仮想空間

趣味の変体仮名

絵本太功記 六月十二日

 

読んだ本 http://archive.waseda.jp/archive/index.html
     イ14-00002-093
  

85(4行目)

  同十二日のだん    なく/\短夜に心せかれて たとり行
誰を乞 鳴や梢に から衣ほつてふ蝉の音を友と 世をいとふたる浪人の風雅を好む一かまへ
谷の流れも水無月の 空半ばなる夕暮時遠寺の鐘のかう/\と 兼ての願ひ有
磯海 深き思ひに柵か縁によるへの舅の住家そこ爰とたどりくる/\長畷稚子

連て夜の道 漸尋ねあたりにも 家居なけれは爰ならんと 柴の軒端に佇みて イヤ
のふ音寿様 夫松田太郎左衛門殿の指図を請けて来た事は来ても ついに是迄音信(おとづれ)も
せぬ親御の所 どふやら敷居が高ふなり 這入りにくう思ひますと いへば音寿が打點頭
そなたが得這入らずばおれから先へ這入つてやらふと 何のぐはんぜも上り口 アゝコレ申しをしほにし
て 這入る物音何やらんと 納戸を出る妻の真弓 顔見合して柵が手をもぢ/\と ホゝゝゝ
ほんに私とした事が いかに舅君の所じや迚案内なしに不作法千万 お赦しなされて下
さりませと いへどこなやは不審顔 夜に入て若い女中の子供をつれ 舅の所へ来たとは 此


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母は覚へはござらぬ 成程/\委細の訳を申さねば そふ思し召すも理ながら 私事は十三の時
家出致されました 御子息宗太郎殿の女房柵と申す者 夫も今はれつきとした侍 名も改め
て松田太郎左衛門と申しまして 夫レは/\遖の武士 どふぞ是迄の事は川へ流し 元の親子に ヲゝ
そりや云しやれいでも知れた事 元より気に違ふて家出したと云でもなし 生れ付い
て力強 草深い住居を嫌ひ 我と我手に家出した宗太郎 わしは明け暮こがれて居
ます そして連てわせたは夫婦の中に出来た子か マア/\こちへと嬉しさの 子には目の
ない母親が 悦ぶ中へ宗左衛門 刀片手にあゆみ出 お祖母何をべり/\おいやるぞ 親を見

捨た不孝の? 夫に連添ふ此女郎嫁なんぞとは穢らはしい 早立帰れとつかふどに いふ
をおさへて アゝコレ夫レは違な思ひやう 毎日/\壁訴訟 願ひの折も幸いと 初めて逢た
嫁の手前 どふぞ了簡し中直りして下されと いふも涙の種ならん エゝ又しても/\
役に立ぬ伜が訴訟 聞たくないぞ よい年をして女房去るも世間の笑ひ 暇のかはりじや
向後者は云はんずく 早く奥へお行きやれと 常の気質のじやうごいに 詞はなくてしほ
/\と心 残して立て入 柵は気の毒の中に願ひも云兼て 俄に作る 軽薄笑ひ
ホゝゝゝゝほんにまあよしない事から御夫婦のおいさかい もふお腹立は重々の御尤じやがどふぞ


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夫の願ひ 即ち此子は主人と仰ぐ光秀公の御公達音寿丸様 夫に付ての御訴訟
と何か様子は白紙に 書き認めし願ひの一書 舅の前にさし置けば 遉骨肉同胞の
我子の手蹟としぶ/\ながら 手に取上て押開けば 様子はいかゞと気遣ふ嫁 舅は猶
も眉をひそめつぶ/\読むも口の中 巻き納めてにつこと笑ひ 何事ならんと思ひしに
少し斗は侍くさい所も有り出かす/\ そんなら夫の願ひと申ますは 成程大切の密
事 其方はしるまい/\ 伜が我への願ひといふはコゝ此兜 光秀此度当山崎
において 合戦のいどむといへ共無名の軍 元より主殺しといふ大罪 天何ぞ是を赦

さん然らば十が九つ負け軍と押はかりたる伜太郎 去によつて 光秀か一子音寿丸
我に養育を頼み 成長の後は出家ともなしくれよとの願ひ書又柵事は敵がた
森尾茂助が妹に候へば是も親が手より返し遣はしくれよと有る伜が文面と聞て
恟り柵は膝摺寄て ムゝスリヤ主君の若殿お預け申さん其為にお詫の使ひとつには
わたしが身の上兄様へ返してくれとは何の事 そふいふ事とは露しらず舅御様へお侘して 嫁
よどふせい斯せいのお詞受て帰りなは 夫の悦び此身の手柄と悦んでいる物を
科のない身を去らふとは 聞へぬ夫の心やと くどき嘆くぞ道理也 ハテ扨何も嘆くにや


