に。大分の損金。これはとおどろき。とみにかゝつて。第一を
/\と。いのるうちにはかり出し。又これにても。大ぶんの金を
仕うしなひぬ。これは無念。何にてなりとも仕かへさんと。か
山新川。新地のねがひ。かゝるほどの事に損をしぬ。そ
れのみならず。方々へのかしがね。みな段々にすたりて。あ
はれやかねのかたみとては。手形ばかりのこれり。ことはり
かな生き馬の目もくじる。今のみやこのすりがらし共。町の


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風俗をもしらぬ。田舎牢人のまへめなる。金銀はこけてあり
くぞと。うちかぶとを見こんで。山こかしの。何のかのと。名のある
悪党ものども。大ぜいたかりかゝりけるほどに。ついに身袋(しんたい)は
からになりぬ。財(たから)悖(さかつ)て入るものは。又さかつて出るならひ。今は
いかんとも。すべき手だてもつきて。又武家がたへの奉公。世
のことわざにいふ。しつた米糠(こぬか)あきなひとやらん。又あり
つきをかせぐうちに。由良之助以下。四十よ人の者共。主君
のあだ。尾花どのをうちしとて。あゝ君臣かな義士かなと。
もつはら世上のとり沙汰。その傍輩としてその中間(なかま)を
はづれしとは。いかにしてもいはれぬ首尾。人前(にんぜん)に。かほ出しも
なりがたく。よきほどにいつわりを。いひまはしてみれ共。いづかた
の御牢人と。人に根どひをせられては。そのばけのほどもあ

らはれ。さておこしぬけかな。不義ものかなと。世の人に。うし
ろゆびをさゝれ。人中にてあてことをいはれ。世間のつきあひ
もなりがたければ。をのづから引こみ。うか/\として。月日をお
くるうちに。重代の刃物墨跡。茶入茶碗のたぐひ。さま/\゛
の奇物はいふにおよばず。着類夜の物諸道具まで。みなこ
と/\゛くつきはてゝ。まづしき身となりきり。家人どもにも。み
なひまをやりて。十郎兵衛夫婦と。一子吟左衛門と。只三人になり
しに。吟左衛門にはかに傷寒にとりつき。悪寒発熱して。火
のもゆるがごとく。夢中になりて。たはことのみいひちらし。くるし
みさけぶといへども。かゝる身となりては。一銭目のふりまはし
もならず。人参一分と用ることもかなひがたし。内々薬
代にも不埒がありて。医者さへ見かぎつて見まはねば。手に


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あせにぎりたるばかり。やいつきてより九日めといふに。つい
に見ごろしにしてうしなひぬ。十兵衛夫婦は。白居易(はくきよい)がかな
しみを。わが身のうへにひきうけ。今は手もちからもなき
身となり。居宅(かたく)は家じぢのかたへとられ。にしの京の。三太郎
長屋といふ。うら借屋をかりて。三帖敷のおきふし。夫婦もめ
ん糸をくりて。ほそきすぎわひに日をおくりけるが。その年
のくれ。女房も寒気にあてられ。こゞへ死にに死ぬ。そのあけの
はる。十郎兵衛も。ときあけのやぶれ木綿。たゞ一重を身に
まとふて。飢死にに死して。不義の悪名を。千歳にのこし。世の
人のものわらひとはなれり。生野正賢も。段々身上おとろ
へ。みやこの住居かなひがたく。京を欠落して。紀州に下
えい。禿といふところに。あんまとりして居たりしが。天命に


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つきぬるゆへか。おへた/\と名をよばれて。よびてさすらす
人もなく。身命(しんみやう)をつなぎかぬるぞだうりなり。俄にこれらの
人々は。高禄の身上にて。えいぐわに実をさかへつゝ。一国の民
百姓にそんけうせられ。上みぬわしのことくにて。金銀財宝山の
ごとくにつみかさね。何にふそくのなき人々なれ共天道よ
こ道にくみ。給ふ印にや悪道共の集りてかしてとられ物事
にかゝりうしなひ。たをされさし引にとり上られ。初めほどはだん
な/\とそゝり上。後におとづれひとりもなく。誠にゆき仏
の日にあへるがごとく。しみ/\ときへうせたり。あわれ成哉
身命をつなぐたよりなく。あかはだかに成はてゝ。生死
いかにと知りかたし。ねがはくは大野木も生野も。いきのび
ぬ身の。由良之助と同志にして。主君のかたきをうち

