本朝廿四考 第四 (十種香の段)

 

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   イ14-00002-741

 

 87(1行目下の方) (十種香の段)
                                       臥所へ行水の流と人の 
蓑作が姿見かはす長上下 悠々として一間を立出 我民間に育ち人に面テを見しられ
ぬを幸いに 花作りと成て入込しは 初君の御身の上に若し過ちやあらんかと 余所ながら守護す
る某 夫レと悟つて抱しや ハテ合点の行ぬと指し俯き思案にふさがる一間には 館の娘 八重垣
姫 云号有勝頼の 切腹有し其日より一間所に引籠り 床に絵姿かけまくも御経どく
じゆのりんの音 こなたも同じ 松虫の鳴音に袖も濡衣が けふ命日を弔ひの位牌に
向ひ手を合せ 広い世界に誰有て お前の忌日命日を 弔ふ人も情なや 父御の悪事も

露しらず お果なされたお心を 思ひ出す程おいとしい 嘸や未来は迷ふてござらふ女房の濡
衣が心斗の此手向 千部万部のお経ぞと 思ふて成仏して下さんせ なむあみだ仏/\/\
誠にけふは霜月廿日 我身がはりに相果し勝頼が命日 くれ行月日も一年余り なむ
幽霊出難生死頓生ぼだい 申勝頼様 親と親との云号有し様子を聞よりも 嫁入する
日を待兼て お前の姿を絵に書かし 見れば見る程美しい こんな殿御と添臥しの身は姫ごぜの
果報ぞと 月にも花にも楽しみは 絵像の傍で十種香の 煙も香華と成たるか
回向せふ迚お姿を絵にはかゝしはせぬ物を 魂かへす反魂香 名画の力も有ならばかは


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いとたつた一言の お声が聞たい/\と 絵像の傍に身を打ふし泣涕(りうてい)こがれ見へ給ふ あの泣声は
八重垣姫よな 我名を呼し勝頼を 誠の夫と思ひ込 弔ふ姫と弔ふ濡衣 不便共いぢ
らしい共いはん方なき二人が心と そゞろ涙にくれけるが アゝ我ながら不覚の涙と 衿かき合せ立上
る 後ろにしよんぼり濡衣が 申蓑作様 合点の行ぬあなたのお姿 どうした事で此様に ヲゝ
不審尤 はからずも謙信に抱られたる衣服大小 テモ扨も 衣紋付きなら裃の召様迄 似た
とは愚かやつぱり其儘 筐こそ今は仇なれ是なくば 忘るゝ事も有なんと 読みは別れを悲しむ
哥 筐さへじやに我夫マにみぢんかはらぬ此お姿 見るに付けても忘られぬ わたしや輪廻に迷ふ

たそふな 御赦されてと伏沈む 泣声漏て 一間にはふしん立聞く八重垣姫 そつと襖の隙間
もる姿見まはふ方もなく ヤア我夫マか勝頼様と立戻つて手を合せ 御経読誦のりんの音 勝頼
公は濡衣が心を察して声くもり はかなき女の心から 定めなき世と諦めよと 勇む
る詞こなたには 心空成る其入の若しやながらへおはすかと 思へば恋しくなつかしく又覗いては絵姿に 見くら
べる程生写し 似はせでやつぱりほん/\゛の 勝頼様じやないかいのと 思はず一間を走り出すがり付て 泣
給へば はつと思へどさはらぬ風情 こは思ひよらざる御仰 我等蓑作と申花作り 漸只今召抱られ


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衣服大小改めし新参者 勝頼とは覚なし 御麁相有なと突放せば ムゝ何といやる 今父上に抱ら
れし新参者 花作りの蓑作とや 自らとした事が 余りよふ似た面ざしの若しや夫レかと心の煩悩
二人の手前恥かしながら コレ濡衣 此蓑作とやらいふ人を そなたはとをから近付きか エイ いやいの しるへ
で有ふかの アノお姫様とした事が たつた今見へたお人 何のマア私が イヤ隠しやんな今のそぶり 忍ぶ
恋路といふ様な かはいらしい中かいのと 思ひもよらぬ詞に恟り ヲゝお姫様のおつしやる事はいの 人
にこそ寄れ 何のあなたに勿体ない ムゝ勿体ないといやるからは どふでもそなたのしるべの人か イゝエそ
ふではなけれ共 大事のお主の目を掠め 忍び男を拵へるは 勿体ないと申す事でござります