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及ばぬ此宗左衛門も元は武士 乱れたる世を遁れ 心を澄す茶道の楽しみ 折々は久
吉殿の招きに預り咄しの伽 弓も引きかた真柴一心通はす某 大悪無道の光秀が種と
有ば願ふてもないよき得物 首討放し久吉公へ献ずるならば嘸悦び ハテ飛で火に入る
夏の虫とは是ならんと 舅の一言柵か聞より又も二度恟り ほんに/\親子とて余り
な情しらず猟人さへ懐へ入る鳥は助ける物たとへ此身は去られても 夫に立る心の潔
白女でこそ有松田が女房 主人の若殿めつたにお首は得渡さぬ 斯いふ内に
片時も置きます事は成ませぬ 申若殿様 いざらせ給へと立寄るを 突退け/\音寿

丸小脇に引抱きはつたとにらみ ヤア龍の腮(あご)にかゝりし小伜 連帰らんとは叶はぬ事
わるく妨げひろくやいなや 身の為にならぬがや ヲゝ元より夫に去られし此身
生て詮なき我命 ちつ共厭はぬ/\と 又立かゝるをシヤ面倒なとしんの当うんと
倒るゝ其隙に奥の間さしてかけ入たり 跡には一人柵が苦痛こたへておき直り チエゝ
胴欲ともむごい共何に譬へん舅君 何弁へも七つ子のお首を敵に渡さふ
とは 心は鬼か蛇かいのふ たとへ此身はひし/\゛ほに成迚も 取かへさいで置べき
かと 心を配る縁先に 落ちる一書は夫の手蹟 柵殿へ光孝より スリヤ最前の文


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の中に封じ込たる此一書心ならずと封押切 書き残す一書の事 ヤア/\そんなら
夫太郎左衛門殿は討死の覚悟で有たか ハア 何にもせよと又取上 ナニ/\今
度の合戦主君光秀公主殺しといふ悪名 其罪遁るゝ事有まじく覚へ
候故其方を頼み親人へ若殿の義くれ/\゛相頼む事に候 又々明朝の戦ひ
に向ひ候敵はそおちが兄森尾茂助春久に候よし 元より討死の覚悟に
候へば 我等が首は春久へ遣はし候 なれ共妹の縁につれ 用捨も候はゞ武門の中
恥へき事に候へば是非なく暇遣はし候段 必ず恨み有まじく候と 読みもおはらず立

上り こりや斯しては居られぬはいのふ 夫の最期は此暁 若殿の御身の上
奥へ踏込返さふか イヤ/\ あれ/\あの鐘は八つの鐘 天王山へは一里の余 夫の
命も助けたし こりやマアとふせう/\と 主と夫の身の上を 我身一人に柵が 立
たり居たり詮方も 涙ながらに気を取直し 何にもせよ是より直ぐに天王山へ
かけ付けて夫に一言そふじや/\と 帯引しめ 常には弱き女気も夫に立る貞
心の くもらぬ鏡てる月に照す道筋一さんにこけつまろびつ したひ行
山は血汐のから紅ひ 敵も味方も入乱れ 戦ひいどむ其中に 森尾松田か雌


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雄の争ひ 人ませもせずはつし/\ 切払ひたる電光の刃の光り飛鳥のことく 
鎬(しのぎ)を削る其折しも 夫の生死いかゝそと 気ははり弓の女房柵 武家の育のかい/\敷
夫を思ふ一心に 木の根岩角厭ひなく登る 険阻も力草 足踏しめて難
なくも こなたの岩によぢ登り 夫と見るより分け入て マア/\待ても身を惜まず
さゝゆる女房突のけて 猶も付け入る太郎左衛門 互に劣らぬ勇猛猛将 互にうろ
/\途方も なきさの小舟柵が 浪に漂ふ其風情 心も功に有合楯 切結びたる
白刃のしづ しつかととゝめ マア/\待て下さんせ コレ兄様茂介殿 必ず早まつて下さん

すな 元より知た敵味方 討ちうたるは武士の身の常とは知て居ますれど相手も多いに
?(あいやけ・聟嫁の親同士の間柄)同士 切つはつつの争ひを 何と見捨てて置れふぞ 思ひとまつて/\と 嘆きかこつを耳に
もかけず ヤア義晴何を猶予内証の縁は縁 親子兄弟散々と 鎬を削るは武門
の常 早く勝負を決せよと 云せも果ずにつこと笑ひ 他人同然の政道我相手には
不足なり 光秀が先途を見届け死る共遅かるまじ 妹がとむるを幸い 此場を早く退けと
聞よりくはつとせき立 ヤア奇怪なる一言 弓矢取ては誰に恥べき事や有ん 女房が兄とは云さぬ
首討取て修羅の奴となしくれんに 死人同然とは案外なりと居丈高 イヤモいうやうに陳