なば。ほまれは末代にのこるべきに。さま/\゛の恥をさらし。
天下のものわらひとなりて。千載不朽の汚名をのこす。
士たるもの。なんぞこれをはぢざらんや。

 一家より間者を上がたにのぼさるゝ事
扨も尾花右門どのは。印南野家の牢人ども。京都鎌倉に入
りわたり。おほく徘徊すときこえしかば。内々われをかたきと称
じ。討んとたくらむときゝしうへは。油断すべきにあらずとて。いよ
/\きびしく用心ある。一家一門よりも。此事なを/\きづ
かはしく。番のせいを増(ぞう)して。尾花どのを守護せさえ。大岸
由良之助が。尾花どのをうたんと儀するは。世上の風説にや。
もし又ことまことなるか。よく/\かれが行跡を。つけうかゞひ見
べしとて。間者をおほく。上がたにさしのぼし。大岸がやうを


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うかゞはせらる。由良之助このことを。ほのかにきゝてよろこび
これこそ軍法にいふところの。はかり事もるゝときは。見方の
計略は。かへつて敵の。手だてとなるとはこれなるべし。われは
かりことをもつて。かへつててきをあざむくべしとて。わざと臆
病ものゝ。腰ぬけ風にもてなし。長刀(ちやうとう)をやめて。わきざし一こ
しの町人となり。伏見の撞木町にかよひ。酒宴遊興に
身をおぼらし。一向に武をわすれ。不義の狼藉のみなりしが。
宇治田原は。みやこへあまり程とをしとて。山科に屋敷地を
もとめ。家居をつくらせけるが。毎日見分(けんぶん)に出て。われは病身な
れば。さのみ長いきもせまじけれ共。行末力弥がためなれば。かな
らず麁相にすべからずとて。つまり/\゛端々まで。目をく
ばり吟味して。心にかなわざる所あれば。なにゆへかゝる手ぬ

きをするぞと。大に立腹などして。たゞ安堵のおもひを
のみ。心とする体にふるまひけり。造作出来せしかば。かの
山科に移宅(わたまし)し。此所の百姓と念頃につき合。田地山林かいこ
み荒地に小木(ぼく)うへ。十年廿年のたのもし何枚も衆に入
て金銀かして利徳せんぎに目をせゝり。後には百姓になる
てい。十年切の男女奉公人大勢かゝへ。後には世伜力弥がた
めじやとこまかに身をとりまはし。土民もれき/\の侍の。
目をせゝりたもふとおもはせそれより。嶋原。芝居。石垣町。祇
園町もちかければ。由良之助はこれよりも。西嶋(さいとう)にかよひ出
し。われ老後のたのしみ。何事かこれにしかん。わかき時
より気をくるしめ。奉公をつとめしは。何の因果にてありつるぞ。
金銀は沢山なり。せめて老後のおもひでに。相応のたのしみ。


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酒色の二つならではと。毎日色里にかよふほとに。一子
力弥も。年のよりたる親仁さへ。此道は賞勧せらる。まし
てやわが身はさかりの花。わかいが二たびあらばこそと。これも撞
祇園町。親子両人はりあひとなりて。まけじをとらじと
つかひしかば。由良之助が前載には。かねのなる木や生(をひ)ぬると
人もあきるゝばかりなり。今は中々亡君の恩は。つゆばかりも
おもはず。忠義のこゝろざしは。いさゝかも見えざりしかば。金鉄
といへども。時あれば朽つるものかななどゝ。世上のわらひ草
となれり。由良之助が妻は。佐々木家の家老。石坂善五がむ
すめなりしが。聟の由良之助。日頃の心も入れかはり。利慾に
まよひて。京の売人に金銀をかし。その日あひをわし
り。色にまよひ酒に長じて。頂上のうつけとなりぬるこ