ムゝそりやしるべの人でなく 殿御でもない人なら どふぞ今から自らを かはゆがつてたもる様に 押付け
ながら媒(なかたち)を頼は濡衣様々と 夕日まばゆく顔に袖 あてやかなりし其風情 ヲゝお姫様と
した事が まだお子達と思ひの外 大それたあの蓑作殿を スァア見初めたが恋路の始め 後共
云ず今爰で 媒せいとおつしやるのか 我(が)おれ ほんにお大名のお娘御迚 油断ならぬ恋の道
品に寄たらお取持致しませふが コレ/\濡衣 必ず麁相いふまいぞ サア何もかも私が 呑込でナ 呑
込むでお取持ち致すまい物でもないが 真実底から蓑作殿に 御執心でござりますかと 問
れて猶も赤らむ顔 勤めする身はいさしらず 姫ごぜのあられもない 殿御に惚れたといふ事がうそ


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偽りにいはれふか 其お詞に違ひなくば 何ぞ慥な誓紙の証拠 夫レ見た上でお媒 ヲゝ夫レこそ
心安い事 其誓紙さへ書いたらば イエ/\ 夫レもこつちに望が有る 私が望む誓紙といふは諏訪法
性の御兜 夫レが盗んで貰ひたい ヤア何といやる 諏訪法性の御兜を 盗み出せといやるのは 扨はあ
なたが勝頼様と いふ口押さへて ハテめつそうな勝頼呼はり みぢん覚のない蓑作 粗忽はし
の給ふなと いふ顔つれ/\打守り 云号斗にて枕かはさぬ妹背中 お包み有るは無理ならねど 同じ
羽色の鳥翅 人目に夫レとわからねど親と呼び又つま鳥と呼ぶは生有るならひぞや いかにお
顔が似れば迚 恋しと思ふ勝頼様 そも見紛ふてあられふか 世にも人にも忍ぶ成 御身の

上といひながら 連れ添ふわたしに何遠慮 ついかう/\お身の上明かして 得心さしてたべ 夫レも叶はぬ
事ならば いつそ殺して/\と すがり付たる恨み泣 勝頼態と声あらげ ヤア聞分けなき戯(たはふれ)事
いか程に宣ふ共 覚なき身は下主下郎 余所の見るめも憚り有そこ退き給へと突放せば
スリヤとの様に申ても 勝頼様ではおはさぬか ハア むつと斗に蓑作が 指し添逆手に取給へば
こは御短慮ととゞむる濡衣 イヤ/\殺して殺してたも 勝頼様でもない人に 戯言の恥しや
心の穢れ絵像へ言訳 どふも生きては居られぬと 又取直すを猶も押留め ヲゝ遉は武家のお姫
様 天晴成お志 其お心を見るからは 勝頼様に逢せませう ソレそこにござる蓑作様が御推量


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に違はず あれが誠の勝頼様 ちやつとお逢なされませと 突やられては遉にも 始めの恨み百
ぶ一 聞へませぬが精一ぱい 跡は互に抱付 つい濡衣も心ときつく折からに 父謙
信の声として 蓑作はいづれにおる 塩尻への返答 時刻移ると立出れば はつと蓑作
飛しさり 御支度よくば直ぐ様参上 ホゝ委細の言此文箱に 片時も早く罷り越せ はつ
と領掌 文箱携へ塩尻さして急ぎ行 謙信跡見送つて ヤア/\者共 用意よくば早
来れと 仰にはつと白洲賀六郎原小文治 更科なんどの譜代の郎等 御前に進めば
謙信いさんで 今此諏訪の湖に氷閉づれば渡海は叶はず 塩尻迄は陸(くが)路の切所 油断し

て不覚を取るな ハアゝ畏り奉ると勇み進んでかけり行 跡に不審は八重垣姫 申父上 こと/\しい
今の有様 何事やらんと尋れば ホゝあれこそは 武田勝頼討手の人数 何勝頼様を討手とは
こはそもいかに何故にと 驚く二人をはつたとねめ付け 諏訪法性の兜を 盗み出さんうぬらが
工み 物かげにて聞たる故 勝頼に使者を云付け 帰りを待て討取らんと しめし合せし討手の手配 エイ
そんなら今の討手の者は 勝頼様を殺さん為か ハアはつと斗にどふど伏 けふはいかなる事なれば
過ぎ去り給ひし我夫に 再び逢は優曇華と悦んで居た物を 又も別れに成る事は 何の因果
ぞ情なや 父のお慈悲にお命を どふぞ助けて給はれとくどき 嘆くに目もやらず ヤア武田方の


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廻し者 憎き女と濡衣引立 うぬには尋る子細有る 奥へうせふと小腕取り 情用捨もあら気
の大将帳臺深く入給ふ