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するとも 死色を顕はす汝が骨柄我に討れん心の覚悟 死人と云しか誤りかと 明察
違はぬ一言は 胸に盤石現(うつゝ)とも 心はやみの柵が声も涙にかきくもり 兄様のあの心なら
との様に思はしやんしても 所詮死れぬお前の命 どふで死すに済む事なら 千年も万年も
長生きして 二人の中の サア二人が中に預た主人のお種音寿丸様の 行末も御無事な様に
思案して下さりませ コレ申 夫婦と成てこのかたに願ひといふは是一つ聞届けてたべ我夫と
妹が嘆き遉にも血縁の糸の乱れ口 涙呑込む義晴が心の内ぞせつなけれ 何思ひけん
太郎左衛門 鎧ぬき捨とつかと座し 実にや名将の下に弱兵なしと 遖眼力森尾義晴

主家の無道を見限つて 死出三途の先陣と 覚悟極めし心は鉄石 死後に頼むは
此女 又是迄音信せざれ共 実父松田利休(としやす)殿へ預置たる彼若殿 心をそへてよい様に
頼み置くは貴殿一人 最早浮世に望なし急ぎ首討我存心 立さしくるゝも武士の情猶
予は返つて恨むぞと 云より早く持たる刀腹にがはと突立でば のふ悲しやと取縋り 嘆
く女房を取て引すへ サア森尾 名もなき士卒の手にかけんより 武士の情に我首を 受取り
くれよとさし付れは アハゝ世の有様とは云ながら かばかり惜き弓取も 主家の悪事は其身の
不幸 残念至極と義晴が 是非も涙に立廻れば ヤア愚か/\ 死にのぞむは勇者の本


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義 骸(かばね)は荒野にさらす共 名は千歳にとゞまるこそ 死しての悦び此上なし早く/\と唱
名の 声は此世の別れかと 身をもむ妻を動かさず 膝に引敷強気(がうき)の手負 義晴
いざと潔き 勇者の最期あへなくも首は前にぞ落にけり わつと斗に柵は 其儘死がい
にいだき付声も惜まず泣叫ぶ 心を察し諸袖をしぼるも血縁恩愛の涙に かはり
んかりける 義晴は涙を払ひ ヤア/\妹 嘆ひて返らぬ松田が最期 遺言守るは音寿
が身の上 又此首はそは持帰り 仏事もよきにと詞の中 麓の方にえい/\声 ひらき
なびける両陣の 入乱れたる鬨の声 身にぞこたゆる柵が涙ながらに亡夫の しるしの

筐上帯に 包むも涙雨やさめ ふり行末の末迄も 思ひ つけし敵味方 兄 
の忠臣妹が 貞心くもり泣々も麓の 方へ たどり行 短夜の 風吹払ふ  ←
庭の面限なき月も哀そへ 涙の露かいたいけに 無慙なるかや稚子の
目は泣はらし 袖摺の 其松か枝に からまるゝ妻の真弓はさし寄て ノウ利
休殿尤武智光秀といふ 逆賊の子とは云ばふぁら 我子の為にはお主
の若殿 手にかけふとは胴欲な どふぞお命助ける様 思案しかへて下
さりませといへ共 さらにこたへなく おのが好める薄茶の手前 稚子は座を


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しめて おりや侍の子じやによつて何ともない 早ふ殺して下されと 云放し
たる健気さを 聞に真弓はたへ兼て アゝ遉は武士の育てがら 聞き分けよい程
なを不憫な コレいぢらしうはござらぬか敵と味方と分け光る道は二つにかは
れ共 同じ雲井に照月の分け隔てなき恩愛と 情の道を弁へてどふぞ
命を助るやう 思案してたべ我夫と 詞をつくし理をせめて涙ながらに泣
詫る 山手は修羅の責め鼓時しも遥に谺して 松田太郎左衛門政道を森
尾義晴討取たりと 聞より思はずすつくと立 ソリヤ伜宗太郎は早討死を遂し