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と。人倫の法ならずとおもひ。使を山科にさしのぼし。遊興
におぼれ。むなしく年月をおくらるゝ段。大に勇士のはづ
る所。人非人といひつべし。左様の人を。それがしが聟とし
て。人にうしろ指をさゝれんこと。末代までの瑕瑾。後悔千万
臍(ほぞ)をかむに益なく候。しかるうへは。それがしがむすめを。ながく
離別せられ。此方へかへさるべしと。にが/\しくいひをくる。由良
之助。是こそよき幸とおもひ。はてさて御身の親は。おのちし
らずの不敵人。主のかたきをうつなどゝは。五百年も以前
のこと。年寄ほどありて。むかし風を出さるゝ。当流はたゞ。か
たきのかはりに蕎麦でもつつて。一つ呑だるこそたのし
みなれ。よし/\のぞみにまかすべしとて。いとまの状を。三く
だり半にさら/\とかき。委細の義は。追て申し入るべし。いの

ちには。かへ申されず候と返事して。いく年月のあひなれ。力弥
といふ。成人の子まである中を。二めともかへりみず。親ざとへ
ぞかへしける。由良之助が。かゝる不行跡なるをみて。その余の一門こと
/\゛く。不通ぎりとなり。比怯千万なる男。世にありしとき。武士
ばりしありさまは。皆いつわりのつくろひもの。今の身になつて
をのれが本心をあらはせしと。世上の物わらひとはなれりけり

 四条宮河の納涼(だうりやう)の事
一門しうより。つけおかれたる間者とも。由良之助が行跡。よ
く/\つけねらひうかゞふに。父子ともに色にうかれ。傾国
遊里のぞめきを事とし。主君のあたを討べきなんどゝ。お
もふ心入れは。つゆばかりも見えざりしかば。さては心やすしと
おもひけるが。なを/\由良之助親子が心中を。ひきみんとぞ


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たくみける。頃しもみな月十日頃。みやこは河原のすゞみとて。男
女くびすをつぎ。茶屋は河中に床をつらね。南は松原より。
北は三条の大橋まで。数万のともし火かゝやきわたり。夜を
ひるになしてのさわぎ。これ寂光のみやこなり。由良之助も。
岩波村助。富林祐右衛門などをあひともなひ。酔はあたま
の頂上へのぼつて。足もとは。みな一つれの友ちどり。月も西
にかたむけるころ。縄手をみなみへあゆみゆくに。あとより
かみなりの。おちかゝりしやうに。七八人のこえして。それのがす
な。ふめよたゝけよとはしりくる。こは喧嘩かと見れば。盗
人よとおぼえて。紺のぬのかたびら。着たる男をおつかけ
来り。なんなく追付き。をのれは胴のふときやつかな。今の鼻
紙袋をかへせ。かへさねば河原へつれゆき。胴をうたすの

水をくれるのと。かさだかにつのれば。巾着ずりも権をと
られ。由良之助にゆびざしして。いかにおわたくしがとりました
れど。あのもの共は同類ゆへ。あの男に。鼻紙入れはわたして
候。わたくしの手には候はずといふ。七八人のものども。げにもあ
ひずりに早速わたすものなるぞと。由良之助以下を一々に
手ごめにし。さて/\似せものどもかな。今の紙入れをかへせ
といへば。由良之助大におどろき、こは存じよらずの難題かな。我
々は左様のこと。いたすものどもではござらぬと。鍮赤(ちうじやく)いろ
になつてめいわくがる。いや。/\その手はくはぬ。出せかへせといへば。さま
だるし/\。三人ともにはだかにして。ふところをさがしみよ
と。こえ/\゛にいさみかゝる。由良之助はこえをふるわし。大誓文。かつ
ておぼえ候はず。御慈悲にゆるして下さるべしと。いふことばの


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下よりも。はや帯をときて。三人ともに。丸はだかにして。かた
びらはをりをふるひみる。岩波も富林も。今は堪忍ならず。こ
れまでとおもひしか共。由良之助は。たゞ猫にあひしねずみ
のごとく。かほは土いろになつて。うろ/\とふるひ居れば。是非な
く堪忍して居るところに。かのものは由良之助が。鼻紙袋を
とつて。やれこれなるぞ。よくも/\まざ/\゛しく。とらぬとはいつ
わりし。をのれつらを見しりをく。かさねてすりをひろげなば。たゝき
ころしてのくるぞと。かの紙入れにて。由良之助がほうげたを。五つ
六つうちたゝき。悪口たら/\゛いひちらして。三条のかたへかへり
しかば。由良之助は。これはなにとも御めいわsく。その紙袋は。去年
四条でぬはせ申し。中にはわたくしの。印判も御座ります。御かへ
し下されよと。身をもだへかなしめ共。よそにきかせてかへりぬ