とな 此上は生け置て詮なき音寿 此世の暇取らせんと ほどくいましめ悦んで
手そゝぶりする有様を 見るに心は弱れ共 四海の怨敵恨を断て枯らす枝
葉と抜き放す のふいたはしやとさゝゆる真弓 寄るを寄せじと引戻し争ふ折も柵が
背に夫の切首を結ぶ妹背の別れ道 脛(はぎ)もあらはにかけ戻り 此体
見るより稚子を後ろに囲ひマア待ってと 云せも立ず声荒らけ ヤア此
期に及び聞く事ない 伜討死せし上は天王山を取切られ 光秀が敗軍も目下
防げせすとそこ退けと 尖き刃振かさす 其手に取付声震はし 己親父


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殿 慈悲も情も弁へながら 初めて逃た嫁の思はく 生きとしいける身ではなし 先
立つ老木若木の莟 どふで助けて進ぜてと 涙に誠始か 情の詞身に
あまり有がた涙柵か夫の首を抱き上げ ばき我夫も諸共に命のお詫とさし
付られ 遉剛気の利休も 親子の輪廻に引されて たるも心を取直し じりゝ
/\と付廻す地獄の呵責三悪道 シヤ面倒なと突退け蹴退け エイと一声
稚首水もたまらず打落せば二人はわつと泣倒れ面体もなく伏沈む 主殺し
の大罪 報ひも早き此死にざま いで久吉の本陣へと かけ出す裾をとゞむる

嫁 はつたと蹴飛しかけ行向ふへあまたの軍卒 高提灯に威風をてらし
しづ/\入来る真柴久吉 あたり輝く陣装束 思ひ寄ねば宗左衛門遥か し
さつて平伏し コハ存じ寄らざる公の御入来 只今陣所推参の所 願ふてもなき対顔と
敬ひ深く相述ぶれば 久吉莞爾と打笑て 逆賊光秀が一子音寿丸 足下
扶助致さる由 家臣森尾が蜜事の注進 急ぎ討手と申すも余り仰々
敷 久吉蜜に向ふたり いかに/\と厳然たる詞に猶も恐れ入 ハゝ計らず手に入る
武智が躮 討取たるは某が 信義を忘れぬ兼ての交り イザ御改め下さるべしと


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血汐を清めさし出せば 久吉とつくと実検有 父光秀も此如く やがて討取る主君の
怨敵 とは云物の稚き者 不便の最期遂たるよな イヤナニ宗左衛門 云はば小児の此切
首 梟木にさらすにも及ぶまし 由縁の方へサ葬り召され 御辺への恩賞は 風
雅を好める別業へ 思ひ寄たる寸志の一品 それ/\者共早是へと 仰の下に
雑兵共 庭にとつさり一つの居石 何と宗左見られたか 亡君春長公の御自腹とも思
されて お情有ば拙者が悦び スリヤ其石を某へ いかにも 小袖かはりの小袖石 菖蒲(あやめ)にも
あらぬ真狐を引かけし かりの淀のゝ忘られぬかなヲゝさらば/\と一礼し 従者引連れ久吉は

本陣さして帰らるゝ 跡見送つて宗左衛門ほつと吐息も突詰し女心の柵は何思ひ
けん表の方 欠出す戸口立て切利休ヤレ待て女 音寿丸か身代りに二人か中の躮を
殺し 夫が最期の忠義も立ち 嘸本望で有ふなと 聞て恟り ムウそんなら此子を初め
から あなたの孫といふ事を ヲゝ十六年が其間 対面せざる我躮 たとへ幾年経(ふ)る
迚も 骨肉分けし此親が 見忘れてよい物か 音寿丸に出立たせ 連来りし稚子の
面ざし目元鼻筋迄 伜に其儘生写し 其時孫とは 知たるぞや とは云ながら 現在
の祖父が手にかけ一つ刀の 下に消行く不憫さを こらゆる心の四苦八苦 コリヤ 推量せよ

 


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と大声上 取乱したる海涙 ねふれるごとき死首を 右と左りに打守り コリヤ伜 久々にて
よく来たなア 十六年が爰の内 忠孝全き親子か最期 ヲゝ出かしおつたと一言が 夫子
の為の経陀羅尼と 有がた涙柵が 袖に露置くかこち言 そふしたあなたのお心と
しらで恨みし不孝の罪 お赦しなされて下さりませ アゝ其詫言は此母が 云はねはなら
ぬ此場の時宜 孫と我子の死ぬるのを 夫レと白髪の身の因果 むごい者じやとさげし
しんで たもるなやいのと姑が 侘るも涙聞涙 アゝ勿体ない事おつしやつて下さりますな 嫁
と名斗り是迄にお宮仕へもする事か 逆様事を見せまする 不孝の罪か恐ろしい

とはいふ物のあぢきない 二世と契りし我夫マの 最期の場所に居ながらもとめる
事さへ情ない いとし可愛の千石迄人も多いに祖父様の お手にかけふと親の身
で連れて来る事は何事ぞ 嘆けば遉利休も 恩愛死別のうき涙二つの
首を見つ見んせつ 取乱したる三人が 涙の雨に水かさのいとゞ増つて淀川の堤も 崩
るゝごとくなり 利休漸涙をおさへ 伜が忠義を立てさせんと信義を失ふ我計らひ
天地を見抜く久吉殿 賜も有べきに 小袖にかへて遣はすと心得ぬ庭の居(すへ)石 其上
猶も不審なるは 金葉集に乗せられし相模が詠哥菖蒲にも あらぬ真菰


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を引かけしと 引きぞ煩ふ頼政が深意を取れば千石が 最期を花によそへし謎 躮が子袖
千石と 心を込めし我への賜 今こそ思ひ当つたと悟るも遉久吉の 名智を感ずる
斗なり 柵は膝すり寄 スリヤ身がはりといふ事を そんなら孫の千石が 身代りに立て
たのも 水の泡になりますかいのふ ヤア愚か/\ 敵を恵む寛仁大度 猶も願ひを立て
んと思はゝ 此利休が皺腹一つ 必ず留なと指し添を既に抜んとする所 取付き嘆
きとゞむる二人 放せ/\と争ひの 折もこそ有れ一間より ヤア/\松田宗左衛門利休殿
狼狽ての犬死なるか早まられなと声をかけ 障子をさつと真柴久吉 しづ/\と

立出れば 思ひ寄らねど騒がぬ利休 ヤア犬死とは事おかしや 誠真の失せし某が
既に報ふ此切腹 ホゝ遉は老体 斯も有んと察せし故 陣所へ帰る体に見せ とくより忍び
窺ひ聞く 西国の探題たる真柴久吉 実検遂し光秀が一子 天地広しといへ共今一人と有
べきか 主君を弑(しい)せし武智光秀 夫レに引かへ子息政道 討死遂しは遖勇者
せめては死したる人々の菩提の為に此所へ庵りを結び利休殿 好める道の茶を以て
往来の人に施さば 死るに増さる節義ならんと情の一句は則悟道 死をとゞまつて松
田利休 ハゝ恵も厚き御仰 教への心は即菩提 心の濁り墨染の 衣がはりはコレ此


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居士衣(え) くもりを払ふ誓ひぞと髻(もとゞり)ふつつと押切て 姿心もかはる世に我は茶道
の道広く 孫が其名の一字を取り 利休を其儘に千の利休と改名し 浮世の塵に
交はる共只本覚の仏性たらん ホゝゝゝ天性備はる千の利休 今よりは久吉が則茶道
の師と頼まんと 約束かたき小袖石 庭に哀れは稚子の 涙の種か袖すり松古跡と
なりて末の代に 残る其名の因縁は 此時よりとしられたり かゝる折しも真柴の
郎等 庭上に大息つぎ 御注進と呼はれば ホゝ堀本義太夫 味方の勝利は何と
/\ ハア 仰の如く備へを立て 両陣互に凌ぎを削り 爰をせんどゝ戦ふ中 敵の勇

将蟹江才蔵 神頭に踊り出 味方の諸軍を手玉の如く打付け 投付け欠廻る 其勢ひに
おぢ恐れ 少したゆみて見へたる所に 福嶋の陣中より 至つて小兵の桂市兵衛 斯と見るより
飛かゝり 互に組合ふ金剛力者 六尺ゆたかの才蔵を 難なく生捕り古今の手柄 勝色
見する間もなく 川を隔てし筒井順慶 時分はよしと光秀か陣所を目かけ無二無三 一手
に成て責かくれば 敵は敗忙狼狽へ騒ぎ 崩れ立たる其虚に乗て 追立ほつ詰め責
付くれば 是迄也と光秀も馬を飛して只一騎 小栗栖さして落延しを追々かけ行味方
の勝利 御帰陣有て然るべしと 悦び勇み訴ふれば ヲゝ潔し/\ イザ小栗栖へ後詰めせん 旁


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用意と久吉の 詞にはつと迎ひの軍兵いさ御帰陣と引き居る 駒にゆらりと法りの縁 結ぶ一
世と二世の縁 切て捨てたる亡き魂の しるしを直ぐに野辺送り 又思ひ出す 女気に涙の袖や鎧
の袖 旭に映じきら/\/\ 綺羅一天に苅取る真柴 仁徳なりや風雅の徳 忠孝全き其
    同十三日の段           徳を世々に 伝へて 美嘆せり