かくて三人共に。うぢ/\とかたびらをきて。まづそのところを
あしばやにたちのき。かたわらの。人気なきところにゆき。岩波
も富林も。由良之助にむかひ。尤われ/\。大儀をおもひたち
ぬれば。大切の身とはいひながら。あまり比興なる御ふるまひ。
ことに盗人の悪名をとり。武士の一ぶん立申さず。おほき人
だちの中にて。かく恥辱におよびぬるは。如何なる御心底に
て候ぞといふ。由良之助きいて。御尤にて候へ共。大行は細謹を
かへり見ず。韓信が胯下(ふか)の恥も。大望をとげぬれば。これ
かへつて恥ならず。とかく身を全ふするこそ。われ/\が専一
なれ。そのうへ諸人の面前にて。かく恥辱におよばんことわ
れ/\が別してのぞむところ。よろこばしくかたじけなし
其ゆへいかんとなれば。印南野家の牢人どもこそ。今は町人


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にもおとりて。懦弱(だじやく)なるふるまひ。あのこしぬけ共なれば
こそ。早速城をわたしつれ。かたきなんどねらふといふは
大なるそらごとなり。とりわき由良之助めは。根性が入れかはりし
か。大だわけのふぐりなしめと。世のとり沙汰におよぶねし。し
からばかたきのかたより。つけをかれたる間者どもゝ。此てい
を見聞き。決してかたきなんど。討べきものどもには候はず
と。かへつて主人につげんは一定(じやう)しからばかたきも心をゆる
して。用心をわすれ油断すべし。これわれ/\が大幸にて
候はずやといへば。両人大にかんじざればこそ由良どのゝ。ふかき
おもひ入れあるべしとぞんじ、堪忍のむねをさすり。面辱
をうけ候ひしとて。打つれだちてかへりけり。それよりしの
びのものどもは。みな/\うちつれ。かまくらにかへり。さても


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印南野家の牢人ども。みな/\武をすてゝ。あるいは
茶の湯指南。手習ひををしへ。又は古道具屋。伽羅の
油。さま/\゛の商売にとりつき。世わたりをいたし候。別して
家老由良之助は。田地をかひもとめ。家を買て宿代をめがけ。
家居美々敷酒色に長じ。遊興におぼれ。主人のこと
なんどは。うちわすれて見え候ゆへ。真実のところを。見さだめん
と存じ。われ/\が手たてをもつて。祇園のすゞみにつけ出し。
これなるわさびの理介を。巾着ずりに仕立。かやう/\の難題を
いひかけ。丸はだかにまでいたせしか共。さま/\゛とわびこといた
し。わな/\ふるひ。ほえづらかまへ居候ひしかば。かれが紙入を。われ
/\とられし紙入れなりとて。うばひとるのみならず。頬げた
を十二三。したゝかみしらし候ひしか共。ぐつとも得申さず

候。かゝる懦弱の臆病もの。いかでかことを仕出さんと。相たくみ
候べき。みな世間の虚説にて。あとかたなきそら事にて御座候
といへば。尾花どのも家中の物も。左あらんとおもひつることよ。
今は心やすし。きやつらがあたとてねらはんは。蟷螂が斧をもつ
て隆車(りうしや)にむかふがごとく。せいえいが海にことならずと。には
かに面色なをつて。広言もおかしかりき、これによつて。一
家しうよりつけをかれたる。警固の武士をも。こと/\゛く引
とられぬ。尾花どのも。今は夜のあけたるごとく。世界がにはかに
ひろふなつて。用心は日々にうすらぎけり

 由良之助連判の盟約をやふる事
されば大岸をはsじめ。一味のものども。ところ/\゛に田地をもと
め。居宅を買て。外には一向。後栄をはかるといへども。内には


87
まもる忠義の刃の。くもらぬ心ぞやさしけれ。しかれども心ざ
しの。変ぜざるものはありがたく。百十五人と盟約せし
も。月日の立にしたがひ。次第に心変じて。やうやく五十人に
およびしかば。由良之助。つく/\゛思案をめぐらし。もし一味の内より
も。事のもれまじきにもあらず。陰謀ほかにもれんは。これ
やぶれのはじなれば。ことをめぐらすべしとて。盟約の誓紙を
とり出し。まづ自身。ならびに力弥が判をやぶり。一味のもの
どもへつかはし。かねて申し合せし一儀。当時のありさまを見候に。
中々かなふべくも候はず。しかるうへは。おの/\も向後(きやうこう)。いかやう共身上
のかたづき尤に候。手前ことも、一子力弥を堂上がたへも出し。
奉公をさせ申すべし。さるによつて誓紙の判形(ぎやう)をやぶり。さ

しつかはし候。おの/\にも、御やぶり候べしといひおくる。一味のもの
ども大におどろき、こはいかなることぞ。棟梁とたのみたる。
由良之助さへ。かく遺変におよぶこと。よくもいのちはおしき
ものかなと。大にいかるものもあり。いや/\由良之助心中。何共
こゝろへぬところありと。これより返事をいやすべしとて。つかひ
をかへすもおほかりけり。中にも溝部弓兵衛がつまは。義をおも
んじて自害しうせし。小田十郎右衛門がむすめなりしが。此こと
をほのかにしり。おつと弓兵衛にむかひ。此中は何ゆへに。一味
の衆中とひそ/\と。より合密談をし給ふぞ。わらはにも御
きかせ候へといふ。溝部も今はつゝまれず。大岸由良之助が。
心をかへし次第。ありのまゝにかたりけり。女房大にきもを
けし。さて/\由良之助どのを人とおもひ。今までは。たのみおもひ


88
しくやしさよ。此こといかゞはからひ給ふといふ。弓兵衛しほ/\
として。はて是非もなし此うへは。連判をやぶりわれ/\も。奉
公をかせぐぜし。棟梁心をかへぬるうへはいかなる人をたてにつ
き。本懐を達すべきといふ。女房なみだをながし。しばしうつ
むき居たりしが。おつとのかたなをうばいとり。はしり出んとする
を。弓兵衛いだきとめ。こは気がちがひしか。いかなるゆへぞと制し
ければ。何みづからを気ちがひとや。左(さ)の給ふ御身こそ。人非人
気ちがひなれ。何と由良どのゝ居給はねば。世界にかたきう
ちはなきものか。ようも/\男のくちより。かゝる比怯
のこと
ばをば。いひは出し給ひつる。由良之助どのゝこしがむけて。心のかは
りぬるさへあるに。御身まで。ともにこしをむかし。臆病にやみ
つき給ふこと。たのむ木(こ)のもとに。雨のたまらうとや戸すべき。義


89
をもしり給へる父うへは。年おひてはや。自害し給ひぬ。ち
からをもそへ給ふべき兄は。こしぬけのみか。不忠不義の人非
人なり。さても人はきれものかな。かくたのみなき世の中に。たれ
をたよりにいたすべき。みづから一人山科にかけゆき。まづ此う
らみに大岸おやこを。一かたなづゝうらむんべし。もし首尾よく
仕果(おほ)せなば。それよりすぐに。かまくらにしのびくだり。いかにもして
尾花どのにちかづき。一太刀うつて。日頃のいきどほりを散ぜ
んに。何のことか候べき。女とこそ生れふずれ。をそきかときか。是
非に一度は死すべき身の。なにしにおしいさふらはんと。さめ
/\゛となきしづむ。弓兵衛なみだをおさへ。さて健気なり/\
男まさりなる心中ぞや。御身の心を引みんため。今のごとくに
はいひしなり棟梁大岸。いかに心を変じたりとて。此弓兵衛が心

中は。金石よりもかたきぞや。たとへ道路にさまよひて。飢死
には死するとも。今さら他家へ奉公に出。何れの門にか。肥馬
のちりをのそむべき。しばらく時節をまてといへば。仰に
ては候へども。これをおもふに。人の心はあすか川。ふち
せさだめぬ世のならひ。死生のほどもはかりがたし。此う
へはわれ/\夫婦。由良どのゝかたへ立こえ。存念のほどを
きゝとゞけ。いよ/\違変なるにおいては。由良之助おやこ
を討はたし。それよりすぐにかまくらに下り。尾花どのゝや
かたへ。無二無三に切込み。死ぐるひになつて切て廻り。運よくば
尾花殿の。御くびを給はるべし。はや/\といそぐにぞ。弓兵衛もちか
らを得。夫婦うちつれ。山科へぞいそぎける

忠義太平記大全巻之四終